なんで三好家って天下を取ったのに知名度低いの?
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天下という言葉が京都周辺を意味していることが知られていないからか?
ぶっちゃけ鎌倉の北条家よりやりたい放題してた
将軍と戦をして追放してたからねw
室町幕府も応仁の乱後、足利家の影響力がなくなったから戦国時代なんだよね ずっと三好の倒幕論見てて違和感あったんだけどやっとわかった
例えば三好と織田の比較に関しては、近年の研究によって三好が単なる畿内を支配してただけの勢力ではないことがわかったのと、
信長の「革新性」という評価に対する否定もあって有意義だと思うし、俺もその評価に納得している
(もっとも双方がどの点において「勝っていたか」には今後も議論が必要だと思うけど)
でも三好と幕府の関係については近年の研究に逆らってことさら幕府を「無力で利用される存在」であることを強調してて
はっきり言って「義昭は信長の傀儡」「京兆専制」みたいな古い下克上論に逆行しているようにすら感じる
もちろん幕府の衰退は明らかだし、諸勢力がその「権威」を利用する意図があったことは確かだろうけど、それだけじゃない
ついでに言えば主観での言葉で将軍を矮小化させようと、まるで印象操作してるように見えるのも目につく
>六角も一抜けたしちゃって義輝が三好家に引き取られることになったんだよ。
これとかまさにそれ、当時の記録のどこに「義輝を引き取る」なんて表現があったのさ >>336
永禄年間には西国を中心に守護補任が増加しますが
これは将軍固有の権限である停戦要請を前提とした調停可能性への期待なんです
永禄年間には戦国大名の地域分割が進行し領土紛争が頻発するなかで
守護補任権をもち調停能力をもつ将軍の役割が逆に意義を増す局面が現われます
実際義輝は和睦の仲介という形で畿内以外の諸大名の紛争調停に数多く関わり
毛利・大友らの戦国大名と中央(幕府)との関係が強化されてゆきます
この将軍独自の調停能力を三好は統制できていたわけではありません
畿内の実権を三好が掌握しているのは確かですが
全国規模で見た場合幕権は喪失されたわけではなく、総体としては
地方の動向ともあいまって義輝帰京後回復した面もやはり大いにあるわけです >>338
別に意図的に事実をゆがめて将軍を貶める表現を
使った覚えはありませんけど。
もっとはっきり言わせてもらうと
足利義晴・義輝が無能で最悪の奸物、細川晴元を排除せず
三好との和睦を拒んで徒に畿内の戦乱を長引かせたことが
幕府権威の決定的な凋落を決定づけたんだよ。
幕府の権威ってのは天下万民のために
世の騒乱を治めることで成り立っていたのよ。
それが私闘に明け暮れて都を捨てて政務を放棄しちゃったから
その権威も実力も自ら放棄することとなり
代わって民心を得た三好家に敵しえなくなったんだよ。
義輝は足利家の棟梁としてその一門である細川家の騒乱を収められず
陪臣の三好家の力でやっと両細川の乱を収束してもらたんじゃないか。
同じく一門の畠山家の御家騒動にも幕府は何ら影響力を及ぼせず
こちらも三好家の武力で収めてもらったんでしょ。
一門ですら調停できない将軍に権威があったなんて認められないよ。
義輝が都に復帰して幕政を再開した後に
たしかに幕府の権威は回復しつつはあったけれど
それは将軍家の力ではなく、
三好家の実力によって畿内と都に安定がもたらされたために
その信頼度が担保されたからだと思うよ。 >>341
実際に三好の支配が及んでいる畿内ならともかく
遠国の毛利・大友間の地域紛争を調停できる武力的実力は
当時の三好長慶にはありませんし(逆らっても武力討伐できない)
毛利・大友も三好長慶に和睦の仲介を依頼していません
ではなぜ毛利や大友はすでに固有の武力をもたず幕政の実権もない
義輝に依頼するのか?(実質的な権力が義輝にないことは毛利も大友も
もちろんちゃんと知ってるのよ)
それは端的に紛争している諸大名に「天下静謐のために争いを停止せよ」と
停戦要請を行えるのは武家の棟梁である足利将軍固有の権限だからなの
それは「理念的に」将軍は諸国秩序の維持に責任を負う、そういう役職
として位置づけられているからなんです
実際に将軍がそれができるかどうかは別の次元の話なの(大体できない)
262でも書いたけどいくら実力があっても管領や相伴衆の長慶では
この将軍固有の調停論理の正統性が使えないから、調停者として頼まないの 諸勢力は幕府に既に実力がないってことは理解している
幕府の側だって自分たちの上意がそれほど効果を及ぼさないことを多分理解している
にも関わらず将軍からの命令は実際にある程度の有効性を示してるし、時には諸勢力の側から和睦の命令や栄典授与を依頼する
そういうある種奇妙な幕府と戦国領主の関係が存在するってのをまず認識してくれないと
「(長慶は素晴らしくて)晴元はクソなのにクソを将軍が擁護するから悪い!」なんて偏ったこと言われてもどう返せばいいか 言っておくけど別に義晴・義輝期を経て幕府が衰退に向かっていくことを否定してるわけじゃないよ
また近江に没落中の義輝が朝廷からも無視されるようになっていったのも事実だろう
けどそうして衰退した幕府の権威ですら、三好が克服できるようなもんじゃなかったって話さ(そもそも倒幕するつもりがあったのか怪しいがね)
例えば永禄への改元は義輝を介さず行われたのは確かだが、義輝帰郷後に三好が改元申請してもあっさり却下してる
広橋家(だっけ?ちょっと覚えてない)を巡る争いも義輝没落時は三好有利で進んでたけど、義輝帰郷後は義輝の支持する側が勝利している
曼殊院と松梅院との争いで、義輝と久秀が口論になったけど、結局その後義輝側近に押されて久秀は義輝の調査を認めている
諸大名との外交にいくつか久秀の関与が見られるけど、そういった事例より遥かに多くの大名に義輝単独で御内書が出ている
どんだけ三好が没落期の義輝にプロパガンダかましてその権威を貶めようとしても、帰郷した後は結局みんな三好より義輝の言うことを聞くんだよ、聞かざるを得ないんだよ (343のつづき。レスが混じって読みにくくなっても気にしない!)
守護職もらっとくと具体的なメリットがあって
いざ敵が攻めてきた時に和睦の仲介を将軍に依頼しやすいの
守護の任命権は将軍が握ってるから
実際大友・毛利が争って守護職を獲得していたのは両者が
「仁義なき戦い北九州編:大内遺領を手に入れろ!」で
熾烈な攻防をしていた最中でした
毛利は同時進行で「仁義なき戦い尼子編:銀山ほしいです」も戦ってましたし
毛利も大友も多面戦争をしているので、和睦のタイミングを誤ると
最悪家が滅亡する危険もあったわけです (ごめんまだ続く)
だから
宗麟(毛利はどうせ約束破って筑前・豊前に攻めてくるじゃん?
だから先にどっちの国も守護職getしとくじゃん?宗麟やるじゃん?)
隆元(宗麟が周防に攻めてくるかもだから、おれは急いで守護になっておく)
と予防的に守護職補任を望み、幕府との関係を強化してゆくんです
実際に交戦して戦況が不利になったとき、毛利は義輝に和睦を仲介してもらいました
元就の建前:「みんなー!公方様の仲介で天下静謐のために宗麟と和睦するぞ!」(キリッ)
本音:(今回はここらへんで和睦しないとさすがにヤバいわ…)
和睦って戦況によっては大幅な譲歩や領土の割譲をせざるをえない場合があるので
交戦相手と交渉する以上に味方を説得して妥協させるのが難しいのです
でも将軍仲介の和睦には味方の国人や家中にも和睦を飲ませる大義名分が
ある程度得られるのよ >>343
毛利も大友も三好家と交渉を持っていますよ。
あなたのほうこそ幕政を牛耳り畿内と四国半分を支配する
三好家の西国への影響力を過小評価しすぎだし
将軍家の影響力は過大評価しすぎだと思いますよ。
室町幕府の最盛期ですら地方への将軍の影響力は弱かったのに。
>>344
三好が素晴らしいなんて書いてないよ。
書いてもいないことを付け足さないでね。
晴元はクソだよ。日本市場まれに見る無能な暴君だよ。
晴元があれだけクソでなければ三好家の天下はなかったと思うくらいだよ。 (これでおしまい)
一般に西国では幕府・将軍権威が遅くまで残ったと言われ
それは一面で確かに事実なんですが、実際の西国大名の幕府・将軍権威への
スタンスってもっと複雑だと思います
毛利なども守護職あんだけもらってるんだかから将軍権威に従順な家だと
言われがちですが、実際の感覚はそんなに三好あたりと変わるかなー?
と思ってます
そしてなぜか結果的に毛利や義輝をageるレスが多くて何なんですが
三好長慶が一番好きだと最後につけ加えて終わりたいと思います(キリッ) >>348
もちろん両家とも三好と交渉をもってるよ
でも全体として見れば当時の大友・毛利間の抗争に義輝の介入は頻度的にも
タイミング的にも三好の影響より大きな意味をもってるんです
三好にとって豊芸和議ってメリットないでしょ?
大内の瀬戸内制海権の継承を目指す毛利と三好は潜在的に競合・対立関係に
あるから、三好としては毛利と大友は戦ってくれた方がいいもんね!
でも義輝仲介しちゃうんです >>345
そんだけ将軍の権威が強いのなら
どうして義輝は三好を倒せなかったの?
どうして両細川の乱を収められなかったの?
ちゅうか調停に失敗してるんだからさ
その権威がたいしたことなかったってことでしょ?
都においては足利家と朝廷は密接に結びついているので
その関係の影響力はあったろうけど
自前の軍隊と官僚組織を持たない義輝が何ほどのことができたかと。
政治は一人ではできないんだよ。
松永の幕政での万能性は当時の一次資料からも十分以上にうかがえるじゃん。 >>350
んーとね、幕政を牛耳ってるのは三好家なの。
両家の争いが調停できれば三好家の評価もあがるのよ。
天下を治めんと欲する三好家にとっては
両家の和睦は十分メリットがあるの。
どのみち毛利領も大友領も三好家が直接支配するには
遠すぎるし広すぎるしね。
一方的にどちらかが大きくなったらそちらの方が脅威だし。 三好と義輝との和睦の際に「お湯殿上日記」では「これで天下は収まった」という表現がある
当時の感覚では将軍が京にいるといつ状態が正常であると示す一端と言える
朝廷は確かに没落して京からいなくなった義輝より三好に肩入れすることもあったけど、和睦して復帰した後は何事もなかったかのように義輝との交流を再開している
ついでに言えば三好は朝廷交渉行った形跡が少なく、また毛利のように熱心に献金してるわけでもないという指摘もある
だから朝廷としては三好はあくまでも京にいない義輝の代理で「義輝が京に戻るならそれで問題ない」ってスタンスだったんじゃないかと思う >>351
畿内では戦国大名化を目指す勢力は京兆家にせよ三好にせよ
足利将軍家とどこかで最終的には直接的な競合・対立関係にならざるをえず
そこではもちろん直截的な実力によるパワーバランスが生まれる
そんなの細川政元以来ずっとそうだよ。将軍自身が畿内では紛争の当事者なんだもの
しかし地方では紛争当事者ではないから、たとえ軍事的実力がなくても
将軍固有の停戦要請という形式的権限が生き、調停者として一定程度機能する
もちろん将軍が仲裁しても調停のすべてが成功するなんてアリエンティ
しかし義輝帰京後、永禄年間に地方の戦国大名と幕府との関係性が
守護補任と和睦調停という側面をつうじて強化され
それをつうじて一面では幕権が回復傾向にあったことを否定するような
強い理由は自分にはないなー
>>352
んーとね、長慶は永禄2年に久秀に仲介させて
大友に九州探題と大内家督を認可してるの
これはまさに当時備前・讃岐方面で毛利・三好間で軍事的緊張が
高まっていた時期で「その打開策として北九州で毛利氏と対立する大友氏に
軍事行動の大義名分を与え、毛利氏に対抗させた」って評価されてるの
毛利と三好は瀬戸内制海権をめぐって長慶以降も
ずっと潜在的な競合・敵対関係が続くよ >>353
天下おさまったは単純に京を巻き込んだ騒乱が
収束することへの期待からでしょ?
後段は多分今谷氏の論からとってるんだろうけど
朝廷交渉はちゃんと幕府を通してしてますよ。
その幕政は三好家が牛耳って壟断しています。 >>354
幕府の権威が回復傾向であったことは認めてますよ。
でもその幕府の実権を握っているのは三好家ですよ。
将軍と管領家の起こした戦乱は当事者同士には重要だったかもしれませんが
そこに暮らす領民にとったらハタ迷惑なことでしかになかったんですよ。
だから幕府から民心が離れ下剋上の世になったんだよ。
本来の為政者なら領民のためにお互いの遺恨を忘れて和解するもんだよ。
後段については紛争地域なんだから時間がたてば状況も変わる
状況が変わればそのスタンスも当然変わるでしょうとしか言いようがありません。。 >>355
今谷先生じゃないよ。氏の畿内研究史のパイオニアとなった功績は大だけど、今更そんなところから取ってこないよ
弘治年間までの三好が朝廷工作にあまり熱心でなかったのではないか、という指摘は宮帯出版のほうの「三好長慶」や「松永久秀と京都政局」からだよ
自身で言ってる通り三好の朝廷交渉は幕府を通じて、あるいは御供衆である「幕臣」松永久秀が行っている
その時点で周りから見れば三好は幕府に包括される立場なんだよ、どんだけ実力・財力が幕府より強くても幕府の上位権力として扱われるなんて夢のまた夢
ましてや「幕臣」久秀は上野・進士らの幕臣に上から命令できる立場じゃない
上での曼殊院論争の一件のように
仮に幕政において義輝にとって久秀の行動が都合が悪く対立した場合、
上記のように久秀側が折れざるを得ないこともあった以上「牛耳る」「 壟断 」なんて表現は不的確だと思うね とは言え専制とはいかないまでも松永久秀という存在によって、元は阿波守護の被官に過ぎなかった三好が公に幕政に関与できる立場まで上り詰めたのは事実
そして「三好」「松永」のままで栄典による家格上昇、これによって京兆家に変わる新たな室町幕府内における新秩序を生み出し時代の変化への先鞭をつけたってのは見逃せない
俺は永禄和睦後の三好を評価する点はそういう路線がいいんじゃないかと思ってるし、そこまで上り詰めた三好は素晴らしいと思ってるよ ざっと見たけど無能な暴君とかモロに感情的主観的な表現使いだすと人に不快感与えて説得力も無くなるんだなと思った だね。ここは、所詮、自分の見解を披露する場でしかないもんね。
互いに意見を検証し合うことはできても、勝敗はここでは絶対につかないんだから、
熱くなりすぎたり、多数派気取ったり、無理に説得しようとしても無意味だよね。
むしろ、自分の意見を小出しにして長期戦にした方が互いに楽しいと
最近思うようになった。 おそらく晴元ののしってた同じ人だろうけど
どうして「勝敗は絶対つかない」とか「所詮…でしかない」とか
「多数派気取ったり」「無意味だよね」とか「長期戦」とか
無意味に喧嘩腰なんだろこいつ。性格悪いよ。
過度に感情的な書き込みしてるのはお前くらいで
反対意見を書いてる人たちの方が荒れないよう気を遣って
建設的に議論してるのわかるのに。 >>361
いや、違うひとなんだけど。
っていうか、「荒れないように気を遣う」って主張と行動が真逆で矛盾してね?
熱くなるのやめね?
(ってこれ、煽ってるつもりも無いから、全部悪く受け取らないでw) 「荒れないように気を遣う」の主語は俺じゃないから
何も矛盾してないけど?
もちろん荒らすつもりもないが
マナー悪いのは不快だからそう言ったまでだよ。 今は、三好氏の居館 勝瑞城館 (デジタル博物館) なんてあるんだな。 んー何というか、互いの主張を見ていると
足利の権威がどこまで、どの程度通用していたのか
三好の権威がどこまで、どの程度通用していたのか
この二つだよね
足利の人からしたら調停で全国の大名には命令できるには回復したとなって現在の義輝は言われる程馬鹿ではない
三好の人からしたら調停などの行動は長慶・久秀が間に入ってるし実際に長慶が長期統治した実績がある、となる
互いに譲れない主張がある訳だな
三好本や畿内本を見ていて最近思うのは、三好が遠国大名から一目置かれてたのは確かだろう
だがそれが通用するのは畿内近国で遠国に行けば行く程、足利ブランドが強くなる傾向だったんだろう
田舎と都会の情報量の差だろうな、三好長慶と言う只者じゃない奴が畿内の統治者、って認識はしてはいるが
遠国にいる所為で中央の変化を体感できないから、何かあった時に新興の三好より足利の権威を選ぶのは至極当然の選択。
周りの連中も同じ選択を取るから当然だわな
遠国大名が新興勢力に助けを求めた『大きな例』って大友宗麟が秀吉に助けを求めたのが初めてか?(でもあれも足利義昭従軍してるよな?)
九州はそう言うの多いよね、伊東や相良が『義』貰って周囲が大反発とか。
三好長慶を感じ取れるのは畿内に住んでいる民衆や商人などの一般人だし当然っちゃ当然か。
あと、中央と遠国で思うのは朝廷への献金、本とか見てたらふと思うんだけど
三好の献金が少なく他が糞地方大名の献金がくっそ多いんだよね(毛利・織田他)
少なくとも三好が他地方大名よりも金を持ってないってのはあり得ない訳で
この辺の意識差の原因が凄く気になる。 あと346の一連のレス見てふと思ったんだけど、三好が介入した形跡のある外交は大友・毛利・河野・山名とか自分の領地に干渉してくる可能性のある勢力で
幕府の外交に干渉したのも、名前を売る目的だけじゃなくてそういう「実利」目的でやったんじゃないかなと思う
一方で東国に関しては織田に松永長頼が鷹送った話や、朝倉に義輝が「三好親子と松永に何事も相談すべし」と言ってたりする以外は、それ以東への外交関係が見られない感じ
この三好の東国へのノータッチっぷりは、過去の傾向から上洛する勢力は西からくるって意識があったのかもしれないけど
一方で義輝は幕府健在を示す必要があるから全国幅広く書状を出してるわけで
パワーバランスへの評価は一旦置いといて、両者の目的の違いが感じられるなーと思ったり 三好も織田も彼らなりのやり方でともに幕府を利用しようとしたが、積極的に幕府そのものを否定するようなことはしなかったという点では同じじゃないの? 晴元さんを無能な暴君っていうのは感情的表現ではなくて
客観的な評価なんだよね。
史実と確定されている事績と結果を積み重ねれば
間違いなく日本最悪君主列伝に入るレベルだよ。 足利幕府の権威がどうとかいうけど
足利将軍の権威ってその幕府の権力構造から
全盛期でも全国区じゃなかったんじゃないの?
関東は鎌倉に投げっぱなしで大変事以外はほぼノータッチだし。
最新の研究ではまた別の考えもあるんだろうけど。
あと足利将軍って政治的な調停力を駆使して諸大名を統制したというより
武威を持って問答無用で従わせていた武断派政権という印象が強いんだけど。
武家政権というのは基本実力がものをいう軍事政権なので
常に腕っ節の強いところと気前のいいところを見せておかないと
諸大名に舐められてタガが緩んでしまうし。
その歴史を俯瞰するとその権威とパワーバランスを保つために
定期的に幕府の敵を作っては戦いを起こしていたようにすら見えます。
義輝が全国に役職をばらまいたりってのは
足利将軍家の秩序に謀反して自立した戦国大名の権利を追認しますってことだから
権威が復活したとはどうしても考えにくいんだよなー。
幕府は名目上復活したけどその役割は往時とは別物だよね。 将軍家あるいは将軍そのものの力は状況により弱まったり強まったりしたものの、幕府を中心とした秩序自体は依然とあったってことだろ? 今川義元や武田信玄が天下を取る為に大軍を引き連れて上洛するとか言うが
上洛して号令するってのが、アホな歴史家は適当なんだよね。
その意味を解釈すると、幕府の権威を利用して貿易や経済を優位に回して、全国の大名に命令をだして操る。
果たして、戦国乱世で幕府の権威がどれだけ意味があったのか?
あったのなら、信長は武田や毛利と戦う必要がなかったわけで、秀吉も足利幕府を再興させりゃよかったわけです。
天下人ってのは、関ヶ原の後の徳川や鎌倉幕府みたいに、京都周辺を外から武威・権威で抑えるだけでも問題ないのね。
別に京都周辺を支配する必要はない。
徳川幕府は、東に親藩を集めて西の外様を武力で押さえ込む政策で200年以上続いた。
だから別に近畿で政権を立てなくても問題ない。朝廷を抑える関白と六波羅探題が置いてけば。
徳川と鎌倉は京都から離れることで政権を維持しようとした。この辺、藤原や平家や足利三好を反面教師にして歴史から学んだんでしょう。
で、三好家は天下に号令した戦国大名なんですよ。三好信長大内は、基本同レベルと考えられる。 >>371
そういう説明ならようやくそっちにも理があると思えた
三好の家格上昇、義輝期に増加が見られる守護追認など、この時期に幕府の秩序体制に変革が見られたのは確かだと思う
ただこの時点ではそういった新興勢力もまだまだ幕府を無視せず、上位権力者として認めていたし(上であったように実利絡めば断ることもあるけど)
仮に三好が長期政権になればいずれ幕府と決裂するしかなかったと思うけど(義昭と信長のように)
ただ現実として「当主が相次いで病死→将軍暗殺→家中分裂で畿内から没落」とあまりに急転直下な経路を辿ったせいで、
ifを論じるにしても先のことすぎて(長慶・義興が早死にしなければ義輝との協調関係はもうちょっと続いただろう、って意味ね)個人の想像で補う部分が多すぎると思う
だから俺としては三好の行動が倒幕の萌芽になったかどうかはともかく、それを当人が意識してたかは判断できないなぁ >>374
政治思想として三好が倒幕を最終的に目指していた、というためには思想史的な分析が必要で
そのためには長慶本人の政治理念が表現された史料がかなりの分量存在しており
それをある程度体系的に検討してはじめて説得力が生まれるわけだけど
その肝心の史料が絶望的に三好にはないんじゃないか?という印象は確かにある。
傍証主体で思想史的なアプローチとしては弱いというかな。 >>375
例えば「没落した将軍に対して朝廷が距離を置くなど変化が見られるようになった」「幕府体制は後期において緩やかに弱体化していっている」「三好の時代に後の織豊期の幕府相対化の萌芽があった」
そういった見解に対しては俺も異論は無いんだよね
ただ長慶自身にそういった一貫した倒幕思想があったか、に関してはやっぱ普及させるには難しいというか… 三好に関する資料は京都の寺社の奥深く・・・まだまだ未踏域だよ。
東寺とかにもかなりの資料が眠ってるらしいからなぁ、もっと畿内研究者が増えないと
それが発見されていって長慶や義輝の政治思想と政策・方向性が解ってくるだろう それを言っても仕方ない。一部の大名家以外多かれ少なかれみんなそうよ
可能性ではなく現に発見された史料で語るのが史学だから >>380
朝廷に官位もらった返礼のためとか
将軍の上洛要請・命令に応えてとか
表敬訪問的な理由とか
諸大名が上洛する理由はいろいろある
みんなが天下制圧を考えて上洛するわけではもちろんない 細川晴元や浦上村宗なんかは天下制圧を考えていそうだよね。 まあ天下つっても当時の言葉の意味じゃ畿内を抑えるって意味だからねー 三好は丹波や播磨に遠征してるから、最終的に政権が盤石になれば全国を制圧をしてたかもしれないね。 三好家と浦上家は似たもの同士って感じだね。
赤松と幕府との絡みで浮沈の激しさでは
浦上家が三好家を凌駕しているけど。
赤松家の歴史を調べていると浦上家は
主家の尻拭いで理不尽なまでの苦難続きで
村宗と息子二人の下剋上を応援したくなるよ。
三好や浦上こそが戦国時代の本来の主役だと思うんだけど
現在の日本人は下剋上を好まない傾向があるから
人気・知名度が低いのは仕方ないのかなあ。
彼らなりの正義や道理があって家中・領民の支持を受けて主家を倒したのに
どうしても悪代官イメージが抜けないねえ。 戦国好きは下剋上自体はみんな結構好きだと思うのよ
浦上は下剋上には成功するけど上剋下に失敗して
家臣から下剋上くらって滅んだのが詰めが甘いっていうか
間抜けに見えちゃうのが人気的にはネックなんだと思う
むしろ浦上をさらに下剋上した宇喜多直家の方が黒い人気がある
実際の松永が忠臣だったかどうだったかはともかく
下剋上の三好よりもさらに三好を下剋上した(とされる)
松永久秀の方が主家よりも人気があるのとわりと似てる >>382
浦上村宗が高国の上洛戦を助けたのは天下を狙ったのではなく
播磨支配が目的&播磨守護職がほしかった
浦上ももともと播磨の国人出身だけど播磨は赤松家の本貫地で
赤松一門が強い国だから大義名分的に幕府から守護職をもらって
合法的に下剋上を達成しようとした
応仁の乱のとき越前の守護代・朝倉孝景が守護職補任と引き換えに
西軍から東軍に寝返ったのと一緒の動機
浦上村宗はもともと両細川の乱では高国派(主君の赤松義村が澄元派)で
主君の赤松義村を殺害した際に管領だった細川高国が村宗をかばって
助けてもらった恩があったのと、義材のあと将軍・義晴を擁立したのは
高国・村宗ラインで以前から盟友だったので高国の返り咲きを支援したの 三好や浦上は結局中途半端な存在ってことか。
ただ信長の時代に活躍して対決していたら宇喜多や松永のポジションだったかもしれん。 浦上家の下剋上というのは幕府の政争に翻弄されて戦乱の収まらない
播磨備前美作などの国人達の支持を集めたものだと思います。
だから村宗が高国を擁して上洛する目的というのは
武力を持って旧赤松領国を幕府の軛から解き放ち
浦上家による一元支配のもと領国に平和と安定を取り戻すことが
第一義であったのではないでしょうか。
ただ浦上村宗が勝利を重ねて高国を無事復帰させ領国の安定に成功すれば
自然と声望が増し後の織田信長のポジションについたかもしれません。 >>388
松永久秀は全盛期の三好氏の残滓で大和1国を維持していただけだし、
宇喜多家はもともと浦上家の家臣で最盛期でも備前一国+アルファ程度だし、
両者とも三好長慶や浦上村宗の全盛期の軍事力と比較したら10分の1とか、
3分の1とかじゃね? 浦上村宗と織田信長が戦うとかかなり浪漫だよね。
小寺や別所を蹴散らすほどの浦上の軍勢を信長が止められるかどうか。
摂津まで進軍されたら、京都は防衛に不向きだから守備するのが難しそう。
でも、どの勢力も上洛してからが大変なんだよね。 >>390
宇喜多は備前・美作2ヵ国に備中半国+播磨西部2郡が最大版図なので
村宗全盛期より領土的にはかなり広いよ
備中半国の毛利からの獲得は秀家の時だけどね
浦上は村宗の最大瞬間風速時で備前東部+播磨+美作南部に影響あった程度
摂津国人は京兆家分国なので天王寺合戦でも高国の動員・指揮下に入ってる
備前西部は応仁・文明の乱以降は山名-尼子サイドの松田氏が浦上と抗争中で
西部の国人は尼子が滅亡するかなり後まで大半が松田方だった
美作は小規模国人領主が割拠していて統一されていない状況 >>392
宇喜多秀家の全盛期は考えてなかったよ
前提は織田信長の時代に活躍して対決だよね?
宇喜多直家と浦上村宗を比較すると、
浦上村宗と松田元陸は手を組んで赤松家を掌握していたのだから、
その軍勢は、備前+美作+播磨なのでは?
宇喜多直家が備前+美作+播磨西部2郡とすると、動員数としてはやはり浦上村宗の方がかなり上だと思う。
そもそも、直家の祖父の宇喜多能家が浦上村宗の有力武将なわけだし、期待しちゃうなぁ。 いつまで宇喜多能家を働かせるつもりだw大物崩れの7年ほど前にすでに興家に
家督譲って出家・隠居しとる。高国・村宗の合戦にも能家は当然参加していない。 >>393
浦上村宗が備前三石城発ったときの手勢は播備作あわせて3000人だった。
上洛戦にしては少ない気もするが、この頃の赤松・浦上はそれぞれ
2・3千程度で国境で攻防しているのでこの動員数はそこそこ妥当だと思う。
高国を擁していたから畿内国人が集まり最終的に浦上・高国方が2万弱に
膨れ上がっただけ。備前はともかく播磨国人を全然掌握できていなかったから
赤松寝返りの噂だけで戦線が崩壊して大物崩れになった。
宇喜多は備前統一前の明善寺合戦時で5000人程度。
直家晩年で1万5000人〜最大で2万人規模の動員数だった。
それくらいの兵力がないと毛利相手に天正7年から3年間も宇喜多単独で戦えない。 宇喜多は単独で毛利と戦ってないし。
宇喜多直家が戦上手の名将だということは疑いないけれど
なんか織豊期に生き残った大名は過剰評価して
残れなかった大名は過小評価されるよね。
浦上家は守護代とはいえ室町時代中期から
近畿一円に勇名を轟かせた名門武家だよ。
高国が村宗を頼ったのも天下の権を争うにふさわしい実力があると
認められていたからなんだよ。
高国が味方したから二万の兵が集まったのではなく
村宗の力を見込んだ諸豪が競って馳せ参じたと見ることもできるよ。
長く管領の地位にありながら独自の基盤を築けなかった高国に
万余の兵を集める声望があったとは考えられないです。 >>397
どうもおれの方があなたより浦上・宇喜多を好きで播備作の戦国史に
詳しい感じがしてならないけど(苦笑 まあそれはいいや。
浦上は円心以来の赤松家家臣だが武門としては特に名門ではないよ。
則宗は活躍した舞台の大半が畿内だが
村宗代に畿内でそこまで同時代の声望があったのか?というとかなり疑問だわ。
高国にせよ本命の北畠・朝倉・尼子に断られたあと最後の選択肢として
村宗を頼ったんだし。正直なところ先の大内よりずっと前提条件の悪い上洛戦だったと思う。
村宗の目的も通説どおり播磨守護職狙いだろう。
(この時点でそもそも東播にはほとんど浦上の影響は及んでいなかった)
村宗は現役の管領である高国擁してまずは播磨平定を考えたわけで
高国にそれなりの権威があったことを否定する理由も特に思いつかん。
あと宇喜多は中国戦線で天正7年からは単独で毛利三家と戦っている。
宇喜多とほぼ同時期に伯耆の南条が織田側に寝返るから
毛利は因幡以東の山陰戦線を捨てて備前・美作に兵力集中せざるをえなかった
(だから備前以西の毛利方に有効な援軍を送れなかった)。
これを宇喜多・毛利の境目合戦と呼ぶのだけれど
山本浩樹さんの研究(『西国の戦国合戦』や諸論文)でも
宇喜多単独で毛利と互角以上に戦ったという評価。贔屓目から見た過大評価でも何でもない。
秀吉が播磨の別所ら毛利方を平定し但馬・因幡攻略する時間を
直家が壁になって稼いだからこそ秀家が豊臣政権下で優遇されたのだから。 前レスの下から6行目
備前以西×→備前以東○に訂正 >>396
西に下がった宇喜多と、東に上がった浦上じゃ勢いが違うよ。
最初は3千でも国人は勝ち馬に乗るからね。
三木城の別所村治を破った時点でまさに破竹の勢い。
数々の上洛戦の中でも浦上村宗の上洛戦が一番痛快。 浦上や播磨情勢に詳しい人が多いから浦上村宗調べてみたけど(軽くwikiだが)
相当な勢いで摂津に侵入したんだな、この人、もう1歩って所まで行ってるな
三木城奪取して刺客放って柳本をぶっ殺してイケイケ状態・・・
持ち上げるわけじゃないけどその勢いと真っ向からやりあった三好元長も相当だな。
赤松との挟撃ってのもあるけど、てか大物崩れって戦の規模と事の重大さはかなり過小評価じゃね?
知られてないだけだろうけど。 >>398
あなたが詳しいのは分かりましたから
wikiだけでもいいから浦上家歴代の事績を辿ってみたら?
赤松宗家を滅亡の危機から何度も救い
赤松家の主力として天下の権を争い
山城守護代・侍所所司代と中央の要職も歴任し
武勲も実績も名声も当時の最高クラスだよ。 三好氏、浦上氏、上杉氏、結城氏は、英雄/梟雄が何代にも渡って出てきて、
東西をそれぞれ席巻して、まさに戦国の真の華だよね。 >>402
浦上則宗は名将…そんなことは戦国板の住人なら誰でも知っている。
あなたがwiki程度のニワカ知識しかないのはよくわかるけれど
まずその武勲・実績は則宗のものであって村宗ではない。
次にあなたは「村宗代の浦上の方が圧倒的に宇喜多より動員兵力が多かった」
とおっしゃるが
・備前勢力(浦上・宇喜多)の美作進出は村宗代ではなく宗景・直家代と遅く
(尼子の影響が遅くまで残った)村宗代ではほとんど支配が及んでいない。
・赤松一門の影響力が強い播磨は全盛期である則宗代でも掌握できず、
基本的にずっと赤松・浦上は播備国境で則宗代から宗景代のおわりまで
戦い続ける。小寺・別所などの赤松一門は自立化。
・東備前は浦上の根拠地だが西備前を浦上(宇喜多)が掌握するのは
最終的に宇喜多直家の代(というか宇喜多は西備前の国人を糾合して浦上に
下剋上した)。村宗代では西備前は旧山名方の影響がまだ強くのちに尼子の
影響が強まるからだ。 要するに
「播備作にまたがっていても浦上の実効支配できてる領域は狭く
だから村宗代では平均して3000人程度の動員兵力はまあ妥当な数字だよね。
宇喜多の方が動員兵力的には比較すれば圧倒的に多かった」と言ってるだけ。
だって実効支配している領域が播備作でも浦上・宇喜多では違うのだから。
最後に上洛戦では細川高国は村宗とは別に先発して播磨入りし播磨・摂津
周辺で募兵してのちに合流している。村宗の本隊は3000人で播磨国人を
組み込んだとしても天王寺合戦の2万弱という兵力はやはり多い。
摂津は京兆家分国なのだし高国が畿内でかなりの兵力を集めたと考えて
何かおかしいだろうか。実際に高国方に参じた摂津の河原林なんて
もとから高国方の国人なのだし高国方に転じた薬師寺国盛も京兆家内衆じゃないか。
事実細川高国を後ろ盾にしていた越後守護代の長尾為景が大物崩れの影響で
窮地に立ち家督を譲って隠居に追い込まれているのだから
高国代には細川家の管領(京兆家家督)であることにまだまだ権威が
あったと考えて別におかしくないし、だからこそ村宗は高国を援助して
播磨平定を目指したのだから。
…というごくごく普通のことを書いているだけなので
否定できるような根拠が特にないなら感情論であまり無茶苦茶を言わないでほしい。 >>406
一応は三好スレなのだろうけど個別の三好氏のスレは別にあるようですし
「三好は天下人なのになぜ知名度が低いのか?」
→他の天下人との比較→「上洛=天下を目指したのか」「浦上村宗は天下を目指したのか?」
→天王寺合戦〜大物崩れという最近の流れから派生した応答ですから
それほどスレ違いではないと思いますが…やや三好から脱線気味なのは認めます。
三好厨が播備作の戦国史をろくに知りもしないのに適当なことを書いていたので
通りがかりの浦上・宇喜多好きとしてはそこはやはり訂正せざるをえない。 (問題無し。三好氏の敵側の視点がいろいろ分かって面白いw) >>404
他のレスと混同されてるみたいだけど
まず宇喜多直家と浦上村宗の兵力の優劣なんてどうでもいいです。
浦上家は幕府から守護並の家格を与えられている隠れなき名門武家で
赤松家中では比肩するものなき実力者です。
村宗も義村との抗争を戦によって勝ち抜き
洞松院や赤松家中の承認のもと義村を隠居に追い込んで
赤松領国を分裂の危機から救っています。
長く混乱の続いた赤松領国は村宗のもとで秩序を回復しつつありました。
大国播磨を含む3カ国の旗頭としての権勢と実力は
当時の朝倉や北畠と比べても全く見劣りはしませんよ。
自前の領地も軍勢も持たず
他の諸侯に寄生してしか権勢を保ちえなかった高国か
歴戦の古兵にして確かな実力を基に赤松家の名代として3カ国に君臨する村宗か
どちらに頼り甲斐があるかは考えなくても分かると思うんだけど。 >>405
浦上村宗の代っていうのは、小寺則職も別所就治も放逐されてて、
大物崩れが無かったら小寺氏も別所氏も滅びてた可能性もかなりあると思うんだよね。
自分は浦上村宗の高国擁立を含む最大瞬間風速を評価している感じかな。 えっと、自分は391、393、400、410で、
402の人に横レスされたり、横レスしたりしてるw
実のところ、398、404の内容は八割がた同意してるけれど、言い方が悪すぎてどう見ても駄目でしょwww
ところで、
・細川高国が自前の領地も軍勢も持たない
このあたりは自分の知識と違って、しかもこのスレにとっても重大な問題だと思うんだけど、
誰か詳しく教えておくれ〜。 私が村宗の上洛の動機で妥当なんじゃないかと考えてるのは>>389です。
補足すると@赤松家の3国守護の地位を確定させること
A赤松家宗家を御神輿化して完全に実験から切り離し
国人諸侯の権益と領域を確定させ
その頭人としての浦上家の地位を不動のものとすること。
横並び意識の強い国人衆を差し置いて
守護の地位に就くのは火中の栗を拾うようなもので
村宗が本当に望んだのか疑問だと思うんですけど。
>>411
追放されて流浪していた高国は当然その領地も失っていると決め付けていました。
違ったのなら訂正をお願いします。 >>404
ちゃんと読んでなかったけどあなたこそわりと出鱈目書いてるね。
村宗時代の美作は赤松家が支配しているし松田家と浦上家の関係も良好。
赤松領国に尼子の侵攻が始まるのは村宗死後だよ。
時系列を無視して「衰退後」の浦上家の勢力を提示して
浦上家「全盛期」の村宗の権力を矮小化してるんじゃねーよ。
村宗が赤松領国3カ国全体に影響力を及ぼした一次資料も残っている。 浦上赤松話が熱いなw
三好と浦上が絡む要素と言えば三好元長の大物崩れと篠原長房の児島の戦いか 俺も高国を後ろ盾にした村宗の最大風速と勢いは認めるけど
それを基準に村宗の生涯における勢力圏を過大評価してる感じを受けるかな
実際の歴史では義村殺害の因果が巡ってバブルが弾けて終わったわけだし >>412
細川高国って丹波の国人にまで離反されて、伊勢や出雲へ流浪してるんだね。
昨年行った伊勢に伝高国作の庭園があったの思い出したよ。
摂津も丹波も失っているとすると確かに自前の領地も軍勢も無くした状態と言えるかな? >>413
人間ってのは、誤認や都合のいい解釈無しには話ができない生き物だよ。
そんなのは互いに気にしちゃいけない。 大内義興の時は1万程度でしかも大内水軍に誰も畿内では太刀打ちできない状態で上洛
それに何年も前から畠山を引き込んで政略結婚したりと畿内対策も準備万端だった
大内でもそんなに慎重だったのに浦上は準備期間も短く本隊も3000しかいないとか
本当にこいつやる気あったの?そこが謎
父の仇と怨んでずっと戦ってきた不仲の赤松政村に後詰めさせるのもアホとしか思えないし
それだけ浦上に兵数足りてなかったってことだろけどこの辺がいまいちよくわかんない >>418
大内義興の上洛は、ほとんどクーデターみたいなものだったからね。
全盛期の細川家(阿波、讃岐、土佐、丹波、摂津、、)+現将軍を打ち倒すという条件で挙兵してて、
下手したら応仁の乱の再来になる可能性もあった。当然、準備は周到じゃないと厳しい。
浦上村宗の上洛は、それと比べると阿波+丹波勢くらいしか敵の主力が無く、現将軍義晴は味方かつ
旧知だったから拙速で全然問題無かった。
はずだけど、政権樹立後の赤松政村の役職だけは十分に確約出来ず、離脱されちゃったんだろうね。
赤松政村は、前線で裏切られたら致命的だし、領国に残すのも危険なのだから、
見張りをつけて後方支援させる選択しか無かったんだと思う。
人選ミスと言えばそうだけど、神輿は選べない。
三好氏にとっての足利義輝・細川真之、織田氏にとっての足利義昭、、
みんな苦労してる。 >>418
高国にとって浦上はセカンドチョイスどころか第4か5番目の選択肢
京に帰るためにはもう浦上に頼るしかない状態
でも浦上の方は初めから乗り気だった
つまりやる気自体はあった。でも兵数3千は少ないよねやっぱり
ただ援軍をなぜ赤松くんに頼むのかは自分もよくわからない
@子どもの頃村宗に備前に拉致・擁立A父を和睦後騙し討ちで暗殺される
Bこれまでも敵として交戦C美作に逼塞中D自分から守護職を奪う戦いに参加要請
これで「よーし頑張って戦っちゃうぞ!」ならそっちの方が頭おかしい
政村「村宗ばっかじゃねーの」(AA略)にそらなるっていう
ひとつには室町は守護に軍勢催促権があるので、浦上が播磨衆を統制するため
屋形の赤松を名目上呼ばざるをえなかった面はあると思うけどどうだろ
>>419
堺公方府側は阿波守護家だけで兵数8千あるので
水軍なしの浦上3千で上洛は兵力差でかなり無謀だった気はやっぱりする >>420
えっと、「どうみても無謀な作戦だったのに、浦上村宗はたった3千で数々の敵を撃破し上洛に成功、
更には、阿波細川家、その旗下・歴戦の三好家と互角以上に戦うとは、浦上村宗は播磨に降臨した軍神だった!」
と言いたいのなら、仕方が無いから同意する。 >>421
お、おう…
「浦上村宗ってある意味戦国最大の一発屋だったよね
堺公方府も喧嘩ばっかりでろくでもなかったから途中まで順調だったけど
絶妙のタイミングで刺すとか赤松くんもやりおるやりおる
でも野心のわりに詰めが甘くて失敗するあたり村宗はどうも憎めないキャラだわ」
くらいに思ってるので、同意しなくていいwww 義晴・高国にとっては政村・村宗はセカンドどころかファーストチョイスで
晴元・元長挙兵時に真っ先に出兵依頼を出してる。
なんらかの理由ですぐには兵を出せなかったみたいだけど。
村宗は義晴のキングメーカーだったし
村宗と義晴・高国は早い時期から強い同盟関係にあったので
最後の出兵は拙速どころか相当な下準備をして好機を狙っていたとみるべきだよ。
あと西備前の松田氏も当主が大物崩れで討ち死にしているから
赤松側からの兵数は相当な数に達したと思うよ。
政村は細川政元の姉の血を引いているので
細川の乱に介入する際には最高の旗頭になる。
高国について勝利を収めれば播磨での実権は失っても
幕府の要職に付くことは間違いなかったでしょ。
赤松家が再び雄飛する最後にして最高のチャンスだったのに
政村は守護家の意地か、親を殺された恨みだか知らないけど
大局的に見てとても愚かな選択をしたもんだと思うよ。
大将っていうのは個人より全体の利益を最優先しなきゃいけないのに。 政村が愚かつっても
そんな奴に軍勢持たせて後ろに控えさせて
あまつさえ既に寝返る風聞まで流れてたのに、特に対処もせず案の定裏切られて死亡した村宗はやっぱ何考えてたんだかわからんね >>424
> あまつさえ既に寝返る風聞まで流れてたのに、
そうだったんですか?
興味深いんでこのソースを教えていただけますか?
もしそうだったとしたら、それはそれでドラマチックで面白いかも。
巷説の関ヶ原みたいですね。
三好長慶も浦上村宗も自力で実力をつけて伸し上がったのを
主君から正当な理由なく上克下をしかけられたのを
ガチンコでねじ伏せて下剋上したという点でそっくりだと思います。
下剋上というと陰謀家というイメージがつきがちですが
この両者についてはそのイメージからは遠いように感じます。
ついでに松永久秀も実際の事績からは陰謀家とは程遠いようですね。 >>423
浦上村宗、松田元隆、赤松政村、細川高国の中で、
未熟な赤松政村は発言権を失っていたんだろうね。
でなければ足利義晴を裏切ってまで親の仇をとる必要が無いし。
でも4人の中で政村だけが生き残るというのは人間社会の皮肉だね。 >>426
> でも4人の中で政村だけが生き残るというのは人間社会の皮肉だね。
ほんとそうですよね。
でも政村にはこれから壮絶な生き地獄が待っていますから
全力を尽くして権力の絶頂で死んだ村宗とどちらが幸せだったか考えさせられます。 大物崩れ前後の流れは政村個人の感情だけで動くもんじゃないと思うけどね
義村殺害によって反浦上勢力が蜂起してて、村宗はその鎮圧に苦労してるし、ああいうチャンスがあれば村宗を討たんとする勢力まだ健在だったんだろう
義村が村宗を潰そうと度々喧嘩売ってきたのは分かってるが、あの時代の価値観においても主殺しはまずいんだ
そういった反発を安定した勢力を築き上げることによって跳ね返すことができればまた評価が違っていたと思うが
結局村宗は義村殺しの影響がモロに祟ったような死に方をして、それができなかったわけだからそれ以上の評価はできないかな
ましてや「下克上(実態はともかく便宜上そう呼ぶ)」する時も穏便な方法をとって、かつその後の反発跳ね除けることによって成功した長慶とは並べられないと思うね やはり最期が悲惨だと厳しい評価になりますねー。
政村の義村殺しはよく弑逆と言われます。
主筋を家臣が殺したという意味では確かにそうですが
村宗は汚れ仕事を引き受けたという面があって弁解の余地は十分にあります。
まず義村が当主とはいえ傍系からの婿養子だったために
家中からは赤松宗家直系で細川宗家の血も引く次代への「繋ぎ」とみられ
家中での権力基盤がもともと弱かったんです。
武田信玄死後の勝頼のような地位です。
村宗や洞松院と義村の抗争は当主権力の拡大を狙ったというより
義村個人とその派閥の勢力拡大を狙った権力闘争の面が強かったんです。
村宗の排除はクーデターのようなものでしたが結果として大失敗となり
家中を大混乱に陥れた責任を取らされ洞松院によって隠居させられました。
この時点で村宗の主君は義村ではなく次代の政村となっています。
つまり義村は正確には主君を殺していないんです。
隠居させられた義村は大人しくしていれば殺されることはなかったでしょうが
あろうことか将軍家の御曹司を担ぎ出して挙兵してしまいます。
これは明確に宗家に対する分家の謀反であり幕府への反逆ともなる重大な犯罪行為です。
ここまできてしまってはもはや前当主とはいえ赤松宗家としては生かしておくことは難しかったでしょう。
そこで村宗が宗家の意向を受けて義村を殺害したというのが真相に近いと思います。 浦上家というのは代々赤松宗家に侍りその実務や軍事を取り仕切るだけでなく
宗家に問題があった時には代わって汚れ仕事や身代わりを引き受けてきました。
赤松一門が酒に酔って幕臣を殺害した時には、浦上一門が代わりに責任を引き受けて切腹したり
赤松当主の不始末の身代わりに浦上当主が刑を受けて殺害されたり
文字どおり永年身を呈して主家を盛りたててその見返りに家中での不動の地位を築き上げたんです。
則宗も村宗も主家と赤松領国を守るために主君の「差し替え」には関与しましたが
宗家を完全に倒してその地位を逆転させようとまでは考えていなかったと思います。
wikiなどでは赤松宗家の権威を乗り越えられなかったと説明されますが
村宗本人に宗家の権威を乗り越える意思が強くなかったという視点でその事績を見直すと
村宗の大物崩れでの行動が合理的に見えてくるように思います。 言いたいことはあるんだけど脱線しすぎだし絡みづらい 伊丹氏って大物崩れをどうやって生き延びたんだっけ?
いつも三好氏に攻められてるよね。高国とうまがあったのかな? 伊丹は池田と仲悪くてしょっちゅう逆の方ついてるイメージ 別所氏ってすごいな。
三木城に拠って100年足らずの間に半独立勢力として
赤松・山名・細川・尼子・三好・織田・毛利の間を渡り歩いてる。
戦国近畿は幕府と細川の権力争いに西国四国勢が介入し
さらに国人一揆・新興武家に宗教勢力が複雑にからんで
離合集散を繰り返すカオスっぷりが面白い。
でもこの一見した時の分かりにくさが三好家の知名度の低さの原因の一つかな。 三好家も全盛期は短いし、細川家の元で力を蓄える前の出自等が不明な点も多い。
足利将軍家を含む畿内の勢力がグチャグチャだったからこそ台頭できたとも言えなくもないからね。
基盤の阿波西部が、畿内から近すぎず遠すぎずの絶妙な距離だったのは三好家にとっては一時的には幸運だったでしょうね。 三好家は全盛期?相当長い方だろ。
下手したら上杉、織田、大友、大内より、太く長いんじゃね??? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています