吉田兼見・勧修寺晴豊・近衛前久・覚恕 P35
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細川藤孝の従兄弟で吉田神社当主の吉田兼見
誠仁親王の妃と姉妹の勧修寺晴豊
太政大臣の近衛前久
2/25 竹内殿(信長に焼き討ちされた比叡山延暦寺166世天台座主の准三宮曼殊院覚恕で信玄を官軍に、信長を朝敵にした人)
による天神講(3/2夜執行?)に勧修寺晴豊が出席(延暦寺の大ボスと勧修寺の秘密会談。信長への叛意相談か)
こいつらグルだろ! 自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。 看羊録
家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。 家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。 なんだよ、このアンチ秀吉朝鮮キチガイ荒らし。
スレ違いとか全く気にしないで爆撃コピペすんなや。
信長は二条、万里小路、徳大寺に娘を嫁がせていて、
あきらかに近衛や勧修寺を排除する計画なのがあからさま過ぎてたからな。
そりゃ信長暗殺を計画するだろな 本願寺と講和交渉した近衛、勧修寺、佐久間を信長は内通してたと思っていたんだろう。
本能寺の変前夜で一番やばかったのは勝家。
能登に前田利家、
越前府中に信長の娘婿の利家の息子の利長なので、
家老勝家は信長側近衆の前田によって包囲されている。 信長による朝廷の危機を救い、朝廷を立て直した功績で、
秀吉は豊臣姓が与えられた。
これは中臣鎌足が朝廷を救ったことで藤原姓が与えられたのと同じ朝廷中興の業と認定されたことにある。
藤原一族や豊臣一族は天皇の信任を得たのは、
皇位を奸臣の専横から守ったから。
蘇我や織田は逆臣。 上京を焼き討ちして略奪虐殺した信長をどうやって信じろと?
フロイス日本史にも天皇に会いたいと申し出た時に信長は、
あんなもん何の力も無く、会っても無駄。
なぜなら俺こそが内裏だからだ!
などと宣言してるからな。 >>1
その人たちは天皇を信長から救った英雄だね。 まあ上の四人整理してみた
吉田→親光秀(光秀にとっちゃ唯一親しい公家(でも公家の中ではかなり身分低い))
勧修寺→真ん中
近衛→親信長(信長とは仕事仲間、九州の休戦斡旋も一緒に仕事(公家の中でもかなり身分高い、サラブレッド))
覚恕→まず兄と仲良かったか悪かったかここポイント(歴代天皇は長年、延暦寺座主から脅迫されてきた歴史がある)
こうやって見ると分かりやすいな
まず吉田が光秀の信長暗殺を黙視したのは、自分の朝廷での身分上昇を期待したからと思われる。
でももともと身分ある勧修寺近衛にとっちゃ迷惑、天皇にとっても光秀のせいで奈落の底へ… 史実はこれでしょ。 勧修寺晴豊
晴豊は『日々記』の作者である。
本能寺の変の記事が二条城にいた誠仁(さねひと)親王関連が多く、それが最重要問題であったことを伺わせている。
そしてこの大政変にいたって信長への弔意、光秀への怒りを表していない。だから事前に察知していたのではないか。
また京都が大混乱の中「大さけ」を催している。(『日々記』)つまり信長の死を全く悼(いた)んでいない。
もう一つ光秀重臣・斎藤利三が戦後、引き回されるのを見て「かれなと信長打談合(だんごう)衆(しゅう)也(なり)」と記していることを指して、
本能寺の変からわずか半月後に光秀家中の謀議の場面を晴豊がこう書くのは不適当で、晴豊が計画を承知していたに違いない。 太政大臣・近衛前久
本能寺の変後、嵯峨(さが)に隠れた前久が討手に追われ、山崎の戦いの7日後になっても前久成敗が触れられ、
『日々記』にも「近衛殿今度非挙事外他」(近衛殿今度挙げないこと事の外だ。p.34参照)とあり、
晴豊は前久の関与を知っていた事を挙げている。また本能寺の変当日、光秀軍は二条城攻撃の際に近衛邸から攻撃をしたこと、(『信長公記(しんちょうこうき)』)
信長の甲州征伐に随行したが信長から罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせられた事(『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』)などを挙げている。
前久は信長から知行を与えられていたが厚遇されたからといって翻意を抱かないとは限らない。
足利義昭、荒木村重(あらきむらしげ)、明智光秀は厚遇されても謀反を起こした、という例を挙げている。 そして近衛前久について「疑惑は確定的」と論じている。 朝廷に謀殺された史上初のマヌケ信長確定じゃんwww 信長の譲位要求の脅迫では仙洞御所すら造ろうとしない悪魔のような所業だけど、
秀吉は家康と戦っている最中であっても、正親町天皇が譲位の思召を伝えると
すぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してるからなー。
譲位と新帝即位は天正14年(文禄元年)
正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく、
秀吉は母を10/18に三河岡崎に送り、11/1に家康がやっと上洛してきて、
秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に正三位に任じてもらい、7日に譲位と新帝即位式典と間に合わせた。
家康がグダグダ言ってたから母を送ってまで、後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉はやはり凄いよ。
11日、秀吉は大友支援で筑前に入った黒田や小早川と吉川の陣に検使として森吉成を派遣、
12日には前日に岡崎に着いた家康が早速、井伊直政を護衛に秀吉の母を大坂に送ってる。
新天皇の威令を広める為に自分の母を公を優先し人質に出す秀吉の忠勤の姿勢は素晴らしい一方、
私を優先するヘタレびびり家康の天皇への不忠っぷりは非難されるべき。 仙洞御所を作ると正親町上皇による影響力が生まれるから、
信長が好きなように壟断できないからね。
仙洞御所を作り、諡を贈り先皇の徳を讃えるなんて
信長がやるはずがない。
諡のない無号の乱逆無道の極悪正親町を糺した信長公としたかったのだろう。
だから勧修寺や近衛は朝廷破滅の危機を感じたのだろうね。 蘇我氏から朝廷を救った→藤原姓
織田氏から朝廷を救った→豊臣姓
w 武田信玄を官軍に任命した天皇に怒り、
京洛で大虐殺と大略奪をした信長。
もう両者はどちらかが潰れるまで気分はすっきりしないだろうね。 >>93
>京洛で大虐殺と大略奪
明智光秀「私もやりました、なのに上京軍団からは足止め食らいました」 もしもの時に天皇が避難できるように
兼見が自分の吉田山に避難所を作らせてと信長に申し出たら、
柴田に「そこは避難所を作れるような場所じゃない」と言わせて拒絶した信長
あからさまに天皇が避難する場所を作らせないように囲い、
いつでも殺せるようにしていたために、天皇は恐れていた。 歴史っていうのはそれを語る人の性格がもろに出る。
なにかと物事を悪い方に考えがちな人
信長はあからさまに天皇が避難する場所を作らせないようにした。
なにかといい方に考えがちな人
吉田山は本気で不適切な場所だったので、天皇の安全を心配した信長は兼見に拒否返答。 兼見に許可を出さないばかりか
代わりの地を与えたり、
候補地探しすらしない時点でお察し。 だって自分こそが内裏そのものだから、
天皇に会う価値は全くないって宣教師に宣言してるんだから
信長は天皇否定and朝廷解体をめざしていたでしょ。
志賀の陣や石山本願寺との和睦など戦局劣勢の時に
天皇と朝廷にすがるために存続させてきただけで。 信長の嘘にあっさり騙される純朴な人々w
政治家というのは嘘つくものなんです 石山本願寺を隠れ蓑のように矢面に立たせてるけど、
実際の黒幕は紀伊惣国一揆だからね。
だから血判状を差し出し屈服した信長は傍観している目の前で、
反織田軍事組織が安全に高野山戦線に移転していっただけ。
信長は憎き惣国一揆軍事組織にバカにされながらも、
指を加えて眺めているしか無かった。
信長はそうとう悔しかっただろうね。
結局、高野山戦線で信長は苦戦しまくった挙句に謀反で死んだ。
比叡山延暦寺を弾圧した足利義教が謀反で殺された同様の犬死だった。
そして信長が死ぬや早くも比叡山延暦寺の本格再建と、
本願寺の復権が天皇により発令されて、
畿内は急速に民心安定に向かった。 >>102結局、本願寺も比叡山も武装解除されちまうんだから
同じやん
しかも信長の後継いだ 秀吉家康の統制下に入って国政に関与出来なかったし
足利義教の話が出たが当時の宗教界が
義教と比叡山のどっちについたか考えたら比叡山の勝ちには程遠いよ 【根切り】信長と一向一揆【虐殺】
57 :人間七七四年[]:2013/12/25(水) 09:22:36.17 ID:rsfdII22
実は顕如をぶっ殺そうとしていたら本能寺の変で信長アボンしてるしなw
信長は本願寺との和睦は計略であり、
殺したかったが時を得ず堪忍してきただけで、
いまやっと思いのままらに滅ぼせる時節だと喜んで、
丹羽に本願寺の家の断絶を命令してる。
6/2早朝に堺を出陣し 鷺の森 へ向かい、
夜には包囲完了し、
本願寺も急いで防備を固めようとしたが急すぎて200人しか集まらず、
3日早朝には顕如も教如も死を覚悟した。
しかし信長と信忠が死んだことを知った丹羽は撤退して信孝と合流するも、
信孝を見限る兵が続出し、80騎しかいなくなり、
本願寺に治安維持に協力を願い出て土下座してんだよな。 そもそも、近衛前久が比叡山と組むとか あり得なくね
関連寺社が園城寺
吉田神社 日蓮宗と 比叡山の敵対組織ばっかなんだが
一時期は犬猿の仲の本願寺と取引してたし
むしろ信長共々 足利義教のシンパだろ
曾祖父同様 前久から信長への熱いレター
「君の死は、嘆いても名残の尽きない涙である、なおも慕われる亡き面影…」 小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし 敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている 秀吉は直接対決で135000対16000というハンデありまくりのヌルゲー合戦で
家康よりも遥かに弱い雑魚の信雄に10000人殺される大敗を喫したからな
信雄に大敗した後はビビリまくって、家康や信雄から逃げ回って木曽川筋の家康や信雄が出てこれない城をコソドロするのがやっとだったし
二重掘合戦では信雄1000に奇襲食らって、楽田から叩きだされる無能っぷり。
蟹江城、前田城、下市場城、長久保城、浜田城などを奪回されてるし 結局、信長は荘園不法占拠を繰り返した為に
真言宗と天台宗を敵に回した為に際限ない無限一揆謀反地獄の業火に身体を焼かれたんだよな。
しかし秀吉は金銀本位体制と石高制を作り上げ金融政策による社会安定と新体制を作る中世との決別と近世創業をやり遂げ、
その過程で重層的かつ複雑な荘園の権利体系を検地を通じて整理再構築し中間搾取層を排除して土地を百姓に与えて、
水利争いなどを解決し一揆や惣村対立を根絶したことで門徒一揆と惣村一揆の共闘根拠を失わせ、
検地による収入による土台を上に軍事革命を達成することで
位攻めと言う3万を超える一戦線大軍集中を行える兵站力を可能にして高野山攻めどころか朝鮮攻めまで可能な軍隊に昇華した。
しかし家康が秀吉のやり遂げた体制を改悪し劣化コピー体制に退化させた。
これは西国の志向である大船の艦隊を作って博多商人と協調し東アジア貿易で巨万の富を得るという志向が家康には理解できなかったのと
豊臣恩顧大名を西国に集中して左遷させて西国に興味を持たなかったことによる。
家康はあくまで関東の志向である蝦夷征伐と東国支配の志向のまま海禁政策という事実上の鎖国をしたことで理解できる。 P35.cgi (Perl,SJIS) 2015/11/18 FOX.
>&ft;1 元のスレ
../sengoku/dat/1381368686.dat
P35 吉田兼見・勧修寺晴豊・近衛前久・覚恕
422052 -> 53626 (バイト)
P35 テストに夢中。これ以降書いても消えちゃうかも
http://ninkyou.blogspot.jp/?m=1
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画像を御覧くださいませ!! 曼殊院覚恕法親王は元亀元年に天台座主にはなったが儀式費用が足らず
翌年5月に信玄に資金援助を要請している
結果元亀3年7月に曼殊院覚恕法親王の吹挙で権僧正に叙される
権僧正になったのが余程嬉しかったか信玄は身延山に延暦寺移転の計画立てたと >>120
名声上がるというか
実現したとして武田に悪い話じゃないしなあ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています