なぜ織田家はあっけなく滅びてしまったのか
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本能寺で信長親子が殺されると
織田家が皆好き勝手に行動し、二度と織田家として機能せず一気に瓦解する
畿内で勢力を広げた織田家がなぜここまで没落・実質滅亡してしまったか論じよう
・・・・というifスレ
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1331542607/73 キチガイ織田厨がまた妄想を垂れ流してるのかよw
根拠皆無の話をよくそんなに必死にレス出来るなw
かなりの粘着ストーカー気質を感じる。
これはもうふられた腹いせに、
脳内妄想被害者意識で怨嗟の手紙や留守電を入れる執拗な狂人レベルだな。 偏諱と通字が理解出来てなかったアホ無知織田チョン… 自分の敬愛する
武田信玄がまさか
側室と息子に裏切られてたなんて
言う事実を信じることができず
ついに妄想人格否定に走った
菅沼遼太君w
むしろ父親を追放して
嫡男を幽閉するような
非人道的な信玄に何を
期待していたのか
現代でいえば
年老いた父親を老人ホームにぶち込み
息子にネグレクトするような
代表的キチガイ毒親じゃんw
そんな父親を見た息子勝頼が
はたして父親を尊敬する
清廉な人間になるのかな?w 大体普通に考えればわかる話よな
武田勝頼が、なぜ頑なに武田家伝統の
通字である「信」の字を生涯
使わなかったかなんて
菅沼遼太みたいに
「勝頼は父親である信玄を敬愛していたはずだ」
なんて妄想や夢物語を抱いてる奴は
「信の通字が恐れ多かった」だの
「勝頼は正式な当主じゃなかった」だの
史料から大きく外れた妄想にズレていく羽目になる
最初から「勝頼は信玄や武田など糞くらえと思っていた」と
仮定すれば、勝頼が生涯信の通字を
名乗らなかったことも、武田家滅亡時の
武田一門(穴山、信廉など)のあまりに早い逃亡劇も
長篠以降の織田との融和路線も全て解決する。
だからこそニセ子孫の武田家旧温会や
信玄を敬愛する山梨県民などは
勝頼を「諏訪勝頼」だの「勝頼」だの言いたて
「武田信玄公」などと区別して
あくまで武田を滅ぼしたのは
もともと武田と縁がなかった諏訪勝頼だとして
なんとか信玄公を擁護する方向で見解を出してるし
まあその勝頼を当主に据えたのが
他ならぬ信玄だから擁護できてるかも怪しいがw 全く根拠を出さず、悪口中傷しか書いてない信長厨の悪辣さは偽計業務妨害で逮捕レベル おまえ偽計業務妨害の意味わかってないだろw
虚偽の風説を流布し、又は偽計を用いて、
人の業務を妨害すること、これが偽計業務妨害だw
諏訪勝頼が、実は父親である武田信玄を
くそくらえだと思ってました、なんて
どこの誰が困るんだ
むしろ、信虎や義信に嫌われ
いざこざ起こしててるんだから
当然の成り行きじゃないかw
あ、菅沼遼太君って敬愛する
武田信玄をマンセーするのが仕事なんか?w はーそれにしても怖いなw
W'`´‘`´‘火ソ
.ノ..____ l
l | ⌒ ⌒ | ミ 信長厨は信玄の悪口を書いた
ヾ.ノ-■--■-|ミ 偽計業務妨害で逮捕する
l,l ∪ l,l
∧、 ヽ ー― /
/⌒ヽ\ /ヽ___/\
|( ● )| iノ ̄:::::::ヽ></::::::::: ̄へ\
\_ノ ^i:::::::::::::: く H Y:::::::::::::::::そ |
|_|,-''iつ::::::::::::: ヽ | | / :::::::::::::::::::《l
[__|_|/〉:::::::::::::::::::::V V::::::::::::::::::::::::|
[ニニ〉::::::::::::::::::::::::ヽ/:::::::::::::::::::::::::::|
ププw >>269
というと勝千代の勝を使わなかった子は親父を敬遠してたのか
ナルホド、七人のうち勝を使ってないのは・・・ 六人!
どんだけ嫌われてんだよ・・・信玄 そもそも信玄が勝千代なんて
幼名をつけられていた根拠が
甲陽軍鑑の後付にしかないからな
武田家では基本、太郎義信、
四郎勝頼、次郎信繁のように
○○郎や○郎が基本だし
ましてや信玄は嫡男。
同時代の一次史料でも
信玄は基本太郎と言われている
軍艦では勝千代と言われる人間が
もう1人登場していて
信玄の外孫で穴山信君の息子である
穴山勝千代がいるのだが
こいつの存在を利用して
「勝頼の勝は信玄幼名から取った」
というアリバイ作りのために
甲陽軍鑑が捏造したとしか思えん
一次史料に皆目ない勝千代を
そうまでして捏造したってことは
やっぱり信玄−勝頼の関係の薄さは
武田家中の人間もわかってたんだろうな これはこれは偽計業務妨害の意味を
完璧に間違えて過去にも
鷲と鷺の区別がつかなかった
朝鮮右翼疑惑のある
菅沼遼太さんじゃないですかw
で、信玄を敬愛していたという
史料か何か見えましたか?w まあ菅沼遼太君が否定できないのも
無理はないでしょうなぁw
なんせ勝頼は信玄の四男で側室腹
常識的に考えりゃ、本来武田家を
継ぐような人間じゃないし、
他家を牛耳って武田に尽くして
くれれば御の字の存在
だから一次史料には勝頼の
幼年時代が全くと言っていいほど
書かれておらず、母親の諏訪氏に
至っては死んだ年すらわからない
義信をはじめ多くの子供を産んだ
正室の三条夫人と比べても
あまりにも惨め不憫な扱いだよなぁ
社会背景や勝頼の地位を考えれば
信玄は勝頼の元服までまともな
対面をしたかどうかすら怪しいし
義信が信玄に理不尽な目にあわされるまでは
勝頼にとって武田家当主なんて
雲上の地位だったんだから
母方の諏訪家に帰属意識が
強かったのは至極当然のことだろう
そう育てられてきたわけだしな 幼少期は諏訪家惣領、長じては伊那郡代で、自身当主になることを想像もしないまま成長したとしか思えん
上野での戦いっぷりも総大将としてではなく、武田家譜代の武将と競争してのことと思われ いつの間にか、ただの罵詈雑言の落書きレベルの書きこみだけになってるな… 菅沼遼太の否定ぶりがどんどん落ち込んでるのが笑えるw
>>290
義信が嫡男のまま生存していたら
武田家中の序列もしれてるからね
信親、信之も健在だったとすると
せいぜい義信、信親、信之、信豊(信繁嫡男)、信廉
よくてこの次くらいだろう わざわざ毎度IDを変えて
それで単発自演がバレてないとでも
思っているのかな菅沼遼太君
ところで勝頼が信玄を敬愛していた
ことを証明する史料はまだかな?w 途中までみんな忠実で、武田滅ぼした当たりで
織田信行、足利義昭、浅井長政、佐久間盛政、林貞勝、松永久秀、荒木村重、高山右近、中川清秀、明智光秀
こいつら全員が一斉に裏切ったらどうなってたかな? 根拠ゼロの話では妄想が根拠なので、
織田チョンは元気だなwww
悪口中傷繰り返しリピートwww
ところで北畠信雄の息子が織田を称していたとする一次史料はまだなのか?
静観してずっと待ってるんだけどな。
やっぱり織田なんて称して無いんだよ。 あららガチで織田厨は偏諱と通字が理解出来てないのなワロタw
>>261
高天神で小笠原、沼田城では用土新左衛門に藤田信吉の名前を名乗らせるなど、
信の字は重要拠点奪取という局面でのみ与えられるもんだな。
つか勝頼の名前に信が無いから正当じゃないとかお門違いな批判をしているようだが、
わざわざ名前を改める必要性がない上に、
勝頼は信玄と同化してるように振舞ってるから、
勝頼は天正8年8/24に始めて印文を勝頼とした朱印を使い始めるまでは、
信玄の形見の晴信朱印を愛用して、自身を信玄と同一視していたんだし、
家臣もそれに違和感を感じてないし。
天正8年に入り我が子信勝の元服が行われているので、
思い切って勝頼朱印を作って信玄離れをしたのだろう。 >>302
織田厨得意の鸚鵡返しで逃げまわってるだけじゃんw
つまり織田を名乗っていた史料が一切ないと言う結論が出たと言うことを意味している。
はい終了。 勝頼が小笠原や藤田に信の字を与えたことを
できる限り矮小隠蔽しようとする
涙ぐましい努力にわろたw
そもそも信玄以前はそんな有力家臣にすら
「信」の通字が与えられず
武田宗家と親族縁戚にしか「信」の通字が
適応されない、門外不出の伝統があったにも
関わらず、全く血縁のない人間に与えたこと
そのものが既に武田のタブーを起こしているのも
理解できないとかw
しかも「名前を改める必要がない」などと
寝言を言ってるが、勝頼の「頼」は諏訪家の
通字なんだから改める必要がないなどと
言うのは伝統を介さない馬鹿の言うことw
先祖伝来の通字を使わないだけでなく、
よその家の通字を私情だけで使うなんて
当主にしてはあるまじき振る舞いだし
それだけで武田を軽んじているのは
誰が見ても明らか。
晴信朱印を使っていたとか
話にもならん根拠だしそもそも
信玄の死没年は当時の武田家では
天正4年のこととされているし
しかも天正3年には勝頼独自の
獅子朱印がさっそく使われ始め
既に信玄が死んで間もないまま
脱信玄路線が築かれている有様w >>302
彼の理論を使うと
織田高長の存在が
全く意味不明になるからね
信雄が北畠姓を通し、
彼の子供である秀雄や信良も
北畠姓を使い続けたというのが
彼の主張だけど、高長は父親も
母親も北畠の血筋を引き継いでいない
つまり高長が北畠姓を名乗る必要は
何一つないわけだね。
そして小幡系の信昌の早逝で織田宗家は
この高長の家系のみが生き残るのだから
北畠の血筋なんて全く入らなくなる。
ちなみに細川家記によると
「信友ハ織田信雄の二男也、豊前ニ御呼被成、
藪内匠か壻ニ被成、妙庵主御卒去後竜王城
御預被置候処、今度御立退、無程公儀ニ被召出、
織田出雲守(一ニ出羽守)高長と改、
従四位下侍従ニ叙任、弐万石被下候」とあるから
織田高長は当初長岡姓を称していたんだろうね
しかし長岡との血縁はないんだよなぁ・・・ そもそも織田信雄が北畠家に気持ちがあったら具教は死んでないし信雄なんて名乗りは使わないだろ >>307
それはどうだろう?
北畠時代は信雄を名乗ってないんじゃなかったか? 北畠時代は信意じゃないかな、あまり変わらないね
具豊って名乗ってた時期もあったけど改名した時点で 高長は信の通字をわざと捨てた男だしなー。
よっぽど織田を恨んでいたんだろうね。
高長の母は一次史料で誰だか証明できないから、
北畠や木造と関係あったとしてもおかしくないし、
そもそも細川からの養子って説もあるからなー。
ちなみに細川家記なんて明智軍記の内容をパクってたりとクソ本だからまったく役に立たないから。 織田の場合は武田と違って
「信」が通字として使われたのは
かなり後だしなぁ。
信長以前の織田一族には
「信」の字を使っていない人間も
多いし、庶子や一門にすら「信」を与えて
「信」を伝統的通字としていた武田と違って
織田家の場合は「長」の字や「秀」の字も
多くみられるからなぁ
高長系が「信」の通字を使い始めるのは
高長の実兄である信良の家系が
断絶し始めてからだし
織田長益などのように本家の人間に遠慮して
「信」の通字を使うことはせず
代わりに信長の「長」を使うことで
織田一門として一段下がった地位を
維持していたんだろうな。
信良系の後継者に高長四男の信久が
入ってからは、高長系は「信」の通字と
「長」の通字を子孫で使いまわしてるから
むしろ信長を尊敬しすぎて
若干気持ち悪いレベルにすら
達しているともいえるが
まあ晴信だの信虎だの
先祖の名前を全く使わずに
逆によその家の通字をありがたがるような
勝頼みたいな人間が当主になるよりはマシだろうなw 母親が一次史料で全く証明できないとか
高長の母親はよほど身分が
低かったんだろうな
信雄正室の北畠氏や
継室の木造氏なら
こんなことは絶対にありえないし
傍目には誰が母親かわからなかったんだろうな
まあ諏訪勝頼のように
下手に高貴な血を引く人間を
側室に無理やりさせて
その側室に子供をマインドコントロールされても
困るし、諏訪氏が管轄する諏訪社を持ち上げすぎて
本来別家であるはずの諏訪が本家を乗っ取るなんて
ことにされてもなぁ
穴山や信廉がどれだけ苦心したかも
わかるってもんだね 信友の名前を捨てた高長は織田家じゃないから信を捨てたんだろ。
織田良信、信定、信秀、信長、信忠•信雄•信孝と続いているのに、
わざわざ信の字をみずから捨てるなんて、
普通は考えられないよな。
俺は細川じゃなく前田の子だと思う。
まつは子をかなり生んでるからね。 織田家じゃないから信を捨てたねぇw
織田長益や織田長利や織田良信以前の
織田家当主は織田家の人間ではないと、
これまた朝鮮疑惑の菅沼遼太君に
恒例の珍妙奇天烈な説だねぇw
武田のように庶子や一門傍流にすら
「信」の通字を与えまくる家なら
まあ筋が通りそうなもんだがねぇw
しかも高長は「信」の字を遠慮はしても
「長」の字は名乗りに使っていて
両親を考えるとこの「長」は信長以外
ありえないんだよねぇw
さらに言うに事欠いて前田の子供ねぇw
高長の生年は1590年のはずだが
なぜ西軍についたわけでもないのに
前田家の家督を継げなかったんだろうねぇw
本当に諏訪勝頼が信玄のアホさに
つけこんで家を乗っ取ったことを
誤魔化すために
織田信雄も織田高長も
ウジテレビの妄想番組レベルで
素性を菅沼遼太に書き換えられてて
まるで文禄慶長の役を
Wikipediaで必死に工作して
朝鮮の勝利ニダとねつ造する
朝鮮人そっくりで失笑だよw しかし皮肉だねぇ
織田家や上杉家など
よその家と比べれば
比べるほど、諏訪勝頼の
先祖不孝っぷりが浮き彫りになるもんなぁ
信玄の遺体を何年も放置したり
庶子ですら与えられる武田家伝統の
通字である「信」よりも
滅んで傘下に入った諏訪家伝統の
通字である「頼」を好み
しかも武田一門門外不出だった
「信」の通字を血縁のない家臣に
ポンと与えてやったり
自分の名前を息子にあげたりと
武田のタブーを悉く破ってるよなぁ
仮にも武田宗家の当主が
伝統を無視しまくってたら
別家の人間は心底穏やかじゃないよなぁ
まあ勝頼の場合はそもそも
痴呆信玄が息子を幽閉廃嫡しなけりゃ
武田宗家なんて縁のない存在だったし
全ての原因は痴呆老害の信玄にあるんだよなぁ
と言っても信玄も父親を追放したり
暴虐の限りを尽くしてるから
この親にしてこの子ありなんだろうなw 菅沼遼太理論だと滅んだことになってるらしいよw
織田信包や織田長益とかは関係ないらしいよw そもそも織田良信以前の当主なんて名前すらわからねーのも知らんとかwww織田厨は無知だなw つまり>>310の下りは
口からデマカセだったわけだ
武田の伝統を軽んじた
諏訪勝頼の擁護は大変だね 秀信で織田嫡子家が滅亡したからね。
信を捨てて長を使うのは、
織田本家がすでに滅亡していることを示している。
織田家はすでに滅亡しているということ。 嫡男は本来前当主の公認が必要なのに
信忠が不意に死んだから
秀信はそもそも嫡子ですらないよなぁ
しかも嫡流が死んだから=滅亡なんて
朝鮮人理論は初耳なんだがソースは
どこなのかなぁ、妄想?w
それなら武田家は義信と信玄が死んだ時点で
武田家は滅亡なんだから
勝頼が乗っ取ったというのが
厳然たる事実になるよなw
やっぱり勝頼は体裁上でも
内面上でも痴呆信玄から
武田家を乗っ取った
極悪人ということだね
しかも先祖子孫が仲良く
弔われてる織田家と違って
武田の連中は皆別々w
死後までも仲良くできない家とはいったいw えっ?ふつうどんな本でも小田原陣で北条滅亡って書いてるよな。
まさか狭山北条陣屋があるから、
北条滅亡していなかったなんて書いてる本は見たことない。
織田も滅亡してんだよ。
信長は天下統一寸前とか、
足利幕府を滅ぼしたとかアホなことばかり主張するのが織田朝鮮人。
そもそも天下統一どころか畿内すら統一出来ずに死んだし、
足利幕府を滅ぼしたのは秀吉。 でさ、武田の伝統とやらのソースを教えてくれないか?
そんな馬鹿な伝統は一切聞いたことないんだが? 小田原北条が滅亡したのは
五代氏直が死んだ後で
北条家一門の誰1人大名家を
維持できなかった状態が
あったから滅亡認定されてるだけじゃん
これは武田が勝頼死後も子孫が
江戸時代まで続いたにも関わらず
誰1人大名になれなかったから
天目山で滅亡したと書かれているのと同じ
織田は小幡、宇陀、柏原、野村、戒重、柳本と
6つも大名勢力があるんだから
「滅亡しました」なんて書けるわけがない
別に跡取りなんて息子じゃなくて弟でもいいし
そんなのは徳川幕府ですらやってること
しかも天下統一とか話にならん
「天下」=日本本土の概念が確立されたのは
徳川幕府の時代からだし
かの源頼朝が幕府を開いたときに「天下」と言う
呼称を使っているがこの時点では
まだ畿内はおろか京すら満足に支配できていないレベル
時代の流れとともに天下の領域も
変わってるんだから徳川幕府の概念を
そのまま持ってくるあたりが
菅沼遼太の馬鹿さ加減を反映している >>323
はぁ?w
武田の当主がほぼ全て
「信○」の形を名乗っているのが
武田の伝統ではないとか
馬鹿すぎて日本人かどうか
疑われるレベルだろw
明らかに初代の武田太郎信義の
風を受け継いでるし、それが
何代も続いて通字とされてるんじゃん
しかも武田の場合は庶流や一族にも
「信○」の人間が多く
通字とはいえここまで
子孫が共通させるのは
むしろ他の大名家ではあまり見られない
レベルで珍しいくらい
武田家全体で伝統を固く守ってるじゃん
それをポシャったのが諏訪勝頼であり
武田一門を不遇においやった痴呆信玄じゃんw 織田家の詰みは信長が各地で虐殺を繰り返しまくった頃だと思う
あれで一気に人望がうしなわれた 相模本領を失った時点で北条滅亡。
岐阜を失った時点で織田滅亡。
織田に復姓した信孝が自刃して織田は滅亡した。
支流が生き残っているくらいなら北条だって残ってるし。 >>324
つか菅沼遼太理論だと徳川幕府は4代家綱以降嫡流じゃないから
徳川幕府は4代将軍までで滅亡したってことかw 実際に嫡男だけが問題なく
家を継いでいる家系なんて
まず存在しない
そもそも徳川からして
嫡男は信康なんだから
4代どころか初代でもう
滅亡していることになるし
武田信玄も死後勝頼が継いでるから
武田家もこの時点で滅亡
もっと言えば天皇家すら
断絶の憂き目にあっている
まあ菅沼君は朝鮮右翼疑惑があるから
恐らく日本の人ではないのだろうが 家康は攻め殺されてないけど?
本領三河失ったってのは屈辱だろうけど、
加増転封だからね。 織田も別に攻め殺されてはいないが
そもそも復姓した信孝なんて
織田の家督をあわよくば
奪おうとした強奪者じゃん
そんなこと言い出したら
織田勘十郎が信長に殺された
時点で織田家は滅亡とかいう
わけのわからない理屈が成立するし
もっと言えば徳川家は
嫡男の徳川信康が攻め殺された時点で
滅亡したという理屈も通る
そして家康以降徳川嫡流は
存在しないんだから
菅沼の理屈では徳川は滅亡 北畠信雄に美濃の織田信孝は攻め殺され嫡流三法師は北畠信雄に廃され
織田家は滅亡してしまった。
義昭が京を追放された時点で足利幕府は滅亡と主張する癖に往生際が悪い織田在日。 勝手に他人の主張を変えるのは
頭の悪い証拠だな
信長が滅ぼしたのは
室町幕府であって
足利幕府ではない
これは日本の教科書なら
どこにでも記載があり
なぜなら鞆幕府は
室町にはないから当然のこと
そしてこれまた当然のことだが
本家を継ぐのは嫡流だけという
仕組みは日本には一切なく
嫡流だけで家を存続させたケースもまたない
嫡男ではなく次男三男や弟が
家を継ぐケースは天皇家に始まり
枚挙に暇がなく
織田家も例に漏れず
織田信雄や織田信包や織田長益が
存続させている
ただし内実では元の家の先祖を
敬わなかったり、菩提を
まともに弔わなかったりするなど
先祖を人とも思わぬ所業を行い
半ば乗っ取りと言われるケースもあり
その例では信の通字を無視して
諏訪家伝来の通字を用いるなど
家の伝統を打破しまくった
諏訪勝頼などが該当する そもそも諏訪勝頼と織田信雄を
同一視するなど朝鮮人レベルのいちゃもん
諏訪勝頼は信玄の死後遺体を
3年間も土屋邸で放置し続けるなど
とても実父を思っていたとは思えない所業をはじめ
本当に武田の実子であるか怪しいくらいの
脱武田路線を掲げていて、甲陽軍鑑が
信玄の幼名や勝頼の出生まで一次史料にはない
話を捏造しなければならないほど
信玄ひいては武田との関係が
希薄であったのに対し
織田信雄は信長の「信」の字を
しっかり受け継ぎ、
実兄の信忠の菩提まで弔っている
さらには養父を幽閉して養祖父を暗殺してまで
北畠家のお家乗っ取りに貢献している
未練がましく諏訪の家を
存続させた勝頼とは雲泥の差である
やはり心は諏訪にありだったから
諏訪社を崇拝したり諏訪家を存続させたり
あの手この手で諏訪を優遇したのだろう
実際、甲州崩れ当時に諏訪家は
勝頼の数少ない味方として善戦している 実兄の信忠の菩提まで弔っているって?
一次史料頼む。
つか北畠信雄は木造系北畠氏の傀儡政権だから、
北畠を滅ぼして木造の下剋上が成功しただけでしょ。 はぁ?w
信長の野望のやりすぎて
知恵おくれでもしてるんじゃねーの?w
木造氏は信雄体制下ですら
ほとんど重用されておらず
信雄が軍事行動する時も
内政関与する時も
全く名前が記載されておらず
事実織田信雄による
北畠具教殺害の際に
協力者として名前がないなど
明らかに北畠具教の弟として
織田信長や織田信雄から
警戒されまくっているのが
明白なくらいだし
そんな人間が
信雄を当主と思わない傀儡政権など
打ち立てればすぐにぶっ殺されるのがオチw 確かに信長の野望では
信雄の家臣は北畠旧臣しかいないもんな
そして諏訪勝頼はさも当然のごとく
信玄の後継者として
登場するからまさか勝頼が
信玄と関係性が希薄であるという
史実を見ずに突拍子もない
主張をしてしまうんだろうな
まあ中華ツールのある
信長の野望くらいしか
朝鮮人には理解できないのかもしれん 秀吉が北畠信雄を改易したら、
木造らは新しく秀信を傀儡にしてるよな〜。
実権所持する木造らにとっては神輿は誰でも良かった。 傀儡にするどころか
命乞い同然のタダ働きで
全く重用されていないのが現実なんだよな〜w
そもそも織田秀信の領地は
豊臣秀勝の遺領を引き継ぐ形で
相続されているから
家臣も豊臣秀勝や旧美濃領主の
織田信孝の旧臣ばかりで
信雄旧臣なんて末端もいいとこなんだよな
しかも秀信が美濃領主になってから
信雄長男の秀雄が復活しているのに
木造氏は招聘すらされないという
避けられっぷりだしw 当時の当主は北畠具房(具教の嫡男)であり
まず北畠具教と木造具政(晴具三男・具教の弟)の内訌において
木造が織田の力を借りて内訌を有利に運ぼうとしたことが挙げられる。
北畠に苦戦した織田は義昭の和睦調停において茶筅を人質に出して安全撤退した。
(北畠は人質を出してない)その時に茶筅の安全を守るため織田家から津田一安が付けられ、
木造からは滝川雄利(木造一族)と拓植三郎左衛門(木造重臣)が警護に付けられた。
さて成長し茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
そして具教や具房の奉公人である山室氏(9/16・10/13・10/14・10/16・10/29)や
鳥屋尾氏(10/13・10/16・10/19・10/晦)によって大湊への軍事動員書状が発給されてる。
9/20頃に伊豆の敵船が大湊入り津田一安が現地入りして糾明に乗り出し大湊諸衆と交渉してる。
しかし大湊の船主たちが軍事動員に反対して拒絶している姿が山室氏の書状で判明する(太田家古文書)
つまり大湊の船主の総意は織田に従いたくないという大前提が見て取れる。
また天正元年11月15日に山田三方中と北監物に信雄は文書発給しており
大意としては両御所様御同前に北監物(伊勢大神宮御師)の息子の
福島左京亮(皇大神宮御師)の跡職相続を認めたもの。
これも9/16・9/22・10/22に山室氏から奉書が発給済みのもの。
天正元年の信雄の具豊名での発給文書はこの3通のみ。
このように信玄が死去し義昭が追放された後になってやっと信雄の発言力が多少向上してるに過ぎない。
ここに至っても伊勢水軍が織田に服属してないのが理解できる。 つまり天正2年はまったく書状を発給していない。
よって7月の伊勢長島一揆討伐の軍事動員も具房らが主導していると見てよい。
ではなぜ天正3年から発給が開始されるのか?そして「具」ではなく「信」が使用されるのか。
それは多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
信雄は天正2年はまったく書状を発給していないことに着目し
信雄が織田家に突っ返されてしまったとする考え方もある。そして天正3年6月に再度、伊勢入部したとする。
その後、8月の越前一向宗殲滅戦には信雄はなぜか大和衆を率いる塙を部下としているように見え
(塙の大和支配もあくまで信雄の配下としての行動に過ぎないのではないか)
滝川一益や津田一安は信長の命に従っているように見え、信雄とは別系統とも思える。
伊勢衆は信雄の統制下にはまったく置かれてない独自行動してるのがわかる。
北畠は結局、兄弟内訌で滅んだだけだしね。
木造具政は織田を利用して兄の北畠具教を滅ぼして戸木御所を自称してた張本人で
信雄を傀儡擁立にした木造家本家を継いだ首脳人物だからね。外様なわけが無い。
(息子は木造長政・具康・長正・長忠など別名多数)
吉村は単に史料が大量に遺されていただけの話で、
しかもその内容は家康や信雄から「前線の様子の報告ありがとう」な内容の書状ばっかりで
正直、内容も書かれてないので役に立たない書状ばっか。これで首脳とかありえないから。 気に入らない情報があると見るや妄想コピペに走り
知識は信長の野望程度しかない菅沼遼太であった デブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ね
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デブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ねデブ豚死ね 内乱で自滅寸前の上杉相手に大苦戦
これが織田が滅んだ真の原因 天下統一後なら1つの家が暴れて天下人を殺しても
赤松みたいに討伐されて適当な後継者を選んで収まるだろうけど
天下統一途上で皆、功名心が強くて何人もの家臣が
数万もの兵権を持ってたのも災いしたのかも。
とりあえず明智・羽柴・柴田の3者、誰が勝者でも織田家自体は衰退。
明智:謀反の張本人。まあ、娘婿くらいは生かしたかも。
羽柴:歴史通り。
柴田:かつてのマスコットだった信勝を信孝に置き換えただけ。
徳川・滝川・丹羽らが変後の勝者であったらどうかな...。 徳川:助勢を装い織田領になだれ込む
滝川:上野・信濃・甲斐・木曽ぐらいもらって関東平定にまい進する
丹羽:信孝を立派な主君に据えて、自身も権力をふるう 織田信塚さんは大坂の陣で大将に抜擢されたのに
逃亡してしまったからな。 清洲会議での分配で織田の領土が激減しちゃったのが痛いな カリスマ経営で指導者あぼーん
強引な経営手腕で他所から嫌われ、秀吉と講和したら家康に
愛想疲れた。 織田は、そこそこ生き残った方でしょう。江戸時代まで
当初は石高こそ少ないものの国主扱いだったわけだし、 信雄がうまく立ち回れば大老になって太閤の死を迎えられたと思うけどな
秀信の関ヶ原もそうだけど当主の判断ミス 群馬の小幡に織田家累代の墓があるけど織田家は完全放置。
自治会の人達が好意で掃除したり管理している。
墓石を見つめていると諸行無常の響きありって平家物語のフレーズが思い出される。
https://www.youtube.com/watch?v=3YnDHYCqelU&index=3&list=PL8798991C7C4BB834 むちゃくちゃマジレスすると、織田家は元神官家だからじゃないの?
神官(公家も含む)ってのは昔、死を穢れと考えて親の葬式もおざなり墓参りもおざなりだったらしいじゃん。
べつに親不孝ってわけじゃないんだけど、かつての習慣が今も抜けきれず放置状態とか。 村井や菅谷が生き残っていればね。
二条城で信忠と一緒に信忠の奉行衆まで全滅したのが痛かった。
信忠の奉行衆が生き残っていたら清州会議の結果もかなり違ったんじゃないかな。 難しいところだなあ…。
信忠配下には美濃衆が多くいたから同じ美濃つながりの利三と
土岐説とれば明智絡みで因縁つけられて凶に出たとも限らない。
あとは池田と丹羽だが池田は金や領地以前に由之の絡みもあるから
史実どおり秀吉に付かざるを得ないだろうが。 >池田は金や領地以前に由之の絡みもあるから
>史実どおり秀吉に付かざるを得ないだろうが
金や領地につられた説より時期的に由之関係の方が説得力あるなあ まあ織田家は高長の次男が信良の息子の後を継いだからこれが嫡流みたいだね。武田家は信玄次女と柳沢吉保によるところが大きいけど、
信玄の子孫が絶えたから遠縁である吉保の曾孫を養子にして継がせたのは事実。信義の子孫であることは変わりないんだそうな。
勿論吉保がワンマンになったから土屋や真田も口出しできなかったし、武田家を厚遇出来たのだが。
宇喜多家は明治維新まで血統は続いたため、阿部信行などと同様に前田藩士として扱われるようになった。
ちなみに相馬家こそが実は両上杉の血統なんだよな。これに対し佐竹は両上杉とは別の血統になりつつある。
>>151-163たけど皇室は中韓と同じ血縁重視主義状態だぞ。公家もこれに近くて、南北朝時に断絶した家を江戸期に再興したりしている。 冷静じゃなかったのはわかるが、信忠も可能なら切腹とかしないで信雄と一緒に家康や勝家と共闘して家を守る選択肢あっただろうに
そうしたら秀吉に織田を乗っ取られる屈辱はなかった >>364
まさか有楽や玄以らがあっさり逃亡できるとは思わなかったのだろうさ
あの時点で正しい状況判断ができるようならそもそも明智が来る前に逃げてる 「織田の五郎左?(有楽)がお腹召せ召せ申されて」なんて唄も残ってるらしいから、
有楽叔父さん、大事な甥っ子に殉死を勧めちゃったんじゃないの?
で、叔父さん殉死の光景目の当たりにしビビって逃亡 詐欺師光秀に騙されたから、これが一番大きな原因
本能寺の変さえなければ、天下は信長のもので
その下に家康や柴田や秀吉が仲良く存在していた >>366
信忠の切腹を実際に見てから逃げおおせたのならそれはそれで凄いぞw >>1
本能寺の変で、信長だけでなく
後継者の信忠までもが、一緒に殺されてしまったからな。
秀信は、まだ小さいし、これではどうしようもない。 織田政権においては官僚組織が微妙だったのが崩壊の最大の原因だろうね
豊臣政権は織田政権よりも官僚組織を構築してたがそれが上手く機能しなかった
徳川幕府の長期の統治は官僚組織の重厚さが最大の要因でしょうねぇ
鎌倉幕府も官僚組織が構築されていたので
北条家による執権政治もそこそこ上手く機能しましたね
室町幕府も官僚組織が構築されていたけど三管四職の身内での争いで機能マヒに陥りましたわな
アレクサンドロス大王の死後ディアドコイ戦争になるのも
拡大路線に官僚組織の充実が追いつかなかったのが要因ですわな 本能寺の変431年目の真実
というヒット作の本によると、家康の優秀さや将来性について
危険視した信長が、家康を本能寺で暗殺する計画を立てた。明智が実行犯を命じられて、
光秀は反論したが、信長に足蹴りされる。
光秀は、軍勢を率いて本能寺に向かい、家来たちには「家康を討つ」と説明していたが、
じつはこっそり家康に内通していて、光秀は信長を討ち取ってしまう。
家康は、信長に裏切られて腹を立てており、本能寺の変の直後に、甲州や信濃に出兵して
織田家の領土を分捕りしはじめた。だから、本能寺の変直後から、織田家はあっけなく衰弱してしまう。
秀吉に至っては、光秀を討って、惟任退治記という本を緊急出版して宣伝に努めたのだが、
その本の中で、「信長は本能寺の中で美女どもを多数集めて淫楽にふけっていた。だから滅んだのだ」
と、悪口言い放題(美女集めて淫乱は秀吉自身だろうが、というツッコミはなし)。
秀吉は、信長のことをじつは嫌っており、その本の中では信長のことを全然敬ってない。秀吉も
織田家の土地を分捕りに熱心。比較的、律儀なのは柴田ぐらいかな。 >>371
家康による組織作りは上手いよね。
豊臣政権だと、秀長は過労で鬱病になるし、利休は処刑とか、学級委員タイプの石田三成は
不良武将どもにリンチに遭いそうになる有様。 >>369
そもそも秀信は側室腹だから認知されてたかどうかも怪しいな
親父の信忠みたいに正室の嫡男が生まれず、消去法後継者にはなれるかもしれないが
当時2歳とかじゃ織田家での認知度なんてお察しだし
まあなんだかんだ豊臣みたいな末路辿らなかっただけマシなんじゃね? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています