【名城】篭城戦ランキング【発掘】
>>57
昭和50年代の集英社の漫画版日本の歴史戦国時代編の北条早雲の所で
油壺の攻城戦結構触れられていたな、デマと使って領内から盲人追い出して、スパイさせて
三浦氏の内情探らせたとか >>58
そう言えば、歴史の漫画あったね。
憶えているのは、川中島の合戦。
主人公かニンジャかなんかで、信長?の命令で川中島の合戦を見に行くヤツで、
信繁が討ち死にした時に、河原の石を積んで墓標作って手を合わせてたっけ。
今思えば、合戦中に墓作るってのは、とっても変だなw
当時の三浦氏は、同寸が住んでいた岡崎(平塚市)が本拠地で、早雲に強襲
されて、最終的に子の義意がいる新井城に落ちてきたから、城には動員でき
る数よりかなり少なかったと思う。
それもあって、対上杉に重点をおき、新井城はただ囲んで自滅を待っていた
のかもしれない。
魚津城攻防戦
上杉方の最後は今でも語り継がれている
本当にあと一日持ちこたえれば勝利できたという戦い 中の人の性能で急に別の城になっちゃうような堅さを発揮する沼田ww 九戸城の戦い
数日で終わったけど、6万相手に数千で攻城側に
力攻めを諦めさせたのは評価されてもいいと思う。 籠城戦の守備側はどういったものを食料にするのですか?
牛馬、犬猫、鼠などの動物を食料にした記録はありますか?
昆虫、魚類、鳥類を食料にした記録はありますか? 三木城
城内の者は飢えをしのぐ為に、牛や馬も食べ尽くし、草や木の根、木の皮を囓った。
それもなくなると、虫や蛇、鼠を捕らえて食べ、果てには壁土の中の藁まで口にしたと言う。 籠城戦の城内で牛を飼うのは、牛乳を得ることが目的ですか? 牛は、牛乳用ではなく、飢餓食料として、篭城要員に入れていたということですか?
牛を兵器に使うことはありますか? 主要な籠城戦
九州
門司城、佐嘉城、岩屋城、臼杵城、
四国
十河城、天霧城、
中国
郡山城、月山富田城、鳥取城、高松城、天神山城、
近畿
石山本願寺、信貴山城、野田・福島城、飯盛山城、高屋城、岸和田城、
大坂城、交野城、小谷城、
東海
大河内城、願成寺、長島城、蟹江城、長篠城、高天神城、掛川城、岩村城、岐阜城、
北陸
七尾城、戸石城、魚津城、新発田城、
信濃、飛騨
海津城、高遠城、上田城
関東
結城城、新井城、川越城、岩槻城、唐沢山城、箕輪城、沼田城、小田原城、関宿城、
韮山城、忍城、八王子城
東北
長谷堂城、九戸城 龍造寺五千、大友は八万で城を包囲し、大友の大将は全軍へ明朝総攻撃を下知したが
その前夜に龍造寺がその大将を討ち取り、龍造寺の大勝利となった。【佐嘉城合戦】 >>76
実際は隆信の弟の龍造寺信周を大友へ人質に出して和睦終戦してるし、
討たれた大友親貞が実在の人物なのかとか胡散臭い点が多いんだよな今山の戦い 佐嘉城攻防戦(元亀元年)
期間 4/10頃〜10/1
攻撃側兵数 約60,000〜80,000
守備側兵数 5,000
攻将 大友義鎮 東大手:戸次鑑連・臼杵鑑速他豊後衆 南船手:斉藤鎮実他筑後衆 西口:有馬・大村・松浦党他西肥前衆 北口:吉弘鑑理他筑前衆・肥後衆・東肥前衆
守将 龍造寺隆信 東大手:鍋島信房・同信生・小河信友 南船手:龍造寺長信・同信種 西口:龍造寺信周・同鑑兼 北口:龍造寺家就・納富信景・広橋一遊軒
毛利氏の撤退により後顧の憂いが無くなった大友義鎮は
前年に一旦は降伏へ追い込んだ龍造寺隆信が依然として周辺への攻撃を止めない為
九州北部五ヵ国に動員をかけて、龍造寺の本拠地佐嘉城周辺を佐嘉郡全域規模で包囲開始
大友軍は4月下旬には東大手方面、5月下旬には南船手方面、6月中旬に北口方面から大規模な攻勢をかけるも決め手に欠き進撃出来ず、散発的な戦闘では攻略不可能と判断したか
7/18には来援した肥後衆を含め四方からの総攻撃を計画、実行日は8/20と定める
龍造寺隆信は8/7東大手で起死回生を賭けた一斉突撃を敢行するも、戸次鑑連に阻まれ頓挫。城中に撤退する
8/16に北口へ豊後衆の増援到着、8/18,9に納富信景・広橋一遊軒が北口方面黒土原で増援部隊を攻撃
同8/19夜鍋島信生が北口方面今山を奇襲、同時に側面から小城郡千葉党の援軍を受け大友軍今山陣を包囲殲滅、肥後衆は降伏
この報を聞き西口の有馬勢他が陣払いし撤退、北口方面の東肥前衆も撤退し8/20の総攻撃計画がとん挫する
8/20鍋島信生・納富信景が大友方の小田鎮光の居城多久城攻略へ進発、8/21に攻撃を開始し一両日で陥落
その他有馬勢に奪われていた西部方面の拠点を幾つか奪還する
8/22大友義鎮は小城表(今山)の事で動揺しないようにと全軍へ通達
8/23龍造寺隆信・納富信景が東大手方面臼杵の陣を攻撃、鍋島信生・龍造寺家晴も背後から攻撃し、臼杵勢は東へ向かって後退開始
8/24大友義鎮は南船手の筑後衆へ(龍造寺の攻勢が強まったので)乗船を揃えて要所に物資を集積するよう命令
9月初頭、佐嘉郡を抜け神埼郡で戦線を立て直した豊後勢を再度龍造寺隆信が攻撃するも退かせるまでは至らず
9月中旬、戸次鑑連・臼杵鑑速両名が田尻鑑種を仲介して龍造寺隆信と交渉を開始
9月下旬、戸次鑑連・臼杵鑑速・吉岡長増の三名が田尻鑑種の下へ訪問、田尻鑑種が使者として佐嘉へ派遣され
三老が提案する停戦内容を通達し龍造寺隆信はそれを了承
10/1に吉岡長増が大友義鎮へ上記の旨報告し、10/3に大友義鎮は本陣を引き払い豊後勢も撤退する 十分活躍した方だと思うよ。
今浜は言われるほどの大勝ではなかったかも知れないが。
局地戦の勝利積み重ねて圧倒的大軍撤退させた龍造寺の粘りに驚嘆 防衛戦なのに城へ篭ろうとしないのは大将の性格の顕れか
孤立無援で篭城なんてしても意味がないという判断か 初端から籠ると大将の意気地を疑う奴もいるしな
出ばなで痛めつけてから籠れば意気も上がるし
尤も向こう見ずな性格とほぼ絶望的な状況が合わさると生への未練も捨てて
死んで名が残れば結構と突貫する様な例もけっこうあるけど 籠城中の城に火矢を射ち込んで、城を燃やす戦術は有効ですか 小さい平城なら有効だよ
でもハゲ山の山城とか、堀のある大きな城とか余り有効じゃない
有効にするには膨大な量の火矢を一点に集中させるとか
射ちつつ梯子かけて兵を突入させなきゃならない たしかに
火矢で城を丸ごと焼き落とすなんてのはまずないんじゃないだろうか
火力が追いつかないし
ただ井桜を組んで城門を火矢と大鉄砲で破壊するなんて事はよくある
城門よりも高い井桜を組めば城方の弓や鉄砲放ちを狙撃しまくって
寄せ手の援護にもなるし
城内に内応者を作って火付けを起こさせて兵糧や武具を焼き討ちするとか、
混乱に乗じて内と外から攻め寄せるなんて手立てはよくよくある感じだけど >>82
やはり後詰めがないから一か八かで打って出るのだと思う
逆に撤退できる場所がある場合は早々に城を捨てて離脱する
割りと籠城ってしていないんだよな
基本的に後詰めが来るまでの時間稼ぎだから 籠城といっても終始一兵も打って出ずに篭りきりなんて事もないしね
たとえ小勢であっても機をみて斬りこんで追い払うくらいはする
寄せ手もそこで敢えて誘い出して城兵をすり減らしたりもするし、
城方も深追いし過ぎて損耗を強いられて城を保てなくなるなんて事もあるし 保守
時代は違うが長岡城攻防戦はどーだろ
一度落城したのを短期間で奪還するってのは稀有な例なのかしら 有名な家老がいて、ガットリング砲を輸入して
薩長軍と戦闘した話 たしか越後長岡だった 奈良大の千田教授が日本一戦に強い城は福岡城って言ってたけど、
現在の福岡城ってなにもないからわからん。 福岡城の破壊されっぷりは酷いからな。
陸軍と米軍の演習場になったから仕方ないとも言える。 福岡城は福島正則の改易で黒田家が自分で縮小したんだっけ 賢明だな
士気と兵装が悪ければいくら立派な城を造っても役に立たないし
維持費で無駄な経費を使うだけ 駿河の田中城はもちろんだが、肥後国人一揆の田中城も、小早川秀包、立花宗茂、鍋島直茂ら一万の軍相手によく戦った。 (大和)高取城
関ヶ原時、周辺には西軍勢力が多かったが、東軍の立場を表明
城主本多俊政が上杉討伐軍に参加中で不在の折、
西軍が攻め寄せたものの、従弟の正広が指揮を執って退けたと云う
寄せ手の将、兵力規模の情報がよくわからない
石田三成家臣だったとも言うが、果たして…? > 在日の親は、子供を朝鮮幼稚園・朝鮮学校に入れたいっていうのが多いのよ。
> 日本人からすると、なんでだろうって思うけど、日本人の学校では、民族の誇りを持った教育がしてもらえないんだそうだ。
> よく分からないけど、済州島の流刑者の白丁が大阪に密入国して住み着いたじゃ誇りが持てないけど、
> 日本人に強制連行された被害者なら誇りが持てる、とかそういう事かな??
>
> 市原市の能満は昔から市街化調整区域で、新規の建物は造れないことになっている。
> そのため土地が安く、日本の法律を無視した在日が、次々と移り住んできた。
> そこで問題になったのが、朝鮮学校だ。なかなか許可が下りず、一番近くても千葉市にしかない。
> そこで在日居住区の能満内にあった、能満幼稚園・市原小・市原中・緑高の保育士や教師を、朝鮮化する事を考えた。
> 今では在日幼稚園の保育士は全て朝鮮帰化人で、在日の父兄からの絶大な支持を受けている。
> 遠くからでも、わざわざ在日幼稚園に入園させたいという在日の親は、後を絶たない。
> この在日幼稚園卒園者はほぼ朝鮮系の帰化人と在日だ。 臼井城の戦い(永禄9年)
上杉謙信が大敗して関東を失った 西日本私大の常識
第1グループ・・・・・・立命館・同志社(西日本の別格・名門2大私学)
第2グループ・・・・・・関大・関学・近大(3k)
第3グループ・・・・・・京産・甲南・龍谷(産甲龍) >>70
毛利の罪は深いぞ。三木城。
援軍が来る来る詐欺でどうにもならなくなった。
さっさと引導渡し溶けば、食い物があるうちに逆襲出来たぞ。 駿河田中城
3重の水堀に城門前はプチ真田丸丸馬出しが
6箇所あり山城にはできない別口から打って出て敵の背後襲うことも可能
島津が四川の戦いでやったあれ
丸馬出しが突破されても城門前は沖田畷状態で集中砲火
実に嫌な城だ
私が攻撃側だったら攻め場所が見つかりません >>4
熊本城ですら成功したのは薩摩軍に問題があったから
例えば、五稜郭 ※「城塞としては」世界でも新しい形態
※ただし、当時すでに城塞自体が時代遅れ
スイス・フリプールの要塞などは、15世紀以降から大砲への対応で変化してきたが
大砲の技術的進歩により要塞自体が時代遅れとなり
すでに、19世紀後半には欧州各地で都市要塞が解体されていた あの時代に熊本城すら落とせない薩摩軍
近代戦を理解していたのか ちょっと小突けば落城するという根拠のない楽観論
統一感が全くない分散攻撃、無謀な強襲
銃撃戦なら薩軍と互角以上に戦えた
全く無意味かつ城側を有利にする謎の水攻め >>117
> 全く無意味かつ城側を有利にする謎の水攻め
あれはなんだったのか? 外国も入れていいなら独ソ開戦してすぐにソ連のブレスト城は第二次世界大戦の近代兵器持つドイツ軍相手に一ヶ月持ちこたえこの一ヶ月のおかげでソ連軍は態勢整え反撃できたという
しかも軍人の多くが出払ってるときに攻撃くらい正規軍人が少ない状態での籠城だった
映画にもなってる
日本の硫黄島に匹敵するソ連軍の活躍 清正関係なく初戦の高瀬からボコられてその後の主要な戦いで薩軍はサンドバッグだよ 第一次上田合戦
期間 1585.8/2〜8/28
敵兵数 8,000
守将 真田昌幸(兵数2,000)
結果 徳川軍撤退(1,300名戦死)
第ニ次上田合戦
期間 1600.9/4〜9/8
敵兵数 38,000
守将 真田昌幸(兵数3,000)
結果 徳川軍撤退(関ヶ原合戦に遅参) 真田は大阪冬の陣でも大活躍したし籠城戦のプロ
もちろん野戦でも右に出る者はいないが >>126
織豊時代に城は劇的に進化してるから
誰が守将だろうが力攻めすれば大損害受ける
しかも鉄砲の配備数も多い
家康だって力攻めはできなかった
前田がアホなだけ >>125
胡散臭くはないが純粋な籠城戦かと言われたら微妙なところ てか真田丸のようなの今川も武田もやってるんだけどな
城門前にまたポコンと出っ張り地帯作って城側とその出っ張りからクロスファイアできるようになってる 真田昌幸が籠る上田城が最強に決まってるだろ
寡兵で徳川の大軍を2度も撃退したんだから 籠城側勝利:臼井城(永禄九年<1566>)
籠城側敗北:関宿城(永禄八年<1565>~天正二年<1574>) 謙信って城攻め下手だよな
信玄の砥石城はよく言われるけど謙信の臼井城も大損害でこの敗戦で関東諸将が離れて戦略的にも大敗北だったのに 城攻めって難しいからな
落城するのって殆どが城兵が逃げるから落城するのであって
逃げずに粘られると少人数でもまず落ちない
だから付城などを築いて長期的に包囲して落城させるのが一般的
焦って力押しすると攻城側の人数が多くても敗北する可能性が高い
謙信でもそれは例外ではなかったと言う事だ 犬居城の戦いって徳川軍が長篠の戦いまで動けず高天神城を
見捨てざる程の損害を被ったと言われる割には注目度が低いのは何故なのか? > 彼らはよく、社会に貢献したいと口にする。
> なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。
> イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。
>
> 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。
> 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。
>
> ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。
> それらの写真は、集団ストーカーに使用される。
> 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。 そりゃ大敗したから無かった事にしたかったんだよ
高天神城の見殺しも武田方ばかり騒いで家康が見殺しにした事は全く触れないからな