新井城の戦い  永正10年(1513年)〜


期間 永正10年10月〜永正13年7月
敵兵数 約7000?
守将 三浦義同、三浦義意


北条早雲の相模統一戦の最終戦。

新井城は三方向を海(多くは断崖)に囲まれ、東の跳ね橋を上げるとほぼ誰も入れなくなるという、ある意味究極の城。
断崖にある洞窟には兵糧が貯えられていたともいう。
「三崎城」と同一の城とも言われるが、そこは良く分からない。

早雲は三浦氏を三浦半島のこの城まで追い詰めたが、この城には手こずり、兵糧攻めにすることにした。
途中、扇谷上杉氏から何度か援軍も送られたが、早雲はこれをことごとく打ち破った。
約3年に渡る籠城戦の末、兵糧が尽きた三浦義同・義意親子は、城を出て討ち死にした。
この時、死んだ三浦勢の血のために、海が油を流したように見えたため、この地は「油壷」と呼ばれるようになったという。

義同の辞世の句、「討つものも 討たるるものも かわらけ(土器)よ 砕けて後は もとのつちくれ」