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続き
砥石城は小城ではあったが、その名のとおり、東西は崖に囲まれ、
攻める箇所は砥石のような南西の崖しかないという城であった。
このときの武田軍の兵力は7000人、対する城兵は500名ほどでしかなかった。
しかし城兵500人のうち、半数はかつて天文16年(1547年)に晴信によって虐殺された
志賀城の残党であり、士気はすこぶる高かった。

9月9日、武田軍の武将・横田高松の部隊が砥石のような崖を登ることで
総攻撃が開始された。しかし城兵は崖を登ってくる武田兵に対して石を落としたり
煮え湯を浴びせたりして武田軍を撃退し、攻め手の大将の横田高松は戦死した。

9月11日、今度は武田軍の武将・小山田信有(出羽守)による城攻めが行なわれたが、
これも同じく城兵の果敢な反撃にあって散々に打ち破られ、
小山田家臣らが多数戦死している。

兵力においては圧倒的に優位であった武田軍であったが、
堅城である砥石城と城兵の果敢な反撃の前に苦戦した。
しかも武田軍が苦戦している間に、村上義清自らが2000人の本隊を率いて葛尾城から
後詰(救援)に駆けつけて来たため、武田軍は砥石城兵と村上軍本隊に挟撃される。
戦況不利を判断した晴信は撤退を決断するが、村上軍の追撃は激しく、
この追撃で武田軍は1000人近い死傷者を出し(『妙法寺記』)、
晴信自身も影武者を身代わりにしてようやく窮地を脱するという有様であったとまで言われている。