【名城】篭城戦ランキング【発掘】
負け戦こそ名城の見せ場。
珠玉の篭城戦を選別するスレ
期間×敵兵数×戦後の影響など語れ! とりあえず1つピックアップ
田中城攻略戦(天正10年)
期間 2/20〜3/1
敵兵数 約10,000
守将 依田信蕃 三枝虎吉
徳川総力をもってしても駿河最後の武田方拠点として残り続け、
最終的には穴山信君の説得により開城した。
徳川軍による田中城への攻撃は、天正6年から天正10年の間に7回も行われており、
実質は4年の篭城戦を耐え続けたのかもしれない。 このスレ的に最後の篭城戦は原城の篭城戦でいいのかね? 諏訪原城は家康の対武田戦では強襲で落ちた城だな
外には長篠城か 原城は期間、敵兵数、戦後の影響の全てでトップかもしれないね。 大津城の戦い(慶長5年)
期間 9/7〜9/15
敵兵数 約15,000
守将 京極高次
東の上田城攻防戦に対し、西の大津城攻防戦といえる篭城戦。
ひきつけた兵数に加え、関ケ原の毛利勢への影響などを考慮すると、
ランキング上位は間違いない。
ランク 120000ポイント+10α(8日×15000人+戦後ボーナス) >>4
時代もそうだけど篭城成功しているのも、スレ主的に不満。 >>11>>12
篭城成功は期間ポイント無限でランクつけらんない。 >>13
篭城側勝利あるいは非敗北と攻撃側勝利で分けりゃいいんじゃね?
講和開城だと話も膨らみそうだし。 月山富田城の戦いは篭城側勝利と攻撃側勝利の両方あるな。 見劣りするけど一応岩屋城を推薦しとく。我が家の裏山なんで。 >>15
小大名スレのキチガイとは違うでそ。きちんとまともな例挙げているし、sageているから >>19期間、兵数、戦後の影響忘れてた
天文19年(1550年)7月に信濃林城主小笠原長時を破って
信濃中南部の大半を制圧した武田晴信は、いよいよ信濃北部・東部の平定を目指して
同年9月に北信濃の戦国大名・村上義清の出城である砥石城攻略に乗り出した。
晴信は天文17年(1548年)の上田原の戦いで義清に大敗していたこともあり、
その復仇を目指しての戦いでもあった。また、この城を落とせば、
村上氏の東信濃における防衛線が大きく後退するため、
戦略上も戦術上も重要な戦いでもあった。 >>25
続き
砥石城は小城ではあったが、その名のとおり、東西は崖に囲まれ、
攻める箇所は砥石のような南西の崖しかないという城であった。
このときの武田軍の兵力は7000人、対する城兵は500名ほどでしかなかった。
しかし城兵500人のうち、半数はかつて天文16年(1547年)に晴信によって虐殺された
志賀城の残党であり、士気はすこぶる高かった。
9月9日、武田軍の武将・横田高松の部隊が砥石のような崖を登ることで
総攻撃が開始された。しかし城兵は崖を登ってくる武田兵に対して石を落としたり
煮え湯を浴びせたりして武田軍を撃退し、攻め手の大将の横田高松は戦死した。
9月11日、今度は武田軍の武将・小山田信有(出羽守)による城攻めが行なわれたが、
これも同じく城兵の果敢な反撃にあって散々に打ち破られ、
小山田家臣らが多数戦死している。
兵力においては圧倒的に優位であった武田軍であったが、
堅城である砥石城と城兵の果敢な反撃の前に苦戦した。
しかも武田軍が苦戦している間に、村上義清自らが2000人の本隊を率いて葛尾城から
後詰(救援)に駆けつけて来たため、武田軍は砥石城兵と村上軍本隊に挟撃される。
戦況不利を判断した晴信は撤退を決断するが、村上軍の追撃は激しく、
この追撃で武田軍は1000人近い死傷者を出し(『妙法寺記』)、
晴信自身も影武者を身代わりにしてようやく窮地を脱するという有様であったとまで言われている。 >>26
続き
上田原の戦いは村上軍にも多大な犠牲があり、戦術的には引き分けと言ってもよい合戦であった
(戦略的には武田軍の負けである)が、砥石城の戦いは武田軍の完敗であった。
兵力的にも、7000人の武田軍の3分の1程度の2500人の村上軍相手に、
しかも村上軍の犠牲が皆無に等しいのに対し、
武田軍は武田二十四将に数えられる横田高松をはじめおよそ1200人もの将兵を失った。
武田信玄の生涯の中で、砥石城の戦いは最大の負け戦といわれている。
このため、この戦いは「砥石崩れ」と呼ばれている。
しかし、天文20年(1551年)武田方の部将・信濃先方衆の真田幸隆の調略によって、
兵を動かすことなく砥石城は武田軍の手に落ちた。
村上義清の勢力はこれを契機として衰退し、
天文22年(1553年)義清は長尾景虎を頼り、越後へ落ち延びた。
義清、高梨政頼等の信濃北東部の国人が越後の長尾景虎を頼ったことから、
有名な川中島の戦いへと発展していく。 >>25-27
とんでもない激戦だったんだねぇ。
でも勝っても真田の台頭、武田の体制刷新と、
逆効果のようになってしまったのはなにか不思議。 >>2
ランク 110000ポイント+1α
(11日×10000人+戦後ボーナス)
>>25-27
9/9〜10/1〜
(22日以上×7000人) 第2次月山富田城の戦い 永禄8年(1565年)
期間 4/17〜翌年11/21降伏(約580日)
敵兵数 約20,000?
守将 尼子義久
戦国史上屈指の長期篭城戦。
尼子氏の底力恐るべしというとこだろうか。
ランク 1160万ポイント+1α そういえば逆に尼子の大軍を毛利元就が吉田郡山城で撃退したこともあったっけ
居城を大軍で包囲されるなんて絶望的だろ 普通は滅びるパターン
そこから逆にやっつけちゃうから凄まじいわ 石山本願寺包囲戦 天正6年(1578年)
期間 7/18包囲網完成〜翌々年3/7講和(約594日)
敵兵数 約20,000?
守将 本願寺顕如
現在も続く本願寺史上最大の危機であった篭城戦。
篭城期間中の戦がほとんど見られないが、
宗教勢力の力を認識させた本願寺、
これだけの包囲網を敷いた織田信長、
両者の財力は恐るべき規模だったと考えられる。
おそらく戦国史上最長の篭城戦だろう。
ランク 1188万ポイント+5α >>26
丸々Wikipediaの文章に質問するのもなんだけど、横田高松って殿で討ち死に
したんじゃないの?
横田高松の項ではそうなってるけど、どちらが正しいんだろう 石山合戦は信長公のほうがよく耐えしのいだと思う
あのときは義弟・浅井長政の裏切りからドミノ倒しみたいに次々と反信長勢力が
蜂起し、本願寺もまず間違いなく勝てるとふんだからこそ参戦した
実際もうすこし反信長連合の連携ができてれば勝てた戦いだ >>34
8千人の兵で7千人を囲み続けたって凄いね。
補給もなんども復活しているし、
秀吉と半兵衛の頑張りが凄い。 大坂の陣
期間 12/2〜12/20、5/7(18日+1日)
敵兵数 約200,000
守将 豊臣秀頼
最強の平城も堀を失ってはただの屋敷か。
豊臣氏は高台院の死をもって完全に消滅した。
ランク 380万ポイント+0α 小田原城の戦い(天正18年)
期間 4/6〜7/5(90日)
敵兵数 約160,000
守将 北条氏直
戦国最高の名城、その能力を見せ付けた篭城戦。
篭城中も城内で市がたっていたという。
この未曾有の抗戦を評価されたのだろうか、
北条宗家は幕末まで存続した。
ランク 1440万ポイント+3α(期間×敵兵数+戦後ボーナス) >>41
いや、宗家は氏直の系統なんで滅びてる。明治まで残った狭山藩はあくまで
氏康の五男で外交役を務めた氏規の系統であって、宗家ではない。 北条氏盛が本家を継いだという説の出所はなんだろう?
一族がその相続を認めていれば存続だろうけれど。 >>43
織田家だって宗家は信忠->秀信の嫡系で、秀信が高野山から追放されて野垂れ死に
した時点で滅びていて、信雄の系統はあくまで傍系という扱いのはず。
やっぱり嫡系だけを見ていくのが正しいんじゃないかと。もちろん、時の権力者の
指示によって名跡を継ぐ場合はあるけど。 >>46
個人的な推定とかでもいいと思う。
何か数字があれば、それを話し合うのもいいし。 大河内城の戦い 永禄12年(1569年)
期間 8/28〜10/3和睦(約38日)
敵兵数 約70,000
守将 北畠具教
信長の伊勢攻略、総仕上げとなるはずだった篭城戦。
木造城を攻めていた北畠軍が逆に大河内城に追い詰めらるという
厳しい始まりであった篭城戦にも関わらず、
篭城側が非常に善戦したため、ついには和睦に到った。
城の明け渡し、北畠氏の家督譲渡などはあったものの、
北畠氏の所領は全て温存され、実権も信雄の元服までは、
具教、具房が握ったままであった様子。
ランク 266万ポイント+6α(期間×敵兵数+戦後ボーナス) 新井城の戦い 永正10年(1513年)〜
期間 永正10年10月〜永正13年7月
敵兵数 約7000?
守将 三浦義同、三浦義意
北条早雲の相模統一戦の最終戦。
新井城は三方向を海(多くは断崖)に囲まれ、東の跳ね橋を上げるとほぼ誰も入れなくなるという、ある意味究極の城。
断崖にある洞窟には兵糧が貯えられていたともいう。
「三崎城」と同一の城とも言われるが、そこは良く分からない。
早雲は三浦氏を三浦半島のこの城まで追い詰めたが、この城には手こずり、兵糧攻めにすることにした。
途中、扇谷上杉氏から何度か援軍も送られたが、早雲はこれをことごとく打ち破った。
約3年に渡る籠城戦の末、兵糧が尽きた三浦義同・義意親子は、城を出て討ち死にした。
この時、死んだ三浦勢の血のために、海が油を流したように見えたため、この地は「油壷」と呼ばれるようになったという。
義同の辞世の句、「討つものも 討たるるものも かわらけ(土器)よ 砕けて後は もとのつちくれ」 3年とはすごいなぁ。
攻められるも攻めるも命をかけて対峙して日々をどう過ごしてたんだろう。 三浦水軍というのが在ったんだね。
やはり魚で食いつないでいたのだろうか。
>>49
油壺にこんな由来があったとは…
三浦氏は奮戦虚しく滅亡したけど、唯の敗者ではないわ
負け戦は何かが試されるね
良スレage >>51
これ毛利の月山城攻防戦でも思ったけど当時は農民兵が主力で、長期で長距離の遠征は不可能とよく言われているけど
なのにこんな長期の包囲戦が可能だったのはなぜ?、城包囲の場合攻城側の兵士は途中離脱、参加をさせていたの >>55
結構有名かと思ったのだけど、知られていないんだね。
まあ、地元でも長年住んでいないと知らないみたいだけど。
>>56
城の構造って知っているよね。
出入り口が絞ってあるから、攻める方も、守る方も基本的にはそこが攻防戦
となる。
逆に言えば、そこを押さえて補給路さえ断てば、籠城させていさせられるん
だよね。
又、扇谷上杉を押さえる為に、玉縄城も作ってる。
毛利の時とは本拠との距離が違うし、基本的に違うかもなぁ。 >>57
昭和50年代の集英社の漫画版日本の歴史戦国時代編の北条早雲の所で
油壺の攻城戦結構触れられていたな、デマと使って領内から盲人追い出して、スパイさせて
三浦氏の内情探らせたとか >>58
そう言えば、歴史の漫画あったね。
憶えているのは、川中島の合戦。
主人公かニンジャかなんかで、信長?の命令で川中島の合戦を見に行くヤツで、
信繁が討ち死にした時に、河原の石を積んで墓標作って手を合わせてたっけ。
今思えば、合戦中に墓作るってのは、とっても変だなw
当時の三浦氏は、同寸が住んでいた岡崎(平塚市)が本拠地で、早雲に強襲
されて、最終的に子の義意がいる新井城に落ちてきたから、城には動員でき
る数よりかなり少なかったと思う。
それもあって、対上杉に重点をおき、新井城はただ囲んで自滅を待っていた
のかもしれない。
魚津城攻防戦
上杉方の最後は今でも語り継がれている
本当にあと一日持ちこたえれば勝利できたという戦い 中の人の性能で急に別の城になっちゃうような堅さを発揮する沼田ww 九戸城の戦い
数日で終わったけど、6万相手に数千で攻城側に
力攻めを諦めさせたのは評価されてもいいと思う。 籠城戦の守備側はどういったものを食料にするのですか?
牛馬、犬猫、鼠などの動物を食料にした記録はありますか?
昆虫、魚類、鳥類を食料にした記録はありますか? 三木城
城内の者は飢えをしのぐ為に、牛や馬も食べ尽くし、草や木の根、木の皮を囓った。
それもなくなると、虫や蛇、鼠を捕らえて食べ、果てには壁土の中の藁まで口にしたと言う。 籠城戦の城内で牛を飼うのは、牛乳を得ることが目的ですか? 牛は、牛乳用ではなく、飢餓食料として、篭城要員に入れていたということですか?
牛を兵器に使うことはありますか? 主要な籠城戦
九州
門司城、佐嘉城、岩屋城、臼杵城、
四国
十河城、天霧城、
中国
郡山城、月山富田城、鳥取城、高松城、天神山城、
近畿
石山本願寺、信貴山城、野田・福島城、飯盛山城、高屋城、岸和田城、
大坂城、交野城、小谷城、
東海
大河内城、願成寺、長島城、蟹江城、長篠城、高天神城、掛川城、岩村城、岐阜城、
北陸
七尾城、戸石城、魚津城、新発田城、
信濃、飛騨
海津城、高遠城、上田城
関東
結城城、新井城、川越城、岩槻城、唐沢山城、箕輪城、沼田城、小田原城、関宿城、
韮山城、忍城、八王子城
東北
長谷堂城、九戸城 龍造寺五千、大友は八万で城を包囲し、大友の大将は全軍へ明朝総攻撃を下知したが
その前夜に龍造寺がその大将を討ち取り、龍造寺の大勝利となった。【佐嘉城合戦】 >>76
実際は隆信の弟の龍造寺信周を大友へ人質に出して和睦終戦してるし、
討たれた大友親貞が実在の人物なのかとか胡散臭い点が多いんだよな今山の戦い 佐嘉城攻防戦(元亀元年)
期間 4/10頃〜10/1
攻撃側兵数 約60,000〜80,000
守備側兵数 5,000
攻将 大友義鎮 東大手:戸次鑑連・臼杵鑑速他豊後衆 南船手:斉藤鎮実他筑後衆 西口:有馬・大村・松浦党他西肥前衆 北口:吉弘鑑理他筑前衆・肥後衆・東肥前衆
守将 龍造寺隆信 東大手:鍋島信房・同信生・小河信友 南船手:龍造寺長信・同信種 西口:龍造寺信周・同鑑兼 北口:龍造寺家就・納富信景・広橋一遊軒
毛利氏の撤退により後顧の憂いが無くなった大友義鎮は
前年に一旦は降伏へ追い込んだ龍造寺隆信が依然として周辺への攻撃を止めない為
九州北部五ヵ国に動員をかけて、龍造寺の本拠地佐嘉城周辺を佐嘉郡全域規模で包囲開始
大友軍は4月下旬には東大手方面、5月下旬には南船手方面、6月中旬に北口方面から大規模な攻勢をかけるも決め手に欠き進撃出来ず、散発的な戦闘では攻略不可能と判断したか
7/18には来援した肥後衆を含め四方からの総攻撃を計画、実行日は8/20と定める
龍造寺隆信は8/7東大手で起死回生を賭けた一斉突撃を敢行するも、戸次鑑連に阻まれ頓挫。城中に撤退する
8/16に北口へ豊後衆の増援到着、8/18,9に納富信景・広橋一遊軒が北口方面黒土原で増援部隊を攻撃
同8/19夜鍋島信生が北口方面今山を奇襲、同時に側面から小城郡千葉党の援軍を受け大友軍今山陣を包囲殲滅、肥後衆は降伏
この報を聞き西口の有馬勢他が陣払いし撤退、北口方面の東肥前衆も撤退し8/20の総攻撃計画がとん挫する
8/20鍋島信生・納富信景が大友方の小田鎮光の居城多久城攻略へ進発、8/21に攻撃を開始し一両日で陥落
その他有馬勢に奪われていた西部方面の拠点を幾つか奪還する
8/22大友義鎮は小城表(今山)の事で動揺しないようにと全軍へ通達
8/23龍造寺隆信・納富信景が東大手方面臼杵の陣を攻撃、鍋島信生・龍造寺家晴も背後から攻撃し、臼杵勢は東へ向かって後退開始
8/24大友義鎮は南船手の筑後衆へ(龍造寺の攻勢が強まったので)乗船を揃えて要所に物資を集積するよう命令
9月初頭、佐嘉郡を抜け神埼郡で戦線を立て直した豊後勢を再度龍造寺隆信が攻撃するも退かせるまでは至らず
9月中旬、戸次鑑連・臼杵鑑速両名が田尻鑑種を仲介して龍造寺隆信と交渉を開始
9月下旬、戸次鑑連・臼杵鑑速・吉岡長増の三名が田尻鑑種の下へ訪問、田尻鑑種が使者として佐嘉へ派遣され
三老が提案する停戦内容を通達し龍造寺隆信はそれを了承
10/1に吉岡長増が大友義鎮へ上記の旨報告し、10/3に大友義鎮は本陣を引き払い豊後勢も撤退する 十分活躍した方だと思うよ。
今浜は言われるほどの大勝ではなかったかも知れないが。
局地戦の勝利積み重ねて圧倒的大軍撤退させた龍造寺の粘りに驚嘆 防衛戦なのに城へ篭ろうとしないのは大将の性格の顕れか
孤立無援で篭城なんてしても意味がないという判断か 初端から籠ると大将の意気地を疑う奴もいるしな
出ばなで痛めつけてから籠れば意気も上がるし
尤も向こう見ずな性格とほぼ絶望的な状況が合わさると生への未練も捨てて
死んで名が残れば結構と突貫する様な例もけっこうあるけど 籠城中の城に火矢を射ち込んで、城を燃やす戦術は有効ですか 小さい平城なら有効だよ
でもハゲ山の山城とか、堀のある大きな城とか余り有効じゃない
有効にするには膨大な量の火矢を一点に集中させるとか
射ちつつ梯子かけて兵を突入させなきゃならない たしかに
火矢で城を丸ごと焼き落とすなんてのはまずないんじゃないだろうか
火力が追いつかないし
ただ井桜を組んで城門を火矢と大鉄砲で破壊するなんて事はよくある
城門よりも高い井桜を組めば城方の弓や鉄砲放ちを狙撃しまくって
寄せ手の援護にもなるし
城内に内応者を作って火付けを起こさせて兵糧や武具を焼き討ちするとか、
混乱に乗じて内と外から攻め寄せるなんて手立てはよくよくある感じだけど >>82
やはり後詰めがないから一か八かで打って出るのだと思う
逆に撤退できる場所がある場合は早々に城を捨てて離脱する
割りと籠城ってしていないんだよな
基本的に後詰めが来るまでの時間稼ぎだから 籠城といっても終始一兵も打って出ずに篭りきりなんて事もないしね
たとえ小勢であっても機をみて斬りこんで追い払うくらいはする
寄せ手もそこで敢えて誘い出して城兵をすり減らしたりもするし、
城方も深追いし過ぎて損耗を強いられて城を保てなくなるなんて事もあるし 保守
時代は違うが長岡城攻防戦はどーだろ
一度落城したのを短期間で奪還するってのは稀有な例なのかしら 有名な家老がいて、ガットリング砲を輸入して
薩長軍と戦闘した話 たしか越後長岡だった 奈良大の千田教授が日本一戦に強い城は福岡城って言ってたけど、
現在の福岡城ってなにもないからわからん。 福岡城の破壊されっぷりは酷いからな。
陸軍と米軍の演習場になったから仕方ないとも言える。 福岡城は福島正則の改易で黒田家が自分で縮小したんだっけ 賢明だな
士気と兵装が悪ければいくら立派な城を造っても役に立たないし
維持費で無駄な経費を使うだけ 駿河の田中城はもちろんだが、肥後国人一揆の田中城も、小早川秀包、立花宗茂、鍋島直茂ら一万の軍相手によく戦った。