【山内・扇谷】関東の上杉氏 2【犬懸・詫間・深谷】
>>655
一応、扇谷上杉は、反古河公方陣営とされているんだけどな。
山内上杉と扇谷上杉は親戚だし、上杉持朝は、暗殺された上杉憲忠の正室の父でもある。
でも、その実、古河公方と扇谷上杉は、
繋がっていた訳で、それはそれでかなりの政治的な事件ではある。
扇谷上杉は、山内上杉ほど古河公方と敵対してなかったと言う事になる。 >>656
二つの説があると言いながら、なんで「持朝の抵抗による」と決めつけてるの?
>>657
時系列を追ってそうなっていったというなら分かるが、なんではじめから敵対していなかったと決めつけてるの? >>658
足利政知が、伊豆に入ったのは1458年の中旬だけど、その前年には、
幕府は、足利政知が新鎌倉公方に就任し関東に下る事を内定している。
そして、その事を関東諸将に打診もしている。
しかし鎌倉に入れなかった。
山内上杉は、分国の伊豆を差し出したのに、扇谷上杉は、
足利政知を迎え入れる動きを一切して無い。さらに2〜3年後には、
足利政知(渋川義鏡)と上杉持朝は、公然と抗争を始めてしまう。
1457年の足利政知が鎌倉公方に内定した時点で
扇谷上杉が、その事に賛同して無い形跡が濃厚と言える。
1560年以降の堀越公方と扇谷上杉の対立は、上杉陣営が、
古河公方陣営に大敗した事で、以前からくすぶっていた対立が、
公然化大規模化しただけ。 /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ
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http://www.youtube.com/watch?v=z2qK2lhk9O0 >>659
> 扇谷上杉は、
> 足利政知を迎え入れる動きを一切して無い。
↑主観
> 扇谷上杉が、その事に賛同して無い形跡が濃厚と言える
↑主観から導き出される憶測
思い込みに頼り史料的裏付けが無い推論。卒論なら即弾かれるな >>659の言うとおりなら扇谷上杉は、山内上杉はおろか幕府にも公然と反抗していたって事じゃん。
ならなんで幕府は扇谷と堀越勢力との間に調停に入って、しかも扇谷に有利な和解案を飲ませたのさ。 >>661
扇谷上杉は、まじめに古賀、いや失礼!
古河公方と戦っている証拠の方が全然無い。
>>662
>幕府にも公然と反抗していたって事じゃん
1462年に持朝造反の噂が飛びかって慌てているのは、将軍の足利義政だからね。
その後始末で渋川義鏡が責任負わされて、武蔵の蕨郷へ逼塞隠居させられている。
堀越公方府と扇谷上杉の喧嘩両成敗かな。 >>663のつづき
そもそも畿内から無理やり関東に公方を押し込んだ事、それ自体が大間違い。 >>665
オマエは、ケチをつけているだけ。 シネ! どっちも証拠が無いなら答えは「分からない」だろ。
自分の主張に証拠が無いのに、相手の主張には「証拠が無い」と反論するとは、とんだダブルスタンダードだ。
それに>>659では1457年や58年から扇谷上杉はアンチ堀越公方な態度を取り続け幕府に反抗しているはずなのに、
>>663では1462年になってから造反の噂が流れて義政が慌てているとしているのも矛盾している。 >>667
全然矛盾して無い。1462年になって、扇谷上杉の造反が公然化しただけ。 1457年や58年から、四年や五年も扇谷上杉が政知の関東入りを妨害し続けてんのに、1462年になって急に公然化したとか意味分からん。 守護といっても全令制国掌握してはいなかったんじゃないの。
ここの研究者さんたちは地元なのか関西の人か知らんけど、
多分箱根の国人衆は魑魅魍魎。ムジャヒディン部族地帯みたいなとこ。
扇谷の前は三浦氏とかが相模守護。犬懸側だったりいろいろあって、
扇谷と組むことになった。
公方様を支持する国人衆は多そうで、上杉はどこまでいっても、
西洋人じゃなくて関西人の手先感が否めない。
そんなニュアンスあったのでは。 >>670
扇谷上杉に関しては、相模を完全に支配出来たのは、亨徳の大乱以後だよ。
それ以前は、相模守護としての扇谷上杉の支配権は、相模川の西側であり、
相模東部は、鎌倉公方直轄地の性格が強かった。また、奉公衆の所領も多かった。
相模国人衆なども亨徳の大乱以降は、扇谷上杉に服属する傾向にある。
その中で守護代の上田よりも扇谷の家宰の太田が台頭し始めた。
上州国人衆や武州国人衆が、山内上杉の被官だが、家宰の長尾が守護代
として掌握する傾向。山内上杉は、守護代と家宰が一緒なので、長尾が台頭しやすい状態にあった。 家宰の位置付けがイマイチよくわからんのだが、
"実力のある抜擢者"みたいな位置付けで良いのかな。
山内の白井長尾固定に比べて扇谷の太田さんは突然の登場でよくわからない。
それ自体が戦国を表すのだろうか。
早雲さんも今川家宰時代があるような記述あるし。 >>672
日本でも欧州でも、厳密に言うと執事と家宰は、異なったりする。
今では執事は、家政のトップであり、家宰は、資産管理が入っている。
昔なら領地管理も行うのが、家宰と言う事になる。
話題になっているNHKの海外ドラマ
『ダウントン・アビー 華麗なる英国貴族の館』を見ると大体分かる。
日本でも同じ様なもの。
『ダウントン・アビー 〜貴族とメイドと相続人〜』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%93%E3%83%BC#.E3.82.AF.E3.83.AD.E3.83.BC.E3.83.AA.E3.83.BC.E5.AE.B6 家宰=家老みたいなものだろう。被官衆の筆頭の位置づけだと思う。
長尾は、もともと関東の武士であり、
平安時代後期から鎌倉の近くの長尾郷を所領にしていた。
出自は、相模平氏の鎌倉氏であり、古代豪族の鎌倉別の可能性も言われている。
山内上杉に仕える以前は三浦氏の家臣だった。
太田氏は、摂津源氏の流れを汲み、源頼光の玄孫頼政
(源三位頼政)の末子である源広綱を祖とする。広綱の子孫の
源資国が丹波国桑田郡太田に住んで太田氏を称したという。
長尾も太田も氏素性が不明な成り上がりと言う訳ではない。
ただ太田氏の台頭は、やはり亨徳の大乱によって扇谷上杉が武蔵南部に
進出した事がその要因として大きい。亨徳の大乱以前の扇谷上杉は、基本的に
相模西部にその勢力圏が限定され、相模守護代の上田氏の立場の方が強かったと思う。
鎌倉公方奉公衆であった江戸氏を排除して武蔵南部に拠点を作る事で太田氏の台頭が始まった。
長尾氏の台頭は、山内上杉の憲実が結城合戦後に早期に引退し、鎌倉公方も関東管領も
不在となり政務停滞から仕方なく山内上杉の家宰で守護代の長尾が関東の政治課題を処理
し始めた面がある。長尾家の台頭は、上杉憲実の早期引退が切っ掛けになっている。 太田氏は京からの上杉家臣なのかな。
太田道灌の父が家宰になってたときは上田氏が守護代?
道灌の後にも上田氏が続くから二代のみの継承ということになる。
家宰としては管領不在時の抜擢にみえるが、
上田氏は一色氏のときの守護代なのだろうか。うーわからん
ダウンタウンアトピーか。今度見てみる。 >ダウンタウンアトピー
もういっちょ〜! あともう少し! >>674
上杉憲実の引退後に弟の清方が、山内上杉家の当主になり、
関東管領にもなったけど、その直後に訳の判らない原因で死んじゃった。
自決とも合戦で敗死したとも言われている。
それで憲実はいとこの佐竹実定に山内上杉の家督を継がせようとしたが、
山内上杉家の家宰で上野と武蔵の守護代だった長尾景仲が、これを認めなかった。
そこで景仲は扇谷上杉家の家宰で婿の太田資清(道真)と相談して
上杉憲実・佐竹実定を排除し、憲実の長男竜忠(上杉憲忠)を還俗させて
山内上杉家当主と関東管領を継承させた。
この時点で、山内上杉家では、家宰である長尾氏による下克上が発生したとも言える。 憲実やる気なくしてたから
実際大した抵抗もしなかったんじゃなかろうか 長尾景仲の決定は、上杉憲実の意思に反しているから下克上とも言えなくも
ないけど、景仲が擁立した上杉憲忠は、そもそも上杉憲実の長男だからな〜
上杉憲実が、子供全員を出家させたのが、
むしろオカシイと言うか変わっているとも言える。
憲実は、足利学校や金沢文庫を復活させたりしている文人肌の人物で、
当時としても、あんまり武人的な性格では無かったとも言われている。
越後上杉家で発生した越後守護代の長尾為景の下克上とは、事態は全く違うと思う。
長尾為景は、父(能景)を越中にて見殺しにした越後守護の上杉房能を
深く恨んでおり、それ故の謀反(永正の乱)だったと言われる。
また、守護権の強化を目指す上杉房能と守護不入特権などの在地領主層の特権
維持を願う長尾能景は、恒常的に対立していたと言われるが、山内上杉の憲実と
長尾景仲は、そこまで深くは、対立して無かったと思う。 >>643
その時代の中務大輔だと
八条上杉朝顕に比定できるね。 安田・北条氏って、その系図はともかく、
初期の事績・形跡が曖昧だよな。 >>643
北条高広・安田景元の4代前?の毛利修理亮道元のところだね。
「毛利修理亮道元は鎌倉で管領上杉家に仕えていたが、上杉朝宗一族の
上杉中務大輔維信の姫が長尾弾正左衛門景房に婚姻したときに、
奥家老として越後に来た。」と書いてあった。
>>680にもあるけど、年代的に中務大輔といったら上杉朝顕だね。
長尾景房・毛利道元も年代的に無理ないと思う。
群書系図部集に乗っていた「長尾景房は上杉中納言維信の婿」という
記述が傍証された形になるね。群書系図部集は他の点が結構メチャクチャ
だったので信用できなかったけど、今回はある程度信用できそう。
維信は朝顕の入道名だったのだろうか・・・・。
>>644
修理亮道元自身は嫡男では無かったので、鎌倉で仕えていたのかもしれない。 >>669
>1462年になって急に公然化したとか意味分からん。
1460年ごろに両上杉連合軍が、
利根川河畔やら北関東のアチコチで、古河公方勢に大敗。
その結果、上杉は、戦力的には、アテにならないという事になった。
そこで堀越公方が、戦線建て直しを口実に、
無理やり相模に入ろうとして、扇谷上杉とぶつかり、トラブルが公然化。
京都の将軍も慌て始める。
たしかそんな時系列だったと思う。 >>686
>1460年ごろに両上杉連合軍が、
>利根川河畔やら北関東のアチコチで、古河公方勢に大敗。
1458年に成氏陣営だった岩松持国が、上杉陣営に寝返る。
そこで意気軒昂になった上杉陣営が、59年ごろから一気に
利根川の防衛線を突破して、古河方面に進撃を開始した。
しかし、成氏陣営の防戦で、それも失敗。 上杉勢の大敗となる。
この負け戦の背景には、どうも上杉陣営内部での温度差が、指摘されているようだ。
成氏に若い当主や家宰を殺されている山内上杉と
堀越公方との対立を抱えている扇谷上杉には、古河公方との抗戦意欲に開きがある。
山内上杉はともかく、扇谷上杉には、古河公方への激しい敵意は、ないのかも。 1462年には、上杉持朝が、
古河公方サイドに寝返ったとの噂もでいているからなぁ。 豊臣時代の上杉家って徳川家と同格なんだな。
室町時代の松平家は足利家執事伊勢家の家臣のひとつだったみたいだね。 資格2chは、まことのものかのようであった。
自演で荒らしてはいるが、これは、まことの
居心地のいい空間なのである。
流れが乱れれば、自分の思い通りにいかないというもので、
自然、相手を荒らし扱いをする。
まことの「棚上げ発言」の理由は、これであろう。 >>677>>679
たしかに亨徳の大乱の一方主役は、長尾景仲と言える。
もう上杉憲実が、引退しちゃってたからね。
景仲が擁立した憲忠は、直ぐに殺されてしまったし。
亨徳の大乱は、足利成氏vs長尾景仲の構図の面がある。
上杉陣営は、負けが多かったし、山内と扇谷の不一致が多かったけど、
景仲-景信親子の頑張りがあったから上杉陣営が崩壊しなかったともいえる。
それが、後の景春の台頭にもつながる。
『長尾景仲―鎌倉府を主導した陰のフィクサー』
http://www.ebisukosyo.co.jp/products/detail.php?product_id=170 極悪人、押川定和の実態
我々は水戸のサポーターや関係者で押川定和の悪事の被害者を中心に集った団体だ。8割ぐらいはメインスタンドで観戦している。
押川定和は
『ゴール裏で戦う会』
のリーダーで元鹿島サポーター。
SNSで数千もの架空アカウントを作り水戸の関係者の情報を盗み出し個人のSNSを炎上させるなど攻撃を仕掛ける。
SNSでも限界になると人を利用する。その人がその後どうなろうがお構い無しの使い捨て。
Twitter、Facebook、mixi、超水戸、ニコニコ動画など可能な範囲で全てで悪行を行っている。
『悪行の事実を突き付けると全てを自演や同一扱いで煙に巻こうとする。』
悪行が事実の為、表舞台には出れず2ちゃんねるで反応はする。
水戸の関係者になりすまして未だに水戸スレに書き込み続けている。
ジャスティス雑魚の正体が押川。
鹿島サポーターの新婚婦相原大一郎・由起の悪人と結託。
※常識的に事実でなければこんな事は書けません!
"押川 定和"
IT企業の取締役
眼鏡かけた顔写真の人物です。
インファイト東京鹿劇団の吉田さんに粘着。指定暴力団にも粘着してるのが押川。
今は悪事が公に広まり鹿島にすら行けない。しかしながな悪行は続行中。
勤め先・株式会社WEIC(ウェイク ) 104-0053
東京都中央区3-1
http://www.ntt.com/bizhosting-basic/data/case2_1.html
我々の活動は全ての水戸の関係者全員を守る為です。
押川定和は2ちゃんねるの広告、アダルトサイトなどのリンクで収入を得ている。 上杉鷹山を紹介する歴史番組で、
あの謙信の流れを汲む家系の末裔という紹介をされた米沢藩上杉家
何故か、河越で少数の北条軍相手に大敗した上杉憲政の流れを汲む家系の末裔とは
一言も触れなかった 謙信を知らなくても憲政なら知っている大多数の視聴者に対して不親切 長尾景恒の正室:不明
長尾高景の正室:不明
長尾邦景の正室:不明
長尾景房の正室:上杉朝顕の娘
長尾頼景の正室:山吉行盛の娘
長尾重景の正室:不明
長尾能景の正室:高梨政高の娘
長尾為景の正室:上条氏の娘、長尾氏の娘、高梨氏の娘
長尾晴景の正室:上杉定実の娘 日産自動車栃木工場上三川寮 管理人は合鍵を使い従業員の部屋に無断で侵入。 抜き打ちで従業員の私物を全て調べるブラックの中のブラック企業。 末期の2chには書き込めなかったが、今は書き込める
5ch万歳 >>708
なんか面倒くさそう
ツリー型、Tカップ、2ちゃんときて退化のしかた半端ない Twitterだと限られたフォロワーか検索してきた人にしか見られないからな
リプしあったりするのも面倒だしテキトーにできる2ちゃんの方が楽
いや5ちゃんか… 名鉄名古屋本線沿線の大学一覧(学生数)
名鉄岐阜・・・・・・・・岐阜大学(7300)、岐阜薬科大学(840)、岐阜聖徳学園大学岐阜キャンパス(550)、岐阜女子大学(1100)
名鉄一宮・・・・・・・・修文大学(380)
国府宮・・・・・・・・・名古屋文理大学(990)
名鉄名古屋・・・・・・・愛知大学名古屋キャンパス(6900)
神宮前・・・・・・・・・愛知みずほ大学(450)
中京競馬場前・・・・・・桜花学園大学(740)
前後・・・・・・・・・・藤田保健衛生大学(2800)
知立・・・・・・・・・・愛知教育大学(4300)
東岡崎・・・・・・・・・愛知学泉大学岡崎キャンパス(700)、岡崎女子大学(290)
藤川・・・・・・・・・・愛知産業大学(880)
本宿・・・・・・・・・・人間環境大学(770)
豊橋・・・・・・・・・・豊橋科学技術大学(2200)、豊橋創造大学(730)、愛知大学豊橋キャンパス※(2800) 去年末刊行の高志書院「上杉謙信」を読んだが、やはり
晴景と仙桃院の生母は上条上杉氏で確実のようだね。
これは森田真一氏も数年前に指摘していたことだけど >>717
その生母の父、上条弾正少弼って何者よ
弾正少弼の官途名は山内、越後系には見られない
代々扇谷上杉嫡流が名乗った官途だ
越後守護上杉房定は嫡男定方を定昌と上杉朝昌の偏諱をもらって改名させ、扇谷上杉家の後継選びに介入しようとしたらしいが
その朝昌の父持朝が弾正少弼なんだよな >>717
そこは謎だな。扇谷上杉も後期には弾正少弼名乗ってないよな。
最後の弾正少弼は顕房か?
しかし、「上条上杉弾正少弼」の没年は1535年・・・・。 長尾為景の正妻は上杉氏(上条上杉弾正少弼の娘)。
よって、 上杉弾正少弼−為景妻−仙洞院−上杉景勝 となる。
さらに長尾房長の母も上条上杉氏である。
よって、 上条上杉某−長尾顕吉室(長尾憲長未亡人)−房長−政景−上杉景勝 となる。 為景の妻は上杉氏というのはわかったが、側室は何人いたのか。 関東の上杉を知りたければ
新人物往来社から出版した 七宮A三「関東管領・上杉一族」
鎌倉時代から戦国時代までの上杉家と周囲の状況がわかる
絶版なので図書館かアマゾンでどうぞ 武田信虎(後の信玄の親父)の最後の側室は憲房(山内)の後室なんだけど実は朝昌(扇谷)の娘でもある >>727
念のためだけど信玄の母親はこの朝昌の娘ではない
信虎に嫁いだのもおそらく朝昌の没後
実はいま朝昌が気になってる
このおっさん何者よ 戎光祥出版編集長@ebisukosyo_maru
ちなみに弊社、中世関東武士の研究で『扇谷上杉氏』・『関東管領上杉氏』・『山内上杉氏』・『関東上杉氏一族』、
中世武士選書で『上杉憲顕』・『上杉顕定』・『上杉憲政』を出しているということで、
もしや日本で一番、上杉氏の本を刊行している出版社なのでは?
https://twitter.com/ebisukosyo_maru/status/998721754146074624
加賀爪上杉、詫間上杉家、犬懸上杉家、深谷上杉家をやってからこういうこと言わないとな? 故あって室町時代の鎌倉府と東国武士の勉強を始めた者だが
上杉氏の名前が類似しすぎていていまだに覚えられない
顕憲さんがどうやら始祖だということがやっとわかった 上杉憲政って本当に山内上杉の血統だったの?
憲政の父憲房の父である周晟?秀晟?って僧籍あったとしか情報がないし、
名前も周晟とか秀晟以外にも表記にばらつきがあるし、
本当に実在した人物なのか疑わしい。 黒田基樹せんせい扇谷・宅間・深谷・犬懸・八条ほか諸流の文書集もまとめて下さいな なんちゃって僧体じゃなくて
しかるべき寺院のしかるべきポストに就いてるだろうからね 子を産み家督を譲ってから出家するのは割と一般的だと思うのだが 信玄とか謙信も法名じゃなかったっけ?
周晟の本名は分からないけど還俗する前は単に上杉の血を受け継いでるだけで
何一つ仕事もせずにボケーって生きてただけの人だったんじゃないの? ちなみに今も武田家の血筋は残ってるけど
盲目の坊主で子供の頃から僧籍に入ってるよ。
坊主のまま子供を産んで武田家の血筋を守った。 ちなみに今も武田家の血筋は残ってるけど
盲目の坊主で子供の頃から僧籍に入ってるよ。
坊主のまま子供を産んで武田家の血筋を守った。 竜芳(海野信親 武田信玄の次男)だね。
顕了道快という子を授けて後に子孫が徳川幕府で高家となった。 系図では大徳寺の蔵主
大徳寺で女犯して子作りしてた周晟さん凄い 三代将軍家光の治世、武田信玄の孫に当たる男が、自由闊達に八丈島くらしをしていた。その名は、顕了道快。信長の甲州征伐で命を失った、海野竜芳信親の忘れ形見である。 伝承では甲州征伐の時、上総にも逃げた一族がいたとか おおよその呼称の変遷
憲忠(1433〜1454)
1444年(房顕文書集6号文書、9月日、兄竜忠。この頃出家)、1447年(憲忠文書集3号文書、10月11日、愚息右京亮。この頃帰参して元服)、1450年(同16号文書、8月7日、右京亮憲忠)
房顕(1435〜1466)
1441年(房顕文書集参考1号文書、6月13日、安房入道殿御息。1444年8月日付け同文書集3号文書に次男竜春)、1442年(憲実文書集66号文書、1月20日、竜春。この年上洛)
1446年(同9号文書、6月日、八郎房顕。この頃丹波の所領の多くを譲られる)、1454年(同13号文書、3月29日、兵部少輔。任官)
秀晟
1447年(憲忠文書集参考6号文書、12月28日、秀晟・法享・周岱三禅人)
顕定(1454〜1510)
1468年(顕定文書集1号文書、10月14日、竜若)、1471年(同3号文書、3月27日、上杉四郎。同4号文書、4月16日、顕定)、1507年(同37号文書、8月3日、四郎。同49号文書、8月14日、可諄)、1509年(同52号文書、5月3日、上杉四郎入道)
憲房(1467〜1525)
1509年(顕定文書集52号文書、5月3日、同五郎。12月24日付け同61号文書も同じく上杉四郎入道・同五郎宛)、1509年(憲房文書集2号文書、6月7日、憲房) 通説では、世を厭んだ憲実は房顕以外の男子を出家させて、勝手に還俗した憲忠を義絶したことになっていて
系図でも憲房は憲実が没した翌年に生まれたことになっている(周晟は憲実の没後還俗ないしは妻帯したという年齢設定)
でも、当時の情勢を考えたら憲実・憲忠・房顕が亡くなり、元服前の竜若が家督している状況で周晟が俗世に復帰していたら表舞台に出る(活動の痕跡が残る)よね
憲政の子の幼名竜若も憲忠・房顕のものではなく顕定のものだから、普通に顕定の実子じゃないのかな
系図「関東管領上杉〈山内・扇谷〉両家及庶流伝」
僧・秀晟(高倉)
本系図は顕実で終わり、異本の説として
周清(初大徳寺僧号文明還俗周岱同人歟追可考)
以下憲房・憲政らが続く
上に引用される異本とおぼしき系図が「両上杉系図」
周清(禅僧号晟蔵主大徳寺僧道号文明後落堕)
周清の子に憲房の他に憲明(十郎)と女子(注記なし) 『鎌倉大草紙』
「上杉安房守…国清寺にて子息二人ともに出家となり兄をば徳丹、弟をば周清と名付、西国へ落行ける。末子龍若丸幼少なりければ伊豆の山家に隠し置ける」
「同年十一月晦日御所出来御移あり。京より御一字をくだされ永寿王御元服ありて左馬頭成氏と申。龍若丸は上杉右京亮憲忠と号す」
『永享記』
「憲実弥予を物憂思て、徳丹清蔵主二人の子を相伴ひ諸国修行に出給。三男龍若丸をは伊豆の国に打捨給」
「関東にも公方管領なくて不叶事なれは…永寿王殿…元服有て左衛門督成氏と号す。龍若丸を元服させ管領に居申ける。右京亮憲忠是なり」
『鎌倉公方九代記』
「憲実の嫡孫上杉五郎憲房は、実には僧周清が子なりと聞ゆ」
『鎌倉九代後記』
「上杉五郎憲房〈顕定養子、実は憲実孫、僧周清子〉」
シュウセイを秀晟とするのは憲実書状と関東管領上杉両家及庶流伝系図
周清とするのは両上杉系図、鎌倉大草紙、永享記、鎌倉公方九代記、鎌倉九代後記など
憲房の父親にするのは後者 秀晟
憲実の書状では三男の禅僧(他の兄弟は兄竜忠、次男竜春、法享、周岱)
竜春は1446年頃に元服して八郎房顕、竜忠は1447年頃に元服して右京亮憲忠を名乗る(憲忠文書集3号文書「於御屋形御元腹、被歓思召…重々賀奉存候、為御祝儀如此御座候」)
系図では京の高倉に住し子はいない
高倉は同系図の憲実実兄・朝方注記にも憲方ー房方ー朝方「京都高倉左馬助」、憲栄ー房方ー朝方「高倉左馬助…於京去」とある(両上杉系図では「号高倉左馬助…高倉卒」)
周清
次男で父憲実・兄徳丹と共に出家(大草紙、永享記)
大徳寺の蔵主(永享記、両上杉系図)
末弟の竜若丸は1449年に元服して右京亮憲忠を名乗る(大草紙、永享記)
還俗して憲房の父となる(両上杉系図、鎌倉公方九代記、九代後記) 憲実書状、法享じゃなく法亨でした
関東管領上杉両家及庶流伝
憲忠(童名竜若丸山内右京亮文安比管領十ヶ国…)―房顕(実憲忠猶子舎弟也…)
僧・秀晟(高倉)
僧・法亨
僧・周岱
女子(比丘尼理度北条園城寺虚中小師)
○一書説
憲忠
周清(初大徳寺僧号文明還俗周岱同人歟追可考)―憲房
房顕
両上杉系図
憲忠(右京亮文安四年…今川播磨守帯綸旨下着…)―顕房(正宗寺本)
女子(北条園城寺理慶)
周清(禅僧号晟蔵主大徳寺僧道号文明後落堕)―憲房・憲明・女子
法興(建長寺長主庵僧後上洛)
周泰(秀岱共云蔵主)
房顕(上杉四郎兵部少輔…) 里見・山内上杉の文書集のようなものをもっと編纂してほしい