南陸奥の小勢力 田村・岩城・留守・国分らを語る
一関田村藩は、忠臣蔵の田村右京大夫邸今生の別れの場面でお馴染みかと。
陪臣ではありませんよね(●^ー^●)
水沢の留守氏や岩城親隆系の岩谷堂伊達氏の格がどうだったのかは…思いうかばないです。
出羽亀田藩に養子入り出来た訳ですから、岩谷堂伊達氏も家格は高かったとは思うのですが(^^ゞ 岩城氏はごく小規模ながらも水軍を持っていたとの説があるが、どうなの? 水練してる人々が組織化されてたらもうそれは海賊認定です ファミコン版独眼竜政宗で
この地方の小大名がたくさん
登場します。
芦名、相馬、小野寺、大崎
最上、田村・・・ 最上は改易されたわりに人気高いよな
田村なんか伊達と関係あっても全く取り上げられない
留守も国分もだけど、マイナーな家の本でも出してくれればいいのに 人気って言うか知名度な。
最上はDQN流政宗の大河での義光役の原田芳雄の怖いキチガイ演技のおかげだよな。 荒れ狂う最上の血を引き継いだ政宗に輝宗も驚いてたしね。 あー原田芳雄の最上義光格好良かったもんなあ
悪役といえどあんな味のあるキャラにしてもらって羨ましいぜ
山形県民は喜ぶべき 田村って、坂上田村麻呂が祖って幾ら何でもネタだよなw 田村荘司は室町時代後期あたりで滅亡して
戦国期は別姓田村になってるから婚姻関係はわからないが血のつながりはないかもね。
だから田村の地を引き継いでない一関田村はさらに関係ない。
ただ家を引き継ぎ、先祖を祀ると言う意味では
田村は存続していると言えるかも知れない。
坂上田村麻呂の末裔ではなかった説と、なんだかんだで末裔な説があるんだよな。
当時は子孫として認識されていたみたいだが
一応土地は変われど細々と田村の血は続いていたでFA?
途中で養子とか入ったっけ? 仮冒なら仮冒で、何でわざわざ坂上氏を遠祖に持ってくるのかという理由が知りたい。 塩松石橋の庶子家ではないかな?という気がします。
多々良流を称していたようですが、疑問視されている事が多いような…。 だとすると相続争いであって下克上じゃなくなっちゃうね。
奥羽じゃ稀少価値の下克上武将なのに…
下手すると津軽為信さえ南部関係者っぽいのに。 本家筋ならともかく、傍流なんだから下克上で良いんじゃねぇの。 そうなんか
今でもやっぱ伊達家とは交流あるもんなんかな
866 名前:人間七七四年 投稿日:2011/06/19(日) 11:00:24.45 ID:VuOGkfDO
留守政景の諱について。
留守氏の通字は「家」だったものの、伊達から養子に入った郡宗以降、
景宗、顕宗と伊達宗家と同じく「宗」を通字として下にしている事から、
伊達傘下の親族大名として遇されていたと思います。
政景が父・晴宗の政略で留守氏を継いだのは、1567年。(政宗誕生年)
伊達宗家は既に輝宗の代になっていたとは言え、中野宗時・牧野久仲親子
が追放される前なので、輝宗は実権を掌握しきれていない状態。
果たして「政景」の名は誰が与えたのか。やはり輝宗なんですかね?
国分盛重も初名は「政重」で、1577年に国分氏を代官の名目で相続。
輝宗次男・小次郎の諱も「政道」説が有力。
よって、養父の顕宗が与えたのではないと思ってますが。
輝宗が、将軍家からの偏諱は諦めて(四弟・親宗は昭光になったけど)、
世子の諱を早い段階から「政宗」と決めていたのだとしたら、
「政」の字を大盤振る舞いな気がするんですよ。
親族の結束を図って「政」の字を与えたなら、父の隠居領を相続した末弟が
杉目「直宗」なのが、ちょっと違和感。
それとも大盤振る舞いではなく、優遇されるべき者が「政」の字を与えられ
たのか?(だったら、従来通り「○宗」で良い気が…)
当初の留守家は傘下の大名だし、政景が信頼厚い重臣となったのは疑いない
ところではありますね。
政景の「政」が政宗に由来しないのなら、政宗元服直後に諱を改めるのが
自然の様な気がします。むしろ、政宗の代になって「政」の字を与えられた
のなら全く違和感ないのですが。
政宗が従兄弟甥の岩城長次郎に「政隆」を名乗らせているのは、
政宗が岩城出身の祖母・裁松院を慕っていた故の優遇と推測しますが、
他に政宗の代で「政」の字を持つ家臣いたかな? >>14
宇喜多直家役で主役やってくれれば良かったね 坂上田村麻呂の三男とされる坂上浄野の系統から田村荘司「浄野―内野―顕麿―(改姓田村)古哲」が出てるけど
同じ浄野流で、内野の兄から山本荘司「浄野―当道―恒蔭―頼次」の流れになってる
坂上氏の正嫡で全国の坂上党武家団の棟梁、坂家長者として坂上本家と呼ばれてたのがこの山本荘司家
坂上頼次は坂上是則と従兄弟の関係にあたる
初代の坂上頼次が源満仲に摂津介に任じられて、代々摂津源氏の御家人となった
三代坂上季猛が源頼光に仕えて、卜部季武のモデルとされてる
戦国時代は三十二代坂上頼泰の頃で、秀吉に仕えていたが、最後は隠居して接ぎ木を発明したり山本郷の大庄屋になってる
この初代山本荘司の頼次直系の子孫に坂上尚親がいて、仁和年間に平姓を賜ってる
だから坂上党の田村氏が平姓を名乗ったってのが真相なんじゃないかな?
平尚親の子孫は坂上姓に復姓して、今出川家諸大夫山本家として幕末まで続いてる
藤原姓田村氏については知らん 中畑清のファミリーヒストリーで集落で一番古い中畑家に伝わる中畑(畠)氏の系図が出てたけど
中畠氏が結城氏っていうのは相当信憑性低いと思う 系線がなく書写した人物は読み書きが出来ないのか記号のような誤字も多いが
中畑晴辰の右隣りに「女晴辰ノ室ノヨシ」とあるから原本では義綱か義親の妹婿という位置づけだったようだ みんな忘れていることがあるよ。茨城県の大子町が陸奥国白河郡だったこと。それに白河軍団のトップが那須氏だったこと。こと
。 田村氏が坂上田村麻呂の子孫を称したのはそこに田村荘を正当性する理由があっただけで
仮冒であっても坂上田村麻呂の子孫って部分が大事だった
奥州藤原氏も鎌倉幕府も伊達も南部も
みんな何かしら坂上田村麻呂を利用してる
延暦寺と長谷寺が諸悪の根元だけど 保科が入ったり安東が入ったりと羽前同様に配流の地というイメージ 出羽まで入ってるけど
戦国時代の南奥羽社会ー大崎・伊達・最上氏ー 吉川弘文館
この本はここまで扱う 国分盛重は伊達家減封による食禄カットに腹を立て、佐竹氏に逃亡しました