佐竹氏を語るスレ 4
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1 名前:新羅三郎義光[] 投稿日:2008/08/19(火) 00:39:40 ID:W7tXt4U7
常陸の勇出羽転封と、その後の「秋田の四倒れ」。
戊辰の役における官軍への対応など等。
話題に尽きない佐竹氏を語るスレです。
控え!控え!この扇二月丸が目に入らぬか!
先におわす方を何方と心得る、出羽国主右京大夫佐竹次郎なるぞ。
一同控え!
85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/15(水) 14:01:06 ID:k1rslc8D
茨城で一番面白い時代は南北朝だと思う
北畠親房がKYで、すったもんだしながら南北入り乱れて、最後に藤氏一揆で瓦解とか
面白すぎるだろw
86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/15(水) 16:53:41 ID:iaCbZZkR
茨城の南北朝はすげーね。佐竹も一枚かんでる。
常陸の軍勢は、京都まで上洛したくらいだから。
87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/16(木) 11:01:48 ID:REot/YPV
南北朝時代はやたら雄大だからね
常陸も全国有数の激戦地になったし
佐竹は尊氏の旗揚げから従い九州まで転戦したように、一貫して北朝方だったが
南朝方が優勢な常陸に於いては孤軍となる事も度々で悪戦苦闘した
北朝の佐竹、南朝の小田・大掾(後、北朝)・那珂
既にこの頃からこの構図ができあがってたんだよな 978 :人間七七四年:2010/10/16(土) 17:41:50 ID:jfWHtVXk
みんな知らないけど水戸徳川はすごい佐竹への弾圧を二度やってるよね
生瀬殺しは有名で、にわかに佐竹を支持する程度の罪の無い百姓を600人惨殺したよね
天狗党弾圧では残党狩りで武田観柳斎の首を妻に持たせながら拷問したよね
それを忘れたの?復権って何?
981 :人間七七四年:2010/10/17(日) 00:14:16 ID:rwi0FBKn
武田観柳斎ってwww
なんで天狗党弾圧で「武田観柳斎」の妻が拷問されんだよ。
982 :人間七七四年:2010/10/17(日) 00:20:44 ID:O4v0a1PA
>天狗党弾圧では残党狩りで武田観柳斎の首を妻に持たせながら拷問したよね
佐竹と関係あるのそれ?
983 :人間七七四年:2010/10/17(日) 00:32:55 ID:kmKnVGS/
>>981
得意げに叩きたがるような手合いに限ってこれだもんなww
武田耕雲斎って言いたかったんだろ
984 :人間七七四年:2010/10/17(日) 01:41:51 ID:1Hij7UwS
武田耕雲斎─水戸藩士
武田観柳斎─新撰組組長
覚えとけよ? 義重は優秀だったのに江戸期の当主は迷君ばっかだったな そんな軍事才能がある当主なんて佐竹の1000年の歴史を見てもいないような・・・ 佐竹の当主って、一部の例外を除けば惰弱なイメージが <これが久保田藩260年の歴史だ!!>※年は藩相続時
初代佐竹義宣 1602年 親父のおかげで勢力拡大も、関が原の半端な態度により秋田に減転封。
秋田移動前の生活程度、家臣の録を維持するために無節操・無計画な鉱山開発や
秋田杉伐採を断行。秋田藩の財政はすでにこの時点で無理があった。
二代佐竹義隆 1633年 地味君。限りある資源にあぐらをかき、藩の抜本的な問題は解決せず。
秋田音頭は義隆への上覧音頭と言われている。
三代佐竹義処 1672年 愚鈍で乱費家と名高い。ついに藩の財政を破綻させる。
四代佐竹義格 1715年 賢君と言われるが若くして死んだゆえの過大評価。改革は失敗。
五代佐竹義峯 1715年 倹約令を廃止したり、家臣の給与を差し押さえ借り入れるなど、リアル馬鹿殿。
六代佐竹義真 1749年 藩主期間4年、二十六歳で暗殺される。
七代佐竹義明 1753年 財政改革失敗。反対派と内乱起こす。
八代佐竹義敦 1758年 絵かくの大好き。飢饉、荒廃、佐竹騒動? それな〜に?
九代佐竹義和 1785年 藩校建設。藩財政再建。歴代藩主唯一の名君。
十代佐竹義厚 1815年 三歳で家督相続。知ってか知らずか雪だるま式に借金をつくる。
十一代佐竹義睦 1846年 混沌とした世の中、困窮しきった財政を解消できず。
十二代佐竹義堯 1857年 歴代藩主きっての迷君。官軍と引き換えに裏切りの称号を県民にかぶせ
わずか一ヶ月の短期間に旧式武器が中心の盛岡・庄内藩相手に
領土の三分の二まで攻め込まれた軍事的指導力・判断力の欠片もないヘタレ。
ぎりぎりの所で奥羽同盟が降参したため、久保田城こそ落ちなかったものの、
どうせ仙台、山形が堕ちれば終わっていた戦争、黙って奥羽同盟を維持していれば
いいものを時流を読めず秋田に無駄な犠牲者・恥辱を残す。
後の歴史を見れば分かるとおり、官軍で終わるかどうかで県民には大差無かっ
た。しかし佐竹氏自身は新政府から初代秋田県知事に任命され、現在まで佐竹
氏の影響力を残すことに成功している。
隣県との醜い争いで流れた尊い血は佐竹氏一族のための血だったのである。 南部藩はもっと凄いぞ。
家老が鳥羽伏見の戦い直後の西郷と会談したのに
西郷の力量を見抜けずに幕府についた。 譜代の井伊や、御三家の尾張が薩長についたのに
鳥羽伏見が終わったあとで幕府についた南部藩はガチにアフォ。 >>4
ただの間違いをここまで胸をはっていう佐竹厨ってw
普通少々の間違いだったらネラーならソフトに触れつつも返信するのが筋だろ 新政府軍についた久保田藩が叩かれる理由が分からん
先見の明のなかった奥羽越列藩同盟の妬みだろコレ? 隣県に随分叩かれたからな。
他県は知らんが秋田の場合、官軍になったからって別に良いこと無かったし。
むしろ無駄な血が流れた。 >>17
> 他県は知らんが秋田の場合、官軍になったからって別に良いこと無かったし。
新政府の殿様に対する待遇がまあまあ良かったとは言えると思う。 庄内藩の一部の村では
西郷の肖像画を家に飾って崇めてるんだよね。 西郷は降伏者に寛大だったからな。
殿様のメンツを立てたのも良かった。 会津とか散々な目に遭っているじゃんお( ^ω^)
久保田にしても新政府に協力しろと言われて協力してみれば
戦争が集結したら用済みとばかり逆に言い掛かり付けられたし
だいたい大減封の上に多額の賠償金払わせられて何が寛大だと言うのだお┐ (´ω`) ┌
しかも百姓に罪はないのに実質百姓から搾り取ったわけだし┐ (´ω`) ┌ いや、寝返ったのは駄目だろ。最悪の判断。
あれのおかげで未だにちょっと歴史に明るいジジイなんかはネチネチ言ってくる。
まあそういう汚名は別としても、隣藩との一連の戦争で秋田は300人以上の戦死者が出ているほか、
市街戦が行われた地域では放火、略奪なんでもあったっていうじゃん。
これって多分無駄な被害なんだよね。日本が近代化するのに必要な血だったとは思わない。
というのも秋田がどっちつくかなんてのは大勢に影響無かったし、
新政府軍が奥羽越同盟の中心である仙台・庄内あたりを落とせばみんな降伏していたんだから、秋田が戦地になることも無かった。
同盟破って得したのは佐竹家とその家臣くらいだよ。 >>23
> というのも秋田がどっちつくかなんてのは大勢に影響無かったし、
そうだよな。 佐竹騒動
当時、秋田藩の財政は、各鉱山産出量の低下に加えて森林資源の枯渇により破綻状況にあった。
この緊急事態に対処すべく、全藩挙げての議論の結果、経済に詳しいコンサルタントを雇い入れ、
その指導のもとに藩財政の建て直しを図ることにした。
そこでお雇いとなったのが既に他藩で実績のある人物。
彼の助言に従い銀札を発行したが(反対意見もかなりあった)、お約束通り、銀札の乱発→
物価高騰→銀札の紙屑化→信用失墜→藩内カオスに至り、その混乱を収拾するため、
招聘したコンサルタントと銀札推進派に責任をおっかぶせて鏖殺した。
この一連の騒動が世に言う秋田騒動である。 最後間違えた。
世に言う佐竹騒動ね。
でも秋田騒動とも言うのかな。 どこの藩でも似たような事やってるんだね
水戸藩でも高名な松波勘十郎を呼び寄せて藩政改革を行ったが
結局失敗して松波親子に罪を被せて殺してしまったし 天明の大飢饉の時の佐竹ってどんな状況だったの?
津軽は米不足で飢餓が始まってたのに
米を載せた船わ京に廻したアホっぷりで壊滅したけど。
>>33
壊滅したというが津軽は維新まで改易されなかったぞ。 改易するかどうかは幕府が決める事だから藩
内がどうなろうと幕府の覚えがめでたければ関係ないお( ^ω^) 津軽は岩木山噴火の火山灰の被害もあり餓死と逃亡で人口半減
伊達は同時期に幕府の金流通を禁止し自藩の銀札の使用を強制したら幕府金と仙台銀札交換レートを考えず崩壊財政の仙台銀札を誰も信用せず物流完全ストップで30万餓死し壊滅。
相馬は1/3に人口激減なるも上下協力し一揆が唯一起きなかった。
南部が一番ヤバかったらしく教訓として後世に残った碑で人肉を喰った絵が描かれていたものが八戸にある。
天候不順と群馬の浅間山噴火などで飢饉を予想して手を打たずに
安値だった米価が飢饉により久しぶりに高値になったので
藩財政崩壊の立て直しをするチャンスと
米を京や江戸に運び出して大飢饉を引き起こした。
白河と米沢は米経済だけに依存してないのでアホみたいな米価格暴騰をする前に早期に金で米を買ったりで死者0で乗り切った。
西国に飢饉は起きておらず米自体は欠乏していない完全な経済政策の失政。
唯一の大藩の伊達の餓死ぶりは有り得ないレベルで幕府から失政の責任をとらされて改易を恐れて徹底的に隠蔽したので被害拡大した。
伊達は慶長の飢饉で崩壊が続き
徳川家光の寛永の大飢饉で完璧な財政崩壊をしてたので米価格高値に目が眩みすぎ。
はやく要害制度を廃止しリストラして武士による搾取体制から脱却すべきだった。
民衆への過度な労役による運河作りは平時は米安値叩き売り、高値の時の売却で大飢饉と伊達の水堀運河は飛散さを増しただけの無駄。
佐竹とか他の藩は知らんな。 佐竹家北家がお粗末だったせいで十和田湖を青森に取られた >>36
> 唯一の大藩の伊達の餓死ぶりは有り得ないレベルで
幕府から失政の責任をとらされて改易を恐れて徹底的に隠蔽した
伊達領には幕府の密偵も忍び込んでいたと思うが、
なぜバレなかったのだろうか? 大借金藩の伊達を改易しても
借財を引き継いでまで代わりに仙台へ行くアホはいないし
幕府も伊達の大借金を肩代わりするわけがない。
完全に仙台の無能ゆえの杞憂。
仙台にそうまでして継承する価値はない。 30万が餓死とか南京大虐殺並のネタだおね( ^ω^) >>40
東北で起きた天明大飢饉の影響
日本の人口
安永9年 2,601万
天明6年 2,509万
100万人も激減してます。 伊達統治下になってからの仙台は
飢餓地獄藩で良いことなんて何も無かった。 政令指定都市になれたのは伊達家のおかげなのに何贅沢言ってるの? 行政の見栄の為に民草が犠牲になるのはいつの世も変わらない 常陸の佐竹旧臣としては羨ましい
茨城は天庵様に逆襲されつつあります
旧佐竹領はもう駄目だ イバラギではあるが
龍ヶ崎は伊達藩の飛び地だったわけだが。 水戸は呪われてる
本拠地が太田城のままだったら
違った結果になっていたと思う 太田じゃ狭くて不便過ぎる
だけど確かに水戸は呪われてるかもしれないw
本拠地置くなら土浦辺りがベストだと思うのだが佐竹領じゃないし
府中あたりがいいかな
義昭が長生きしていたらそうなっていたかもしれない 照英の曾祖父の実家は佐竹に鐙という名字をもらったらしい 納豆じゃないお?( ^ω^)
そう言えば頼朝から貰ったという扇は現存してないのかお( ^ω^)
やはり屈辱的な物だったから頼朝の居なくなった後に
「こんな物いるかお(#^ω^)ピキピキ」と投げ捨てたのだおうか( ^ω^) 助命された山入はその後どうなった?
出家?謀殺?処刑? >>55
佐竹本三十六歌仙絵巻
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E6%9C%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%AD%8C%E4%BB%99%E7%B5%B5%E5%B7%BB
このスレ住人としては
佐々木倫明氏の佐竹氏研究の評価はどうなの?
市村高男氏の研究には、佐々木氏の研究はほとんど(全く?)引用されてないし、
逆もまた然りのような気がするが。
まあ気のせいかもしれないがね・・・ 実物の土崎の城は見てないけど、今の土崎神明社の所。
城としては役立たないでしょ。
その近くなら旧出羽の柵跡地がいい。
久保田に移ったのはそれで正解と思う。
旭川を境に内町と外町に分けて新たな町づくり。
そして400年の時を経て土崎と秋田(久保田)が融合して。 土崎港城は要塞というより、交易管理施設の意味合いが濃かったのかな? >>66
ま、安東氏でさえ、有事に檜山城に立てこもったくらいだからな >>67
半年くらい籠城できたんだっけ?
奥羽の城としては要害というか上出来だね。 石垣とか堀とかで守備力をアップさせることは可能だったのかもしれないが
その土木工事にかける費用がなかったんだろうか。 いや単に佐竹は石造りの城を作れる技術が無かったんだよ。
義宣自身がそう言ってるんだから。
>>66が言うように、そもそも義宣はあんまり防御施設としての城を
あまり重要視してなかったらしく、親父に「こんな城で大丈夫か」と聞かれて、
「城から出て戦争することを心掛ける(ニュアンスとしては、「常識的に考えて、
これからの戦争は野戦で片付けるのがトレンドだろ」)」的なことを言ったとされている。
佐竹はホームゲームでの野戦では粘れる能力があるからなあ。
当時は沼とか泥田んぼや雑木林などあって地理的に守りやすかったんだろうなあ。
地勢を熟知している側は夜襲もできた。 石垣技術は大半の大名が持ってない。
伊達の仙台築城も宗薫に金だけ出して丸投げしてる。
宗薫は近江から技術集団を仙台に派遣してる。 裏は竜の口渓谷だしね。あそこは地層の観察に向いてる。亜炭層もある。
八木山橋からは、たまに投身自殺もあったらしい。 >>71
太田資正譲りの軍略家、梶原政景の知恵は出なかったんですかね? >>77
義宣の第一の政策は、有力一門をはじめとした伝統的家臣団から
施政関与権力を奪うことにあったので、そういうことはさせてないと思う。
だから梶原政景が逃げたのも無理はない。
もし政景が佐竹に留まっていたら、義宣は政景を殺害した可能性が高い。 太田や久保田で石垣構えをしなかったのは、金子が枯渇していたことが主な理由だろう。
石垣作りの技術は秀吉時代で桃山城や大坂城普請で石垣を沢山作ってる事実があるのだが。 >>80
佐竹は石垣の技術を必要としないところを受け持っていたのよ。 金堀衆も動員して堀や土塀を作ってたんじゃない?
佐竹はそっち系の技術は凄そうじゃん。
鉱山開発なんて奴隷並みの扱いが出来る環境と労働資源があったらどこでも誰でも出来る 金堀衆も技術集団で大名家はその技術が流出しないようにしてたよ。
だから分け前なんかも金堀衆からぼったくり出来んかった。 石垣も金堀も職人が行っていたし大名家自体は技術とか関係ない
いかに有能な職人を抱え込むかという問題
佐竹には石垣職人がいなかったのは間違いない
梅津 訂正
石垣も金堀も職人が行っていたし大名家自体は技術とか関係ない
いかに有能な職人を抱え込むかという問題
佐竹には石垣職人がいなかったのは間違いない
佐竹が天下普請で石垣を命じられた時
佐竹家では石垣を造った経験がないから掘担当にして欲しい
と願い出たと梅津政景が記している
逆に有能な金堀衆はいたようだ
佐竹転封の後に水戸徳川家が金堀職人を集めて金山や銅山の開発を度々行ったがことごとく失敗した
それらの鉱山は明治以後に再び結構な量の金や銅を産出したから枯渇していたわけではない
佐竹の方は出羽でも鉱山開発に成功している 赤館や小幡をあそこまで整備したのはおそらく佐竹だろ。
石垣こそ駄目だが、実戦的な城作りならお手の物じゃねーか。 須賀川合戦で殿軍して討ち死にし
味方を無事に帰らせた河合忠條と
茅根通正はサムライだったな。。
奥羽永慶軍記―須賀川落城のこと
佐竹史探訪―秋田さきがけ新報社
に詳しく書かれてるが。。。 >>88
出羽に行ってから粛正された「川井」って、河合忠條の近親者? 河合は身を捨てて味方を生かした
功労者でしょ
カワイ違いだ >>85
佐竹氏は、別に石垣職人を抱えて居なかった
別に珍しくないよ
戦国時代石垣造りは、主に西日本の城だよ。
東日本は、主に土塁が主流でした。
江戸時代になっても使わなかったという点では珍しいと思うお( ^ω^)
特に大藩の中では( ^ω^) >>72
久保田城から南を見て、今の秋田駅あたりから東は沼地だったみたいだね。
佐竹・秋田知事が脳出血で入院 県は2日前に虚偽説明
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/2011041401001143.htm
秋田県は14日、佐竹敬久知事が脳出血のため当面の間、入院すると発表した。
症状は安定しており、大型連休明けの5月9日にも公務に復帰する予定という。
県は2日前に症状を把握していたが、脳疾患を否定する虚偽の説明をしていた。
県によると、急激な血圧上昇による少量の脳出血。会話には問題ないが、
「左手が動かしにくい」と訴えているという。
佐竹知事は12日、体調不良を訴えて記者会見を途中で打ち切り入院した。
県は12日夕には病院側から脳出血と聞いていたが、
「現時点で脳疾患の心配はない。静養を兼ねて検査入院した方がいいと医師から言われている」と
虚偽の説明をしていた。
2011年04月14日木曜日 もう年なのに復興支援頑張りすぎなんだよ
そしてやっぱ脳溢血の家系なのか… もう年なのに復興支援頑張りすぎなんだよ
そしてやっぱ脳溢血の家系なのか… >>103
こっちで、盛り上がってる。なんか「殿、がんばれ」「殿、休め」とか
いきなり家臣が増えてやがる。w
ttp://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1302665080/ いつのまにか、こんなスレまで出来てやがる
病床の秋田県知事・佐竹敬久公にエールを送るスレ
ttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/mayor/1303048193/ 震災直後は「枝野、寝ろ」と持ち上げた連中も
今ではすっかり熱が冷めてメタボ呼ばわり。
民衆なんてそんなもん。 枝野ねろ、よりか、殿ヤスメ、だよな。
こんなタグも広まれば面白いんだが、
さすがにそこまでは無理か。 今回東日本を破滅に向けた、悪魔の家系佐竹氏族。
この戦国時代のスレに存在しているのがネット時代として
日本最大の不幸であろう。
こんな屑家系を語る必要はない。
二度と子孫を作らせず、家系ごと日本から葬れ。
赤子が出来たら包丁で殺せ。 鎌倉時代は頼朝の敵、戦国時代は家康に中立、幕末は官軍の味方。
少しずつ成長してるな。 佐竹歩くところ自殺者多数。
死に神一族、「佐竹氏」
佐竹歩くところ自殺者多数。
死に神一族、「佐竹氏」
佐竹歩くところ自殺者多数。
死に神一族、「佐竹氏」
佐竹歩くところ自殺者多数。
死に神一族、「佐竹氏」 佐竹の歴史。
平安末期、源平、奥州征伐
時勢を読めず平氏について源頼朝に負け所領を没収される。
その後頼朝の犬になる
南北朝
南北朝時代では北条氏の残党ごときに敗れる。
足利直義と足利尊氏での戦いでは足利尊氏に付くが苦戦しまくりその後時勢が読めず勝てないからと直義につき足利尊氏に負ける
その後も楠正家に負ける。
戦国時代
小田に負けるが上杉謙信公のおかげで逆転勝利。
北条に攻められるが上杉謙信の援軍のおかげで助かる
北条に攻められるが武田信玄公に助けられる(同盟でいいように使われる)
北条と武田が和睦しまた北条が攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
安土桃山時代
芦名に潰されかけるが上杉の仲介で助かる
伊達に人取り橋で負けた後に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付き豊臣に来てもらう。
豊臣が来たからと手も足も出なかった北条をここぞとばかりに攻める。
江戸時代
上杉が義を忘れずに豊臣につくが佐竹は明確に徳川に付くがなぜか東北のど田舎に減封される。
江戸時代ではずるして石高を過少申告する。
大阪の陣では後藤基次に佐竹義宣が殺されかけるがまたまた上杉に援軍に来てもらい勝利。 まあなんだかんだ言っても、平氏時代から明治維新まで続いたのは凄い。 うむ、名門中の名門だしな。
江戸時代なんか、平民大名が多い中、数少ない名門だった。 >>127
>佐竹は明確に徳川に付く
明確についていたら転封されなかっただろ。(後で潰されたと思うがw)
幕末には明確に徳川を潰す側に回ったけどな。(評価されなかったがw) >>128
安東島津並みに古い家だもんな。
南部?何それ?と言ってもいいくらい
歴史と由緒がある。 地元に居続けた相馬と島津に比べたら佐竹や安東はまだまだだな。
おそらく一番すごいのは相馬 戦国期権力佐竹氏の研究 / 佐々木倫朗 買った人いる?
以前出した論文と内容は一緒なのかな? >>133
相馬御厨はかなり早い段階で手放してないか?
このスレの主役のせいで >>10
初代秋田県知事は佐竹ではない。
もっと勉強しろよ
家中で武勇、智謀に優れたのは、
誰がいるんだろうか?
どうも当主の名声ばかりが高い気がするのは、おれが素人だからだろうか? 和田昭為とか。
一度佐竹家から出奔して、白川結城氏に仕えるが
佐竹が白川を攻めた時に内応、義親を捕縛して佐竹に帰参してる。
小貫頼久、人見藤道と並んで佐竹の三奉行と称された。
主に外交で活躍。
北家の佐竹義廉も外交で活躍して、若年の義昭を補佐してる。 あと陰流の開祖・愛州移香斎も常陸の出身だっけ
子の宗通は佐竹に仕えてるな 政治、軍事に活躍したのはこんなところかな
和田昭為
小貫頼久
人見藤道
岡本梅江斎
岡本顕逸
佐竹義久
山形篤定
船尾昭直
荒巻駿河守
小野崎義政
大縄義辰
真壁氏幹
車丹波
赤坂政光
赤坂朝光
根本里行
渋江政光
梅津憲忠
梅津政景 それ。佐竹血脈だけじゃん。
佐竹と宇都宮の関係から考えようぜ。 100万石大名について
258 名前:人間七七四年 投稿日:2011/05/31(火) 16:18:52.60 UcK7r4hU
1 佐竹氏 ・清和源氏を祖とする佐竹氏本家。 54万5千4百石
2 蘆名氏 ・当初は奥州の有力大名。義重の次男義広を蘆名家当主とした。 5万石
3 岩城氏 ・奥州藤原氏と関係が深い。義重の3男貞隆が家督を継いだ。 12万石
4 多賀谷氏 ・桓武平氏を祖とする名門。義重の4男宣家を養子と迎え当主とした。 6万石
5 宇都宮氏 ・義重の甥、国綱が当主となるが浅野長政の不快をかい改易される。 18万石(改易)
6 相馬氏 ・佐竹氏とは親戚関係。関ヶ原の戦い後一端改易されるが復権する。 6万石
佐竹ホールディングス101万石
これの誤爆じゃね 何度も言われてるけど会津落ちした後の蘆名氏は大名じゃないから
太閤検地の帳簿でも蘆名氏の領地は佐竹氏54万石に含まれている
だから佐竹氏と別に換算するのは明らかに間違い
それと大名時代の宇都宮氏は別に佐竹氏の家臣でも与力でもないし、単に縁戚関係があるだけで行政的には関係ない
宇都宮氏も那須七騎の一部などを与力として付けられて
言わば宇都宮ホールディングスを形成していた 車丹波の武勇伝おせーて
水戸城明け渡しで、
ゴタゴタ起こしたの以外で 佐竹義昭に讒言して、和田昭為を白川氏に走らせ、その一族三人を殺すとか 常陸の美人を秋田に連れて行った佐竹。
DNAで、秋田美人。 >>150
いや、当時は義重だ
義昭は数年前に死んでいる
事の経緯としては
和田昭為が葦名方と内通していると車斯忠が義重に密告
義重が事の真相を確かめようとしたところ昭為は一人で会津へ出奔
その後、白川結城氏に仕えた
これに怒った義重は北義斯、小田部五郎右衛門らに和田氏の討伐を命じる
昭為の子(兵部、彦十郎、善九郎)と一族郎党は篭城し善戦したが、衆寡敵せず全員討ち死にした
と言う事らしい
で、結局昭為の内通疑惑は斯忠の讒言であったらしいが
あくまで和田家の家譜によるものだから鵜呑みにしていいかは分からない
でも、斯忠はかなり素行に問題があったらしく何度も暇を出されたりして
佐竹家、岩城家、蒲生家、上杉家などを転々としているから実際怪しげな感じではある >>149
佐竹家の鉄砲調達などに活躍し、武勇も優れたが
民政は苦手だったらしく、領地の治世に失敗して岩城氏の下へ逃れたこともあるらしい。
咳が元で発見されたって話しもあるらしく、咳の神様として祀られている。 花の慶次に出てきてもおかしくないよな。
いまいちなキャラになりそうだが。 慶次と接点あるとすると、
関ヶ原直前、上杉に派遣されたときだな
大将格の浪人の一人として、
面識持ったに違いない でも、会津落ちの芦名4.5万石が、
佐竹54.5万石の内数とは知らなんだ。 大名格の扱いはされていたけどね
佐竹義久と似たようなもの 総無事令発令後の滅亡なのだから、
会津復帰は無理でも独立大名として、
領地宛がわれても良さそうなもんだが 豊臣家が平定した時点の勢力範囲が有効なようだ
総無事令後でも領地の管理は自己責任という事なのだろう
佐竹も伊達に取られた石川庄辺りの領地は返して貰えなかった 葦名も佐竹も総無事令を気にして、
思い切り動けなさそうだし
一方の伊達はそれを鼻で笑っただろうし
やっぱ理不尽だよ 一番理不尽なのは北条征伐で佐竹方で参陣したのに鹿島一族と一緒に謀殺された島崎氏だよ。
ところで塚原卜伝の時代劇化決定したな。真壁氏幹出ねえかな
モブとして出るかもしらんね<真壁
それより堺雅人が卜伝役というのはどうなのよ? >>167
それは、つまり佐竹が理不尽な行いをしたってことじゃん 島崎氏は恐らく佐竹の旗下に入るのを拒んだ為に討伐されたものと思われる
この期に及んで総無事令を無視など出来る訳もなく、豊臣政権の主導もしくは許可の下で行われた事は間違いない
江戸氏や烟田氏、小野崎氏なども小田原へ参陣したが滅ぼされている
江戸氏はどちらの陣営につくか決めかね、家臣の一部だけを佐竹氏に同行させたが
戦後も佐竹氏の旗下に組せず討伐を受けた
笠間氏も同様で、家臣の一部を宇都宮氏に同行させたが、戦後宇都宮氏に討伐された
島崎氏も当主の名前がない事から家臣だけ参陣させた可能性がある
放置してたら肥後一揆や九戸の乱みたいなことが常陸で起こって根斬りされまくりの大虐殺がおきていただろうから
あれはやっておいて正解。
まあ旧北条家臣に対する見せしめとしても機能したんじゃないか?
豊臣政権公認の家康に服さない場合はこんなことになりますよ的な。 佐竹昌義の長子・太郎忠義は府中大掾氏を継いだと佐竹氏の系譜に載っているけど
この家系はどうなったの?
大掾氏の系譜には載ってないようだけど
忠義は後に頼朝方と戦って死んだようだが、これで断絶して大掾氏の一族が継承したという事?
確認されている子供は片岡常春正室のみ
また大掾氏自体が多気氏から馬場氏に交代しているから佐竹はあまり関係ない
騙し討ちした佐竹義季の子孫はどこいったんだろ
また美濃佐竹・土佐佐竹ってのがいるらしいがどの系統なんだろ >>173
義季の嫡男は上記の忠義の養子になって後に国分氏を名乗ったらしい
次男の義心は叡山に上って出家した
美濃佐竹氏は佐竹秀義の子、六郎義茂(南酒出氏)と八郎季義(北酒出氏)がそれぞれ領地を与えられて立てた
土佐佐竹氏は恐らく無関係 少なくとも佐竹氏(常陸)の系図類には土佐の記述はないと思う >>184
平氏時代から明治維新まで完走したのは凄い
>>189
あ〜、確かに。知事室に不忍池の絵の複製を飾ったりしてな。
こないだは全国知事会とかやってたみたいだな。
当たった割には、お元気そうでな。 死滅する家系と言うことで、水戸黄門も終わったね。
さようなら 地味に大藩だな
五大老に推挙されてもおかしくなかった 室町時代後期に(金銭を払って)関東管領にならないかというオファーはあったのではなかったか? 管領職を自負していたから関東管領はあまり魅力を感じなかったのではなかろうか >>196
関東管領の上杉氏から実際にオファーはあったらしいが。
佐竹は由緒ある源氏なんだからカネで関東管領のポスト買わないか的に。 佐竹側の後世の記録のみだがな
憲政も逃亡中で記録する暇無かったのか、米沢上杉が破棄したか、援軍欲しい使者の口から出任せか、佐竹の捏造か 源氏の名門中の名門佐竹の名を捨ててまで格下の上杉を名乗る気はないとのこと 佐竹義宣は凱旋する武蔵守秀忠を相模国平塚まで迎えに出ましたが、時すでに遅し!
徳川家康は佐竹の観望反復を咎め、水戸から出羽久保田へ18万石格で電報を命じた そんな事言ったら99.9%ぐらいの家は別物になってまうがな
でも関東管領への打診があったという信憑性が高いのはこの点だよな
血縁関係的に佐竹を頼るのは凄く自然な事だ
だが、佐竹的には将軍家と同祖なわけだし
その家来筋の姓になるのは抵抗が強かっただろう
まあ、現実には敢えて北条を敵にまわしてまで手にいれる価値がないと考えて丁重にお断りしたのだと思う
この頃、義昭は北条とも連携をとりながら順調に勢力を拡大していたから 佐竹と後北条の微妙な関係に関する論文とかはあるの?
上杉一門出身いうたって初代義人から上杉氏と敵対してんじゃん 南義里の跡を継いだ義尚
西義忠の養子になった小場幽庵が義重の弟 佐竹義重の兄弟達
〇女
佐竹義昭の娘。
岩城親隆の室となる。
〇佐竹五郎義尚
佐竹義昭の次男。母は岩城重隆の娘。義重の同母弟。
佐竹(南)義里の養子になり南家を相続した。
次いで上那須衆の要請で那須氏の当主になるべく那須資綱と名乗り
重臣荒巻篤応らと共に那須入部を試みるが那須資胤の反撃で失敗し南家に戻った。
後に常陸府中城主(石岡市)となり6246石を領したと言われるが、これは恐らく子の義種と思われ
義尚は元亀2年(1571)8月29日に22歳で没したと見られている。
道号 悦岳 法名 大喜
〇小場三朗義宗
佐竹義昭の三男。母は岩城重隆の娘。義重の同母弟。
小場城主(常陸大宮市)小場義忠の娘を室とし小場氏を継ぐ。
その正室は嫡子義成を産んですぐに没したので
義重の命で石塚城主(城里町)石塚義国の正室を継室に迎え(義国は子が無く没していた)石塚家の統治も義宗が代行する事になった。
後にその継室との間に生まれた子が石塚義辰と名乗り、石塚家を相続した。
他に荒川秀景の次男を娘婿に迎えて小場宣忠と名乗らせ隠居遺領を相続させた。
義宗は領地を接する大山城主(城里町)大山義景と不仲で度々領地争いを起こし、合戦にまで及んだ事があると言う。
後に義重の命で和睦し起請文を取り交わしている。
秋田転封後は出羽仙北郡六郷に住した。
慶長16年9月25日没、享年60
道号 大雲 法名 宗碩
小場氏は義宗を養子に迎えた事で家格が上がり、秋田転封後は西家を名乗り家中筆頭の地位を占める事になる。
〇女
佐竹義昭の娘。
石川昭光の室となる。
〇南呂院
佐竹義昭の娘。
宇都宮広綱の室となる。宇都宮国綱、結城朝勝、芳賀高武の母。
天正4年8月7日(1576年)、広綱が32歳で没し後を継いだ国綱は9歳と若年であった為、実質的に南呂院が家中を取り仕切った。
兄義重と協力して北条氏などの侵攻を防ぎ
子の朝勝を結城氏へ送り込み佐竹氏・宇都宮氏・結城氏の三国同盟成立に一役を買った事などが知られる。 義昭が南を、義重が北を指揮出来てたら夢がひろがったな
そんな単純にはいかないか… でも実際そういう構想を立ててたんだよな義昭は
義昭が府中を拠点に南下して義重は太田を拠点に北上するという感じで
まあ、義昭が早死にしたから頓挫してしまったが半ば成功していただけに惜しい
義昭も死ぬ前に弟を自分の代理に立てたが、さすがに支持を得られなかったようだ 義昭のことは詳しくは知らないけど、wikiを見る限りだと大した実績。
もっと評価されていいと思うんだけどな。
謙信とは2つ違いで、義重よりもいい関係を作れた気がするし
本当に早世が惜しまれる。 伊勢は時勢を読めずに滅びたし、結局佐竹の勝ちじゃない? そういう長期の話をしだすと父祖の地を追い出された佐竹も微妙に 父祖の地を追い出されなかったが放射能をばらまかれた相馬も微妙。 大関氏とは仲がよかったのかな
義宣が晴増と蹴鞠で遊んでるけど 那須宗家とは不仲だったけど大関ら上那須衆とは義昭以来親密だったようだね 那須資晴は義宣の正室の兄じゃなかったっけ
不仲だったの? 北方への調略は順調だけど、
同じ常陸国内でも、南方への調略が駄目な印象
どいつが担当してたんだ? >>231
もともと那須と佐竹はぶつかり合っていたが
何度やっても那須に勝てないので
義重が縁組による和睦を持ちかけたんだよ。
>>232
特に担当は決まっていなかった気がする。
独立心バリバリな国人ばかり揃っていた印象。 そういや常陸太田の佐竹寺は震災被害はなかったのか?
全く情報がつかめないんだが
>>232
南方は江戸氏、大掾氏、真壁氏、太田氏などが間にいて周囲を切り取っているので
基本的に彼らの支援が佐竹氏の役目だった
だから佐竹氏の主戦場は領地の接する南陸奥だったわけだ
>>233
それは那須記の記載であって実際はやはり佐竹氏が優位だったようだ
それで那須氏は娘を正室に出す事と領地を割譲する事で佐竹氏と和睦をした
それ以後は大きな衝突は起きていない
まあ、那須方は劣勢ながらもなんとか佐竹の主力と引き分けたり
佐竹方の東氏や長倉氏を破ったり
佐竹氏が烏山城を包囲した事もあるけど何とか持ちこたえたりと
かなり精強だったのは間違いないけど
>>234
震災の後、仕事で太田に1ヶ月ぐらい通ってたけど
外から見た感じでは変わりなかったよ
でも常陸太田市も道路はボコボコだし橋はほとんど通行止め
市内でも古い家屋は全壊しているものもあったから恐らく佐竹寺も壁が崩れたり石の構造物は壊れたりしたのではないかと思う
常陸国内は笠間城の天守台が崩落したし土浦城も櫓や門が損傷したようだね
下野でも大田原城や黒羽城見てきたけど地割れや土塁の崩落
建造物(休憩所とかトイレ)も倒壊してたりと被害は少なくなかった
茂木城は意外と無傷だったけど
櫓も普通に登れたし 茨城も被災地なのにどうしても福島岩手宮城の被害と比べられてしまって
援助も後手に回ってるみたいだね。
知名度の高低よりマスコミの報道に問題があるように見える。
県としても県民の生活優先で文化財どころじゃないんだろうなあ。
http://news.livedoor.com/article/detail/5857259/?utm_source=m_news&utm_medium=rd 佐竹関連調べてたら、常陸の旧城主が土着して城の付近に今でも住んでいるという家が結構あるんだね
まあ、殆どが嫡流じゃなくて次男以下の子孫だけど 小場(西家)、南家、大山、長倉、山方、高部、大沢、赤垣、江戸(水戸)なんかは次男や三男が残って浪人した
その後、他家に仕官した者も多いけど >南家(中略)次男や三男が残って
南義種には弟がいたのか
一人っ子かと思っていたよ 南家はとーちゃんが死んでかーちゃんは実家に帰ったから一人っ子だろ 上杉と共同で当たっても徳川勢の半数だし無理
籠城戦に持ち込めば何とかなるかもしれないけど
上杉も佐竹もたいした城ないからな 佐竹が日和ったと見るか、上杉が煮え切らなかったと見るか 佐竹には徳川憎しの一念がないから、積極的になれなかっただろ。
だから上杉に梯子外されて、困ったな。 言われてみればそうだな<佐竹には徳川憎しの一念がない
それで2年も経ってから左遷されたのに、3年後には5000石加増されたのか 佐竹も大藩だから突然手紙一本で石田方に付けと言われても藩論を統一するのは無理だよ
事前に義宣と相談していればまた違ったかもしれない
もっとも義重や義久は次の天下は徳川とみて近付いていたようだから三成も警戒したのがしれない 義宣も積極的に石田側に付こうとしたわけじゃなさそうだね
もし本気で味方する気なら反対論を押し切ることも出来た
伊達も万が一徳川が負けた場合の保険として
水面下で佐竹と和睦する動きを見せている
結局、東北で本気でガチンコしたのは最上と上杉だけか 義宣の側近どもは国を大きくする機会だと意気込むも、
実際に兵を抱えている家臣団を反徳川にまとめるのはたいへんそう。
伊達を攻めるぞ!となれば見境なしにやるぞ!となるかも知れないが。 そもそも佐竹は徳川方に付くのが前提だったし
石田方への荷担に積極的だったのは徳川に怨みがある多賀谷重經と結城朝勝ぐらい
本来なら佐竹は徳川に加勢したところだが、それには一つ問題があった
石田方に人質を取られていた事だ
結局のところ、この人質問題をどうするかで結論が出ずに、消極的徳川支援と言う形に成らざるを得なかった
義宣がバッサリ人質を切り捨てる事が出来れば佐竹の運命も違ったかもしれない
もっとも、仮に徳川方で活躍しても転封は避けられなかっただろうけど 石田方の人質というと、正室と母上?
徳川からも改めて人質を出すよう言われて「妻と母が既に(ry」と断ったら
「じゃあ弟のうちの一人を出せ」だの「正室と離縁して徳川養女を妻に」だのと
詰め寄られて閉口したというが そういえば、東軍が反転するときに
家康は息子や伊達に上杉に
チョッカイ出すなと厳命されていた佐竹にも命令は届いたのだろうか?
上杉から佐竹へ婿養子が来たこともあったな
でも謙信と義重は仲良しこよしってほどでもなかった
義宣と景勝はどうだったか 数寄者義宣と堅物景勝
一緒に遊ぶことなさそう
でも二人揃って、伊達にイタズラされてた逸話があったような? 織田に攻められ滅亡覚悟のレターを出した景勝を知る義重さんからすると
今回も景勝のやつロマンに浸って軍事的冒険か・・・息子が感化されてはたまらんと思ったのかもな。
でもさ、もし積極的に佐竹も上杉と協調してたら
家康は敗北してたと思われ。 万が一佐竹が積極的にやったら
上杉討伐軍が真っ先に常陸に乗り込んできて、佐竹領が焦土になったと思いますw
会津と違って天険もないから八方から攻められ放題。
やっぱり義重・義宣は利口だよ 常陸南部は沼沢地だから
やはり栃木や埼玉方面に進出すんじゃないか?
常陸へ上杉が進出するだろうか? >>255
> もっとも、仮に徳川方で活躍しても転封は避けられなかっただろうけど
だと思うね。
転封前に400年、転封後に400年
佐竹はしぶとい
>>261
わざとらしいほどメンツが揃い過ぎているから、後世の創作だな
しかし政宗がどれほど周辺諸国から嫌われていたかがよくわかる >>264
土浦や笠間は徳川方だから沼沢地で迎え撃つのも難しい
特に笠間は水戸に近いし途中に大した城もないから防衛戦には不向きだね
水戸を取られると領内が分断されて詰むし 当時の常陸国の地図を見るたび感じるんだが
南北じゃなくて東西に分かれてるんだよな、鬼怒川のせいで
霞ヶ浦も今みたいな綺麗なY字型じゃないし
>>266
そら、あんだけヤンチャかましまくって周囲に迷惑かけて信用まるで無しなのに、
時の権力者からは優遇もされないまでも何故か処断もされず
60万石越えの大大名に治まりかえっていたんだから面憎かろうよ 土下座力は随一だから…
義宣は源氏出自ゆえプライドあり過ぎた >>269
笠間は常陸だよ
笠間氏→宇都宮国綱→蒲生秀行→松平康重→小笠原吉次→天領→松平康長→永井直勝→浅野長重→以下略
小幡城や多気城(つくば市)は関ヶ原の時に拡張したとも言われてるけどどうなんだろうね
小幡城は街道(国道6号)を取り込んだ広大な城だったみたいだ
土浦から北上してくる敵を食い止めるつもりだったのだろう
あの城を完全復元してもらいたかったのに高速道路造られてしまってはもう無理だな・・・ 豊臣政権下での義宣の交遊関係は
どうだったのかな
源氏直系ってことで、
土民上がりの豊臣大名からは
ちょっと声掛けにくいとか?
孤高なイメージだわ >>273
> 小幡城は街道(国道6号)を取り込んだ広大な城
あれはなかなか意欲的な築城だったと思う。
想像復元図はどこかに公表されているだろうか? 全国指折りの石高なのにあれだけ目立たないってのも凄いな。 佐竹って何でマイナーなんだろうね
>>274
数寄者仲間の古田織部とは親密だったようだ
関ヶ原の時も伏見屋敷の宝物を有事に備えて織部に預けているし
大坂の陣でも、織部が佐竹の陣に遊びに行って鉄砲玉が当たった笑い話が知られている
>>276
外郭まで含めた復元図は見たことないね
歴史群像辺りで取り上げてくれると良いのだが 義宣は積極的にはっちゃけるタイプじゃなかったんだろうな
誰かと特別親しくならない代わりに、特に敵対する相手もいなかったと思う
伊達と衝突するのも義重の代で終わった感じ >>259
今更ながらその養子 佐竹義人は永享の乱から結城合戦、享徳の乱まで終始上杉家と対立してたんだよな 義宣が七将襲撃の時に三成を助けた話も逸話であって
史実じゃないしな。 >>281
史実だと思ってたよ。
逸話と史実でどの辺が違うのか、よかったら教えて。 「佐野地より東のこと」を「一円に彼両家(宇都宮と佐竹のこと)渡進」し
「何遍仕置等任せいるべき」ことを太田資正を通じて約束する
上杉との確執は根深く残っていた気がする。 >>281
自分も史実だと思っていた。つか、創作説は初耳。 光成氏が笠谷氏の論を紹介しながら七将襲撃の状況を説明していて
三成は逃げずに伏見の自邸、おそらく伏見城内の治部少丸曲輪に入って
小西と寺沢を輝元に遣わして、
輝元による家康への反攻を促してる。
小西や寺沢は大坂はすでに家康方によって出入りを禁じられ
支配されてると輝元に伝えたらしく
大谷も三成に加担するのはよくないが下屋敷へ下がるのもよく無いから兵を揃えて家康と対峙するのがよいと言ってる。
伏見には三成のほかに増田・前田玄以も籠城して家康と対峙しており
結局、三成と増田がこの対立を毛利と上杉に委ねることとして
三成のみの処分で解決するが(増田もただではすまないでしょうとも)
三成がショボーンしてる書状を安国寺から渡されたようで
それを読んだ輝元が涙が出るほど悔しがってる。 >>285は「佐竹が三成救出に関わっていなかった?」に対する答えかな。
佐竹が関わったのは前田邸からの脱出〜伏見または治部少丸までだから
三成を助けたことに変わりないのでは? 義宣が三成を助けて前田邸から送ったってのは
どの史料に載ってるの? どれもこれも微妙な二次史料だね
石田の手紙には書いてないの? どれも佐竹を持ち上げる必要も無いし、他に史料が無い以上、違うとは言えないんじゃないか? 仮に救出に対する礼状を受け取っていたとしても
水戸城引渡し前に処分したか、あるいは赤館・棚倉で焼き捨てているだろう。
徳川方の史料に何かないだろうか。
違うと言ってるのは別の人だよ
史料あげてくれてありがとう >>292
棚倉で焼き捨てってのはなにかに載っている話?
そのときは誰が棚倉に入っていたんだっけっか? 誰が居たというか、転封の時に棚倉に集合したんじゃなかったっけ?
義宣は直ぐ様水戸を立ち退いて移動するように支持を出して、義宣自身は水戸に寄らずに秋田へ向かったはず 和田昭為宛ての手紙に
「南郷者にもつののけ所に 内府様より被仰付候間、其分にいたす可候」
とあるね。
同じ手紙の中で、蔵にある墨蹟等を焼き捨てて掃除するよう指示もしている。 佐竹は常陸から出羽へ国替えして、イメージが薄くなった
島津とかはご当地大名として有名なままだけど。 >>297
戦国以来のご当地大名のまま維新を迎えたのは、島津と相馬と伊東と宗と、他はどこがある? 佐竹も大河やりゃいいのにな
最初は北条と戦いながら常陸統一で後半は伊達とだろ?
脚本次第じゃ面白そうなのに >>298
蠣崎、南部、大田原、大関、遠山、松浦、大村、五島、相良、伊東
津軽、柳生は微妙なところだな >>299
今の大河の体たらくでは脇役で留めてくれと言いたくなる。
卜伝と同じBSプレミアム枠ならいいかな。 >>299
おお。良いと思うぞ。清和天皇から秋田県知事までやってくれ。
なんなら一番最後のコーナーで秋田の名産について県知事が一席ぶってくれてもいいぞ。
これが上杉氏だと、最後に当主が出たとたんに、宇宙工学の講義が始まりそうでな。
いや、「ひてん」「はやぶさ」など宇宙研究所でいい仕事をしてると思うけどさ。 冗談じゃないw
したり顔で愛だ平和だ語る戦国武将にされるのはもううんざりだ >>299
佐竹では視聴率がとれないw
後北条五代すら実現していないのに。 そういや義宣の甲冑、ちっさくね?
もっとガタイがいいのを想像していたので意外だった
義重のが大きすぎるのかもしれんがw >>309
肖像画では大柄に見えなくもないが、
佐竹史料館で見た感じはさほどでもなかった。
あの下にもこもこ着込むからゆとりを持たせてあるのかもな。 >>311
佐竹資料館で聞いたら、
あの肖像画は義宣死後に描かれたとする説が濃厚みたいですよ。
>>312
まあ、肖像画は死後に描くのが普通だからね
ちなみに例の義宣肖像画は荻津白銀斎の作と書いてあった
白銀斎は佐竹家臣で幕末から大正にかけての人物だから比較的新しい やっぱり負け戦が多いのがネックかな。
多賀谷の対北条戦線や真壁・太田の対小田戦などは
健闘していても那須責めや対伊達戦での敗北がマイナスイメージ?
個人的には好きな大名なんだけど でも本拠地(本城)まで攻めこまれたことは1度もなかったでしょ。
後北条は小田原城を2度包囲されている。 勝利宣言するに至らなかった結果まで負け戦と呼ぶのはどんなもんかな。
適当なところで和睦・休戦に持ち込むのが当時の北関東〜南東北の戦スタイル。
むしろ、領地に踏み込まれない限り積極的に打って出なかったイメージがある。 「負け戦」というよるは「押され気味の引き分け」かなあ。 局地的な勝敗はそれほど重用じゃないからね
信長や家康も局地的には結構ぼろ負けしてるけど結局は誰も勝てなかったし 身内の小競り合い、なあなあで解決・・・というと聞こえは悪いが、
南東北はそれで結構うまいこと回ってたんだよなー。
西国=ヒエラルヒー確立・ハンコぺたぺた、東国=個対個の契約・花押
と分析した先生がいたが、誰だっけな。 まあ、この地域は家が潰れるような事は滅多になかったからな
合戦でどれだけ大敗しても起請文を交換すれば一件落着
領地も殆ど取られないし
そのかわり小競り合いは絶えない そのわりに「領民は疲弊し、田畑は荒れ……」にならなかったのが凄いっちゃあ凄い
きっと戦をレクリエーションか何かと思ってるw 佐竹右京太夫は、内府の提示した、常陸、上総、下総、磐城、下野の内に百万石を与えると言うのが、空手形に終わる公算が高いからこそ、決起し、藤堂邸を強襲し、石治少を伏見まで護衛したのである。 本当にそんな話が有ったとして、信じるのは政宗くらいだな。 >>324
戦国期の佐竹の史料で領民について書いたものって本当に少ないよね
全然領民の顔が見えない。
例の悪名高い、唐入りの陣から国許に送った村ごと磔物指令と
江戸氏や那須氏との間で人返し協定を結んだくらいか。 佐竹の歴史戦編。
平安末期
時勢を読めず平氏について源頼朝に戦で負け所領を没収される。
その後頼朝の犬になる
南北朝
南北朝時代では北条氏の残党ごときに敗れる。
足利直義と足利尊氏での戦いでは足利尊氏に付くが苦戦しまくりその後時勢が読めず勝てないからと直義につき足利尊氏に負ける
楠正家に負ける。
戦国時代
小田に負けるが上杉に泣きつきのおかげで逆転勝利。
那須ごときに負ける
北条に攻められるが上杉の援軍のおかげで助かる
北条に攻められるが武田に助けられる
北条と武田が和睦しまた北条から攻められるが上杉に土下座して援軍に来てもらい勝利
安土桃山時代
芦名に潰されかけるが上杉の仲介で助かる
伊達に人取り橋で負けた後に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが豊臣に来てもらう。
豊臣が来たからと手も足も出なかった北条をここぞとばかりに攻める。
江戸時代
佐竹は明確に徳川に付くがなぜか東北のど田舎に減封される。
大阪の陣では後藤基次に佐竹義宣が殺されかけるがまたまた上杉に援軍に来てもらい勝利。 バイアスのかかった見方だなあw
特に「明確に徳川に付く」は非常に疑問だ 佐竹義重と佐竹義宣、父子で意見が割れていたのは周知の事実 でも義重は義宣の決定に口だすような出しゃばりじゃないから
決断は義宣に一任していたよ 義重が偉大過ぎて義宣の評価が辛口になりがちだが
久保田目線で見れば二代藩主がまっとうなのは義宣の薫陶あってのことだから
関ヶ原の件だけでどうこう言う気にはなれない >>333
二代藩主というと義隆?何か名君としてのエピソードがあるんですかね?
ちょっと興味がわいたので 覚
一 常陸 一 磐城 一 下野 一 下総 一 上総
右五ヶ国之内百万石御本領之事候之間、佐竹右京大夫殿ヘ為可被宛行、進之候、乃如件
慶長五年六月十六日 徳川家康(墨印)
佐竹右京大夫義宣殿 ふざけんなよお前ら
のぶやぼでの佐竹氏の
鉄砲適正が低いことになんで怒らないわけ! >>334
養父に似て真面目で律義者と伝わっている。
いい話悪い話スレまとめにも一度出てきた。
蛇足。
正室・寿流姫(光聚院)の父方の祖父は南義種、母方の祖父は渋江政光。
良妻賢母で有名だよ。 佐竹は負け戦が多いと書いた316なんだけど、
印象的に敗北の観が強い戦を続けても領土を増やした
外交術や策謀のうまさは評価されると思うんだよね。
と、いうより戦国大名に求められる最大の資質がそれ。
同じ常陸でなら、無敗とかいわれながら超マイナーな
水谷正村が間逆の典型。
ただ、ドラマ的には大きな戦で負け、引き分け続きでは
美味しくないといっただけ。 むしろ佐竹は平安時代からいつもギリギリなのが面白い
滅亡寸前まで追い詰められるも外交力を駆使してあの手この手で切り抜けて
いつの間にかそれなりの地位に落ち着くというパターン 佐竹は良くも悪くも伊達政宗の引き立て役の一人になっているから、主人公になるのは難しいわな >>338
> 佐竹は負け戦が
戦場で負けても、領地を大きく取られたとか、重要な城を占領されたということがあまりない。
惜敗はあってもボロ負けはあまりしなかった印象がある。 戦国大名といっても、ガチで天下を狙っていたところは少ないでしょ。
島津や龍造寺なんかはいくら強くても地理的に天下取りは無理。 佐竹は常陸国内の豪族を虐殺して領地を横領したが、与力大名の領地を併せ70万石。
一方、羽州久保田は表高21万石乍ら、銅山と新田開発により実高40万石で有り >>337
いい話〜まとめをチェックしたつもりだったけど見落としてたみたい
ありがとう
義隆に兄弟がいなかったせいか叔父の宣家(宣隆)が玉突きで岩城を継ぐのは
長府藩等でもあったとは言え、特異な印象を受けますね
その辺は義宣もだいぶ苦慮らしいよ。
正確には、宣家は岩城の名跡を継いでおらず「番代」ということになっている。
本人(=義隆)が成長するまで、代わりに後継者順番待ちの列に
並んでもらったようなものかな?
藩祖ほどではないが義隆も面白い逸話がある人物だから
近デジを覗いていみるといいよ。 いやあ、盛り上がってますね。
では御田之方もそろそろ話題に登りますかね?? 宣家は当時まだ多賀谷だったね
正室の多賀谷氏は御田の方が側室に上がった頃はまだ存命中だっけ? >>347
昔の文章読むのは得意じゃないけど、面白かった
義隆が大名になっても夜話の為に家臣の家へ出掛けていって
焼き飯をご馳走になってたとか、厳格な中にも気さくな人柄だったのかな
そういえば、佐竹にも縁がある国分盛重(伊達政重)の入嗣は国分家臣団から反発を受けて
(国分家の仇敵である留守家を兄・政景が継いだせいか?)
輝宗の次男が生まれる迄の「代官」という空約束で押し込れたなぁ
そんな盛重も佐竹家臣となった後は優遇されたようで報われたかな 義隆には近デジでは見られない愉快な逸話もあるんだが
いかんせん微妙に戦国時代から外れているので
この板では紹介できない 宣家は苦労の人じゃね。敗者復活戦を勝ち抜き川中島二万石get!
>>352
∧,,∧
(;`・ω・) 。・゚・⌒) 殿様のためにチャーハン作るよ!!
/ o━ヽニニフ))
しー-J >>355
いかん、これ思い出したw
http://www40.atwiki.jp/83452/pages/496.html
炉端で焼いてたみたいだから、味噌焼きおにぎりみたいなのかな?(あれは旨い)
炉端というと秋田だけに、きりたんぽを連想するけど、あれは猟師の携行食みたいだし…
他にも夜話の肴に煮豆、湯漬けなんかで腹を満たしていたみたいだね(義宣の頃からかな) 義隆は焼き飯なのか
義宣は渋江内膳の家に夜話に行って煎り豆を馳走になったら
老臣たちに「関東では考えられない贅沢だ」と嘆かれたというぞw 塚原卜伝最終回で佐竹の名前呼ばれてたな。
あと書状に源(佐竹)義篤の名が書かれてた 採掘した金はぜんぶ武具や開発に投資して
食事は倹約だったのかね義宣時代は。 戦国大名なんてみんなそんなもんだろ。信長すらそんな感じだ。 じゃぁ、浅井親子と義景のドクロに金粉塗ったのはとんでもない贅沢だな。 煎り豆なんて比叡山の寺小屋で勉強するガキに出されてたレベルだぞw
どんだけ関東貧困なんだw 大豆は味噌などに加工できるから、当時は米より貴重だったんだよ 358じゃないが、自分は近代デジタルライブラリーと、もっと昔の本の復刻版で読んだ
真壁道無と梶原政景の話もあるし、昔は戦仕度が第一だったということなんだろう 『卜伝百首』
・武士の、冬の軍に炒豆を、持ずば、不覚得てしあるべし そうだよな、冬には節分があるしな
豆がないと困るよな >>377
それはわかってるんですが滅ぼされた山入嫡流と同じ系図だったので滅亡直前の分家なのか二本松畠山よろしく生き残りが改姓したのか気になりまして 山入氏の本拠は国安だからな
分家が国安名乗るのも些か問題があるような気がする
可能性としては藤義が太田城に入城した際、国安に一門を配置したとか?
もしくは山入宗家が滅んだ際に山入(佐竹)を名乗るのを憚って国安に改姓したか
いずれにせよ他の山入一門よりは上位であったようだが 山入氏義・義盛親子が討たれた時に幼児は助命されたらしいからその末裔なんじゃない
家格は恐ろしく下がってしまったけど >>373
同じ出羽でも角館と新庄では全然場所が違うぞ。
あれを「戦国以来のご当地大名」と言うなら、
伊達真田六郷あたりもアリになる。 慶長出羽合戦 上杉の圧勝 江戸に向け南進
関ヶ原 西軍の圧勝 江戸に向け北進
佐竹上杉&西軍江戸挟撃 徳川家滅亡
佐竹氏 上野 上総 常陸 下野 200万石に加増 上総もいらんな
常陸、下野、南陸奥で200万石でおk 義重の代だと那須家とはとことんソリが合わないな。
色々あったけど和睦して婚姻とかしても普通に攻めてくるし北条攻めもまるでやる気がない。 宇都宮氏、岩城氏、多賀谷氏などとは親密な関係を構築するのに成功したが那須氏は駄目だったな
那須氏は佐竹と親密だった宇都宮氏や、佐竹の支配下に置かれていた白川氏と領地を巡って争いが絶えなかったから
那須ー佐竹の線が和睦しても結局周りに引き摺られて微妙な関係に成らざるを得なかったのだろう
それと、上那須衆と下那須衆の確執は完全に解消されたわけではなかったから
上那須衆と親密だった佐竹への警戒も最後まで解けなかったと言うのもあるだろうな >>388
天正3年以降は支配下と言って差し支えないかと
>>389
明確な区分けがあるのかは知らないが
一般的には岩城、岩代
つまり今の福島県辺りを指しているようだ >>390
それが無理があるってw
養子送り込んだところで支配下にならんからw
勢力圏がどうこう言ってる伊達厨みたいで恥ずかしいから佐竹スレではやめてくれ 結城義親は佐竹化したから支配下に入ったと言っても差し支え無いと思うが。
書状で源義親なんて名乗り出してるんだし。
義親と義広の連名署名を経て、
成長後は義広単独署名書状に変化したし。
石川は最初から源氏だし、
蘆名に義広入った時点で、
武田滅亡後でもあるし、
南部と並んで、佐竹が大源氏勢力圏を成立させてる。 >>391
佐竹は義親を降した後に白川領に対して安堵状を出してる
他の洞中にすらこんな事はしていないよ
これで支配下ではないと言うなら大山氏や小場氏、東南北家なんかも支配下ではないと言う事になってしまう 実際、芦名を傘下に加えて、
佐竹本家の実収入が増えたりしたのかい?
傘下と言えば傘下かもしれないが
やや下位の同盟国ぐらいのものだからな
立場としては宇都宮氏や岩城氏と同じだ
佐竹宗家が葦名の統治に口出せるわけではないから勿論なんの収入も得られない いいんでない。
ところで、佐竹以外の関東の大名とも蘆名は同盟関係結んだのかな? 葦名は基本的に小田原北条氏と組んでたよ
共同で佐竹を挟撃した事もあるし 佐竹と基本的には親しい上杉に喧嘩売りまくってるからな 上杉家出身の義憲でさえ晩年まで上杉家と争ってたからな
基本的に佐竹宗家は関東公方派だから関東管領上杉家とは険悪にならざるを得なかった 友好だったのは景勝義宣間位じゃね
南北朝は師直派
室町は公方派
戦国は越相同盟等不信多々だし >>409
景勝と義宣って友好かな
逸話を見ると仲悪そうだけど
友好だったのは謙信と義昭の時代だけのような 上杉が関東に帰って来れたのは秀吉傘下としてだからな
仲悪いなんていってられんだろ 戦国武将が残忍で何が問題なの?現代の価値観で考えんな糞
織田信長の一向一揆の虐殺も伊達政宗の撫で斬りも理由があるんだよ そもそも義宣ならともかく義重が残忍と言うイメージは全くないが 信長の野望で義宣の特技に
暗殺がセットされてないのが不思議 義宣の場合、大っぴらに誅殺したわけだし暗殺と言って良いか微妙
それと三十三館主殺害を考案したのは山方篤定だけど、のぶやぼに一度も登場した事がない! 義重が残忍とは思ってないけど、和田さんが出奔した時は一族あらかた殺したらしいね
結局白河結城氏の降伏を手土産に戻ってきたけど、讒言したらしい車丹波とはその後ギクシャクしなかったんだろうか 山方篤定なんて家臣はじめて知った
しかし、義宣の手並み鮮やかだよね
失敗してたら統治失敗とされて
減封なんてことになりかねん 車はどうだか知らんが、義重には自責の念があったんじゃないかね
返り忠で和田さんが佐竹に戻ってきてからは義宣の傳役に据えている
と言うか、実際のところ内通していたのか讒言なのかよく分からないからな
それに戦で討死するのは当たり前の事だし、別に昭為が義重を恨む理由はないと思うけど
むしろ妻子や朗党を置き去りにして逃げてしまった昭為の方が自責の念に駆られていたのではなかろうか
昭為も義重の元に帰参する為にかなり画策していたようだし、帰参してからは義重に忠義を尽くしていた
どうみても義重が昭為に気を遣ってたと言うより、昭為が義重の信頼を得る為に苦心していたようにしか見えない >>424
山方篤定が南郡衆謀殺の計画したということのソースはまさか小説じゃないだろうな?
近衛の「佐竹義宣」にそういう記述があるが。
和田昭為の家族が殺されたのは、当時の価値観で言えば昭為のほうに問題がある。
嫌疑に申し開きをすべきだったが、逃げ出したことで謀反同然となってしまった。
そうなれば義重も家臣統制、他大名への面目の面からケジメを付けざるを得ない。
しかしこのことで義重は後悔していたと思われ、昭為が帰ってきたことで
事の顛末を知ったらしく、讒言した車斯忠の家の居城だった車城を破却させ、
所領を接収して車家に預け置くという形にしたらしい。
その後この義重の仕置に恨みを抱いた車斯忠は蘆名か白川か田村に通じ、
その後北条氏照のもとに転がり込んだようだ。
また車斯忠の父か兄と思われる車石斎という者が城を取り返そうと元の車城を攻めたか、
あるいは占拠したようだが、改めて佐竹の侵攻を受け車石斎は討ち死にした。 車斯忠って何なんだろうw
若い頃は武者修行と称してフラフラしていたらしいが
佐竹に帰参して翌年に昭為を讒言するが、自身も罷免されて出奔
いつの間にか帰参して各地を転戦し、天正18年頃になると今度は蒲生氏郷に仕えるが喧嘩を起こしてクビ
そしてまたいつの間にか佐竹に帰参して名護屋に出陣していたりするが
関ヶ原が始まる頃になると上杉に仕えている
関ヶ原が終ると今度は水戸城奪還を企てる
各地の合戦で大活躍しているけど、行動が自由過ぎる
もしかしたら車一族の何人かの話しが混ざって車斯忠と言う人物になっているのだろうか
書物によって諱や通称がバラバラだし >>431
> 関ヶ原が終ると今度は水戸城奪還を企てる
関ヶ原が終わってからだと、仮に水戸城を奪還できても
とても維持できないでしょ。
郷土史の崙書房?の本で
室町時代に水戸城が炎上したことがあると書いてあったのを読んだ記憶がある。
これは誰が攻めこんできて炎上したのか忘れた。 >>432
国替えを命じられてから水戸城奪還を企て、
バレて磔刑になったんじゃなかったっけ? 水戸家の陰謀で存在が隠蔽されているようですね。
http://blogs.yahoo.co.jp/dollsdog8700/36216128.html
車丹波と言えば、「天地人」の原作など多くの小説にも登場し、寅さんのネーミングのヒントともされる人物ですが、何ですかこの扱い。地元から完全に無視されてますね。ひどいもんです。
2011/10/31(月) 午後 10:09 [ あおれんじゃあ ]
>アオさん
そう、上杉の神指城築城にも関わったうえ、寅さんとも関わりある常陸北部では名の知れた?武将ですが、水戸ではまったくどうでもいい扱いです。
しかも、北茨城でも意外に知られてないあたり、徳川による隠蔽が徹底しているのかもしれません。
これが勝者の歴史とはいえ、残念でなりませんね。
2011/10/31(月) 午後 10:57 [ dol*s*og*700 ]
車丹波の首塚ですか。確かに、藪でよく分かりませんね。
佐竹ではかなりメジャーな人物ですよね。水戸家の陰謀で徹底的な証拠隠滅の証拠ですかね。花の慶次では、長谷堂の撤退戦にいたような。かなりバサラな人物という気がします。
昔の殿様が知事や首相になったのって細川と佐竹だけでしょ?
佐竹秋田県知事って角館北家(葦名没後継承)だそうだけど本家じゃないの? 一族皆殺しにした家臣を重臣に戻すなんてすごいよね、
俺ならいつか復讐されそうとか考えてとても無理 >>439
知事は本宗家ではなく、親族兼重臣の家。
徳川でいうと本家ではなく、水戸家みたいなものかと。 >>437
> >>432
> 国替えを命じられてから水戸城奪還を企て、
> バレて磔刑になったんじゃなかったっけ?
運良く城を奪回できても維持できないでしょ。 >>439
福島県知事だった松平さんは違うんだっけ? >>439
北家は分家
戦国時代から江戸初期にかけて東西南北の四家が立てられて佐竹宗家を補佐した
親族ではあるが臣下扱いなので佐竹宗家の相続権はない
江戸時代は西家が筆頭であったようだ
義治(14代)┳義舜(15代)┳義篤(16代)━義昭(17代)┳義重(18代)━義宣(19代)
┣義信(北家)┗義里(南家) ┗義宗(小場)━義成(西家)
┗政義(東家)
>>441
水戸家(御三家)と言うより越前松平家や会津松平家の立ち位置に近いかと
御三家的な位置としては岩崎藩(壱岐守家)が立てられてここから宗家へ養子を送った てか439と444は同じ人だよね。このスレに合わないもの。 >寅さんとも関わりある常陸北部では名の知れた?武将ですが、水戸ではまったくどうでもいい扱いです。
> しかも、北茨城でも意外に知られてないあたり、徳川による隠蔽が徹底しているのかもしれません。
常陸北部では名の知れた武将なのか意外に知られてない武将なのかどっちなんだ? >>447
義久時代は東家が筆頭だったけど、義久死後はやや没落した
小場家(西家)は義宗が養子に入った事で飛躍的に家格が上がったようだ
>>448
と言うか車丹波と水戸は全く関係ないと思うけど
豊臣時代に数年住んだぐらいだと思う >>449
西家はそうなんだろうけど、東家は久保田常駐なんで筆頭と思ってた
まぁ、水戸家も江戸常府とはいえ御三家筆頭じゃないけどね
西家、北家…引渡一番座
東家、南家…引渡二番座
所領は西家>南家>北家>東家
うーん、確かに西家が筆頭でもおかしくない…
西家の家格が上がって佐竹姓を許されたとは言え、筆頭になるのは極端な気が >>451
北かぁ
ちょっと引っ掛かるのは、義直が廃嫡されたけど宗家の世嗣になって
一旦断絶しているのと、葦名断絶後に角館に入ってる点
葦名は一門と言っても家自体は譜代ではないし客分みたいな扱いの認識
そんな葦名の旧領に入ったって事は、以前は葦名>北という感じかと
でも、伊達の石川が一門筆頭という例もあるからなぁ
なんかケチつけてるみたいで申し訳ない
>>452
葦名家と壱岐守家(岩崎藩)は別物
葦名家は幕府公認の大名ではないものの佐竹家中では大名扱いだった
所謂、内大名と言うもの
大名ではないが将軍に御目見し官位も受けていた >>454
解説どうもです
葦名と壱岐守家が別物(位置付けが違う)という認識はあったんですがね
葦名は宗家から見て上にも下にも置かない位置付けって感じなのかな
岩崎藩は内分分地された幕府公認の大名ですね
多賀谷家も葦名に準ずるんですかね?
>>455
岩国藩(領)は幕府からは外様大名扱いで参勤交代もしていたものの、
宗家の長州藩から独立した藩として認められなかった経緯がありますね
(岩崎藩は江戸定府)
となると鍋島の佐賀藩における龍造寺系の家みたいな扱いかな。
あそこは参勤交代していなかったと思う。
小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など
【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10 歩兵と騎兵の比率で、騎兵が格段に多かったということは聞いたことがないなあ。
他の大名と比べると多い方ではある
まあ、どこも1割前後で僅差だけど 大坂の陣の時の伊達家には「騎兵だけの部隊」があったらしいが。 時代が合ってないから正確には比較出来ないが、一応参考までに
上杉氏
騎馬 10%
鉄砲 6%
槍 65%
手明 12%
旗 7%
武田氏
騎馬 12%
鉄砲 7%
槍 58%
弓 10%
手明 7%
旗 6%
佐竹氏
騎馬 16%
鉄砲 7%
槍 27%
弓 15%
手明 31%
旗 4%
手明は普段は農作業、いざとなったら具足で出陣の方々でおk? 手明は道具を持っていないという意味だろうから、
刀のみか武士と同じように好きな武器を持っていいとかかね 多分そうだと思う、佐竹の軍役には馬添え手明と書いてあるから
轡引き、槍持ち、道具持ちなどの従者
後は、槍組・弓組・鉄砲組などの集団に組み込まれないない徒武者だと思う >>468
>武士と同じように好きな武器を持っていいとか
好きな武器といっても、古代中国みたいに巨大な斧とか鎌を振り回す人はあまりいなかったと思うw
棒はメジャーな武器だったみたいだがね
力がある人なら刀や槍の方より棒の方が威力ある >>466
やっぱり平野部の大名は騎兵が多くなるよな >>473
相馬は騎兵の比率がかなり高いイメージがあるが
実際にはそうでもなかったみたいだね。 >>471
メジャーとする理由は?軍記物で活躍が目立つってのは無しにしてもらいたいわ。 軍記物は嘘っぱちだ!なんて言ってる俄君が今だにいるのか 「軍記物は嘘っぱち」は言い過ぎだが、多少の脚色が入っていることは否めない
八十五人力の三浦荒次郎が棒を振り回して何百人もいる北条勢をたった一人で蹴散らしたよね。
あれが嘘っぱちとは思えないし棒はメジャーな武器だと思う。 まあ、軍記物の嘘とは主に戦果の誇張と日付のズレだからな
出来事や習慣まで捏造している例はそれほど多くない
槍や刀で戦ったシーンを棒に捏造する意味もないし 詳細な活躍の伝わらない人物を軍記に登場させる際、
絵になる武器として棒を持たせ派手に振り回させて
人馬の別なく倒させるとかを軍記物作者はさかんにやったんだろうな。
豪傑にはうってつけの武器に見えるからな。
軍記物の嘘とは、話を面白くするために実際には伝わっていないことを
さも実話のように混ぜ込んだりすること。
つか、棒がメジャーである根拠ってマジで軍記物だったのかwww
もっとマシな理由かと思ってたから正直びっくりしている。 軍記物で頻出するから棒が多用されたなんて確かに苦しすぎるよな。 合戦絵図にツッコミとかアホやw
リアル求めるなら身体の構造や動きにツッコめよ
棒の長さより現実離れしてるからw >>485
軍記物に登場する武器を史実同然だと思い込むのと同じくらいアホだよな。 >>483
多用されたかという点は議論の余地があるが
使用された(もしくは使用されることもあった)
というのは史実だろ。 >>486
へえ、じゃあ鉄砲も槍も弓も刀も存在しないんだね
そりゃ初耳だわ
学会で発表して来た方がいいよw 一 常陸 一 磐城 一 下野 一 下総 一 上総
右五ヶ国之内百万石御本領之事候之間、佐竹右京大夫殿へ為可被宛行、進之候、乃如件
慶長五年六月十六日 徳川家康(墨印)
佐竹右京大夫義宣殿 佐竹が秋田に移るに当たり、家中の騒動や粛清はあったのかね? 水戸城を占領できても、とても維持できなかったはずだが、なにか策はあったのだろうか? よく言えば意地、悪く言えばやけくそ?
「大人しく徳川に従うくらいなら派手に自爆したほうがマシ」と考えたんでは。 恐らく脚色されて水戸城奪還なんて話になったのではなかろうか
実際は何か別の目的で潜んでいたのだろう 車は一度上杉の下にいたんだよね
馬場の娘は渋江内膳の嫁 秋田に入国してからの藩政はどうだったのか。祿が少なくて逃亡する家臣はいたのか 当初は大幅減封されたから限られた人数だけ入部させたが
何やかんやで人手が足りなくなって旧領から追加の人員を募った。
すると我も我もと押しかけて早々に定員に達したらしい。 始めに従ったのは93騎だっけ
多分3000人ぐらいだな
幕末には武家が約6200戸あって、戊辰戦争じゃ8000人以上出兵してるから
大方の家は秋田へ移ってたのだろね
常陸に残ったのは当主以外が大半なようだし 水戸家以外の関東大名に仕えた人も結構いたようだ
里見に仕えた人達もいたけど、すぐに改易になって運がなかったな 転封の際に秋田に行った女なんて多くても千人程度だろう
その中で美人なんて数十人が良いところ
それだけで「皆」なら、どれだけ常陸に美人が少なかったんだよって話だがw さすがに本気で信じてる奴はいないだろうけどな。
確か、江戸〜秋田入部のときに
陸路を取ったのか海路だったのか
はっきりしないだっけ? 京から直行した義宣一行は知らないけど
国許の一行は海路はないと思うけど 義宣が国替を告げられたのは上洛中だが、
秋田へ赴く途中に江戸へ立ち寄っている。
その後のルートが海路なのか陸路なのか
明確に示す史料がない。 久保田城が天守を持たなかったのは
幕府から警戒されないためという以外になにか理由あるのだろうか? 無駄な金使いたくなかったという理由もあったのではないかな
あと、単に城に対する興味が薄かったという点も大きかったと思う
常陸時代も500年居住していながら大した城を造らなかったし
国境線には大規模な要塞をいくつも築城したけど、国内は基本的に館を少し発展させた程度の城ばかり
関東有数の大名にしては質素なものである 巨大な石垣を造る技術が家中になかったとも言うね。
天守がない理由は一つじゃないだろう。
困ったもんだ
までだな
終わりだな
終わったな
は滅びる
滅びる中で
は世界で一人ぼっち
は世界から総スカン はまた一つ世界で悪役!!
はまた一つ世界で不愉快!! 大体やね〜
は世界から嫌われてんだよ!
などなどetc
という感じで不愉快な様子が凄かったから。 佐竹の史料が見たいんだけど、茨城県史とかにあんまのってないんだけど
何の本に出てる? 茨城県史料に大体は収録されている
でも、茨城より秋田の方が詳しい
茨城は水戸徳川家がメインだから 秋田市長になるくらいだから地元では人気ありそうだな 和田昭為、小貫頼久、人見藤通
佐竹の配下と言えばやはりこの三人だろうか
和田昭為は地味に良い武将だね
小峰義親を生け捕るとか武功も挙げているけど、後期になるとあまり合戦に出た話を聞かないな まあ端的に、歴史が古くて血筋が正しいとして、だから何だ、という気持ちはあるなw 清和源氏嫡流に一番近い血筋で明治維新まで大大名だったのって、ここだけじゃねーの?
36歌仙さんちも分家の分家だし、毛利や長尾上杉より由緒は正しいでしょ まあ、古さでは断トツだね
家格は変動するから何とも言い難いが、平安時代から一定の勢力を保持し続けた武家は佐竹の他に見当たらない >>528
昭為キモいだろ、讒言されたら弁解せずに逃走するし
逃走する際に一家郎党見捨てたせいで息子どもは誅殺されるし
そんな佐竹に平然と復帰できる面の皮の厚さといい
こいつは一体なんのために佐竹に仕えてるのか意味不明 先祖代々仕えてるのに何でも糞もない
それ言ったら殆どの武士が何の為に仕えるのか分からんだろ >>538
昭為は家族を殺されてもなお、佐竹に仕えたんだぞ!
たいしたもんじゃねえかw 会津の作家・星亮一は佐竹氏の久保田藩を批判している。
ただ批判するのならともかく、嘘を捏造してまで佐竹氏を批判している。
そのため秋田県内の歴史研究者が抗議したものの
相変わらず捏造を続けて佐竹批判を繰り返している。
以前、長州を捏造で批判して儲けたので今度は秋田を獲物にし始めたようだ。
このまま星亮一を看過していると長州のように「虐殺者」にでっち上げられてしまうぞ。 >>543
こいつが中心になって20年以上「長州が会津で虐殺した」って言い続けていたら
マスコミが信じて「会津が長州の被害」扱いで報道するようになった。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110611/lcl11061107000001-n1.htm
もちろん長州は虐殺なんてした事実はないし、
飯盛山から会津若松城が燃える光景が見えるはずもない。
でも山口の人間が強く反論しなかったら会津の商売に便乗した作家の作品が
ドラマ化されて定説になってしまった。 戊辰戦争を語り合おう/今春、本県に研究会/ネットで交流、旅行も 2006/01/10
/郡山の作家・星亮一さん発起人
http://www.fukushima-minpo.co.jp/news/kennai/20060110/kennai-20060110092908.html
--------------------------------------------------------------------------------
戊辰戦争で戦いの地となった本県に、「戊辰戦争研究会」が今春にも発足する。戊辰戦争に造
詣が深い郡山市の作家星亮一さん(70)が発起人。インターネット上にホームページを設け、全
国から会員を募る。会員は戊辰戦争にかかわる歴史上の人物の名をハンドルネームとして名乗
り、ホームページの掲示板で議論を交わす。年に3、4回は学習会や研究旅行を催し、ネット以外
にも活動の場を設ける予定で、全国の歴史愛好家らの貴重な交流の場になりそうだ。
こんな感じで星は嘘を広めている。
実は上記戊辰戦争研究会は批判的な人を追放するために一度解散して
信者だけで再結成している。その弟子や信者が星の著作を出典にして著作活動をしたり
wikiを都合よく編集している。
星は歴史研究家を名乗っているけど学者ではないただの作家であり、学術的に全く根拠のない。
庄内戊辰戦争春の陣
秋田戦争
の項など見ると酷い書かれようだ。 ああ、こういうネットでまだまだ頑張っちゃう手合いは要注意だね。
こういうことされると、北海道売却計画とかの会津の売国ぶりを
知らしめる活動に加担して防戦せざるを得ないよね。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1055489065
会津・庄内藩って売国奴ですか?
戊辰戦争中に会津・庄内藩が幕府から警備を任された土地を
プロイセンに売り飛ばして保身を図ろうとしてた
みたいなんですけど…。 関東には北条を持ち上げて佐竹を叩いている奴もいるからなあ 北条や伊達の持ち上げられ方と比べて義重公の扱いの低さは不当に低い。
北条はともかく伊達なんて明らかに佐竹よりも格下なのに。 声の大きいほうが勝つ
伊達政宗なんて口だけ達者な弱虫のくせして今では人気者 別に北条とか伊達が悪い訳ではない
問題は自分の好きな大名を持ち上げる為に嘘吐いてまで敵対勢力を貶めようとする作家や学者にある
佐竹などはマイナーで研究者も少ないからやられ放題
那須氏とか土岐氏など更にマイナーな大名の関係書でまでボコボコにされている
それどころか茨城の史書ですら佐竹に悪意を持って書いてあるものが結構あるからな 佐竹の場合、著名な合戦の勝利というがあまりないのが 「美人が少ないのは佐竹が連れて行ったせい」とか最初は冗談だったのに
いつの間にか本当にブスの産地と言われるようになったので困る。 >問題は自分の好きな大名を持ち上げる為に嘘吐いてまで敵対勢力を貶めようとする作家や学者にある
最上義光なんかもそれで大分風評被害受けたなw いやいや、そんな事ないです
自分も茨城出身だけど栃木行くと可愛い子多くて驚くもん
そういうレベルです茨城は
県南の方は他県から引っ越して来た人が多いから普通だけど
最近、TVでよく角館が出るけど茨城でも馴染みのある地名や苗字が多くて親近感わくね >>554
最上義光なんか直江の大河ドラマにすら出させてもらえなかったからな >556
会津若松旧市内は蒲生氏郷が城下整備したためだろうか
地名や商店主名に近江色をみることができる
124万7061人 加賀(金沢)藩 (富山・大聖寺藩を含む)
98万9963人 尾張(名古屋)藩 (高須・犬山・今尾藩を含む)
92万3228人 薩摩(鹿児島)藩 (佐土原藩を含む)
91万4157人 芸州(広島)藩 (広島分地藩を含む)
(81万3886人 静岡藩 (明治維新後に成立))
約78万人強 仙台藩 (一関藩を含む)
78万2390人 長州(萩/山口)藩 (徳山・岩国・豊浦・清末藩を含む)
71万9990人 肥後(熊本)藩 (宇土・高瀬藩を含む)
71万4022人 阿波(徳島)藩
69万6346人 紀州(和歌山)藩 (西條・田辺・新宮藩を含む)
61万2928人 水戸藩+高松藩 (松川・石岡・宍戸・松岡藩を含む)
51万6866人 土佐(高知)藩 (高知分地藩を含む)
51万2096人 肥前(佐賀)藩 (蓮池・小城・鹿島藩を含む)
45万3736人 久保田/秋田藩 (岩崎藩を含む)
約42万人強 南部(盛岡)藩 (八戸・七戸藩を含む)
42万1493人 筑前(福岡)藩 (秋月藩を含む)
39万4905人 備前(岡山)藩 (鴨方・生坂藩を含む)
37万8734人 鳥取藩 (鹿奴・若桜藩を含む)
33万1325人 松江藩 (広瀬・母里藩を含む)
30万4774人 弘前藩 (黒石藩を含む)
秋田藩は全国屈指の大藩なんだぜ
徳川に常陸を奪われてもなおこれだけの規模を保てたのは
ひとえに常陸源氏の意地のなせる技 会津なんて蘆名義広の頃は事実上佐竹領。
元領主の家系を批判とか無礼じゃね? 加賀 内石135万石 / 人口124万人
秋田 内石31万石 / 人口45万人
大藩かもしれないけど貧しそうだね
>>562
石高はあくまで農水産などの収穫量だから、他の産業の収入は含まれていないのだろう
領民が生きている以上は最低でも1石程度は消費するから石高が人口を割り込む事はまずない
つまり久保田藩は45万石以上の生産力はあったはずだ 曲げわっぱとか樺細工は結構助けになってたのかな?
分家の下級武士が担い手だったらしいんだけど。 表高(禄高)は格付け程度、内高は米・穀物等の実際の収穫量
私が示した内高は版籍奉還時の数値です
昔は農業技術が現在とは比較になりませんので
土地土地の気候が収穫高に大きな影響を与えるのはご承知のとおりです
昔の農家が概ねどのような暮らしをしていたのか…
自分から見ると三代ほどさかのぼる時代を生きた人に聞く話だと
第二次世界大戦時もそうだったが、その前の戦争でも
農家の息子が米のメシが食えるからと兵隊になった…そうです
第二次世界大戦時…それほど昔ではないように思いますが
常陸が裕福な土地だっただけに
羽後での生活は苦しかったのかな? 隣藩とは仲良かったんだろうか?
戊辰時は新政府側についてフルボッコされてたが >>567
そもそも秋田藩は関が原の処遇で徳川にはいい感情を抱いていない。
それに国学の太祖の平田篤胤を排出するなど学問が盛んで
藩主佐竹義堯公が世情に通じていたので孤立覚悟で奮戦し、侯爵を賜る。
篤胤信淵巨人の訓 久遠に輝く北斗と高く 錦旗を護りし戊辰の栄は
矢留の城頭花とぞ薫る 歴史はかぐわし誉の秋田 でも水戸藩も勤皇なんだよな、御三家なのに
尊皇攘夷で幕府を揺さぶり始めたのが水戸藩だし
仕舞いには幕軍と戦にまでなった
そして一連の紛争には多くの郷士や富農が参加したけど、彼らは佐竹の遺臣でもある
まあ、佐竹遺臣だから反幕府に走った訳ではないけど
>>566
東北は当たり外れが大きいからね
冷害が多く、不作になると収穫量が1/10ぐらいになったりとか極端過ぎる
常陸もお世辞にも裕福だったとは言えないけどね
土地は良いのだから、やはり統治がまずかったのだろう
烈公のような人物がもっと早く出てくれば水戸藩も栄えたかもしれない
一応秋田は銅山があったからそう貧しくもない
関ヶ原改易の経緯を見れば幕末上杉がやる気なかったのも
佐竹が幕府をいち早く見限ったのもさもありなんという気がする >>570
奥七郡の石高は17万石弱(文禄年間)
産業は紙と金かな
金山も開発が進んだのは豊臣時代に入ってからで、戦国時代頃は細々と掘っていたようだ
まあ、裕福と言う事はないね
奥七郡って田畑は結構あるけど豪農がいないんだよな 東北を見下す意味ではないが
今でも自動車会社の期間工って東北の農家が多いじゃないか
団塊の世代は都会に集団就職なんだぜ
>>439
市長だと井伊さんや堀田さんなど時々いるけどな。
長い期間地元を治めていた大名の末裔というケースが多いかな。
>>557
「天地人」だったらむしろ出なくてよかったと思うがw
あれこそ、上杉ファンからしたらたまったもんじゃないだろう 北条のドラマとかできたら佐竹は悪者扱いなんだろうな
絶対北条のドラマだけはやめてほしい 俺も知らなかったけど中々執念深くてやっかいなヤツみたいだな。
本業で大したことないのに限ってこんなことに熱心だからなあ。 >>575
佐竹とか里見はあまり出番ないでしょ。
河越合戦と2度の小田原籠城がメインになるかも。 >576
そうだな
576 が知らないことは、すべて世の中で無視すべき程度のことだよ
576 は日本の歴史に関わることの要点すべてをしっている
576 は裏の裏まで知り尽くしている >>576ってそんなに粘着するほどのレスかな?
いったい何が>>579みたいなことを書かせるのか不思議でならないな。 相手が存在する話ってのは双方の話を聞く必要があるよね
時代の転換期のことはなおさら
江戸→明治の維新期のことで新政府側だけの話で語ったらなじられるでしょ
会津地方の土着からしてみれば
蘆名、伊達、蒲生、加藤、上杉、松平であれ武力支配の他所者
会津で星姓の人は平家落武者を言う人もいるが
少なくとも蘆名支配の頃は農民として土着していた
特に星姓は今でも南会津に多く存在している
それを知らずに、いわば他所者たちの話だけで
歴史を云々ってのはどうだかなってことです
慣れ親しんだ太田小の一角に舞鶴城跡の碑があった縁もあり
佐竹一族は俺の英雄だよ。他県でも秋田の佐竹知事には親しみを感じる。
佐竹氏が好きな人は俺の仲間だし、佐竹氏の敵は俺の敵だ。 >574
昔福島県知事だった松平氏は容保の孫
初代参議院議長の松平氏は容保の息子
他県のことまでは知らん
>>575
>>575
どうせ長尾/上杉/武田がメインで、今川織田がちょっと。
佐竹は名前すら出てこない可能性がw
里見もあやしい 北条をやるなら主人公は早雲だと思うよ
そうなると当然佐竹とは接点がない
次に可能性があるのは氏康だろう
氏康が主人公だと、やはり接点は殆どない
氏康〜氏直までやるとかなり詰め込むようだから小競り合いはカットされるわな
沼尻合戦すらなかった事になる可能性が >>581
会津の土着にしてみれば北海道なんか外国に売っちまえってか。 >>586
「葵三代」みたいな感じで後北条5代になるだろ。
早雲の死去が5月第二週。
謙信の小田原城攻めが7月なかば。
三益峠の戦いが9月おわり。
早雲と氏康以外は視聴率がとれないから、端折ることになるだろう。 会津といえば北越後の略奪は
会津正規軍ではなくて水戸を脱藩して会津に合流した水戸浪士のせいにされているよね
どこまで茨城を愚弄すれば気が済むんだろう
会津藩の搾取ぶりを聞いていた旧幕領の庄屋達は、それぞれの代官達にこれまで通り代官所による統治の据え置きを望み、
代官に会津藩による支配に反対する建白書を出す事になる。「会津藩は、奥州若松から七、八十里も離れた魚沼の村々を
守ってくれるとは思えない。越後が戦闘になったら小千谷・小出島・蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って、
会津口を固めるため撤兵するとのことだ。その上、預地となれば調達金や夫役を課せられ、私どもの村々は立ち行かなくなるだろ」、
以上がその建白の内容だが、いざ北越戦争が始まると越後の領民が危惧した通り、越後の民衆は会津藩兵の蛮行に
苦しめられること事になるのである。
(十日町市史通史編3)
京都守護職と鳥羽伏見の敗戦による多大な出費で、半ば財政破綻した会津藩は慢性的な戦費不足から、近視眼的に進駐した
各地で民衆から搾取・略奪を始めるのであった。 旧幕領を接収した会津藩兵がまず行ったのは、戦費調達の為に各村々への
御用金の名の元での搾取だった。この会津藩の御用金の割当は旧幕領の各地に及び、旧水原代官領での千唐仁村十八両、
浮村一五七両、野田新田十八両を始め、前述の小千谷陣屋領での割り当てや、後述する新潟町での御用金の取りたて等、枚挙にいとまがない。
(水原町編年史第一巻)
またこのような組織だった徴発だけではなく、個人の会津藩士による略奪も多発した模様である。初期においては新潟町で
強盗を働いた会津藩士数人が町民によって捕らえられて処刑されたなどした。
武器を持ち民衆を恫喝する会津藩士や衝鋒隊の兵士達に民衆は次第に手も足も出せなくなる。
(新潟市史通紙編3)
会津藩の搾取略奪に苦しんでいた越後の民衆もまた、かつての越後の支配者である米沢藩兵を慕った。
「米沢藩兵は他人数だが馬は使わず、各自が荷物を背負ってきた。米沢様は別段のものだと衆人が感服した。
それにひき比べ、会津は異形はなはだしいゆえか、衆人不服で負け戦の話をきくと婦女子までがよろこんだ。」
(新津市史通史編下巻)
越後の民衆が会津藩を嫌い、米沢藩を慕った一例として、会津藩によって徴募された出雲崎代官領の農兵隊が、
会津藩の支配を嫌って米沢藩の家来になる事を懇願して許された事が挙げられる。この農兵隊は後に米沢藩から
精義隊と命名され、米沢藩の指揮下に入り最後まで米沢藩兵と共に新政府軍と戦う事になる
(新潟市史通史編3)
田中が新潟町に帰還した時、新潟は既に会津藩の占領下にあり、その蛮行略奪により「市中之もの共殊之外動揺いたし、
最寄最寄江家財取片付、惑乱一トならす」と言う無政府状態になっていた。
(新潟市史 資料編5) >>588
5代と言いながら早雲と氏康以外は端折って居なかった事にするんだな。 ドラマ化は原作次第だから、早雲なら箱根の坂でドラマ化の可能性がある
特に大河(NHK)は司馬遼太郎が好きだし
他は氏康ですら著名な小説ないし難しいわな
特に最近の大河は女がでしゃばらないといけない決まりになっているから
奥方にインパクトないと駄目だ
まあ、俺的には北条早雲より田崎草雲をドラマ化して欲しいが 初回、最終話を除きすべて小田原評定
脚本は橋田壽賀子
見所:毎回20分を越す氏政の長台詞はコマーシャルが入らないNHKならでわ
>>592
「箱根の坂」は面白いけど、あれが書かれたときは今ほど早雲研究は進んでなかった。
「国盗物語」なんかも道三が親子二代の事績だったってことで
もうそのままでの映像化は無理になってしまった。 大河ドラマなんて汚らわしいものになんぞ出る必要はない
あれは女が見てはあはあ興奮する腐りきったものだ >>595
いや、全く関係ないだろ・・・
大河なんて史実無視の歴史風ファンタジーだしw 大河はフィクションだし
「時代劇で越後屋が悪事ばっかりしているから三越は悪徳企業だ」
って言うようなもんだな
でも司馬遼太郎のドラマを見て史実と錯覚する人が多いのも事実だしなあ 史実をトッピングしたフィクションだからなあ。
だから中途半端にリアルな感じがする。 質問スレで聞いてみたら
斎藤道三のニックネームの「美濃の蝮」は山岡荘八の創作。
上杉謙信の敵に塩を送った美談は江戸期の創作。
織田信長の三段撃ちは存在しない、鉄甲船は役立たず
信長の三段撃ちは存在しない
大阪冬の陣の講和で内堀まで埋め立てたのはだまし討ちではなく講和条件に含まれていた。
結構フィクションが史実っぽく定着してしまっているね。 幕末の佐竹は弱体だった
びっくりするほど弱体だった
近代軍の酒井に負けたのはともかく
同じような装備の南部軍にまで負けて城を燃やして
逃走したのは言いわけがつかない >>601
> 幕末の佐竹は弱体だった
> びっくりするほど弱体だった
加賀の前田もそうだが、幕府から警戒されないことが最大目標になってしまっていた。 秋田県の歴史(今村義孝著
「4日早朝になって、藩主佐竹義堯は対立を退け、みずから裁決して一藩勤王の決意を告げた。
藩論の決定に勇躍した砲術所の志士等は、藩内の勤王の志気を鼓舞するふくみか、その夕方、
久保田に在宿する仙台藩士をおそい、志茂又左衛門ら6人を斬殺し、5人をとらえ獄中に投じた」
秋田県史4巻
「時を同じくして砲術所に於いては、主として後藤敬吉、青木理蔵の両人指揮役となり、
150余人の同志の中から34人を選んで夫々部署につかしめ、4日午後4時頃、仙使宿所であった
茶町扇の丁幸野屋方を襲わしめた。先ず志茂又左衛門(用人正使)・山野内富治(小人組随員)を殺し、
小島寅之進(但木土佐の家来)を縛し、翌5日早朝よりその潜伏所を探して内ヶ崎順治(近侍正使)・
佐々徳之進(同心随員)・川越新蔵(同心随員)・高橋市平(小人組随員)を殺し、高橋貞吉(志茂の家来)・
棟方市七郎(小人組随員)を縛し、ついでこれ等の首級を5丁目橋の側らに梟首し、掲札して通行諸人に示した。
確かに佐竹は使者を捕縛してさらし首にしたけど
その前に伊達だって政府の要人を処刑している。
伊達は声が大きいから佐竹だけが悪いように吹聴されてしまっている。 佐竹が戦いに負けるのは珍しい事じゃないだろ
義重の時でも田村に負け蘆名に負け まあ、負けと言っても状況によって全く違うからな
葦名田村にやられた時は攻勢を続ける中で反撃されただけだし
佐竹側は主力ではなかったから負けても大した影響はなかったけど
義治時代の奥州勢による常陸侵攻や幕末は防衛戦だから抜かれたら危うい状況だった
まあ、佐竹最大の危機は頼朝の佐竹討伐と山入一揆だけどね 帰郷するついでに小田城の復元状況を見てこようと思ってたのに、すっかり忘れて帰ってきてしまった
しかも何か太田城に穴あいてるし(´・ω・`) >>608
> まあ、佐竹最大の危機は頼朝の佐竹討伐と山入一揆だけどね
関が原直後のほうがもっとやばかったと思う。
>>605
そういう誰々ちゃんもやってるもんという言い方やめなよ >>612
そうだよな、同じようなことやっても悪いのは佐竹ちゃんだけ。 まさかマジで戦争になるなんて思わなかったんだろうな
儀礼として先陣きると言っちゃったら
本当に弓矢もってライフル弾が飛んでくる最前線に立たされた >>615
局地戦(それも野戦)で負けたといっても、全滅したわけではないし、
要地の城を取られたわけでもない。 那須氏もなんとか撃退していたというだけで戦況は芳しくなかったからな
義重の代だけでも5、6回は侵攻されて撃退はしたけれど結局は領地を割譲して和議を結ぶしかなかった
那須氏の攻勢としては佐竹方の武茂氏を攻撃した事が何度かあったけど
こっちでは逆に那須氏が武茂氏に破られて撃退されている
まあ、それでも十数年間ずっと近隣勢力に攻めまくられて続けても守り通したし
那須氏のしぶとさはかなりのもの
それだけにあっさり改易されたのは惜しい でも本領の維持は出来たと思うのだけどね
北条が宇都宮に侵攻を繰り返し、伊達が白河まで支配圏を伸ばしていたから
挟まれる形になった那須氏は北条方についた方が有利だと思ったのだろうか
でも大関ら他の那須七騎の面々は参陣しているんだよな
笠間氏や江戸氏の様に、警戒して家臣だけを参陣させたのだろうか >>621
地理的に判断が難しかったと思う。
中央情勢が入ってくる情報ルートもしょぼかったと思うしね。 那須の大勝利なんて全部軍記物にしか出てこないってw
初出「那須記」。
まともに反論しても無意味。 そういや義宣はなんで常陸介になれなかったんだ?親父がいたから?
初心者ですまぬ まあ頼朝に負けたり北畠顕家に踏みつぶされたり
岩城に殺されかけたり盛氏に
「佐竹領に踏み込んで乱取りしてやった。戦ほど面白いものはない」と書かれたり
戊辰で南部軍に負けたりする
代々戦が弱い佐竹が負けたと言われても
さもありなん と思っちゃうけどね そうだね。
挙げられてる勢力は、全て瞬く間に滅びたけど。 >>628
> 戊辰で南部軍に負けたりする
これはしゃあないと思う。
江戸期の佐竹は幕府から警戒されないように神経を使っていたわけだし。
盛氏が乱取りしたのは本来白川氏の領地なんだけどなw
小峰義親にしてみれば複雑な心境だったろう 佐竹…ダメだな
所詮、勝馬に乗ったり、謀殺で領地略奪したり、世継送り込み
指定暴力団 >>632
佐竹は足利と維新以外は勝ち馬に乗れなかったわけだが。 戦国時代でそれ等をしない奴はノロマの烙印押されて歴史の闇に葬られるからね >>633
足利と維新でも勝ち馬に乗り切れていないな
佐竹は乱世には強いけど、中央に新政権が起きると叩かれると言うパターンばかりだ
伸びては叩かれ伸びて叩かれのループ
ただ、しぶとくて滅びる事がないのが凄い
未だに権力持っているし いまだに秋田の僻地で県知事やってんのは素直に感服する。 何で現当主は義の字付いてないのかと思ったら養子か
佐竹宗家は断絶しているんだね(´・ω・`) 現当主は「佐竹義次郎」だよ。おまえら知らんだろうけど。一文字多いけどね。
ボストンで俳優やってて、たまにハリウッドでとるわ。
空手というか、マーシャルアーツの人だよ。アメリカ一部ではわりに有名。 江戸期は藩(この呼称自体後世のものだけど)としては久保田藩だけど
明治になってから秋田藩に変えるのが認められた。
これがなければ久保田県だったんだよな。 でも全都道府県とも藩とは関係ない名前だけど
と言うか都道府県名って誰が決めたのだろう
昔からある地名から採用した様だけど何を基準に決めたのやら >>643
合併に次ぐ合併が起きてたからね、わからないよ。 廃藩置県当初は3府302県あった
藩がそのまま県になったからね そういや学校で教師が「官軍は県名と県庁所在地名が同じで、賊軍は県名と県庁所在地名が違う」とか言ってたけど
これは俗説だよね?
確かに天領や親藩譜代と奥州列藩同盟の地域に多いけど
微妙に違う地域もあるし >>646
それだったら福島県の県庁所在地は郡山になっていただろう。 栃木県の宇都宮市のように、県名と同じ都市があるのに県庁所在地が違うとなんかモヤモヤするな >>647
遅レスだが
あぁぁ…こういうヤツがいるからな
福島県郡山は廃藩置県以降、明治政府主導で開墾・開発された地域だろ
あの当時を考えれば現在の会津若松市だろ >>652
「官軍は県名と県庁所在地名が同じで、賊軍は県名と県庁所在地名が違う」が真であったならば
福島も会津若松も県庁所在地にならないという話だ。よく読め。 だからといって、当時の郡山は無いも同然の荒野だから
県庁はありえぬという話だ、阿呆 >>654
> だからといって、当時の郡山は無いも同然の荒野だから
小規模ではあったものの宿場町だったはず。
郡山って戦国時代もそれなりに人口多かったようだが、衢地になっていたから発展できなかったのだろうか 現在は周辺を合併しているから、近頃の情報だけだと誤解されてしまう。
住所を見た場合、郡山市○○町となっている地域の多くは、
○○の部分が、昔は△△郡○○村として、郡山とは別に存在していた地域。
それらの地域で明治・大正生まれの人は、郡山との合併後でも
郡山駅周辺に行くことを、"郡山へ行く" と普通に言う。
昔の郡山という地域は水利がなかったので人口は少ない。
周辺地域、山を背負うような地域に人口があった。
現在のような郡山となったのは明治政府の行った
安積疎水による開拓以降のこと。
戦国時代は、単なる寂しい宿場町です。 拝見させていただきました。
そこに書かれていることは、戦国時代以前の話ですね。
しかも、その城によった勢力が当時どの程度の勢力範囲
をもっていたかの話で、純粋な郡山という地域の話では
ないように思います。
城が築かれた場所というのは要害や勢力範囲の機動上
の中心かもしれませんが、戦国時代後期からに見られる
城下町を持つ場合でもなければ人口があることの裏づけ
にはならないと考えます。
事実、郡山という地域は、ほぼ荒野と言って良い場所で
あったからこそ入植・開墾ができたのです。
現在の郡山市域の話をしているのだと思うが
何で郡山だけ郡山村限定にしなきゃならんのよ
他の都市だって数十の村が合併して現在の市域になっているのに >>661
戦国時代以前というか、伊達政宗の時代に郡山合戦というのが有ってその切っ掛けが
郡山城主が芦名から伊達に鞍替えしたことです。郡山合戦はwikipediaにも記事が有ります。
政宗の時代にはそれなりの要地だったということです。(あくまでもそれなりの、ですが。)
郡山城は逢瀬川沿いで市域の比較的北寄りに有りました。
ちなみに明治以降に開墾した安積野原野は現在の開成とか安積町とか大槻町辺りと思います。
比較的南寄りです。 >>664
ついには WikiPedia か…
江戸→明治期にどの辺りが郡山だったのかは
もう少しマトモな資料で勉強してくれ。
勢力の支配範囲を混同するなw
何言ってんの?安積郡は源頼朝の奥州征伐後に工藤祐経の領地になった。その後裔の安積以東氏が
支配していたけど芦名や伊達と違ってぱっとしないまま戦国時代を迎えた。その一門の一人が郡山城主として
郡山太郎右衛門尉頼祐と名乗り、その弟が片平城主として片平某と名乗った。それが郡山合戦の頃の状況。
つまり戦国末期は郡山城のあたりが郡山。ここまでは「戦国時代は、単なる寂しい宿場町です。」に対するレス。
江戸から明治はまた別の話だ。 郡山はあくまで現在に比べれば未発展だったと言うだけで、当時(幕末)としては中規模程度の町だったよ
大都市ではないが荒野と言うのも大袈裟
戦国時代までは寒村だったが、江戸時代に入ると奥州街道が郡山を通るようになった為、宿場町として賑わうようになった
少なくとも福島や藩庁がある二本松よりは大きな町だった >>667
たしかに宿場町ではあったが「賑わう」ほどではなかったように思う。 >>669
城下町じゃないのに、米沢とか白河程度の規模はあった訳だし
田舎町にしては賑わっていた部類と言っても差し支えないと思うよ 歴史は繋がっているのに、氏を語る上で一時代だけくり貫いて完結出来ると思ってる 方が馬鹿です
そう言う輩はゲームでもやってた方が良い >>672
戦国時代という時代を語れということだ。
繋がっているのはあたりまえだが、
限定した範囲(多少の引用は認められるだろう)で
話ができないはお前が馬鹿だからだ。
>>674
まったく馬鹿と言うか無知と言うか話にならんがな
歴ゲー板にでも行けよ
そもそも戦国時代の範囲すら確定していないのに、戦国時代のみ語れとかお笑いも良いところだな > まったく馬鹿と言うか無知と言うか話にならんがな
> 歴ゲー板にでも行けよ
> そもそも戦国時代の範囲すら確定していないのに、戦国時代のみ語れとかお笑いも良いところだな
まったく馬鹿と言うか無知と言うか話にならんがな でた
馬鹿の特技、鸚鵡返しと改変w
反論出来なくなると必ずこれを使う
正にアホのテンプレ でた
必ずこれを使うと後から言うヤツ
必ずを列挙希望
さあどうぞ
>>678
ふむ
もろにアホ奥義鸚鵡返しの術にハマっていますね 太田と横手て地勢が似てるのか?
親父は横手推し。
やっぱり海が好きな息子は久保田推し。 義重は横手の豪雪を知らずに口出してる。
義宣はリサーチ済みで、豪雪地帯は勘弁と、沿岸部にした。
これまでの関西とのコネクション活かして貿易やるつもりで。
もし義重の希望通り横手に本拠を構えたなら、新田開発はポシャり、
幕末に四十万石と言われた秋田は無かっただろうね。 >>683
防衛と縁起担ぎかららしい
平坦な久保田より山間の横手の方が防衛上良いだろうと言う事と
後三年の役で佐竹氏の先祖である源義光が横手に拠って活躍したと言う伝承がある事から義重や古参の重臣達は横手を推した
だが義宣は、これからの時代は要害の地より通運の便が良く町の発展のしやすい平坦な土地が良いとし
海運にも便利な海に近い久保田を推した
そして、義宣がそう考えたならそれがよかろうと義重も同意した事で久保田が本拠地に定まった 義重につく家臣と、義宣につく家臣で分かれて、誰か死人も出てなかったか?
出来レースでそこまでやらんだろ 義重は家督譲ってからは全て決定は義宣に委ねているよ
後見人として意見はしているけど 結局大河ドラマ平清盛劇中で
2、3回名前が呼ばれただけだったな
仕方ないとは思うが 9 ◇ ミ ◇ ◇◇ / ̄| ◇◇ ◇◇\ |__| ◇◇ 彡 O( ^ω^)/( P `O /彡#_|ミ\
【ラッキーAA】 このAAを見た人はコピペでもいいので 10分以内に3つのスレへ貼り付けるお そうすれば2日後から好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ 出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事だお 岩明均の「雪の峠」みたいな作品ないかな、マンガ小説問わず。 http://8257.teacup.com/satake/bbs?reverse=0
1716年秋田佐竹の流れをくむ佐竹十郎兵衛が、美濃の国(現在の岐阜県大垣市)から京にのぼり、三条河原で腰掛け茶屋を始める。
お店にもいるんだな。新聞にも載ってたけどさ。 秋田県佐竹敬久知事(猫好き)「細川はそんなに古い大名じゃない。400年くらいうちの方が先輩」
ttp://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1390222682/ 佐竹東家なら皇后陛下とも遠縁なんだが知事は北家だからな 信長の野望や天下布武みたいな戦国SLGで関東の大名を選ぶと
どうやって潰そうかを真っ先に考える
何で佐竹を選ばないかって?
だって大体のゲームじゃ当主の能力もいいし部下もいいのが揃ってて簡単すぎるんだよ・・・ 佐竹は関ヶ原の時に素直に家康に味方すれば良かったのにな。 家康に味方してても、何だかんだ理由付けてトばされてたんじゃないかな。 義宣の時は大丈夫かもしれんが2代3代辺りで飛ばされるだろうね この佐竹南家の現当主の方のブログは興味深い
佐竹一族と日本最大のゼネコンである鹿島建設の鹿島一族が親戚だったとは
やはり佐竹は半端無い
日本の本当の上流社会の住民だ
古来より続く名門中の名門佐竹家!!
俺を家臣にしてくれないかなぁ
http://www.ne.jp/asahi/home/sata/index1.htm#HOME 佐竹の領土って、茨城県・栃木県だろ。
北条の領土は神奈川県・東京都・埼玉県・群馬県だろ。
領土的には北条にいちころされてもおかしくないのだが、潰されなかったのが不思議。 >>701
「世が世なら大大名なのになぜこんなに下々の暮らしをしなければならないのか」と現当主の方がブログに書かれていたけれどもたしかにそうだよなと賛同したから貼った
やはり身分制度を復活させるべきだよな 何故って才覚が無いからだろう。戦国時代ならハクダミにされていたかも知れん。 >>704
これが貴人に楯突く下賎の者の思考か
これでは一族から名立たる人間が出ていない凡人なのも頷ける とはいえうちも純然たる庶民なんだけどな
誇り高き小作人の末裔 長曾我部家臣の佐竹親直ってここの佐竹と血筋繋がってるの? 里見水軍が、佐竹の零細な水軍と戦って勝ったことがあるそうですが、
詳細を知っている人いますか?
ちなみに佐竹零細水軍は
磐城氏の零細水軍にも負けたことがあるとか。 >>710
繋がってると聞いた。美濃佐竹からの流れらしい。
ただ土佐の佐竹まで繋がる系図は群書類従とかの所収のやつには見られない。
>>711
佐竹の史料は相当調べたが、全く知らない。
そういった戦いが推測されるものも見たことがない。 里見と佐竹って争う理由がなさそうだけど、むしろ同盟してもおかしくない。
実際なんか関係したの? >>713
謙信が小田原城に攻めてきた時には、里見も上杉もそれを支持したと記憶している。 佐竹と里見は戦国時代を通じてほとんど関係しなかったよ。
一応佐竹義昭は里見と連携を取ろうとしたようだが、本格的な関係になる前に義昭が死んだ。
義重の代は太田親子が奔走して両者間の仲介をしたが、義重自体がそういうのに消極的だったらしく、
やはり具体的な共同戦線には至らなかった。精々武田勝頼と里見の同盟を佐竹が仲介したくらいだ。
この同盟締結も積極的に動いていたのは太田親子だったようだ。
佐竹も里見も、公方下における互いの立場上、特に儀礼的な関係等々で、
極めて微妙な間柄にならざるを得なかったんじゃないかな。 里見は関東副将軍とか意味不明な自称をして恥ずかしくないの?土豪でしょ?
佐竹は正真正銘の源氏の名門中の名門なのに 人取橋の江戸と里見が攻めてくるって流言なんなのさ
信憑性無さすぎ
江戸はわからなくもないけど 実際は伊達家出身の正室の嘆願でしょ
そのせいで…… 南陸奥とは(保内郷)現茨城県久慈郡大子町のこと。戦国期に佐竹氏が奪取。
太閤検地の際に常陸国に編入された。
大子町の西方にある境明神峠の堺とは、古来、下野国と陸奥国の堺のことである。 鎌倉時代から宇都宮氏系武茂氏の領地となった所領の北半分は、
那須与一が屋島の戦いで見事に扇を射手するために、また、、
南半分は、源頼朝朝が奥州征伐の戦勝祈願で宇都宮の二荒山神社に寄進したものである。
記録は神社にある。 東京野村証券 沖縄海焼きそば
東京野村証券 沖縄海焼きそば
東京野村証券 沖縄海焼きそば そもそも佐竹と里見が連携するのも争うのも地理的に見て無理がある
常陸南部、下総、上総北部周辺は佐竹や里見の支配が及んでいないし
後には後北条の支配が及んで、ますます往来が不可能になっている >>711
水軍と言うほどの物は無かったよ
湖沼や河川、又は入江などで活動する程度の船はあったが、とても外洋に出れる様なものではない
だから唐入りの際は豊臣家から船を借りて渡航した
因みに、その時の船奉行は真崎氏
真崎氏は現東海村の村松付近の統治を行っていた佐竹宗家の旗本で、岩城氏や江戸氏と戦ったという記録がある
その時に水軍の話が僅かに出てくる
村松近辺の今は水田になっている地域は、かつて入江になっていて
真崎城や江戸氏側の多良崎城は岬に築かれた水城であったようだ
だから多少、操船の技術を有していた為に船奉行に選ばれたのだろう マリアージュラーメン
マリアージュラーメン
マリアージュラーメン 関ヶ原の戦い時に佐竹義宣と上杉景勝の連携のパイプ的役割を果たしていたのって白河城にいた結城朝勝(宇都宮広綱二男)なんだな 徳川家によって結城家から追い出されてしまったからな
朝勝にしてみれば徳川憎しだったのだろう
佐竹や宇都宮にても戦国末期から結束を強めていった佐竹、宇都宮、結城による三国同盟の一角が崩れたのは痛かったな
多賀谷だけは結城から離れて佐竹側についたけど >>730
・津軽から借金を申し込まれた
・松前から茶碗を買い取って喜んだ
・南部が要らぬ口を滑らせたので激おこ
伊達政宗とのあれやこれやは有名だが
ほとんどが後世の創作。 歴史探索ツアー「戦国時代の山城跡 高部館」参加者募集!
内容
常陸大宮市高部の高部館と諏訪神社(高部景義墓塔)を探索します。
調査を実施してきた「茨城大学中世史研究会」から説明を聞きながら巡る約3時間のツアーです。
※昼食の時間も含みます
開催日時
第2回 2015年2月1日(日) AM10:00〜PM1:00(AM9:30集合)
定員
各回50名(先着順で定員になり次第締切)
参加費
500円(お弁当・お茶代含む) ※当日、受付時にお支払いください。
※お弁当は、「常陸大宮ふるさとB級グルメ選手権」第3回グランプリの「大宮きのこたっぷり五目ふかし」です。
http://www.city.hitachiomiya.lg.jp/news.php?code=956 「寄生獣」の岩明均は、「雪の峠」で渋江政光・佐竹義宣・梶原政景なんて
歴史オタ以外にはマイナーな武将にスポットを当てているけど、
何故なんだろう?
本人は東京出身だけど、実家が秋田か常陸なのかねえ? 浅野長政は酷い奴だw
佐竹氏まで改易しようとしてたんだな
論説 「豊臣期関東における浅野長政」 (PDF)
第一章 浅野長政による取次大名の囲い込み
第一節 滝川一益と東国領主の関係
第二節 浅野長政による宇都宮氏の囲い込み
第二章 浅野長政による囲い込みの弦かい
第一節 浅野長政と佐竹氏の関係
第一節 浅野長政と伊達政宗の関係
https://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/1847/1/shigaku_49_18_32.pdf
つか、義重カワイソスせっかく自分の代で佐竹を強くしたのに、息子がマメなやつになって、結局常陸統一出来ずに国替えとか でもあの流れじゃ誰が当主でも無理でしょ
北条滅亡したと思ったらその後に徳川が入って来て
やっぱり佐竹が相手するには身代がデカすぎるわけで >>737
まぁ、蘆名は滅亡して親戚のはずだった伊達とは敵対してたしね。
しかも、蘆名領は伊達の物になるし頭を押さえられてるみたいだから、いざ関東平野に出ようとしても、徳川がいるしどうしようもないってのがね 磨上原で葦名が勝ってれば
佐竹50万石葦名40万石岩城10万石ぐらい?
それでも徳川の相手はできないなあ >>739
徳川を相手には出来ないが伊達や最上などとはハレたかもしれないっすね 佐竹・秋田知事、靖国参拝せず 「佐竹家は八幡神社を信仰」
http://www.sankei.com/politics/news/150804/plt1508040017-n1.html
> 知事は「今までもないし、今後もない。私ども(が信仰しているの)は八幡神社。これは戦の神様だ」と語った。
> 源義家(八幡太郎義家)の流れをくむ秋田藩主・佐竹家の分家、佐竹北家の21代当主である佐竹知事は
>仙北市角館町の実家敷地内に八幡神社があり、秋田市内の知事公舎に八幡の神棚をまつっているという。
さすが なんかさ、佐竹云々と言ったってその「血」はその他の者によって希釈されているんだから、たんに姓が佐竹とか言ったってねえ。
例えば、就職に有利だとか女にモテるとかあるか!? ないだろ。
カネだって全然ないし卑しいとされている者どもの方が、上手く世渡りしてカネと地位を得ているんだから、こういうのは本当に無意味だよ。
と、その末裔の一人かも知れない者の戯言 >>743
> 例えば、就職に有利だとか
佐竹秋田県知事、まで読んだ。 旧華族なら親戚も社会的地位高い人多いだろうし
コネで就職余裕だろう それなりに働けなければ一族の恥さらしものでしかないけどな https://www.youtube.com/watch?v=O1HRbHpBK9k(マイナスSTAP胞細)(沖縄神田政典制圧)
https://www.youtube.com/watch?v=UpW3OnvM8RY
入浴厨森永喫茶大敗タイラーリーマンゲンジシャチョウシュッチョウクルマセンター
ニューヨーク飲会廃線自社買いボーナスワーナー映画(シネマレビュー低所得評論家)
川崎50代厨房教育違反アシスタント >>735
宇都宮、伊達、佐竹、津軽これらは浅野とは悪いが石田とは悪くなかったりする 佐竹は石田派のイメージがあるけど、元々関東は浅野が取次役だったんだよな
だから佐竹も当初は浅野の指揮下で動いていた
しかし宇都宮が浅野の養子の件を蹴った事で逆恨みされて潰された上に佐竹まで潰そうとした時に
石田が取り成した事で助かった経緯があったから義宣は石田派になった 今年こそ大河に義宣も出てくるかと期待したけど
三成救う話も信繁の手柄にされそうだな >>753
吉川広家みたいな奴もいるんだぜ
>>755
北条に力を入れた割に出ないからなあ 関宿城救援の時なんで謙信に協力しなかったのか義重は
結局自分が苦境になる結果になってしまった >>757
そりゃ上杉に従って北条に協力した諸将を散々攻撃して来たのに
その上杉が北条ど結ぶという有り得ない裏切りをしちゃったのだもの
関東衆が驚愕し激怒したのは言うまでもない
それで反北条勢力は家国を担いで結集し、更に武田と結んで北条に対抗する流れになった訳だが
その旗振り役が関宿城主の簗田
そんな状況下で義重が上杉に協力など出来るわけがないし、主張したところで義重まで不信感を持たれて反北条連合が崩壊するだけ その関宿城救援依頼をしたのは梁田氏
だから梁田氏に配慮して協力しなかったてのは当てはまらないかと
義重が個人的に謙信に不信感を抱いて協力しなかったんだろう
まあ義重もそれ以前に北条に協力して謙信方の唐沢山城を共同で攻めようとしたり曖昧な態度取ってるからなあ 義昭は謙信に積極的に協力してたけど義重はずっと疎遠な感じだよね >>759
簗田氏に配慮したなんて誰も言っとらんだろう
簗田氏は関宿を攻められ切羽詰まって上杉など各地に救援要請をしたけど
謙信は下総に近寄る事すら出来なかったように関東衆の大半が上杉から離脱していたからどうにもならなかった
義重も同じく関宿救援に向かったが同じように鬼怒川の辺りで身動きが取れなくなった
結局、越相同盟の時点で上杉を中心とする反北条同盟は終わっていたんだよ 半北条勢力は結城晴朝が北条から離反して謙信に越山要請してたり、義重が北関東連合を結成して対抗するなどまだまだ健在 関宿城の時も武蔵方面を謙信が撹乱して関宿城は義重に任せたら、北条と勝手に和議結んでたよね
その後は結局北条と敵対するし義重はよく分からんね 義重にしてみれば謙信が何を考えているのか全く分からんかったろうよ
関東衆が求めていたのは旧来の体制維持であって、戦国体制を敷くならば北条に従っても同じであり上杉に従う理由がない
関東管領として関東に影響力を保持するなら謙信が一番それに精通していなければならなかったのに
その辺りの意識が欠落していた為に関東衆は離れてしまった
関東衆にとってもう一つの旗頭であった関東公方も藤氏を失い、簗田氏も没落したことで非北条系の関東公方擁立の動きもなくなり
寄る辺を失った反北条勢力は佐竹を中心に多少のまとまりを見せる訳だが
佐竹は元々関東では一歩距離を置いていて少々浮いた存在であり
あくまでその国力から一目おかれていただけで、公方や管領の様な権威を持たず複雑な関東衆を糾合する事は至難の業であったろう
その点では義重はよくやったと言える
関東だけでなく南奥でも似たような立場に置かれていたからな
もっとも義昭時代の地盤があってこそとも言えるが それでも最後の頼みは謙信しかいなくて結局越山要請するしかなくなってるのが何とも
北関東連合を結成できたのも謙信が蘆名との際限無き戦の和睦を斡旋してくれたおかげ
謙信があそこで死ななければ本格的な連携ができて関東もまた波乱があったろだろうね 旧体制保持を維持するなら北条に従っても同じってのはおかしいと思うけどな
その旧体制をぶっ壊してきたのは他ならない北条じゃないか >>765
いや、越相同盟以後は一度も共同作戦をとることは無かったよ
それに謙信の斡旋による葦名との和睦は失敗している
そもそも上杉と佐竹の不和はそれによるものだし
北陸方面に主戦場を転換したい上杉と、南奥方面に転換したい佐竹の利害不一致により決裂した
結局、得をしたのは北条だけであったと
そして上杉も佐竹も苦境の時代に突入する訳だけど、終わってみれば上杉も佐竹も豊臣政権下で大大名となり北条は滅亡
関ヶ原では揃って没落し、大坂の陣では再び共に戦って紆余曲折ありながらも奥州で国主として生き残ったのだから歴史は面白い 越相同盟後も関宿城救援で佐竹と同陣してるじゃない
意見が合わなくて別行動したけど
あと謙信最晩年にも佐竹を中心とする東方之衆である結城晴朝が越山を度々催促してる
謙信仲介による佐竹蘆名の和睦が失敗してるってのは何に書かれてるのかな
それによって上杉佐竹が不和になったってのも聞いたことが無い 関ヶ原の三成と島津軍も同じ西軍なのに別行動じゃん。 島津が西軍として関ヶ原に臨んだのに三成と意見が合わなくて別行動したのを知らないのか? 上杉と佐竹は初めから別行動をしているし
発生要因、経緯、結果、全てが違う 島左近が義久と頼久に宛てた書状が見付かったね
大掾氏に対する処置と、領国経営の指南、あとは信雄を預かっている事への労いらしい 後知恵で考えれば、佐竹と政宗は手を組めば良かったわけね。
政宗はどのみち、伊達郡だの会津若松とか仙台とか、佐竹の北方をウロウロしている。
佐竹は、北へ進軍したり、北条対策で南に向かったり、2正面作戦になってしまって
いるのだから、北で組めば、政宗&佐竹による全国制覇も夢で描ける、と言ってみる。 それでは佐竹が矢面に立たされて損するではないか
それに南には領土を増やせないから宗家の領地を臣下に分け与えねばならず
戦えば戦うほど痩せ細ってしまう 政宗が親族領に色気を持ってるんだから無理なんじゃない? 家康が関ヶ原に出払ってるうちに江戸を制圧できなかったんだろうか? そもそも佐竹が徳川を攻撃するのが当たり前のような前提で必ず語られるけど
佐竹が徳川と戦わなければならない理由などない
むしろなぜもっと積極的に上杉と対峙しなかったのかと言う事の方が論点になるべきだろう
義宣はともかく、義重や義久など家中の有力者は徳川派であるし
家中には上杉討伐に張り切っていた者も多い
葦名系や二階堂系など南陸奥の武将を大勢取り込んでいたからだ
彼らにとっては上杉領になっている旧領の回復こそ悲願であり、葦名盛重や須田盛秀らはいち早く南陸奥に進軍して徳川と連絡を取り合っていた >>782
宇都宮城に上杉の抑えとして残ってた結城秀康の軍勢おるやん
上杉が最上攻め始めちゃったから全力で佐竹領に攻め込めるんやで 最上攻めは直江の手勢しか使ってない。秀康は景勝本軍と睨み合い中 徳川の本隊が西へ向かい、下野には押さえの部隊だけが残留し
佐竹や伊達も動く気配がないから上杉は最上に兵を差し向けたんだよ
もし佐竹がやる気なら当然上杉は逆に北に押さえを残して南下するでしょ
下野には寄せ集めの中小大名が2〜3万程度いただけだから
単体でそれぞれ2〜3万は繰り出せる上杉と佐竹に挟撃されたらひとたまりもない
まあ、そうなるとあとは伊達次第だがね
上杉領や相馬領に兵を向けて家康に恩を売るか、どさくさに紛れて南部領や最上領に攻め込むか
政宗の考える事は良く分からないので予想がつかない 出羽へ配置換えが決定したときの佐竹の殿様は、
水戸藩にもいったん帰らず、そのまま出羽の新領地へ直行!。
荷物とかどうでもいいんか。まあ、水戸城といっても佐竹の居城だったのは10年も
無いから、大して執着も無かったかもしれないが。 京にいた時点で留守居の和田とか義宗とかに準備の指示をしていたから
義宣が出羽へ向かう時点で既に引っ越しの準備は出来ていたよ
あとは南陸奥で合流して向かうだけだった 佐竹は宇喜多、伊達、島津に匹敵する大大名なのに存在感が薄いな
五大老に起用されてもおかしくなかった >>790
いや、西武ライオンズ黄金時代に例えると、
田辺か金森クラスでしょ。 221 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/11(日) 06:45:40.20 ID:CjUH6oS8
後北条との戦いでは押されていたようだが。
↑
押されてはいたが、大負けはしていないのではなかったか?
>>790
豊臣政権が続いていれば大老抜擢もあったと思う
佐竹や伊達は新参だから中央に昇るには時間が必要だったろうし 佐竹は親類の近隣の藩含めれば大大名っていう
限定条件付きでしょ 概ね10位以内に入っている佐竹が大大名じゃなかったらどこが大大名だと言うのだ 佐竹が影響力を含め大大名なのは確かだけど
豊臣政権が存続したとしても大老に食い込むのは可能性が無いとは言わないが厳しい 佐竹は豊臣政権にとって実はそれほど新参ではない。
小牧長久手・沼尻合戦での連携のころから付き合いはあるからな。
ただ豊臣政権の中での発言力という点ではやはり難しいな。
まあ現実的には「大老」とされた上杉すらどこまで発言力があったかは微妙だが。
ワイ自身は「大老」というのは外様に対する名誉的地位に過ぎなくて、
豊臣政権内部での職掌や発言力を担保するものではないと考えているからな。
仮に関が原での上方勢の対陣の最中に佐竹が宇都宮なり徳川領なりに攻め込み、
東軍の動揺が誘引され、且つ石田系豊臣政権の存続がなされたならば、
豊臣政権での外様としての佐竹の発言力は間違いなく二か三番目くらいにはなる。
上杉を抜いて西の毛利、東の佐竹くらいにはなったかもしれない。 あくまで秀吉に臣従、つまり当主が秀吉に謁見した時点で決まる訳で
佐竹は伊達とたいして変わらない新参だよ
伊達と睨み合っていて動けなかったのは義宣も同じで
小田原に来るよう再三の指示を受けていながらなかなか動かなかった事で危うく秀吉の不興を買いそうになっている
赤館以北の領地の領有も認められず没収されてしまった
秀吉に謁見した時点で支配権を失っていたからだ
もっと早い段階、それこそ小牧長久手辺りの時点で大坂に上っていれば毛利ぐらいの地位を得られたかもしれないが、さすがに無理過ぎる
宇都宮でもエピソードを見ても、佐竹も秀吉に対して侮りがあったと思われるし 義宣は伊達の血を引いているだけあって何となく政宗と性格が似ている
派手好きだし結構過激
秀吉とも馬が合いそう
義重は第一印象が悪かったせいか豊臣家とは一歩引いた感じ
だから徳川寄りであったようだ >>798
> もっと早い段階、それこそ小牧長久手辺りの時点で大坂に上っていれば
仮に大阪に行こうとしても、行けるような状況ではなかったと思うのだが。
どうだろうね? >>801
まあ、無理かな
沼尻合戦後も小競り合いが続いて義重が留守に出来る状態ではなかったし
総無事が発令されて小康状態になってからなら何とかなりそうだが、今度は伊達の方が活発になってきたから
結局は史実通りが限界かと思う 限界だね。水戸あたりから、京都方面なんて、
この世のかなたのように思えるほど、遠く感じるよ。
北条のいる小田原、江戸湊あたりなら見当もついたかもしれないが(そのさらに向こうに
武田がいる)、「おだ氏」と言われれば織田を連想するどころか、小田を想像するだろう。
筑波の小田氏。 距離というか状況的に無理
東北でも上洛して将軍などに謁見していた大名もいるし、行けない事はないけど
天正12年以降は北条と伊達の動きが活発化してとても長期間留守に出来る状態ではない
だから佐野や山上を通じて連絡を取るのが精一杯だったのだろう 本人が行けなくても、
一門の身内や、
それなりの地位にいる家臣を派遣することは可能だったのではないか?
それも難しい? >>805
家臣は早い段階から側近を送っていたけど、当主が謁見し人質を送るという二点をクリアしないと臣下に列した事にはならないからね
もっとも佐竹もしきりに豊臣の関東仕置きを要請していたけど
果たして臣下になるつもりがあったのだろうか
義重が秀吉に謁見した際に無礼であると秀吉が酷く腹を立てたそうだが
成り上がり者めと秀吉を甘く見ていたのか、それとも単に関東では長らく天下人になど会う機会もなく
佐竹ら有力大名にとって上の存在がいなかったから本当に礼儀が分からなかったのかは謎だが 真田の名胡桃城みたく、佐竹も北条に圧迫された時点で秀吉に
近づいていれば、真田の立ち位置に佐竹立てれたかもしれんね。 >>807
>佐竹も北条に圧迫された時点
押され気味ではあったが、大敗したことはなかったから
強い危機感があったようにも思えない。 別に佐竹の城でもなんでもないし、どうにかなるものではあるまい 北関東攻略の拠点としてばっちり活用されてるけどね関宿城 関宿は古河公方の勢力を押さえる上では重要であったけど
古河公方が実質的に北条に取り込まれて消滅してからは相対的に価値がなくなった
北条氏の主戦場も両毛へと移った事もあり結局関宿は簗田氏に返還される運びとなった 関宿城は水上交通の要衝を抑えることができる位置にあるからなあ。 だから越相同盟の時点では重要だったんだよ
簗田系公方を中心に反北条勢力が結集していから、古河付近を押さえるのは政治的にも地理的にも重要だった
だから公方を追って目的を達した後はこの方面に主点が置かれる事はなかった あの時点で上杉佐竹が関宿を維持するのは不可能。
上杉は夏季は越後へ帰ってしまうし、佐竹も本拠から遠過ぎる。
なにより両家とも北条とは統治形式が異なっており、
関宿を敢えて維持しようとするならば、北条と似た方法、
つまり自家中の有力家臣を関宿に入れて簗田氏を名目上の城主にし、
事実上関宿城を自勢力の拠点=対北条の最前線として機能させるしかない。
しかしそれをしてしまえば、結局は上杉佐竹も北条と同様の言わば「侵略型」の
戦国大名にならざるを得ない。これではそもそも関東秩序の維持方法として、
北条に対抗して上杉佐竹が選択した大義名分を失うことになる。 >>816
結局、上杉や佐竹の苦悩と決定力に欠けた原因はそこなんだよな
長尾上杉は管領を引き継いだ事で室町体制の守護者としての立場も引き継いだ訳で
関東衆の支持を得られた反面、旧来の体制を守り、旧来の体制の破壊者である北条との対決を義務付けられた
故に戦って勝っても本領の拡大は難しく、複雑に絡み合った関東衆の狭間で身動きも取りにくく苦心した
だが、北条と同じになってしまえば支持を失う訳で何ともやりにくい
結局上杉は上方の状況変化もあり越相同盟を結んだ事で関東衆の支持を失い影響力を大きく後退させた
その上杉の代わりとなって台頭したのが佐竹
佐竹に期待されるのも当然に管領上杉の立場であって、もどかく一進一退を繰り返した
更に南陸奥でも同様の立場にたったことで多面作戦を強いられじり貧に陥りはじめてしまったという… >>803
義重と江戸の叙任って信長に働きかけてじゃなかったっけ 伊達はともかく岩城がどうやって信繁の娘ゲットしたのか謎 義宣が京で拾ってきたんじゃなかったっけ
お陰で佐竹、伊達、真田、豊臣の血を引くサラブレッド重隆公が誕生
>>820
でも長門守と又兵衛をボコってたぞ □文亀 三年(一五〇三) 車斯忠一字状写
忠
文亀三年 車丹波守
霜月十二日 斯忠(花押影)
石井弥七郎殿
御宿所
(『茨城県史料中世編W』秋田藩家蔵文書四〇―二一)
佐竹義斯の偏諱の車斯忠の前にもう1人車斯忠がいたの? >>824
それおそらく茨城県史料編纂者の間違いである可能性が高い。
文亀の「文」は、元亀の「元」の間違いだと思う。
文亀三年事は車氏は岩城氏についており、
佐竹との関係はまだあまり深くはなかったと思われ、
まだ山入の乱の最中で依上保の有力一族石井氏は結城や山入、
佐竹の間での主従関係が揺れていた時期でもある。
またこの頃は岩城が依上保への干渉を強めていた時期でもあり、
車氏が石井氏に一字を与えたことも考えられないことではないが、
文亀と元亀がどっちがより状況的に当てはまるかと言えば、後者と言わざるを得ない。
この一字状写を文亀としているのは茨城県史料だけで、
常陸太田市史料や他の資料では元亀としている。 佐竹が常陸から秋田に国替えになったとき、譜代の家臣だけ(85騎(家)ぐらい)
引き連れていって、その他は水戸の徳川家に採用をアテにするか帰農するかと
いった選択を迫られたわけだが、
秋田の雪とかを思えば、常陸の土地で豪農として生活した方がなんぼかマシ。 冬の秋田は、毎日ウツになりそうな曇り空だそうですね。
常陸の国は、真冬でもカラッと晴天です。 源平合戦…平家方
関ヶ原…西軍方
戊辰…官軍に寝返る
どこか屈折したものを感じる >>832
屈折というか、勝ち馬に乗ることに失敗したということだな。 父祖の地に戻っただけ。源平合戦のころ佐竹の先祖は秋田にいたらしい。 頼朝の元に参じなかったので攻撃された。常陸または奥州のどこやらに落ちのびたとは聞いているが
秋田というのは初耳。 人取橋で劣勢の伊達政宗が佐竹大軍を追い払ったことになってるけどあれ身内だから見逃しただけだよね?
俺が考える人取橋て
事実上の総大将の佐竹にとって
正室の実家=伊達
実母の実姉の嫁ぎ先=伊達
姉妹の嫁ぎ先の岩城の当主の実家=伊達
だからへたに伊達の嫡流の首を取ったら四面楚歌になるの必至じゃん
家臣だってあとあと当主の正室にどんな恨み買うかわからんのに正室の実家を滅ぼすわけにもいかんでしょ
さらに
援軍の芦名の当主(2歳)の御母堂の実家=伊達
援軍の石川家の当主の実家=伊達
援軍の相馬の親戚=伊達政宗の正室 政宗が個人的に嫌いだからアンチ政宗軍が3万の大軍にふくれあがったけど
伊達と婚姻関係のない小大名が政宗嫌いが爆発して政宗に銃弾あびせるほど
あと一歩で首を討ちとるとこまでやっちゃったから
親戚の佐竹としてはそこまでしようとは思ってなくて
当時18・19歳の政宗が頭冷やせばそれでいいやぐらいにしか思ってなかったから
あわてて軍を引いた
石川、芦名、相馬も引いた
じゃないかなと思ってる それ言っちゃうと、織田と武田、織田と浅井も親戚だが。 あの時代でも親戚無視できるDQNなんか信長と政宗くらいだろ
その政宗でさえ血族はちゃんとにがしてる >>838
>人取橋で劣勢の伊達政宗が佐竹大軍を追い払ったことになってる
なってない。圧倒的に優勢なのに佐竹が謎の撤退となっている。 佐竹関連スレでこれについて書き込むのは何度めか……。
奥州高倉合戦について、ある程度の状況が確定可能な一次史料はない。
だからほぼ内容を軍記物に頼るしかないわけだが、
『奥羽永慶軍記』では江戸と里見が共謀して佐竹領を攻めようとしたから、
佐竹が撤退したということになっているのに対し、
『会津四家合考』には佐竹の大将である小野崎義昌が
陣中で殺害されたためということになっている。
当時の状況や史料としての価値から考えるに『合考』のほうがより信頼できる。
『永慶軍記』はどうも佐竹方の手落ちを隠そうとしているくさい。 そもそも当事の里見が攻めてくるメリットが里見側に無いことも無いがさほどない 『永慶軍記』の江戸と里見が佐竹領を窺ったため佐竹勢が
高倉合戦(人取り橋合戦)からそそくさと退却したというのは完全に虚構。
このころ里美は北条と和睦していたが、そもそもこの四五年前には
武田佐竹里見の対北条同盟が成立しようとしていた。
ましてや里見側に佐竹を攻めなければならないメリットなど全く存在しない。
しかも江戸は佐竹義重時代は滅亡まで完全に佐竹の従属化にあり、
高倉合戦以後は府内の大掾と敵対して佐竹勢を頼って戦争した。
江戸も里見も佐竹と敵対する理由などなく、当時の勢力図をうろ覚えでしか
知らなかった者が適当に思いついた説としか言いようがない。
大体里見領と佐竹領の間は相当隔たりがあり、間に北条勢力下の家々を挟んで、
常陸川を越え、香澄、波逆、鹿島の内海を渡海して、さらに大掾氏系列の
中小の武士領をも縦断してやっと水戸城へとどく。
外洋を行くならば犬吠埼を回って軍勢を船で送らなければならない。
こんな馬鹿げた戦争はどう考えてもあり得ない。 つまりは『合考』の説が最も理にかなうものであり、実際に佐竹勢の大将だった
小野崎義政は天正十二年(1584)以降、一次史料からは足跡が消える。
既知の義政最後の消息は会津の守護代クラスだった金上盛備へ沼尻鯉沼合戦の
様子を伝えるもので、義政は佐竹(常陸)の守護代クラスとして蘆名と外交していた
とみられる。この蘆名佐竹の同盟関係から対伊達の高倉合戦が行われたと見ていい。
高倉合戦時には蘆名当主の盛隆は死亡しており、守護代として同じ身分の
金上盛備と小野崎義政の共同、即ち南奥州の蘆名佐竹の二大勢力を筆頭とする
惣無事体制から、これに対する伊達勢への対抗戦が行われたと推測される。
つまり高倉合戦において佐竹義重の出陣はなかった。『合考』にも義重自身の
出陣の記述はない。また岩城白川など惣無事下にある大勢力の当主の出陣もない。
こういう経緯から、小野崎義政の陣中での死によって奥州陣が瓦解し、
瞬く間に退却することになったというのが真相だと思われる。 実際に侵攻を企図していたかはともかく犬吠埼から香取霞ヶ浦への軍船による侵攻は可能なんじゃないのかな
犬吠埼ルートを使った下総乱入はやってるし
まあ補給だ増援だとなると大変だろうけど 馬担当に殺されたんだっけ
それがなくても伊達家滅亡はさせなかったと思うよ
まだまだ親戚同士なあなあにやってた頃だし
ただこれをきっかけに伊達政宗が強硬派から策謀派に転じたて言われてるから奥州のターニングポイントだったな 義政殺したやつと義宣落胤が同じ名字だったような
これ(義政暗殺)もストンと信用できるかというとどうなんやろ 最近の知事は熊害に本腰を入れてる様子が見えないと評判がよくないみたいね 真崎兵庫宣治の資料が全然見つからんなぁ
生没年すら不詳とか
義宣公時代の高官だったんでしょ?
真崎豊後はちょくちょく名前見るんだけど 真崎家の史料は秋田藩家蔵文書の文書群と系図くらいしか無いよ。
佐々木倫朗が「真崎義伊(宣伊・宣治)に関する一考察」という論文の中で、
戦国後期真崎宗家の流れについて書いているので、それを見るといいと思う。
真崎義伊(宣伊・宣治)に関する一考察 佐々木 倫朗
栃木県立文書館研究紀要16 浄財洗浄じゃなかった、常在戦場の政治家が楽になりたいだと?
政治家引退して楽になれよ、馬鹿殿様は 時に、11月26日、家康から攻撃命令が下され、今福の戦いに臨んだ佐竹義宣軍1500は壊滅寸前に切り込まれ、家老の渋江さんが討死。
上杉景勝軍5000がキューサイに駆けつけなかったら大変なことになっていた >>864
佐竹氏は地の利があるホームで戦えばそれなりに強いが
遠征先アウェイでは弱い。 実際佐竹さんって弱兵だよな
武功で有名なのって真壁くらいしかおらんし >>864
それは上杉が言っている事だから実際の所はどうか分からない
徳川の記録では渋江が討死して怒った義宣が前線で指揮をとって撃退したと書いてある
実際、佐竹は冬の陣で将軍から最も多く感状を貰っている >>866
後北条と戦って、押され気味ながらもドローに持ち込んでいる。 ファミリーヒストリーでデヴィ夫人やってたけど
父方が根本里行の一族のような放送をしていたが
結局苗字が根本だと言うだけで佐竹系根本氏との繋がりは一切分からないという鳥越と同じパターンだった >>869
>実際、佐竹は冬の陣で将軍から最も多く感状を貰っている
内容確認したい
その感状って秋田藩佐竹文書とかで見られるかな? 佐竹氏の本っえ全然ないけど史料少なかったりするの? >>873
たくさんあるよ
古い家だし生き残ったから史料は全国でも多い方だと思う
県史所収の関連書状だけでも数百通はあるし
軍記軍談家譜の類いも何冊もある
内容としても結構出来が良い >>876
その中に>>869のいう感状ってのは残ってるの? >>875
そんなに人気ないのかな、里見はあるのに
まぁ里見は千葉県だから人口多いもんな 佐竹は不人気だけど里見もそんな人気あったっけ?
八犬伝絡みを除くとあまり話聞かないような 別に佐竹は不人気じゃないだろ
知名度がないだけで
おまえらだってゲームくらいの知識しかないだろ?
人気不人気以前の問題 >>881
学びたいけど初心者向けの本がほぼないので中世武士選書とかで出して欲しいなぁ >>881
この流れでゲームの話なんかしたの君が初めてだよ
誰もゲームなんか意識してなかったのに急に言い始めたのが君 >>884
おまえ童貞だろ?
↓
童貞の話なんかしてた?
↓
あ、図星だったのね
完全にアスペ
頭悪過ぎ 人は図星を突かれると怒る
>>882と>>883のレスの差が面白い
知能と精神年齢の差が明確に出ている >>886
>>883は怒ってるどころかゲーム野郎をバカにしてるわけだから
お前の理屈では図星は突かれてないってことになるよな 自分から図星だろうとか言い出すのは「はい論破〜」並みに恥ずかしいとわからないのかな… 清々しいほどにテンプレ君w
今でもこんな奴いるんだな 知識豊富な皆様に質問だけど
戦国期(天正18年以前)の佐竹家臣で好きな武将は誰ですか? いいね昭為
返り忠ながら行政から外交まで幅広く活躍して宗家の奉行衆の中でも筆頭と言えるポジションになっていたし
有能な人物だったのだろう 確かに昭為の返り忠は少し出来すぎているけど
さすがに謀略で反乱までは起こさないんじゃないかな
昭為本人は会津へ脱出したものの一族朗党は部垂で籠城して合戦にまでなっているし
もし敵を欺くには味方からと言うことで一族朗党にまで黙っていたとすると策士すぎて恐ろしい・・・ >>894
家族が死んでいるからな。
プロレスではなくガチでしょう。 坂東三十三箇所の巡礼をしている者です。
昨日(10/20土)23番札所の佐竹寺(茨城県常陸太田市)へお参りしてきました。
事前情報では、御本尊は絶対秘仏で、本堂(国指定重要文化財)も閉じられたままとい
うことでしたが、行ってみると、 10/20(土)~21(日)の2日間のみ「集中曝涼」のため
本堂に入れました。
知らずに行ったのに、本当に幸運でした。
お堂の前でお賽銭を入れて読経しようと思って行ったら、
「どうぞお上がりください」と言われたので、「え?え?いいの?」と驚きました。
御本尊は厨子の中でしたが、立派な御前立を拝むことが出来ました。
朝9時半頃に行ったためか、本堂の中で一人だけでお経と願い事を唱えてから、
佐竹氏や近くのお城の説明に目を通して退出しました。
拝観料は取られませんでした。とても得しました。
お寺の方々、ボランティアの方々、有り難うございました。
納経帳と納経軸に御朱印(こちらは有料)をいただいて、
境内の写真を撮って(もちろん本堂内は撮影禁止)、
10時間半頃に帰りかけると、観光バスが来たりして人出が多くなりました。
朝早く行って良かったです。
思いがけずに、佐竹氏の祈願寺の本堂の中で、一人で御本尊(厨子の中)と
その御前立をのんびり拝むことができました。
子供の頃に母に対して感じていた「守られている」という感覚を思い出しました。
観音様に守られている。
本当に運が良かったです。 佐竹氏調べれば調べるほど流布されてるイメージと違って面白いなぁ
義宣公なんか律儀で実直なだけの人かと思ってたのに実は冷徹でマキャベリストなとこもあったんだねぇ
最近知った逸話だと関宿城を見捨てようとしてる佐竹家臣団に上杉謙信がブチ切れたってのが好き
両家が結構な緊張関係にあったなんて全然知らなかった 関宿城は田んぼと畑になって見る影もない
年に一回高台の広場で義宣さんが大好きだったという鷹狩のイベントやってる
武家の鷹狩流派が集まるから、興味あったら行ってみるといいよ、入場無料で3/3 追記
江戸期の関宿城の大手門は栃木のとんかつ屋に移築されてるんだった
とんかつ合掌
栃木県下野市下石橋134-1
興味あったら行ってみるよろし 知事が北家の墓所に飼い猫のお墓を建てらないか菩提寺に問い合わせたらダメっていわれたそうだ 上京からした身からするとこっちまで話題届く知事ってなかなかいないからなー
佐竹知事にはがんばってほしい >>904
これヒストリアにも出てたね!
もちろん佐竹家についてはノータッチだったけど…
大坂の陣で屋敷は徴発されて足軽たちの根小屋とか建てられてたそうだ
あの辺ほじくれば佐竹屋敷全部出てくるんだろうけど一生無理だろうなぁ 佐竹藩久保田家は薩長軍に兵糧や武器の供給、負傷者の面倒で七十万両の巨費を費やし、
それに対する章典禄はわずか1万石で、まったくみ合いませんでした。 いつ頃から佐竹家が所有していたんだろうねー
大正時代に手放したらしいけどなんであんな大金が必要になったんだろう
事業失敗でもしたのかな 新政府軍にはかなりの金を献金し、庄内藩にはコテンパンに叩かれ、あまり報われなかったようですが… 茨城県立歴史館でやってる佐竹氏展見に行かなきゃ
3月22日までだけど焦らないうちに計画立てとこう 浅野長政は佐竹氏の取り潰しまたは縮小を狙っていたが、ライバルの石田三成が佐竹氏に肩入れしたおかげで助かった
でも関ヶ原では日和見
佐竹って恩知らずだよなあ 家康は、義宣在世中は佐竹氏の石高を明示してはならないと遺言し、不確定のまま半世紀以上が推移した
佐竹氏の判物が、20万5800石と明示されるのは、寛文4年(1664年)、二代藩主のときであった。 >>918
> 家康は、義宣在世中は佐竹氏の石高を明示してはならないと遺言し、
その理由は? 佐竹氏展最終日に見に行ったわー
一番興味深かったのは佐竹の乱中にあの真崎氏すら佐竹宗家領、しかも重要施設であろう製塩場を押領してたってところw
江戸氏や小野崎氏ならまだしも真崎氏もそうだったとは意外だった >>920
>佐竹宗家領、しかも重要施設であろう製塩場を押領
それは謀反にならないのか? れっきとした謀反だよねぇ
江戸氏小野崎氏も処罰されてないところをみると、岩城氏による和睦斡旋がうまくいったんだろうか 義重公の八文字長義が台湾に行っちゃったね
3500万は流石に駄目だったか 以下の3件について調べたいのですが、具体的にどこに行ってどんな資料を見れば良いか教えて下さい
A.秋田転勤の際に、連れていった家臣、残った家臣(帰農)、二次募集で参加した家臣、他家へ転職した家臣のリスト
B.朝鮮出兵で義久軍1440人?が名護屋を出航した時の家臣リスト
C.小山評定の直後に義久軍300人?が徳川秀忠への援軍として参加した時の家臣リスト Aのうち、連れていった家臣、二次募集で参加した家臣
つまり久保田藩士として残った者については秋田武鑑で調べられるかな
amazonでも売ってるし大きな図書館にも置いてあるね
B,Cについては怪しくて
大和田重清日記という名護屋に随行した義宣側近の日記があって、そこで義久の家臣達と面会した記録は残ってるね
ただリストとしてまとまった形では残ってない…
少し前まで郷土史家の方が日記に出てくる人名をリストアップしてくれた論文があったんだけどサイトごと消えちゃってる
戦国期権力佐竹氏の研究
https://satakeshi-kenkyu.jimdo.com/
力になれなくてごめん
にわかファンの限界です他の人よろしく 54万石から21万石に減らされ、いかにして財政をやり繰りしたか、人件費はどうしたか、など興味は尽きない 地付の家来っておいていくんじゃね? だって移動してきた水戸家だって家来必要だろ
紹介して譲るんだよ 家来 あの小野崎従通も没落後に水戸藩に仕えてるし土地勘ある人は重宝されるんだろうねぇ 実現したかは疑問だが、徳川からの提案では、常陸に加え、下総、上総、安房を加増すると 色んな本買ってみたあとに気付いたんだけどだいたい論文集だった
意外とって言ったら失礼かも知れないけど読み物として面白く成立してるんやね 三浦、小山は中世武士選書に来てるんだし佐竹や里見もだしてほしいね
あと堀越公方の本も出してくれ 佐竹史料館建て替え 秋田市・25年3月開館予定
https://kahoku.news/articles/20201231khn000016.html
床面積3倍になって建て替えとはめでたいね!
あそこ結構手狭だったからw 秋田県、大河ドラマ誘致運動始めないかな。
秋田県と茨城県が組んでやってくれると良いのだけれど、茨城県が黄門様や幕末は水戸学とか当然徳川臭が強いから佐竹興味なしか。 北関東一円の大名・国衆の群像劇とかも見てみたいかも >>940
白河結城や伊達・南部を中心とした北畠顕家軍の転戦記か? >>43
秀宗の家(宇和島)は小藩ながら財政は安定してたのにな そういえば、家康に家名を乗っ取られた本物の藤氏徳川が佐竹家中に居たんだよな。
新田源氏を名乗る偽徳川のことをどう思ってたのだろうか シリーズ・中世関東武士の研究 第30巻 常陸佐竹氏
https://www.ebisukosyo.co.jp/item/586/
新しい論文集出るみたいね
予約しといたよ ところでさ、関ヶ原のとき結城秀康に仕掛けてたら勝てたかな 守備側は結城秀康と蒲生秀行+αで多くて2万
佐竹側は頑張れば25000ぐらい動員できただろうから勝てないことはないだろうけど 上杉との連合軍ならそこは楽勝だろ
真田一つで秀忠軍も足踏みで
関東圏は上方がどうあれ一旦ぐちゃぐちゃにはなったろうな
ただ統治となると話が別だしね それこそ佐竹家が軍事行動起こさなかった理由の1つだろうしね
単独では上杉家・徳川家どちらにも対抗できないって分かってたのかも 関ヶ原合戦が一日で決着できると予想できていないなら
佐竹が江戸に軍事行動を起こしたなら関ヶ原合戦そのものが無くなっていたんじゃね 佐竹が江戸に進撃したら結城軍に背後つかれるから江戸には向かえないよな 父親の佐竹義重は親徳川だし、家中の意思統一がとれないから軍事行動に踏み切れなかった。
腹いせに美人を秋田に連れていくしかなかった?? 弟も上杉には失脚してもらって、あわよくば会津でお家再興したかったろうし 茨城県立歴史館の企画展・中世佐竹氏の世界
これ行きたかったけど緊急事態宣言延長されてしまったよ
図録の通販とかあるのかねえ 鼻かんで単独事故起こしたのかw
お茶目だがご夫人ともどもご無事でなりより 幕末の佐竹家の兵の弱さを見てると、可哀そうになってくる。 >>962
佐竹兵は地理を知らない監軍が無能すぎると言い、監軍は佐竹兵の弱兵ぶりを嘆いてたらしい
そもそも亀田藩の寝返りの原因も監軍だしほんと不憫w
一方、大館城代が指揮をとってた盛岡藩方面は大館城奪還して降伏までさせてるからねー
こっちはようやっとる 和歌山県出身の下村拓郎様(35歳、元自衛隊)という方をご存知ですか? 佐竹は宇都宮、小山、結城などに比べると
関東管領あるいは公方の戦いに絡んでない気もする
その分山入氏いたけど >>967
ちょうど佐竹の乱でバチバチ内戦してたからなぁ
永享の乱→享徳の乱と山入・佐竹両サイドの立場を保障してくれる環境があったせいで100年も内戦が続いちゃったんかね、こんな長いのは全国的にも稀有だよね 鎌倉殿の13人、頼朝の佐竹討伐〜金砂城の戦いやるかねw
上総広常は出てたが・・・ 確か佐竹基親?とかいう人が美濃佐竹氏にいたような気がする
その関係者かな ウクライナ絡みの立ち回りはひどすぎる
ザキトワ、ゆめ、アショア反対
もう辞任したらどうだ? >>973
その関係者だったぞ。教えてくれてありがとう 義政は吾妻鏡だと頼朝の命令で殺されたってことになってたけど
大河は上総広常がなんかキレて殺してたねw
佐竹征伐は権益争いを抱えた上総・千葉氏の進言によるものでなくて、
関東における河内源氏一族の主導権争いで頼朝の軍事パフォーマンス的色合いが強いって高橋修氏の論文があったがこれは採用されなかったか このスレッドは1000を超えました。
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