弱小・北条氏康が今川・上杉・武田・里見に大敗
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今川義元・上杉謙信・里見義堯・武田信玄に負け続け、逃げ惑ったザコ大名・北条氏康
その息子達も父に似て愚将揃いで北条家は滅亡
1545年【狐橋の戦い】北条氏康●-○今川義元
1545年【吉原城の戦い】北条氏康●-○今川義元
1545年【長久保城の戦い】北条氏康●-○今川義元
1547年【松山城の戦い】北条氏康●-○太田資正
1551年【興国寺城の戦い】北条氏康●-○今川義元
1553年【平井城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信(平子孫三郎)
1553年【忍城の戦い】北条氏康●-○成田長泰
1556年【三浦三崎の戦い】北条氏康●-○里見義堯(里見義弘)
1559年【唐沢山城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信・佐野昌綱
1560年【沼田城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信
1560年【久留里城の戦い】北条氏康●-○里見義堯
1561年【松山城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信
1562年【岩槻城の戦い】北条氏康●-○太田資正
1565年【関宿城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信・簗田晴助
1566年【久留里城の戦い】北条氏康●-○里見義堯
1567年【三船山の戦い】北条氏康●-○里見義堯(里見義弘)
1569年【三増峠の戦い】北条氏康●-○武田信玄
1570年【深沢城の戦い】北条氏康●-○武田信玄 じゃあ何で氏康は今川義元に負けちゃったの?
雑魚だからじゃん 秀吉は氏直より遥かに戦下手
氏直が完封した滝川に伊勢で鉄砲隊と奇襲部隊を交差したゲリラ戦術でボロカスにやられた。 S 伊達政宗
A 織田信長 徳川家康 三好長慶
B 葦名盛氏 豊臣秀吉 北条早雲 毛利元就 島津義久 最上義光 武田信玄
C 上杉謙信 大友宗麟 今川義元 本願寺顕如 本多忠勝 柴田勝家 斉藤道三 明智光秀
D 佐竹義重 上杉景勝 滝川一益 浅井長政 相馬盛胤 伊達晴宗 龍造寺隆信 長宗我部元親
E 武田勝頼 前田利家 細川藤孝 藤堂高虎 真田昌幸 北条氏政 加藤清正 北畠具教
政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。
信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。
政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。
比較にすらなるまい。
でも氏康は義元に負けちゃったよね
氏康弱すぎだろw てかこのスレ義元舐めすぎだろ あれは名将だぞ 文献読んでも雪斎は助言係程度だったのがわかるし内政外交と活躍した 本来なら勢力的にも武田なんかと肩を並べるべき武将 死ぬ時も2,3人斬り殺してから死んだしな
ただ信長にただ一度負けて殺された これでこんな過小評価になるから不憫だ 駿河放棄して義元と和睦したおかげで
河越合戦に勝ったのだから英断でしょ。 そのせいで天下目指して上洛する可能性が消え失せた
天下を狙える力のあった最強クラスの信長・信玄・謙信・元就と氏康の間には大きな力の差があるワケだな 氏康を正当に評価する専門家とTsBgBBIrの間には
人間的にも歴史研究家としても大きな差があるワケだな 政宗はガチで戦上手
北 大崎 葛西 最上
東 相馬
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
これだけガチで敵対して拡張した。
政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。
信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。
政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。
比較にすらなるまい。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長
これまでの考察で分かった事
氏康>>>>信長
政宗>>>>信長
本願寺、島津>>>>信長
家康>>>>信長
元親>>>>信長
信長が他大名の立場に生れていたら
信玄の場合信濃侵攻に30年かかり生涯を終える
元就の場合安芸一国人のまま生涯を終える
義重の場合常陸の統一すらできず葦名や田村に敗戦して敗死
政宗の場合関柴の戦いで討ち死に
氏康の場合両上杉の大軍に囲まれて戦死
義久の場合土持や相良、伊藤などに負けて敗死
宗麟の場合毛利元就に負けて敗死
元親の場合三好に負けて討ち死に
尾張だから助かっただけ
元々、もう明らかに、
後条は関東支配しようとしたけど、負けただけだよね。
いわゆる関東大戦なんだよ。 北条がここまで大きく版図を広げられたのは甲相駿同盟の恩恵が大きいだろうな
それがなければ相模の一大名で終わってたかもしれないし
けど無能がここまで領土を広げられるはずもないし負けも多いが要所要所の戦では勝ってるしな
戦国時代は生き残って領土を広げた者勝ちだからそれでいいんじゃね? >>722
生き残れなかったから無能って滅んだ家全部を言ってるの?
極論過ぎるだろ
そんなこと言い出したら歴史を語れんよ >>55〜>>78
↑↑↑メガトン級大爆笑!!!wwwwwwアハハハハハ^^
この一連の流れの北条厨の負け惜しみが滑稽 >>1のキチガイさは異常・・・
こりゃ犯罪予備軍だな >>1
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http://info.2ch.net/guide/adv.html#saku_guide 黒田基樹とかいう北条妄信チンピラ学者(嘲笑)のせい。 中世史研究者に黒田の名前振ってみると
「黒田さんはねぇ・・・」と必ず言葉尻を濁される。 氏康って里見の水軍に翻弄されてストレスで痴呆症なったんだろ 関東や海道で敵前逃亡を繰り返した北条氏康は武将失格 武蔵あたりじゃ北条は人気ないだろ。
侵略者でしかない。
北条氏康が尊敬されるのは小田原くらいだろ? まあ武蔵の国人は北条にへーこらしてたやつが多いんだが 相模の北条氏康は関東制覇に失敗してしまった。
関東南東部では安房の里見義堯に翻弄され、
関東北東部では常陸の佐竹義昭に阻まれ、
関東北西部では越後の上杉謙信に歯が立たず、
関東南西部では甲斐の武田信玄や安房の里見義堯、越後の上杉謙信に攻め込まれ、
関東中央部では下総の簗田晴助に撃退された。 北条は関東八館と管領を敵にまわして領土拡張したんだから凄いだろ。
武田信玄が化け物だっただけで、北条もsクラスなのは違いない。 まるで信玄にしか負けてないような物言いだけど
今川・上杉・里見その他にも負けちゃってるからなー まあ光秀にぶち殺されて死んだ信長より遥かに有能だろうな
包囲網張られた絶望的状況から両上杉や古河公方の8万の大軍や今川らの包囲網退けて
見事関東に覇を唱える礎を作っているし河越野戦なんてそうそうできる業じゃないだろうし
領土拡張率でいっても
氏康40→120
信長30→20で氏康のがずっと上だしな 褒めてると見せて、功名に氏康を貶めている>>745 北条厨と呼ばれる人の主張は皆そんな感じ
つっこみどころ多すぎ 一つ一つの戦では負けが多いけど
なんで支配地域を普通に広げられたんだろう >>749
関東にはザコしかいなかったから
古河公方足利氏や扇谷上杉氏、千葉氏、成田氏、結城氏、小田氏など鉄砲を見たことすらない田舎武士だらけ
氏康程度でも勝てる まあ光秀にぶち殺されて死んだ信長より遥かに有能だろうな
包囲網張られた絶望的状況から両上杉や古河公方の8万の大軍や今川らの包囲網退けて
見事関東に覇を唱える礎を作っているし河越野戦なんてそうそうできる業じゃないだろうし
領土拡張率でいっても
氏康40→120
信長30→20で氏康のがずっと上だしな 北条は内政に秀でていたから
戦争は弱くてもいいのでは?
あまり好きな大名ではないが
民百姓にとっては良い大名だったと思う 飢饉対策しなかった氏康は内政に関して最も低レベルなわけで 北条厨がいくら歴史歪曲しても氏康が東国の列強から逃げ回った史実隠せないよね ・眉唾史料にみられる現実離れした戦果・事績等の誇張
・戦術的に特筆するべきものがなく篭城では名を馳せるものの
・野戦・海戦においては兵力で圧倒的劣勢にある里見にすら敗れる
・故に徳川時代にも武田・上杉に並ぶ兵法や軍記にも採用されず
・華々しさも潔さもないつまらない滅亡のしかたのみが語り草
・したがって後年、歴史雑誌で取り上げられることは少なく
・史料が胡散臭いので研究も進まず、当然専門書籍も少ない
・あったとしても黒田基樹w
・あとのぼうの城w 北条厨、下読んで涙拭けよwww
1545年7月に今川義元は、駿府を出陣し善得寺(富士市)に陣を構えている。
これは、前年より今川義元と北条氏康との間で戦闘が行われ、京都聖護院門跡道増によって進められていた和平交渉が決裂したためである。
今川義元は、善得寺(富士市)で北条方の吉原城の後詰に出陣してきた北条氏康と2カ月に渡って対峙していて、その間、武田信玄に出陣要請をしている。
また関東の上杉憲政とも連絡を取っている。
関東への使者として相応しい人物として、当時駿府一華堂の十代乗阿であった体光ではないかと考える。
体光は、1552年藤沢遊行二十九代となった人物で、今川義元・上杉憲政からの体光宛の文書が残っていることから、当事者二人と繋がりがあったことが分かる。
今川義元は、葛山氏元とも連絡を取ったようで、その結果、葛山氏元は今川方に寝返っている。
葛山氏元の寝返りによって、後方を遮断されることを恐れた北条氏康は、伊豆国三島まで退却し、今川氏と北条氏との軍事的境界線は黄瀬川を挟んでへと変り、駿河国内で北条方の城は長久保城(長岡町)のみとなった。
武田信玄の仲介も在って今川義元が、勝利の証として長久保城主御宿氏の首級を得、北条氏が駿河国内より手を引くことで和戦交渉が成立したのは、葛山氏元を寝返らせることに成功したことが大きい。 1545年【狐橋の戦い】北条氏康●-○今川義元
1545年【吉原城の戦い】北条氏康●-○今川義元
1545年【長久保城の戦い】北条氏康●-○今川義元
1547年【松山城の戦い】北条氏康●-○太田資正
1551年【興国寺城の戦い】北条氏康●-○今川義元
1553年【平井城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信(平子孫三郎)
1553年【忍城の戦い】北条氏康●-○成田長泰
1556年【三浦三崎の戦い】北条氏康●-○里見義堯(里見義弘)
1559年【唐沢山城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信・佐野昌綱
1560年【沼田城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信
1560年【久留里城の戦い】北条氏康●-○里見義堯
1561年【松山城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信
1562年【岩槻城の戦い】北条氏康●-○太田資正
1565年【関宿城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信・簗田晴助
1566年【久留里城の戦い】北条氏康●-○里見義堯
1567年【三船山の戦い】北条氏康●-○里見義堯(里見義弘)
1569年【三増峠の戦い】北条氏康●-○武田信玄
1570年【深沢城の戦い】北条氏康●-○武田信玄 まあ光秀にぶち殺されて死んだ信長より遥かに有能だろうな
包囲網張られた絶望的状況から両上杉や古河公方の8万の大軍や今川らの包囲網退けて
見事関東に覇を唱える礎を作っているし河越野戦なんてそうそうできる業じゃないだろうし
領土拡張率でいっても
氏康40→120
信長30→20で氏康のがずっと上だしな 北条は確かに雑魚だが、それは佐竹・里見・結城・宇都宮・武田・上杉など強豪と比べての話。
幼君義龍(クーデター騒ぎで分裂状態)に負けまくった信長や、信雄・輝元などの雑魚武将に蹴散らされまくった秀吉などに比べれば遥かに強い。
織田家トップクラスであり秀吉が伊勢方面で蹴散らされまくった滝川を北条が瞬殺してる時点でわかる ◇北条氏康の戦歴◇
天文14年[狐橋の戦い]・・・・・北条氏康●-○今川義元
天文14年[吉原城の戦い]・・・北条氏康●-○今川義元
天文14年[長久保城の戦い]・北条氏康●-○今川義元
天文16年[松山城の戦い]・・・北条氏康●-○太田資正
天文20年[興国寺城の戦い]・北条氏康●-○今川義元
天文20年[平井城の戦い]・・・北条氏康●-○上杉憲政
天文22年[平井城の戦い]・・・北条氏康●-○上杉謙信(平子孫三郎)
天文22年[忍城の戦い]・・・・・北条氏康●-○成田長泰
天文23年[久留里城の戦い]・北条氏康●-○里見義堯
弘治03年[三浦三崎の戦い]・北条氏康●-○里見義堯(里見義弘)
永禄02年[唐沢山城の戦い]・北条氏康●-○上杉謙信・佐野昌綱
永禄03年[沼田城の戦い]・・・北条氏康●-○上杉謙信
永禄03年[久留里城の戦い]・北条氏康●-○里見義堯
永禄04年[松山城の戦い]・・・北条氏康●-○上杉謙信
永禄05年[岩槻城の戦い]・・・北条氏康●-○太田資正
永禄08年[関宿城の戦い]・・・北条氏康●-○上杉謙信・簗田晴助
永禄09年[久留里城の戦い]・北条氏康●-○里見義堯
永禄10年[三船山の戦い]・・・北条氏康●-○里見義堯(里見義弘)
永禄12年[三増峠の戦い]・・・北条氏康●-○武田信玄
永禄12年[蒲原城の戦い]・・・北条氏康●-○武田信玄
元亀02年[深沢城の戦い]・・・北条氏康●-○武田信玄 北条氏康って今川義元にも負けてたのか
やっぱ氏康って信玄と同盟してなきゃ何もできないグズなんだな 氏康の悪政で餓死者続出したのは有名な話
でもド田舎関東が本拠地なことで救われた
一向宗が関東までは広まっておらず、北条領内で一向一揆が起きなかったからな
おかげで領民は泣き寝入りするしかなかった 親鸞は越後流罪後に関東で布教しまくってるよ
まあ、北関東が主で南関東にはあまり広まらなかったようだけど 親鸞が布教したのは北国であって関東じゃねーし
無知すぎるw >>752
北条が内政秀でてたなら何故大飢饉放置し高利貸しで領民多数夜逃げさせたんだ?
氏政に代替わりして一度税負担軽くしても焼け石に水
遠征に次ぐ遠征の負担を領民に押し付け結局は弱い者イジメ 正木大膳 〜度々馬上にて勝負を決す〜
「侍の頭を仕覧者は、馬より下りて鑓を合せ、高名する事、多くは有るまじ。
馬の上にて下知を致し、そのまま勝負をせんならば、片手綱を達者に覚えてこそ」
と、幼き時分申ごとく、度々馬上にて勝負を決す。
(『甲陽軍鑑』品第六)
何という事だ。
我々甲州武士と違い上方武士は馬から下りて戦う。
(武田流軍書)
家老の飯富兵部少輔はこう答えた。
「自分は小脇差で有利に戦ったという経験のある者は小脇差を好むし、
刀でしばしば勝負に勝った者は大刀を好むものだ。
馬上で細かい勝負をした者は小さい馬を好む。
大勢の敵中へ乗り込んで暴れ回るには大きい馬に限るという者もいる。
また道具には流行のようなものもあって尾州から上方五畿内ではだいたい小さい刀を使うが、
関東では大刀が多いと聞いている」
(甲陽軍鑑) 一向宗は近畿や北陸ほど隆盛では無かったが、関東に存在しなかった訳ではない
玉縄城主北条為昌は享禄5年、三浦郡の一向宗徒に対し、鎌倉光明寺(浄土宗)への改宗を命じている(光明寺文書)
国府津真楽寺(小田原)の真乗は、蓮如が東国行化の時に法名を授けた僧だったが、晩年は氏綱に追放されている
このように後北条は一向宗を禁じ、弾圧していたが、謙信の第1回越山時には信玄の仲介で和解した
加賀・越中の門徒に越後を攻撃するよう依頼するためだ 氏康が信長の環境で生まれてたら2年くらいで即効で上洛して天下取ってただろうな
信長の周辺なんて幼君で弱体化した斉藤、対浅井の敗戦や観音寺騒動で弱体化しきった六角
内訌で崩壊状態の北畠、三好三人衆に反逆され崩壊状態の足利将軍家、統制がとれずバラバラの三好、ハナクソみたいな国力しかもたない浅井朝倉
など雑魚しかいないから尾張のチート国力と将軍家とのつきあいの長さを生かした外交戦略で2年くらいで瞬殺できる
何せ史実じゃ信長の美濃攻略戦では浅井に和田などの甲賀衆、上洛ではこれに加え丹波大和摂津丹後の諸将が参陣するなど完全にお膳立てされてのものだったし
8000の寡兵で80000の大軍を破る氏康ならすぐに天下取れる 関東で一向宗はほとんど広まらなかったため一向"一揆"は起きなかった
北条はその点恵まれてたが畿内や北国の大名は領民を刺激しないよう大変だっだ
ちなみに河越夜戦の相手は二十歳前後の青二才憲政と朝定、公家かぶれの晴氏
山内・扇谷・足利は長年の仇敵同士でバラバラの烏合の衆
勝って自慢する奴いるの? 氏康との衝突時、山内・扇谷・足利がバラバラの烏合の衆だった根拠は全くない。つか
彼らがまとまったのは氏康の北上に危機感を持ち出した関東の豪族達の意向もあり
事実その後長尾や武田、瀧川などが関東に遠征したり派遣されてくるたびに
関東の諸大名(特に上野・下野・下総東部や北部など)などは北条に根強く抗い続けるほど
諸家は反北条でまとまっていた。
また氏康は武田や今川といった他の大名にも囲まれ、絶対絶命の窮地からスタートしてるわけで
ここから両上杉・足利・関東諸侯連合+長尾・武田のどちらかに勝って関東を手中にする事など
幼君で弱体化した斉藤、対浅井の敗戦や観音寺騒動で弱体化しきった六角
内訌で崩壊状態の北畠、三好三人衆に反逆され崩壊状態の足利将軍家、統制がとれずバラバラの三好、ハナクソみたいな国力しかもたない浅井朝倉
など雑魚に負けまくって家を滅ぼされた信長如きには到底できない芸当だろう。 まあ光秀にぶち殺されて死んだ信長より遥かに有能だろうな
包囲網張られた絶望的状況から両上杉や古河公方の8万の大軍や今川らの包囲網退けて
見事関東に覇を唱える礎を作っているし河越野戦なんてそうそうできる業じゃないだろうし
領土拡張率でいっても
氏康40→120
信長30→20で氏康のがずっと上だしな 河越夜戦で反北条方でまともに戦ったのは扇谷だけ
山内・足利はロクに戦わず撤退してる
河越夜戦の翌年に山内は大軍を信濃に派遣してることから損害軽微だったことが分かる
そもそも河越城は扇谷領で山内・足利は直接関係ないし
関東諸大名がバラバラだったことが氏康にとって幸運だっただけ
山内・足利・里見は元々親北条だし結城・小田・千葉・成田も親北条になってる
河越夜戦で8万(誇張)とか言う奴いるが関ヶ原の西軍と一緒で大半は本気で戦ってない
氏康の外交オンチで四面楚歌になっただけ
信玄の腰巾着として中途半端に60近くまで長生きしたのが唯一の成功
※ただし最期は痴呆症 長尾との交戦時関東の諸家は一斉に長尾の元にはせ参じ上野下野下総上総はおろか
北武蔵の連中まで寝返って切るのに関東諸大名がバラバラとかないわ。
関東諸大名が氏康の元に参じてくるのは1566年以降であって、それもほんの一時的な物で、
越相同盟→信玄との敵対→信玄との同盟・謙信との敵対の流れで再び敵になってる
つか小田と千葉と成田はまだしも里見も佐竹も結城も宇都宮も那須も里見も皆川も大田原も水谷も基本敵だった時期のが遥かに長い。
氏康は関東諸大名+信玄・勝頼・謙信のいずれかと戦ってたから拡張が遅れただけ。
信玄・謙信・勝頼が死に、瀧川が関東から去った後ですら上野の国衆は北条の騎下に入る事を良しとしなかった事に見えるように
関東の豪族達は基本北条アンチだからな。親北条は北条の勢力が完全に根強く及んでいる地域だけ。 ラッキーセブン>>777かいいな
足利晴氏は河越夜戦以前は反上杉・親北条。里見義堯は家督奪う時北条の援助受けてる。第一次国府台も北条に遠慮してる。
結城は河越夜戦のしばらく後に北条に寝返ってる。北条の援軍うけて海老ケ島合戦で小田に勝利。
小田はその後北条と和睦。那須も小山も小田原城合戦後しばらく親北条。
関東で反北条を貫いたのは相模から一番遠かった佐竹と宇都宮くらい。
以下が関東諸将の宿敵関係。
古河公方足利⇔関東管領山内上杉(関東支配者対決)
関東管領山内上杉⇔武蔵守護代扇谷上杉(上杉家主導権争い)
関東八屋形小山⇔関東八屋形宇都宮(宇都宮家内紛介入)
関東八屋形小山⇔関東八屋形千葉(永禄3年の関東諸将首座が千葉、次座が小山)
関東八屋形宇都宮⇔関東八屋形那須(喜連川女月坂の戦いで激突)
関東八屋形宇都宮⇔関東八屋形結城(小栗城の戦い)
関東八屋形結城⇔関東八屋形小田(海老ケ島の戦い・結城城の戦い)
関東八屋形小田⇔関東八屋形佐竹(手這坂の戦い)
親戚・兄弟で仲良かった小山・結城を除けば関東諸将はいつもバラバラ。
そこに北条が付け入る隙があった。 そもそも氏康時代の話をするのに河越以前とか第一次国府台合戦を持ち出すとかないだろ。
結城・小山・那須らが北条方だったのなんてほんの一時期だぞ。これは単に長尾との攻防で北条が関東での覇権を確固たるものにする流れになって
優勢だっただけだし、越相同盟〜第二次甲相同盟の流れの中でいつの間にか敵になってる。
ついでにその頃は里見が房総で勢力を伸ばし安房一国に上総ほぼ全域に加え下総南部まで進出してきてる有様
謙信か信玄か勝頼が毎年のように関東に遠征してくる中、同時に関東諸侯も相手にしながら
北条勢力圏を大幅に拡張させたのが氏康。ちなみに氏政時代になると関東緒家の結束は以前より遥かに増し
諸家が佐竹氏の下に一統された反北条連合と、南奥州の白川結城や石川、田村、葦名、二階堂など大勢力圏を元にした
広大な源氏勢力圏が形成されてる(沼尻合戦時なんかは南奥州からも会津鉄砲隊などの参陣が確認される) 特に上野なんか由良と長尾と富岡くらいしか北条方勢力ないしな
北武蔵羽生領や深谷領で1572年から氏政の攻略戦が展開されてる事からも
北武蔵も磐石な北条方勢力圏とはいいづらいと考えられるし >>779
お前が河越夜戦(笑)から十五年も後の謙信の第1回越山を持ち出して
80000なんて荒唐無稽な捏造合戦の数字を正統化してるからだろw
氏康は天文19年(1550年)の「国中緒郡退転」という大失政のつけを、中間搾取の排除を名目に国人領主の上前を撥ねることで払った
このような悪党が関東管領を僭称して関東を牛耳ろうとしてるのだから関東諸大名が反感を持つのは当然だろう
河越夜戦(笑)以前の北条は関東南西部でブイブイ言わしてる振興勢力にすぎず、深刻な被害を受けた扇谷以外はさほど危機感をもってなかった
それは>>778が証明している=>>776は正しい >>778
関東諸将の宿敵関係に追加するとしたら
関東八屋形宇都宮⇔関東八屋形結城(河原田合戦・猿山合戦・小栗城の戦い)
関東八屋形宇都宮⇔関東八屋形佐竹(竹林の戦い・縄釣の戦い、佐竹義昭の代まで険悪な関係に)
関東八屋形宇都宮⇔関東八屋形那須(那須家内紛介入・喜連川女月坂の戦い) 氏康のようなゴミ屑が戦国大名名乗るとは片腹痛い
馬糞でも喰って相模湾に入水しろ ウジ康、ウジ政はリアルウジ親子だからな。
ウジ康は素直に管領謙信と手を組んで武田滅ぼして甲斐を割譲してもらい西進すれば良かったし、
ウジ政もその流れで関東管領旗下として織田徳川征伐に参加すれば廃絶することもなっかったろうに。
正にウジそのものw ウジ虫ウジ康
ウジ虫ウジ政
ウジ虫ウジ照
ウジ虫ウジ邦
ウジ虫ウジ直 晩年の、謙信と謀って信玄を挟撃しようとしたのは大きなミスだったな
外交戦も合戦でも信玄に負けた氏康 北条の頼れる同盟相手が徳川とかじゃ小粒すぎて使いもんにならなかったな
だが上杉が武田北条の争いに加担しないってのはしごく自然な成り行きだわ
両方に争ってもらって弱ってくれるのが一番賢いもんな のらりくらりやる
そんなこともわからん氏康w 確かに、北条氏康は戦闘指揮という意味では過大評価だな
民政家だったのだろう。領土は拡大して次代で最大版図に達したから
伊勢氏はもともと官僚の家だから。 後北条の江戸衆か岩槻で小曽川小五郎という武将をご存知の方はいらっしゃいますか? うむ
愛知県の人間が韓国人みたいに気持ち悪い事はコメみて良くわかった。
丸で韓国人みたいに狂信的に非客観的に地元マンセーな事しか伝わってこない。
さすが日本中からアンチ愛知県スレで叩かれてるだけあるね。
キムチ悪っ! 桓武平氏鎌倉氏流越後長尾氏歴代当主とその正室
長尾平内左衛門尉景茂 葛西新左衛門尉時清の娘
長尾四郎景忠 長尾三郎兵衛尉光景の娘?
長尾四郎景能 長尾四郎太夫景煕の娘
長尾弾正左衛門尉景為 佐原七郎左衛門明連の娘
長尾弾正左衛門尉景忠 長尾左衛門尉基景の娘
長尾新五郎定時 山吉伊予守長久の娘?
長尾弾正左衛門尉景恒 長尾新五郎景直の娘?
長尾豊前守景晴 山吉伊予守長久の娘
長尾筑前守高景 長尾平三左衛門景行の娘?
長尾弾正左衛門尉景房 上杉中務大輔朝顕の娘
長尾信濃守頼景 山吉伊予守行盛の娘
長尾信濃守重景 長尾越前守景良の娘?
長尾信濃守能景 高梨摂津守政高の娘
長尾信濃守為景 高梨摂津守政盛の娘?
上条播磨守定顕の娘?
長尾弾正左衛門尉晴景 上杉兵庫頭定実の娘
長尾弾正少弼景虎 なし 氏康って言うか北条って全然上洛とか考えて居ないし、天下取りしようと言う
意思が希薄だな >>800
まぁ関東から上洛といっても現実味薄いしな 負けだ負けだと言うが北条は関東の新興勢力で、上杉や公方の対立に割って入る形で旗揚げした大名家
早雲の代には小田原城すら本拠ではなかった
こういう家柄だから周囲は殆ど敵。その状況で代重ねるごとに関東最大の領土築いたって結果は戦の勝ち負け以上に実のある功績だよ
特に遠征軍対策に堅城を作るってのは氏康の先見性で、逃亡だと揶揄する上杉厨もいるが損得で見たら北条の大勝
結果、謙信は官領就任式にわざわざ大動員して小田原まで来る失態をおかした
戦を巧みに内政と擦り合わせで後の先を取る戦い方は、氏康以外の戦国大名には無い個性 後北条はサラ金も真っ青の893金融滅んで当然
風魔も火付け盗賊の塵屑 >>802
長い
他人の名字をかたる伊勢に在日の臭いを感じる >>802
小田原城は早雲が大森氏がら奪った城で氏康の作った城じゃないのに
氏康の先見性とかどんだけだよ
他者の功績を氏康の物とせねば擁護も儘ならぬ
それが北条氏康だな >>806
後北条を擁護する気はさらさらないが
文盲の言い掛かりにしても度が過ぎてる >>807
いやいや曖昧な文章で文盲のミスリードを誘うのは北条信者のよくやるステマ
>>802後半は後北条を良く知らない人一見すると
「小田原城という堅城を作った氏康の先見性云々」と読みかねないのさw ×>>802後半は後北条を良く知らない人一見すると
○>>802後半は後北条を良く知らない人が一見すると ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています