弱小・北条氏康が今川・上杉・武田・里見に大敗
今川義元・上杉謙信・里見義堯・武田信玄に負け続け、逃げ惑ったザコ大名・北条氏康
その息子達も父に似て愚将揃いで北条家は滅亡
1545年【狐橋の戦い】北条氏康●-○今川義元
1545年【吉原城の戦い】北条氏康●-○今川義元
1545年【長久保城の戦い】北条氏康●-○今川義元
1547年【松山城の戦い】北条氏康●-○太田資正
1551年【興国寺城の戦い】北条氏康●-○今川義元
1553年【平井城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信(平子孫三郎)
1553年【忍城の戦い】北条氏康●-○成田長泰
1556年【三浦三崎の戦い】北条氏康●-○里見義堯(里見義弘)
1559年【唐沢山城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信・佐野昌綱
1560年【沼田城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信
1560年【久留里城の戦い】北条氏康●-○里見義堯
1561年【松山城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信
1562年【岩槻城の戦い】北条氏康●-○太田資正
1565年【関宿城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信・簗田晴助
1566年【久留里城の戦い】北条氏康●-○里見義堯
1567年【三船山の戦い】北条氏康●-○里見義堯(里見義弘)
1569年【三増峠の戦い】北条氏康●-○武田信玄
1570年【深沢城の戦い】北条氏康●-○武田信玄 >>806
城は一から作らないといけないとかにわかかよ そもそも堅城に拠るは古来から使い古された手法
これを先見性とは素人丸出しだな >>811
>>802は曖昧な文章にテキトーな賞賛を連ねただけ
素人を騙す為だけのステマだよ いや言ってることは君のほうがどう考えてもおかしいよ
城の改修なんて当たり前の世界で、改修を重ねに重ねて巨城、堅城となった小田原城に
改修をしただけだから大森氏の手柄!!
とか言ってんだからよ。 しかも結局叩けるところは先見性の使い方のミスであって、802の内容は一切否定できてないからな。
ステマの使い方間違ってるし。
北条のなにがこの1人の幼稚な上杉厨を釘付けにするのか意味わからん。
佐竹かもしれないけどよ。 >>802の上四行は北条五代を通しての業績で
氏康を語るスレとしてはスレ違いだな
しかも北条家に都合の良い所までしか語っていない
戦国大名である後北条家の結果は周知の通り城に小田原城に篭って滅亡
氏康の結果は今川武田上杉里見に多くの領土を奪われて死亡
下三行は古来からある篭城とそれに伴う改修を
先見性とか大嘘ついてフルボッコ
先見性の使い方のミスとか日本人なら有り得ませんがw 前田利家は嫡子の利長を居間に呼んで密かにこう言った。
「北条の子孫を集めておけ」
関東の者は義理堅い、と利家は言う。
小田原北条氏にゆかりの者を見つけだし予め召し抱えておき
家康と事を構える事になれば北条の子孫を表に立てて家康の領地で旗を挙げさせる。
「さすればたちまち関八州は味方になろう」
利家はそんな事まで計画していた。
こんな不気味な事をされてはたまらない。家康は心中深く利家を恨んだ。
(『殿様の通信簿』磯田道史) 何気に>>815こそが熱狂的後北条厨じゃなかろうか
>>815の内容をみると関八州のうち佐竹領以外は言外に後北条領だと言ってる >>818はただの馬鹿だな。俺が言いたいのはそれだけだ。
それからもう俺にレスはするなよ。 荒らしマジで1人だけやん
過去にコテンパンに論破されたのだろうか 両上杉衰退させたのは関東の中心地で暴れまわった長尾景春。
早雲は関東の辺境で火事場泥棒しただけ こんなに勝ってるのに上杉を中心とした反北条連合は武蔵すら奪取できなかったのか
氏康がしぶとい野グソだったのか、反北条の連中が無能だったのか ひょっとすると上杉謙信って結局北条に負けたんじゃね? 敗北者なんじゃね? そりゃ関東に精力伸ばせられないどころか北条の方が伸びてるんだから北条のが勝ってると言えるでしょ >>828
あの状態で上杉が勝ってるって方が基地だろ関東管領が聞いてあきれる >>829
北条氏康は、それまで自分が名乗っていた関東管領職を
謙信の物と認め、領土を割譲し、息子を人質に出して死んでいる
これを北条の勝ちと強弁するのはキチガイ以外の何者でもないな >>830
それで上杉は関東に勢力圏広げられたの? なにやら詭弁を垂れ流したがってるようだけど
ここは氏康の戦歴を語るスレ
スレ違いの話題で荒らすのは止めてもらいたい
>>830
スルーよろ まぁ832みたいに戦術と戦略の区別がつかないバカに戦歴は語れないよ
勝利が何をもたらしたかも語らないなら何にもならないじゃないか
詭弁はお前だよ上杉信者 例えば永禄3年の小田原城の戦いだって永禄の飢饉が起こってる時の出兵で、関東の守旧勢力の殆どが上杉方に立ってるんだから野戦をするのも無駄、ただし敵方も飢饉の際の出兵で軍を長期に出兵させることは敵わない。
実際、包囲は1週間弱しか行うことが出来ず関東の諸勢力は勝手に陣を引き洗う結果になった。
こういう結果だが本拠地を攻めた、籠城した、上杉は勝った!と大騒ぎする、これに何の意味があるのか。 越相同盟は臼井城の敗戦以降上野の大豪族由良氏と直臣の北条(きたじょう)氏が北条氏に離反、上野箕輪城も武田に取られ関東出兵の頼みの綱佐竹氏とも利害関係で対立と関東での影響力は減少の一途を辿っていた状況だった。
この状況に加えて信濃、箕輪城の長野氏が武田に敗れ防衛力が損なわれた上野で武田と対峙する関東の情勢の悪化から上杉方も望んだ同盟だった。
その証拠に氏康の甥である足利義氏を関東管領の主である古河公方だと認めさせているじゃないか。このことは無視なのか?
息子を人質にというが三郎は養子となり最終的には謙信の後継者として家督争いにまで参加するようになっている。
それに家中随一の重臣柿崎景家の実子の人質はなかったことになってるのか? 里見ら反北条勢力を見捨ててまで北条と同盟したんだもんな 謙信公が仇敵だった北条と同盟を結び、
さらには北条の子を後継者にするって宣言したのはよくわからない
正直、家臣が言うこと聞かなくて出奔したときみたいに、
ちょっとした気の迷いじゃなかったのかなあ
一生懸命がんばったのに関東の中小国人はあっちについたりこっちについたり
もうアホらしい、やってられるかって投げ出した >>835
越相同盟における
北条側の譲歩=領土の割譲、氏康の関東管領否認、謙信の関東管領承認、関宿攻略の断念、氏康の息子を人質
上杉側の譲歩=足利義氏承認、重臣の息子を人質
謙信は領土を割譲しておらず人質としての価値は氏康の息子>重臣の息子
実質人質である三郎を養子という形で迎えた事で
北条が越相同盟を破棄した後も人質を越後に止めおく名分ができた
(柿崎の息子は帰国)おかげで北条は同盟破棄後も謙信が死ぬまで割譲した上野に手を出せない有様
家督争い云々は謙信の急死による結果論にすぎない
足利義氏承認は他に相応しい人物がいないんだからしょうがない
足利の嫡子である藤氏は北条がぶっ殺しちゃった後だしな
越総同盟はトータルで見れば謙信の圧勝だよ
この同盟で氏康は領土、関東管領職、息子と多くを失ったが謙信は何も失っていないに等しい ×越総同盟はトータルで見れば謙信の圧勝だよ
○越相同盟はトータルで見れば謙信の圧勝だよ >>838
まず氏康自身の関東管領を譲ることは北条氏からの交渉打診のため仕方がないことではあるが、古河公方が北条方の擁立する義氏となったこと、同時に簗田氏や一色氏に代わって北条氏に忠実な庶流が要職を占めるようになったため関東支配の正当性は継続して持つことができる。
また、三郎の養子縁組によって将来的に三郎が関東管領を継げばいいのだから、痛手でもなんでもない。
ちなみに謙信は藤氏の死について承知していなかったので、藤氏を関東管領にするつもりだったことが推測できる。
関東情勢の情報力の差で北条が勝っている。
領土問題だが、代表的なもので
1、上野
北条は上杉側に従属することとなる上野国衆上野河内地域の諸勢力(由良氏、厩橋北条氏、小泉富岡氏、館林長尾)の進退の保証を取り付けている。
上杉は同盟締結後従属させた佐野氏を攻撃していたので、従属が確約された諸勢力は上杉を信用しきれていない。
このような働きから同盟成立後に由良氏「浮沈ともに相重ねるべし」との血判起請文を提出し、密約を重ねている。国衆の従属とは単純な領土割譲とは違い、国衆を真の意味で味方につけなければ意味がない。
実際
2、武蔵
武蔵北部国衆領の扱いだが、7領(藤田、秩父、成田、岩槻、松山、深谷、羽生)この中で岩槻、松山領に太田氏の復活を求めてきたわけだが、結局成らず、最終的に上杉に帰属したのは深谷上杉氏だけ。
3、関宿
簗田氏の処遇について、古河公方義氏の承認により簗田氏は上杉方に引き続き従属することとなるが、藤氏を古河公方としたことやそもそもが越相同盟に反対していた簗田晴助は自らの甥を公方に擁立、上杉から離反し、武田方についてしまう。
越相同盟破綻後の天正2年には関宿城は落とされる。
越相同盟により上杉氏は関東諸勢力への信頼を損ない実際に里見、佐竹、宇都宮、簗田などの有力勢力と袂を分かつこととなった。
それどころか関東諸勢力との関係を切ってまで取り付けた北条氏との同盟も、上杉側の反故により、氏康の死後すぐ破綻となり、甲相同盟を締結される。
一連の関係から上杉氏は関東への軍事介入が不可能となり、氏政は上杉派の諸勢力を一掃することができている。
三郎が人質となったため謙信の死まで云々と言われるが、下野や房総半島への勢力拡大をしている上で、金山城などの南上野の領土が確約され、侵される心配もない状態で大規模な戦になるはずがないだろう。
越相同盟締結により利を得たのはどうみても北条氏だ。 勢力が伸びたのは信玄と再同盟した後のことだから越相同盟で拡大したってのは詭弁だね
そもそも言ってることが結果論だし越相同盟締結当時は、同盟を渇望してたのは北条だし締結内容を大幅譲歩してるのは北条だよね とっくに書いてあるけど譲歩しても全く困らない内容だけ譲渡している。ちゃんと読め。
結果論というが交渉自体が難航し、反北条派勢力の反対が熾烈だったあの状況で、佐野氏攻めを敢行したり簗田氏を切ったり、太田氏との所領交渉で佐竹と縁をきったりと、関東での立場がなくなるのは予想できてないというのはさすがに二流武将としか言えない。
これで同盟を望んでいないとする方が詭弁だし、本当に望んでいなかったとしたらあのような糞条件で北条の利する同盟を結ぶのは単なる無能。
北条が結局のところ差し出したものなんて何にもない >>840
>三郎の養子縁組によって将来的に三郎が関東管領を継げばいいのだから、痛手でもなんでもない。
妄想作文も甚だしいな
越相同盟にそんな条件はないし、史実の三郎は御館の乱で敗死という痛手
北条の義氏擁立も藤氏殺しも越相同盟以前の話だ
越相同盟の段階では謙信は現状を追認しただけ
足利の嫡男を殺した北条の、傀儡による関東支配の正当性など謙信を含めて誰も信じまいよ
だから越相同盟で義氏を承認したのだろう「最早どうでもいい」と
領土
割譲された領土をどう扱おうと謙信の勝手だな
謙信がそれらを良く治めなかったから、意味がないというのは結果論にすぎない
謙信が国衆と、どんな関係を築くかは割譲する段階では分からないのだから
全体的に越相同盟以前や同盟破棄後の情勢をムリヤリ同盟における北条の利、謙信の不利として語る詭弁が目立つな
例えば
>越相同盟により上杉氏は関東諸勢力への信頼を損ない実際に里見、佐竹、宇都宮、簗田などの有力勢力と袂を分かつこととなった。
逆だよ逆
越相同盟以前の段階で里見は謙信仲介による北条との和議を蹴るし、佐竹、宇都宮などは謙信指導による関宿救援にも従わない
もともと関東諸将は謙信に碌に従ってないから(その事はお前も>>835で言及してるな)
有りもしない信頼関係を損なうことなど無意味
ゆえに上杉にとって得る物は多く失う物のない越相同盟を結んだだけの話
それと北条の下野や房総半島への勢力拡大も氏康死後、氏政が同盟破棄してからの話だな
氏康の頃はその房総半島の領土を大いに失っている(三船山合戦)
どう見ても北条に越相同盟の利などないな
利があるなら同盟に固執した氏康が死んだ途端、氏政は同盟を破棄したりしない
越相同盟の結果、氏康は領土、関東管領職、息子と多くを失ったが謙信は何も失っていないに等しい
越総同盟はトータルで見れば謙信の圧勝だよ >>842
北条の失ったものはことごとく価値が無いとする詭弁も甚だしいな
そんな詭弁が通るなら、
謙信のように独善的で唯我独尊な男にとっては
謙信の考えを理解しようとしない
関東諸将の信頼とやらの方がよほど価値が無いとかも言えるぞ >>843
>越相同盟にそんな条件はないし、史実の三郎は御館の乱で敗死という痛手
→実子のいない謙信の養子となるのはそういう意味がふくまれているのはサルでもわかる。
実際越相同盟破綻後に景勝を後継者とする路線を引き始めたが越相同盟が破綻するまではそんな動きはない。
三郎が跡継ぎになる結末は景勝が武田に上野の領土割譲と黄金を謙譲しなければ三郎が乱に勝る情勢だったのをみれば十分に考えられる。
また、三郎の御館の乱敗死を痛手というが、それこそが貴方が大好きな「詭弁」であり「結果論」に過ぎないではないか。
>北条の義氏擁立も藤氏殺しも越相同盟以前の話だ 越相同盟の段階では謙信は現状を追認しただけ
>足利の嫡男を殺した北条の、傀儡による関東支配の正当性など謙信を含めて誰も信じまい
>だから越相同盟で義氏を承認したのだろう「最早どうでもいい」と
→当初謙信は藤氏を主張している。謙信は藤氏の死を承知していなかった。
また、「公方−管領体制」争いはこのように双方の妥協により争いが終結した。争いが終結し、問題の安定化を成し遂げられた北条方にとっては「最早どうでもいい」といえるが、
上杉方は一国に値するとまでいわれる城、関宿城と城主簗田晴助を失うこととなった。
>割譲された領土をどう扱おうと謙信の勝手だな
領土紛争にいたっては大筋の合意は見られたが直轄領となっていた松山、岩槻領の割譲を北条は一度は認めているが太田氏の復興交渉が難航し、実際には割譲されてはいない。
また、あなたは信長の野望の影響か知らないが直轄領と国衆領の区別がついていないようだが、国衆は小さな独立勢力なので、従属しても直接支配しているわけではない。
結果的に上杉についているのは武蔵では元から上杉方であった深谷上杉氏ぐらいである。直轄領土は失っていない。
実際同盟破綻後元亀3年には上野新田由良氏、小泉富岡氏、などの南部有力勢力が北条方に帰属している。
>有りもしない信頼関係を損なうことなど無意味
→無意味だったら関東への影響力を完全に排除される無能な結末に至ってはいない。
>ゆえに上杉にとって得る物は多く失う物のない越相同盟を結んだだけの話
→結局得たものとはなんなのか領土、人質、関東管領職はすべてお前の詭弁(笑)と結論付けられたが。
散々否定してきてやったが、得たものなどない。現に関東から排除されているだろう。
>それと北条の下野や房総半島への勢力拡大も氏康死後、氏政が同盟破棄してからの話だな
>氏康の頃はその房総半島の領土を大いに失っている(三船山合戦)
→これは同盟破棄から謙信の死まで北条が三郎のことを気にし、手をだしていいないと貴方が言ったことへの反論だが何を言っているのか。
そもそも、同盟破綻後にも、幾度か両軍は衝突している。三郎が後継の権利を有していることもあり、上野への大規模な進行を上杉が仕掛けてきていないだけだ。
同盟破綻直後の天正2年11月には関宿城をおとし、翌天正3年には小山秀綱の下野祇園城を攻め落とした。下総では結城晴朝が恭順している。
下野、下総、関宿領などに影響力を拡大している中で、金山城などの南上野の領土が確約され、侵される心配もない状態で北条方から大規模な戦を仕掛ける利がどこにある。
>どう見ても北条に越相同盟の利などないな
→北条の利は上野国の安定化と駿河方面への軍事力集中だから利はある。上杉には謙信の外交戦での敗北によりなにも利は残されていない。
謙信公が武田を恐れて出兵しなかったことは結果的には誤算ではあったが、すぐに越相同盟に見切りをつけ甲相同盟を結ぶことによって解消している。
これにより里見とも房相一和がなされた。北条の目的である上野(ひいては関東)の安定化は結果的になされた。
他方、上杉は一切目的を達成できていない。
>越相同盟の結果、氏康は領土、関東管領職、息子と多くを失ったが謙信は何も失っていないに等しい
→現実を見ろ
過程をみても結果をみても関東の勝者は北条家であって決して上杉ではない。
いい加減、馬鹿の一つ覚えみたいに詭弁詭弁とわめいていないで、自分こそ詭弁をやめろ。 越相同盟って機能不全おこして、どっちも利益は少なかったわけだけど上杉は完全に失うものしかなかったよなぁ
越相同盟の勝者(利益を得たものは)は武田>北条>>>上杉って感じだと思う https://www.youtube.com/watch?v=O1HRbHpBK9k(マイナスSTAP胞細)(沖縄神田政典制圧)
https://www.youtube.com/watch?v=UpW3OnvM8RY
入浴厨森永喫茶大敗タイラーリーマンゲンジシャチョウシュッチョウクルマセンター
ニューヨーク飲会廃線自社買いボーナスワーナー映画(シネマレビュー低所得評論家)
川崎50代厨房教育違反アシスタント >>846
バカの戯言だな
謙信は越相同盟の間に本庄繁長の乱を鎮圧し、椎名康胤を新川郡から駆逐し、神保氏張を関野で撃破し越中での主導権を確立している
一方の氏政は駿河で信玄に連戦連敗、関東でも里見・佐竹・宇都宮の反北条諸将に苦戦している
一人負けは北条 晩年の謙信が関東で冴えないのは武田の西上野制圧という物理的制約によるものなのに
の越相同盟の勝利にしちゃう北条厨は頭がおかしい 北条氏康は特別戦に強いイメージないなぁ。綱成とかだったらなんとなく強そう 三増峠の戦いの頃にはもう目も見えないくらい病床にふせっていたから、
もし氏康が健在なら信玄の西上も叶わなかっただろう。 昔のまことは、まだ、自演がバレないための細工をしていた
が、56歳ニートの今、それが出来ていなくて、その頭脳もなくなってしまったのだろう >>857
面白いコメントだなぁ。
私生活でも人気者なんだろうなぁ。 とにかく北条は、対武田上杉との戦がどこか印象悪い
同じ力(経済力なら北条が一番上か?)がありながら小田原城に引きこもった戦い方しかせず、野戦に打って出ては武田に負ける始末、それ以前も上杉相手にいいとこ無し