【三管領】斯波一族を語る【武衛家・高清水】
三管領の家柄でありながら、細川の陰に隠れてしまった影の薄い斯波家について語るスレ
尾張守護・越前守護・奥州の斯波家など、どれでもどうぞ
関連スレ
【北畠斯波】東北地方の戦国時代【大崎小峰】
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1215269294/
★管領家★ 細川氏総合スレ ★応仁勝者★
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152951252/ 家長が北畠顕家に打ち勝って、氏経が九州を制圧して、
武衛家が管領を、大野家が加賀、もしくは若狭を世襲出来れたら斯波氏の天下だったな >>16
そこまで大きくなる前に普通に義満か義教にぶっ潰されそうだがw 阿曾沼・稗貫・和賀を従属させながら南部に瞬殺された高水寺斯波氏雑魚すぎwwwwwwwwwwwwwwww 606 :水先案名無い人[sage]:2008/03/25(火) 04:04:51 ID:Wdj+EARN0
やったぜ。 投稿者:無責任糞公方 (12月16日(水)07時14分22秒)
10年前の2月6日にいつもの山名宗全のおっさん(63歳)と前日メールくれた戦好きの畠山義就のにいちゃん
(30歳)とわし(31歳)の3人で京にある室町第で語りあったぜ。
その頃も財政があれなんで銭を酒屋と土倉で集めてから滅多に人が来ない所なんで、そこでしこた
ま酒を飲んでからやりはじめたんや。
3人で義尚を褒めあいながら後は擁立するだけになり逆らって来た畠山政長の屋敷を少しずつ取り上げようとした。
しばらくしたら、細川勝元がぴりぴりして来るし、政長が管領を辞職して勝元の側でぐるぐるしている。
宗全のおっさんに酒宴を催させながら、義就を総領と認めてたら、先に政長の兄ちゃんが上御霊社に兵をドバーっと出して来た。
それと同時に斯波義廉も朝倉孝景も兵を出したんや。もう洛中、血まみれや、東西で出した負傷者を足軽で補いな
がらお互いの領国を攻めあったり、館に火を付けあって称光天皇を狼狽させたりした。ああ〜〜た
まらねえぜ。しばらく停戦してから又合戦をしあうともう気が狂う程気持ちええんじゃ。
細川勝元のけつの穴にわしの牙旗を突うずるっ込んでやると東軍が大義と名分でしゃきしゃ
きして元気が良い。
宗全も三途の川に片足突っ込んで死期が近付いて居る。破れかぶれのおっさんは幕政をひっ掻
きまわしながら、思い切り陣没したんや。
そのあいだ、もうめちゃくちゃに大内と朝倉の戦況の変えあい、構図の塗りかえ、二回も
義視が出奔した。もう二度とやりたくないぜ。
やはり大勢で血まみれになると京も廃墟やで。こんな、無責任公方と遁世しないか。ああ〜〜早く茶ま
みれになろうぜ。
東山の銀閣であえる奴なら最高や。わしは163*90*41,富子は165*75*37、や茶まみれでやりたいや
つ、至急、メールくれや。
何一つ解決しないまま成仏して、戦国時代をまとうや。 苗字の地は陸奥国斯波郡(志和郡、紫波郡)
現在の紫波郡紫波町は「しわぐんしわちょう」と読むし
足利高経の子で初めてこの苗字を名乗ったという家長は「志和三郎」と書かれる
本来は「しわし」と読むべきか
>>24
津川義近か。
津川ってのは、どこから取ってきたんだろ? 空華集「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした
墓石群があったと思われる寺院
薬王寺
中世に岡崎市矢作にあった寺。「三河念仏相承日記」が記す建長8年(1256)10月の親鸞の弟子真仏・顕智・専信ら念仏勧進の場所として著名で、所在地をめぐる論争があった。
同時代史料では永仁3年(1295)8月の熊野山日供米碧海荘配分状(鎌倉遺文18898)に薬師寺郷の名がみえ、「滝山寺縁起」に薬師寺の名が2か所みえる。
郷名は寺があるところから付けられたと推定され、創建は相当古いとみられる。
昭和57年(1982)12月に矢作川河床内で新井幸雄が採集した鎌倉時代前半と推定される平瓦の破片に「□師寺多宝塔」「東光坊良信」などのヘラ描き文字があり、矢作近辺に薬師寺があったことを裏付ける。
東光坊は12世紀後葉の創建で15世紀中葉まで存続したと矢作町山本家文書に伝えられ、「岡崎東泉記」も矢作の古寺の跡として東光坊をあげており、薬師寺の坊舎の一つであったことは疑いない。
昭和3年刊行の『矢作町誌』は、西牧内(現大和町)字西島の郡道に沿って8間四方の寺跡があり、本尊薬師像は桑子妙源寺に納められたが、慶長8年(1603)の検地帳には「薬師前」という小字があったと記した。
それでこの地を薬師寺の所在地とするのが通説となったが、原拠史料が伝わらないので詳しい検討はできない状況である。
ヘラ描き瓦の採集地に近い矢作川の中洲から鎌倉後半〜室町時代に比定される宝篋印塔・一石五輪塔13基が一括出土するなど、所在地は確定できない。
高水寺斯波氏、大崎氏のお膝元が…
住民の安全と町の復興を願います そっちは内陸部だし
むしろ打撃があるとしたら石巻方面の葛西氏だろ。 閉伊郡を支配してた阿曽沼氏は
形式上は高水寺斯波氏に臣従してた。 細川→分家が大名
→総家は藩士
畠山→本家は高家
→分家も高家
斯波→本家分家? 和泉細川は頼之の同母弟が祖だから嫡流との遠さなら最上とたいして変わらないぞ 永源寺
新編岡崎市史20(総集編)
中世、碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義持の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。
これ以降の史料がなく近世の伝承地もないので、15・16世紀頃に廃絶したとみるしかない。(2−397)
越前の朝倉氏をうみ
尾張の織田氏をうんだ
斯波氏は最強ともいえる。
なぜならば、盛時は血臭を好む朝倉・織田の精鋭を重臣に従えていたから。
これは三好・長曽我部を従えていた細川氏にもいえることなんだけど。 部活の後輩にいたな>斯波
どの系統の子孫だったんだろう 細川さんは現在でもしばしば見かける姓なのに、
斯波さんは現代では一度も見たことないな
やはり斯波は負け組なのか… 紫波が斯波に転化したんだっけ
かっこいい名字だよな 斯波の殿様が紫に輝く川面を見て紫波郡にしたんじゃなかったっけ? 斯波って名字の人は知ってる。
斯波氏の後裔かどうかは知らんが。 関ヶ原の戦いで西軍が勝っていたら前右大臣秀頼近習の津川親行は大大名になっていた。
越前65万石クラスの国持大名になっていたはずだ。
もしかしたら足利義昭の跡を継いで征夷大将軍になっていあかもしれない。 三管領スレに書き込んだのですが、斯波スレがあることに気づいたので、改めて書きます。
重複をご容赦ください。
質問は、斯波氏はいつから「しば、しわ」と呼ばれるようになったのか?と言うことです。
斯波氏は家格が高く、鎌倉時代は「足利」であり、その後も斯波と呼ばれることを好まなかったことはよく言われます。
Wikiによれば「斯波」の初出は応永29年(1422)だそうですが、斯波家長が建武4年(1337)にすでに
「志和弥三郎、あるいは志和尾張弥三郎」と書状に記されています。
これはどういう様に解釈すればよいのか、ご教示ください。
1 鎌倉末期から南北朝に切り替わる頃、足利から志和になった
2 家長(だけ)が志和であり、高経(など)は足利のままである
3 あくまで「足利」志和弥三郎であり、南北朝の段階で苗字が「しわ」になったわけではない
4 その他
よろしくお願いいたします。 斯波義銀が信長暗殺計画とかやらなきゃいい関係続いたんだろうけどね
義銀父とは信長すごい仲良かったらしく、弔いのお寺まで建ててるよな >>53
形式的には、尾張守護職斯波氏➡守護代織田氏➡その分家の織田信長の織田氏ですからね。
幾ら戦国時代でも、本家で主君筋を討つのは厳しいですからね。
有る地味、織田信長にとって恩人ですからね。 2011年度 東京大学入試問題
室町幕府と守護
【2】つぎの表は、室町幕府が最も安定していた4代将軍足利義持の時期(1422年)における、鎌倉府の管轄および九州をのぞいた諸国の守護について、氏ごとにまとめたものである。この表を参考に、下の(1)・(2)の文章を読んで、下記の設問A〜Cに答えなさい。
(1) 南北朝の動乱がおさまったのち、応仁の乱まで、この表の諸国の守護は、原則として在京を義務づけられ、その一部は、幕府の運営や重要な政務の決定に参画した。一方、今川・上杉・大内の各氏は、在京を免除されることも多かった。
(2) かつて幕府に反抗したこともあった大内氏は、この表の時期、弱体化していた九州探題渋川氏にかわって、九州の安定に貢献することを幕府から期待される存在になっていた。
設問
A 幕府の運営や重要な政務の決定に参画した守護には、どのような共通点がみられるか。中央における職制上の地位にもふれながら、2行以内で述べなさい。
B 今川・上杉・大内の各氏が、在京を免除されることが多かったのはなぜか。2行以内で説明しなさい。
C 義持の時期における安定は、足利義満の守護に対する施策によって準備された面がある。その施策の内容を、1行以内で述べなさい。
http://www.geocities.jp/michio_nozawa/02entrance_examination/todai/2011tokyo_univ2.html 斯波氏は義将以降はバカばっかしで、パッとしないのばかり。 >>14 >>12
織田弾正忠家の重臣柴田氏は現在の
名古屋市南区柴田町出身か? 当主が相次いで若くして亡くなることが続くといいことはない
斯波に限ったことじゃないけど 斯波義銀の子孫かわからない加賀藩の家系が明治に複姓か
他に武衛家で斯波名乗ってないのかね 山名 大内 土岐とか元々は斯波派のはず
当主が有能なら応仁の乱は斯波と細川の決戦になっていたと思う