【安房・上総】里見氏を語るスレ2【関東副将軍】
里見義実が鎌倉公方(後の古河公方)・足利成氏に従っていたとされているが、
その安房入国の経緯については様々な説がある。
@ 結城合戦後の文安年間に少数の家臣に守られて安房国入国して安西氏を頼り、
その後神余氏を下克上した山下定兼を討伐して人望を集めて丸氏・東条氏を屈服させ、
やがて驕慢になった安西氏を追放して安房を平定した。その後、足利成氏に招かれて仕えた(旧来の通説)。
A 足利成氏に仕官後、安房国の鎌倉府領の代官をしていたが、享徳の乱で成氏と上杉氏が対立すると、
義実が同国の守護であった上杉氏とこれに従う国人の所領及び彼らの管理下にあった国衙領を接収した。
B 享徳の乱で武田信長とともに房総半島の上杉側国人を討伐する過程で安房国に割拠した。
(ウィキペディア)
個人的には B の可能性が高いと思う。 どさくさにまぎれて安房に入国して割拠したのではないか。 >>583
つまり報道とかであがってたガルパンブームなんてなかったってこと? アニメやゲームの事例を使ってしか
まともに人と会話や議論が成り立たないという
可哀想な人なんだね >>581
そんな事言いだしたら
信長・秀吉・家康以外で天下をとったらおかしいって事になるし
そもそもIFを楽しむゲームだからな
>>585
ゲームやアニメで武将や軍事のにわかファン=観光客が増えたって立証するだけマシだと思うが
里見が本多忠勝よりメジャーだ集客力があるとかほざいてたアホはなんも根拠だしてねえからな 本多忠勝を押している奴がこのスレに何人いるんだ?
それに年間の集客力ぐらい出さないと立証したとはいえないよ
まあ、ただスレ内で話を盛り上げたいだけだろうけど 忠勝、忠勝騒いでる人一人だけでしょ
自分の発言が正しいと思い込んだその結果、スレ荒らしと化してる
専門板にいがちなタイプの勘違い迷惑野郎だね
スレの盛り上げを意図したなんてそんな良いものではない
間違った持論が曲げられずに引っ込みがつかなくなった馬鹿の末路 倉吉に移されてからの忠義タンかわいそす(´;ω;`) >>587
大多喜お城まつり(本多忠勝)2017年集客約2万人
南総里見祭り(八犬伝)2012年時点で31回開催して延べ10万5000人=1回平均3387人
真田丸の影響があるとはいえ南総里見祭りが31年かけて作った動員の5分の1を
1回で達成するんだね へー http://navi.tateyamacity.com/?p=12236
ここのイベント紹介の記事には
南総里見まつり(旧称・館山城まつり)が初めて開催された
昭和57年の第一回目の際には見物客が10万人にも達したって記事出てますが…
第20回目の際には約5万人の見物客が集まったそうです
里見まつりに関しては都内各駅構内でもポスター貼られまくりで告知されて
臨時バスが最寄駅から会場まで何台も運行するぐらいの規模なんだけどなあ
それが何故か「2012年時点で31回開催して延べ10万5000人=1回平均3387人」
冷静に考えたら地域の大きな祭りで3000人強なんておかしい事に誰でも気付く
一般的な大きさの小学校の運動会ですら生徒+父兄+学校関係者で3000人なんて余裕でオーバーするのに 少子化のいま、関係者含めて3000を超す小学校の運動会って一般的かね? うちの近所じゃそこまで少子化してないから
参加賞の記念品、1500個以上用意するよ
その子供達の両親どちらか一人だけ父兄として応援に来たとしても
もう3000人超えちゃうね
そりゃ、少子化で悩んでる都市部や過疎地域じゃ3000人は無理でしょうね
地域によっては超える地域もあれば超えない地域もあって、3000人越えの運動会は一般的とは言えない…で、論争の争点はそこになるの?
里見まつりの動員が平均3000人強だって主張についての話でないの? ごめんね
単純に俺がそこに気をとられただけなんで気にせんで 2014年のブログ
https://4travel.jp/travelogue/10943091
南総里見まつりは規模としては相当に大規模な祭ではあるが
何せ東京から遠い田舎町での祭であるために見物客も少ない。
Webで調べてみたが、ツアーバスも何台もなかった。結局は東京湾フェリーと電車を乗り継いで
館山まで来るはめになった。実際に館山では観光バスなど殆ど見掛けなかった。 そんな個人ブログ貼らんでもYouTubeで動画検索すれば
昭和の時代の古いやつも最新の去年のやつもいくらでも見れるよ
TV局の取材で高所から撮影された映像もたくさんあるから確認してご覧
3000人規模の祭りか数万の人出の祭りか簡単に判別つくでしょ
昼間の武者行列・合戦も見事だけどあの映像の山車の豪華さや花火の規模は3〜4000人の人出でペイできるとでも思う? >>597
語ろうにも実在の人物かどうかわからない。 成義は非実在説のほうが有力なのか
義実が1420頃の生まれで義豊が1495頃の生まれだから、間に義通1人よりも、成義と義通2人の方が収まりが良い気がするのだけど 実在を裏付けるモノが出てこないことにはどうにもならんでしょ 戦国江戸湾の海賊 北条水軍VS里見水軍 (シリーズ実像に迫る016)
読んだ人いますか? >>599
実在の人物だったと思うが、実在した証拠がない。 飛騨の金森氏みたいに、
旗本寄合席で生き残れればよかったのにな。 肥前名護屋城の里見義康の陣屋跡の場所ってわかってるのかな?
家康にくっついて行ったみたいだけど
里見家の京屋敷とか江戸屋敷の位置も気になるなぁ >>607
大してデカくもない一地方勢力だもんね
それでも、豊臣政権下や徳川の下で日本史の現場に居た訳だからロマンはあると思う 里見といえば水軍持ちだったわけだが、
なぜか挑戦には渡海せずに肥前にとどまっていたんだな。
理由はなんだろ? >>609
主力が西国大名だからじゃない?
大船建造命令も西国に出されてた気がする。 >>611
いや、佐竹は弱小水軍で戦わされていたはずだが。
水軍だけなら里見のほうがだいぶ強いはず。 水軍衆でも渡海しなかった連中たくさんいるからな
予備戦力として控えているうちに出撃機会を失ったんだろ よく知らないけど、家康の与力扱いだった可能性はないん? >>612
7 :名無しさん :2014/04/07(月)21:38:53 ID:094WNqGCK
ちなみに戦国時代の佐竹氏(内陸大名ではない)には
海戦を戦えるだけの水軍はなかったが、
河川パトロールができる程度の水軍はあった。
のちに秀吉から
「君のとこは水軍あるんだから、朝鮮に渡海しておくれ」
と命ぜられて四苦八苦している。 里見水軍が佐竹水軍と戦ったことあったのか???
↓
21 :14 :2014/04/11(金)21:33:34 ID:lZzd5CPw2
アマチュアで城の発掘や論文書いてる友人に聞いてみた 佐竹水軍の実態
どちかというと久慈川の警備と塩田開発 塩の販売で儲けてる集団で権利保護のための組織しい
沿岸 河川航行向きの船舶らしい で磐城 里見の水軍に連戦連敗とのこと 渡海に耐えられる大型船はどのくらいあったのかな。
北条水軍が上方の技術入れて安宅船的なの建造してから
劣勢だったとか、何かで見た気がする。 この前、勝浦城址行ってきたけど、中々良い所に建ってたんだな
お万の方の子の、徳川頼宣と頼房の頼という字は、祖父の正木頼忠から一字取ったのかな >>622
要害ではあるが、2度くらい落城しているな。 無謀にも祭りで館山に喧嘩売ったヤツがいるのか
県下でも有数な祭りが盛んな地域だというのに >>607
でも、従四位下、安房守、侍従もらってるからな。
後世の資料だが、こんなとこにも顔が出てくる。
豐太閤葬送の図
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781797 >>627
万喜土岐氏を後北条に引き抜かれたのは痛かった。 小田原征伐でやらかさなければ安房に加えて上総半国も安堵されて25万石ぐらいあったんでしょ?
もったいなかったよなあ >>630
それなら家康にうざがられて(史実より早く)1603年ぐらいに改易されて伯耆に飛ばされていたと思う。 >>629
義堯が北条と喧嘩しなければ、いずれは万喜を飲み込めたんじゃないかなあ
>>631
やらかさなければ改易はないと思うな
1か国半持ちでも関ヶ原での役割は変わらんだろうし、やはり大久保と組むだろうからとばっちりで改易じゃないの? >>628
それ明治になってから書かれた架空の葬列を想像して書かれた作品だよ
歴史資料というより文学資料の方になるかも
まあネットで馬鹿を引っ掛けるにはいい資料かもね だから後世と断っているんじゃないかと思ってみたりもするが 想像復元図といえば、
岡本城か稲村城の想像復元図か模型がどこかになかったっけ? 正木と一口にいっても、
内房正木・一宮正木・小田喜正木・勝浦正木といるが 加来耕三が柳川で大河ドラマをつくってみた
放送日 : 月 18:45〜19:00
※10月7日(月)放送開始予定
出演者:加来耕三(歴史家・作家)
時は戦国時代末期、生涯ただの一度も戦に負けた事のない戦国武将
が柳川にいた。その男の名は「立花宗茂」。
誰もが知る天下取りの乱世に、あまりに知られていない武将の物語
をラジオドラマでお届けし、歴史家の加来耕三が解説します。
https://blog.rkbr.jp/blog/newaut/
↑
テレビドラマ化は無理だろうから
せめてラジオドラマで
「里見家9代」
を放送してもらえないかどうか。 >>153
土気酒井は、
【里見→北条→里見→北条】
じゃないか 上総村上氏や真里谷武田氏、下総米本に村上綱清。
武田家臣の原虎胤はもともと千葉家臣
房総と甲信になにか特別な繋がりがあるのかおしえて
里見氏に詳しいみなさん あと久留里城代に(上総の?)村上氏が就いていたことがあったとか。。 >>642
長南武田も、北条一辺倒じゃないだろ
真里谷との対抗上、里見方になったりしてないっけか 戦国時代後半の安房国には城塞と呼べるほどの防御力を持った城はいくつぐらいあったんだろう?
砦レベルの城はいくつもあったと思うが。 戦国後半の意味する時期が天正年間(義弘〜義頼〜義康期)とすると、
安房限定であれば岡本、館山、それから金山、勝山、大貫くらいしか思い浮かばないなぁ。
白浜、滝田、稲村、宮本の旧本拠クラスの城や、山之あたりはどのくらい保守されていたものやら。
http://yogokun.my.coocan.jp/yogozuchiba.htm 書札留抜書みると足利御一家・新田源氏・上野国衆に特段の何かがないよね 公方奉公衆て野田・木戸・佐々木・梶原・・・で簗田なんだなと
太田は備中守だから江戸・岩付の嫡庶は江戸で確定だろうか
諸国の里見氏・新田源氏・上野国衆に書状を送ることはなかったのかな 東日本の動乱と戦国大名の発展を読んでて驚いたのだが
最近は里見成義実在説の方が有力っぽい? >>655
そうでもないのだが、でも成義の存在を架空とすると里見氏の系譜関係が著しく不自然になるわけで。
個人的には実在したと思うね。 >>656
そうでもないの?
里見刑部少輔が成義ってのは説得力あると思ったけど
じゃあ里見刑部少輔は誰に比定されてるんだ? 鎌倉府の刑部少輔というのは、里見義秀以降の安房里見氏の先祖
たちがよく使っていました。ここに出てくる刑部少輔は安房里見
氏の初代になっている里見義実の父里見家基のことです。
https://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/kanzenban/kan_1shou/k1shou_5/k1shou_5.html
要するに複数の里見さんが刑部少輔を名乗っているので
誰なんだか比定もできないようだ >>658
それは知ってるよ
今話題にしてるのは『東日本の動乱と戦国大名の発展』に出てくる里見刑部少輔宛の書状の話 ネタ元は2015年の滝川恒昭『戦国前期の房総里見氏に関する考察 : 新出足利政氏書状の紹介と検討を通じて』っぽい
新出書状の発見で、やっぱ成義居たわってなった感じかな? 里見成義非実在説が定着するまでに10年ぐらいかかったし
今度の実在説が定着するのにも同じくらいかかるかな
誰かがWikipedia更新すりゃ速いんだろうけど 『東日本の動乱と戦国大名の発展』
だと、巻末の系図では
義頼が足利晴氏女の子、
梅王丸が足利義明女(青岳)の子
になってるな 家に残ってるのは
軒下から見つかった朽ちた火縄銃
タンスから出てきた日本刀
掛け軸
火縄銃や古文書などおもだったものは曽祖父が夷隅郡に寄贈済み
金庫からは曽祖父が国や赤十字に寄付して贈られた賞状やピンバッジ 【訃報】俳優・千葉真一さん死去 82歳 [422186189]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1629382568/
仁義なき戦い、戦国自衛隊、柳生十兵衛、服部半蔵、jac全盛『里見八犬伝』(さとみはっけんでん、Legend of the Eight Samurai )
犬山道節(忠) ってことで.. 六角承禎条書は六角のことだけじゃなく周辺地域のことも触れている
美濃斎藤の場合その出自にも触れている訳だが
東国にもそういう大名がいればなあ 関東でそういうポジションは佐竹か結城あたりになるか >>670
額面通り受け取れば、な。
伝・初代の里見義実の出自からして確定はしていない。
足利成氏の直臣だったからそれなりの者ではあったんだろうが。 越後の国の一族、大井田氏、里見氏、鳥山氏、田中氏、羽川氏が新田に加勢して鎌倉攻めに参加したと聞いた
里見氏って新潟なの?新田氏は上野よね? その辺は里見初代の子供とかが越後に入った血統だとか >>664
そーいえば万木城の隠し港だった場所に土岐氏が大事にしていた飯綱権現祀り直してあるんだけど、その集落には>>672に名前がある苗字の人が今も住んでる
ひょっとして埋蔵金でも隠してるんちゃうか? 徳川の時に里見は万木城入ったかな?
それとも入る前に所領召し上げ喰らったかな? 万喜城だろって思ったら万木城、満喜城、万騎城でもありなのね ニュースになっても地元民か関東の歴史ヲタでもないと読めないな この間のドーベルマンがまた逃げたそうな
この飼い主は飼う資格なさそう
お別れかな