【安房・上総】里見氏を語るスレ2【関東副将軍】
>>1
乙。
個人的に一番良いと思ったスレタイで嬉しい。 公方義晴で突撃したら負けた
ええい、里見は化け物か! 最盛期の石高ってどれくらいだろ2、30万石位かな? >10
前スレに所出はわからないのですが長宗我部の最盛期と同じくらいとかいてあった
ネットで調べてみるとそれは大体60〜90万石くらいみたいです
まあでも関東は特に離合集散背反二律の地侍の集合体みたいな感じなので
小弓公方の威光が強いときは小弓公方になびいて里見の威光が強いときは里見になびいて
北条の威光が強いときは北条になびいて・・・
みたいな感じなのでかなり流動的だったのではないでしょうか? 安房 9万5千石
上総 42万5千石
下総 68万1千石
時代によって違うだろうけど
下総はもう少し少ないか
最盛期は安房全域、上総の大半、下総南部と言われているので
60万石前後か 本田忠勝は上総大多喜で10万石だが、その後は5万石に減っているよね? >>13
忠勝は関ケ原の戦功という名目で伊勢桑名に10万石のまま転封、
次男の忠朝が5万石で大多喜に残ったから、忠勝系本多氏全体では5万石加増ということになるね。 いつも公方を置き去りにしてトンズラする謙信に成り代わって
公方を保護していた里見の方が関東衆を統率するのにむいていたおね( ^ω^) 小弓はパチモンじゃんお( ^ω^)
元々里見が担ぎ出したわけじゃないし、義堯は初っ端から横槍り入れられたし( ^ω^) 義実:美濃出自説が出てきたからね。
そりゃあ、新田庶流には変わりないだろうけども。 千葉県って現在でも農業生産全国2位なんだよね
なぜか山だらけの不毛の地のイメージがあるけど >>22
九十九里平野(椿海干拓地含む)、水郷地帯の米作が大きいね。
長狭・水郷は早場米の産地としても有名だし。
下総台地や房総丘陵も、谷の奥まで貪欲に谷津田として耕作されているしね。
今は耕作放棄されて荒れてるとこも多いが。 干潟(椿海)って干拓されたのは江戸時代なのに、減反が叫ばれ出した昭和40年代ぐらいまではそれほど耕作できてないんだよね
両総用水ができるまでは、ほんと水不足と塩害が凄かったらしい
干拓のほうは失敗の連続で関わった奉行はみんな腹切らされたんじゃなかったかな 後北条が本気で里見を潰さなかった(潰せなかった)理由は? 水軍が強かったのと、守り易く攻め難い房総半島が本拠地だったこと
とはいえ、結局は屈服に近い和睦を結ばせたので
北条としてはこれで充分と思ったのではなかろうか
どうでもいいが里見義康の安房国4万石って、慶長二年の太閤検地で
領地変わってないのに9万1千石に膨れ上がっているのな。
こりゃ領民はたまったもんじゃないわ。 >>28
毛利だって関ヶ原後にやったじゃないか
そんなんどこでもある
辻褄を合わせるためには下を苦しめるもんなんよ >>28
いやいや武士領民総出で一生懸命に田畑を開墾したのかもしれんぞw 「ココいままで1万石ってことになってたけど、今日から2万石にするわ
年貢その分増えるけどよろしく」
てのがあったりするのよ 秀吉は金に困ると太閤検地をやって、そのたびに石高増やして増税してた。 秀吉は農民だったから
百姓のちょろまかしを知悉してたというのもあるとおもうけど
里見は知ってて知らんぷりするところが万年様たるゆえんなんだろう 秀吉が農民だったなんて今じゃ怪しい説だけどな。
百姓≠農民だぜ? 秀吉も里見を厚遇しとけばよかったのに。
北条と里見の関係を徳川に当てはめれば、
関ヶ原でもっと面白い展開になったと思う。
里見とか佐竹なんて雑魚大名にいくら加増しても無駄
こいつらが役立たずのヘタレであるのは対北条戦で実証済
里見と佐竹を潰して上杉に200万石与えるべきだった 安房一国になった里見の抑えに本多忠勝を配置したのは
やはりそれなりに脅威と見ていたのかな それを言うなら伊達だろう。
思い切って遠方から宇喜多か立花を配置w 徳川は水軍を警戒してたわけでしょ
小田原のときに仮に改易するんだったら、九鬼を入れて佐竹に支援させたほうがええかな
脇坂あたりも良いかも
いずれにしろ、どれだけはやく周辺海域の状況を把握できるかがかぎだろうけど 里美氏って北条とは何度も戦争してるけど、北の佐竹や結城とは戦ってないの? 戦ってないよ。
所領も接してないし戦う理由が何も無いから。 里見義頼は後北条出の妻が死んで
後北条と敵対関係になったとどっかで見たんだが、
いつぐらい? >>51
その話はウソみたい、同盟はもっと長く続いたらしい。 各地で、大名のお祭りしてるんですね。
金沢だけじゃ、なかったんだー、良かった。
仙台も伊達政宗で、お祭りやってる?? そういえば里見氏って小田原合戦の時期になっても、小弓公方を
擁立しようとしてたりするんだよな 好きな女を連れ去るために鎌倉まで遠征って
こんな素敵な話なのに歴女の食指は動かないのかな?
川名登編『里見家 分限帳 集成 【増補版】』(岩田書院、2010年4月発行)
>64
へー
うちなんてひーじーさんがなにやってたかもワカンネ
>>64
義康の次男・忠堯だね。
里見氏の没落後は遠州掛川に住んだという。 館山にキャバクラが出来て、毎日そわそわしてる先輩に質問です。
ナゼ戦国武将の戦は、ローマの兵士と違って「盾」を持たなかったのですか?
いつも不思議に思います。 鉄不足?
でも藁とかキュッと束ねたのを幾つか束ねて、またキュッとやれば矢くらいは
防げたのでは。事実、戦では刀、槍より矢で亡くなった人が多いようですが。
67です。
>>68さんありがとうです。
最近合コンのお誘いがめっきりな先輩に質問です。
足軽は胴はまだしも、下半身はサラシのような短パンっぽいのは・・・
やはり自衛のために防御をしたいと思うのは人情でしょう。
では、房州の場合、全身アワビやサザエの殻で補強しなかったんですか?
余談ですがアクアライン通る度にあの時代にあれば、小田原攻めに遅参しなくて
済んだのにな。と、遠い目で海ほたるからランドマークタワーを見てます。
>>70
びわくび(百尾)の出来事についてについて事情通の先輩。
要は防具の話が聞きたいです。 >>69
別に本当に遅参した訳じゃないというのが通説。 最近ゲリラ豪雨に備えてる先輩に質問です。
>>72氏
遅参はなんとなく知ったことなんすが、秀吉のイジワルなんすか?
上総や下総を取り上げたいから、水軍と戦って遅参したワケではないんですね。
とにかく貝殻で武装しなかった足軽の事と、後の大多喜城の本田氏は
サザエを模した兜だったし。
因みに自宅に甲冑(伊達政宗、真田幸村、家康)があってたまに着て遊んでます。
勿論レプリカで安価な物です。 >>69
中世ヨーロッパの歩兵や弓兵(要するに騎士以外の雑兵)は、
いつでもウンコできるように下半身は裸だった。
西洋のでも東洋のでも鎧は1人で脱着できず、複数の人間の介助が必要。
なので従者などいない雑兵は手軽なものしか装備できなかった。 >>74
最近暑くなって水分補給に余念がない74さん。
なるほど。 ポイントはウンコですね。
確かに帰省の折に城山で甲冑着たときはひとりでは無理だと思いました。
でも自宅にある甲冑は慣れるとひとりで着られるんですが、
ダースヴェイダー着るときははメンドクサイです。
ところで甲冑はふんどしから甲冑まで全部 左 から着るんですね。
休日のいま、伊達政宗の甲冑着てます。ちょこちょこツノが壁に当ってます。 戦闘中にウンコする人がどれほどいるか疑問だけど( ^ω^)
それに命懸けの状態なんだし垂れ流しでもよい気がするお( ^ω^)
むしろウンコ塗りたくっていれば少なからず相手の戦意を挫けそうだお( ^ω^) ゲリラ豪雨に怯える皆さんに質問です。
一応、勝浦のおまんの方や百尾のゆかりの方とお会いしたりしたんですけど、
まぁそれはそれとして、館山の正木地区は里見家臣正木氏由来ですか? 正木氏の由来が正木地区(安房国平郡正木)だったと思う >>79
> 正木氏は単純な家臣じゃなくて従属同盟者的な・・・
佐竹氏と江戸氏・真壁氏みたいなもんか。 武永家の里見越後は、上総で北条と争ってた里見氏の一族? いずれにせよ縁もゆかりもない山陰に転封され、大久保石州に連坐し、除封。 >>84
天童氏が里見から分かれているらしいから、その支流になるんじゃないのかな 奥州の斯波一族庶子は里見名乗るのたまにいるからその系統の可能性もある >>83
大多喜町も、「本多忠勝・忠朝」で狙っているな。 里見八犬伝まんじゅう
ってのを国体会場で売っていた。 伊達兵部と対立していた里見十左衛門重勝はどの系統なんだろか。 戦国ちょっと悪い話22
ttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1284366912/227
でちょっと気になる話を見つけた
お題
↓
227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/23(木) 18:36:23 ID:llOfiB8h
北条って何で里見ごときにてこずってたの?
さっさと滅ぼしてそこの兵力を上野とか下野に使えば良かったのに
229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/23(木) 18:44:28 ID:SYuyIJCM
>>227
一言で答えるのは難しいが、
当時の房総や常陸・下野を支配していたルールや慣習が、相模・武蔵とは大きく違うんだ。
武蔵を制圧したのと同じやり方で、房総に侵攻するのは難しかったということ。
ここでも参考にして
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%C6%B6%C3%E6
230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/23(木) 19:17:08 ID:2uYBKVhC
もう一つ。里見家と当主義堯と義弘がゲームのイメージから離れて強く有能だったとも言えるな。 下総流山に永年住みながらも↑の227氏と同じく、何故、後北条は里見(ごとき?)に
てこずっていたのか?疑問に思う。
↑で229氏は
>当時の房総や常陸・下野を支配していたルールや慣習が、相模・武蔵とは大きく違うんだ。
>武蔵を制圧したのと同じやり方で、房総に侵攻するのは難しかったということ。
>ここでも参考にして
と言うが、リンク先を拝見してもよくわからん。
里見家の「洞」(千葉氏支配下の下総が典型的な「洞」と云うシステム)が、
後北条が里見を攻略する上で障害となったってことなのか?
そもそも「洞」ってなんだ?
あと、常総・下総のルール慣習が相模・武蔵と大きく違うってのもわからん。 >>96
>北条って何で里見ごときにてこずってたの?
> さっさと滅ぼしてそこの兵力を上野とか下野に使えば良かったのに
滅ぼすことは可能だったかもしれないが、北条側もかなりの損害を出すので
そのタイミングで武田や上杉や今川が攻めてきたり、北関東の半分従属勢力が
離反するおそれがあった。
逆に疑問を持つと、どうして里見は北条ごときを滅ぼせなかった? 洞が足枷になっていたと見る事も出来る
洞というのは室町末期頃に形成されたシステムだけど基本的には中世の体制の延長にある
洞中に於いては権力が分散しており宗家の力は決して強くはない
寄り合い世帯的なものであって利害によっては行動を異にする事もあり
宗家当主の命令下に一丸となって進退する事は不可能といっていい >>96-97
悪い話スレに誤爆があったから気になって探して飛んできたよw
そのスレの229です。
私は佐竹好きで、里見は門外漢なのでそこはごめんね。
洞中について知りたかったら、まずはここを読んで
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E_(%E6%AD%A6%E5%AE%B6)
もっと詳しく知りたければ古典的な研究だが、
『戦国期東国の都市と権力』に入ってる『戦国期における東国領主の結合形態』を参照して。
買うと凄く高いから図書館でコピーするといいよ。
>>100氏も言及してるんだが、
常総地域の豪族は自立性がものすごく強かった。
小豪族間が文字通り「親分=子分」の擬制血縁関係を結んで、ゆる〜く繋がって千葉洞やら結城洞やらを形成してたわけで
システマティックな北条家とは全然違う。
親分である宗家は軍事指揮権は持ってるが、子分の内政に介入する権利は何ひとつ持ってない。
こういう背景をもつ常総地域の戦争がどういう形になるか、
戦場で戦うと一方が壊滅的打撃を受ける前に、古河公方などが和睦を仲介して手打ちになる。
「ケンカしたけど仲直り、これからも一家同然に付き合っていきましょうね」
新たな親分=子分関係が構築されることも。
内乱はやるけど、他の洞の領地を侵食することは基本的にほとんどやらない。
先祖代々の領地を奪って、豪族を地生えの土地から排除しようとする北条家が介入してくると
異質な戦争の仕方をする北条家に対して、いつもは仲間割れする洞中も結束して抵抗する。
下手すると平安時代以来の領土だから、まさに一所懸命に防衛する。
こういう小豪族をしらみつぶしに叩いていくのは物凄い手間と時間がかかるわけ。
佐竹方が小田天庵様を何度打ち破っても復活し、結局完全に滅ぼすことができず、30年かかって屈服させたのが好例。 古河公方の影響力がほとんどなくなるのは何年あたり?
そのあとは誰が和睦調停をやったの?
人に聞かないでまずはwikiでもいいから自分で調べろ
それからもっと問題を詰めて質問しろ 千葉氏の重臣である原氏
さらにその原氏の重臣である高城氏なんかは千葉氏から直接命令を受けてるよね
それどころか北条氏から、千葉・原を飛び越えて直接指令が来てるし
この頃の下総は北条の下請け孫請けみたいだよねえ 義弘の誕生年を1525年説とするなら
1543年産まれの義頼が実子でも年齢差的に無理はないな。
1530年説となると、数え14でお父さんか…
まぁ、当時は早婚で子作りも比較的早かったとは言え
実際の所はどうだったんだろうね。
>>112
調べてみたら、何人かそれくらいで子持ちになった
武将を発見できた。
話は変わって、安房里見氏ってゲームのイメージで
相模北条氏のやられ役って感じが浸透してて非常に残念。
実際、第一次二次国府台合戦の痛恨の敗戦が痛いけど
起死回生とも言える三船山合戦は、かなり評価されても
いいと思うんだよね。北条氏は戦国時代の有名所だから
高評価になるのも、仕方ないんだけど
義堯・義弘時代の里見氏はもっと評価されてほしいもんだ。 里見氏の強みは水軍のほかになにがあるのだろうか?
交易は得意だったのだろうか? 三船山合戦は北条氏政が相手だったことも里見にとって有利だった。
名将である氏康が相手だったらキツカッタと思う。 >>117
小弓?
あれは武田が引き込んだんだけど 北条VS里見での里美方の強みっていう意味じゃないの? 里見は源氏だから征夷大将軍になれる資格があるということだなあ。
もっとも、なろうと思ったことは一度もないだろうが。
里見は水軍の他に、なにが長所だったのか? >源氏だから征夷大将軍になれる資格がある
いまだにこんなの信じてるやついたんだ >>121
そりゃ朝廷が平氏の信長が希望すれば将軍に任命する意思があったことは知っているし
皇族将軍や藤原将軍がいたことも知ってる。
でもさ常道からいけば源氏が将軍でしょ。 そんなこたあないでしょ
もともとは蝦夷対策で設けられたもんなんだし >>118
小弓滅亡後の遺族とか足利藤政とかじゃないの? >>124
なるほどね
でも、武田がこともあろうに北条方になって、公方は里見を頼りにしたんだから
その遺児たちが里見を頼って落ちてくるのは当然だと思うよ
家格というよりも父親の後ろ盾兼同族ってことで頼ってきたんじゃないかなあ
藤政のほうは知りませなんだ 佐藤博信氏が安房に亡命した足利一族(小弓・古河両方)に関して結構論文を出していた筈。 近年の研究だと、槍大膳こと正木時茂は1561年に死んでいたそうだから
第二次国府台合戦及び、三船山合戦の正木氏主力武将って
弟の時忠と時茂の長男・信茂と養子の憲時って感じなのかね。
時忠が北条に寝返って、信茂戦死後は憲時が義堯・義弘を
支えていたのかな。
そうなると、梅王丸と義頼の一件は単なる憲時の謀反じゃなくて
義弘派の憲時が義頼派を良しとしない上での決断とも取れるわけで。
時代小説の読み過ぎか俺。 >>127
このあたりの時代小説って何があるの?
オススメがあったら教えて。 時代小説ではないが
「崑出版」だっけ?
から房総の郷土史の本が多数出版されている。 里見家視点で物語風な感じならPHP文庫から出てる
『里見義堯』くらいしかないと思われます。
小説ではないですが、129氏が挙げてる崑出版の学術本もオススメ。
里見家改易始末と、房総里見水軍の研究が個人的に良書でした。
あとは、川名登氏の里見家関連著書なんかも
いいんじゃないでしょうか。 >>129
>>130
どうもありがとう。とりあえずPHP探して読んでみまつ。 >>131
南房総市(旧丸山町)に嶺岡牧場という
里見氏が軍馬を育てるのに作ったという牧場がある
もっとも、今は乳牛試験場とかで馬とかはいないけど 「里見興国記」って小説は、義実と義堯に絞ってある。
典廐五郎「真相里見八犬伝」は、義頼〜忠義にかけての里見と正木の内実。 >>111
義頼の母親が青岳尼っちゅうのはどうかね? >>129-130
崑じゃなくて崙書房。
流山市にある。
千野原靖方氏がよくそこから出してるね。
「戦国大名里見氏」「里見氏改易始末」「関東戦国史」「房総里見水軍の研究」などなど。 崙書房の本は柏の図書館(本館)1階のトイレ前にある。 千野原靖方氏ってどういう人なんだろうなぁ
本名なのか、一度お会いしてみたいものだ。
講演とかやる機会ないのかなあ >>136
青岳尼が義明の妹なのか娘なのか
てか、恋焦がれた相手の子供なのに嫡男になれなかったことになるんだよね
よほど義弘に嫌われていたのかな >>141
そうなのか。名前が大正っぽいのでw
失礼したw http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%99%E6%9B%B8%E6%88%BF
崙書房出版株式会社(ろんしょぼうしゅっぱん)は、日本の出版社の一つで、
主に千葉県・茨城県に関する書籍を発行している。
創業当初は千葉県・茨城県に関する文献の復刻版を発行し、
1977年から地域に根差した題材を文庫本として発行するようになる。
歌集・句集などの自費出版も手がけている。
利根川を題材にした出版物の発行では建設省から感謝状を送られる。
また、常総・房総の歴史に関する雑誌も発行している。営業所が茨城県石岡市にある。
>>143
滝川氏が義明の妹と娘が両方義弘の室になったという説を唱えたんだっけ? 義明の妹も娘(青岳)も、鎌倉太平寺の尼になっているね。
岩井三四二の「太平寺殿のふしきなるおくわたて」って短編に、青岳の鎌倉脱出が描かれている。 ウィキ見て思い出した。
義頼が青岳尼の子供という説を唱えたのが滝川氏で
義明の妹と娘が両方が義弘の室になって、青岳尼の伝記は両方ごっちゃになっていると言ったのが佐藤氏だった。 【北条】
千葉、原、高城、庁南武田
【里見→北条】
万喜土岐、真里谷武田、土気酒井、東金酒井
【里見→北条→里見】
勝浦正木
【里見】
小田喜正木 一族に甘い傾向があるよね。
梅王丸も殺されてはいないし。
そういえば、義弘と喧嘩して常陸に逃走した弟がいたな。 将棋の里見香奈ちゃんって安房里見ゆかりの子?
出身が伯耆の国なんだけど。 >>139
今年の4月に千野原氏の新刊が出ていた。
崙書房「小弓公方足利義明」 千野原靖方『小弓公方足利義明―関東足利氏の正嫡争いと房総諸士―』(崙書房出版、2010年発行)
>>102
調べた。
古典的な研究だが1986年の『古河公方の権力基盤と領域支配』市村高男 によると
天文末から永禄半ばまでは佐竹・結城・那須・小山・江戸らの年頭挨拶が確認できる。
しかし、天正二年の関宿陥落と、北条氏康による古河公方権力の吸収以降には
里見・佐竹・宇都宮・那須の出仕は確認できないとのこと。
これ以後は北条傘下の諸氏だけが出仕したそうな。
房総で言えば臼井・国分・千葉・高城・村上・大坪ね。
ただし、結城・山川・常陸行方衆に限っては、北条に対立する勢力にも関わらず
天正5,6年まで出仕が確認できるとのこと。
彼らは独自に古河公方と強力な結びつきを持っていたのがその理由。
いわゆる天正六年の佐竹=結城=宇都宮=那須の反北条同盟が契機になってるみたいだな。 >>166
おー、これは初めて知りました。ありがとう。 安房里見は美濃系らしいが何故、古河公方方に?
上杉応援団やないの? >>168
土豪の仮冒で新田里見氏とは関係ないから 美濃から来たって説を提示したのは峰岸純夫氏だったかな。 北条氏康を三崎三浦で撃破した里見義尭は
東国最強の水軍の持ち主
盗っ人大名・氏康にお仕置きしたワケだ 義堯は三崎三浦をわざわざ強調する必要がないぐらい、
氏康相手に勝ち星上げてるんだがな >>175
明智光秀、石田三成かな
ちょっと報われなかったりした人に惹かれます
里見さんちも江戸まで生き残ったのにとり潰されちゃったしなあ >>176
> 里見さんちも江戸まで生き残ったのにとり潰されちゃったしなあ
北条も河内狭山1万石で(いちおう)生き残ったんだが、里見は消滅しちゃったからなあ。
>>178
狭山は氏規系だね。
氏繁系は遠州掛川藩主のときの1658(万治元)年に北条氏重が無嗣断絶に遭っている。 >>166
ググっても書札礼の小論しかヒットしないけど
常陸行方衆っていわゆる南方三十三館?
一次史料ではそう呼ばれてるとか? >>182
まず間違いなくそうだと思うが、
気になるなら古河市史史料編でも確認してね。
『南方三十三館』って佐竹の史料にしか出てこない言葉じゃないのかな。
分かってると思うが、ネットに載ってる情報なんてゴミみたいなものだよ。 へー。
そう聞いてはいたから、確認してみたかっただけ。
此処の住人なら詳しいだろうと思ったから。ありがとう。 てきとーな返事にお礼を言われてしまって寝覚め悪いから書いとくよ。
足利義氏が年頭の挨拶に対して返礼を送ったうちのこの5人のことだな。
烟田右衛門太夫
芹沢左近太夫将監
芹沢土佐守
行方左衛門太夫
大高三郎
いわゆる大掾氏旗下の行方郡の諸氏だな。
市村高男氏が言う「常総の内海」を通して古河地方と繋がりがあった氏族。
で、『常陸行方衆』という言葉は多分一次史料にはなく、市村氏の造語だと思う。
市村氏は当時の実態を表す名称を使うことに物凄くこだわってる研究者なので、
『南方三十三館』という、もろに佐竹氏中心の用語は使いたくなかったんだろうな。
想像だけどね。 さらにさらに感謝
行方左衛門太夫は初めて見ました
北関東の反北条勢とっては「南」=北条氏のこと(永禄日記で見た)だから
佐竹氏目線では南(北条)方三十三館
北条陣営の義氏目線では行方衆なんでしょうね 里見は房総半島の天然の要害に助けられていたんだなぁ
三国志のショクの国みたいなもんだね 行方(小高)氏に左衛門大夫って・・・? と悩んだけど
これ鹿島又四郎宛て足利高基判物の本文中にみえる行方兵庫大夫と同様、島崎氏か
人物比定は↓かな
烟田右衛門太夫 忠幹(のち烟田山城守)
芹沢左近太夫将監 定幹
芹沢土佐守 定幹
行方左衛門太夫 島崎氏幹か義幹
大高三郎 不明
里見氏からだいぶ脱線したけど
島崎義幹は「里見義弘の弟義政を井関氏と改めて城主とした」
ということで、無理やり里見氏に戻す! 安房の国に近づいて行くにつれて、どんどん山が険しくなって行く。
あれじゃ北条が里見を落とせなかったのも頷ける。 東京湾から攻めれなかったか?
里見は久里浜で三浦とやってるがな、 北条里見は基本海戦だよな。途中の山とかは関係ねえ。 むしろ国府台あたりまで出てくる里見の方が大変かもw >>193
北条はどうしても海に出たかった、
だから朝比奈必死で掘った 里見は海路で三浦半島に進出しているけど、如何せん海路だと補給が弱くなるから長期保持していた例は少ない。 里見姓の大名は2家
・安房館山12万3千石
・上野板鼻1万石 >>210
> ・上野板鼻1万石
これについて何か書いてほしい。 天童氏家臣の里見景佐について教えてくれませんか
天童一族なんでしょうか 庁南武田
真里谷武田
万喜土岐
土気酒井
鴇嶺酒井 東金に鴇嶺という地区があるらしい
そこが本拠だったのか? 鴇ヶ峰という丘に作られた城が、のちに転訛して東金城と呼ばれるようになった 国府台で戦死した里見弘次 & 正木内膳って何者なんだろうか?
実は両者は同一人物で、里見の若きエース正木信茂で、国府台を訪れた弘次の娘ってのは種姫とか夢見すぎ? >>225
里見弘次は里見忠弘(義堯の息子・義弘の弟)の嫡男。 講演会「両総の狭間を生きた酒井氏 ―土気城周辺を巡る攻防―」
開催要項
1.主 催 土気城を守る会・千葉城郭研究会
2.後 援 千葉市教育委員会・朝日新聞社千葉支局・土気町自治会・千葉歴史学会
3.協 力 (本寿寺)
4.趣 旨 戦国後期、北条氏と里見氏による房総支配が進むなかにあって、両総の狭間に
独自の領域を形成した酒井氏と、その発展過程で各地に築いた城郭のうち、と
りわけ居城である土気城の果たした役割と実態を、最新の研究成果や発掘調査
結果などを通して、その歴史的価値を明らかにする。
5.内 容
趣旨説明
T.酒井氏の史実と伝説 滝川恒昭氏
U.酒井氏の発展過程と城郭 遠山成一
V.土気城と城下 小高春雄氏
W.質疑・応答
6.日 時 2011年7月9日(土) 午後1時〜4時
7.会 場
本寿寺 千葉市緑区あすみが丘東1−1−6
駐車場有
8.定 員 150名(申し込み不要)
9.資料代 300円
>>229
うちにもチラシが来ましたよ。
土気城跡、老人ホームになっちゃったからねえ・・・・ 今日、千葉大のやつが安房って何て読むのかわかんねえとか言ってた
初めは、こんなのもわかんねえのかと思ったけど、旧国名や地名なんて地元や興味のある人間くらいにしかわからんかと思い直した 最近は「安房」って名称自体あまり見ないからな
旧安房郡も南房総になっちまったし(一応、鋸南町で残ってるが) 千葉近郊に住んでれば駅名とかでわかるんだけどな。
田舎者は自分の利用する鉄道以外記憶の許容力が無いからな。 >>232
千葉県外からきた学生なら知らなくてもあたりまえかもよ。
旧国名は安房にかぎらず、しらんひとはしらん。 安房はともかく、阿波は「隔絶された」ってほど遠くはないだろ
安房の由来は阿波からの移住によるものって説もあるとかなんとか
昔々、地元発行の本で見かけた記憶がある 阿波の忌部が安房に来たんだぞ。
天太玉命とか知らないか?
>>240
大和朝廷で祭祀を司ってたんだぞ。
今の感覚で言えば隔離地域同然だけど、
安房だって安房一宮の安房神社があるように
当時としては開けていたんだよ。
2000年以上前だけどなww 古代は武蔵辺りは交通が困難だったから相模から房総に船で移動するのがメインルートだったんだよ
特に上総は要所だったと言える
鎌倉時代頃から開拓が進んで次第に陸路に移った事からメインルートから外れていった
もっとも安房辺りはどん詰まりだから古代から土佐や薩摩と同様に最果てと言う認識だったようだが
というか上総と分離する必要なかったんじゃ・・・ 安房回り 東京湾1個
武蔵回り 多摩川、隅田川、荒川、江戸川、その他もろもろ
ってことだな。もちろん川の名前も構成も今とは違うが
本数的にはだいたい同じ。 >>246
一番の難所である利根川を忘れている
これらの河川に加えて沼地や湿地帯が無数に広がり
背丈を越える藪になっていたそうだから、舟で海沿いを進んだ方がずっと早かった
ちなみに東京湾から印旛沼に入り、常総間の内海(現利根川)を抜けて霞ヶ浦を北上し
恋瀬川を上れば常陸府中まで舟で行けた >>247
>もちろん川の名前も構成も今とは違うが
246はちゃんとこう書いてるのに妙なレスをつけるね >>247
東京湾から江戸川と現利根川経由で印旛沼に入れるようになったのは利根川東遷後だった筈
間違っていたらすみません 東京湾の話と東遷後の話がごっちゃになっているわけかー 陸路前提の話をしているところに水路の話を持ちだしてくるから
ややこしくなっている。
それ以前に他人のレスを良く嫁。「東京湾」の時点で気づけよw 里見氏の家臣に多そうな名字
1・正木
2・安西
3・堀江
4・岡本
5・御子神 その手の埃が出る奴が多いだろ
小泉訪朝まで拉致事件は都市伝説だと思われていたんだから さすが宗家に謀反し、北条を裏切り小弓を見捨てた男の子孫 天童氏が里見氏から分かれて、その天童氏からの派生かと
>>84 >>88-90
ここを見ると良い。 小田原城で家紋展やってるが、
小田原の役で
・豊臣方
・北条方
・その他
のカテゴリ分けで、なんで里見がその他なんだよ。 最上傘下の天童流里見は天童が最上に乗っ取られてからの分家か
里見の血を引く分家か >>267
その他は里見氏以外には何があった?
参戦の名分が「鎌倉公方の再興」なんで
むしろ正しい展示だと思う
>>270
武田、今川、浅井、朝倉、六角、三好、毛利・・・・
佐竹、最上すら豊臣方だというのに・・・・ >>271
ほとんど滅亡した連中とひとくくりとは・・・・・ 今月発売の『歴史読本』、消滅した大名家特集だが、
小和田哲男はまだ[小田原の参陣が遅れ〜]なんて書いてやがるな。 とは言え、里見氏が後北条氏と豊臣氏の両天秤をかけて対応が遅れたという指摘も無きにしも非ず。 >>275
具体的に、誰がどの論文で指摘してるの? >>274
里見家だけをさっと立ち読んだが、一昔前の資料を見て書いたんじゃないかって感じだった >>257
房総の親戚に正木さんっているけどうちは違うくやしい
正木さんて里見家臣なん?
>>278
最近は同盟的な立場だったのではないか、と見られてるね
俺は時茂系が家臣で、時忠系は従属関係だったのかなとか思ってる 内房を任されていた正木と外房を任されていた正木って同族? >>280
どうやら里見さんとは姻戚関係みたいだね
家臣て呼ぶのか同盟者なのかどっちなのかな
>>281
安房正木郷の出ってだけで違うんじゃないかな 保田に砦あったって?
日蓮正宗的に重要な場所なんだが、、 >>283
妙本寺砦ね。
北条水軍が攻め寄せてきた時のシェルターでしょw >>276
北条・里見同盟がどの段階で終わったか、曖昧だからじゃないの? >>214
板鼻藩は、里見義頼の次男義高が慶長年間に立藩したが、1613年改易、子孫は庄内酒井氏の家臣となった。
なお、戦国時代、長野氏に従って群馬郡里見郷に居住した里見河内とは直接の関係はない(河内も安房里見氏の一族ではあるが)。 小松寺(南房総市千倉町)にあるよ
「朝日さす夕日かがやくもろの木の下に
うるし千盃朱千盃、銭十億万貫あり。まことであるから掘り出せよ」
だそうだ
ちなみに小学生の頃、一度だけ行ったが、とんでもない山の中だw 戦国時代に「億」って単位が胡散臭いなw
「まことであるから」ってのも何か笑えるなw
まあ、嫌いじゃないけど〜 仏教に「十万億土」って言葉もあるし、億があっても良かんべえ >>290
今は広域農道(安房グリーンラインと言ったかな)が出来て行きやすくなったんだぜ。 >>293
そういえば、墓参りから帰るときに通ったな
九重〜大貫〜白浜ってことは、このスレ的には稲村城〜白浜城ってことになるのかw 大膳さんじゃなくて里見さんは甲斐の虎とか尾張の虎とかみたいに異名なかったの?
房総の鯨とか 「房総の鯨」だと和田千倉辺りの土産物屋にありそうだなw
個人的な感想だが、大きいってイメージは無いから鯨は無いと思う
光栄の攻略本には「房総の狼」とか書いてあったらしい へぇ〜鯨は地域ネタだけどw
狼かぁ〜意外だなぁ
海の物かと思ってた 9月11日に、川名登先生を偲ぶ会が行われるそうです。
ttp://ameblo.jp/awabunka1/entry-10992648306.html 講演会「里見氏研究のあゆみ」〜川名登先生を偲んで〜
日 時 平成23年9月11日(日) 午後1時30分〜午後3時
会 場 館山市コミュニティーセンター内 館山市中央公民館1階第1集会室
講 師 岡田晃司氏(郷土史研究家)
「大野太平氏について」
滝川恒昭氏(千葉城郭研究会会員)
「川名登氏について」
>>285
> 北条・里見同盟がどの段階で終わったか、曖昧だからじゃないの?
そうだな。
「この時点までは同盟が機能していたことが明らかだ」というのは何年かわかる? >>304
って、川名先生いつ亡くなったのよ?
そんな話題ここでも聞いた記憶が無いのだが。 >>306
川名登氏は6月に亡くなったそうです。
千葉日報には訃報記事が出ていた。 >>306
ttp://tateyamals.blogspot.com/2011/09/blog-post_12.html >>276
竹井英文「「房総一和」と戦国期東国社会」(佐藤博信編『中世東国の政治構造』岩田書院、207年発行)
>>309 >>275
該当の「「房相一和」と戦国期東国社会」に書いてあるのは、
・里見氏が後北条氏と豊臣氏の両天秤をかけて
里見が秀吉と天正十三年までに音信を通じていたことと、同時に北条への従属を強めていたことが指摘され、
市村説を踏襲しながらも、「房相一和」を小田原征伐直前まで継続していたことが「上総国没収の背景の一つ」とだけ。
・対応が遅れたという指摘
これは竹井は言及してないようだ。 仮に後北条の大軍に包囲されたとして、館山城はどのくらいの期間持ちこたえることができただろうか? >>316
後北条がガチで里見を殲滅しようとした場合、里見サイドはどの程度の期間粘れたのか知りたい。 築城自体は義頼時代じゃなかったかな
もっとも、当時の本拠地は岡本城だが
1580年〜1590年頃と仮定して
三方が海、北に嶺岡山系と安房国が城みたいなもんなので
秀吉の援軍待ちってことなら十分勝機はあると思う >>304
川名氏ってのも房総に多い苗字だよね
里見の家臣にも川名氏がいたな
川名氏って本姓なんだろ?
平姓かね? >>319
最近だと、館山に城を築城したきっかけは天正の内紛時に梅王丸サイドが攻めてきたときに備えたためという話がある。
ただし、館山城に後北条が攻めてくることまでを想定していたかは不明だし、そもそも後北条だって多方面作戦を常に強いられていた訳で安房本国に容易に侵攻できなかったと思う。 つーか佐貫や久留里で防がずに、いきなり館山城包囲された状態という設定がイミフ >>323
>そもそも後北条だって多方面作戦を常に強いられていた訳で安房本国に容易に侵攻できなかったと思う。
そうだとは思うが、それでも一応の備えはしておかなければならなかったと思うが。 >>325-326=>>315か
何でそんなこと議論したいの?
何か意味あるの、それ?
安房に攻め込んだら、確実に佐竹が南下するだろうけどな。 里見は戦国大名といっても、地理的に北条以外と戦うのは難しい。 里見氏って昔のゲームでゲーム開始早々となりの国に滅ぼされることが
多かったので弱い戦国大名なイメージしかない・・・
強いの? 同じ昔のゲームでも、信長の野望だと開始早々滅亡だが
天下統一では北条佐竹を抑えて関東統一してるときがあったな >>331
ゲームは水軍とか険しい地形が無視されているから。 数回結構な負けがあっても滅びはしなかったからいいんだよ! >>331
ゲームは極端に兵力に強弱つけるからね。
さらに実際に戦いでは各勢力の同盟、離反が有機的に
繰り返されるから、大軍が弱小勢力を駆逐することはできないから。
特に関東八館はいざという時の連帯感が強いし。
333のいうように、
天下統一の方が当時の状況を忠実に再現できている気がする。 >>329
伊達の南下が佐竹にとって深刻になった時期と北条が豊臣の侵攻に備えて内向きになった時期は被っているので、
北条が里見を攻めているうちに佐竹が南下しても伊達は蘆名や相馬との戦いを片付けない限り直接的な脅威にはなり得ないだろう。 無知ですが教えて下さい
うちの近くに玉縄城跡があるんですが、里見のお城ですか?
知人がそうだと言うんですが、確か里見は房総の大名ですよね?
うちは神奈川なんですが… 一般的には後北条の城とされてるが、その後に本多正信が入城してるね >>341
レスありがとうございます。
やはり知人が間違いでしたね 汗 >>340
里見が数度攻めているから勘違いしたのではないかな
それと首塚の案内板に里見義弘の名前もあるし 4月14日(土)に館山で稲村城・岡本城シンポジウム 小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など
【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10 素朴な疑問。
戦国時代の里見は、後北条以外の大名と戦争やったことがあったのか? 真里谷さんとちょいちょい上総の奪い合いしてなかったっけ
あと先代義豊を討った犬懸の戦い。まあこれは戦というより内紛かも ウィキペディアに
永禄3年(1560年)、氏康が里見領に侵攻して来ると、義堯は久留里城に籠もって抗戦し、
上杉軍の援軍を得て大勝し、
反攻を開始して上総西部のほとんどを取り戻した。
とあるが、名将である北条氏康相手に大善戦しているんだな。
久留里城が堅城だったアドバンテージもあるだろうが。 >>349
その後北条に味方していた千葉氏と戦ってるよ。 ちなみに香取神宮あたりも攻めてる
しかも船で銚子回り
>>354
里見の水軍はガチで強い。
問題は陸軍。 >>357
直接戦ったかわからんが、同じ北条方の千葉氏とは仲が悪かったみたい。 里見氏はある意味、反北条の盟主なわけだし
もうちょっと評価されてもいい気がするんだけどな。
北条と越後上杉が和睦した時は
短期とはいえ武田と里見で甲房同盟なんてのもあった。
甲斐武田が庁南武田を通じて同盟交渉したくらいだし。
のぶやぼのせいでとんだ雑魚大名に成り下がった気がする。
まあ、小田原役辺りからの処世術が後世の評価を貶めたのは否めないが。
ここが佐竹との埋らない差。 無嗣子の改易だから、宗家の子孫はいない事に。
子孫を名乗る一族は下級旗本になったり、越前の鯖江藩に仕えてる。
大身の子孫はいないね。
正木氏の方が上手く生き残った。 家康からしても江戸の喉元に外様大名がいるのは嫌だったんだろうな。 >>360
他ゲーだと割と扱いは良くなってるな
それでも北関東の武将と比べるとイマイチ扱い悪いが
佐竹みたいに移封先で幕末まで残れば
評価も違ったと思う。
家名が存続したかどうかは大きな差。
里見は記録も乏しい上に少ない記録も胡散臭いみたいだしなぁ。 【千葉】戦国大名・里見氏が開き、江戸中期には「日本酪農発祥の地」に…鴨川市の嶺岡牧野馬土手群14カ所、「周知の埋蔵文化財包蔵地」に
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/femnewsplus/1339842624/
1 生徒もろきみ!φ ★ sage 2012/06/16(土) 19:30:24.51 ID:???
かつて嶺岡山系にあった嶺岡牧のうち鴨川市部分の野馬土手群が、県の「周知の埋蔵文化財包蔵地」として新たに確認された。
嶺岡牧は戦国時代に安房国を支配した里見氏によって軍馬育成のために開かれたとされる。
江戸時代には幕府直轄牧となり、江戸中期には酪農が始まるなど日本酪農発祥の地とも言われる。1911年まで牛馬が放し飼いされていた。
同牧は、太平洋を望む嶺岡山系の東端から県最高峰愛宕山の西側まで総面積1747ヘクタール、東西17キロに広がっていた。
鴨川市と南房総市にまたがっているが、今回は2010年度に鴨川市教委の嶺岡牧再生基礎調査で確認された野馬土手群14カ所が「周知の埋蔵文化財包蔵地」として、分布地図や一覧表に掲載される。
包蔵地内は文化財保護法で守られ、工事の際には市教委と事前に協議しなければならない。
ソース(千葉日報) http://www.chibanippo.co.jp/c/news/local/86532
写真=嶺岡林道から北側を望む。丘陵地でかつて牛馬の放牧が行われていた
http://www.chibanippo.co.jp/c/sites/default/files/IP120612TAN000004000_0001_COBJ.jpg NHK大河を里見氏で
みたいな運動を館山辺りでやってるけど
正直、無理だよ… 関東最大の外様大名
って言い換えるとかっこいいな。 >>368
まあ無理だろうな。
マニアックすぎる。 雪の峠とかへうげものとかセンゴクとか
そっち方面で期待したほうが良さそうな気もする 「真相 里見八犬伝」(典厩五郎)
「太平寺殿のふしぎなるおくわだて」(岩井三四二『たいがいにせえ』所収)
「里見義堯」(小川由秋)
「江戸へ吹く風」(岩井三四二) 「大友宗麟」みたいな感じで正月の特番ならいけるかも。 >>368
千葉のかに道楽の並びにある何かの店の前に、里見氏を大河ドラマに、て幟立ってたな 里見氏で大河ドラマは無理。
ただ、山田風太郎の「八犬伝」を実写ドラマ化なら可能かも。
金曜20時くらいの枠で。 >>136
義頼の歳を考えれば、無理がある…っていうか、どう考えても
青岳たんは、子供を産んだ後に出家したってことになっちゃうから、
あまりにも訳アリ過ぎるwww >>379
そこで出てきているのは「青岳尼2人説」
義明の妹と娘がともに義弘に嫁いでいて両者の伝記がごっちゃになったとする説 母にしろ娘にしろ
男のために俗世に戻るとか清姫並みの執念だな >>379
詳しくは知らんのだが、こんな感じか?
義明妹・・・義弘の若い頃に結婚して義頼を産む。が早世
義明娘・・・出家して尼寺に入るが、義明妹の面影を忘れられない
義弘がうんたらかんたら
…まんま源氏の君のパクリのような… >>383
そんな感じじゃないか?
ちなみに言いだしっぺは滝川先生で、佐藤博信先生もそっちに引っ張られているっぽい。 義頼は、義堯と青岳の子ってのは?
さすがに無理があるか(笑) お盆で帰省してたんだが
館山市内の商店に『大河ドラマに里見氏を』ってのぼりが結構立ってた
>>368は本当だったのかw そういへば、
土岐為頼って1583年没は家臣の文書から確かで、1579年までに隠居、
娘の義堯室の生年が1514年も日我の文書からまずまず信頼できるとすると…
もしかして幻庵級の御仁なの?
上手くすると為頼の先代の存在が確かになりそうな… ロマンチックな研究家の者どもは、
マトモな青岳尼の検証本を初めて出したであろう三山先生に謝れ! >>386
大河は無理だろうが「八犬伝」の映像化(アニメまたは実写)なら可能かも。
もっとも実写化すると、八犬士の半分がジャニーズ枠になると思うが。 何年か前の正月ドラマで滝沢秀明主演の八犬伝が気がする アニメなら豪華キャストのTHE 八犬伝か
あれ中途半端に終わったような記憶があるけど資金不足かな 葵・徳川三代みたいに、里見氏の興亡までを数代に渡って描くならアリかもな
北条を筆頭に、有名所の関東武将も顔出すし・・・・・
風に乗って越後とか出羽まで種飛ばしてるから、なかなかタフな一族よね >>394
その筆頭の北条がすでに一般人には無名ですがな 昨日が『大多喜お城まつり』。
まだまだ、『久留里城まつり』『南総里見まつり』が待っている。 久留里っつったら、
改易になった土屋さんの孫?が赤穂浪士討ち入りの時に隣の家から提灯貸してくれたというエピソード。 >>398
そうそう、久留里城の確か二の丸跡地かに資料館があってみせてもらったわ。なんか結構貴重なのも公開されてないけど倉庫にあった。
中学じだいに体験の仕事もさせてもらったわ。田舎なのにそこだけ湿度調節機能とかあって驚いたわ 【平成24年度安房学講座:第6回】
館山市渚の博物館
11月3日(土・祝)・13:30〜
『安房の戦国時代』
講師:滝川 恒昭氏(千葉県立船橋二和高校教諭)
先着60人まで、参加費200円(資料代) 『読書週間講演会』
【国府台合戦】
講師・滝川恒昭氏
11/24(土)・13:00〜15:00
鎌ケ谷市立図書館・3階集会室
申し込みは、当館まで。
047-443-4946 >>368
こないだ越前一乗谷の史跡にいったらおなじようなことやってた
要するに町おこしの最後の手段として全国似たようなことやってるんだろうね
そういう発想事態が・・・なんだが>間違って取り上げられても長続きしないのに 『動乱の東国史7・東国の戦国争乱と織豊政権』(吉川弘文館・池享)
買ってみた。
義頼は、「義弘と小弓義明の娘との間にできた子」となってたわ。 滝川説を採用した訳ね
もっとも、義明の娘と青岳尼が別人説があるのはここの住人なら知っている話だろうが。 違うとか騒ぐなよ……
ttp://hakken-den.com/ そこから、実は青岳尼は二人だった説まで出てくるわけで >>407
GYAOでやってるから見たけど妖怪ものだったのか
まあ親和性はあるわな >>414
これでどう?
加藤信景
押田昌定
秋元義久
安西景茂 房陽五名臣
・正木大膳亮時茂
・正木左近大夫時忠
・土岐弾正少弼為頼
・岡本随縁斎安泰
・竜崎弥七郎 >>398
つちーはなんで足利一門の系統なのに吉良さんをかばわなかったん? >>420
足利一門の系統とは言っても、元禄の頃にはそういう自覚がなかったのでは? 吉良さんは喜連川さんのことをとても大事にしてたという話もあるよね。
今川、畠山、細川など足利氏一門も多くいるし、比較的連携してるみたいだし。
となりの屋敷にすんでるつちーも足利一門の連携ぐあいはしってても
不思議ではないよね。 >>422
江戸時代の喜連川氏は果たして徳川氏の家来だったのか?と疑問視されているようだが。
参勤交代の義務がないわけで。 御所号の使用も認められてるしね
家来ではなく客将あつかいだったのかな
不思議な藩だ >>417
第二次国府台で、義弘に乗馬を譲って討ち死にした安西実元 ちょいと万喜城址行ってきた
確かに攻めにくそうな場所だな 関ケ原の加増の時に、東北とか信越に飛ばされていれば・・・ 小田原征伐の時に今更小弓公方を持ちだしたアホが悪い >>433
thx
なんか、きもの散歩ってのもやってるな
武士のコスプレあるかのう 白浜→稲村(→滝田→宮本)→金谷(百首)→久留里→佐貫→岡本→館山 里見水軍が、佐竹の零細な水軍と戦って勝ったことがあるそうですが、
詳細を知っている人いますか? 里見はノブヤボのゲームでは一ターン目で滅ぼされてしまうので
昔は雑魚大名なのかと思ってたがそうでもなかったと知った
北条と対等に渡り合えたのはなぜかしら? >>438
@水軍が強かった。
A地形が良かった。 >>437
佐竹とぶつかりそうなのって銚子経由で香取に乱入したころくらいじゃないの?
でもその頃の佐竹って鹿島や土浦近辺を掌握しきれてないきもするが
むしろ千葉と縁戚関係にある大掾あたりが独自に千葉支援で香取海あたりでぶつかっていそうな
>>438
北条は敵が多いけれども、里見は北条とその隷属下の千葉を相手にしていればよかったってのも大きいんじゃないの 安房と上総の間って結構山がちで、佐貫大貫みたいな細い道しかない。
安房国自体が天然の要害と言えるかもしれない。
陸の孤島ともいえるが。 大河官兵衛の同時代を見てみる。
(数字は天正八年時の満年齢)
天正八年当時の当主は義頼(37)。
先代義弘が死んでから梅王丸派と二年争いようやく落ち着いたころ。
家督争いの間は北条氏政(42)と同盟していたが再び反北条方となる。
天正九年には同じ反北条の武田勝頼(34)、佐竹義重(33)の甲佐同盟に加わるが、
翌年武田が織田に滅ぼされ、同盟は破綻する。
本能寺で信長(56)が倒れると秀吉(43)に接近し、
桃山時代を乗り切ることになる。
このあたりの外交行動が義頼の評価になっている。 秀吉に近づいたのは義頼の先見の明だったのか。
それとも小田原を見越し、秀吉から働きかけがあったのか。
本能寺の変とその後の動きを安房くんだりでどこまで把握できていたのか。きになるところ。 でも、天正壬午の乱では北条氏政に組して甲斐御坂峠辺りに一隊を送ったりしてるんだよな。 >>445
里見の場合、外交といっても打てる手が限られていたと思う。 佐竹から東北のの伊達、最北端の南部、津軽まで秀吉についてるんだから
一番北条と近い里見が何も知らないわけがなかろうて 近すぎて北条に敵対できなかったとか?
関ヶ原のときの佐竹が、西軍に付きたかったけど江戸に近すぎて、
日和見中立ぶりっこしたように
開戦準備中から露骨に敵意を示すと、江戸湾口防衛のため
先制食らって保障占領されかねないし 北条に圧迫されて、北条とくっついていた期間っていつからいつまでかしらん? >>371
館山城博物館の中で、NHK「里見八犬伝」の坂本九の立て看板みたな
まだあるのかな >>396
数年前に久留里城跡にいったら、天守閣復興事業の発起人の
一人としてハマコーの名前が記念碑に刻まれていたののを見て萎えたことがw 久留里城天守閣(模造)
せっかく作ったのに、有効活用されてない
小学校の遠足+社会科見学に耐えられるくらいには展示企画を練って欲しい 久留里、まだ天守閣が直らないんだよね。
9月6日(土)〜、館山市博で里見氏の企画展やるね。 久留里城趾行ってきた
めっちゃ良かったよ、素晴らしい山城で感激した
あちこちから出てる湧水が美味しかった 戦国大名で義の字がつくのは大抵足利将軍家からの偏諱だけど里見家は誰からの偏諱なんだろ 滝川恒昭編『房総里見氏』(戎光祥出版社、2014年) >>451
第1話と、伏姫自害の回と最終話を天守閣で放映しているね。
タッキーの『TBSドラマ・里見八犬伝』のポスターも貼ってあったんだが、傷みすぎていつの間にか無くなってしまった。 >>460
尾張徳川家の頼宣と水戸徳川家の頼房の母親の実家は
里見家の重臣の家らしいね。 徳川家
と里見家は同じ新田家の支族の血筋だから豊臣政権下
でも親しく通交していたみたいだよ。
高家として残らなかったのが不思議な位。 ともかく、筆者の質問に答えなければ、まことの質問には答えない。
この男もバカである。
同じ失敗を何度も繰り返している。
こういう失敗を繰り返しても、まことには、学習能力がないらしい。
学習能力がなければ、宅建も行書も取れない。 あれ?里見って豪傑の正木さんがいたんじゃないのでっか? ハードボイルドな火曜日サザエさんの復活を
浜さん、デブの奥さん、ミツコさん、愛犬ジュリー 【安倍マリオ】 本当のサプライズは土管の中からではなくUFOにのって現れる 【マイト レーヤ】
∧,,,∧
(´・ω・`) < 近い将来、欧米で株式市場が破綻すれば、マイト レーヤは直ちに出て来られるでしょう。
(| |)
し--J
最初になくなるのは世界の株式市場でしょう。
差し迫る株式市場の暴落は、他の人々が飢えている間にお金を儲けることの結果です。かれらは自分の財産を隠し、犯罪的雰囲気さえも創出しています。
彼らはただ座って待っているだけです。世界を餌にして生きており、何も還元しません。 来るべき株式市場の崩壊は必然的に多くの失業者を出すでしょう。
日本から始まる世界的株式市場の大暴落
ウォールストリートの大暴落(1997年)につながったプロセスが、いま日本におけるプロセスの中に写し出されており、再び株式市場の暴落につながるでしょう。
終いには政府にも支えることができなくなり、どん底に落ちていきます。日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻し、マイト レーヤは出現するでしょう。
マイト レーヤは何百万の人々に話しかけることのできるようなやり方で、まずアメリカに現れるのです。それから日本です。
彼は日本人ではありませんが、日本語で話すでしょう。彼は、非常に物静かなやり方で話します。彼の最初の控えめな態度に混乱してはなりません。
非常に間もなくマイト レーヤを、テレビで見るでしょう。マイト レーヤは毎日テレビに現れ、質問に答えるでしょう。彼は「匿名」で働いております。
マイト レーヤが公に現れるにつれてUFOが、とてつもない数で姿を表すでしょう。
矢追純一 「宇宙人側からの申し入れは、核の利用と戦争をやめ宇宙人の存在を公表しなさい。ロシアという大国の首相がね、2回も言ってるんだからね。」
竹下雅敏 「どうも日本人のレベルの低さというのは、ドイツはUFOテクノロジーを完成させていたのに、日本は戦艦大和で喜んでいたという感じなのです。」 DAT落ちはしないと思うが、いちおう念のために保守。 去年の7月に初めて久留里城行ったけど、急坂上がってる時がいい感じだったなぁ
天守から、北条が攻めて来た事とか想像しながら景色見たりして感慨深かったわ
また暇があれば行ってみようと思う 本能寺直前とか、信長が最大版図を築いていた時代って
里見の中央との外交はどうなってたのかな?
秀吉と関係強化したのは知ってるけど信長時代は外交関係なかったの? >>479
そういえば里見氏と信長・足利義昭・朝廷の関係は考えたことなかったな。
儀礼程度の付き合いはあったのか?あるいはそれすらなかったのか? 北条とかはもちろん、東北の小野寺・白鳥・蘆名あたりも外交やってるじゃん
信長と。里見の話は聞かないよね 里見氏の当主は刑部少輔とかそういう官位はもらっているわけだから
足利幕府や朝廷と多少の連絡はあったのではないか?
ただし史料が残ってないのかも。 >>474
県内全域で悉皆調査してほしい>茨城県の教育委員会 上総の国の民としては、諏訪原寛幸氏に、義堯公のイラストを描いてもらいたいものだ 武田信長は姓名判断だけなら天下をとれたはずなんだが。 里見のスレがあるとか
地元内房だから久留里のお城のぼったことあるよ
完全なる山城だよね このスレ、仙台藩百姓が書き込みしてたんだな
もう少しであいつの命日か >>489
だと思われる。震災以来、一度も書き込みがない。 第二次大戦の遺族台帳とかの公文書を廃棄したってやつか?
規則改訂でやらかしたらしいけど鈴木栄治くんの差し金だったりしてな >>493
それ
戦没者名簿と遺族台帳91冊を含む500冊を誤って廃棄 神奈川では版画がコピーとすり変わり
群馬では数年前に棟札を紛失
自治体が管理していても色々あるね >>468
尾張じゃなくて、
紀州徳川家の家祖頼宣、および水戸徳川家の家祖頼房の母だね。 諸先輩方に質問なのですが、
下記のような文章が記載された紙を見たのですが、
この「義康第右馬」とは誰の事でしょうか?
ご存知でしたらご教授願います。
「義康第右馬は上總國佐貫城主内藤左馬介政長にお預けとなるが、
㡓るところありて里見姓を避けて所領地名を取りて氏となせり、之れ川名家の發祥也り」 >>499
wikiを見ると正木義断がそれっぽいが
改易後は内藤家長(政長の父)の娘を嫁に迎えて内藤家に仕えている >>500
迅速なご返答ありがとうございました。
勉強になりました。 僕館山民
このスレ>>1から読んでて感涙
皆詳しいなあ 天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の際に、里見義康は参陣を命じられたが従わず、
(ウィキペディア)
参陣しなかった理由はなんだっけ? >>468
里見家は高家として残るほどのブランドではなかったからなあ…。
ただし金森家みたいに旗本寄合席になれなかったものか。 >>503
従わなかったわけじゃなくて進軍してたけども
土岐頼春(上総土岐氏・北条方、兵3000)によって
里見・正木・上総武田旧臣は足止めをくらい、本多忠勝軍が到着するまで領内外へ出れなかった
海路から進軍した連中も小田原に行かないで伊豆でグダグダしてた
単に苦戦していたのか、兵の消耗を嫌って(立地的に尖兵として矢面になるのはわかりきってる)
消極策をとったのかしらんけど あと改易理由はこれだろうな義康のウィキペにあるけど
>里見氏が庇護していた小弓公方・足利義明の遺児頼淳を擁して
>北条氏によって奪われた旧領回復の好機とし、三浦へ渡海進軍
>鎌倉公方家再興を標榜し独自の禁制を発したことが
>私戦を禁じた惣無事令違反に問われたと考えられている
あくまで秀吉主導の「公戦」であるのに
何を勝手に個人的な欲出して私戦しとんじゃいっていう
上の指示に従わず独自の侵攻・支配をしていたとこ 里見に限らずだけど小田原征伐に参陣しなかったとされる家の中で
行きたいのに行けなかった家って結構あるよね ただ里見の場合、水軍だけなら小田原まですんなり行けたのではないかな?どうだろ? >>508
そう命じられていたのに>>506があるから三浦〜鎌倉方面とかに展開してたんじゃない
>>509
白河結城・葛西・大崎・和賀とか東北諸勢は政宗が圧力かけて
俺がうまい事言っといてやるからおまえら参陣しなくていいよってしといて
不参加を理由に改易されたよね
それが原因で葛西大崎一揆に発展するわけだが まことは、空気が読めないものか
この56歳ニートの自演を見ると、依存し合っている
密着しすぎていると言っていい >>510
佐竹と大掾江戸もそれに近いかな
抗争が終わらない大掾と江戸がお互いにうちだけ参陣して相手をぎゃふんと言わせてやろうと
邪魔しあっていて動きがとれなくなっていたので佐竹に秀吉への仲介頼んでいた
しかし佐竹は当然それを握りつぶして両家を追い詰めて、後の常陸一国支配のお墨付きゲットに繋がる まことの自演を見ると、きちんと、返事をしている
が、いざ書き込んでみると、きちんと返事をしていない >>513
江戸家と佐竹家の関係はどうだったんだっけ?
江戸家は事実上の半独立勢力だったんだっけ? >>516
実際には同格でも、形式上は主従なんだっけ? 違ったっけ? 洞の関係は同盟軍みたいな感じで盟主…というか幹事や委員長みたいなのを代表がやる感じかな
結城の場合は衰退が続いて名ばかり化していったけど
佐竹や伊達はもう少し影響力が強い感じ
特に伊達は稙宗が自分を東北の支配者と位置づけて諸家より1段階上に行こうとしていた >>518
伊達はそれなりの官位を持っていたからな。
戦国時代の官位は虚位とはいえ、いちおう位だから。 >>515
1578年時点で江戸氏は2500の兵を動かしてるのでそれなりの勢力。
(同時期に多賀谷氏が3000、佐竹勢が1万5000程度くらい動かしてる)
独立→佐竹に半臣従→佐竹と北条の和睦後は両者に臣従(やや北条寄り)
大掾氏は江戸氏との抗争で劣勢に立たされ
家臣団はしっちゃかめっちゃかで内部抗争はじめて求心力を失い佐竹・北条に臣従状態。
天庵殿は佐竹の抗争に破れに破れて臣従し、一定の権益を保証されるも
臣従から僅か2年後の小田原の役のドサクサで北条に鞍替えして独立運動を開始すべく挙兵。
佐竹に再びコテンパンに破れ改易。
江戸崎土岐氏・下総相馬氏は小田原役の頃は完全に北条家臣化してたので主家と運命を共にした。
鹿島氏は一族争いから衰退し、江戸氏の介入・侵攻を受けて江戸氏の傀儡状態。
真壁氏は1560年頃まで小田家臣で佐竹と敵対してたけど以後は佐竹に臣従状態。 真壁は沼尻の戦いで小田を通じて北条に付いたから
道無が存命中は弱小にありがちな二枚舌を長く続けていたんじゃないかな
しかし25万ほどの佐竹で1万5千の動員はずいぶん数字多いな 真壁氏は佐竹にくっついて秋田に転居したのではなかったか? 真壁は道無が89年に死んで氏幹が名実ともに真壁の当主になったけど
氏幹は常陸に残り弟の義幹が佐竹家臣として秋田まで従った
ここら辺もどうも義の字を偏諱で貰った義幹の方が真壁内で上になった気配 >>521
佐竹「勢」なので、佐竹に属した諸勢力総勢の数値 >>521
>沼尻の戦い
軍事的にはドローだったが、戦後外交で北条氏が勝ったとみてよそしいか? オレ様は考える
まことは、自分の望んだとおりに質問に答えてもらえないから
ゴネているのではないか 千葉県民だが自分は里見より大多喜の本多忠勝の方が先に思いつく 地元に住んでる人はそうだろうなあ
どう考えても里見より忠勝の方が知名度ありそうだし
観光でも推してそう 忠勝に知名度なんかないだろw
八犬伝様様で里見のほうが上にくる
どうせ忘れた頃にまたタレント映画で作られるよ 本多忠勝は戦国武将でトップレベルの知名度だけれども
八犬伝はマイナー作品すぎるだろ >>529
家康関連の話にはまず間違いなく出てくるし
ゲームなどの二次創作でも大活躍
そして地元の治世にも結構絡んでる忠勝と
古過ぎて治世の功績がわからないし
ドラマなんかでもまずでない里見では
一般の知名度は大きく差がある
八犬伝なんて一般人はほとんど知らない 俺はこのスレ覗いてるくらいだし
ノブヤボなんかでは必ず最初に里見選ぶし
地元も千葉な里見びいきだが
知名度で忠勝と争えると思うほど盲信者ではない >>532
> ノブヤボなんかでは必ず最初に里見選ぶし
全国統一できる? 八犬伝がマイナーな作品・・・
現代人が知らないだけで当時のベストセラーやんけ
という茶々はともかく、現代の知名度からしたら忠勝だろうね
さびしい限りだけど、これも生き残れなかった大名の宿命か
小田原時に馬鹿をしなければ、大久保に近づいていなければと選択肢がいくつかあるけれど >>534
>大久保に近づいていなければ
痛恨のエラー 生き残っていたら八犬伝が書かれなくなるだろ
益々マイナーになるだけや >>536
少なくともおらが街の殿様として存在しているかもしれん
北隣の千葉氏なんていまも地縁があるし >>537
常陸牛久の殿様の山口さんはそんな感じらしいな。 相馬みたいなのは別格として、やっぱりそういうのに憧れるw
調べると場所がばれるんだけど、自分のとこは旗本の鍋島がいたのは知ってるが、領地にどれほど関わっていたかがわからん >>533
ちょうどいい難易度
里見そこそこ当主も家臣もいいし
他と協力して北条削り取れば後は楽
後半のシナリオだときついけど
>>534
現代の地元での知名度の話をしているんじゃないのかよ >>540
ノブヤボ補足
佐竹と連携して北条の戦力を削って
佐竹の方に攻めに行ったらその間隙を縫って北条の城か結城とかの城を1個取れればって感じ
あとシナリオによっては武田と北条の同盟が切れるので武田北条でやってる間に伸ばせるよ >>534
現代人でも当たり前のように知っているんだよなあ
八犬伝モチーフの作品もどれだけあるよって話
知らないのは小卒レベル 若い奴らなんてほとんどしらないだろ八犬伝なんて
語感とかは「なんとなくどこかで聞いた事がある」くらいで
里見氏が絡んでいて里見氏が千葉方面の大名だった、なんて
歴史に興味あるやつ以外ほぼ知らんて。
対して忠勝は家康が出てくるドラマ・小説なんかにはまず出てくるし
昨今のゲームやアニメでもモチーフにしたキャラがいくらでもいるわけで
若い層も知ってる 「本多忠勝って知ってる?」なら
「真田丸とかドラマで見た」とか「ゲームで使った事ある」って若い層はいくらでもいそうだが
「戦国時代の房総方面の戦国大名と言えば?」と聞けば
若い奴らなら地元民でもどれだけ答えられるか怪しい 他県民からしたら
本多忠勝 = 上総大多喜はググらないと分からないけどね 地元である事を知らなくても
地元が観光目当てとして担ぐなら
知名度的に里見よりは忠勝だろうって話をしてる
他地方でもそこまで地域に縁がなくても
知名度優先で観光は神輿担ぐでしょ 里見義堯が指揮する軍勢は、たとえ敗戦しても総崩れにならないからな。
統帥の能力があったんだろうなあ。 >>546
バカは知らないんだろうけど
本多=桑名なんですよ
世間ではね
そこに上総なんぞが入り込む余地は微塵もない
大人しく上総武田の宣伝でもしときなさい 本多=大多喜
じゃなくて
大多喜=本多って話だと思うけど? >>548
キリストの墓が青森にもあるように
ちょっとでも関わりがあれば有名なもんに乗っかろうとするのが観光であって
大多喜の方が桑名や三河より本多忠勝観光の本場だなんて言ってないよ
その意味で、上総が戦国大名を観光に担いで「〜祭り」みたいのやるなら
里見や上総武田じゃ誰も来ねえだろって話をしてんだ理解したかバカ キリストが云々〜だとか低能はやたらと的外れな例を持ち出して長文言い訳に終始するという典型 たった五行で長文とは
どっちがバカなんだか
観光の例え話もわからんか つーかはじめから武将や大名としての知名度うんぬんでなく
祭りとして神輿に担ぐならっていう
全国的な知名度の話をしてるんだがな
青森で「浪岡北畠氏祭」と「キリスト終焉の地祭」どっちやるって言われたら
観光課はそりゃ後者を選ぶだろ
同じ理屈で「本多忠勝祭」と「里見八犬伝祭」なら
どう考えたって前者の方が客が来る
当然、映画やドラマなどの後押しもあるけどな 間抜けさを指摘された悔しさから
連レスで発狂して取り乱すキチガイを発見しました
見苦しいので早く里見スレから失せなさい ゲームで全国区って言われても祭りの話だとは思わんな
そこまで言うなら本多忠勝祭りを市に要望出して三年分の予算を出してもらえばいいべ >>554
5行で長文
1日2レスで連レス
おまえはどれだけ文字を読むのが苦痛なの? 里見八犬伝はテレビドラマになれば人気が再燃するからな。
犬坂毛野を演じるのはだいたい女性アイドル。 志穂見悦子が毛野やってた映画をこの間、つべで見たわ
深作欣二監督で薬師丸ひろ子と真田広之主演のやつ
夏木マリが素っ裸になってたのと岡田奈々が可愛かったのだけ覚えてるw >>558
里見八犬伝を知らんかったと素直に認めればいいのに
意固地になってからにw 集客面で考えたらどう考えても八犬伝>>>忠勝だと思うけどね。
おそらく文学が持つパワーを分かってないんだろうけど。 んだから、その時代時代のバックアップによるって言ってんじゃん馬鹿か
>>553でも言ったし>>559は俺じゃないけど「映画化すれば」と言ってる
そら八犬伝だってドラマや映画や漫画家されれば火がつくだろう
ちょっと前までは真田丸とかで知名度上げてたから忠勝の方が客を呼べただろう
八犬伝の文学知名度だけでゲーム・アニメや大河の後押しに勝てるわけないだろ
人口比を考えろよ
刀剣擬人化ゲームができる前に刀鍛冶の見学イベントなんてあったか?
いかに人を動かすムーブがあるかって話だよ
八犬伝くらい知っとるわボケ。この板・このスレにいて知らねえわけねえだろ
知名度の話をしてるんだよ(´・д・`)バーカ
そこらの老若男女に「本多忠勝」「里見八犬伝」詳しく知ってるのはどっち?って
アンケでもとってこいよ。八犬伝が圧勝するとでも思ってんのか池沼 全盛期の加藤夏希が犬坂毛野を演じれば爆発的な人気になったと思われる。 刀剣擬人化ゲームって何wってググたら刀剣乱舞か?
聞いたことはあるけど、やったことすらない
そもそもゲームはやらないからな ゲームとアニメで知名度上げたら人がくるって発想がそもそもアレなんだよなあ 観光としてそういったコンテンツに頼るのは昔からでしょ
大河やドラマ・映画にゲームやアニメが加わっただけじゃん? >>571
大洗駅の中にはいまだにグッズ販売コーナーがあるはず。 アイマスなんかはファンが競馬のレースのスポンサーをしてたりするんだよね >>568
実際刀剣乱舞で寂れた刀鍛冶イベントが復興して
腐女子が溢れたりしてるけどな 大洗って元々かなりの規模の観光地なのにアニオタが俺らが地域経済活性化させてやったみたいに思い上がってるところでしょ >>575
思い上がってるかどうかは知らんが、寂れてて町がガルパンに乗ったのも事実でしょ
そしてそれがうまく填まった 大多喜と館山の違いも分からないアニオタが偉そうにしたせいでスレが荒れてしまってどうもすいません 里見氏自体のぶやぼのおかげで何十万人、いや何百万人に知られたわけで >>580
あれは里見でプレイしても天下を取れる点に無理があるよなあ。 里見義実が鎌倉公方(後の古河公方)・足利成氏に従っていたとされているが、
その安房入国の経緯については様々な説がある。
@ 結城合戦後の文安年間に少数の家臣に守られて安房国入国して安西氏を頼り、
その後神余氏を下克上した山下定兼を討伐して人望を集めて丸氏・東条氏を屈服させ、
やがて驕慢になった安西氏を追放して安房を平定した。その後、足利成氏に招かれて仕えた(旧来の通説)。
A 足利成氏に仕官後、安房国の鎌倉府領の代官をしていたが、享徳の乱で成氏と上杉氏が対立すると、
義実が同国の守護であった上杉氏とこれに従う国人の所領及び彼らの管理下にあった国衙領を接収した。
B 享徳の乱で武田信長とともに房総半島の上杉側国人を討伐する過程で安房国に割拠した。
(ウィキペディア)
個人的には B の可能性が高いと思う。 どさくさにまぎれて安房に入国して割拠したのではないか。 >>583
つまり報道とかであがってたガルパンブームなんてなかったってこと? アニメやゲームの事例を使ってしか
まともに人と会話や議論が成り立たないという
可哀想な人なんだね >>581
そんな事言いだしたら
信長・秀吉・家康以外で天下をとったらおかしいって事になるし
そもそもIFを楽しむゲームだからな
>>585
ゲームやアニメで武将や軍事のにわかファン=観光客が増えたって立証するだけマシだと思うが
里見が本多忠勝よりメジャーだ集客力があるとかほざいてたアホはなんも根拠だしてねえからな 本多忠勝を押している奴がこのスレに何人いるんだ?
それに年間の集客力ぐらい出さないと立証したとはいえないよ
まあ、ただスレ内で話を盛り上げたいだけだろうけど 忠勝、忠勝騒いでる人一人だけでしょ
自分の発言が正しいと思い込んだその結果、スレ荒らしと化してる
専門板にいがちなタイプの勘違い迷惑野郎だね
スレの盛り上げを意図したなんてそんな良いものではない
間違った持論が曲げられずに引っ込みがつかなくなった馬鹿の末路 倉吉に移されてからの忠義タンかわいそす(´;ω;`) >>587
大多喜お城まつり(本多忠勝)2017年集客約2万人
南総里見祭り(八犬伝)2012年時点で31回開催して延べ10万5000人=1回平均3387人
真田丸の影響があるとはいえ南総里見祭りが31年かけて作った動員の5分の1を
1回で達成するんだね へー http://navi.tateyamacity.com/?p=12236
ここのイベント紹介の記事には
南総里見まつり(旧称・館山城まつり)が初めて開催された
昭和57年の第一回目の際には見物客が10万人にも達したって記事出てますが…
第20回目の際には約5万人の見物客が集まったそうです
里見まつりに関しては都内各駅構内でもポスター貼られまくりで告知されて
臨時バスが最寄駅から会場まで何台も運行するぐらいの規模なんだけどなあ
それが何故か「2012年時点で31回開催して延べ10万5000人=1回平均3387人」
冷静に考えたら地域の大きな祭りで3000人強なんておかしい事に誰でも気付く
一般的な大きさの小学校の運動会ですら生徒+父兄+学校関係者で3000人なんて余裕でオーバーするのに 少子化のいま、関係者含めて3000を超す小学校の運動会って一般的かね? うちの近所じゃそこまで少子化してないから
参加賞の記念品、1500個以上用意するよ
その子供達の両親どちらか一人だけ父兄として応援に来たとしても
もう3000人超えちゃうね
そりゃ、少子化で悩んでる都市部や過疎地域じゃ3000人は無理でしょうね
地域によっては超える地域もあれば超えない地域もあって、3000人越えの運動会は一般的とは言えない…で、論争の争点はそこになるの?
里見まつりの動員が平均3000人強だって主張についての話でないの? ごめんね
単純に俺がそこに気をとられただけなんで気にせんで 2014年のブログ
https://4travel.jp/travelogue/10943091
南総里見まつりは規模としては相当に大規模な祭ではあるが
何せ東京から遠い田舎町での祭であるために見物客も少ない。
Webで調べてみたが、ツアーバスも何台もなかった。結局は東京湾フェリーと電車を乗り継いで
館山まで来るはめになった。実際に館山では観光バスなど殆ど見掛けなかった。 そんな個人ブログ貼らんでもYouTubeで動画検索すれば
昭和の時代の古いやつも最新の去年のやつもいくらでも見れるよ
TV局の取材で高所から撮影された映像もたくさんあるから確認してご覧
3000人規模の祭りか数万の人出の祭りか簡単に判別つくでしょ
昼間の武者行列・合戦も見事だけどあの映像の山車の豪華さや花火の規模は3〜4000人の人出でペイできるとでも思う? >>597
語ろうにも実在の人物かどうかわからない。 成義は非実在説のほうが有力なのか
義実が1420頃の生まれで義豊が1495頃の生まれだから、間に義通1人よりも、成義と義通2人の方が収まりが良い気がするのだけど 実在を裏付けるモノが出てこないことにはどうにもならんでしょ 戦国江戸湾の海賊 北条水軍VS里見水軍 (シリーズ実像に迫る016)
読んだ人いますか? >>599
実在の人物だったと思うが、実在した証拠がない。 飛騨の金森氏みたいに、
旗本寄合席で生き残れればよかったのにな。 肥前名護屋城の里見義康の陣屋跡の場所ってわかってるのかな?
家康にくっついて行ったみたいだけど
里見家の京屋敷とか江戸屋敷の位置も気になるなぁ >>607
大してデカくもない一地方勢力だもんね
それでも、豊臣政権下や徳川の下で日本史の現場に居た訳だからロマンはあると思う 里見といえば水軍持ちだったわけだが、
なぜか挑戦には渡海せずに肥前にとどまっていたんだな。
理由はなんだろ? >>609
主力が西国大名だからじゃない?
大船建造命令も西国に出されてた気がする。 >>611
いや、佐竹は弱小水軍で戦わされていたはずだが。
水軍だけなら里見のほうがだいぶ強いはず。 水軍衆でも渡海しなかった連中たくさんいるからな
予備戦力として控えているうちに出撃機会を失ったんだろ よく知らないけど、家康の与力扱いだった可能性はないん? >>612
7 :名無しさん :2014/04/07(月)21:38:53 ID:094WNqGCK
ちなみに戦国時代の佐竹氏(内陸大名ではない)には
海戦を戦えるだけの水軍はなかったが、
河川パトロールができる程度の水軍はあった。
のちに秀吉から
「君のとこは水軍あるんだから、朝鮮に渡海しておくれ」
と命ぜられて四苦八苦している。 里見水軍が佐竹水軍と戦ったことあったのか???
↓
21 :14 :2014/04/11(金)21:33:34 ID:lZzd5CPw2
アマチュアで城の発掘や論文書いてる友人に聞いてみた 佐竹水軍の実態
どちかというと久慈川の警備と塩田開発 塩の販売で儲けてる集団で権利保護のための組織しい
沿岸 河川航行向きの船舶らしい で磐城 里見の水軍に連戦連敗とのこと 渡海に耐えられる大型船はどのくらいあったのかな。
北条水軍が上方の技術入れて安宅船的なの建造してから
劣勢だったとか、何かで見た気がする。 この前、勝浦城址行ってきたけど、中々良い所に建ってたんだな
お万の方の子の、徳川頼宣と頼房の頼という字は、祖父の正木頼忠から一字取ったのかな >>622
要害ではあるが、2度くらい落城しているな。 無謀にも祭りで館山に喧嘩売ったヤツがいるのか
県下でも有数な祭りが盛んな地域だというのに >>607
でも、従四位下、安房守、侍従もらってるからな。
後世の資料だが、こんなとこにも顔が出てくる。
豐太閤葬送の図
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781797 >>627
万喜土岐氏を後北条に引き抜かれたのは痛かった。 小田原征伐でやらかさなければ安房に加えて上総半国も安堵されて25万石ぐらいあったんでしょ?
もったいなかったよなあ >>630
それなら家康にうざがられて(史実より早く)1603年ぐらいに改易されて伯耆に飛ばされていたと思う。 >>629
義堯が北条と喧嘩しなければ、いずれは万喜を飲み込めたんじゃないかなあ
>>631
やらかさなければ改易はないと思うな
1か国半持ちでも関ヶ原での役割は変わらんだろうし、やはり大久保と組むだろうからとばっちりで改易じゃないの? >>628
それ明治になってから書かれた架空の葬列を想像して書かれた作品だよ
歴史資料というより文学資料の方になるかも
まあネットで馬鹿を引っ掛けるにはいい資料かもね だから後世と断っているんじゃないかと思ってみたりもするが 想像復元図といえば、
岡本城か稲村城の想像復元図か模型がどこかになかったっけ? 正木と一口にいっても、
内房正木・一宮正木・小田喜正木・勝浦正木といるが 加来耕三が柳川で大河ドラマをつくってみた
放送日 : 月 18:45〜19:00
※10月7日(月)放送開始予定
出演者:加来耕三(歴史家・作家)
時は戦国時代末期、生涯ただの一度も戦に負けた事のない戦国武将
が柳川にいた。その男の名は「立花宗茂」。
誰もが知る天下取りの乱世に、あまりに知られていない武将の物語
をラジオドラマでお届けし、歴史家の加来耕三が解説します。
https://blog.rkbr.jp/blog/newaut/
↑
テレビドラマ化は無理だろうから
せめてラジオドラマで
「里見家9代」
を放送してもらえないかどうか。 >>153
土気酒井は、
【里見→北条→里見→北条】
じゃないか 上総村上氏や真里谷武田氏、下総米本に村上綱清。
武田家臣の原虎胤はもともと千葉家臣
房総と甲信になにか特別な繋がりがあるのかおしえて
里見氏に詳しいみなさん あと久留里城代に(上総の?)村上氏が就いていたことがあったとか。。 >>642
長南武田も、北条一辺倒じゃないだろ
真里谷との対抗上、里見方になったりしてないっけか 戦国時代後半の安房国には城塞と呼べるほどの防御力を持った城はいくつぐらいあったんだろう?
砦レベルの城はいくつもあったと思うが。 戦国後半の意味する時期が天正年間(義弘〜義頼〜義康期)とすると、
安房限定であれば岡本、館山、それから金山、勝山、大貫くらいしか思い浮かばないなぁ。
白浜、滝田、稲村、宮本の旧本拠クラスの城や、山之あたりはどのくらい保守されていたものやら。
http://yogokun.my.coocan.jp/yogozuchiba.htm 書札留抜書みると足利御一家・新田源氏・上野国衆に特段の何かがないよね 公方奉公衆て野田・木戸・佐々木・梶原・・・で簗田なんだなと
太田は備中守だから江戸・岩付の嫡庶は江戸で確定だろうか
諸国の里見氏・新田源氏・上野国衆に書状を送ることはなかったのかな 東日本の動乱と戦国大名の発展を読んでて驚いたのだが
最近は里見成義実在説の方が有力っぽい? >>655
そうでもないのだが、でも成義の存在を架空とすると里見氏の系譜関係が著しく不自然になるわけで。
個人的には実在したと思うね。 >>656
そうでもないの?
里見刑部少輔が成義ってのは説得力あると思ったけど
じゃあ里見刑部少輔は誰に比定されてるんだ? 鎌倉府の刑部少輔というのは、里見義秀以降の安房里見氏の先祖
たちがよく使っていました。ここに出てくる刑部少輔は安房里見
氏の初代になっている里見義実の父里見家基のことです。
https://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/kanzenban/kan_1shou/k1shou_5/k1shou_5.html
要するに複数の里見さんが刑部少輔を名乗っているので
誰なんだか比定もできないようだ >>658
それは知ってるよ
今話題にしてるのは『東日本の動乱と戦国大名の発展』に出てくる里見刑部少輔宛の書状の話 ネタ元は2015年の滝川恒昭『戦国前期の房総里見氏に関する考察 : 新出足利政氏書状の紹介と検討を通じて』っぽい
新出書状の発見で、やっぱ成義居たわってなった感じかな? 里見成義非実在説が定着するまでに10年ぐらいかかったし
今度の実在説が定着するのにも同じくらいかかるかな
誰かがWikipedia更新すりゃ速いんだろうけど 『東日本の動乱と戦国大名の発展』
だと、巻末の系図では
義頼が足利晴氏女の子、
梅王丸が足利義明女(青岳)の子
になってるな 家に残ってるのは
軒下から見つかった朽ちた火縄銃
タンスから出てきた日本刀
掛け軸
火縄銃や古文書などおもだったものは曽祖父が夷隅郡に寄贈済み
金庫からは曽祖父が国や赤十字に寄付して贈られた賞状やピンバッジ 【訃報】俳優・千葉真一さん死去 82歳 [422186189]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1629382568/
仁義なき戦い、戦国自衛隊、柳生十兵衛、服部半蔵、jac全盛『里見八犬伝』(さとみはっけんでん、Legend of the Eight Samurai )
犬山道節(忠) ってことで.. 六角承禎条書は六角のことだけじゃなく周辺地域のことも触れている
美濃斎藤の場合その出自にも触れている訳だが
東国にもそういう大名がいればなあ 関東でそういうポジションは佐竹か結城あたりになるか >>670
額面通り受け取れば、な。
伝・初代の里見義実の出自からして確定はしていない。
足利成氏の直臣だったからそれなりの者ではあったんだろうが。 越後の国の一族、大井田氏、里見氏、鳥山氏、田中氏、羽川氏が新田に加勢して鎌倉攻めに参加したと聞いた
里見氏って新潟なの?新田氏は上野よね? その辺は里見初代の子供とかが越後に入った血統だとか >>664
そーいえば万木城の隠し港だった場所に土岐氏が大事にしていた飯綱権現祀り直してあるんだけど、その集落には>>672に名前がある苗字の人が今も住んでる
ひょっとして埋蔵金でも隠してるんちゃうか? 徳川の時に里見は万木城入ったかな?
それとも入る前に所領召し上げ喰らったかな? 万喜城だろって思ったら万木城、満喜城、万騎城でもありなのね ニュースになっても地元民か関東の歴史ヲタでもないと読めないな この間のドーベルマンがまた逃げたそうな
この飼い主は飼う資格なさそう
お別れかな 里見って水軍は、強かったけど足軽、騎馬隊は、弱かっただよね
里見より石高が低いはずの成田に陸上戦では、ぜんぜん勝てなかったんだっけ? >>683
薩摩もそうだが地形的に騎馬隊の活用が難しかったのでは? >>684
確か佐竹が里見が裏切ったことにブチギレて氏長を向かわせたことならある 里見が鎌倉まで攻めたって言われてるけど結局ところ鎌倉まで攻めたって話は、太田道灌からパクったんじゃない?
実際に太田道灌の屋敷が鎌倉にあったみたいだし >>688
里見の鎌倉侵攻は;
1. 大永六年(1526)
2. 弘治二年(1556)
3. 永禄四年(1561)
の三回が知られている。
このうち1と2はやや根拠が弱い(良質なものとはいえ軍記ベース)。
長尾景虎の小田原城攻囲と連動した3については鎌倉の寺院に里見方の禁制が残る。
一応は事実としておいていいのではないか。 里見は水軍が強いから本気なら一時的に鎌倉を占拠できたかもしれないが
とても維持できない。 >>690
とういうことは太田氏は、里見氏より強いってことになるのかな?
屋敷を作ることを考えると最低でも数年は、領有を維持しないと屋敷は、建てられないだろうし 太田道灌はいつ鎌倉攻めたんだよ
相模はもとから扇谷上杉氏の守護国だろ ダメだ、我慢できない
太田は扇谷上杉の家臣でこの当時さらに役職上の関東管領山内がいて
鎌倉がどうのこうので里見と太田はどっちなんて話はトンチンカンで意味不明な文章なんだよ >>695
でもそれだとおかしくないか?知り合いが何度か鎌倉市内ある資料館、市役所、寺、神社に問い合わせたことあるけど一切扇谷上杉の情報は、でてきませんでしたよ
北条氏と太田氏の情報出てきましたが扇谷上杉に関して一切情報が出てきませんでした
あと群馬県と川越市の方にも問い合わせだのですが太田氏自体は、河越合戦の15年くらい前から扇谷上杉からほぼ独立状態だったそうです
歴史書には、家臣から途中から同盟扱いなってたそうです
因みに成田氏も上田氏も途中から家臣の扱いから同盟の扱いだったそうです
そもそも太田道灌の墓が今でも残ってる時点で墓を守ってた人が鎌倉にいたのは事実ですね ある程度通史を知ってからじゃないとこのレベルだと会話にならんのだが
どうしたらいいんだ、これ?鎌倉府は知ってるのか?これ 本とか飛ばして問い合わせるという行動力は持ってると言うガチの謎がすごい >>696
まず道灌時代と河越合戦時代には時代的にも時代思潮的にも大きな
開きがあります。15世紀と16世紀の違いのお話です。そして道灌の時代は道灌は関東管領に
属し、大名とは違う立場でした。同じく里見氏も義堯よりさらに上の時代で関東公方
に属し、これもまた戦国大名とは違いました。これは関東を治める鎌倉府崩壊の時期で
ありながら鎌倉府内の政治的争いであり、幕府の支援を受ける関東管領と関東将軍である
関東公方の長い戦いの時代だからです。その中で相模国の守護についていたのが上杉氏の一族の
扇谷上杉であり、その家臣が太田道灌と言う事になります。つまり所領と言う概念も戦国時代
とは異なる形式になっています。そこから伊勢宗瑞と言う者が関東へ進出したことで新たな
形の争いがはじまります。そこからまた少し時代が流れ河越合戦などの時代になり、大名里見氏
や後北条氏と上杉氏の間で奔走した太田資正の時代になるわけです。道灌が鎌倉へ侵攻したかは
不明ですが、関東管領山内上杉氏の家宰職争いの長尾家春の乱において景春方を討伐するために
道灌が相模国へ進軍したことはあると思います。ただし里見氏が真似たという表現は核心を突いて
おらず、里見氏は戦略上行ったと見れると思います。ただし上で書かれている方がいますが、まだ
研究さなかであることと存じます。結論としては太田道灌時代と太田資正時代を混ぜて話すことは
考え違いに至っていると考えられます。また墓にも関しても守った者がいたというのは非常に難しい
所です。数世紀前に活躍した道灌は徳川家康からも上等に扱われ、その後の江戸時代においても有名な
人物であったので、あやかったもの多々あってしまうことは注意しないといけない所であります。
また道灌自体が上の立場の者に粛清されてしまっており、墓自体も非常に繊細な事柄となっております。
おそらく鎌倉という事で太田道灌の末裔とされる、太田資正とは別系統の太田氏の英勝院(家康の側室)が
開いた英勝寺に後年建てられた墓と存じます。 >>701
まぁ結局太田氏が鎌倉で影響力があったには変わりはないってことだな >>703
因みにそれ後世があとから付けたやつやで
当の本人が言った記録は、一切ないで
そもそも武蔵の豪族の大半は、平安時代に将門と対立してた藤原氏集まりやで
因みに、熊谷も比企も太田も成田もみんな藤原出身やで >>705
そもそも三善康信自体が最近の研究だと存在しない可能性の方が高いからそもそも太田資正と三善康信は、赤の他人って見解になってるらしいぞ 館山市立博物館
収蔵資料展
「里見家断絶とその後の安房の人々」
9月19日(月)まで 図説里見氏を買った
謙信無礼すぎてそりゃ関東諸将から逃げられるわ
里見クラスの大名を名前知らないから太郎殿(仮名)でいいかで何度も手紙送りつける神経 >>711
そう考えると成田長泰の謀反ってある意味起こして正解だったかもな 里見氏って元々家格高くないよね
家格上昇は晴氏の娘を妻にしてからじゃないの 里見氏は足利一門なんだからもとから家格は高いんじゃない >>716
里見は、足利一門ではあるけど、ただ足利氏、畠山、細川、今川から完全忘れ去られてたため、足利一門から相手にされてなかった 房総には人為的に川の流れをショートカットした場所が400以上あるらしい 1563年から1569年まで継続的に謙信は里見太郎殿と宛所にしてきたのがわかっている
こうした記し方は他の関東諸将にも同様で里見殿とは記載しなかった
里見義弘は謙信と手切れになるときに
「里見太郎殿と名字書越候」(里見太郎殿と書いたことことに抗議した)
宛名に仮名(太郎)まで記載する方法は薄礼であり身分が下のものに送る場合の書札礼であった
だって。
同盟国のアメリカが日本総理を安倍太郎、菅太郎、岸田太郎言う感じか
うんこりゃ失礼ですわ
国衆ならともかく安房上総の大名の名前知らないなんてありえない
1561年小田原攻めからともに戦った仲だぜ
あんたが超巨大勢力と戦ってて味方してくれる勢力の国家元首の名前知らないとかある?w
例え知らない状態でも適当に手紙書くの?
普通調べるよね?
年賀状も会社の人間、取引先の名前なんか知らないけど調べるよね普通
WW2でルーズベルトがチャーチルとスターリンの名前わかんねーからマイケルとシコルスキーでいいかとはならんし
仮にしらないなら側近に聞くでしょw
里見からの手紙に名前書いてあるだろうし
確信犯だよ謙信
と思ったら幼名太郎なのね
ま、本に失礼だって書いてあるし里見も抗議してるから失礼なことなんだろう 当時の家格は
古河公方
山内上杉
吉良、今川
扇谷上杉、佐竹、大掾、小田、千葉、結城、小山、宇都宮、那須、北条
その他の国衆や↑の庶子家
吉良〜八館は書札礼の上での格差は無し
北条は古河公方からだけ一家扱い(宛所に名字を書かない)
里見はどこから受ける書状も下り書き(宛所が名字+官職・仮名)
義頼の頃に八館と同格になる(宛所が名字ではなく在所の岡本になる) 里見に在所宛で書状出してるのは格下の国衆だった
八館と北条・白川・武田が書状を出し合う際は名字殿
山内殿の謙信が↑に書状を出すときも名字殿(たまに仮名つきの下り書き)
里見の書札礼書では古河公方(披露状)と山内殿以外すべて下り書きにしてるから
この通りに書状送ってたら里見の非礼のがやばい 里見家文書って断絶したとき散逸したんだろうか
江戸期の大名家が廃絶させられたときに家文書がどういう扱いをするのか決まりはなかったのかな 里見の書札礼書
謹上 山内殿御宿所
謹上 上杉治部少輔殿
略
謹上 佐竹右京大夫殿
謹上 吉良殿御宿所
謹上 渋川殿
謹上 岩松殿
国衆レベルの里見からこれで書状が来たらびっくりだな 里見が鎌倉まで侵入できてるの綱成だせえて思ってたけど
三浦半島は氏規と本光院殿衆なんだな >>724
まぁ出来立てホヤホヤの太田に侵攻されるぐらいだからそもそも鎌倉自体守りに向いてないだろうね それは鎌倉時代から言われていたし
だから伊勢も鎌倉は放置していたんだろう 木更津市史デジタルアーカイブなるものが公開されてた REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 犬坂毛野と犬田小文吾のボーイズラブを柱とした「やおい八犬伝」を深夜アニメ化してはどうか。 山田風太郎さんによる小説『八犬伝 上・下』(角川文庫刊)が実写映画化。役所広司さんを主演に、内野聖陽さん、土屋太鳳さん、磯村勇斗さん、黒木華さん、寺島しのぶさんが出演することが発表されました。映画は10月に公開予定です。 久々に書込があったと思ったら映画や小説の話か。
ガッカリした。
そもそも山風の『八犬傳』には里見要素は乏しいことを知らないのか。