【五大老】前田利家を語る二槍目【槍の又左】
家康が最も恐れた男、前田利家。
あと10年長生きしていれば天下も取れていた
というほどの実力者だった。
容姿端麗で平均身長が157cm程度の時代に6尺(約182cm)を誇る類稀なる
恵まれた体格の持ちだった。
槍の又左と恐れられ一兵卒から見事に大大名へ上り詰めた。
そこら辺の実力もないくせに生まれながらにして
大名の家督を継いだへタレと一緒にするなよw
前スレ
http://www2.2ch.net/2ch.html 武力88 統率78 知力73 政治力80
のぶやぼ式だと このくらいかな・・ >>764
なんで出世できたか分からないレベルで五大老次席だもんなw
勝家があの世で色々突っ込んでるだろうな 織田旧臣の代表格を五大老格にしようと思ってたが
丹羽池田森堀長谷川{蒲生重病}らが次々に死んで残ったのが前田というだけと予想 丹羽は後継もいたのに実質的に取り潰しじゃん。
池田は秀次と絡んで踏んだり蹴ったり。 そいつら若すぎて家康を抑えられそうにないし
まあ、消去法で利家 あの時代で利家以外に家康に対抗出来そうなのは景勝か伊達政宗くらいしかいないからな
毛利輝基はあれだし島津は遠すぎる そもそも実績だけで家康に対抗しようとすると
秀吉か2で四国征伐とか大軍率いたことがあり
かつ豊家家来実際に指揮してた弟秀長ぐらいだと思う
家康と同格ぽかった織田の軍団長の人たちは
みんななくなっちゃってるし
明智柴田あたり 利家死後、関が原勃発
利長死後、大坂の陣勃発
前田家はいつも徳川のブレーキ役だった 黒田官兵衛なら家康に対抗できそうなんだけど
大老格にしなかった不思議 官兵衛とか家康より危険だろw
実際関ケ原でもどさくさに紛れて胡散臭い事やってる 二虎競食
あるいは毒をもって毒を制す
あの大老人事には、そういう際どいバランス感覚が必要だったのではあるまいか 黒田官兵衛は最後まで天下狙ってたと思うよ
伊達政宗といっしょ 野望のかたまり 大封与えなかった秀吉は正しかったよ 家康と同年代ぐらいで
抑えになりそうな人物っていうのが見当たらない
前田蒲生堀秀政3人とも生きてたら
家康を囲む形で監視できたかも 秀吉と親友だったのが良かったよな
やっぱり持つべきものは優秀な友達 利家は柴田勝家にさんざん世話になっておきながら、賤ヶ岳の合戦で勝家に対して義理を欠いた!
最後まで義理と恩義をはたすのが歌舞伎者ではないのか?
利家は若い頃、歌舞伎者に憧れてやんちゃをしていた…恩人に対して仁義を通す男こそ利家が理想とし憧れた男の在り方だったのではないだろうか!?
それなのに賤ヶ岳の合戦に於いて、利家は勝家が不利と判断すると兵を出撃させなかった(後に秀吉側に寝返った)
ヨーロッパの騎士道に於いて、利家みたいな利己的な輩は臆病者と卑下される
日本では前田家は幕末まで続き利家は賢いとされているが、ヨーロッパの騎士道に於いて利家みたいな卑しい利己的な輩はカスと笑われる
こうしたところが欧州と日本の違いである 正直、親友と世話になった上司が戦いになったらどっちにつくか微妙なところだよな >>785
直前まで選べなくて
戦況を見て優勢な方にしたんだろうけど
ある意味、戦国武将らしい >>785
裏切りって言えば裏切りだけど、余りそのイメージが無いですよね?
若い頃は信長側近のエリート将校だったのに、浪人したら掌返しされたって回想してますし。
数える程の友人が、本気で心配して信長に取り成そうとしたんだと。
その本気で心配した人に、秀吉と勝家入ってそうなんだよ...
後、秀吉死後の徳川前田の対立も、野望と言うより侠気が理由に見えるよね。
前田が約80万石で徳川が約250万石だけど、前田の方が人気有りそうですよね? 仮に勝家について秀吉が負けたら親友を裏切ったとか言われそうだよね 単なるイメージだけど、利家は勝家を親父さまと呼んで慕ってたけど、
おまつさまが、おねさまとめっちゃ仲良くて利家を説き伏せたって思ってる
おまつさまの発言力は思ったより大きい 利家とまつ見たんだけど、利家の何も考えてなさは異常
清洲会議に信長コスプレで乗り込んで秀吉に偉そうなこと言っときながら、賤ヶ岳でマツケンあっさり見捨てるとか
その後、訪ねて来た勝家にすみません!だけで通るのかと
逆に珍しく成政の方が良い男に描かれてたわ
てか利家以外みんなかっこ良かった なんていうか現実じゃ島耕作みたいなのは出世できないけど
それを体現したところが大きいのかと
ラストマンスタンディングだな 利家が捨阿弥を切った後に柴田勝家や森可成らがをとりなしたってあるけど
これ嘘くせえんだよなあ
関係が全く見えない >>793
実はものすごい嫌な奴で仕方ないよねってかばってくれたとか? 数え年で12歳だから現代だと11歳で妊娠なんだよな
それ以前から犯ってた可能性も有るしマジ犯罪者 そういやまつの年齢ってどこから出てきたん?
戦国時代の武家の男は元服があるからその記録から逆算して大体で年齢出してるんだろうけど
まつの出生は辿れるんだが詳しくは全く載ってないんだよ
結構前田家に関する史料漁ってるんだけどまつの年齢を予想できるような有力な史料ってないんだよな
何か知ってる? 利家と弟の佐脇良之は最初から信長派だけど
前田家の本家自体は弟の織田信行についてたんだよな
この頃から前田家はこういう体制が出来てたんだな
こういう事情をみると利家に家督を継がせた理由がわかるわ
それにしても佐脇が織田家から追い出された理由調べてるんだけどあんまりはっきりしてないよな? >>794
うーんもし庇った説を採用するならそれぐらいしかないかなあ
利家は勝家や可成に関われるようなポジションじゃなかったし納得がいかないんだよな
前田家が出した史料にしかその説は描かれてないし
ただ勝家に関しては前田家に非難がいかないように結構持ち上げたエピソードを入れるのは不思議じゃないけど
森可成に関してはそう持ち上げる必要がないんだよな
ということは利家は晩年までその恩を忘れないような出来事があったと考えてもいいのかな 「利家の槍」初披露 内灘・小濱神社宝物展
内灘町大根布3丁目の小濱(おばま)神社に加賀藩祖前田利家が寄進したと
伝わる槍が8日、町地域防災センターで初めて一般公開された。センターの
新設を記念した企画で、これまで住民に披露されたことのない門外不出の逸品
に見入った来場者は、
「槍の又左(またざ)」の異名を持つ利家と内灘の縁を感じ取った。槍は、同日
に始まった小濱神社宝物展の目玉として展示された。長さ3・2メートル、
刃渡り約30センチで、訪れた住民は「槍があることは聞いていたが、やっと
見ることができた」「金箔が付いていて立派だ」などと話した。内灘町史に
は、利家が1584(天正12)年、宮司の齋藤左衛門政光に、一向宗門徒
を撃退した武功などを賞して槍1振りを贈ったことが記されている。齋藤家
は代々、「利家の槍」を受け継ぎ、これまで住民に披露したり、神社から持ち
出したりすることはなかった。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170409-00471314-hokkoku-l17 >>796
今の価値観を戦国時代当時の価値観と一緒だと思ってる無能乙 >>796
当時はそんな法律もないし双方がよいと思えばよいのでは?
その年の娘が母になるのって体力的にどうなんだろうね
価値観は違えど体格とかは今の小5だろ?
結果的に長生きしてその後もたくさん産んでるから問題なかったんだろうけど… 預言者ムハンマドがもっとも愛した妻アイシャ(9歳) >>802
宮司も戦闘したりするんだな
やっぱりこの頃の宗教団体って武装した集団なんだな 槍働きでは戦国でもトップ10には入りそうな豪傑で
指揮官になっても対上杉武田で活躍して末森の戦いでは三倍の敵に勝つ
割とトップクラスの名将 あと3年長生きしてくれたら、豊臣政権も存続できたかもな・・・ どんな歴史になろうと秀吉と利家が死んだら三成は襲われる 信長の家臣としての働きが玄蕃に劣っていた事実は正確に伝えろよ >>791
いや、利家主役のドラマで利家がダサいっていうのがおかしいっていう指摘だと思うよw むしろ三成がさっさと死んどけば
ここまで拗れなかった説 >>813
それは同意w先に国持大名に玄蕃がなってるから織田家臣の中では玄蕃が上なのは史実 利家は単身な槍働きの豪傑
馬廻り筆頭である
軍団や方面軍任せたら無能
戦人なのだよ >>820
根拠が全くないんだが
どの戦をみてそう思ったの? 利家は末森の援軍とか割と覚悟決めてんなぁって思うけどね
まぁこの前後のgdgdでマイナスなんやけどね >>805
それは、九歳で結婚式やったってだけだから。
予言者は17歳の彼女の膝の上で息を引き取ったそうだから、それまでには結婚を完了してた
だろうけどね。
何時開通済みにしたかは、あちらでも議論有るらしい。
九歳で結婚して良いは、流石に問題有るだろうって事でね。 前田利家主人公の面白い小説探してるんだがなかなかない
津本陽は惜しい戸部新十郎は序盤でダメだった 七尾城跡に行ってきたけど凄い場所にあるな
守りやすい地形だったんだろうけど商業の発展は見込めないから居城を移したんだろうな 前田本家に眠っているお宝で展示会してほしいわ
絶対見に行くのに 新選組なのに 局長
一番隊なのに 沖田組長
誰かツッコム奴居なかったんだろうか当時 歴史秘話ヒストリア、百万石サバイバル加賀前田家三人の英雄たちおもしろかった
見損ねた人は再放送必見だ 利長みなおした >>832
面白かったなあ
利家と鼻毛の利常に囲まれて地味になりがちだから これホントなのか?しかも数え年だから現代だとマイナス1才すると
10才から~14才をコンプして、まつを11才で子供産ませるというロリコン界の教祖様だな
羨ましくてたまらん。毎日10回SEX軽々出来るな
前田利家の妻妾
まつ →11歳 利家21歳
聚福院→13歳 利家30歳
隆興院→14歳 利家36歳
金張院→12歳 利家38歳
明混院→13歳 利家50歳
逞正院→15歳 利家56歳 当時は平均寿命短いからとりあえず若いうちに産ませてたんだろ。 名護屋城博物館の企画展で高徳公甲冑観てきたぞ
末森城の戦いで付けてたキンキラキンのやつ
なかなか貸してくんないらしいね 家康スレと比べたら平和だな
あちらは基地外に乗っ取られてもう家康の話なんてできない 「秀吉どの、親父殿は爆死に見せかけ逃亡を図ったやもしれん。直ちに捜索させたほうがいいのでは?」
「あのなあ又左どの、勝家ほどの名将がそんなセコいまねするわけもなかろうて」
「うっ・・・」
この場面好きだな。柴田勝家を裏切って秀吉に媚びようとしたら
逆に見透かされてて秀吉に諭されて大いに面目失ったという。 こいつが長生きしたら家康の天下はなかったみたいな説あるが、家康が天下獲りに動き出しても日和るか擦り寄っていくようにしか見えない
賤ヶ岳の後、反秀吉派の織田諸将にどう思われてたんだこの人 一応派閥は作ってたんだけどなあ 死んじまったらしょうがない
でも家康より長生きしてたらそりゃ話はかわる 前田の天下あったかも 優秀とは思わんけど輝元よりはマシ
っというか晩年は将の世代交代が進んでたから信長時代を生きてきた家康や利家は武士にとっての憧れだぞ 経験も人望もあっただろう
憧れや尊敬の眼差しで見る人も少なくないと思う
しかし、実際に行動力を示すようなことが余りにない
代表的な動きと言えば賤ヶ岳で戦線離脱したくらい
家康に対抗して豊臣の為に戦う、自分の天下を目指す、こんなこと到底思いもしない人だと思う 結果的に利家は徳川と関わるとろくなことなかったということ
まつの父殺害や佐脇討死や最後のまつの人質など...
それを守ってくれてたのは信長と秀吉だった
例えば利政が三代目になったとしたら
妻が蒲生の娘だから前田家は潰されてたかも 弟は同僚だか上役だかを切って出奔の上での討ち死にだから自業自得だと思うが 前田加賀守102万石…大廊下下之席
前田信濃守10万石…大広間
前田淡路守7万石…大広間 利家はよく身長182と言われるが最近発見された鎧からどうも本当は157(当時の平均)で180は兜込みでだったらしいな。ただ筋肉は凄かったらしい いや着物がどれも大きくて家譜の情報と照らし合わせて180くらいだったはず
兜は元々含まれてない 利長は平均ぐらいだったけど利常はでかかったらしい
それで兄利長も父の血を濃く引き継いでるとして跡継ぎにしたらしい 丹羽長秀や蒲生氏郷が長生きしてたら前田の出る幕は無かっただろう 秀吉の死後家康を抑え込んだドンだもんな
もし利家がもう少し長生きしてたら家康は何もできなかっただろうな 三成は利家ような人望も人格もなかったから失敗したんだよ >>855
スレの始め(11年前!)に論破されてること何度蒸し返すんだよ
他にポジれること無いんか?・・・無いからこのスレ過疎ってんのか 氏郷は本能寺の変直後からずっと秀吉派だろ
利長が裏切りを止める訳あるまい >>855
前田と徳川の関ケ原みてみたい
史実の関ケ原みたいに1日で終わらなく泥沼の戦国時代に逆戻りになりそう 利家は豊臣政権下でもキリシタンを保護してたからな
そういう意味でも味方してくれる勢力は意外と多いかもしれない ・秀吉の軍勢が前日近江にいなかったとはいえ大身の支持者だった中川清秀の軍勢を見殺し。
・美濃では秀吉軍の総攻撃が中止されたため岐阜の織田信孝とその軍勢が健在。
・奇襲部隊に損害を与えないと美濃―近江間の主力行軍が徒労になってしまう。
・逆襲を受けて羽柴軍の方に損害が出た。
・奇襲部隊が先に高所を押さえて布陣し待ち構えている。
この秀吉軍の苦境を覆して勝利をもたらしたのが「後方部隊の逃走(前田利家隊)」であり、それは秀吉が追撃を諦めず奇襲部隊に食い下がった結果として生じた状況が可能にした一手だった。
賤ヶ岳の戦いは後世言われるような「全てが秀吉の計画通り」の戦いではなく、「智謀の秀吉(時代の先駆者)が武勇の柴田や脳筋の佐久間盛政(時代遅れの武将たち)に優った」「羽柴兄弟の巧妙な罠に愚かな柴田軍が嵌った」というわけではなかった。
秀吉は自ら織田信孝の封じ込めに向かい、美濃大返しの後に山岳地の追撃戦から休まず柴田殿軍の殲滅戦、さらに越前侵攻と織田信長譲りの苛烈な采配で自軍と自身の体を酷使した。
秀吉は鬼玄蕃や鬼柴田を上回る猛将振りを発揮して勝利を捥ぎ取ったのである。
対して佐久間盛政たち奇襲部隊は「慢心した猪武者たちが神速の秀吉軍にしてやられた」どころか困難な撤退戦でも秀吉軍の追撃を跳ね返し決戦の構えまで見せるなどよく団結していた上に事前の準備も入念に行っていたことを窺わせる善戦振りだった。
秀吉軍が帰還
→しばらく時間が経ってから奇襲部隊が撤退を開始→秀吉軍が追撃を開始
→奇襲部隊が善戦→奇襲部隊が柴田勝政勢を救援、奇襲部隊が布陣
→羽柴軍との決戦が始まる時に柴田軍の味方が逃走し動揺が広がる
→秀吉軍の攻撃を受けて奇襲部隊が敗走
戦いの決着は翌日の夜明けから更に数時間経って付いた。秀吉帰還から勝敗が決するまでの長い時間こそ奇襲部隊が大活躍した時間だった。 賤ヶ岳は秀吉に政争で負けてる時点で詰んでる
合戦自体やる意味無し >>860
状況から考えれば、徳川前田の対立時点で家康が詰む可能性が大。
史実でも「伏見は要害じゃないからぜひとも大津城に入城してくれ」って京極の勧めを断つてる。
前田が病身でも前田方の勢力が強大でこうなった。元気なら土下座しないと駄目だが、その場合は
隠居か大幅に領地削減され家康の野望は其処で終わるでしょう。
闘うなら伏見で粘るしかないが、その場合周辺豊臣恩顧大名ばかりなのであっさり伏見城の
錆びで終わる。
何かしょぼい戦闘数日で家康死亡とかで大規模な野戦とかない気がします。
関東から増援呼べる流れに成らないと思うから。