◆◇◆幻の戦国大名 出雲尼子氏(其ノ六)◆◇◆
尼子経久は題材として面白いと思うけどね。1代限りの英雄としてね。
後継者は絵に描いたようなダメっぷり。晴久は毛利元就の姦計に引っ掛かって
新宮党事件を起こし軍事力を大幅に弱体化させたし、義久は雲芸和議で石見の
親尼子勢力を切り捨てた結果、全体の不信に繋がり容易に崩壊した。もちろん
2人とも典型的なダメ男で小説の題材には成り得ない。
後は、尼子恒久のマイナーぶりをどう払拭するかがポイント。 尼子家臣といえば山中鹿介って風潮があるな
滅亡後のほうが有名とは 尼子に興味を持ち始めたころは毛利元就繋がりで経久スゲーだったけど
最近は尼子再興軍の方が良いように思えてきた。
ちょっと前までは尼子再興軍なんてヤラレ役で全く活躍出来ずに終わった軍団としか思ってなかったけど
理由としては勝久の言葉だなぁ
『法衣をまとって一生を送るべきはずであった自分を一度は尼子の大将にしてくれたことを感謝する。
今後は命を永らえ、命を大切にするように』
この言葉一つだけで尼子再興軍の印象が変わったわ、勝久はただの神輿じゃないわ。 __ /ヽ / }_, -―- 、
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勝久の最後はカッコいいよね
この後「今まで尽くしてくれたお礼だ」と言って、
部下に刀鎧やお金を与えるんだよな 尼子盛衰人物記の尼子倫久のところに、慶長14年に弟秀久が義久より早く
死んだので大覚寺(応光寺)に葬り… 翌年義久も死んだので…大覚寺の
「正光円輝大禅師」は…義久を大覚寺の開基とした…と書いてある さらにこの「正光円輝大禅師」は経久の子で晴久の叔父であると書いてある。
この人物は政久、国久、興久、定久に続く御曹司なのでしょうか?それとも
謎多き定久なのですかね? それとも森親久? 尼子と大友の反毛利同盟はどれだけ有効だったのかね
結局尼子が見捨てられる形になったわけだが 尼子氏ののぼり旗 旗印って平四目結と花違紋とあるみたいだけど どっちを戦場で使ってたのかな? 時代劇とかだとどっち使ってたかわかる方いますか? BASARA厨のせいで、ゆとりが尼子を鳥取鳥取言うのがマジで腹立つ
滅びろ 尼子氏残ってたら島根は町おこしできたし、もっと発展してるとおもう。 今の仙台があるのは政宗のおかげ。
今の熊本があるのは清正のおかげ。
今の大阪があるのは秀吉のおかげ。
今の東京があるのは家康のおかげ。
今の金沢があるのは利家のおかげ。
ていう感じの
今の○○があるのは尼子のおかげという要素が何一つ無いんだよね。 十勇士を忍玉の作者かなんかにキャラクター化してもらいたい
尼子つながりだし >>808
所詮は無能な主のために孤軍奮闘する人物のイメージだからな。
尼子のイメージUPには全然繋がらん。 >>811
半沢直樹っぽいな…
決め台詞は「七難八苦だ!」かな >>811
あほかおまえ。ちょっと勉強してから言え。
尼子も凄いが、鹿之助の忠臣狂いっぷりもすごい。
金を集める為に海賊までやってるw
あと、尼子狂いすぎて、尼子に鬼台詞吐いてる始末。
ただ謀聖経久もいいが、晴久もドラマチックでいい。 >>807
わざわざ尼子スレにまで出張して来て、無知を誇らずとも好いではないか。
最近「県」の話になると、急に無知を誇りだし、
なおかつその県を貶めるのが多くて困る。
勉強して帰る方が、日本人として誇れるとおもうがね。 尼子の爪痕は島根県内はもとより水木しげるにまで及んでるじゃないかい 戦国武将列伝の大竹直子の荒城の月〜山中鹿介伝〜を読んだがちょっとBL臭かったな…
鹿介は容姿端麗だったらしいが、勝久に容姿秀麗っていう記述あったっけ? 最近ネタ切れみたいだから、
ちょっと史料投下。
足利義晴の御教書をもらった経久は天文7年〜9年に細川国慶や畠山稙長や本願寺と連携し上洛戦をやっていた。
しかし天文10年正月に毛利救援で遠征してきた大内軍を率いた陶に破れた尼子は上洛戦を断念した。 その上洛戦のせいで赤松が将軍に泣きつく
↓
自分自身では何もできない将軍が当時官領代の六角定頼を通して大内に尼子攻めを指示
↓
大内尼子の大激突の流れか 尼子義久の墓が山口県の阿武町奈古にあるのは意外。
どうしてでしょうか? 毛利に下ってそのまま長州に移住していたのか。
子孫は福永性を名乗り、幕末に子孫の福永喜助は自宅を提供して
薩長同盟の下交渉が行われていたというから驚き。
締結された京都の小松帯刀邸ばかり有名ですが尼子一族も
その歴史の変革に立ち会ったというのは興味深いです。 尼子一族は佐々木とか福永とか改姓した家ばかりだけど
尼子を名乗り続けた家はないの? 軍師官兵衛の山中鹿助
「尼子の名で人集めたけど300人しか集まらなかったお…」 明治政府で参議・兵部大輔をつとめた前原一誠は
尼子十勇士・米原綱寛の子孫(血統的には佐世清宗)
長州占領下の小倉や新潟に赴任すると年貢半減の「仁政」を行っている。
同じく長州占領下の浜田は重税だったけど、浜田はツイてなかったなあ。 >>824
尼子性は、600世帯ほどあるし
2000人くらいいるんじゃね 尼子ってピークは200万石くらいだったのか
尼子が勝ち残ってれば安来〜松江は今頃100万都市になってたのかな 尼子が上洛してたらどうなってたかを想像するのは楽しい 様々な本などでは尼子経久・晴久が天下取りのために上洛の意思を見せていた、というのが当然の如く書かれているんだが
なんかソースがあるのかな
調べても出てこなかったから知ってる人がいたら教えて欲しい 尼子経久と同時代に山中鹿之助がいたらもっといいとこまでいけてたかな? 尼子家というのは戦より外交や経済力で大きくなった家だから鹿之助みたいな武勇に優れた武将が1人増えても大差なさそうな気がするけどな、吉田郡山城の戦いに鹿之助がいたら勝てるって訳でもないし
逆に尼子再興運動で担ぎ上げられたのが勝久でなく経久だったらもしかしたら尼子家は戦国時代を生き残れたかもしれないな 経久の凄さが分かる読み物ってなにがある?
小説でも研究書チックなのでもどちらでもいいです。
(既出だったら申し訳ない) >>836
定番だけど中村整史郎の「尼子経久」
PHPから出てる歴史小説だけに結構マジメな内容だけど小説としてもかなり面白い、尼子家好きになるきっかけにもなった >>837
島根の今井書店という書店チェーンのホムペで検索したけど在庫なしだった(笑)
Amazonで注文します、Amagoだけにね >>837
緒形拳に影響されてそれ買ったわ、物褒められると褒めた人にあげちゃう
人ってその本で知ったわ、大河じゃこれなかったから 山中鹿之助を美少女にした尼子再興軍のラノベとか誰か書かないかな?
お世話になります。
私、責任者の加茂と申します。以後、宜しくお願い致します。
http://www.apamanshop.com/membersite/27009206/images/kamo.jpg
浪速建設様の見解と致しましては、メールによる対応に関しましては
受付しないということで、当初より返信を行っていないようで、今後につい
てもメールや書面での対応は致しかねるというお答えでした。
http://www.o-naniwa.com/index.html 事務員 南野 東条
http://www.o-naniwa.com/company/ 岡田常路
このように現在まで6通のメールを送られたとのことですが、結果一度も
返信がないとう状況になっています。
http://www.apamanshop-hd.co.jp/ 加茂正樹 舟橋大介
http://s-at-e.net/scurl/nibn-apaman.html 大村浩次
私どものほうでも現在までのメール履歴は随時削除を致しております
ので実際に11通のメールを頂戴しているか不明なところであります。
・「宇宙戦艦ヤマト2199」 http://s-at-e.net/scurl/YAMATO2199.html
・「蒼き鋼のアルペジオ」 http://s-at-e.net/scurl/ARPEGGIO.html
大阪府八尾市上之島町南 4-11 クリスタル通り2番館203
に入居の引きこもりニートから長期にわたる執拗な嫌がらせを受けています。
この入居者かその家族、親類などについてご存知の方はお知らせ下さい。
hnps203@gmail.com
〈 http://s-at-e.net/scurl/kenmou-post_id_28.html 〉
〈 http://atsites.jp/sate/ImaLin/imaitsuwa/imaitsuwa.html 〉
■http://s-at-e.net/scurl/ia-Pos.html
■http://s-at-e.net/scurl/ia-0074.html >>489
英雄にっぽんってアレ、
鹿之助の魅力を語ろうと思って描いたんじゃないだろ
むしろ作者はアンチだろ…
鹿之助ファンの読む本じゃない >>842
住所ばらすと私的制裁を行ったとして裁判で不利になるのを知らないのか?
馬鹿うぜー 池波は鹿介アンチで有名だね
軍師の死にざまって本でも鹿介を悪く書いている 尼子の領土は江戸時代に尼子の主家の京極家の領土となった
出雲 隠岐 「もっこすって誰」
と、筆者は言った。
「おまえだよ」
まことは即答する。
「じゃあ、オレがもっこすという根拠とソースを出してくれww」
筆者がそう言うと、まことは慌てた。
まことは、筆者をもっこすと断言したが、その根拠を聞かれ、
情報源の提示をされることを考えなかったのか。
この男としては、もっこすスレで、筆者が攻めてくるとは
思わなく、来ても、さっさと退散すると思ったのであろう。 毛利氏を、東は出雲・隠岐から京極氏が、西は豊前から小笠原氏が挟み撃ちにしていた 米原先生の『出雲尼子一族』が吉川弘文館から復刊されてたんだな
ちょっとびっくり >>852
吉川弘文館のHPから目次を見た限りだけど新人物往来社版と内容は同じようなのでさすがにね 竹生島奉加帳(正式名称?)を見れば尼子氏の家臣団構成がわかると聞いたんですが、その内容を掲載しているサイトか書籍をご存知のかた居られませんか? >>857
おお、ありがとうございます
調べたら近場の大学図書館に置いてあるみたいなので行ってみます 禁門の変をやらかした来島又兵衛政久は
尼子経久の子・森親久を祖とする来島(きじま)氏の末裔だとさ ウィキペによると本城常光にはずいぶん子供がいたみたいだけど
長男は父と同時期に誅殺、次男の系統は吉川家臣として存続、とあるのだが
次男・春政、及びその子の家房
または次男以下の男子(隆任、義重、春光)について
なにか伝わっている事跡はありませんか?
常光の失脚を以て、以後の事跡が残らないレベルの身分まで落ちたのでしょうか 出雲市佐田町
「ビタミンの里・よしの」の
きねつきもち
島根県出雲市佐田町吉野475
代表:三浦美代子
電話FAX 0853−85−2644
正月のモチに、吉野の「きねつきもち」
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品種・品名 きねつき餅
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粘りとコシの強さが定評でふるさとの香りが味わっていただけるものと確信しています。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0f0177873250e914bb2c091d384ac516) >>867
諱が伝わっているし、吉川家臣として続いたとあるのだから
帰農はしていないと思うんだけど情報がない 尼子義久の実子とされる尼子智久について、生没年とか、子供の情報とか残ってないですか?
養子に迎えた元知以外の義久実子の系譜について、何かわからないでしょうか 史料集下巻に過去帳かなんかが載ってましたよ
出雲国風土記や古代は研究進んでるのに中世が空洞なのが残念
5年前ぐらいに尼子展が島根県立博物館でやったっきり無しなのもなー 九州民だが、昨日月山富田城行った。
思ったより開けてて良かった。山中御殿まては車で行けるし、そこからちときついが階段が整備されてるから山道に比べれば全然楽。
前日に登った立花山城は階段はあるものの舗装されてない山道できつかった。 「播磨国宍粟郡広瀬宇野氏の史料と研究」や「美作地侍戦国史考」を読むと晴久の諜略で
牧一族や宇野一族が敵味方に別れてるのがよくわかるな
最近見つけた「戦国尼子実記」に国久が水軍の修行をしたことが載ってたがどこまで本当なんだろう 間違えた 諜略→調略ね
>>865 「山陰史談4」の「中世石見国邑智郡における高橋本城系譜について」によると
隆任は父と同時に討死、義重は勝久切腹後に宇喜多家に仕官、春光も父と同時期に討死 連投スマン
>>865 「石見誌」を見ると家房の家系は幕末まで続いてるな あと、鹿介の像は城内にあるのに、経久のは川を隔てたとこにあるのはどうかと思う。
主を差し置いて立てられても鹿介も嬉しくないないだろ >>873
> 最近見つけた「戦国尼子実記」に国久が水軍の修行をしたことが載ってたがどこまで本当なんだろう
尼子は水軍を持っていたんだっけ? >>877
尼子実記によれば国久が「尼子は陸軍は強いが水軍の備えがない」と考え熊野詣に参ったのを幸いに紀伊の新宮堀内氏虎の麾下に加わり
水軍の戦術を学んで天文5年出雲に帰り「紀伊守」を名乗り、新宮で修行した仲間とともに「新宮党」を作ったとか >>874
ありがとう。やっぱ多くは謀殺されちゃったんだねえ
宇喜多に仕官した義重とか記述ないのかなあ
>>877
記録がないけど毛利・大内・山名に水軍の記録があるのに
尼子に全く水軍衆がいなかったって事はないだろうね地理的に 三沢初子と三沢宗直は尼子晴久の女系子孫
尼子晴久→娘(三沢為清室)→三沢為虎→三沢為基→三沢清長→三沢初子
尼子晴久→娘(三沢為清室)→三沢為虎→三沢為基→三沢清長→三沢宗直
初子の子伊達宗贇は宇和島藩を相続。
宗直の孫岩城隆恭は亀田藩を相続。 経久があと30年遅く生まれていたら天下は取れましたか?
政宗があと30年早く生まれていたら天下が取れるより可能性は高かったですか? >>885
細川護煕は宗直の孫岩城隆恭の女系子孫
岩城隆恭→八千姫→細川立之→細川斉護→細川護久→細川護立→細川護貞→細川護煕
※立之の父細川斉茲は大内義興と大友宗麟の女系子孫。 >>887
どっちも微妙だが、史実よりは結果出したかも。 さすがの梟雄の経久でも独創性はない希ガス、信長みたいに年中出兵可能な兵農分離を考えうる武将かどうかだな
結論からいうと2人とも難しいだろうが政宗よりは可能性は高いと言える
1488年生まれになる経久、元就を滅ぼすには十分の時間がある
一方、政宗の場合は、当時絶頂期の蘆名氏にかなり手こずるだろう 新宮党とはどのような勢力だったのですか?
尼子全体への影響は大きかったですか?