四本目の矢・穂井田元清
優秀な兄達に劣らぬ働きをした中々影が薄い元清
その長男、長府藩初代藩主・秀元などを中心とした毛利事情について語りましょう
元清はまだマシだよ
その下の弟達、まあ秀包は例外としてそれ意外の知名度の低さは悲惨 4本目と9本目はまだ陽があたるほうだよな。
出羽とか椙杜とか・・・ 大河ドラマでもほとんど触れられなかったな
輝元と同年代で仲も良かったというが 輝元のよき相談役だったという
秀吉にも親子でかわいがってもらった
ttp://www.asahi-net.or.jp/~JT7T-IMFK/taiandir/x140.html
↑主なことはここに書いてあるね 四本目の矢と言えば、隆家・五龍の局夫婦も「四本目の矢」って言われるのを見たことがあります。
元清と宍戸夫婦どっちが正式に「四本目」の肩書きを持っているんですか?
あと、元就の子供で女の子って五龍の局だけなんですか?
あと9人くらいは全部男の子でいいんですか?
できれば教えてください! ざっと調べてみました。
元就の長女(隆元の姉、母は妙玖)は二歳くらいで高橋元光(興元嫡子幸松丸の母方祖父)の養女に。
1529〜30年あたりに高橋氏を滅ぼすにあたり長女は奪回できず亡くなったと思われる。
次女(母妙玖)は宍戸隆家室五龍局。二人の間の次女は元春の長子元長室。三女はおぼっちゃま輝元室。
三女(母は三吉氏)上原元将?元佑?室。織田方の諜略で夫が寝返った時、三女は毛利方に奪回される。
元就の息子は全部で10人。
継室乃美大方との間に元清、元政、秀包。
側室三吉氏との間に元秋、元倶、元康。
三男隆景と四男元清の間に隠し子二宮就辰。
四本目が隆家か五竜局かはよくわかりませんが元春と五龍局は仲がよろしくなかったそうです。
隆元と隆景の仲もあまりよろしくなかったようです。
三子教訓状の回覧順が隆元からご近所の元春をすっとばして三原の隆景の元に先に回ったのも
隆景を諫めるものだったという話もあります。 >>1
秀元もスレタイに入れておけば、もっとスレも伸びように。 >>9
ありがとうございます!
妙玖の子は女の子も三人居たんですね。
えらく男児の確率が高いなぁ、と思っていたので、ちゃんと女の子も居たと聞けてよかったです。
……そういえば、「三本矢」すら後世の創作なので、四本目なんて未確定に決まってますよね。
すみません。ありがとうございました。お手数おかけします。
兄弟仲が良くないからこその訓戒、ってのは小説で読んだことあります。隆元の死で仲良くなった、とも書かれていた気が…
まあ、同母兄弟異母兄弟が殺し合う時代にしては仲良かったと、自分に言い聞かせておきます。
でも隆景と元清は仲良いですよね?
二宮を一門に加えたのも隆景って聞きます。
庶子には風当たり良かったとしたら、おもしろいですね。 家中の席次と身代を考えたら宍戸のほうが四本目にふさわしいね 隆家の方が上だったんですか。ありがとうございます。
息子共々毛利姓に戻ったり、官位からして「?」でしたが、時間枠の違いだと分かりました。
つまり、元清は2代目「四本目の矢」?
隆景は有能な家宰なんだろうが、子がいないことが原因で鬱屈した
他家にはない一族への処置を生み出してるように見える。 関ヶ原以降も生きてた兄弟は全員毛利に復姓したんだっけ? >>9
子のいない中の丸がデカい顔していられたのが不思議だ。
若い乃美や三吉や隆元妻からしてみたら、このおばさん何?だったかも。 元康は橋に名を残していることから
三本の矢に次いで広島市では知名度が高いと思う。
>>20
江戸時代と違って奥方や側室は子供作ってればいいってわけじゃない
北政所だって子供いないけど終生秀吉から一目置かれてた
家中や奥向きや家臣らの面倒などいろんなとこに気配りが効いて頼りにされてたらしいな >>23
隆元が輝元の髪置きの儀式をすっかり忘れていたのを、注意したのも中の丸だしな
確かに気配り上手だ
しかし歳の違う兄弟ってどんな感じかね
元清から見た隆元、元春、隆景なんて親ぐらい歳が違う訳だし この人を含めて毛利一族って短命が多いな。
長生きといえるのは元就と輝元くらいか? >>19
元氏の子孫は阿川毛利家
広家の次男の子孫は大野毛利家 >>21
ほとんどの人は橋の名前の由来を知らないと思う 復姓の件に戻って悪いが秀包の息子の能久は小早川を名乗ったんじゃなかったかな?
能久をよく知らないから詳しい事はわかんないけど >>32
小早川は秀秋以降は明治になって毛利一族が復活させるまで断絶じゃなかったのか? うろおぼえなんだがなにかのブログに(歴史サイトではない)この地方の伝承紹介みたいなのがあって
「吉川興経とかいう武将がいて正室とは仲があまりよろしくなく、
興経が妾ばかりをかわいがるので正室は入水して死んでしまった。
興経と正室の間には娘が一人いて娘は元就の妾になった」
という、はぁぁぁ?なもの。
興経の正室は宍戸元源の娘。
妾とは千法師を産んだ興経の従姉妹であると推測。
興経の娘というならそうとう若く
たぶんいろいろな言い伝えが混じり合ってこんな間違った伝承が産まれたのだとは思うが・・・
彼なら手をつけそうだと思ってしまった。
元就の弟って相合以外にももう一人いたんだ。
知らなかった。意外に有名?
大河でてたっけ。
>>3
元就のマイナーな息子連中スレ立てたいんだけど、
元清でこの有様だからやめたほうがいいかなと悩んでいる。
個人的には毛利元政のファンなんだよね。人柄が素晴らしかったと。まあ、実際はしらんけどw
ついでに元清と同じかあちゃんだし。
でも、元清といったら就辰か。
ペアみたいなもんだなこの二人。 >>38
スレ立ての話とはちょっとずれるけど
その影の薄い息子達の事を調べたいんだが、ちっとも資料見つからない
元政の人柄の話とか、そういうのはどこで情報仕入れてるんだ?
Amazonで検索掛けても毛利関係は元就と隆景があるくらいで、
隆元や元春なんかは無きに等しいし、その他の息子達は全滅だった
毛利の地元?の広島県や山口県にはそういう資料があるのだろうか >>35
吉川興経の母親は元就の妹だったはず
それだと妹の孫に手をだしたことになるから違うんじゃない
吉川興経の母は興経の生年から計算すれば元就(1497年生)の異母妹ではありえんのでは?
彼女は元就の異母弟、元綱の実妹だったはず。そんな彼女が興経を1508年に産めるだろうか?
老いてますます盛んなのは良いことだ
やはり長生きしないと 42だけど間違えた
父の元経の妻が弘元の娘としか書いてなくて元就の妹かどうか明記されてなかった
元就が元経の妹を娶っていたからそれと同じようにしたのかと勘違いしてた
ただ母親が元就の姉妹であるのはたしかだからあんま変わんないけど 穂井田じゃなくて穂田で記憶してたんだがこっちが正しいのか せっかくの京都旅行で体調を崩し
1人お寺でお留守番の元清age ていうか元清に限らず
輝元は叔父さんたちを頼りすぎ
穂井田元清:1597年8月21日死去
小早川隆景:1597年7月26日死去
元清は隆景の死を知っていたのかな 元清は弟天野元政に「何事も景さまに相談するように」と言っている。
小早川殿とか兄上じゃなくて景さまってのがなんかかわいいな。
元清の母は乃美大方、弟秀包は隆景の養子、妻は来島。
小早川家にかなりちかい人物。
元清の子の秀元が宗家の養子に決まったとき輝元、複雑だったと推測。
(輝元は内心隆景がうっとおしかったようである、という逸話を読んで) 輝元が頼りすぎと見るか、隆景が口出し過ぎと見るかで大分違うよな
実際輝元が叔父を頼る手紙も残っているし
隆景聡明・輝元暗愚の図式が完全に出来上がっているから(勿論二人の経歴を比べればそうなるのは当たり前だが)、
前者の意見になりやすいけど、少なからず後者の面もあると思う
でも輝元が元清・秀元を疎ましく思ってたかな?
年が近いから結構仲良くやってそうなんだが 輝元と元清以降の叔父とはほとんど同世代だから関係はよかったかも。
でも、実子秀就が生まれてからは、輝元、秀元の関係は確実に微妙では?
さらには関ヶ原後の毛利家内にはそこに広家が絡んでくるわけで。
杉元宣、熊谷元直とか内藤元盛(佐野道可)の件と事後の収拾を見てると輝元は好きになれないなぁ。 >>55
隆景が死んでから、隆景の家臣に対する輝元の態度は
ひどく冷たかったような・・・
でも元清と輝元と隆景って3人仲良く京都とか
遊びに行ってる(秀吉に面会だが)のが
ほほえましい
「景さま」はいいな。「丹羽さん」に続く呼称にしたいものだ。
妙玖所生とそれ以外で大きく格が違うのはわかるが、元就の子らは健気だな。 >>58
いや、家臣が隆景マンセーすぎたんだよ
毛利に仕える事も秀秋に仕える事もよしとしなかったのか
井上春忠は出奔してしまったし、鵜飼元辰も出奔しようとしたから輝元が誅殺した
鵜飼なんか元は毛利の臣だったから輝元にしてみれば
お前には絶対仕えねーwと言われてるようなもんだし >>58 >>60
三原隠居時ではなく隆景死後に毛利に戻ってる家臣も多いわけで
隆景系の家臣を冷遇したとか隆景マンセーとかそこまで単純な話ではないんじゃない?
どちらかというと集権化が進む前の毛利家から伊予筑前と隆景についてった人たちが
輝元の下に吉川系を含む集権的な官僚機構を整備してきたところに帰ってきて、
短期に実績のある有能な人たちが大量に増えたことでの軋轢とかかなと。
関ヶ原後の減封がきっかけとなって離れた小早川系の人も多いけど
清水景治や村上景親のように毛利家を出るつもりだった所を引き止めてる例もあるし。 教えてください
>>9
>継室乃美大方との間に元清、元政、秀包。
>側室三吉氏との間に元秋、元倶、元康。
>三男隆景と四男元清の間に隠し子二宮就辰。
妙玖以外だと男子ばっかりですが・・
本当は女子もいたんじゃないでしょうか? つか側室が生んだ娘の話も載せてるし
他の娘は話の流れ的に出す必要がないのではぶいたんでは
メインの話は
>元就の息子は全部で10人。
これだから >>64
上原元将室の母は側室の三吉氏です。
ちなみに元就の子供達の生年順は
高橋氏養女−隆元−宍戸隆家室−元春−隆景
−(就辰)−上原元将室−元清−元秋−元倶−元政−元康−秀包だそうだ。
>>42>>44
吉川興経の母の件だが(自分が調べた範囲内では)
弘元の娘のうち吉川元経に嫁いだのは松姫という娘だけだった。
相合元綱は彼女の同腹の兄であり、その元綱は元就の異腹弟にあたる。
興経の生まれた1508年には元就は11歳。松姫はそれ以下であるから
自分は、松姫は元経の後室であって興経の母は別の人ではないかと想像した。 良スレ発見あげ
興経の書状を見たが太く豪快な字だった。一歩間違えるとヘタ
元就と隆景が綺麗な字、元春のは丁寧なきっちりした感じ
興元のは神経質そうだった
隆元は・・・見たけど思い出せないw 元就から虫けら以下の価値しかないから
どうなっても構わないと言われた人だね。 そりゃあ素のままなら虫けら以下の価値なのは本当だろ。
そこから努力してこうなったわけで。 >>80
努力してどうなったの?
実績をソース付きで
具体的に箇条書きにして
教えて下さい。 伊藤博文の主君である毛利敬親は元清の子孫だからねー。秀就が早く生まれたら明治維新も変わってただろうね。 長州藩は秀元系、秀就系が藩主をやったが、両川は毛利秀元と吉川廣家 そういえば元清が虎捕まえた話って聞いたことあるんだけど、
あれって本当?元清の家臣とかじゃなくて? >>79
そんなことは書いてないぞ
年少=虫けらと表現しているだけであって虫けらの価値しかないとか書いてない
それにどうなっても構わないと言ってるのは毛利家にとって役に立たない存在
になっていたらという時であってあんな意味でじゃない 大河ではスルーされてるな
akと同じ裁量を認められてたのに >>20
中の丸殿は個人的には
妙玖死んだ後に奥向きの事を切り盛りしてた女が、
なんとなくそのまま側室待遇になったんじゃないかと思ってる
同時期に杉の方も亡くなったし、
元就曰く家族間の仕切りもしっかりできるような
賢妻の跡目を継げるような人が他にいなかったのではないかと 元清の養父元祐は三村の庶子だったから分家したことで穂井田を名乗ったんだよね。
>>90そう。敬親は元清の子孫なんだよな。 >>9
五龍タソは実は隆元より上なんじゃ??って説も
いちおうあるそうで… 確かにその方が宍戸隆家とも歳が釣り合うんだよな
ひょっとして、高橋に人質に出た謎の娘=五もじという事もありえなくはない
ごく幼いうちに人質に出されて、何とか死なずに家に帰れたが
お年頃になったら、(毛利家とあまり仲のよくない)宍戸に嫁に出される
波乱万丈半生じゃ、鼻っ柱も強くなるし、
元就も手紙で「彼女を哀れに思ってる」と書くのもわかるなとw 穂井田は勝ち組
<豊臣大名としての石高>
毛利隆元 − 毛利輝元 (安芸広島120万5000石)
吉川元春 − 吉川広家 (出雲富田14万2000石)
小早川隆景 (筑前名島37万1300石)
二宮就辰
穂井田元清 − 毛利秀元(周防山口20万石)
毛利元秋
出羽元倶
天野元政
末次元康
毛利秀包 (筑後久留米13万石) 死んでなければ秀元と広家の対立を抑えられたんじゃないか 一度は養子に入ったから自分は別格と思う元清と
同格と見る家中
元清が長生きしても変わらん気も 隆景が乃美大方に対する苦言を直接言わずに元清、元政に言ってたりする REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担