伊勢・志摩の小勢力 神戸・長野・関・細野・九鬼他
信長はなぜ最初に斉藤を攻めたんだろ?伊勢の中小豪族の方が楽なはずだろ?
1568年の時点で尾張、美濃。効率悪い。 >>3
斎藤を残しておくと後顧に憂いがあるからではなかろうか? >>4
竜興は積極的に尾張に攻め込むタイプではないし。
伊勢の雑魚から潰して、美濃に攻めたほうが良かったような。 このスレで扱うような連中は、尾張までちょっかい出すことは無いだろうな。 >>3
北伊勢は六角の勢力圏内だから、先に本拠の近江を攻めただけでしょ >>7
そういや、関氏は六角氏の影響下にあったんだよね。 神戸は「かんべ」と読むけど、兵庫県のは「こうべ」。語源が違うのかね? >>3
北伊勢は美濃制圧以前に制圧済みだったはずだと思うが その前に蒲生定秀がちょっかい出してたはずだけど
>>1
国府とか雲林院とか山路とか鹿兔ナントカとか、正直名前も覚えられんほど濫立
長尾種常みたいな名前の奴もいたな しかし北伊勢はなんでこんなにカオスなんだw
北伊勢を束ねるような大名が出なかった理由が分からないのだが。 室町時代の伊勢国守護はころころ変わりすぎ。
一時期北畠だったけど一色に変わって、また北畠に戻ってるし。 >>11
関氏と蒲生は姻戚関係
神戸氏と六角は敵対関係、のち和睦
ちなみに雲林院は長野家臣で山路は神戸家臣、長尾は旧姓が山路 北畠と六角の緩衝地帯になってたからじゃない
それぞれの影響があるんだが
押し切れないから小豪族の天国かも
織田と斎藤の国境にもそんなのいたなあ 伊勢は本願寺の門徒衆が多くいたと思うが、その辺りのことは影響してるだろうか? >>12
四日市人だが、外部要因でなく気質から見ると、近場のライバルには足を引っ張りたくなる傾向があるからという希ガス。
「あんな偉そうなヤツに従えやんわさ」てな具合。
そのくせ、外部からの強そうな者には尻尾を振る。
>>14
北畠は南半だけの守護じゃなかったけ?
北半は、仁木、土岐、一色ところころ代わったが。
あと、幕府奉公衆だった国人も多かったと思うが。 地元の人はどの程度、こういった小勢力について知ってるんだろ?
江戸時代の大名じゃないから、かなり低そうだが。 知ってるのは郷土史家か、それに準ずる人だけ。
漏も含めて一般人はほとんど関心ない。 愛洲氏は観光名所で有力土豪であるかのように宣伝されているけど
実際はどうなんだろう。 昔、家にあった四日市の歴史本で北勢四十八家とかあったような。
あの本、どこいったかな〜。 神戸家には織田信孝、長野家には織田信包が入嗣。
他家には織田から一族が送り込まれなかったの? 九鬼は紀州の九鬼浦からだろ
志摩に養子に来たらしい
しかし志摩ってよくあんな狭いとこに13人も豪族がいたもんだな
海からの上がりがあるから陸地の面積は関係ないんだろうが… ・リアス式地形の関係で、各地区が分断されている
・文化や気質もちょっとずつ異なる
・地区内の団結力は凄まじいが、他勢力とは排他的
なので、それぞれ代表が必要になるんだと思う。13でも少ないぐらいだ。
あと、普通は石高=戦力となるが、志摩では
平地の少ない寒漁村ほど、日ごろ死ぬ気で団結して漁をしている分海戦で強い、という
逆比例の傾向があるので
小勢力でも簡単には他に吸収されない。 こんなスレあったのか。
伊勢国神戸の出身だが、史料が圧倒的に足りなくて語るのは難しそう。
勢州軍記と伊勢国司記略以外何かあるんだろうか。
地元民の関心も、びっくりするぐらい薄い。神戸城が、5重の天守が築かれた織田家の重要拠点だった事を誰も知らない。
神戸の由来は地名で、文字通り神社領を表す。コウベも語源は同じで、カンベの音便。
北伊勢を束ねる勢力が出なかったのは、
>13>>16と、どんぐりの背比べで他を攻めるような余裕のある豪族がいないのが理由と思う。
信長が美濃より確実に弱い相手しかいない北伊勢を後にしたのは、一向宗門徒のいる揖斐川、長良川、木曽川下流域を
渡るのが難しかったからではないかと思ってる。美濃からなら船を使わずに攻められるし。
治水がままならなかった戦国期に、美濃と伊勢に隣国という感覚があっただろうか。 >>38
感覚があったかどうかは不明だけど、大垣から桑名まで揖斐川を渡らずに進めるのは現代と同じ。
川が常に氾濫してるわけでもなし。
一向宗がいてもいなくても船に乗らないと渡れなかった尾張と伊勢に比べれば、
陸路の方が軍を進めやすいかと思うだけ。 >>9
神戸(かんべ)は「神様に仕える人が住むところ」って意味。 北畠が伊勢志摩を統一していたら織田信長に攻め滅ぼされなかった >>41
統一してたとしても、北伊勢という美味い土地を信長が見逃すはずは無い。
北畠は権威はあるけど領有する石高の低い家だったからこそ、滅ぼさずに降伏させたんだと思うし、
力のある大名だったなら滅ぼしてたと思う。 晴具タソの頃は紀伊大和にも進出してたんだがにゃあ。 >>37
そもそも旧国境線では、美濃領は南西に延びて尾張と伊勢の間をほとんど分断している。
さらに言えば長島は津島の交易を巡って親父の代から敵対関係。桶狭間の時点でも長島
豪族は今川と結んで熱田に攻撃を仕掛けている。
桶狭間以後の時点では、信長はまだ伊勢に侵攻するルートがなかった。それだけ。
信長が伊勢に介入するのは、美濃南西部を抑えて直接伊勢に進めるようになってから。 大王:九鬼嘉隆 「絵描きの町」で売り出してるけど実際灯台と干物ぐらいしか無い。
磯辺:九鬼嘉隆 スペイン村で有名だけど、成年男子諸君には渡鹿野島に行きたいんじゃない?
鳥羽:鳥羽監物 マリンスポーツの町。鳥羽水族館は一見の価値あり。
安楽島:荒島左門 安楽島は島じゃなくて半島なんだよ。知ってた?リゾートホテルが大量に有ります。
加茂郷:田城左馬之助 加茂・松尾・白木・五知・沓掛はまさに陸の孤島。
英虞:向井正綱 伊勢志摩ライナーでマリンランド行って合歓の里で遊ぶと良い。
千賀:千賀志摩守 千賀は相差の西に位置するが、今ではゴルフ場程度しかありません。
国府:国府大膳 国府といえば海水浴場です。ここらへんの海は本当にキレイ。
甲賀:甲賀雅楽 国府の南。単なる漁港。
安乗:三浦新助 フグ。以上。
的矢:的矢美作 カキ。以上。
和具:青山豊前 志摩の南端。それなりに大きそうな町だがよくわからない。
越賀:越賀隼人 志摩の先端。志摩半島は嫌がらせのように湾曲していて交通の便が最悪。
田丸:北畠具教 玉城のド田舎。松阪や伊勢の方が10倍大きいのにどうしてこんな所に住む!? お伊勢さんに習合された鎌倉以降の伝承に則るからでしょ。 >>50
愛洲が抜けてましたか。これは失礼。
たしか剣豪の祖先だという人ですね。
あと関係ない話だけど、どうして二見に安土城があるの?
滋賀に作れよ滋賀に。 和歌山の熊野神宮にマナカナが訪れる番組がNHKでやってて、二人を出迎えた宮司が九鬼家隆って人やったから、九鬼氏と何か関係あるんかなと思って調べたら末裔やったわ
何で九鬼氏の末裔が熊野神宮の宮司になってるんかと思ってたら
九鬼氏ってのは豪族になる前は熊野神宮の神官やってんな
末裔が現在になって本来の職に復帰したってことになるな 織豊〜江戸時代初頭くらいまでで
九鬼家に仕えた諱の判明している人物って誰がいますか?九鬼一族以外で。 九鬼一族の家宝とかが見学出来る資料館とか無いのかな? >>45
というか、滅亡寸前まで北畠家は大和南部と紀伊東部への影響力を失ってない
信長の上洛直前には、大和で宇陀三将使って松永に味方して、三好康長に報復されたりしてる >>47
>>55
九鬼と関以外の家は江戸時代どうなってるんだろ? スレタイに上がってる連中の家格順はどんな感じだったのか? 木造/田丸/星合/藤方が旗本に残ってる
長野も星合の庶流扱いで旗本に復活 >>66-67
北畠ゆかりだから、旗本に取り立ててもらえたのか?
>>68
信雄派として同族裏切ったからでしょ。
実弟である具政が裏切る遠因の田丸も何故か裏切り、しかも北畠一族虐殺の実行犯になっているけど 九鬼さんは三田藩では池に船を浮かべてシュミレーターしていたんですってね? >>74 そうだよ。三田大池です。池や掘り(今は用水路)に囲まれた中に小学校(三田城跡)があります。私の母校です。学校を下ると九鬼邸跡があります。なんと、洋風建築で重要文化財に指定されてます。
社会人になり、最初の出張先が偶然、三重県でした。 >>48 それは無関係。現在は、九鬼産業グループ、三重県を本社に東京・大阪・福岡・宮城・岐阜や海外でも手広くやってる。製油工場からスタート。九鬼のごま油は最高に美味いぞ。 長野氏は北朝の雄だよね。
なんで没落したんだろう。 所詮守護にはなれなかったことと、
北畠がうまく北朝に取り入った、ってのもあるかな 長野県の差別を広めている人間は長野県の災害スレ住人(アネサン一味)。現在も差別を広め中
長野県の災害総合α3 http://uni.2ch.net/test/read.cgi/lifeline/1327044464/
長野県の災害総合α2 http://logsoku.com/thread/uni.2ch.net/lifeline/1324864128/594
政治の話、災害に直接関係ない話に辟易した住人と
どうしてもその話をしたい住人(アネサン一派)で
「政治控えめ」「災害総合6」にスレ分裂
↓
災害でアネサン(「前スレ1」という呼称でスレ主きどり)、東海、忍法帖の3人が
つるんでの決めつけ、叩き、追い出し
アネサンが叩かれると他の2人の親衛隊は即座に暴言、B扱い
控えめの住人だと決めつけ、アネサンと東海一味の裏でのヲチ
↓
ほかの住人の3人に対する不満が爆発
↓
アネサン、αを独断で立てて出て行く宣言、災害スレ削除申請
(削除板では「追い出された」と被害者づら)
↓
当然批判続出
アネサンの金魚のフンは捨て台詞でαに移動(その後どこいったw)
アネサンは晴れて自分のスレ獲得、ついでに親衛隊も追放w
↓
アネサン、さらに8を独断で立てる
が、アネサンが「削除権」を持った8には誰も行かない
↓
行き場を失った野次馬は控えめの庭に目をつける
αvs控えめの図式を作りたくて必死
庭が工作員だということにしたくて必死で布教活動中
↓
アネサンの悪行を全てなかったことにしたくて必死に工作中
↓
差別を正当化して弁護士に相談
長野県の災害総合6 http://logsoku.com/thread/hato.2ch.net/lifeline/1318785722/302
302 : 地震雷火事名無し(東海) : 2011/10/22(土) 23:22:29.35 ID:Lpw4fXCt0 [3/4回発言]
あー初めてじゃない人だったか
同和は適度に差別をキープせんといけない
無くなると自分らから差別求めて因縁ふっかけてくるからな 長島城主だった伊藤氏ってもしかして伊藤忠清の系統? 九鬼って昔同級生にいたけど、九鬼嘉隆の末裔かしらね >>13
むしろ束ねる大名があった地域の方が珍しい 今日、小田原城に行ってきました。
秀吉の小田原攻めの資料が貼ってあり
そこに九鬼水軍の名前が記載してあって
ふと思いだしたのですが、
私の祖先を辿ると、九鬼嘉隆氏の養女(名前不明)が
出てくるのですが、その養女の名前を調べる方法は
無いでしょうか? 趣味の戦国時代板か
学問・文系の日本史板か
テレビ等の大河板
あたりで聞いた方がいいと思う。
ただ女性人名はほとんどわからないと思う。
国会図書館で寛永諸家系図伝を調べるとか方法がないわけじゃないけど。
ひょっとしたら三重県史や鳥羽市史や
九鬼家が残った摂津国三田藩や丹波国綾部藩のあった市町村史を漁ればわかるかも。 つかここ戦国板だったわw
なにか他にヒントがないと難しいな。
言伝えだけで事実かわからんケースもあるし。 半年レスを待っていました。。
>>91 養女の嫁ぎ先
関ヶ原で義父九鬼嘉隆と共に西軍に属した新宮城主の堀内氏善です。 選抜甲子園のさっきの試合で勝った熊本の秀岳館の4番が
九鬼隆平という名前だけど「隆」まで一緒だと九鬼嘉隆の子孫かな
学校は熊本だけど大阪出身みたい なにげに良スレ
俺の地元は昔、日本のデンマークと呼ばれていたんだけど、
志摩は気候や地形や歴史的に見ても日本のスペインと言えるよね。
俺の地元も志摩スペイン村みたいな、デンマークをモデルにしたテーマパークあるし。
ちなみに、ドンキホーテ型という性格の対照の言葉がハムレット型らしい。
スレチだったらごめん、ただ戦国時代ってだいたい旧国名あたりのエリアが
ひとつの独立国だったわけでしょ。
現代でも地域特有の文化があって、上に挙げたような風土に根ざしたテーマパークの違いというか
そういう個性って面白いなと。戦国時代の魅力ってそこだよね。
もっと伊勢志摩の歴史も勉強しようと思う。 >>90
さすがにもう見てないかな。
実際の記録に残ってるのは、通称(三条の方とか大蔵卿局とか)や戒名(見性院とか芳春院とか)、洗礼名(ガラシャとかマリアとか)
で、本名は分からないのが普通。創作でつけられた名前が定着したのも多い。
なので、調べるにはその人のお墓を探すぐらいしかないと思う。大変だけど。 他スレで、北伊勢の豪族衆が長島一向一揆の傘下に入り、
信玄の西上作戦に呼応して美濃を攻める予定だったなどと
トンデモ珍説が披露されました。
これってどうなんでしょうか? 長島に参加しているのは北伊勢といっても精々桑名郡と員弁郡の一部ぐらいだろ >>104
勢州軍記には、一揆勢が近隣の諸島を横領したと言う記述と
一揆勢の城が織田方によって5つほど落城した記述があるだけだった。
今の桑名市と木曽岬町にある城だけで、員弁郡すら入ってないし、
一揆方が奪って拠点にしていた城もあるようで
そこの城主が一揆に参加していたかどうかはよく分からない。 信長公記にあある深谷部の近藤氏は桑名近藤氏だから、員弁の近藤氏とはまた別か。 >>106
北伊勢の豪族については良く分からない事が多く、
永禄9年に滝川に滅ぼされた下深谷城主の近藤氏と、ここで出てくる深谷部の近藤氏が
同じなのか別の一族なのかすらもよく分かっていません。
北伊勢の諸将が人質を出して織田軍に帰順する記述も、
そいつらはすでに永禄10年に織田に降伏してるので、一揆方に寝返っていたのが帰参したのか、
そうでなく改めて忠誠を誓い、協力を申し出てきたのかも、信長公記だけでは判別しようがないです。
勢州軍記にはその辺りの記述はありませんが、
長島と同じ伊勢国にある浄土真宗の大寺院、高田本山専修寺が、
長島一向一揆に味方しなかったという記述があります。
同じ宗派の寺院にすら協力してもらえなかったのに、どの土豪が一揆に協力するのか、かなり疑問があります。 専修寺は高田派なんだから長島に味方しないのは当たり前
三河一向一揆の高田派寺院みたいに一向宗と積極的に敵対しないなら大人しいもんだ 本願寺派と高田派なんて典型的な対立関係にある宗門じゃないかな?
浄土真宗という同じニッチだから他の例えば法華宗なんかよりもある意味嫌な敵 >>103
お前の言う通り、トンデモでしかない。
そもそもあんな奴の言う事を真に受ける方がおかしい。 木津川口(第一次)の織田水軍の指揮官に九鬼がいたってウィキペになるんだけど
当時、九鬼ってそんな権限あったの?
一次で摂津河内衆を出して敗れて
んで、九鬼も含めた伊勢衆を第二次で動員した、という形ではないのでしょうか? >>112
第一次木津川口には九鬼は参戦してないよ。
その敗戦を受けて、九鬼嘉隆が抜擢されて大船を作ったんだし。
摂津衆、和泉衆が負けたから、伊勢志摩衆が起用されたという認識で合ってると思う。 よそ者の伊勢志摩の連中が木津川口に動員されるってのも追い詰められた話ではある >>114
主力の志摩水軍引っ張り出して織田軍必死だなw ってぐらいで、
追い詰められたってのは違うな。 追い詰められて言うより、ようやく本気になって子飼いの水軍も動員したって感じか? 子飼いってほどでもないだろ
摂津衆が壊滅状態になった(もしくは戦力が半減した)から
領内の水軍衆をかき集めたってだけの話かと思う
そもそも第一次は佐久間に任せていたところ
不意打ちに近い感じで急襲されたから負け
そこから警戒はじまって戦力増強したところに
また同じ規模できてるから二次で負けたってだけ
負けたというか兵糧入れに失敗しただけで
村上水軍は壊滅していないし、その後も本願寺に兵糧を入れてる
大敗とか戦力半減とかして以後、兵糧入れができなくなったというわけではない