安東・戸沢・小野寺など出羽の地味な戦国大名 参
安東(秋田)、戸沢、小野寺、大宝寺(武藤)、浅利、由利十二頭など
出羽国の地味な戦国大名や豪族について語る総合スレです。
最上などの有名大名は、なるべく個別のスレをご利用下さい。
■過去ログ
【最上】出羽の戦国大名 弐【秋田】
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156478887/ 戦国時代の出羽での代表的な城攻めや籠城戦というとなにがあるの? 陸奥を含めて拡大中の伊達の一強だったからな出羽は。
安東は十三湊が失われ南部により津軽を奪われてたし
小野寺は統治能力が消失し衰退中。
あとは下克上らしい事件もなく一揆連合もロクに組まずに小国人たちが昔ながらに割拠してただけ。 見どころなら
戦国終わったあとだけど
佐竹の石垣を使わない土塀築城術がかいま見れる久保田城や
佐竹の最前線だった横手城はかなり良いかな。 安東は愛季の時代に檜山と湊を統合して
阿仁方面に豪族連合を家臣の南部や嘉成に統括させて浅利と戦わせながら
鹿内巡って石川高信&南部信直とオセロゲームして結構忙しいと思うが
そもそも下剋上がないから戦国時代じゃないって認識がおかしかろうよ
全国的にみても守護や守護代による上剋下の方が多いんだし >>310
安藤が十三湊を南部に奪われた時代って享徳の頃だろ
その頃の小野寺はむしろ鎌倉期からずっとジワジワ勢力を拡大していった時期だと思いますよん
平賀氏(=小笠原氏)が安芸国の経営に専心した為に、小野寺氏が伸張した頃だしね
一方で山北群では国人の中から戸沢氏や六郷氏、本堂氏らが抜き出始める
小松山城や千屋城はこの時期に築城されているし、梅沢氏、白岩氏は戸沢氏に半家臣化
小野寺の統治能力が消失するのは義道の代で、戸沢氏との合戦に勝てなかった為に求心力が低下
そのため国人一揆である由利衆と戦線を交えることになり、ここでも敗北してボロボロ
城攻めじゃないけど、羽後で度々野戦の地になるのが刈和野じゃねーかな
南部vs湊安東、南部vs小野寺、小野寺vs戸沢、小野寺vs安東…etc 出羽は陸中とは違い小田原参陣してるから
淘汰が進んでない。 >>319
海路で上方の政情を入手しやすかったからな。 斯波、浪岡北畠が滅んだ時から室町権威は無くなったはずなんだが、各地の動きは鈍いね。
これには気候的な要因も大きいだろうけど。
冬の雪で動けない期間が越後等よりは長いだろうし、特に山間の地域は。
今年の東北地方のドカ雪を見てそう思った。 利用価値自体は継続して存在してたと思うし
それは室町権威というよりは上方(京都)とのパイプラインであったと思うよ
浪岡北畠を保護した安東愛季の意図なんてまさにソレだよね
本来は将軍に近従してた湊家とは別に、檜山家独自の繋がりが欲しかったんだろうし >>322
日本一の豪雪地帯の越後ですら謙信は大雪の中、関東諸将に懇願され三國峠などを越えて越山してるから
軍事的要請があれば行動可能だよ。
吹雪の雪山行軍中に書いている書状で謙信は手が震えて字がうまく書けないと書いてるけど。
あと出羽の最上は斯波支族の出羽探題家だから室町権威の生き残りでしょう。 >>322
浪岡北畠には南部も援助してたし、
北奥羽と出羽の大名にとっては上方との貴重なパイプ役だったのは容易に想像が付く。
四人いる奥州探題だからなー
権威というより神輿だよな >>322
> 斯波、浪岡北畠が滅んだ時から室町権威は無くなったはずなんだが
室町幕府がグロッキーながらも存続しているのだから
権威が大きく低下したとはいえゼロに落ち込んだとはいえない。
というか、南北朝から室町期の負の遺産(中央勢力からの色々な手先が赴任し混沌とさせる)を一掃させようとはしてなかったよね。
土豪は土豪なりに誰につけば得かを考えていたようだし。
とはいえ…この時代のこれらの地域は決定的に資料が少な過ぎなんだよね。 でも南北朝の時期にはいた奴らが結構消えてるんだよな
特に国境沿いの鹿角の連中は
成田、安保、奈良、秋元……どこいった 六郷が有力文官御家人二階堂氏の子孫て仮冒でしょ?
ただの土豪じゃん。 自称菅原氏前田や山内みたいなものか 居住者を変えると名字まで変わるからな・・いや『苗字』っていうぐらいだから土地が先か名前が先かって話にはなっちゃうけど 出羽の一番の要害は檜山城?
安東氏家臣団とか周辺豪族の詳しい資料が欲しい。重臣の大高氏でさえ諸説紛々でよくわからない……。 安東不伝斎は燃える!若年当主実季の名代として、湊合戦では名采配!もっと取り上げられて然るべき名将かと。 でも湊合戦以外で何したって話全然聞かんのよな
湊合戦の時にはもう結構な高齢だと思うんだけど ではでは、能代市史より抜粋。
安東不伝斎は秋田氏の一員で不染斎とも称している。所領4795石余。秋田氏の財用に関与し、金銀を財用奉行に渡したり、米を大工や鍛冶に手間賃として払った記録が残っている。
また代官として慶長3年に栗山二蔵なる上方商人に熊皮2枚を売った記録が残っている。慶長7年の秋田氏宍戸転封の際、実季の方から同行を求められた重臣33人のうちの一人である。
ちなみに、能代市史では他の史料と違って下国相模と不伝斎を同一人物扱いしていない……。
>>359
おお、ありがとう
慶長年間にも活躍してるのか 安東氏は謎が多いけど、ミステリアスな魅力がある!今に史料を集めて、安東氏家臣団のデータを揃えたサイトを作るつもりです。 大高筑前殿の諱はまさに安東フリーク最大の関心事と言えよう……。何より大高氏ってこれと云う通字もないので推察も出来ない。光忠説も訝しい。
連カキ失礼。能代市史には、大高筑前の通称が大高又兵衛とある。ただ、大高筑前は湊合戦の和談交渉の折りに討たれているはずだが、又兵衛の名は慶長年間にも見えるので、おそらく子孫代々この通称を用いていたと思われる(“筑前”も同様か)。
つまり何が言いたいかというと、今後の研究が待たれるのである。
個人的には戸沢氏の家臣団に興味がある
大名として残ったわりにこれと言った人物の名前を聞かないけど メジャー?なのは前田薩摩と戸沢政房ぐらいですかねー? 浅利が独立してたら何万石くらいの大名だったのかな?
人口は今の弘前市くらいにはなってた気もするけど 隣の鹿角郡が1万石弱だったことを参考にすると
1万〜2万石程度の勢力かと。
どの程度浅利氏が勢力を持っていたのか詳細は分らないが
大館周辺だけだと思うのでそう試算してみました。
まあ江戸の城下町が今の都道府県の県庁所在地になってる地方も多いので
今よりは栄えたかもしれないけど弘前市には及ばないと思われ。 >>375
えー、1000人くらい動員できそうなのに・・・・ 大館や鹿角は平地が少ないし、そんなもんじゃないの。
その分、林業とかで収入がありそう。 それ豊臣以降じゃね?
畿内の森林伐採しすぎて材料ねーよ→地方から捜してくりゃいい→秋田の杉いいじゃん!
こういう流れ 輸出自体は天正年間からやってたらしい
需要が急増して上方に輸出しだしたのは確かに豊臣以降だけどね 輸出品としては鉱山資源の方が重要だったよ。
杉何ていたるところで採れるんだし。 輸出に限って言えば、少なくとも豊臣政権時代は杉のウェイトはかなり大きいべ
大型船や巨城に使えるような良質な木材資源はどこでも採れるもんじゃない 唐入りで杉の需要が増えたけどそれ以降は
そんな大したことないんじゃないか?
うんにゃ、領地のインフラ整備やら主城建設やら航路の整備による船舶の増加やらで
輸出需要は唐入り後もそれなりにあったと思われ
実際、秋田氏が改易された後も輸出は続いてるし 周りを全部敵に回して、傘下の豪族に背かれて、親父が拡げた版図を大幅に縮小。
最上との抗争に血眼になって最後は改易。
小野寺は義道がアホとしか言いようがない。 最上って江戸時代になってから御家騒動が起きてお家断絶だっけ?
一寸先は闇とは言うけれど本当に怖いね〜((((;゚Д゚)))) 一応交代寄合として存続してるけど旗本じゃ爵位貰えないからな
血筋は繋がっているのだろうか 最上本家よりも大身重臣が大量にいた最上が義光死後に
統制不能になるのは目に見えていたので
最上改易は最上家臣ですら予見できていた。 戦国から幕末まで改易も転封もなく
大名やれたのは津軽くらいだな。 なんで津軽が出羽でなく奥羽なんだろう?
地域間の繋がりでいえば奥羽よりも
出羽のほうが強いと思うけど。 奥羽ではなく陸奥。
奥羽山脈の「奥羽」は、陸奥と出羽のこと。
陸奥と出羽の国境に関しては、奈良・平安期に朝廷が蝦夷に対して版図を広げて
いった過程で決まったと思われるが、よくわからないことも多い。 津軽平野は奥羽山脈で囲まれた出羽側からは外側に当たる 山科言継の歴名土代だと津軽浪岡氏の使者が『出羽から上洛してきた』っつう記述があって、浪岡氏は出羽者扱いだし
一方で『陸奥出羽者称浪岡氏』って書いてもあるんでどっちなのか明確には決まってなかったんじゃない?〈津軽