安東・戸沢・小野寺など出羽の地味な戦国大名 参
安東(秋田)、戸沢、小野寺、大宝寺(武藤)、浅利、由利十二頭など
出羽国の地味な戦国大名や豪族について語る総合スレです。
最上などの有名大名は、なるべく個別のスレをご利用下さい。
■過去ログ
【最上】出羽の戦国大名 弐【秋田】
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156478887/ >>5
上杉や最上に浸食されて、最後は本庄に乗っ取られた大宝寺カワイソス。。。 >>8
最上はメジャーだろ
あと戸沢盛安はもっと評価されるべき 大宝寺と九州の龍造寺は縁起のいい苗字だったが
最後は衰弱したな。 安東もいい評価してもいいのだが・・・
小野寺は輝道の代はよかったが最後はその馬鹿息子のせいでうry >大宝寺と九州の龍造寺は縁起のいい苗字だったが
そういえば、龍造寺は大宝寺(武藤)の本家筋の少弐家を
下剋上で滅ぼしてるね。なんだか因縁めいて見えるな。
・・・スレ違いか。 >>12
バカ息子・小野寺義道はお預け先の坂崎出羽守が憤死すると、
お墓を作ってあげてるのは感心すべきこと。
家を潰したことと、この一件で後世に名が残ったw
大名の当主としてはアレでも、人間としては真っ当な人だったんでしょうね。 >>10
もともとここは「地味な」という制約は無かったはずだけど・・・・・ 何故か分からんが小野寺、大宝寺にやたら興味がある
これらの大名についてオススメ本はありませんか? >>21
山形県史とかに詳しく載ってたりして。
新人物往来社の〜一族シリーズみたいなのが出てくれると有りがたいと思うが、
地元の図書館にでも買ってもらわないと、採算取れないだろうな……。 小野寺盛衰記ってのはあるらしいですよ。Googleで調べてみて下さい。 >>17
6000人率いてる
安東は大名だろ
一石250人で24万石だぞ?
でも交易とかでも儲かっていたらしいが… 1万石250人なんて超適当な目安にしかならん
いつまでそんな説を唱えているんだ?
そもそも安東氏は5万石だろ? 安東五万石の基準だと
上杉や伊達や佐竹なんかも精々10〜20万石にしかならない罠 >>27
5万石なんて表高だよ実際は20万前後あった。
だから>>25が言うように6000人動員したっていうのは
不思議な数字ではない >>28
言ってる意味が分からん
伊達氏(仙台藩):表高62万石 実高100万石超
上杉氏(米沢藩):表高30万石 実高51万石
佐竹氏(秋田藩):表高20万石 実高?万石
安東氏(三春藩):表高5万石 実高?万石
安東5万の基準なら伊達62万を筆頭に上杉30万、佐竹20万ですが?
>>29
そもそも実高なんてものはせいぜい表高の2倍ほど
実高20万石のソースはあるのかね?
まぁ戦国期の領地を石高であらわすのは難しいんだけどさ
あと6000人っていつの話?
個人的には大名扱いで良いと思うけど、
室町期までの日本将軍を名乗った安東氏と比べて
交易利権の喪失と内紛によって戦国期の安東氏は見る影もなく没落しているよなぁ >>30
寄騎大名(半分豪族)を抜いた、純粋な石高で秋田5万石だから
それなら佐竹も常陸12万石しかないってこと
今は織豊時代の話 >>31
寄騎の意味分かってる?
寄騎は主家から与えられるもので、
それを以てして「実質は〜」などと言うのはどうかと思うが。
戦国末期の安東氏は、後の本領である秋田5万石と
後に太閤蔵入地となった2.5万石を合わせた約7.5万石が支配圏
戦国末期の佐竹氏は、後の54万石から江戸氏や大掾氏などの所領を抜いた分、
これが12万石とはちょっと少なすぎないか?
伊達や上杉なら尚更だよ
10〜20万石の確かなソースがあるならともかく、にわかには信じがたいね
安東氏の山北地方は当時まだ米作が盛んだったわけではなく、
海上&河川交易の収入への依存は大きかっただろう
石高の数値だけで推し量れば、安東氏の領地など弱小でも仕方ない
俺には安東氏の石高を大きく見積もろうと必死にしか見えないんだが? 佐竹義宣11万石
佐竹義重1万石
佐竹義久1万石
与力12万8800石
(↑江戸、真壁、武茂、松野、茂木、梶原親子など) この計算でいいなら安東も浅利や由利十二頭の一部などを含めて良いことになる >>30
奥羽の検地は結構いいかげんで、しかも秋田実季は
意図的に領地を少なく見せている。
秋田愛季死去直前の1587年頃、6000人率いていたが
そのころ実高で20万。
そのあと五万+蔵入り二万五千と確定されたが
あなたの言うように、倍が実高ならこの確定の時点で
実高15万ということになる。
20万と15万の差は豊島通季の乱で失われたとも考えられる。 >>35
1587年の対戸沢は3000騎
鹿野郡攻略戦で6000騎だったと思う。
>>32
秋田+由利の一部+津軽の一部
石高は少ないが
面積的に言えば
弱小ではないと思うが…
>>34
浅利は臣従しているけど
問題は由利十二頭だよね
臣従までは行かないけど
半従属位まではいったんじゃないの
関係ないが白神山地の木材資源もあったんじゃないかと 安東氏の経済には木材も大きかったと思うんだが、どの程度寄与してたろうね
戦国時代は建設ラッシュもあったし、結構大きかったのかな >>37
木材の件では土佐林禅棟が羽黒山のなんかで
安東から木材を買ったことがあるらしい。 江戸期の佐竹が20万石だから、当然安東はそれ以下ってことだよな。
安東、戸沢、小野寺、浅利の領地を合わせて20万石だから。
でも安東の実高が20万石とはちょっと信じ難い・・。財政力はあったにせよ・・。 >>33-34
多分、それは戦国時代あたりの佐竹氏勢力圏の内訳かな?
江戸・真壁などは確かに家臣とは言い難い部分もあるね
ただ浅利氏の所領は後の秋田5万石にほぼ含まれてないか?
由利十二頭の所領は、それぞれがおよそ数千石程度(せいぜい5000弱ぐらい?)、
それらを合計しても由利地方全体でおよそ5万石程度
しかもそれらのほとんどが、大宝寺氏、天下統一後は最上氏の影響下にあり、
安東氏への従属の姿勢は弱いように思える(湊合戦は協力姿勢だろうし)
湊合戦を考慮にいれても10万石を超えるのは怪しいかもね
>>35
一応言っておくけど、>>30の表高というのは江戸時代初期のもので、
(ちょっと自分が時代設定を勘違いしていた部分があったww)
その後の開墾などで生産力が高まった結果、実高というものが出てくるわけですよね?
戦国時代の所領を後の石高制で語るのも難しいけど、
そこに実高という考えを入れるのは全くおかしいんじゃ?
>>36
由利十二頭は、ほぼ武藤氏に従属的だった時期が多く、
安東氏に従属的だった勢力はかなり少ないと思う
義宣の弟の岩城貞隆が川中島1万石
佐竹の石高が決まったのが義宣も死去した1664年で
秋田6郡に下野河内、都賀郡を加えて20万5800余石
まぁこの佐竹左遷に対しては北条氏勝が国替えを喜んでますね。
また豊臣政権下では
秋田52000
戸沢4
仁賀保5000
六郷5000
小野寺32000
ですね。
ただ石高は大名の序列による権威付けと関わりがあり
純粋な石高チェックによっているわけでない。
ちなみに佐竹の石高は御三家も含めた序列で21位に列する。
佐竹は金山開発や湊の収入、木材の売却で利益をかなり出してますしね。 花輪、斯波、雫石辺りも形式的に臣従してるし
死に際の戸沢との合戦じゃ決行食い込んでるから
それ含めれば十万越えるんじゃね?
その後、湊合戦でゴタゴタだけど >>44
つまり安東家は織田領内ということですね、分かります >>41
大宝時との争いで援軍をもらった由利北部は安東側についた。
半従属は言いすぎだった。連合くらいの関係でいいかな? >>46
だから実高ってのは江戸時代以後のものだろ基本的に >>48
羽後に関して言えばあまり変わってないんじゃないか >>49
ほとんど伸びがないとなると、実高を出すのは尚更おかしくね?
実際は出羽の石高は江戸期に入って急速に伸びているよね
太閤検地で30余万石→江戸中期80万石 太閤検地なんて絶対視できるほど正確なもんではない
東北なんてなおさら。いわゆるドンブリ勘定だ 石高制や検地法にもいくつも方法があるしね
秀吉が枡を統一したというが、どこまで徹底されたやらも不明
絶対的な基準とまでは思わないほうがよさそうだ >>50
江戸中期における出羽全土の「実高」だったら
140万を超えるね 太閤検地は差出だからなぁ、税金増えるのに馬鹿正直に申告する奴も居ない ☆このスレの流れ☆
つーか安東とかこいつら大名なん?
↓
安東は大名だよ。6000人だし、24万石だし。
↓
安東は5万石だろ
↓
検地が適当だから、5万石でも実質20万石あるよ。
↓
秋田藩で20万石だからそれ以下だろ
↓
斯波とかもカウントすればそんぐらいいくよ
↓
つまり安東家は織田信長の配下ですね、わかります
↓
いややっぱり秋田藩の実高は40万石だから安東だって20万石ぐらいあるよ
↓
実高は戦国時代に適用できねーだろ
↓
検地なんか適当だから5万石なわけないよ
ーーーーーーーーーーーーーーーーここまで読んだーーーーーーーーーーーーーーーー
戦国時代末期における太閤検地の石高が、そもそも
同時期の実高と乖離してるんだよね 安東愛季の歴史小説読みたい・・。
誰か執筆キボン。 女性説で半分ネタで書けばいいんじゃね?>愛季
三国志がボインボインになったりする世の中だし、無双やBASARAの若年層のヒットを考えれば
レーベルとして真面目に中公とか講談社の文庫を狙うより
あえてスクエニや角川でライト向けに書けばいい >>61
女性説ならhttp://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185649756/ と過去ログ
地元にあった小説「北前船」だったかな?に室町時代の話として愛季(なるすえ)が主人公の
小説があった気がする。
いっそ、コーエー大航海時代のネタでも良さそうな。
主人公:湊安東氏の一族
配下:由利十二頭より
アコンズ(赤尾津)♂
セリータ(芹田)♀
みたいな。
いや、そこのスレ以外に女性説なんて誰も唱えてないからw 多賀城の想像復元図を見たことがあるんだけど
秋田城や出羽国府の想像復元図はどこかにあるだろうか? 南部だと思うが、安東は水軍を使って後方かく乱とかできたのではないか? 南部は武士団って感じだな、よくも悪くも
九戸の乱を克服したことで格好はついたが、江戸時代まで武士団気風は残った希ガス 安東は総合商社みたいな感じかな。貿易商が武装したようなもんか?
南部って三戸(南部)、八戸、九戸の三者連合にみえる
基本バラバラなんだけど外からの圧力には連合する集合体
安東は武装商人というのは同感 烈風伝シナリオ0の安東(髭)の列伝には、海賊って書いてあったが・・? 当時の海賊は水軍プラス海上交易の従事者でもあった。 >>66
南部
石高:10万石(太閤検地時)
産業形態:農業重視
当主:武勇に優れるが人望はやや薄い(晴政)
家臣団編成:一族同士の連合体
鉱山:あり
港町:あり
水軍:なし
中央との繋がり:そこそこ
最大動員兵力:15000
安東
石高:8万石(太閤検地時)
産業形態:商業重視
当主:優秀(愛季)
家臣団編成:湊・檜山を統合
鉱山:なし
港町:あり
水軍:あり
中央との繋がり:強い
最大動員兵力:6000(蛎崎・アイヌ兵含まず)
ちなみに、1万石=250人は旧帝国陸軍が定めた基準で
実際は短期間限定&根こそぎ動員ならそれ以上の兵が動かせた
四国平定戦の時は長宗我部元親が土佐24万石+αの石高で
24000人を動員しているし、
姉川合戦では北近江12万石の浅井長政が8000人を動員している 南部は港町があるのに海上交易で稼ぐという発想が希薄だったんだろうか? >>72
もっと細かく分かれているよ
三戸、八戸、九戸、大浦、大光寺、七戸と
多分あのまま戦国時代が続いていたら
大浦が他の南部家をアボーンしてたと思う(傍流の織田弾正忠家が
本家を乗っ取ったように)
大きな由利衆のようなものだったと思えばいい 南部光行の血統が定かではないから
どこが本家なのかはわからないんだが 最大動員兵力:6000(蛎崎・アイヌ兵含まず)
含むと、1万超えるのでは?北海道のアイヌも5000位動員できるだろ?
海越えるのが大変か?内戦なら、5千。外征なら、2千くらいか? >北海道のアイヌも5000位動員できるだろ?
無理。 >>84
コシャマインの乱やシャクシャインの乱でさえ2〜3千人足らず >>82
アイヌがそんなに動員できるなら蠣崎即終了だろ >>75
安東は金持ってるから南部より兵一杯いるようなイメージなんだがやっぱり違うの?
当時の東北北部ではカネで傭兵連れてくるのは難しいのではないか。
傭兵王国・紀伊雑賀から引っ張ってくるのは地理的に遠すぎ。 動員すればいいってもんでもないだろう
人数少なくても火力があれば補えるし
南部や甲斐の武田のように貧乏な国ってのは
戦争が産業だから動員すれば集まるって側面もあるんだろうし そもそも安東はなんで津軽を南部に奪われたのかな?
元々安東は北朝方、南部は南朝方で安東の方が有利な気がするが。 単純に北朝南朝で別れるもんじゃない
安東は南朝になってた時期もあるし、今の三戸南部は北朝について隆盛を得た
南朝に忠義を尽くしたのは八戸南部 安東って、東北最大勢力だったのが、
いつのまに、伊達、葦名、南部、最上とかの台頭許したのか? むしろ本当に最大勢力だったのか疑問
色んな称号が伝わってはいるけど 当時は朝廷や幕府に献金して官位や称号を買うことができたはず。 煽りじゃなく、安東も南部も当時はリアルに最果ての地だからな
安東の財力に目を見張るようなものがあったにせよ、
米などの生産高、鉱山などの資源、人口などを考えた場合、
武家としての東北最大勢力ではあるまい
文献の記載を裏付けるほどの遺物もないんだろう? >>97
分裂は十三湊喪失の後じゃあなかったっけ?
うろ覚えなんで間違えていたらすまん。 ぶっちゃけ、鎌倉から室町時代前期の安東家の所領の範囲に諸説あって、
説によってその広さが全然バラバラになってしまうので、
安東氏が東北最大の勢力であったかどうかなんて結論は出ないし、
広く見積もってもその領域はせいぜい陸奥北部の沿岸部(大体青森県の範囲)と出羽北部の一部ぐらい
日之元将軍とかの自称は、勢力の広さ云々と言うよりも、
古くから北東北で続き、蝦夷の子孫を自称し、
鎌倉期から代々蝦夷地支配を認められてきた安東家の矜持みたいなものかと
実際、明治期に秋田家は安日彦の子孫なんて言い出しちゃうほど、
蝦夷を祖とする自家の家系によほどのこだわりがあることだけは確かだし いや、日ノ本の将軍は対外的に蝦夷や大陸北東と貿易してたから名乗ってたんだろ? 鎌倉時代、安藤氏は津軽全部すら支配していない。
買いかぶりすぎ。
例の和田とかマスコミが安藤氏を持ち上げたからこうなっている。