\●/常州旗頭【鬼】佐竹義重 其之弐
>>67-70さんへ。ROM楽しませてもらいました。
弘治二年(1556)頃まで義昭は、白河結城氏に対する北上政策一本だけで…
太田より南の江戸・大掾・小田や、西の宇都宮(というか放浪中の広綱)と仲が良かったようだよ。
南下を始めて小田と戦うようになったのは…海老島の戦い辺りでしょうかね。
>>69-70さんへ。これはあくまでも私見ですが…
その頃、北条や里見が独断で「管領」「副将軍」を名乗っているから、問題ないと思いますよ。
ただ、>>69さんの言う通り「一門が反対した」が「今の所」一番真実に近いように思います。恐々謹言。
名乗るのに問題あるとは言ってないが、
名乗っても上杉謙信のように関東管領というネームバリューを
フルに近い形で利用するのは難しいんじゃないの?って話 というか、そういうつもりがないから体よく断ったんだよ
義昭は旧体制からの飛躍を目指していたから、どちらかと言うと北条なんかの思想に近い >>73さんへ。そういう意味なんですねぇ。確かにその通りです。
義昭時代の政治・軍事力は、やや低かったのでしょうか?
永禄七年(1564)1〜2月や九年2月の小田攻めを見ても、小田領は(常陸国で)自身の守護管掌国であるのにも関わらず、謙信(の政治・軍事力)に頼っていたようですし…、
前者ではその後、北義廉が小田城代になったけど、簡単に氏治に奪回されていますね。
加えて、自らも府中に移住してまで力を入れた、大掾乗っ取り計画(永禄七年6月〜九年6月27日)も僅か3年で頓挫してますね。
常陸南部に対して政治・軍事力を高めたのは…
太田三楽斎父子が片野に入城(永禄九年6月28日)してからでしょうね。
>>74さんへ。
いいとこ突きましたね。それを失念していました。お見事です。
これは以前「\●/佐竹氏を語るスレ 其の2」
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/
でレス574の顔文字さんも語っていたのですが…
義昭は府中に居城を移したり、旧小田領に対して検地するetc.していたから、
今川北条武田以上信長・宇喜多直家と同じ位、肩書きよりも現実主義・実力主義だったかもしれないね。
(ただし、朱印状や分国法・分検帳がないけど…)恐々謹言。 >>76
小田城が奪還されたのも大掾の取り込みが頓挫したのも義昭の死後だよ
小田攻めは謙信の関東管領就任後だから共戦するのは自然だと思う
佐竹が常陸守護と言っても、小田氏もまた幕府から所領を安堵されているわけで
佐竹が独断で潰していいという事はない
その点、公方や管領を味方陣営に引き込めばその大義を得る事ができる
謙信にしても管領就任間もなくだから力を誇示して関東衆を掌握する必要があった
双方の利害が一致した結果として行われたものだ
無論、関東衆にとって謙信の持つ兵力が魅力的であったのは間違いない でも実質的に北関東から南奥の諸氏を纏め上げたは佐竹だろう
南関東は北条は纏め上げたと言うより領国化を進めてたが…
ここで一つ皆さんに考えて戴きたいのは「左京大夫」は南奥などの諸大名に乱発されてるのに対して「右京大夫」はほぼ関東では佐竹のみって事
たしか足利幕府の右京大夫って細川管領家…じゃなかった?
いいところに気づいたな。
確かに足利幕府では右京大夫は細川管領家しか任じられない官途。
つまり右京大夫=管領ということなんだな。
知ってのとおり関東独立志向の関東公方は、
京都寄りの関東管領上杉家と仲が悪かった訳だ。
そこで関東公方は「私的な」管領を任じることで、関東の体制を見直そうとした。
佐竹義人は血脈も管領に値する人物だったことから、
足利持氏は京都とは関係無しに義人を「右京大夫」にした。
佐竹はそれ以来「関東だけの右京大夫」を名乗った。
何故佐竹に上杉憲政が関東管領を譲る気になったのか、
何故佐竹が北関東南奥の盟主になれたのか、ちゃんと理由があるのだ。
同じように岩松や小山も右京大夫を名乗ったことがある。
だが数代後の子孫にまで受け継いだのは佐竹のみだろう。
ついでに里見は関東公方の政所管理関係者だったっぽいので、
これまた「関東副将軍」を名乗る下地があったということだな。
佐竹の関東での政治的立場は中央も知っていたらしく、
織田信長は佐竹義重に初めて手紙を送ったとき「左京大夫」と下り書きしている。
「右京大夫」は慣例からダメなので左京大夫にしたんだろう。
ただ山内殿に遠慮したのか京都に配慮したのかは知らないが、
佐竹義重自身が「佐竹右京大夫」と示された例は知らない。
子の佐竹義宣は正式に朝廷から右京大夫を任命された。
足利幕府が滅亡してフリーになった「右京大夫」を、
故事を知っていた秀吉が義宣に名乗らせた訳だ。
こういうところは秀吉の粋なところであり、おっかないところでもある。
ちなみに戦国時代の越後の上杉と佐竹の通常の動員兵力は同じくらいだ。
5000よりは多いが10000まではいかないくらい。6000〜8000くらいだな。
永禄四年の大小田原攻めといい、永禄七年の小田攻めといい、
佐竹義昭は山内殿をフルにコキ使って自制力の拡大に利用しているな。
こういうことを言うとまた荒れるかもしれないけどな。 そういう経緯があったから義重も常陸介を貰っておきながら全く名乗ろうとしなかったわけだ 佐竹は動員力はあるけれど、引き連れるだけでそれを手足のように操る地盤がなかったんだよね。
だから越後上杉の5000と佐竹の5000は質が違うと思う。
能力の高低じゃなくて、家臣掌握の問題ね。 それは体制の違いだよ
土地土地によって支配の形も違う >>83
宿老で佐竹家中で最高位の権力。
東、北、南、小貫、和田、梶原と同格で、こいつらとタメ口をきける立場。
仕事としては、上記の連中と違って、常に当主のそばにいて、
外交、内政、軍事にわたるかなりの権限をもった。
公方、管領、関東八館などが書状を送るときには岡本が奏者となる事が多く、
また佐竹の直轄地および新たに入手した土地の年貢の管理、
外様的立場にある地侍等の三分の一上前の上納請求、
戦争での戦術、戦略に関する参謀などなど、家中最大の実力者。 岡本家の存在なくして、佐竹家の存在はない!
岡本家は出羽でも家老職を出した家柄。 単に入道した武士なのだろうか?それともどこかの寺の住職で佐竹に協力していたのだろうか?
佐竹関連の書状を見ると梅江斎宛てのものが非常に多いけど
いまひとつ岡本氏の実像が掴めない >>86
岡本氏は藤原秀郷流で鎌倉幕府御家人の家系。
もとは奥州の岩城付近に所領を持っていて、
次第に強くなった岩城氏に法体で家臣となった。
(法体で家臣となったということは所領をほぼ全て没収されたのかもしれない)
そして佐竹山入の乱に岩城氏が介入した時に、
岡本妙誉が直接反佐竹勢力との間に入って交渉し、
佐竹義舜に所領を貰い、やがて次第に佐竹家臣化していく。
この頃一時妙誉は在京していたこともあり、ここに京都とのつながりがある。
太田では松山という場所に少林院という禅寺を構えて定住。
妙誉の孫禅哲が水戸に移ったときに住んだのが千波湖の北にある梅香。
もちろん禅哲の号の梅香斎から来ている。
(ひょっとすると梅見での三十三館主暗殺はここで行われたのかも知れず、
あるいは偕楽園造立は梅好きな禅哲に最初の起源があるのかもしれない)
ちなみに佐竹にきた岡本妙誉の子のひとりは岩城に住み、
ここで佐竹系岡本と岩城系岡本に別れた。 >>87
なるほど
家臣てのとは微妙に違うみたいだね
天海とかみたいなものか
禅哲も高僧で顔が広かったのだろう
小山氏みたいな名門大名から室を迎えたぐらいだし 岡本氏の娘が佐竹家にとついでいるよね。
簡単にいうと東、北、南と同格で筆頭的立場で、
佐竹本家と他大名家の折衝お取次ぎ役で格式は非常に高い。
まあ、のちの貞隆が岩城氏介入のときにも
岡本氏が筆頭で介入している。 岡本氏の娘が佐竹家にとついでいるよね。
簡単にいうと東、北、南と同格で筆頭的立場で、
佐竹本家と他大名家の折衝お取次ぎ役で格式は非常に高い。
まあ、のちの貞隆が岩城氏介入のときにも
岡本氏が筆頭で介入している。 >>87
>>妙誉の孫禅哲が水戸に移ったときに住んだのが千波湖の北にある梅香。
>>もちろん禅哲の号の梅香斎から来ている。
市街地をくぐる「梅香トンネル」で有名?な梅香だな。 >>88
「高僧」が「女犯」するのか?
知行を貰ってれば「家臣」だろ…普通
小山氏は確かに名門だが、佐竹の重臣に嫁を出すって事は当時の「格」が佐竹より下って事を示す例証と言うべきか…
禅哲の室(小山女)が正室腹なのか側室腹なのかにもよるだろうが…
貰って無ければ佐竹家の外交官を無報酬でやってた…って事になる
禅哲には当然家族は居たし家人も居ただろう…どうやって養う?
たまから貰ってると考えるのが自然じゃないかな
出典を示せって事なのか? >>94
普通、僧で家臣になる事はないよ(無論例外はあるが)
だから武家に仕える場合は還俗して僧籍を抜ける、禅哲の孫である宣綱も還俗して佐竹の家臣になった
僧に対しては寺を建立して住職に据えたり、寺領と言うものを宛がう
寺領というのは読んで字の如く寺の領地であるが
これに対しては租税や兵役の義務は発生せず
基本的に武家の介入を受けない、言わば武家によるお布施である
大名などがこのように寺を保護する事で僧達も大名に協力するが
決して武家の主君と臣下の関係ではない >>96
何を当たり前の事を長々とレスしてんだか…
当時、僧が妻帯するのが普通か?(浄土真宗系は別だが)まぁ女犯をおかす破戒僧は居ただろうが…
法体だからと言っても必ず坊さんとは限りないし
だからといって岡本一族が僧侶じゃなかった…とは言わないけどね
>>97
そのわりには無報酬とか検討違いの事言ってるがw 全国市長会の佐竹敬久会長(秋田市長)は10日、秋田市内で記者会見し、追加経済対策に盛り込
まれた総額2兆円の定額給付金について、「市町村が事務を行うなら相当シンプルな形でないと混乱
を来す。所得制限なしが望ましい」と述べ、定額給付金に所得制限を設けることに反対する姿勢を表
明した。
http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2008111000295
>>98
何を煽ってるんだか?
ここ一連の岡本氏のレスの流れから無報酬と決め付けてるわけじゃないから検討違いとは言えないなあ。
寺領あるいは知行・役料を受けて佐竹家に属してなければ外交にたずさわることは出来ないしね。 東義久といえば、陸奥高野郡周辺の勢力配置も複雑怪奇だな 佐竹桐って聞いたことないね。
五参の桐とどうちがうの? 関ヶ原後に義久が
家康から佐竹領安堵を受けたが急死して
白紙に戻されたって話の真偽はどうなの?
以前、義久が安堵を勝ち取った話はウソで、義宣に露見しそうになって自害したらしいって話を戦国板で読んだんだが
いろいろ見てみたがどっから出てきた話だかわからん。 >>108
義久が家康に「自分の存命中は国替えをしない」と約束を取り付けたと言うのは
江戸中期に小野寺道維が古老の話しを纏めたものが出典
秋田叢書に収録されている
これによると義久の独断で行ったらしい
書状などが残っているわけではないから真偽は不明
藩史類を見る限り義久はあまり家中での評判はよくなかったようだ
どこの藩でもそうだけど、あまり強大な力を持ちすぎると
嫉みも手伝って動向を疑われやすく色々と責任を押し付けられて奸臣のようにされてしまう事が多い
義久も伊達との内通や義重夫人との密通までにおわせるものがある >>109
おぉありがとう。
東義久はけっこう好きだから、評判が下がるのは個人的には(涙)なんだが、好きな梶原政景も一度は北条側へ寝返りしたりと一癖あるから仕方ないな。
それが忠実すぎたらアゴで奴隷のように使われるし、少し危ういくらいが待遇よくなるだろうし乱世の生きる術だし。 東義久って、北酒出か南酒出へ養子に出されてた
東家は義久の兄が継ぐが若死に
東家の養子に義重の次男喝食丸内定
「喝食丸」は東家嫡男の幼名とか…
その義重次男が白川結城家に入嗣
東家に義久復帰
義重に重用され、事実上の三家筆頭へ
って事でOK? >>111
義久は養子ではなく、恐らく義久の為に再び酒出家が創出された。
というのは北酒出家は承久の乱の時に美濃に所領を得て移り、
たぶん所領を横領されて幕府奉公衆になったあと、義篤の時に常陸へ戻ってきて、
佐竹基親が馬場家を創出し馬場篤親を名乗った。
南酒出家も同じく美濃へ移ったと思われ、北酒出と争って吸収されたか滅亡した。
つまり養子というか養父がいなかったので、創出だな。
そんで佐竹東家の幼名が喝食というのは正しい、
また東家を白川義広が継ぐかもしれなかったというのも恐らく正しい。
だが白川義広は結局東家を継いでないので、義久はずっと東家のまま。
義久は義広が成人する前から活躍しており、元亀年間からすでに佐竹一家筆頭。
酒出家は義久の兄の義忠が継ぎ、さらに後に馬場家の子孫で大山家の女婿で
大山を名乗っていた何某が継いだ。血脈としては本来の酒出に戻ったことになる。 >>113
よくわからんが、秀吉から貰ったんじゃねーの?
>>114
送らないのが佐竹のいいところ。 >>110
三楽や梶原さんは、中央政権とも独自に繋がろうとしたりしてるし、
中々したたかだよね。 彼らは基本的に自立した領主であり佐竹の家臣ではないからね
佐竹三家にしてもそうだ
義久は佐竹宗家とは別に秀吉に音物を送ったりしている
小田原着陣の際に献上したものを見ると東家は宇都宮や結城などと同じぐらいの量がある
いかに義久が力を持っていたか窺い知れる
そういや三家の通称は
南=三郎
東=源六郎
北=又七郎
でいいんだっけ? >>117
わしもいろいろ悩むところなんだが、
佐竹三家は「自立した領主ではない」訳ではないはず。
戦国時代は、権限が分掌された、宗家の意を受けて動く存在。
無論ある程度の自由はあったが、それは北条にとっての
氏照や氏邦の所領と同程度のもの。
「北条氏照は北条家臣ではない」とは普通言わないのと同じで、
「佐竹義久は佐竹家臣ではない」と言うことはないだろう。
豊臣政権時代は、豊臣から六万石を貰い一見独立した領主に見えるが、
これは「奏者領」とでも呼ぶべきもので、巨大な所領を持つ大名の多くが、
豊臣政権との交渉窓口として家臣に分割給与されたもの。
豊臣から見て外様の旧族大名、例えば毛利(安国寺)や、島津(伊集院)、
宇都宮(芳賀)なども同程度の所領を貰っている。
ついでに佐竹「家臣」の範囲だが、
実際問題は「家臣」の定義次第だが、佐竹の場合は洞中(≒分国)に属する
領主は佐竹「家臣」として見なしても問題ないと思う。
じゃあ例えば小田、大掾、太田、江戸、小野崎、真壁、船尾、大山、小場の
何処までが「家臣」で、何処までが「家臣」じゃないの?と問われると、
ぶっちゃけ厳しいものがあるからな。「全部家臣じゃねーよ」というなら、
他の大名だって「家臣」じゃなくなるのが当然出てくるわけで。
佐竹は彼らの軍勢指揮権は持っており、彼らの家臣に対して官途付与等の
人的関係を持つことまではあったが、独自の外交は許していたし、
その本領内部に立ち入ることもなかった(が、ある程度の監督、所領宛行はしていた)。
歴史的経緯を見れば、これらは豊臣政権によって最終的には
佐竹に帰属すると見なされたわけで、広義の佐竹家臣と見なして問題はないだろう。 秀吉から直江みたいに陪臣扱いされてたんだっけ義久?
毛利家臣から秀吉直臣になったのは小早川隆景くらいか。 >>116
太田や梶原は、言っても佐竹の居候みたいなもんだしね。 >>118
しかし彼らは
・軍事指揮権
・外交の権限
・婚姻の権限
・農民に対する兵役や年貢などの賦課権
・宗家旗本以外に対する知行の権限
・官途、受領や一字の付与権
・商人、職人に対する諸役賦課・免除権
・過書の発給権
・制札・禁制の発給権
など、大名が持ち得る権限を全て持っていたと言っていい
彼らはあくまで佐竹宗家とは別家であり
起請文でもって盟約を結んでいた点、江戸や真壁らと同じであったと言える
まだ佐竹宗家から分離して年月が浅い点、他よりは宗家に近い関係ではあったが
義久の代は上記のような権限を持つに至っていた
例えば真壁氏についてだが、その家譜に於いても天正18年に佐竹の配下となったと記している
つまり彼ら自身も佐竹の配下であったつもりはなかったのだろう
秀吉の名により佐竹の家臣に位置付けられた事によってお互い主従の契約を結ぶに至ったと見るべきではなかろうか まあ、秀吉の登場はひとつの契機にはなったろうね。それが最終的に
秋田転封後の、佐竹義宣とその側近層が主要な位置を占める体制に
なっていくわけだけれど >>121
だからその辺は「家臣」の定義次第なわけだよ。
「家臣」という言葉を乱用してしまうために、こういう齟齬が出てきてしまう。
(ただオイラは学問的な場でない限り、別にある程度の乱用はかまわないと思うけど)
戦国期の佐竹の家格制(あくまで格式)の中では、
・御一家 = 東北南、江戸、大塚、山能、大山、石塚、小場等々
(擬制的な血縁関係を元にした佐竹の「一門」。特に東北南と宗家から養子が入った家は
「御親類中」と呼ばれ、その他の一家より格が少し上だった)
・御諸家 = 千葉、小山、宇都宮、那須、小田、大掾、伊達、蘆名、岩城、小田原等々
(本来は佐竹と同格の家々。ただし大掾は1564頃以降、小田は1583頃以降、
佐竹の洞に含まれるようになる。つまり洞は格式でなく実力を元に構成された、
佐竹氏の諸勢力編成原理ということになる)
・諸家からお分かり候御傍 = 塩谷、武茂、松野、宍戸、太田、梶原等々
・近進 = 和田、小貫、伊藤新蔵人、井上信濃守等々
(その他恐らく別名「氏子(うちこ)」、あるいは「抱え」を宛がわれた人々もこの中に入る。
和田、小貫などの宿老は御一家と同格とされる。)
などに分かれており、近世的?に「家臣」などとは言わないわけだ。
>>121の定義だと、佐竹では、「家臣」=近進だけ、ということになってしまう。
さらにこの定義で見るならば>>118でも言ったとおり北条氏照も「北条家臣」ではない。
松山城の上田はどうなの?あるいは織田の柴田や明智、羽柴はどうなの?
ってことにもなりかねない。それほど「家臣」を厳密適用する必要はあるのかな?
むしろ厳密にするなら「家臣」ではなく、「近進」を使うべきじゃないか。
それに>>121の権限はあくまで宗家大名を後ろ盾として行使できるものであって、
佐竹東らが「自立」的に運用できるものではないはずだよ。
どれだけ自立的かどうかで「家臣」か否かを計るのは微妙じゃないかな。
あるいは中世的な諸勢力混在の在り方を、近世的、あるいは現代企業の社員的な
意味合いで「家臣」の定義付けを行うのがそもそも間違っているか。
あと一応文書での裏づけだと、上杉謙信は、北義廉、東義久、梶原政景、
岡本禅哲、小貫頼久を「義重家中衆」と認識しているみたいだよ(上杉家文書。私未見)。
もっとも家中と「家臣」をどこまで同じと見るかは謎。
>>123
出羽で世話をしようと思ってた相馬家は何になるんだろ? >>124
奥州相馬氏は戦国時代なら館、御諸家クラス。格式では伊達、岩城、蘆名と同じ。
豊臣政権では佐竹の「与力」になったとされる。
多分「特に命令がない場合は佐竹といっしょに行動すること」的な立場と思われる。 >>125さん。とても素晴らしい解説、頭が下がります。
>上杉謙信は、北義廉、東義久、梶原政景、
>岡本禅哲、小貫頼久を「義重家中衆」と認識しているみたいだよ(上杉家文書。私未見)。
彼らに加えて、河井堅忠もね!! (上杉家文書。私は見た)。
で、北条家(というか氏政)には、馬場篤親を使者として送っているよね?
馬場篤親はどの位置にいたのかな?
てどお氏、流石やのう。要所をビシッとついてくるわ。
馬場篤親=佐竹基親は勿論御一家。
ただあくまで格式なので、実際には馬場はほとんど近進(=直臣、旗本)と
同じ程度の実力しか持っていなかったと思われる。
これは山入や部垂に加担した宇留野や小田野も同じで、
大山や小場のように自立気味だった家々とは違うと思う。
馬場は半ば浪人的に常陸にやってきたし、宇留野は謀反人だからね。
で、馬場は元々室町幕府奉公衆的な家なので、同じ奉公衆の
備中伊勢庶流=北条にはそういう繋がりで派遣されたわけだぬ。
縁故で外交する中世だぬ。佐竹は、或いはこの頃の人々は、
北条の出自を早雲の父のところまで完全に知っていたわけだ。 >>127さんへ。
いえいえ、それほどでも…
そうゆうつながりだったんですね。説明ありがとう。
確か、馬場家は鎌倉〜南北朝時代に美濃に分家した子孫なんだよね?
奉公衆・美濃といえば遠山氏もそうだよね?
あなたのレスは、佐竹研究に大いに役立つので
あとこれからも不定期的にカキコしてください。頓首。
>>127
小場氏も宇留野氏同様に謀反人だよ
小場氏の地位が飛躍的に高まったのは後に義重の弟を当主に迎えた為
小田野氏は山入氏一族だが佐竹宗家側についた
最終的に山入氏を討ったのも小田野氏 佐竹と高倉家(藤原北家)の関係について詳しい方はいませんか?
大概の佐竹関連書籍では存在すらスルーされているけど
義重の娘は高倉権大納言永慶の正室となっていますよね
戦国時代に高倉家を介しての朝廷や中央政権との動きがあったのだろうか >>129
スマン。佐竹の近進とほとんど同じ扱いになったということね。
宇留野や天神林(多分小田野も山入から)などは元々は大山家などと同じで、
宗家の手が入らない所本領を分け与えられていたが、
謀叛のせいで没収されて、佐竹から「抱え」と言われる土地を
一代の間のみ預け置かれるか、数十貫程度の所領を宛がわれる給人的な感じになった。
それではあんまりだと思ったのか、家格だけは近進より高く設定された。
小場や山能は義昭に過去の謀叛のことで圧力をかけられて
本領を安堵される代わりに養子を受け入れざるを得なくなった可能性が大有り。
これは江戸も同じだったが、忠通は拒否したのか、義昭に攻められて降伏してるね。
これ以降やっと別家を立てないという政策に変化したらしく、
手綱の再庶の大縄義辰なんかは有能だったので
「抱え」ではなく所領を貰ったが、やっぱり近進と同じ扱い。
近進真崎重宗も兄義保の戦死で真崎家を継いだが、真崎家の本領は
重宗の「抱えの地」的な扱いを受けて、そのまま宗家に接収されるという形になった。 >>130
その義重の娘は江戸重通の長男に嫁ぎ、江戸氏滅亡時に救出された後に公卿高倉家に再嫁したんじゃなかったか…
高倉家に嫁いだ時期は、(推測ですが)豊臣政権が全国統一してからだと思う。 この前、近衛龍春著の「佐竹義重」とゆうのを読みました。
とても面白かったです。
これ原作で大河ドラマは、どれぐらい現実味があるでしょうか? 近衛の史料調査能力は一流だけれど、
それを消化して小説として完成させる能力は皆無だから、
永遠に大河作家にはなれないだろう。 近衛著の「佐竹義重」と「佐竹義宣」を更に加筆訂正して、NHK出版から出せば…或いは?
序章として義昭を取り上げ、転封後の家中騒動や大坂の陣を丁寧に描けば良いと思う… 無理だな。そもそも近衛は佐竹のことを何も分かってない。
史料の調査能力なんてものも全くありゃしない。
あれは国盗り大名ゲームをそのまま文章にしただけ。
「おのれ高増め!」「うおおー!」「そうかの」「されど」「左様か」
「おのれ昭為!」「仕寄るかの」「不憫よの」「氏政め、たばかったか」
こんなんばっか。
小説でも三文足らずなのに、ドラマになる可能性なんか微塵もないわい。
大河決定の何年か前に、原作がNHKから出版される、という政治的な話はどこかで聞いた事があります。
原作がどれだけクズだって、或いはどれだけ素晴らしくても
脚本と演出によって全然別物になりますから。 茨城では「桜田門外の変」映画化支援の会が発足して幕末フェアが開かれている
やはり茨城では幕末史があまりに強烈だから佐竹が省みられる事がない…
秋田の方で支援してもらわねば映像化はまず無理 佐竹は知名度無さ過ぎてムリだろ。
常陸の佐竹ゆかりの観光地自体がほとんどないから観光の誘致は難しいし。
佐竹寺くらいなのがもうちょっとあればなぁ。
秋田は関ヶ原後だからなー。
常陸太田市と宇都宮市で共同誘致とか県を越えた同盟誘致しかないだろ。
でもまぁ県を越えた誘致なら、より結び付きの強い群馬栃木両毛地区の由良足利兄弟に遅れを取るかも知れん。 >>138
政治的でもいいんだよな、立派な原作だったら。
ところが天地人ときたら!wwwwwwww >>140
義宣を主役にすればよいかと
義宣時代は歴代で最大の繁栄を誇ったし久保田藩初代藩主でもある
そうすれば茨城と秋田が繋がるし >>142
1 北条に圧迫され、北から伊達も圧力をかけてきて滅亡寸前
2 小田原の役で復活、常陸全土を領国化 全盛期
3 関ヶ原
4 減封され秋田へ
メリハリがあって良いのか?
・・・いやなんかストーリーのバランス良くないよな? 伊達と和平しろと惣無事令における天下人秀吉の恫喝で苦悩し葦名救援を躊躇する義宣
葦名家臣団からは佐竹が葦名支援から手を引き続けるなら伊達を頼るしかないと脅迫される。
しかし小田原参陣で常陸一国を安堵され選択が間違ってなかったことに家中の声望がたかまり、父の鬼義重も越えられたかと噂される。
会津征伐では隣国徳川を牽制し天下への野心を見せる。
しかし上杉と打ち合わせした白河口決戦シナリオと違い、徳川は上杉侵攻せず引き返す。
三成では家康には勝てない!ここに至って家臣分裂し義宣は無念に思う。
そして秋田での再出発では新たに経済通の家臣を使って新たな佐竹を作る! よし
そのストーリーで原作を書いて
NHKに提出するんだ!
>>145
とりあえず誰か原作小説を書かないと・・・ 来年の「龍馬伝」は、原作がないNHKのオリジナル作品という事らしい。
脚本家にすべてを委ねるみたいだ
やっぱり良い企画書と地元の政治力かな ともあれ、人取橋での義政の暗殺がすべてを変えた訳だよね
やっぱりくノ一役は長澤まさみかなw 天地人は関ケ原後の大減封でもリストラしなかったから取り上げられたんだよね? もちろん派遣社員(足軽、用兵)は能力のある奴以外は懐古しています。
懐古された派遣は大坂に入って景勝に退治されています。
つーかここ佐竹スレッドです。 佐竹の毛虫、かなり有名だったらしいね。源氏と後退を知らないことにかけたんだって。たしかにかなり格好いい。 秋田県知事
源姓佐竹出羽守敬久公
久保田城に入城し補修を開始!
源氏の旗を掲げて
引きこもりや無職の牢人を
全国から集めて
山形県へ進駐併合の上、
出羽独立と佐竹幕府樹立宣言キボンヌ!
>>156
おもしろそうだけど。
そんな治世はいやだな
鬼義重が希望せんだろ >>156
おもしろそうだけど。
そんな治世はいやだな
鬼義重が希望せんだろ NHK!竜馬は飽きた!佐竹を出せ!もう何回同じネタじゃ!
もう竜馬は観とうなかった! 竜馬役は…彼、ですか。まぁ西郷が大物に描かれれば良いけど。 wikiにどっかの馬鹿が義重と蘆名盛隆が男色の関係にあったらしいと書いたおかげで、
佐竹義重でググるとそのネタが結構出てくる。
ワシは佐竹を相当調べているが、義重と盛隆がそんな関係にあったなんてことは
一切見たことも聞いたこともない。
つーか、戦国時代の一大名同士が衆道関係だったなんてことはまず有り得ない。
そんで義重と盛隆が実際に会ったことなんて一度も無かった可能性が強い。
二人が同じいくさに出陣したという記録は無い。会合したという話も無い。
だが腐女子は取り付き始めているようだ。 腐女子じゃなくてリアルガチホモの仕業だと思うな、それは。
ナッちゃんみたいに社会的に抑圧されてる連中特有の世間への復讐心が感じられるし。 wikiは工作サイトだからね
明らかに悪意のあるものも多い
佐竹関連もだいぶやられてる >>165
>義重と蘆名盛隆が男色の関係
そりゃ『武功雑記』にあるネタだね。全く以てネタをネタと(ry 佐竹義重〜天龍源一郎
佐竹義宣〜ピエール瀧
これで2時間ドラマ