【徳川四天王】 酒井忠次 其の1 【筆頭】
酒井忠次 - Wikipedia
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酒井 忠次(さかい ただつぐ、大永7年(1527年) - 慶長元年10月28日(1596年12月17日))は
、戦国時代・安土桃山時代の三河国の武将。徳川家康に仕えて多くの戦功をたて、出羽国庄内
藩14万石(幕末期に17万石に加増)の藩祖となった。酒井氏は、石川氏と並ぶ徳川最古参の重臣。
徳川四天王・十六神将の筆頭 家康スレの679の心意気に負けて記念パピコ
一向一揆の時、家康に刃向かった酒井忠尚って
忠次の兄なの伯父なの? 調べてもよく判らないんだけど
検証してる本とかないもんかね >>7
酒井には責任も何も無いのに、どんな変化が? >>5俺が歴史関係の本でヨク目にするのは兄だねぇ〜
忠尚については俺も色々知りたいなぁ >>13
ナンバーワンになれなくてもいい〜
元々地味なナンバースリ〜 親阿弥という遊行僧が三河に流れ着いて、松平の当主の娘と、酒井の当主の娘を両方をはらませたとゆうのはマジですか? >>5
藩翰譜は兄弟説を載せつつも、忠次の親父さんの亡くなった歳から逆算して、
65の時に忠次を設けたっていうのはどうよ? みたいに言ってる。
ここで引用してる大久保が記(三河物語?)には、天文十六年に尾張に行った
左衛門尉ってのが忠尚の兄弟で、忠次の親父だという説も紹介してるよ。
左衛門尉の家系って雅楽頭系に比べると、記述があやふやというか、
調べようがないな……
>>17
三河の成瀬に住んでた新田一族の子孫という説もあるよ。
こちらだと源氏の流れだけど徳川(松平)とは関係なくなる。 この頃この人に興味がわいてきている。
業績も徳川家中で筆頭のような気もするんだがなぁ。一般的知名度が低いのが残念。 >>一般的知名度が低いのが残念。
いやいや、松平信一に比べればずっとマシですよ。
信長の野望に出れるだけ・・・・・。 家次の臼井3万石はひどいな。やはり信康の件が関連するんのか? 今日のその時歴史が動いた〜徳川四天王から学べ〜
の糞さは、最高に糞だった。
ゲストがあれでは徳川四天王の質を落としかねない。この番組は見なかった事にしたいくらい糞だった 忠次は、遊び下手な三河者のなかでは、遊女などをあげて歌舞に興ずるのがすきで、泊りをか
さねるごとに土地の遊女をよんだ。
「歌えや、舞えや」
と遊女を気ぜわしくせきたてたが、しかしそう要求するわりには吝嗇で、財布を容易にゆる
めない。興が乗ってくると、かれも立ちあがって手足を舞わせた。舞うといっても幸若舞などを
舞うわけではなく、三河の百姓がよくやるえびすくいの踊りをするのである。この踊りは、のち
に家康が小田原の北条氏と同盟をむすんだときその席に忠次も陪席し、北条氏政
の前で奇声をあげながらおどってみせたこともある。要するに忠次は、他の土地の者からみれば
あくのつよい相当な田舎漢であった 司馬だろ
覇王の家か何かで同じ文章を読んだ記憶がある
どーせ司馬のデフォルメなんでまんま信じ込むのはやめたほうがいい 信康を死に追いやった云々は三河物語が出所だから信用できない
その後もちゃんと重用されているし >>29
多分一般に伝わる伝承じゃない?
山岡荘八の徳川家康にも同じような場面があるから ところが忠次は、
「いちいち心あたりがござる」
と、いってしまったのである。この底意地のわるさも、この時代の三河人の特徴とされていた。
が、忠次にとっては、底意地のわるさという感情だけでこう言いきったわけではない。かれは家
康の奉公人ではなく、家康の松平家よりも小規模ながら三河のなかでの大名である。自家の保存
という点では、信長がこの課題を織田家の切所として緊張していたように、忠次も忠次なりの場
所でその課題と切所があった。信康を生かしておいては酒井家はほろびるのではないかというそ
れである。くりかえしていわねばならないが、酒井忠次は家康の奉公人ではない。奉公人ならば
不忠であろう。が、忠次は、三河国の規模内において徳川家に対し、酒井家当主として外交権を
行使する資格があった。信長の外交上の切所も、忠次の外交上の切所も、同質のものである。 酒井は単なる家臣ではないだろうけど、自立した大名というのもどうなんだろう 正親が家康を支えたのは間違いないけど 子の重忠だって特に厚遇されているわけでもない。 本人は少し可哀想なところがあるけど、子孫の待遇は普通だと思うよ 忠次系酒井家は冷遇されてたから老中を出さなかったとか言われてるけど、元々老中っつう
のは将軍の使用人的なポジションだったから、忠次系酒井家のような譜代の重鎮は老中に
ならなかった。
吉宗の代に例外的に老中を出したけど。 左衛門尉系酒井家と雅楽頭系酒井家では、
どちらが家格が上位になるんですかねぇ?。 >>48
極位は両家とも従四位下だから、そんなに差はないんじゃない? 雅楽頭は従五位上相当 左衛門(大)尉は従六位上相当だね。 ・官位
位 ともに従四位下
官 ともに侍従、少将まで進む場合もある
昇進の特例
井伊>雅楽頭・左衛門尉・小笠原・榊原の四家>小浜酒井など八家>その他
・伺候席 ともに溜間。ただし三方領地替騒動後左衛門尉家は帝鑑間に降格
・石高
左衛門尉家・庄内16.7万石>雅楽頭家・姫路15万石
分家込みだと雅楽頭系29.8万石>左衛門尉系19.2万石
分家が一つしか残らなかった左衛門尉に対し
全部存続+小浜酒井10.3万石で雅楽頭に差をつけられてる。
基本的には同格と考えていいのでは。
>>51
雅楽頭家も本来は雅楽助(正六位下)名乗りだったそうだよ。
忠清の失脚までは幕政の中核を占めていた
その後はそうでもないが 忠恭が姫路藩主になってからは老中になれない家柄となった >>57 幕末の酒井忠績は、溜間詰から老中首座(後に大老)に就任していますが…。 >>1
御先祖様だわ
母方の祖母はお嬢様だったらしい
後おばさんの所に家系図があるな 酒井氏は荘内(米どころ)、姫路(畿内の先進地)、小浜(米国に追随するイヌ)
など一族で50万石近くを占めた 左衛門尉系(庄内)と雅楽頭系(姫路・小浜)は別の家だと思う。 諱で呼ばれることは無いから、それほど混乱はしないでしょう。 まぁそうなんですけどね…単純に初めて見た時の
感想ですよ。活動年代も近しいのと相まって
猶更混乱させられたもんですw
話は変わるけど先代(忠明氏)は味のある方でしたね >>57
そうだよね
姫路藩主は池田輝政の時代から西国大名の監視がお役目
年端の城主は国替えされた
徳川家康の孫だろが四天王だろが ttp://pds.exblog.jp/pds/1/200910/07/73/f0168873_18215020.jpg
ttp://pds.exblog.jp/pds/1/200910/07/73/f0168873_18215856.jpg
酒井忠次の兜クラフト無料ダウンロード
ttp://www7.ocn.ne.jp/~chido/tadatugukabuto.htm
致道博物館
ttp://www7.ocn.ne.jp/~chido/
長岡の悲劇の遠因ですな
長岡の幕末期の家老河井継之助の先祖は膳所藩本多家の家臣だった。
膳所藩本多家は忠次の次男が養子に入って家督を継ぎ、長岡藩牧野家には忠次の娘が嫁いでいる。
忠次の孫にあたるそれぞれ(庄内酒井家膳所藩本多家長岡藩牧野家)の藩主が娘を従兄弟の家に嫁がせる
酒井家(長男)から本多家(次男)、本多家(次男)から牧野家(娘)、牧野家(娘)から酒井家(長男)
この時、本多家の家臣であった河井継之助の先祖が膳所の藩主の命により姫君付き家臣として牧野家に移る 戦国時代板で幕末の話題ばかり書く阿呆、
あっちへ逝け 酒井忠次の生まれた井田城(愛知県岡崎市)を見てきたぜ
もう今は高台になっていて城山稲荷になっている 豊千代君御養君御用掛として、閣老田沼主殿頭意次、少老酒井石見守忠休、留守居依田豊前守を 関ヶ原よりも前に死んじゃったから、
存在感があまりないの?
忠次のいかにも田舎侍らしい粗暴さと、必死な海老すくいが笑えるお( ^ω^) 信康は、自らが機関であることを忘れた。機関が猜狼になった。このまま信康を生かしておいては酒井家は滅びると危機感を抱いていたから当然だ。 秀忠隊の実質的な隊長だと思う。
榊原は家康隊に回る。