明石全登は名将なのに知名度が低い
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>>341
スマン…そういう意味じゃなかった
勝者側なら当然得たであろう"後付けの"名声をカモン達は手にする事が出来たんじゃないか…と
つまり、徳川四天王は東軍が関ヶ原に勝たなければ今ほどの知名度は無かっただろう…とw 秋田県比内町に明石全登の子孫と伝えられる一族がある。家伝によれば大阪落城後に仙台で伊達政宗に保護される。しかし、幕府の詮議が厳しくなったので津軽に移動し、津軽信枚の保護を受けて弘前城内に匿われた。 >>345
ほんとだとしたら、津軽さんはいろんなのを匿っているなあw 伊達に匿われるってのは何かあるのかな?
スペイン関係? 演じた俳優 松橋登(『葵 徳川三代』、2000年、NHK大河ドラマ)
葵では登場回数が少なかった 名前の読み方を知らない人が多いのも知名度が低い一因 タケノリでいいの?
何かの本にゼントウってふってあったけど 明石全登は、信長の野望天翔記の武将fileに描かれてた
イラストとその説明が、無類に良かったなぁ。。。。。
役者の端くれの俺もいつか、明石全登をブラウン管の中で
演じてみたい。www >>353
いいねぇ
この人ほど西軍系でスポットライトあたってない武将も珍しい…好演キボンヌ
本書きを諦めた俺の分まで頑張ってくれ…マジでw >>354
信長の野望とかだとてるずみって書いてあるね
本によって振り仮名が違うw 明石、精鋭を率いて迂回し家康本陣を急襲
これが実現していれば・・・。 >355
ありがとうございます。
大河ドラマに出れる役者目指して頑張ります。 それでも、天王寺で300で4000の水野勢に挑んで鎧袖一触だった気が…。
諱(全登)の読みは、「たけのり」の他に「てるずみ」「ぜんとう」「なりとよ」などが伝わる 誰にでも読み易い名前ならば
ドラマの登場回数増えるだろうに 五人衆に数えられるわりには大坂の陣での活躍が少ないからねぇ……
俺は好きなんだけど 神保相茂などの記録から推測するに、
勝永や幸村が正面から激突しているところに
木村・後藤の残兵が左から、全登が右から抉って家康側を崩した感じ。 >>362
「全登」は法名か何かだと思ってた
大友宗麟みたいに それも可能性の一つじゃね?
守重とかも別人説、同一人物説あるし >>369
細川書状だかでは見事な働きと真田や後藤らとともに褒め称えられてるがな
逆に一次史料には活躍の見られない毛利とかが2chじゃ持ち上げられすぎ とにもかくにも大坂の陣は一次資料がほとんどないからなぁ。 大坂の陣で無いって言ったら他の合戦は皆無レベルになっちまうわアホ 明石系図として伝わってる武元系図は残念ながら大した信憑性はないようだよ。
明石景行は全登の息子じゃなくて行雄の弟で上月城合戦の時に死んでる。明石久兵衛=明石景行もデタラメ。 武元系図の行雄の弟になってる明石景季が明石景行とイコール、出自が謎だけど明石久兵衛が実子の居ない景行の養子に入った?
明石宣行は・・・よく分からん。岡越前守の組頭とか書いてあるのもあるが宇喜多家臣で4500石の明石久蔵の諱は現在まで分かってない。
浦上宗景武鑑の頃から名前がある明石久蔵が全登の孫ってのもちょっと考えられない。
武元系図
┳行雄━全登━┳某
┃ ┣景行━宣行
┃ ┗右近
┗景季=景行(久兵衛)
予想
┳行雄━全登━━(?)
┃
┃
┗景行→(死後に景行所領の東山城を明石久兵衛が、北曽根城を明石右近が分けて継承) 小川博毅『史伝 明石掃部―最後のキリシタン武将―』(橙書房、2012年発行) そもそも宇喜多氏の家中の仕組みが未だによくわかってない 戸川たちが出てった後はこの人が宇喜多家中を仕切ってたんでしょ?
なんか武辺者扱いされてる事の方が多いけど政務にも長けてたんじゃないの 何年か前の新釈眞田十勇士ってアニメで関ヶ原で大暴れしてる明石さんはマジで格好良かった >>380
かなり詳しそうだ。
ttp://sengoku.at.webry.info/201302/article_3.html ぜんとくんっていう、ゆるキャラ作ればいいと思うよ。 【映画】士魂魔道 大龍巻では、三船敏郎が、明石全登を演じてたんだね。
初めて、映画の中で登場して、それが世界のミフネだったなんて凄いよ。 信長の野望の攻略本の中で 武将Fileにイラストで
明石全登の説明のシーンが、最高だよ。 夢だけど、明石全登を演じてみたいよ。
【映画】士魂魔道では、ミフネさんが演じていたなんてあまり知られていないよね。
世界のミフネと、役者最底辺の自分か・・・・・
もし、演じれることが巡ってきたら。。。。。 所詮大阪方に付かなかったら下手したら信長の野望にすら出てないレベルよ 名前が多すぎて認知が分散してるんじゃないかな
てるずみ、たけのり、ぜんとう・・・
他に10くらいあったはず 関ヶ原の合戦の際明石掃部は田中吉正(近江源氏)の配下と接触、親族の黒田(近江源氏)に引渡された。
福岡の明石一族は3家系が黒田藩の上級武士として江戸末期まで大名町に住んでいた。その末裔の一人は明石元二郎将軍である。
明石掃部だけは秋月の黒田藩にかくまわれていたが、執拗な明石狩りの結果、久留米・柳川藩の田中忠政を頼った。
大阪の陣で明石掃部は千葉(近江源氏)の一族に殺害されたという記述があるが、実のところ彼らにもかくまわれたと思われる。
なお明石掃部の一族は薬師(くすし)であり、明石掃部も医師であった可能性がある。 宇喜多勢8,000名を率いて先鋒を努め、福島正則を相手に善戦した。西軍敗走の際に田中吉政の家来・上坂万兵衛と接触したという記述がある。
注 明石掃部の正室は田中吉政の娘とする説がある。 大河官兵衛に出て欲しいと一時期は思ってたが、あの出来じゃむしろ出て来ない方が良いカモンな 福岡の明石一族の出自は播州である。
神戸市西区にあった枝吉城の城主一族と考えられる。
家業は古墳時代より薬師(くすし)であった。明石国造と言われている。
薬草を収集するために所領は大和〜中国山地の広大なものであった。
大和〜摂津〜播州〜備前(和気郡に和気清麻呂公以来の薬草園がありそこも所領としていたらしく明石屋敷があった。平安末期法然上人の父押領主の漆間時国を殺害した美作国の領主明石源内武者定明も明石一族である。
)。 明石覚一は明石検校とも言われている。足利尊氏の従弟といわれ明石の駅長に任ぜられていた。
中年まで播州(兵庫県)書写山の僧であったが、急に失明し琵琶法師となった。
彼は自分の屋敷に当道座を設立して、みずから惣検校となり、盲人の地位向上に努めた。
(明石屋敷→当道座→洛央小学校)
この地は東洞院大路に面し竹田街道に至る交通の要衝であった。
覚一は当時の天皇・公家とも親交があり、琵琶以外にも按摩(あんま)・鍼灸(しんきゅう)の達人でもあったとされる。
彼も明石の一族と考えられる。 明石氏の最期の枝吉城城主は明石与四郎則実である。
彼は但馬豊岡城において2万2,000石を領するまでになったが、次のような讒言を信じた秀吉により賜死となった。
次の話はあるお寺の住職から聞いた話で裏づける記述はない。
明石与四郎則実は三井寺の僧兵と結託して秀吉の殺害を企ててるという話である。
その結果明石を恐れ、三井寺を恐れた秀吉により明石与四郎則実は賜死となったとされているが、実は謀反の首謀者として彼を弔うこと自体も禁止したらしい。
これは豊臣秀吉による第一次明石狩りである。この当時明石則実の親族の多くは苗字を別の名前に変えたという記述がある。
また同時に三井寺の僧侶を寺ごと抹殺した。
世間から顰蹙を受けたため、秀吉の死後豊臣秀頼、淀君そして徳川家により三井寺は復興された。
そして関係した豊臣秀次を殺害することになる秀次謀反事件につながることになった。 >>397
関ヶ原の合戦では宇喜多隊は総勢17000ではなかったかね
57万石の太守なのに8000しかない? 明石国造は倭国造と親族とされているが、
竹田街道は和漢の薬品交易の重要なルートであったと思われ、
明石国造と倭国造両者は交易により莫大な収益を上げていた。
倭国造の係累と思われる人物を次に記してみる。
近江屋長兵衛(初代) おうみや-ちょうべえ
江戸時代中期-後期の奈良/大坂の商人。
寛延3年生まれ。叔父の綿商河内屋武兵衛の養子となる。
大坂道修(どしょう)町の薬種仲買商近江屋喜助につかえ,天明元年堺(さかい)筋に店をもつ。
和薬・漢薬・西洋薬を手がけ,地方取引をひろげ,武田薬品工業の祖となる。
寛延3年(1750)‐文政4年(1821)7月10日 72歳。
大和国広瀬郡薬井村(奈良県北葛城郡河合町薬井)生まれ。本姓は竹田。 >>403
宇喜多秀家の部隊構成
総勢17,000
宇喜多家家臣団9,000・・・宇喜多家の家臣の多くは日蓮宗を信仰していた。
明石隊8,000・・・大部分がキリスト教徒。
宮本武蔵(明石全登と直接親交があったらしく江戸期以降の明石市街地の都市設計を彼に託した)もこの隊だったので、全員ではないだろう。
旗印として十字を掲げていたらしい。
記述によればあたかも十字軍の様相を呈していたらしい。
島津の部隊1,588 も丸に十だったから、1万近くの十字が犇めいてたのだろう。
また勇猛果敢な兵たちで、命令なくして逃げることは無かった。
すなわち敵に背を見せて死んだ兵は一人もいなかったという記述がある。
以後キリスト教徒恐るべしとなったらしい。
キリスト教禁止令につながる重大な出来事であったとされる。
なお西軍の残党狩りの直接の担当は田中吉政であったが、
明石(島津)を救出する指示が出されていたらしい。
多分島津は家紋が十字だったのでついでだろう。 関ヶ原の戦いが東軍勝利となった時、
島津義弘はほぼ無傷で孤立しており1,500の軍勢を抱えていたが、
家康の本陣前をすり抜けるという敵中突破を行った。
その際島津豊久など多くの武将は討ち死にした。
島津豊久がこの時着用していた鎧と伝えられている鎧には、
円のない十字が刻まれている。
島津義弘は大阪城に人質になっていた夫人と忠恒の夫人を救い出して、
無事に堺まで逃げ切った。
船行して日向、薩摩の地へたどり着いた。
この時、義弘に従う者は80人ほどであったと言われる。
しかし三々五々帰着した者もおり数は定かではない。
おそらく百人あまりだったろう。
すなわち島津隊は約93%が死亡、7%生き残ったと考えられる。
これを明石隊に当てはめると8,000×0.07=560人生き残ったことになる。 >>405
宇喜多のお家騒動は家中の宗派対立が原因の一つに挙げられるから、
残留組も結構混沌としてたんですな。 >>408
宗教対立というのも、宇喜多左京亮が戸川らの側についている一方で
中村(前田家から豪姫についてきたというが、実際は先代から宇喜多家臣
だったとも)もキリシタンではなかったようだし、宗教対立は主原因とは
いえないようだ。 福岡県福岡市中央区天神に正興山勝立寺という日蓮宗のお寺がある。
そこに黒田の親族と言われている播州明石一族の墓所がある。
この寺を開基したのは日蓮宗の日忠という僧侶で、
キリスト教の神父イルマンらと 宗教に関する問答をおこないこれに勝利した。
初代藩主黒田長政からキリスト教会が保有していたこの地を与えられ寺を建てた。
元キリスト教の寺院のせいか、昭和通り側の山門は洋風である。
山門の上側には金属板にアルファベットのような文書が刻まれている。
どう考えても日蓮宗のお寺の山門には見えない。
もしかして隠れキリシタンの教会だったのだろうか?
日蓮宗とキリスト教徒が混在していた宇喜田家の縮図ではないかと感じられる。
ここにロシア国民を愛し、レーニンに理想国家を樹立するという
ロシア革命を成功させるに必要十分な資金を提供した明石元二郎の墓がある。
明石元二郎の遺骸は台湾に葬られているが、
改葬された台湾北部の三芝郷という超高級なキリスト教墓地である。
福岡の明石家がキリスト教の信仰を保ち続けていた証かもしれない。
明石総督は台湾に赴任して一年そこそこで亡くなる。
遺言は、
「オレが死んだら台湾に埋めてくれ。そして死後もオレは台湾の守護神になりたい」 日蓮宗も色々あるからね。
秀吉から弾圧され江戸時代も禁制だった「不受不施派」とかも。 明石一族の末裔である明石元二郎が台湾に赴任した 際、明石掃部の墓(Akashi Kamon)を発見したというエピソードを語ったことがある >>414
台湾に逃れたキリスト教徒が明石掃部が死んだという情報を得て墓を作ったか。
遺骸が埋葬されているとは限らないだろう。 >>353
>>390
わかる!
かなりステキだったよな。今手元になくてうろ覚えだけどこんな感じだったか
明石掃部頭全登、関ヶ原と大阪の陣の二度の大戦に、いずれも敗者の側に現れた幻のクリスチャン・ゼネラル
ドン・ジョバン騎兵隊は巨大な怪物を目掛けて突撃して行きます…
騒々しくも颯爽と駆け抜けて行く様はどこか喜劇的な風を思わせます グラフィックは人相悪かったような
最新作ではどうなんだろ 2016年の大河ドラマが、真田幸村に決まったんだって。
当然明石全登にスポットも当たるだろうけど、演じる俳優が気になるよ。 明石全登の孫が鹿児島で捕まって殺害されたんだって?
よく名前と雷でわかったな >>418
主役(or主役級)なら、個人的には本木雅弘とかだが
真田が主人公なら期待しない方が良いかもな
当たり障りの無い役者でお茶を濁すくらいなら
いっそ西田敏行とかで大河ファンの腹筋を壊しにきて欲しい >>419
八丈島に流されたけど助命された秀家とはえらい違いだな ブランドが分散してる
ぜんとう、たけのり、てるずみ、・・・
名前10個くらいあったかね。
ナショナル、パナソニック、松下と分散させてた松下と同じ愚。
まずなまえを一つに統一しないとダメだわ。
観光資源として売り出す際にも障害となる。 分散しすぎて性別もグラつき始めたな
大阪城の観光向け某ユニットではカモン役を女性が務めてるしw 明石全登の子はフィリピンに渡った
アカシという姓はフィリピンに残っている まず、名前が良くないね。
「全登」って読めるか?
イチローを見習え。
「一郎」ですら読めない人に配慮して「イチロー」だ。
だからといって安易に「てるずみ」にしてはいけない。
「てるずみ」って舌噛みそうだからな。
その他の名前がたくさんあるけど、どれもこれもいただけないね。
通称の「掃部」なんかいね。
「カモン!」
次に生没年不詳なのもダメ。
履歴書に「生年不詳」と書いて通るか? ありえないね。
現在でも戸籍が無い子供がいたりするけどね。
やっぱり知名度を上げたいなら、世間の信用を得る必要があるからね。
嘘でもいいから、適当に取り繕わないと。
そして、極めつけは、何といっても大坂の陣で真田幸村の影になってしまって
目立たないこと。
「幸村」は江戸時代になってから歌舞伎とかで付けられた名前であって、
やつの本名は「信繁」。「のぶしげ」だってさ(笑) だっさぁ。
そんなやつに負けてどうすんの?
絶対勝たないとね。 スレチで申し訳ないのだが黒田氏って黒田官兵衛の一族の事ですか?黒田氏の祖が源氏だったなんて初めて知りました >>431
真田信繁は武田信玄の弟の名前をつけたんだよ。
武田信繁は信玄並に優秀な武将だったからあやかってつけたと思われ ところで岩田書院の「宇喜多秀家と明石掃部」買った? >>432
黒田氏は、近江の宇多源氏・佐々木氏(京極氏)の庶流を称している
実在が定かでない、近江国伊香郡黒田村の住人・黒田高政なる者が、
合戦で抜け駆けして将軍・足利義稙に追放され、備前に流れ着いて
備前黒田氏の祖となり、高政→重隆→職隆→孝高(如水)ということらしい >>436
なるほど、近江の出身多いよね、尼子もそうだしね。 戦国大戦でぶっ壊れ性能になってて結構注目されてるっぽいから、これを機に知名度上がったりしねえかな… 宇喜多騒動がなければ第一人者になることもなくよけ埋もれてたな。 >>438
明石全登は、宇喜多家から4万石、豊臣家直参として6万石の合計10万石の領主
真田昌幸(3.8)、大谷吉継(5)などより大きな大名 アンチて必ずわくなw
いつも無視されてる人の嫉妬だと思うが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています