明石全登は名将なのに知名度が低い
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突撃のタイミングが分からないようでは、
名将とはいえないね 関ヶ原でも宇喜多勢中かなりの兵数を率いているんだが
確か宮本武蔵も明石隊だったはず ググったら、1万7千の宇喜多勢のうち
8千を指揮したとのこと
東軍の先方福島勢と互角以上に戦ったそうだけどどうなんだろう はじめ信長の野望で明石ぜんとうって奴中々強いな
そんな認識でした あるよ、学研M文庫で。
キリシタンがらみの話が長い気がするけど 宇喜多秀家を裏切り徳川家に逃げた奴らと比べたら
全然カッコいいよ、まさに漢
やる気満々の坊ちゃん大名とそれを支える軍略知略抜群の家老
秀家と全登のコンビは華があってよろしい
全登の嫁は直家の娘らしいが本当か?
関ヶ原後の行動はどうだったんだろ?一応行方不明ってことだったんだけど。
秀家と一緒に行動してるなら九州まで一緒に行って黒田にかくまってもらったとか
想像できるけど。合戦場でいきなり黒田にかくまってもらうってのはむずかしいだろうし >>15
キリシタン関係六割
逃亡(隠遁)生活三割
関ケ原大坂合戦一割
みたいなかんじだけどねw
逃亡生活はキリシタン関係みたいなモノだから、実質九割は
キリシタン・ジョバンニ明石と仲間たちの話w 家老だが、故あって客将扱いだったと聞くが真相は如何に? 今の会社でも、有能な人を入れたいけど、社内秩序も守りたい時、社外取締役として入ってもらう、ってことも
少なくないわな。 父・景親が浦上家の降将で譜代じゃないから、客将なのかも? >>27
銀河英雄伝でいうトコロのメルカッツ提督みたいな立場か。 昔、明石全登が家康の息子でキリスタンの小笠原某を
養子にしていたという本を読んだことがある。 >>28
最終局面でビッテンフェルトな水野勝成にやられちゃうってのがそれっぽい 大阪城一番槍のオッサンに殺られたのか…
大将のくせに一番槍なんかやる奴、明石の旦那くらいの用兵巧者なら討ち取ってしまいそうに思えるが
相手が悪かったか。 やる気満々大将:宇喜多秀家
冷静現場指揮官:明石全登
ガチンコ雑兵:宮本武蔵
マジこのトリオ最強すぎる >>31
明石はキリシタン兵率いてた?んだよね?キリシタン兵の実力はしらんけど
兵がしっかりした兵じゃなかったらいくら明石でも無理じゃ? >>34強いか弱いか→山科勝成
存在すらアテにはならんが
以前見た本では
たけのり
って書いてあった気がして、でもどうやら正しくは
てるずみ
のようだし、
ぜんとう
とそのまんまふりがながあったのも目にした記憶
普通は「てるずみ」なんて読めないよね
澄←なら分かるけど >>38
もしかして「澄」の字を間違えて「登」と書いた文書のものが、そのまま後世に広まったのかもね。
昔の人の名前はたまにそう言うこと有るからな。 昔は全登って「てるずみ」なんて読めないから「ぜんとう??」って呼んでたな。
語感から入道してるヒトなのかと思ってた。しかもキリシタン。
この入道+キリシタンってパターンで勝手に宗麟みたいなのを連想。
あんまいいイメージを持てなかったな。 >>39
その説、納得。
誤伝って広まると、正しい読みとか駆逐しちゃうからね。 それ、最近はカズマスって読んでるのが多いな。
昔はイチマスのほうが多かったけど 名前の読みは、平仮名で書いてある文書が出てくれば解決することだな。 織田常真は仮名で書かれているのが両方あって混乱してなかった? >>47
日本人は昔から漢字を割合自由に読んできたからなあ。めったに使わない諱の場合は特に。
西郷隆盛なんて自分の名前の「隆盛」を「リュウセイ」と呼んでいたとか(基本吉之助だしね) 司馬遼太郎の城塞には九州に逃げたことは確かだ、って書いてあったけどどこまで信用していいものか… >>51
写真も無い時代に、よく手配して捕まったよな。
「明石狩り」は見知らぬ浪人を見たら110番、みたいな感じでローラー作戦をやってたのかな?
縁者からの密告とかもあったろうけど。 >>53
写真無くても人相書きやらなんやらがあるし、田舎なら田舎なほど見知らぬ人間がどこかに現れればあっという間に
その話は広がる。 山奥にでも逃げられないのか?
日本の国土の7割は山なんだがね >>56
山奥でまともに暮らせるなら暮らして見なされ。
「山奥は、何故山奥のままなのか?」を考えてみるといい。 山奥に変なジイサンが住み着いて、
月に一度か二度里に下りてきて日用品を購入する
ま、誰かしらお上に届けて山狩りするだろうな 僧形になるのが一番無難なんだが、如何せん信じてる宗教がw 洞窟に住み着くのだって農民の援助が必要だしな。
頼朝とか三成とか。
やっぱりレオンに倣ってマニラに渡るしかw 旧領に戻って、領民に助けてもらいながら
コッソリ生きていくしかないんだろうな 逃げた先については諸説有るようで。
ttp://www.geocities.jp/senryusai/senryusai.akasi.html 名前の読み方なんかなんとでもなるからな。
俺の名前も漢字は信長だけど読みはひでよし。 >>63
英語がスペルと読みが全く一致しない言葉が多い、と言うギャグで、
「あなたのお名前はGyjnauidnhfhigjkhjdadxwiy…?申し訳ありませんがこれはなんとお読みするのですか?」
「ジョンです」
と言うのを思い出した。 鳥居強右衛門か
いいじゃん
別に三成贔屓の奴が皆家康嫌いってわけでもないだろ すねエモン:鳥居強右衛門
のびた:徳川家康
ジャイアン:織田信長
スネオ:豊臣秀吉
しずかちゃん:森欄丸
出来杉くん:明智光秀
担任の先生:武田信玄 よく「ジョバンニ、ジュスト」と書かれてるけどこのジュストて右近のと混同って事はないよね? 日露戦争の明石元二郎の先祖らしいな。
くわしいこと知っている人はいる? らしいけどさ、息子は逃げきれないで捕まって処断されてるし…親父は逃げ切ったのかな?
クリスチャンなら自害もしないし…いくらなんでも今度は黒田は匿わないだろうな >>563 備前明石氏
戦国末期に活躍した備前国和気郡の土豪武士。
明石氏の祖は、赤松則村の子赤松範資。その5世
の孫周防守宗安が天文年間(1532〜1555)播磨国
明石郡に封じられ、初めて明石姓を称した。その子
清景が備前に移り和気郡坂根城(現備前市坂根)に
拠る。清景の孫源三朗景憲は1581年(天正9)宇喜
多、毛利の合戦とき児島郡麦飯山城で討ち死にし
た。景憲の長男が飛騨守景親、二男が三左衛門尉
景季でともに最初天神山城主浦上宗景に使える。
1577年(天正5)宇喜多直家が宗景を天神山の攻
めると景親、景季も直家に従い、景親は宇喜多直
家の客分として4万石を領す。景親の子が掃部頭
全登、その子が久兵衛景行で景季の養子となった。
景行の養子(実は弟)が右近で、直家に仕え4500石
を領したが1593年(文禄2)正月朝鮮出兵に従軍し
て戦場死した。全登は直家、秀家に仕えて知行2万
石を領し、関ヶ原の合戦の時は宇喜多勢の将となり
大阪方に属して奮戦、敗れて岡山城に拠って再起
を企てたが果たさず備中足守に潜伏。1615年(元和
元)大阪の陣に景行の子久蔵宣行ら一族を率いて
参戦したが破れ、潜伏3年の後に赦され、後に病死
した。景行は宣行が大阪の陣で討ち死にしたため、
和気郡吉永の土豪武元正高を女婿に迎え、徳川を
はばかって江戸時代は武元姓を称した。武元登々
庵・君立の祖で代々名主または大庄屋をつとめた。
維新後は明石姓に復した。
(岡山県大百貨辞典より)
明石徳三・・・2代目笑福亭松之助、明石家さんまの師匠 >>84
秀次に仕えていた時、同僚に明石則実という人物がいたからその縁かも? 亡命したのは台湾じゃなくてフィリピンだよ。
だからフィリピン人は基督教徒が多い。 琉球→台湾→ルソン→アユタヤ→ゴア→マダガスカル→コルドバ→シチリア→ローマ
史実ではかなり移動したようだ。最後はスペインで司教やってたみたいだね。 光栄のゲームではステータスけっこう高いから、使えるヤツだ。 実際福島を手玉にとる手腕持ってるし凄いんじゃない? 大坂の陣で戦死していれば、後藤又兵衛や真田信繁クラスの有名人になれたかも。
戦死しないと、凄いやつでも一般の知名度がイマイチなんだよね。 「まさずみ」とも読んでるの見たことある気がするが。
なかったっけ? 日本がキリスト教化すれば、真田や後藤など比べ物にならないくらいの有名武将になるだろう。
それがいい事かどうかは知らないが。 肥から発売された決戦で良い感じに傾いてたけど
ゲームがマイナーすぎたな 明石焼きとか関東でも聞くからそんなに知名度低くないんじゃないの 後藤はともかく明石は別に吸われるって程のもんじゃないだろ
あと泳いだ宇喜多に衆目集まってて長宗我部も影薄くなってるな
まあこやつは関ヶ原でチキンだったから自業自得の感はあるけど >>122
チキンも何も東軍に加わろうとするのを、
無理矢理西軍に組み込まれてしまえば戦意はないだろう? 盛親はロクに戦の経験もないのに
藤堂高虎隊を敗走させてるから
家康側についてたらそれなりに活躍しそう。
チキンというより運が悪かった男。 裏覚えですマソ。
明石は、関ヶ原では宇喜多勢のうちの4千を率いて
猛将福島勢正則を、巧みな鉄砲隊の指揮で散散にうち崩した実績あり。
もっともこの時の福島隊は、夜を徹して30kmの無謀な行軍で疲れていたが。
小早川の裏切り以後明石隊は壊滅したが、キリシタンの彼は死に場を
求め戦場を彷徨っている時に親戚の黒田長政の目にとまり匿われた。
大坂冬の陣では、軍議に出て不在時に
自陣を襲撃され後れを取ったエピソードあり。
夏の陣では、小規模ながら水上部隊を指揮したとか。
夏の陣屏風の城のそばの船は、それだとか。
但し陸上部隊として十字架の旗指物をつけている武将もいるようだが。
戦の流れを読むも一流、あの島左近も一目置く名将中の名将。
直江とかめじゃないぜ!大河に汁! うーん、確かにそうだ。
でも、スマン、このスレタイ見るまで
存在、忘れてたよ。存在思い出したとたん、
スゴサも思い出したが。
まあ、自分はどっちかというと
歴史好きっていっても戦国より、三国志、
ローマ、英仏戦争、ルネッサンス寄りだから、
こんなものなのかもしれないが。 秀吉の伴天連追放令で京都から長崎に護送された
フランシスコ会の宣教師らを、宇喜多家の領内で
護送した経験があったとか。
丁重に扱ったのは言うまでもない。 関ヶ原、大坂の陣の両大戦で活躍し、しかも逃げ延びてついに終る所を知らず…
こんな奴他にはいないね!
もっとメジャーになっていいと思うけど、名前が読み難いのがネックか 島左近とかあのへんよりずっと活躍したのにねえ
明石に1万の軍勢を与えて前線の指揮をさせれば徳川3万とも互角の戦ができるだろ
福島なんか相手じゃなかったし
大坂夏の陣での、伊達が神保を同士討ちで殲滅してしまった事件。
きっかけは明石隊の突撃にあったらしいね。
大阪の陣で、明石隊の配置が後ろだったのは、家康の陣を迂回強襲するつもりだった、とかいわれているけど。
これは信憑性あるの?
主戦場からはなれていすぎるような。実際、間に合わなかったし。 廻ろとはしたが見つかってそのまま戦闘。そもそも廻ろという考えそのものが無謀。 茶臼山で布陣している真田幸村からの合図待ちだったんじゃないの? むしろ明石隊は、相手に回りこまれないための予備防衛だろ。 >>137
明石全登「お前はもう死んでいる」
福島正則「アッ、アカシィィィーッ」ぶしゅううぅぅ!! やっぱ華々しく討ち死にしてないからだな
マイナーなのは てるずみ?
むかしは「たけのり」って本に書いてあった記憶があるんだが 関ヶ原と大坂の陣以外ではどんな戦に従軍しておったのだ?
毛利と闘ったり、秀吉の起こした戦いに従軍して活躍したりしてたのか? ↑さんくす!
洗礼名までメンドクサイ明石さん流石w 実際過去の実績を見て大阪で使えそうなのは
S:明石、後藤
A:長曽我部、大谷、毛利
B:真田、塙直之
徳川家は明石の武勇を恐れていて
家康の時代と家光の時代に2度明石狩りやってる >>167
大野治房も生存の風聞が出たことがあったような 明石、キリシタンを率いて島原制圧…か
( ゚д゚)
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 ̄ ̄ ̄ 大坂夏の陣で一番美味しいところを福島や大谷に持って行かれたのが痛いな。
福島や大谷の活躍は明石が敵(水野)の足を留めていたおかげなのだが。 真田信繁、直江兼継、明石全登のトリオって何か呼び名なかったっけ >>116
ブレイドストームが三十年戦争題材にしてれば旧教軍に参戦していただろうに 映画の主人公にピッタリだと思うがなぁ
謎の部分が多いところなんか、脚本家の腕振るい放題だと思うんだが
ダメか・・・ 明石って、確か、男塾2号生筆頭で、斬岩剣の達人ですよね? >>184
…想像したくないが、どうなるのか聞きたくもある… 大坂落城後の明石全登の消息については不明とされてますが、
東美作の歴史について記されている『東作誌』を見ると
明石全登は美作国吉野郡後山村に落ち延びたという話が紹介されている
それによると、全登は後山村に定住し、黄金若干を所持していたため田畑を多く買い取ったものの、
横柄で村民を見下したため村民の怨みを買い、喧嘩によって殺害された
全登の妻はこれを聞いて大いに怒り、長刀を持って百姓7人を殺害したという
恐るべき情報が記されてます 一方で、同じく落ち延びて影石村に住んだ明石延義の子孫は、
村人にも厚遇され、徳川を憚り中島姓を名乗り続いたと好対照な記述が 明石全登の子孫・同族か不明だが、(美咲町の)旧旭町に明石京太夫という人物の墓がある。 >>190
どういうキリシタン観だよそりゃw
ちょっとボケてるんじゃないの 俺の苗字、浮田って言って
じいさんは岡山出身なんだけど
なんか関係あるのかな? >>195
岡山の児島あたりには今でも浮田さんが山ほどいるぞ。 桃太郎と秀家公って何かイメージが近くない? 次いでにお供と明石さんもww 戦後数年経って捜索があったのは左近と明石全登だけかな?
生存説ある奴はいっぱいいるけど
朝鮮出兵で戦の経験があると思われるが、父とともに従軍しているので
陣頭指揮をしたのは関ヶ原が初めてだったかも。
>>201
家光の代でも探索があったらしいから、余程存在感あったんだろね。直系者達が氏を変えたってのも信憑性あるわ。 >>175
息子に関しては麿が知ってる限りでは上の方はあぶり出されて出頭→赦免
されて帰農。下の方は伊達藩領内において、製鉄とキリシタン信徒の代表
をやり続けてたが最後の「明石狩り」において捕縛→江戸への護送中に宇
都宮で病気を得てそのまま死去。って記録だったような。 大坂の陣で戦死して、死体が見つからなかっただけだと思う。 名将 = 有名な武将 なのに 知名度が低い…
矛盾しまくりなタイトル >>201
たしか大野治房も生存の噂が流れて、捜索が行われてるはず >>201
掴まって斬首されてるのに、それはなかろう 明石氏の本領、吉永出身ですが、町内には明石姓も武元(明石氏の別姓)姓も、さらには浦上姓も普通にいますよ。 明石氏の家紋…どっかのサイトに「竹丸に桐」って載ってたんだけど、今も受け継がれてんのかな? >>209
でも大坂方で戦後行方不明な武将って結構多いよ。
当時の環境考えればそれほど捜索の厳しくない大名の領土でおとなしくしてりゃ
案外ひっそりと平和な余生を過ごしてたのかもよ。 >>217
他聞に漏れず明石も落人伝説が多いし謎だらけ… 吉永町内には、明石掃部屋敷跡なるものがあり、大阪の陣(関が原かも)後
隠棲したと伝えられている よく"類が及ぶ"って言い方をするけど、具体的にどれくらいの近親までが苗字を変えたりして、係累である事を隠したのか(隠さざるを得なかったのか)気になるなあ。特に直系子孫。 俺の先祖、この人を討って出世したよ。祖父の実家の蔵に、この人を討った時の槍が家宝として残ってるらしい。ちなみに先祖は伊達家家臣。 おおすごいねその槍ちゃんと手入れして大事にしてよ
所で明石全登って討たれたんだっけ >>224
後詰めを隣在の諸侯が引き受けてれば、突進出来たカモン… >>223
討たれたっていう話もあるみたいだけど、死体があがらなかったみたいだな。
大野治房にしても、処刑されたという話のほかにも生存説があって、大坂の陣
から30年くらい経って、生存の風聞が流れたりしている
死体ないなら討ってはいないよね槍をつけたってことかな >>225
どこも手一杯なのに、いったいどこから引っ張って来るんだ >>229
開戦時から実働してたのって西軍の3〜4割ぐらいじゃなかったっけ? スレタイ見て名前が読めないからだよって
書こうと思って開いたらすでに散々書かれてた件 軍師として素晴らしい成果残してるのに知名度が…
ぜんとうさん…。 >>234
黒田藩士の明石氏が多分そうじゃない?
備前・美作の帰農組は(既出だけど)途中で武元や川西(?)って苗字に変えて、
明治期に元に戻したとか戻してないとか… 明石は名前の読み方が多すぎていかん
それが知名度の足かせになってるんだろ
パナソニックも、パナソニック、松下、ナショナルと
ブランドが分散しそれが弱点といわれてたが
パナソニックに統一した
明石も何か読み方をひとつに統一したほうがいい >>236
禿同。大坂の陣の配置図などでは、同一局面で二つの名前が見られたりして、同姓の別人とも受け取られ、紛らわしい。 >>238
よしずみとは読まねーんじゃないか
ぜんど、てるずみ、またはかもんのかみ 明石が過大評価とか
笑っちゃうね(´・ω・`)
明石並の武将は多くいるが、優れたる武将はそういない 真田幸村は過大評価だと思うが明石全登は過小評価なのかそのままなのかよくわからんな 天草四郎が秀頼の息子って説あるけど、明石全登の息子って説もあるね
>明石並の武将は多くいるが、優れたる武将はそういない
え?詳細な日本語で 明石と同じくらいの将帥ならたくさんいるよ
でも彼よりも有能な将帥は限られてるよ
と変換 関ヶ原の前哨戦と言われる杭瀬川の戦いで
島左近と組んで東軍をボコボコにしたのに
なぜか島が全部やったみたいに言われてるし
島なんて関ヶ原開始直後に消えてるのに名将扱いだし
明石の方が絶対上だろ
関が原では兵力差の割りに福島にねばられすぎじゃね
さくっと蹴散らしてりゃ違う展望もあったかも知れんのに 父・景親って何年頃に没したか分かってないんだっけ? >>255
宇喜多は福島に全軍投入してる訳じゃないしね
仕方がない 当時の宇喜多は主力武将が揃って抜けてる状態
明石さん始め他にも複数人残ってはいたが、これじゃ勝てないよ 福島6000と対峙してたのは前線の明石8000じゃない?
秀家10000は本格的に戦闘はしてないのでは?
騒動で宇喜多家を抜けたのが戸川などの歴戦の猛者達だからな痛すぎるわ
まあ・・・いつの時代も宗教は怖いということでありまして・・・ みんなで伴天連に改宗してポルトガル妖術を習得していれば勝ったものを。 >>261
関ヶ原スレで外出だけど、宇喜田の一万五千って陸軍が明治時代に
石高から算出した値だから、当時の手紙によると八千位らしい。
宇喜田騒動で出て行った重臣達の石高考えると納得の行く数値。
で、前衛で蹴散らかされたという話が本当だとすると、福島さんって・・・。 大河ドラマの類いでは、関ヶ原での扱いが主従共々軽く描かれてるのが残念無念 突如裏切って三成の側面を突いていれば
秀秋くらいにはしっかり描かれるんじゃね
>>264
> で、前衛で蹴散らかされたという話が本当だとすると、福島さんって・・・。
軍記物の嘘だな。西軍は小早川隆景の参戦以前の、正午までには敗勢になってる。 >>264
そもそも福島は猛将でも何でもない。
朝鮮出兵でも後方支援中心だったし。 何故誰も「小早川隆景」に突っ込まない?
それとその根拠とされる島津の雑兵が実在した証拠はあるのか? 大阪の陣での真田毛利と組んでの最後の勝負も燃えるね
真田毛利が囮になって孤立した家康を明石が討つという作戦
やはり家康を討てるのは名将明石しかおらんわな >>273
いやもちろん全体の戦況が個々の部隊に伝わったら、敗軍(と決した)側の諸隊は士気が下がって遅かれ早かれ敗走するよ
自分が言いたいのは、負けた西軍側にも、
"己の持ち場の範囲に限っては"圧倒的な優勢を保持してた大名が居てもおかしくないだろうってこと >>270
猛将というイメージが一人歩きしているから仕方ない。 >>279
もしくは、他の大河より多くシーンが割かれると思われる江戸・大坂手切れの辺りで、大坂城への派手な入場かな?
何で明石家の通字っぽい「景」の字が付いてないんだろ? 宇喜多軍団の6組の先手備6人の旗頭のうち宇喜多家を去らなかった者は
長船定行と明石全登の2人だけでさらに長船組から組頭の3000石の長田右衛門允と6000石の浮田平吉が離脱
加えて1000石の寺尾久六と1000石の祇園忠兵衛も離脱
他の小身の者も含め長船方の離脱者の知行高の合計は1万1010石
全然脱落していないのは明石全登組だけで
6組の先手備の総知行20万8848石のうち、11万1649石分が脱落したそうな
全体の53・5パーセントに当たり、過半数を超え先手備の多くの陣大将や組頭が欠け
宇喜多騒動で宇喜多軍が弱体化したのは間違いなく
そんな宇喜多軍で奮戦したから明石全登の武名が高まったんだなぁ 脱落した分の知行ってどうなるんだろう
中堅以下に分配されるか主家の直轄になるってこと? 穴埋めに新規に名のある人を雇ったりしたみたい
大谷吉継の推挙で本多政重を登用したりとかしたそうな 私みたいな初学者には>>283などはスゴくためになります、ハイ 忠臣っぽい扱いだけど浦上を裏切った父以来ずっと宇喜多家では客将扱いだったよ。
宇喜多騒動がなければ宇喜多家の政務に絡むことはなかったかも。 宇喜多とは軍事で協力関係にあった同盟者って感じだったみたいね明石
宇喜多家の家政には明石は干渉しないし、宇喜多も明石家の領地の政事には干渉してなかったとか
宇喜多騒動で家老が多く去ったもんだから秀家から政務でも協力を頼まれたのかね なんと言っても浦上の家老中の家老の家だし直家も自治性を残して厚遇はしたけども信用は置いてなかっただろうな。 元は僚友で、一方が独立・拡大するや片方は協調し、姻戚関係を結びつつつ重臣に・・・
素人目には秀吉と前田利家みたいな関係に映るな 手柄をうまいこと幸村に奪われたかんじの人ではある
でも明石は生きてる〜って徳川将軍が捜査させたのは大物っぽくてすげーと思う >>295
キリシタン一揆が起きるかもと予測してるなら明石指導の一揆は脅威になるな…
やっぱり関ヶ原の無双が評価されてるのかな?
大阪じゃ精彩を欠いた気がするけどw >>295
明石狩りは家康死後の2代目3代目が変な使命感に燃えておかしな事になってるな
大阪役とは全く無関係な血縁とその近親者まで根キリにされてるし
家康自身は大阪方にいた明石の末娘を放免にしてるのに キリシタン問題がリアルに治安問題として存在したからな 大坂の陣で家康を最後まで狙っていたのは真田毛利明石だろ?
そりゃ徳川としたら怖い存在だろ、関ヶ原の采配も見事だし >>300 自己レスだが
これを貼った後、高島アナ入籍を知った
(明石掃部役の故・竜崎勝氏は彼女のお父上)
チラ裏スマソ 諸国の切支丹をまとめうるのは高山右近じゃなかったのか。この頃はもう国外追放されてたの?
そもそもこれって何?真田太平記? えっと、ちょっと調べてみたらちょうど大坂の陣の直前ぐらいに国外追放になってるかな
そういえば高山右近のキリシタンの弟子でもある加賀藩2代目藩主前田利長も
この時期に亡くなってる・・・・ 暗殺説が出るのもしかたないタイミングだ・・・ 面白そうな時系列だなw
>>303
原作は司馬遼太郎
CSやケーブルのホームチャンネルで再放送もされてる
全話見たけど大坂の陣なんぞは天地人や江よりマシ(笑) @wdaimon
渡邊大門
今日、明石全登の論文を読んだ。端的に結論を言えば、明石全登の一次史料はほとんどないということがわかった。
http://twitter.com/#!/wdaimon/status/145122928147701761 明石さんであれだけやったんだから
岡さんとか花房さんとかやばいのいっぱい残留してたら大御所死んで棚 明石さんは関ヶ原を生き残ってどっかで別人になって余生を過ごしてたに違いない 大坂の陣といえば
既出だが、カモンと守重が一枚の地図に表記されてるのが未だに気になるなw
別人なのか同一人物(の別名)なのか判然としない 明石狩りが行われたのに、島狩りが行われなかったのは何でだ? キリシタン過激派のトップに起てるのが明石
島とじゃダンチ 島の左近がいたから石田のみっちゃんは頑張れたんだよ
ちなみに原哲夫のSAKONは贔屓の引き倒し
それとは関係なく明石さんはやばい 明石はそんなに宇喜多家中で高名だったの?
ちょっと強いくらいでしかないように思う。
そうだとすれば,家中が揉めなかったらどれだけ宇喜多が強かったのだろうと思う
とはいえ,宇喜多ってそんなに強かったか?とも思う 明石は宇喜多家中で知名度も認知度も低かった。
内政官として雇われたんだからな。
実は戦も上手かったってのは、関が原で初めてわかった。
宇喜多家は強いぞ?秀吉に従って、ずっと合戦に明け暮れてたからな。
あれだけ戦慣れしてる大名家も少ない。
福島って正則か?なんで福島正則が出て来るのか解らんが
にわか大名でしかも尾張の弱兵だからなぁ 高松城の水攻め以降、宇喜多家中が秀吉の下で得た経験値はトップクラスかもな 確かに掃部は父に従って従軍経験は有りそうだけど、自らの指揮は関ヶ原が初めてだと思う。
多分、秀家は全明石に先鋒任せるのは
相当不安だったはず
やらせてみたら、抜けた連中よりずっと使えたって拾い物 スレを読んで改めて知名度低くて当然だと再確認
誰それの首とったとか分かりやすい活躍や戦績あるわけでもないし
活躍したのが負け戦じゃそりゃ有名にならんは
真田幸村みたく創作で知名度を上げるのを狙うのが一番かね
こういう武将は 関ヶ原に勝ってたら
後世の徳川四天王への声望はカモンや左近に来てたろな >>331
明石くらいしか任せられそうな家臣がいない状態だしな。
浪人を積極的に採用しているとはいえ、宇喜多勢は指揮官クラスの重臣が
軒並みいなくなっている状態。
ちなみに、関ヶ原直前に戸川から明石へ降伏勧告のような書状が届くんだけど、
それに対する明石の返答はなかなかに格好いい もう少し事績がわかれば歴史物のドラマに出来るんだろうけどねぇ 親父の明石景親は浦上裏切った後もあんまり直家から信用はされてなかった気がする。
浦上時代のでっかい所領はそのままで迎え入れられたけど客分扱いで宇喜多家政とは無縁だったし。 明石ジョアン・ジュスト全登もかなりのもんだったみたいだけど、
先代直家公の家臣団の武闘派ぶりは相当なもんだったらしいから、
彼らが出ていったのは痛い >>333
関が原で徳川四天王は活躍してないんじゃない?
酒井さん戦の前に死んでるし
榊原は中山道だし… 大坂城から脱出して、最後は西南蛮に渡り、ウェールズ相兼植民相になった。 明石全登を最初に映画で演じたのは、あの、世界のミフネだったんだよね。
それだけでも凄いとおもう。
あと、TVドラマ『関ヶ原』でも誰かが演じてたよね。
葵 三代では、松橋登が演じてた。
嗚呼、俺もいつかは演じたいなぁ。。。w >>341
スマン…そういう意味じゃなかった
勝者側なら当然得たであろう"後付けの"名声をカモン達は手にする事が出来たんじゃないか…と
つまり、徳川四天王は東軍が関ヶ原に勝たなければ今ほどの知名度は無かっただろう…とw 秋田県比内町に明石全登の子孫と伝えられる一族がある。家伝によれば大阪落城後に仙台で伊達政宗に保護される。しかし、幕府の詮議が厳しくなったので津軽に移動し、津軽信枚の保護を受けて弘前城内に匿われた。 >>345
ほんとだとしたら、津軽さんはいろんなのを匿っているなあw 伊達に匿われるってのは何かあるのかな?
スペイン関係? 演じた俳優 松橋登(『葵 徳川三代』、2000年、NHK大河ドラマ)
葵では登場回数が少なかった 名前の読み方を知らない人が多いのも知名度が低い一因 タケノリでいいの?
何かの本にゼントウってふってあったけど 明石全登は、信長の野望天翔記の武将fileに描かれてた
イラストとその説明が、無類に良かったなぁ。。。。。
役者の端くれの俺もいつか、明石全登をブラウン管の中で
演じてみたい。www >>353
いいねぇ
この人ほど西軍系でスポットライトあたってない武将も珍しい…好演キボンヌ
本書きを諦めた俺の分まで頑張ってくれ…マジでw >>354
信長の野望とかだとてるずみって書いてあるね
本によって振り仮名が違うw 明石、精鋭を率いて迂回し家康本陣を急襲
これが実現していれば・・・。 >355
ありがとうございます。
大河ドラマに出れる役者目指して頑張ります。 それでも、天王寺で300で4000の水野勢に挑んで鎧袖一触だった気が…。
諱(全登)の読みは、「たけのり」の他に「てるずみ」「ぜんとう」「なりとよ」などが伝わる 誰にでも読み易い名前ならば
ドラマの登場回数増えるだろうに 五人衆に数えられるわりには大坂の陣での活躍が少ないからねぇ……
俺は好きなんだけど 神保相茂などの記録から推測するに、
勝永や幸村が正面から激突しているところに
木村・後藤の残兵が左から、全登が右から抉って家康側を崩した感じ。 >>362
「全登」は法名か何かだと思ってた
大友宗麟みたいに それも可能性の一つじゃね?
守重とかも別人説、同一人物説あるし >>369
細川書状だかでは見事な働きと真田や後藤らとともに褒め称えられてるがな
逆に一次史料には活躍の見られない毛利とかが2chじゃ持ち上げられすぎ とにもかくにも大坂の陣は一次資料がほとんどないからなぁ。 大坂の陣で無いって言ったら他の合戦は皆無レベルになっちまうわアホ 明石系図として伝わってる武元系図は残念ながら大した信憑性はないようだよ。
明石景行は全登の息子じゃなくて行雄の弟で上月城合戦の時に死んでる。明石久兵衛=明石景行もデタラメ。 武元系図の行雄の弟になってる明石景季が明石景行とイコール、出自が謎だけど明石久兵衛が実子の居ない景行の養子に入った?
明石宣行は・・・よく分からん。岡越前守の組頭とか書いてあるのもあるが宇喜多家臣で4500石の明石久蔵の諱は現在まで分かってない。
浦上宗景武鑑の頃から名前がある明石久蔵が全登の孫ってのもちょっと考えられない。
武元系図
┳行雄━全登━┳某
┃ ┣景行━宣行
┃ ┗右近
┗景季=景行(久兵衛)
予想
┳行雄━全登━━(?)
┃
┃
┗景行→(死後に景行所領の東山城を明石久兵衛が、北曽根城を明石右近が分けて継承) 小川博毅『史伝 明石掃部―最後のキリシタン武将―』(橙書房、2012年発行) そもそも宇喜多氏の家中の仕組みが未だによくわかってない 戸川たちが出てった後はこの人が宇喜多家中を仕切ってたんでしょ?
なんか武辺者扱いされてる事の方が多いけど政務にも長けてたんじゃないの 何年か前の新釈眞田十勇士ってアニメで関ヶ原で大暴れしてる明石さんはマジで格好良かった >>380
かなり詳しそうだ。
ttp://sengoku.at.webry.info/201302/article_3.html ぜんとくんっていう、ゆるキャラ作ればいいと思うよ。 【映画】士魂魔道 大龍巻では、三船敏郎が、明石全登を演じてたんだね。
初めて、映画の中で登場して、それが世界のミフネだったなんて凄いよ。 信長の野望の攻略本の中で 武将Fileにイラストで
明石全登の説明のシーンが、最高だよ。 夢だけど、明石全登を演じてみたいよ。
【映画】士魂魔道では、ミフネさんが演じていたなんてあまり知られていないよね。
世界のミフネと、役者最底辺の自分か・・・・・
もし、演じれることが巡ってきたら。。。。。 所詮大阪方に付かなかったら下手したら信長の野望にすら出てないレベルよ 名前が多すぎて認知が分散してるんじゃないかな
てるずみ、たけのり、ぜんとう・・・
他に10くらいあったはず 関ヶ原の合戦の際明石掃部は田中吉正(近江源氏)の配下と接触、親族の黒田(近江源氏)に引渡された。
福岡の明石一族は3家系が黒田藩の上級武士として江戸末期まで大名町に住んでいた。その末裔の一人は明石元二郎将軍である。
明石掃部だけは秋月の黒田藩にかくまわれていたが、執拗な明石狩りの結果、久留米・柳川藩の田中忠政を頼った。
大阪の陣で明石掃部は千葉(近江源氏)の一族に殺害されたという記述があるが、実のところ彼らにもかくまわれたと思われる。
なお明石掃部の一族は薬師(くすし)であり、明石掃部も医師であった可能性がある。 宇喜多勢8,000名を率いて先鋒を努め、福島正則を相手に善戦した。西軍敗走の際に田中吉政の家来・上坂万兵衛と接触したという記述がある。
注 明石掃部の正室は田中吉政の娘とする説がある。 大河官兵衛に出て欲しいと一時期は思ってたが、あの出来じゃむしろ出て来ない方が良いカモンな 福岡の明石一族の出自は播州である。
神戸市西区にあった枝吉城の城主一族と考えられる。
家業は古墳時代より薬師(くすし)であった。明石国造と言われている。
薬草を収集するために所領は大和〜中国山地の広大なものであった。
大和〜摂津〜播州〜備前(和気郡に和気清麻呂公以来の薬草園がありそこも所領としていたらしく明石屋敷があった。平安末期法然上人の父押領主の漆間時国を殺害した美作国の領主明石源内武者定明も明石一族である。
)。 明石覚一は明石検校とも言われている。足利尊氏の従弟といわれ明石の駅長に任ぜられていた。
中年まで播州(兵庫県)書写山の僧であったが、急に失明し琵琶法師となった。
彼は自分の屋敷に当道座を設立して、みずから惣検校となり、盲人の地位向上に努めた。
(明石屋敷→当道座→洛央小学校)
この地は東洞院大路に面し竹田街道に至る交通の要衝であった。
覚一は当時の天皇・公家とも親交があり、琵琶以外にも按摩(あんま)・鍼灸(しんきゅう)の達人でもあったとされる。
彼も明石の一族と考えられる。 明石氏の最期の枝吉城城主は明石与四郎則実である。
彼は但馬豊岡城において2万2,000石を領するまでになったが、次のような讒言を信じた秀吉により賜死となった。
次の話はあるお寺の住職から聞いた話で裏づける記述はない。
明石与四郎則実は三井寺の僧兵と結託して秀吉の殺害を企ててるという話である。
その結果明石を恐れ、三井寺を恐れた秀吉により明石与四郎則実は賜死となったとされているが、実は謀反の首謀者として彼を弔うこと自体も禁止したらしい。
これは豊臣秀吉による第一次明石狩りである。この当時明石則実の親族の多くは苗字を別の名前に変えたという記述がある。
また同時に三井寺の僧侶を寺ごと抹殺した。
世間から顰蹙を受けたため、秀吉の死後豊臣秀頼、淀君そして徳川家により三井寺は復興された。
そして関係した豊臣秀次を殺害することになる秀次謀反事件につながることになった。 >>397
関ヶ原の合戦では宇喜多隊は総勢17000ではなかったかね
57万石の太守なのに8000しかない? 明石国造は倭国造と親族とされているが、
竹田街道は和漢の薬品交易の重要なルートであったと思われ、
明石国造と倭国造両者は交易により莫大な収益を上げていた。
倭国造の係累と思われる人物を次に記してみる。
近江屋長兵衛(初代) おうみや-ちょうべえ
江戸時代中期-後期の奈良/大坂の商人。
寛延3年生まれ。叔父の綿商河内屋武兵衛の養子となる。
大坂道修(どしょう)町の薬種仲買商近江屋喜助につかえ,天明元年堺(さかい)筋に店をもつ。
和薬・漢薬・西洋薬を手がけ,地方取引をひろげ,武田薬品工業の祖となる。
寛延3年(1750)‐文政4年(1821)7月10日 72歳。
大和国広瀬郡薬井村(奈良県北葛城郡河合町薬井)生まれ。本姓は竹田。 >>403
宇喜多秀家の部隊構成
総勢17,000
宇喜多家家臣団9,000・・・宇喜多家の家臣の多くは日蓮宗を信仰していた。
明石隊8,000・・・大部分がキリスト教徒。
宮本武蔵(明石全登と直接親交があったらしく江戸期以降の明石市街地の都市設計を彼に託した)もこの隊だったので、全員ではないだろう。
旗印として十字を掲げていたらしい。
記述によればあたかも十字軍の様相を呈していたらしい。
島津の部隊1,588 も丸に十だったから、1万近くの十字が犇めいてたのだろう。
また勇猛果敢な兵たちで、命令なくして逃げることは無かった。
すなわち敵に背を見せて死んだ兵は一人もいなかったという記述がある。
以後キリスト教徒恐るべしとなったらしい。
キリスト教禁止令につながる重大な出来事であったとされる。
なお西軍の残党狩りの直接の担当は田中吉政であったが、
明石(島津)を救出する指示が出されていたらしい。
多分島津は家紋が十字だったのでついでだろう。 関ヶ原の戦いが東軍勝利となった時、
島津義弘はほぼ無傷で孤立しており1,500の軍勢を抱えていたが、
家康の本陣前をすり抜けるという敵中突破を行った。
その際島津豊久など多くの武将は討ち死にした。
島津豊久がこの時着用していた鎧と伝えられている鎧には、
円のない十字が刻まれている。
島津義弘は大阪城に人質になっていた夫人と忠恒の夫人を救い出して、
無事に堺まで逃げ切った。
船行して日向、薩摩の地へたどり着いた。
この時、義弘に従う者は80人ほどであったと言われる。
しかし三々五々帰着した者もおり数は定かではない。
おそらく百人あまりだったろう。
すなわち島津隊は約93%が死亡、7%生き残ったと考えられる。
これを明石隊に当てはめると8,000×0.07=560人生き残ったことになる。 >>405
宇喜多のお家騒動は家中の宗派対立が原因の一つに挙げられるから、
残留組も結構混沌としてたんですな。 >>408
宗教対立というのも、宇喜多左京亮が戸川らの側についている一方で
中村(前田家から豪姫についてきたというが、実際は先代から宇喜多家臣
だったとも)もキリシタンではなかったようだし、宗教対立は主原因とは
いえないようだ。 福岡県福岡市中央区天神に正興山勝立寺という日蓮宗のお寺がある。
そこに黒田の親族と言われている播州明石一族の墓所がある。
この寺を開基したのは日蓮宗の日忠という僧侶で、
キリスト教の神父イルマンらと 宗教に関する問答をおこないこれに勝利した。
初代藩主黒田長政からキリスト教会が保有していたこの地を与えられ寺を建てた。
元キリスト教の寺院のせいか、昭和通り側の山門は洋風である。
山門の上側には金属板にアルファベットのような文書が刻まれている。
どう考えても日蓮宗のお寺の山門には見えない。
もしかして隠れキリシタンの教会だったのだろうか?
日蓮宗とキリスト教徒が混在していた宇喜田家の縮図ではないかと感じられる。
ここにロシア国民を愛し、レーニンに理想国家を樹立するという
ロシア革命を成功させるに必要十分な資金を提供した明石元二郎の墓がある。
明石元二郎の遺骸は台湾に葬られているが、
改葬された台湾北部の三芝郷という超高級なキリスト教墓地である。
福岡の明石家がキリスト教の信仰を保ち続けていた証かもしれない。
明石総督は台湾に赴任して一年そこそこで亡くなる。
遺言は、
「オレが死んだら台湾に埋めてくれ。そして死後もオレは台湾の守護神になりたい」 日蓮宗も色々あるからね。
秀吉から弾圧され江戸時代も禁制だった「不受不施派」とかも。 明石一族の末裔である明石元二郎が台湾に赴任した 際、明石掃部の墓(Akashi Kamon)を発見したというエピソードを語ったことがある >>414
台湾に逃れたキリスト教徒が明石掃部が死んだという情報を得て墓を作ったか。
遺骸が埋葬されているとは限らないだろう。 >>353
>>390
わかる!
かなりステキだったよな。今手元になくてうろ覚えだけどこんな感じだったか
明石掃部頭全登、関ヶ原と大阪の陣の二度の大戦に、いずれも敗者の側に現れた幻のクリスチャン・ゼネラル
ドン・ジョバン騎兵隊は巨大な怪物を目掛けて突撃して行きます…
騒々しくも颯爽と駆け抜けて行く様はどこか喜劇的な風を思わせます グラフィックは人相悪かったような
最新作ではどうなんだろ 2016年の大河ドラマが、真田幸村に決まったんだって。
当然明石全登にスポットも当たるだろうけど、演じる俳優が気になるよ。 明石全登の孫が鹿児島で捕まって殺害されたんだって?
よく名前と雷でわかったな >>418
主役(or主役級)なら、個人的には本木雅弘とかだが
真田が主人公なら期待しない方が良いかもな
当たり障りの無い役者でお茶を濁すくらいなら
いっそ西田敏行とかで大河ファンの腹筋を壊しにきて欲しい >>419
八丈島に流されたけど助命された秀家とはえらい違いだな ブランドが分散してる
ぜんとう、たけのり、てるずみ、・・・
名前10個くらいあったかね。
ナショナル、パナソニック、松下と分散させてた松下と同じ愚。
まずなまえを一つに統一しないとダメだわ。
観光資源として売り出す際にも障害となる。 分散しすぎて性別もグラつき始めたな
大阪城の観光向け某ユニットではカモン役を女性が務めてるしw 明石全登の子はフィリピンに渡った
アカシという姓はフィリピンに残っている まず、名前が良くないね。
「全登」って読めるか?
イチローを見習え。
「一郎」ですら読めない人に配慮して「イチロー」だ。
だからといって安易に「てるずみ」にしてはいけない。
「てるずみ」って舌噛みそうだからな。
その他の名前がたくさんあるけど、どれもこれもいただけないね。
通称の「掃部」なんかいね。
「カモン!」
次に生没年不詳なのもダメ。
履歴書に「生年不詳」と書いて通るか? ありえないね。
現在でも戸籍が無い子供がいたりするけどね。
やっぱり知名度を上げたいなら、世間の信用を得る必要があるからね。
嘘でもいいから、適当に取り繕わないと。
そして、極めつけは、何といっても大坂の陣で真田幸村の影になってしまって
目立たないこと。
「幸村」は江戸時代になってから歌舞伎とかで付けられた名前であって、
やつの本名は「信繁」。「のぶしげ」だってさ(笑) だっさぁ。
そんなやつに負けてどうすんの?
絶対勝たないとね。 スレチで申し訳ないのだが黒田氏って黒田官兵衛の一族の事ですか?黒田氏の祖が源氏だったなんて初めて知りました >>431
真田信繁は武田信玄の弟の名前をつけたんだよ。
武田信繁は信玄並に優秀な武将だったからあやかってつけたと思われ ところで岩田書院の「宇喜多秀家と明石掃部」買った? >>432
黒田氏は、近江の宇多源氏・佐々木氏(京極氏)の庶流を称している
実在が定かでない、近江国伊香郡黒田村の住人・黒田高政なる者が、
合戦で抜け駆けして将軍・足利義稙に追放され、備前に流れ着いて
備前黒田氏の祖となり、高政→重隆→職隆→孝高(如水)ということらしい >>436
なるほど、近江の出身多いよね、尼子もそうだしね。 戦国大戦でぶっ壊れ性能になってて結構注目されてるっぽいから、これを機に知名度上がったりしねえかな… 宇喜多騒動がなければ第一人者になることもなくよけ埋もれてたな。 >>438
明石全登は、宇喜多家から4万石、豊臣家直参として6万石の合計10万石の領主
真田昌幸(3.8)、大谷吉継(5)などより大きな大名 アンチて必ずわくなw
いつも無視されてる人の嫉妬だと思うが 生死不明なんだが死んでるのか?生きてるのか?教えてくれ 福島正則は 馬鹿!
関ヶ原で 家康討てば 歴史に残る忠臣に成れた。 (大河に)出たら出たで扱い酷いな
初老の元・数万石領主が修験者みたいな密使かよw 救いと言えば明石さんをオフロスキーが演じてくれたお陰で、将来明石さんに興味を持つ層が他の役者が演じた場合より分厚くなる可能性が高くなった事かな 当時のクリスチャンたちはイブを盛大に祝ったのだろうか? 欧米のクリスマスは家族と過ごす日
真面目なクリスチャン一家はイブに断食とかして厳かに過ごします
イブを性夜にする冒涜は日本だけ アメリカじゃクリスマスはキリスト教徒以外は関係ないからハッピーホリデーと言うらしいな。 鉄砲スキルと戦術値高いから使いやすかったと思うけど今は違うのか? 創造
統率武勇知略政治
81 77 69 61 釣瓶撃ち
有名参謀や有名大名には劣るが一家臣ならかなり高い水準では? >>476
明石を打ち取った水野より強いんだし
優遇されているよな ただの変な人にされてたなあ 幸村ばっかり美化されてるよ〜〜 ムシブギョーはかなり扱い良かった
もう退場したけど どのみち宇喜多騒動で対立というか
旧臣が秀家にとって悩みの種なら
もう少し早く明石を家中に加える
厳しいかったのかなあ
やっぱり 宇喜多家で重きを成す家臣は浦上家が健在の時期からの臣
浦上家で重きを成した明石行雄は1597年までは生きてるとされる
他の重臣の権限が強いのがあるからこそ
秀家は大名権力を強化したいし抑制したい老臣と対立し宇喜多騒動になる訳よ
もっとはやく明石家を抜擢できるなら宇喜多騒動は起きないさ 明石家は万石取りの大名クラスだが、家老で陪臣だから。同じ境遇の後藤又兵衛は大阪の陣
で悲劇的な死をとげたからその奮戦が物語化されて後世語りづかれることとなった。
明石は大阪の陣の後行方不明になるなど謎が多い人物だったので地味なあつかいとなった。 明石がいくら宇喜多の内政に絡もうとしても
それは形を代えた宇喜多騒動になるだけだろうな 秀家は連合体から専制を強めたい
そのための出頭人を重用したい訳だから
明石を家中に入れるのは違うな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています