【武田完勝☆】三増峠の戦い【北条涙目wwww】 P35
>>85
信玄のことを知りたければ諏訪信仰ぐらい勉強しなさい、恥ずかしい。 >>86
あのな、ルートの指摘してるのに信玄のこと知りたければとか
まったく見当違いなこといってんなよ
日本語分からないなら恥さらすだけだからレスすんなよw 甲斐にも諏訪神社くらいあるよ。諏訪大社と勘違いしてない? このスレまだあったのね
メガ豚も草葉の陰で喜んでいる事でしょう そう考えると北条側の書状は内容的には
もう少しで武田に大打撃を与えられたのに逃げられてしまって悔しいみたいな感じだから
自分たちが勝ったこと前提の書状ってことか?
またそんなことを前提に出来るってことは広く宣伝しなくても北条の勝利だって周りには
思われていたってことになるのか? >>91
さぁ?周りの考えなど論拠なしにはどうとも言えない。
ただ北条側はそう考えていたのではなかろうか、ということ。
今のところはっきりしている事を比較しても、北条側が負けを意識する要素は全く無い。 軍鑑の上田原の品で
当時の慣習だと先に戦場から引き上げた方が負けとされるってあるから・・・ >>1
>>前半で浅利が討ち死にしたら後半で追い返しても関係ないと?
北条勢は三増峠から撤退してない。追い返したというのは何を根拠に述べてるのか?
押しなだれてきたってのはそのまま逃げたって事でしょ?
それを追う事が出来なかったら負けだと主張したいの?被害もはっきりしてないのに。
それじゃ長谷堂合戦で直江が勝ちと言うようなもん。
関ヶ原で島津が徳川に勝ったというようなもん。
上記二つも直江や島津が勝ったと思えるんなら俺はもう何も言わない。 >>95
三増峠は北条勢が甲斐に引き上げる武田勢を追跡しておこった戦いだろう。
軍鑑では最初から北条勢が待ち伏せしてそれを武田が突破したように書いてあるが
信玄の書状でも北条の書状でも、北条が後方から追跡して武田勢に挑んだように
書いてある。これは北条5代記でも北条記でも同じだけど。
この状況では武田は追跡してくる北条勢を追い返して甲斐に引き上げればいい。
北条の書状では当方に押しなだれてきたとあるのだから、追跡している北条のほうに
押しなだれているのだから、逃げたという意味じゃなくて武田が逆襲して押したという事だろう。
実際北条遺臣の残した北条5代記でも北条記でもそんな流れだろ。
後方から武田勢を追跡して最初は押したけど最後は逆襲されて追い立てられたと。
そして武田勢は深追いせずに(もともと帰るつもりだったのだし)そのまま帰ったと。
氏康達は間に合わなかったと。(これは氏康書状とも符号。)
上記2つとは状況が違うのでなんともいえん。 >>96
>>押しなだれているのだから、逃げたという意味じゃなくて武田が逆襲して押したという事だろう。
ここに根拠が無いから、説得力がない。
講談の解説をされても困るし、北条五代記がどういうものなのかは過去レスにあっただろ。 >>97
だから根拠あるって。
北条の書状も信玄の書状も北条側が武田を後方から追跡して戦ったように書いてある。
それで「押しなだれてきた」といってるのだから武田が逃げたんじゃなくて
北条側のほうに押しなだれてるっていう事だろう。
むしろそっちのそのまま逃げたというほうが説得力ない。進行方向逆だろう。
北条5代記がこの戦いにおいて本来の史実にもない北条側が追撃して千余討ち取りを捏造し
武田の逆襲による被害を30人にしてるという事も過去レスに書いたでしょ。
それでも最終的に追い払われた事をかかざるをえなかったと。 >>98
小田原から甲斐に向かって進んでいる武田軍に滝山城から向かった氏照が三増峠でぶつかっているのに
後ろから追ったというのは位置関係的に意味不明なんだが。
北条の書状のどの部分で追撃したなんて書いてあった?
氏照の書状であれば自身の滝山籠城戦の話とごっちゃになっててわかりにくかった気はするが。 >>99
氏照書状では相模で武田が働いた(小田原焼かれた事はかかず)、
と書いてその後で津久井に向かって退散した事を書いてたろ。そこで戦ったと。
氏康書状では退く武田勢を攻撃するために三増山まで進んだけど敵がすばやく
去ってしまい、自分達は遅れたと書いてる。
信玄の書状では帰国の時北条勢6、7千の人数が慕ってきた(追跡してきたの言い回し)
ので一戦に及んだと書いてる。
いずれも甲斐に向かう武田勢を北条勢が後方から追っている事をあらわしていると思うが。 >>100
滝山城ってどこにあるのかわかってて言ってるの? 三増峠の北だな。滝山城は。
三増峠を通って移動中の武田勢を氏照勢が南下して捕捉、
後方より攻撃って所だろ。
規制中につき代行レスを依頼中
>>1
どの時点で北条勢が接近したかによるよ。
武田勢がすでに三増峠を移動中でしっぽを見せている時に北条勢が到着して
後備から襲い掛かったならおかしくない。
つーかでないと後方にあるはずの殿軍の浅利が戦って死んでいる事が説明がつかん。
それから返レスは例によってかなり遅くなるのでよろしく。 浅利監物のような親族衆・地方支配任された大物が殿軍勤めるものなの?
戸石崩れの横田備中のように、下っ端とはいえないが撃たれても中枢には響かない程度の武将が勤める役じゃないこれって? >>104
殿軍は重要な役目だよ。
長谷堂では直江が殿軍を勤めたとされるし、
伊勢長島では織田家の一の長である林が殿軍を勤めている。
後背からくる北条勢を抑えるのはこの作戦において重要だし。 >>1
まずあなたの>>115のレスに対してB、Cで決定的に矛盾があるとした部分を答えてもらえないだろうか?
甲陽軍鑑で有名なシーンに大石遠江を山上から見て信玄が戦いぶりを賞賛したという逸話があって、
この人物こそ後の忠臣蔵で有名な大石内蔵助の祖先であると言うものなんだが、
この逸話が入るのは浅利を討ち取る前。
まぁこの逸話自体は眉唾だが有名で武田軍が山上にいることがわかりやすいので引用する。
しかしこの部分を取るならば
>>B氏照書状にあるように、北条勢は優位に戦闘を進め、武田殿軍損害を受ける。浅利はここで討ち死に。
>>Cこの間に武田軍主力は峠道を越えて山上にたどり着き体勢を整える。
この展開では矛盾が生じる。その反論が無い。 >>106
わざわざアゲる意味がわからないがまあいい。
そっちがいうようにその手の逸話は眉唾ものが多い。
ただまあ甲陽軍鑑、北条5代記、北条記、でいづれも山の上にあるとしているのは考慮すべきか。
正直いうと主力が山の上にあったのを確認し忘れていた。
氏照書状でいうなら5日夜に津久井筋でまず敵の人数を除いたとある。そして6日朝には敵に襲い掛かったとある。
いづれも武田軍の後方から襲いかかったのでなければおかしい動きだが。前方なら主力からの反撃がある。
北条5代記でも北条記でも共通するのは後方から武田勢に攻撃し、勢いに乗ってそのまま進軍する北条勢が
山に伏せられていた武田勢から反撃され追い散らされている事。
これなら書状と符合してもおかしな所はないな。 一説によると浅利を撃ち取ったのは綱成指揮下の玉縄衆か小机衆の鉄砲隊だったらしいね。 あんたは根拠挙げて論理的な見解述べてるけど、絡んで来てる奴は根拠無い妄言連ねてるだけで言ってるレベルが低すぎる。
かなり知能が低いことは明白だし、どう見てもバカが事実に関係無く単に武田が負けたと言いたいだけ。
いつまでも絡む意味無いと思うが。 その後の展開を見てみれば駿河は武田に奪われ
氏康が死んで人質差し出してまで同盟結んでもらい
なおかつ武田上洛に援軍をよこすんだから
北条がいかに涙目だったかわかる >>書状では前日からの事項であっても、講談にした時に流れが簡略化されたと 見ればいいだけの話
浅利浅利うるせーやつだな
小田原焼かれ 駿河奪われ 涙目なのは北条だろうが 自分に都合が悪くなるとなんでも講談だから〜か
いいかげん飽きた
>>1の者だが、GW明けは予定が立て込むので次にレスが出来るのは
相当後だと思われる。返レスあったら書いといて。 >>1に追記しておく。
>>142ではあなたがスルーしている武田勢本隊が志田峠に移動したなら
三増峠にて武田軍の前方に位置する北条勢の後背に回りこめる、
これをやられたら北条勢が悲惨な事になるという事実をどう思っているのか。
これにも答えてほしい。 >>117
目の前の本体が山に向かっていったら追いかけるんじゃね? ぶしつけな要望なのはわかっている。だが
>>あなたのレスが変質してるようにしか思えない。
これは俺もあなたに何度も感じてしまった事だ、
パッと見てもとりあえずレス100番台辺りのレスからは相当変わってしまっている
・・・がこれはお互いに誤解が存在するからそうなのだろう。
だからこそ一度整理していかないと意味のない長文が続くだけになると思っての提案。
とりあえず返答が欲しい。受け入れていただけないのであれば改めてレスを返す。 俺、三増の住人だけど畑仕事なんかしてるといまだに骨出てくるよ・・・・。土質のせいか四百年経っても溶けないんだよね・・・・。ホントに参る。 鎧ってあまり出ないみたいだよ。
たいていが戦場荒らしに盗られているw この合戦以外でも基本的に北条・武田との国境ラインだから戦の堪えない場所だったろうしね。 >>ここまで大規模な外交戦は、秀吉の天下統一戦、関ヶ原、大坂の陣くらい
そうでもないよ。
例えば長尾景虎の関東出陣は芦品、関東全体、武田、本願寺、越中、幕府を動かしている。
でも今川の壮大な外交戦略は確かにすごいね。 武田もすごい。
それまで北条と同盟者だったのに関東の反北条勢力を糾合し
徳川・織田・足利まで動かして戦略を構築している。 >>124-159さんへ。長文で読みずらいのに、レスありがとうございます。
>>158さんへ。
@景虎の第二次越山(永禄三年〜四年)は、準備に約10年費やしてますよね。
書き忘れたけど…、謙信は三木もしくは姉小路とも書状の遣り取りをしていたらしく、
「最近、越中金山が不審の動きをしている」と注進してるいるよ。
永禄十二年2月27日付 三木良頼・姉小路自綱父子→謙信宛書状「上杉家文書」より
Aあと、北条は江戸氏を動かして、義重の不審な動きの真意を探っています。
>>159さんへ。
簗田を通して足利藤政を鎌倉に帰還させるという名目で、反北条を糾合させたらしいね。
「第二次薩垂峠の戦い」もしくは、三増峠関連の書状をとことん解読するまで、楽しみにしててくださいね。恐々謹言 >>126
長文でも面白ければ大歓迎です。
あなたの書くことはいつもためになります。
三増峠を軸にした北条やその周辺の動きは
今個人的に興味がある課題のひとつなので楽しいです。 >>1
ID:RGIwAcDK
連休中は家を空けるからなんかあったら書いといて。 室町幕府自体風前の灯になってる上に、
各地で中央をはるかに凌ぐ軍事力を持った大名が多数居るこの時代で京なんぞ本質的には飾りに過ぎない。
>>1が言ってる理屈は要するに戦国時代の公家と同じ、それも本当に京に居る公家じゃなくて
地方に逃げた公家崩れが地方で実力を持ってる大名に虚勢張ってるのと同じ。
実際は田舎大名などと言う言葉に定義はないので、
>>38のレスは「僕の理屈は正しいんだよバーカバーカ」って言ってるのと同じ、
こんなもん反論もクソも無いのにわざわざ史料つきで説明してくれてるんだから感謝すべき。 スミマセン。>>1の訂正その2。
×>>162さんへ。プレッシャー掛け過ぎです。でも期待を裏切らないようにしますよ。
○>>161さんへ。プレッシャー掛け過ぎです。でも期待を裏切らないようにしますよ。
氏康本人が現場(主戦場)に到着してからの合戦だったら
武田もかなり損害でたと思う。 北条氏康がもっと早く小田原から討って出てたら
家康よろしく粉砕されて糞漏らす間もなくそのままご臨終です 北条氏康は名将だが
野戦よりも篭城戦に強い印象がある。
「負けないイクサ」「ドローでOK」ってのは日本人ウケしないんだろうな。 みんなスマン!!
>>1は間違って書いてしまいました。一応、削除以来板に出しました。
>>161さんへ。
第二幕第二場の「第二次薩垂峠の戦い(興津川の対陣)」。永禄十二年(1569)1月26日〜4月24日。
は、8割完成しました。あとは、「年表の推敲」と「北条と里見の政治的(外交・戦争)関係」を調査するのみです。
遅くなってスミマセン。恐々謹言。
削除理由は削除ガイドラインから
削除人さんは消しゴムじゃありません
そんな理由で一々消せるとでも?
sengoku:戦国時代[レス削除]
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1150003335/112
112:長尾忠景ってどお? 08/09/17 10:40 HOST:KD125054189174.ppp-bb.dion.ne.jp<8080><3128><8000><1080> [@nifty.com]
削除対象アドレス: http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1194134285/179n-
削除理由・詳細・その他: スレッドを間違えて、レスを書いたため >>143
あんたなんでそんなにイライラしてるのw 武田侵攻軍を挟撃するまたとないチャンスだったのに・・・
滝山から南下してきた氏照・氏邦勢が津久井城守備隊と連携を保って三増峠付近の山に
陣取れば、地形的には北条勢が大変有利であり、小田原本隊も追撃するとなれば、武田勢に
とっては前門の虎後門の狼であり、北条としては武田を包囲殲滅することも夢ではなかったの
ではないかと。
ところが、史実は武田を挟撃するどころか逆に、北条が手痛いしっぺ返しを食らってしまったと。
これは何故なのかと考えると、どうしても北条側の戦術的な機動がまずかったとしか考えられな
かった。(氏照・氏邦・綱成・関東衆がうまく連携出来ず、各個突撃してしまい逆襲にあったのかと)
そこまで考えて、さてそもそも三増合戦における両者の布陣はどうだったのか。
戦況の推移と両軍の各部隊行動はどうだったのか。
さらに遡って、合戦場に至る迄の各北条勢の進軍速度・経路はどうだったのか。 >>145
>武田勢にとっては前門の虎後門の狼であり ×
武田勢にとっては前門のヌコ後門の羊 ○ 包囲する側と包囲される側では包囲する側が有利なように思えるけど、
無線が実用化されるまでは伝令ではタイムラグがありすぎて部隊間の統率が取れず、
包囲されている内線側に各個撃破されることも多い >>147
前線の指揮官が流れ弾で死ぬことなんてよくあることだろ >>195-197の長文編は…
http://www7.uploader.jp/home/k1361/
にある
No.1 k1361_uljp00001.pdfというファイルをクリックしてみて下さい。
以上、長文でスミマセンでした。恐々謹言。 >>195-198
乙。
…よく読むと矛盾点があるような。
謙信の動向とか。 >>154さんへ。返レス有難う。
>謙信の動向とか。
謙信も含めて、信玄・里見+佐竹ら関東諸将、越相和与交渉については、
次回「越相同盟について」スレにて、まとめて書く予定です。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192090470/l50
>>161さんも、特に北条の動きが知りたそうなので…、チェックしてみてください。恐々謹言。
つまり三増峠の戦いの敗因は氏政が遅れたことでも何でもなく
最初から氏康自身の采配のミスによるものだったんだね?
それを後から、当時の体調が思わしくなかった、息子のミスだって
もしかして氏康って実際は相当、無能だったの? 三増峠を信玄の勝利って、金ヶ崎を信長の勝利と言ってるのと同じようなもんだね。 本拠地焼かれてそれはないだろ 蹂躙されまくってるじゃん
しかも小田原まで出向いてやったのにろくに決戦も挑んでこないヘタレ具合 深沢城では三増でボコられた綱成が信玄公に脅され逃げ出す始末
どんだけ恐ろしい目にあったことやら トラウマになってたんだろうね
まあそんなみじめな綱成も信玄公に武勇を褒められて涙ぐんで感謝したんだから
戦国ちょっといい話だ その深沢も元々武田が占領してたのを落とされて必死こいて取り返そうとしたもの。 必死こいて屈辱同盟した上杉にはなんの援助もしてもらえず
結局駿河はめでたく武田家が獲得 一方北条は戦でボコられ涙目
何も得るものなく恥を上塗りし武田家に和を請う始末 ところが興国寺城だけは最後まで落とせてないんだよな。
2度も攻めて失敗とかw
因みに北条が本気で守りに行ったのはこの興国寺と蒲原だけ。
やっとこさ蒲原落とした程度で北条に勝ったといえるのかなー? 三増でボコられ小田原焼かれ駿河奪われやっとこさ興国寺城恵んでもらって
涙目で武田家と再同盟 もともと涙目の北条には勝ち目はなかったねー残念ー 北条領は1_も奪えず援軍に着た北条軍に手も足も出せずせっかく落とした駿府以下まとめて放棄して逃げ帰ったり
せいぜい追撃を撃退した程度で、
「あと少しで信玄を討ち取れるところだったんだが惜しかった」
くらいにしか北条側に思われてない三増峠(笑)ごときで一体武田のどの辺が北条に勝ったんかねえ? 勝った!勝った!と高らかに勝利宣言しながら駿河から逃げ出す北条サイコー 勝った!勝った!と高らかに勝利宣言しながらこのスレから逃げ出すID:z0E0NI0F=ID:yaGP1BEMサイコー どの面下げて上杉と同盟したんだろうねー
笑えるねー そんで都合が悪くなるとまた武田家に頭下げに来たんだよねー
笑えるよねー どの面下げて甲斐へ逃げ帰ったんだろうねえ。
緒戦で大勝して調子に乗って徳川にまで手を出したあの勢いはどこへ?
十分勝ちはよしとせず、五分勝ちこそ最良の勝利、って誰の言葉だっけ? 北条が本気を出せば駿河はおろか越後も伺えたよねー
最強だね 小田原城 ID:z0E0NI0Fは小田原が氏康の時代から総構えだったと思ってそうだな。 小田原城が本気を出せば篭城パワーで天下も取れただろうねー
さすが土下座外交のホウジョー もはや脊髄反射で支離滅裂なレスしか出来なくなってきたようだな。 おやおや北条得意の勝利宣言ですかー?
とっとと小田原に篭城してたほうが身のためですよー
篭城しか取り柄のないヒキコモリ北条は >>164
蒲原で守ってた北条一門全滅してるし、
それが攻略された事で駿府は陥落。
駿河の中枢は武田の手に落ちる。
興国寺の時は3日しか攻めてないし
もともと駿河の外れ。
比較にならないと思うが。
つか深沢は綱成が必死に抵抗したんだから評価しなよ。 >>166
>>北条領は1_も奪えず
第一回駿河攻めなら駿河を一か月で攻略した後で北条が来たんだから仕方なくね?
それ以後なら武田の別動隊が北条領の武蔵御岳城を攻略してたんじゃね?
三増峠もその氏照書状は謙信相手の外交誇張入ってるし、
信玄が綱成相手に出した深沢書状では「三増峠の北条勢は前代未聞の見苦しい敗軍であり、
諸軍の嘲りの的だった。」という参戦してたらしい綱成に言ってるくらいだし
古河公方の重臣とか死んでるし、結構やばかったんじゃね? >>162
確かにそうじゃが、それをいうなら北条も綱成開城後に
必死で取り返そうとし3月末まで戦っていたはずじゃ。
そして結局奪還できずに深沢は武田の手に帰し、駿河の攻防は決着するわけじゃ。
武田もそうじゃが北条も十分深沢にこだわっていたといえるのう。 おいおいいつまで北条オタは見苦しい態度ばかりとってんの?
それとも本気で、武田側の資料が信憑性が無いとでも言いたいわけ?
北条側の資料の方が捏造だらけだと言うのは今や歴史家や学者などの
間でも有名だというのに、いまだに甲陽軍艦批判から頭が離れられない
んだねえw
今まで軍艦に信憑性が無いと言われてきたもんだから、逆に勝手に北条側の
資料を鵜呑みにしてきたんだろうけど、事実を知ってショッキングになってる
気持ちも理解出来るよ、てゆうか笑えるw
北条が武田に勝った事実はどこを探してもありませんww
・信玄の誘導作戦によって駿河から兵を撤収せざるをえなくなる
・外交戦略で信玄にボロ負け、謙信の援軍は無し、北関東の敵に
さらに脅かされる事にw
・三増峠で先鋒隊は壊滅w 三増峠の戦いって聞いたことある。武田軍が北条軍に圧勝した戦いでしょ?
北条って、ずっと武田と同盟結んでたから
上杉にも対抗できたし、武田にも滅ぼされなかったんだよね
でも、刺しで勝負したら上杉にも武田にも負けてるとこ見ると
本当は格下の大名だったのかも知れないね