【武田完勝☆】三増峠の戦い【北条涙目wwww】 P35
>>1の野郎、反論を心待ちにしてケツマンひくつかせてやがるぜ 逃げ切ったという点では武田の勝ち。
ま、幹部級の死者を出した時点で完勝はねぇよ。 まあ、氏康、綱成の無敗ゴールデンコンビなら大勝していただろうな。
いちいち個別スレまで立てるようなことでは無い思う。 >>9
武田はともかく引き篭もり北条は人気ないしな。織田、上杉、武田、伊達辺りじゃないと伸びないだろうな 北条は地味で「華」がともかく無いからな。
ま、そこが良いんだけどね。 1.信玄の評価すべき点2つ。
(1).謙信は、10万で小田原を包囲したが…
信玄は、機動戦で滝山・鉢形城を釘付けにし…
わすが2万で、小田原までたどり着いたこと。
(2).北条に初めての総動員令を出させた事(2回目は猿の小田原戦役ね!!)
2.北条の評価すべき点
正規軍2万+(1.の(2).で前述した)寄せ集め2万で…
信玄包囲網をあっというまに作り上げるまでの家臣統制は見事!!
信玄は首実検をせずにとっとと甲斐に帰国した。
もともと駿河が目的だしね!!
↓わからん人はここをつついて頂戴
三増峠の戦いと武田信玄の相模原行軍…小田原攻め
http://www.rekishi.sagami.in/mimasu.html
相模原の歴史シリーズHP
相模原市などの歴史
古代・中世・近代に渡り相模原に関係する歴史をご紹介
感心して読み進めていたら最後で吹いた。
おいおい、ソースがウィキとか個人サイトとかそれでいいのか?w >>15さんへ
わたしが書いてもいいんだが…長くなるからね。
だいたい合っているし… あってるってならそれに見合う持論を展開してもらわなきゃ困る まあ北条なんて武dくぁと比べると弱っちいから、帰国中の行軍部隊狙っても惨敗食らわせられるありさま
身の程知らずな事しなきゃ痛い目見ないで済んだのにね >>17さんへ
3ヶ月ぐらいかかってしまうけど…それでもいい? 北条、毛利、長宗我部・・地元では実力者なんだが全国区では今一地味で目立たない
伊達、島津・・実力があり知名度もそこそこあるんだが中央から叩かれまくり
今川、朝倉、大内、三好、大友・・噛ませ犬的な存在
斉藤、宇喜多、佐竹・・結構、楽なポジション
上杉、武田・・実力もあり中央にも進出
織田、豊臣、徳川・・全国区メジャー 三増峠の戦い自体より、同時期の政局での武田完勝、北条涙目っぷりが面白い。 謙信も同時期の外交では信玄には敵わないまでもまあまあうまいことやっている。 北条幻庵ってどお?さん そろそろまとまったでしょう。
ここで発表して下さい。 みんなスマソ!!
今川義元敗死(永禄三年5月19日)〜信玄の箕輪城攻略(永禄九年9月29日)までを…
只今、調査中!! もう3ヶ月欲しいのだが…、もしくは連載という形でもイイ?
なんせ謙信愛好家に捕まり、成田氏の調査リポートで1〜2ヶ月かかったんでねェ。
↓ココね!!
【毘】上杉家を語る 九【義】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1190692932/
返答レス下さい!! 恐々謹言。正月廿六日。
只今、「信玄の第一次駿河侵攻」(永禄十一年12月6日)から「薩垂峠の戦い」(永禄十一年4月24日)まで調査中。
&
やっと、第一幕「なぜ信玄は駿河を攻めたのか?」 の執筆に取り掛かる。 第一幕「なぜ信玄は駿河を攻めたのか?」 の8/10ぐらい完成!!
あと氏真側からの見解と2ちゃんに掲載するショートver.のみ
第二幕第一場「信玄の第一次駿河侵攻・興津川の対陣」(永禄十一年12月6日から永禄十二年4月24日まで)の草案執筆中。
第二幕第二場「信玄の第二次駿河侵攻・大宮城陥落」の調査中。 正直京に近い西側の領土を抑えられてしかも信玄の西進に軍勢貸すとか従属とまではいかないけどかなりイニシアチブとられてる気が・・・
まぁ北条に天下統一の意思はないしあの時点で織田と武田をぶつければ漁夫れるってのもあっただろうけど >>33
単純に関東以外興味なかったんだろう。
逆に関東での上杉戦とかでは兵を借りてる訳だし。
少しでも北条家が京で名を上げる意志があるなら、北条家など名乗らずに
由緒正しい伊勢家を名乗っていた方がはるかに有利だったはず。
それをわざわざ捨ててある意味簒奪者と言っても過言ではない執権北条氏を名乗ってまで
関東を支配した存在にこだわってた訳だから京がどうだろうと別にどうでもよかったんじゃないか >>34
御館の乱でも動きが鈍重だしな
うまくいけば能登飛騨まで北条の力が及んだのに 武田方も一門衆の将とか討取られているし言われるほど完勝だったのか疑問
荷駄を放棄せざるを得ないほどだったので、帰った武田兵が飢えと寒さで自国領で略奪するほどの逃げっぷりだったし 領土は取れなかったけど手痛いダメージ与えたら勝ちなのか
そ〜か
んでは川中島は上杉勝利でよろしいか? >>38
その川中島で領土を守ったのが武田でダメージを与えたのが上杉、だからこそ勝敗がわからんけど
これを三増峠に当てはめると領土を守ったのもダメージを与えたのも北条にならないか? >>38
もともとあれは領土狙いじゃないだろ。
小田原焼いて3日でさっさと引き上げてるし。
それを追跡してきた部隊を追っ払ったまでで。 >>41
追っ払えてるのか?何とか逃げられただけでは? 勝ち負けの評価はともかく、武田の狙いが「小田原焼」くことにあったっていうのはいくらなんでも……だわw >>42
武田方の軍記だけでなく北条方の軍記でも最後は武田に追っ払われたというのは
共通してるし、北条方の書状でも後半武田が押しなだれてきたというのはあるから
普通に最初は北条が殿相手に押したけど後半は武田が後詰を出して逆襲して追い払ったんじゃね?
2万対6千か7千なんだから順当な結果だろ。
>>45
小田原焼く事で北条に対するけん制にはなったし、越相同盟があてにならない事を示せて
外交的不信感を植え付ける事にも成功したし、武田と結んだ反北条勢力に対するいい宣伝にもなった。
大局的に武田は十分目的を達してるよ。 >>44
北条五代記の作成時期を考えてみればわかる事では無いかと・・・。
いずれにせよ北条方の被害が全く不明だし、追っ払ったってのは何か記録でもない限り無理があるのでは無いかと。
合戦場から北条方が退いた記録もないが、武田軍は甲斐に退いてる訳で。 >>45
北条遺臣の三浦がわざわざ武田有利に書かなきゃいけない理由はないと思うけどね。
実際軍鑑に比べれば北条の被害はえらく少なく書いてあるし。
勝ったんなら最後負けた描写入れる必要はないし「負けたのはこれだけ」とか言う必要もない。
そりゃこの戦いは小田原焼いて甲斐に帰る途中で追跡してきた北条勢を武田が迎撃した戦いなんだから当然。
勝っても負けても甲斐に戻るよ。 >>45
あと一応信玄自身はこの戦いが終わった後に
遠山や諏訪大祝相手に
「帰国途中で追跡してきた6、7千の北条勢を三増峠で迎撃して2千人ほど
討ち取って勝利した。」と書状で書いてるよ。
無論2千討ち取ったとか誇張は入ってるだろうけど。
北条方も勝ったといってるけどね。 >>46
甲陽軍鑑もわざわざ勝頼やその当時の武田軍を貶す必要は無いよね。
後>>49のその書状の信じるとすると
氏邦も三増峠に参加してすら居ない氏規も討ち取られた事になってしまうんだが。
後の狭山藩主は別人ですか?神流川合戦で戦ってたのは誰ですか? >>48
甲陽軍鑑は武田が滅んだ原因を勝頼に帰しているから。
三増峠の段階で三浦が北条をわざと貶める必要はないよ。
実際被害をかなり過小にしてるし。
だから誇張はされてるといってる。
それは北条も同じ。本当に北条の書状にあるように武田勢を宗の者まで含めて
数多討ち取り手負いの者数知れずという状況なら甲斐に帰還した後で
駿河侵攻を行って次々に各拠点を制圧してるのはおかしいでしょ。
まあ返レスが出来るのは結構後になる事をいっておく。 被害を過小というけど、何を基準に過小と言ってるの?そもそも被害などはっきりしてないのに。
北条五代記も甲陽軍鑑と同じ、北条が滅んだのは氏康以降の代に原因があるというもの。
有名な汁かけの話もこの講談から来てる訳で。
三増峠合戦時の当主は氏政で、この合戦の大将は氏照、氏政は後詰め。
書状について言えば兵数の誇張と討ち取った大将名の捏造では意味が全然違う。
兵数だけであるならば当時はそう正確に数えられるもんでもないし
そこそこ多く討ち取ったのであれば多めにいうのも充分ありうることだろう。
だが討ち取った大将を合戦後まで間違えるなどというのはありえないし、
参加してない大将名まで捏造してる書状では信憑性という点でまったく信用できない。
それに比べて氏照の書状はあくまで数多く討ち取った〜という程度のものだしその数まで言及してない
実際に武田の後詰めは討ち取られてるわけだし。 武田親類衆で、西上野の統括者だった浅利監物すら討取られているしね、武田側 >>52
というかその割には武田軍元気だな。再開した駿河攻めとかでさくさく領土得てるな。
軍鑑では浅利は鉄砲に撃たれて死んだ事になってて部隊も曽根が指揮を引き継いでるけど。 >>1
書状や講談の数字で話を拡げても意味無いと思うが。
そしてその部分以外に武田方が勝利したと言える下地などない、
だが北条方はそれ以外にも武田方の撤退と殿軍の戦死というはっきりした結果が存在する。
最後の一行だけ同意だ。 >>1
だから武田が勝利したとできるような論拠は
氏規殺したとか、数字も滅茶苦茶な書状と講談だけって事。
信用しろという方が無理。 >>55
北条が勝利したとできるような論拠は
明らかに戦果を誇張し、不利な所は書かないもしくはあいまいにしてる
書状だけって事でしょ。
こっちだけを信用しろというほうが無理だよ。
武田にも北条にも勝利したという書状があり、どちらも誇張してるなら
双方に勝ったといえる下地があったと考えるのが自然。
そして北条側書状でも最後は押しなだれてきたといってて
遺臣がまとめた北条びいきの書物でも最後は追い払われたとあるのだから
最後は武田が追っ払ったと見るのが自然だろう。
2万対6、7千の戦いなら順当な結果だし追っ払われても別に北条の恥じゃないだろう。 >遺臣がまとめた北条びいきの書物
これって氏政がぐずぐずしていて出陣が遅れたため
合戦に間に合わず負けたっていう話じゃ
典型的な
>北条五代記も甲陽軍鑑と同じ、北条が滅んだのは氏康以降の代に原因があるというもの。
これの一例なんじゃ
しかも北条五代記は軍鑑の影響大だし >>56
浅利信種の死のどこに誇張があるの?
実は死んでなかったの?それは初耳。
信玄が書状で討ち取ったと主張してる氏邦や氏規は立派に生きてたけどね。 それから例によって返レスはかなり遅くなるのでよろしく。 三増峠の戦いってのは、他で例えれば信長の金ヶ崎退陣みたいなもの。
戦術的に言えば、武田の勝利と言えるものではある。殿に被害は出ても、軍はまっとう
させて敵勢力圏からの撤退に成功したのだから。
戦略レベルでいったら、三増峠を含めた、この時の武田による北条領遠征自体が失敗、
敗北になる。目的が達成できてないんだもの。駿河の兵力を手薄にするなんてのは、後世
勝利を喧伝するためにでっちあげられたシロモノ。
小牧長久手なんかもそうだが、戦術レベルの一局面の勝利をやたらと持ち上げることに
よって戦争全体の敗北を隠そう誤魔化そうとするのはいい加減やめたほうがいいよね。
はっきりいって、前世紀の日米戦争を太平洋・真珠湾の戦いなんて名づけて誤魔化そう
とするようなもんだ。 >>1
だから武田方の勝利といえる根拠は講談と信憑性の低い書状だけだねと何度も言ってるわけだが。
北条方はその信憑性の薄い書状や講談を評価から省いても浅利を討ち取ったという史実は残る。
あとまぁ内藤の率いる小荷駄隊かな、まぁこれはいい。
とにかく武田の勝利を主張するなら客観性のある根拠を持ってきてもらわないと主張になってない。
とりあえずまずは損害すら不明なのに敗北した家というのを俺は今まで聞いた事がない。
>>65
金ヶ崎の合戦は朝倉方の兵数的にもこの合戦より遥かに多いし
北条・武田の国境線付近の三増と違って金ヶ崎は完全に敵地に潜り込んだ状況。
そこを潜り抜けた織田軍は凄いがそれでもこの合戦を織田の勝利とは呼べない。 負けてても勝利と言い張るのが当時だからなぁ
素直に負けた、と認めるのは稀だろ 第二幕「信玄の駿河侵攻・興津川の対陣・伊豆侵攻」(永禄十一年12月6日から永禄十二年7月まで)の草案執筆中。 あんまり信玄汚してやるなよ
山梨県民にとっては唯一の観光資源なんだからさ 部隊長討ち取ったから俺達の勝ちってまるで川中島の上杉と同じ負け惜しみだな
あきらかに戦略でも戦術でも武田の勝ちだろ 深沢城の綱成が矢文にびびって逃げ帰ったんだからそうとう痛い目にあったんだろうよw これに関してはサッカーでいうところの
武田軍がアウェーで点を取って引き分けたくらいの感じじゃない?
この戦いそのものは武田軍が優勢で終了したって感じで。
ただし点も取られてので、必ずしも勝利ではないと…
北条がホームで点取られてドローという感じ。ただし 敵を城から誘き出し野戦で決戦
三方ヶ原に備えての軍事演習だったんだよ
あるいは謙信の川中島をより完璧にした作戦っぽい
川中島では謙信は最後は挟撃されてボロボロで越後に逃げ帰るが
信玄はほぼ無傷で帰還 しかも戦略目的も見事達成
まあ上洛を見越して背後で悪さしないように北条をしめといたんだろう ほんと必死だな?
そこまで武田勝利にしたい理由は何? しかし川中島はよく何度も両者譲らず激突したよね。
信長・秀吉・家康は偉大だが、信玄・謙信の粘りも見習いたい。 >>70
いやいや
どっちかでもゆずってればお互い無駄な時間を過ごさずに歴史も変わってたかもよ
小事に囚われて広い天下が見えなくなった二人の視野の狭さなんて見習わなくてよし >>67
優勢だったという証拠が全く無いから勝利が疑わしいんじゃないの?
優勢だったなら殿が討ち取られてるのも変な話だし。 戦場での結果は精精痛み分けか、兵力比考えると北条がかなり善戦したってとこじゃ
戦術で考えると北条は主力が遅れて包囲に失敗という不備があったため、
大勝出来る可能性があったのに、痛み分けという結果にしてしまった
戦略的に考えると、北条は無事に武田を領外に追い出すことに成功
武田は大きな被害も出さずに、北条の牽制を行うことに成功
政略的に考えると、北条は上杉との外交が形だけであることを露呈
武田は相越同盟に楔を入れることに成功、多少駿河の守備兵力を関東に戻すことに成功 >>73
三増峠合戦という局地戦では北条側の勝利だと思うが、
小田原攻めという戦略で言うなら武田の狙いが上手く行ったと言えると思う。
だがこのスレが三増峠合戦のみを銘打っているので小田原攻めの考察は蛇足だと思う。 痛み分けや北条優勢なら、氏康本陣は荻野で小田原へ引返さないだろうよ。
痛み分けなら、そのような緊迫した状況や敵が近くにいる以上、氏照・氏邦隊に合流するだろし。
北条優勢でも、氏康本陣は氏照・氏邦隊と合流するだろうよ。追撃して武田に大ダメージにの可能性があるから。
結局、氏康が引返したってことは、攻め手である北条が武田にダメージを与える目標に失敗して、
守り手である武田がうまく逃げて撤退戦が成功の証。 >>71
小事っていうが、負けると家臣達の知行も失われるぞ?
自分の命だってなくなる。 >>76
川中島知らんのか?
どんだけ無駄が多いか 甲斐にとって 、海(駿河・越後)田園(信濃)はどうしても必要だっただろうよ。
川中島は甲斐にとって宿命だろうよ。
侵略方向をたとえ変更しても、川中島と似た状況にでくわすだろうよ。 >>79
確かに小田原攻めと三増峠合戦をセットに考えないといけない。
関東〜小田原 攻め手、武田 守り手 北条
北条の関東の城に打撃を与えて武田の一定の成果。
三増峠合戦 攻め手、北条 守り手 武田
武田にとっては被害を最小限にして甲府へ戻りたい。これが目標。
北条にとっては武田軍に打撃を加える決定的なチャンス。
戦況は北条の圧倒的有利(氏康本隊の合流を含め)
結果的に信玄が不利な状況から返り討ちにして逃げ切った。目標達成。
関東遠征全体をみて、完全に北条は武田に負けたといえるでしょう。
>>78
無駄と言われてもなあ。
謙信は天下取りたかったわけじゃなかろうし。
武田もそんなものを誰かが取るなんて夢にも思わなかっただろうよ。
信長が一気に天下に近づいたのも半分は誰もが想定しなかった幸運によるものだしね。
だいたい君の父親は大企業のトップや総理大臣なのか。
そうじゃなきゃ小事にとらわれている小物ということにある。 むしろ浅利勢らが捨て石になった隙に本隊は逃げた、という話になるんじゃないの?
荷駄や物資放棄して自領内で略奪するほどという状況は異様 >>82
>荷駄や物資放棄して自領内で略奪するほどという状況は異様
よく聞くけどこのソースは? >>80
返り討ちにした証拠が一切無い。
>>87
あぁ・・・そういえば
確か甲斐への逃走途中で兵が諏訪神社の一部を壊して暖をとっていたが
何も言えなかったとかあったな、なんだったか・・・。 >>84
甲斐への帰還途中で諏訪神社を壊すってどんなルートで撤退だよw
お前嘘言うならもっとましな嘘いえよww >>85
信玄のことを知りたければ諏訪信仰ぐらい勉強しなさい、恥ずかしい。 >>86
あのな、ルートの指摘してるのに信玄のこと知りたければとか
まったく見当違いなこといってんなよ
日本語分からないなら恥さらすだけだからレスすんなよw 甲斐にも諏訪神社くらいあるよ。諏訪大社と勘違いしてない? このスレまだあったのね
メガ豚も草葉の陰で喜んでいる事でしょう そう考えると北条側の書状は内容的には
もう少しで武田に大打撃を与えられたのに逃げられてしまって悔しいみたいな感じだから
自分たちが勝ったこと前提の書状ってことか?
またそんなことを前提に出来るってことは広く宣伝しなくても北条の勝利だって周りには
思われていたってことになるのか? >>91
さぁ?周りの考えなど論拠なしにはどうとも言えない。
ただ北条側はそう考えていたのではなかろうか、ということ。
今のところはっきりしている事を比較しても、北条側が負けを意識する要素は全く無い。 軍鑑の上田原の品で
当時の慣習だと先に戦場から引き上げた方が負けとされるってあるから・・・ >>1
>>前半で浅利が討ち死にしたら後半で追い返しても関係ないと?
北条勢は三増峠から撤退してない。追い返したというのは何を根拠に述べてるのか?
押しなだれてきたってのはそのまま逃げたって事でしょ?
それを追う事が出来なかったら負けだと主張したいの?被害もはっきりしてないのに。
それじゃ長谷堂合戦で直江が勝ちと言うようなもん。
関ヶ原で島津が徳川に勝ったというようなもん。
上記二つも直江や島津が勝ったと思えるんなら俺はもう何も言わない。 >>95
三増峠は北条勢が甲斐に引き上げる武田勢を追跡しておこった戦いだろう。
軍鑑では最初から北条勢が待ち伏せしてそれを武田が突破したように書いてあるが
信玄の書状でも北条の書状でも、北条が後方から追跡して武田勢に挑んだように
書いてある。これは北条5代記でも北条記でも同じだけど。
この状況では武田は追跡してくる北条勢を追い返して甲斐に引き上げればいい。
北条の書状では当方に押しなだれてきたとあるのだから、追跡している北条のほうに
押しなだれているのだから、逃げたという意味じゃなくて武田が逆襲して押したという事だろう。
実際北条遺臣の残した北条5代記でも北条記でもそんな流れだろ。
後方から武田勢を追跡して最初は押したけど最後は逆襲されて追い立てられたと。
そして武田勢は深追いせずに(もともと帰るつもりだったのだし)そのまま帰ったと。
氏康達は間に合わなかったと。(これは氏康書状とも符号。)
上記2つとは状況が違うのでなんともいえん。 >>96
>>押しなだれているのだから、逃げたという意味じゃなくて武田が逆襲して押したという事だろう。
ここに根拠が無いから、説得力がない。
講談の解説をされても困るし、北条五代記がどういうものなのかは過去レスにあっただろ。 >>97
だから根拠あるって。
北条の書状も信玄の書状も北条側が武田を後方から追跡して戦ったように書いてある。
それで「押しなだれてきた」といってるのだから武田が逃げたんじゃなくて
北条側のほうに押しなだれてるっていう事だろう。
むしろそっちのそのまま逃げたというほうが説得力ない。進行方向逆だろう。
北条5代記がこの戦いにおいて本来の史実にもない北条側が追撃して千余討ち取りを捏造し
武田の逆襲による被害を30人にしてるという事も過去レスに書いたでしょ。
それでも最終的に追い払われた事をかかざるをえなかったと。 >>98
小田原から甲斐に向かって進んでいる武田軍に滝山城から向かった氏照が三増峠でぶつかっているのに
後ろから追ったというのは位置関係的に意味不明なんだが。
北条の書状のどの部分で追撃したなんて書いてあった?
氏照の書状であれば自身の滝山籠城戦の話とごっちゃになっててわかりにくかった気はするが。 >>99
氏照書状では相模で武田が働いた(小田原焼かれた事はかかず)、
と書いてその後で津久井に向かって退散した事を書いてたろ。そこで戦ったと。
氏康書状では退く武田勢を攻撃するために三増山まで進んだけど敵がすばやく
去ってしまい、自分達は遅れたと書いてる。
信玄の書状では帰国の時北条勢6、7千の人数が慕ってきた(追跡してきたの言い回し)
ので一戦に及んだと書いてる。
いずれも甲斐に向かう武田勢を北条勢が後方から追っている事をあらわしていると思うが。 >>100
滝山城ってどこにあるのかわかってて言ってるの?