【武田完勝☆】三増峠の戦い【北条涙目wwww】 P35
>>1の野郎、反論を心待ちにしてケツマンひくつかせてやがるぜ 逃げ切ったという点では武田の勝ち。
ま、幹部級の死者を出した時点で完勝はねぇよ。 まあ、氏康、綱成の無敗ゴールデンコンビなら大勝していただろうな。
いちいち個別スレまで立てるようなことでは無い思う。 >>9
武田はともかく引き篭もり北条は人気ないしな。織田、上杉、武田、伊達辺りじゃないと伸びないだろうな 北条は地味で「華」がともかく無いからな。
ま、そこが良いんだけどね。 1.信玄の評価すべき点2つ。
(1).謙信は、10万で小田原を包囲したが…
信玄は、機動戦で滝山・鉢形城を釘付けにし…
わすが2万で、小田原までたどり着いたこと。
(2).北条に初めての総動員令を出させた事(2回目は猿の小田原戦役ね!!)
2.北条の評価すべき点
正規軍2万+(1.の(2).で前述した)寄せ集め2万で…
信玄包囲網をあっというまに作り上げるまでの家臣統制は見事!!
信玄は首実検をせずにとっとと甲斐に帰国した。
もともと駿河が目的だしね!!
↓わからん人はここをつついて頂戴
三増峠の戦いと武田信玄の相模原行軍…小田原攻め
http://www.rekishi.sagami.in/mimasu.html
相模原の歴史シリーズHP
相模原市などの歴史
古代・中世・近代に渡り相模原に関係する歴史をご紹介
感心して読み進めていたら最後で吹いた。
おいおい、ソースがウィキとか個人サイトとかそれでいいのか?w >>15さんへ
わたしが書いてもいいんだが…長くなるからね。
だいたい合っているし… あってるってならそれに見合う持論を展開してもらわなきゃ困る まあ北条なんて武dくぁと比べると弱っちいから、帰国中の行軍部隊狙っても惨敗食らわせられるありさま
身の程知らずな事しなきゃ痛い目見ないで済んだのにね >>17さんへ
3ヶ月ぐらいかかってしまうけど…それでもいい? 北条、毛利、長宗我部・・地元では実力者なんだが全国区では今一地味で目立たない
伊達、島津・・実力があり知名度もそこそこあるんだが中央から叩かれまくり
今川、朝倉、大内、三好、大友・・噛ませ犬的な存在
斉藤、宇喜多、佐竹・・結構、楽なポジション
上杉、武田・・実力もあり中央にも進出
織田、豊臣、徳川・・全国区メジャー 三増峠の戦い自体より、同時期の政局での武田完勝、北条涙目っぷりが面白い。 謙信も同時期の外交では信玄には敵わないまでもまあまあうまいことやっている。 北条幻庵ってどお?さん そろそろまとまったでしょう。
ここで発表して下さい。 みんなスマソ!!
今川義元敗死(永禄三年5月19日)〜信玄の箕輪城攻略(永禄九年9月29日)までを…
只今、調査中!! もう3ヶ月欲しいのだが…、もしくは連載という形でもイイ?
なんせ謙信愛好家に捕まり、成田氏の調査リポートで1〜2ヶ月かかったんでねェ。
↓ココね!!
【毘】上杉家を語る 九【義】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1190692932/
返答レス下さい!! 恐々謹言。正月廿六日。
只今、「信玄の第一次駿河侵攻」(永禄十一年12月6日)から「薩垂峠の戦い」(永禄十一年4月24日)まで調査中。
&
やっと、第一幕「なぜ信玄は駿河を攻めたのか?」 の執筆に取り掛かる。 第一幕「なぜ信玄は駿河を攻めたのか?」 の8/10ぐらい完成!!
あと氏真側からの見解と2ちゃんに掲載するショートver.のみ
第二幕第一場「信玄の第一次駿河侵攻・興津川の対陣」(永禄十一年12月6日から永禄十二年4月24日まで)の草案執筆中。
第二幕第二場「信玄の第二次駿河侵攻・大宮城陥落」の調査中。 正直京に近い西側の領土を抑えられてしかも信玄の西進に軍勢貸すとか従属とまではいかないけどかなりイニシアチブとられてる気が・・・
まぁ北条に天下統一の意思はないしあの時点で織田と武田をぶつければ漁夫れるってのもあっただろうけど >>33
単純に関東以外興味なかったんだろう。
逆に関東での上杉戦とかでは兵を借りてる訳だし。
少しでも北条家が京で名を上げる意志があるなら、北条家など名乗らずに
由緒正しい伊勢家を名乗っていた方がはるかに有利だったはず。
それをわざわざ捨ててある意味簒奪者と言っても過言ではない執権北条氏を名乗ってまで
関東を支配した存在にこだわってた訳だから京がどうだろうと別にどうでもよかったんじゃないか >>34
御館の乱でも動きが鈍重だしな
うまくいけば能登飛騨まで北条の力が及んだのに 武田方も一門衆の将とか討取られているし言われるほど完勝だったのか疑問
荷駄を放棄せざるを得ないほどだったので、帰った武田兵が飢えと寒さで自国領で略奪するほどの逃げっぷりだったし 領土は取れなかったけど手痛いダメージ与えたら勝ちなのか
そ〜か
んでは川中島は上杉勝利でよろしいか? >>38
その川中島で領土を守ったのが武田でダメージを与えたのが上杉、だからこそ勝敗がわからんけど
これを三増峠に当てはめると領土を守ったのもダメージを与えたのも北条にならないか? >>38
もともとあれは領土狙いじゃないだろ。
小田原焼いて3日でさっさと引き上げてるし。
それを追跡してきた部隊を追っ払ったまでで。 >>41
追っ払えてるのか?何とか逃げられただけでは? 勝ち負けの評価はともかく、武田の狙いが「小田原焼」くことにあったっていうのはいくらなんでも……だわw >>42
武田方の軍記だけでなく北条方の軍記でも最後は武田に追っ払われたというのは
共通してるし、北条方の書状でも後半武田が押しなだれてきたというのはあるから
普通に最初は北条が殿相手に押したけど後半は武田が後詰を出して逆襲して追い払ったんじゃね?
2万対6千か7千なんだから順当な結果だろ。
>>45
小田原焼く事で北条に対するけん制にはなったし、越相同盟があてにならない事を示せて
外交的不信感を植え付ける事にも成功したし、武田と結んだ反北条勢力に対するいい宣伝にもなった。
大局的に武田は十分目的を達してるよ。 >>44
北条五代記の作成時期を考えてみればわかる事では無いかと・・・。
いずれにせよ北条方の被害が全く不明だし、追っ払ったってのは何か記録でもない限り無理があるのでは無いかと。
合戦場から北条方が退いた記録もないが、武田軍は甲斐に退いてる訳で。 >>45
北条遺臣の三浦がわざわざ武田有利に書かなきゃいけない理由はないと思うけどね。
実際軍鑑に比べれば北条の被害はえらく少なく書いてあるし。
勝ったんなら最後負けた描写入れる必要はないし「負けたのはこれだけ」とか言う必要もない。
そりゃこの戦いは小田原焼いて甲斐に帰る途中で追跡してきた北条勢を武田が迎撃した戦いなんだから当然。
勝っても負けても甲斐に戻るよ。 >>45
あと一応信玄自身はこの戦いが終わった後に
遠山や諏訪大祝相手に
「帰国途中で追跡してきた6、7千の北条勢を三増峠で迎撃して2千人ほど
討ち取って勝利した。」と書状で書いてるよ。
無論2千討ち取ったとか誇張は入ってるだろうけど。
北条方も勝ったといってるけどね。 >>46
甲陽軍鑑もわざわざ勝頼やその当時の武田軍を貶す必要は無いよね。
後>>49のその書状の信じるとすると
氏邦も三増峠に参加してすら居ない氏規も討ち取られた事になってしまうんだが。
後の狭山藩主は別人ですか?神流川合戦で戦ってたのは誰ですか? >>48
甲陽軍鑑は武田が滅んだ原因を勝頼に帰しているから。
三増峠の段階で三浦が北条をわざと貶める必要はないよ。
実際被害をかなり過小にしてるし。
だから誇張はされてるといってる。
それは北条も同じ。本当に北条の書状にあるように武田勢を宗の者まで含めて
数多討ち取り手負いの者数知れずという状況なら甲斐に帰還した後で
駿河侵攻を行って次々に各拠点を制圧してるのはおかしいでしょ。
まあ返レスが出来るのは結構後になる事をいっておく。 被害を過小というけど、何を基準に過小と言ってるの?そもそも被害などはっきりしてないのに。
北条五代記も甲陽軍鑑と同じ、北条が滅んだのは氏康以降の代に原因があるというもの。
有名な汁かけの話もこの講談から来てる訳で。
三増峠合戦時の当主は氏政で、この合戦の大将は氏照、氏政は後詰め。
書状について言えば兵数の誇張と討ち取った大将名の捏造では意味が全然違う。
兵数だけであるならば当時はそう正確に数えられるもんでもないし
そこそこ多く討ち取ったのであれば多めにいうのも充分ありうることだろう。
だが討ち取った大将を合戦後まで間違えるなどというのはありえないし、
参加してない大将名まで捏造してる書状では信憑性という点でまったく信用できない。
それに比べて氏照の書状はあくまで数多く討ち取った〜という程度のものだしその数まで言及してない
実際に武田の後詰めは討ち取られてるわけだし。 武田親類衆で、西上野の統括者だった浅利監物すら討取られているしね、武田側 >>52
というかその割には武田軍元気だな。再開した駿河攻めとかでさくさく領土得てるな。
軍鑑では浅利は鉄砲に撃たれて死んだ事になってて部隊も曽根が指揮を引き継いでるけど。 >>1
書状や講談の数字で話を拡げても意味無いと思うが。
そしてその部分以外に武田方が勝利したと言える下地などない、
だが北条方はそれ以外にも武田方の撤退と殿軍の戦死というはっきりした結果が存在する。
最後の一行だけ同意だ。 >>1
だから武田が勝利したとできるような論拠は
氏規殺したとか、数字も滅茶苦茶な書状と講談だけって事。
信用しろという方が無理。 >>55
北条が勝利したとできるような論拠は
明らかに戦果を誇張し、不利な所は書かないもしくはあいまいにしてる
書状だけって事でしょ。
こっちだけを信用しろというほうが無理だよ。
武田にも北条にも勝利したという書状があり、どちらも誇張してるなら
双方に勝ったといえる下地があったと考えるのが自然。
そして北条側書状でも最後は押しなだれてきたといってて
遺臣がまとめた北条びいきの書物でも最後は追い払われたとあるのだから
最後は武田が追っ払ったと見るのが自然だろう。
2万対6、7千の戦いなら順当な結果だし追っ払われても別に北条の恥じゃないだろう。 >遺臣がまとめた北条びいきの書物
これって氏政がぐずぐずしていて出陣が遅れたため
合戦に間に合わず負けたっていう話じゃ
典型的な
>北条五代記も甲陽軍鑑と同じ、北条が滅んだのは氏康以降の代に原因があるというもの。
これの一例なんじゃ
しかも北条五代記は軍鑑の影響大だし >>56
浅利信種の死のどこに誇張があるの?
実は死んでなかったの?それは初耳。
信玄が書状で討ち取ったと主張してる氏邦や氏規は立派に生きてたけどね。 それから例によって返レスはかなり遅くなるのでよろしく。 三増峠の戦いってのは、他で例えれば信長の金ヶ崎退陣みたいなもの。
戦術的に言えば、武田の勝利と言えるものではある。殿に被害は出ても、軍はまっとう
させて敵勢力圏からの撤退に成功したのだから。
戦略レベルでいったら、三増峠を含めた、この時の武田による北条領遠征自体が失敗、
敗北になる。目的が達成できてないんだもの。駿河の兵力を手薄にするなんてのは、後世
勝利を喧伝するためにでっちあげられたシロモノ。
小牧長久手なんかもそうだが、戦術レベルの一局面の勝利をやたらと持ち上げることに
よって戦争全体の敗北を隠そう誤魔化そうとするのはいい加減やめたほうがいいよね。
はっきりいって、前世紀の日米戦争を太平洋・真珠湾の戦いなんて名づけて誤魔化そう
とするようなもんだ。 >>1
だから武田方の勝利といえる根拠は講談と信憑性の低い書状だけだねと何度も言ってるわけだが。
北条方はその信憑性の薄い書状や講談を評価から省いても浅利を討ち取ったという史実は残る。
あとまぁ内藤の率いる小荷駄隊かな、まぁこれはいい。
とにかく武田の勝利を主張するなら客観性のある根拠を持ってきてもらわないと主張になってない。
とりあえずまずは損害すら不明なのに敗北した家というのを俺は今まで聞いた事がない。
>>65
金ヶ崎の合戦は朝倉方の兵数的にもこの合戦より遥かに多いし
北条・武田の国境線付近の三増と違って金ヶ崎は完全に敵地に潜り込んだ状況。
そこを潜り抜けた織田軍は凄いがそれでもこの合戦を織田の勝利とは呼べない。 負けてても勝利と言い張るのが当時だからなぁ
素直に負けた、と認めるのは稀だろ 第二幕「信玄の駿河侵攻・興津川の対陣・伊豆侵攻」(永禄十一年12月6日から永禄十二年7月まで)の草案執筆中。 あんまり信玄汚してやるなよ
山梨県民にとっては唯一の観光資源なんだからさ 部隊長討ち取ったから俺達の勝ちってまるで川中島の上杉と同じ負け惜しみだな
あきらかに戦略でも戦術でも武田の勝ちだろ 深沢城の綱成が矢文にびびって逃げ帰ったんだからそうとう痛い目にあったんだろうよw これに関してはサッカーでいうところの
武田軍がアウェーで点を取って引き分けたくらいの感じじゃない?
この戦いそのものは武田軍が優勢で終了したって感じで。
ただし点も取られてので、必ずしも勝利ではないと…
北条がホームで点取られてドローという感じ。ただし 敵を城から誘き出し野戦で決戦
三方ヶ原に備えての軍事演習だったんだよ
あるいは謙信の川中島をより完璧にした作戦っぽい
川中島では謙信は最後は挟撃されてボロボロで越後に逃げ帰るが
信玄はほぼ無傷で帰還 しかも戦略目的も見事達成
まあ上洛を見越して背後で悪さしないように北条をしめといたんだろう ほんと必死だな?
そこまで武田勝利にしたい理由は何? しかし川中島はよく何度も両者譲らず激突したよね。
信長・秀吉・家康は偉大だが、信玄・謙信の粘りも見習いたい。 >>70
いやいや
どっちかでもゆずってればお互い無駄な時間を過ごさずに歴史も変わってたかもよ
小事に囚われて広い天下が見えなくなった二人の視野の狭さなんて見習わなくてよし >>67
優勢だったという証拠が全く無いから勝利が疑わしいんじゃないの?
優勢だったなら殿が討ち取られてるのも変な話だし。 戦場での結果は精精痛み分けか、兵力比考えると北条がかなり善戦したってとこじゃ
戦術で考えると北条は主力が遅れて包囲に失敗という不備があったため、
大勝出来る可能性があったのに、痛み分けという結果にしてしまった
戦略的に考えると、北条は無事に武田を領外に追い出すことに成功
武田は大きな被害も出さずに、北条の牽制を行うことに成功
政略的に考えると、北条は上杉との外交が形だけであることを露呈
武田は相越同盟に楔を入れることに成功、多少駿河の守備兵力を関東に戻すことに成功 >>73
三増峠合戦という局地戦では北条側の勝利だと思うが、
小田原攻めという戦略で言うなら武田の狙いが上手く行ったと言えると思う。
だがこのスレが三増峠合戦のみを銘打っているので小田原攻めの考察は蛇足だと思う。 痛み分けや北条優勢なら、氏康本陣は荻野で小田原へ引返さないだろうよ。
痛み分けなら、そのような緊迫した状況や敵が近くにいる以上、氏照・氏邦隊に合流するだろし。
北条優勢でも、氏康本陣は氏照・氏邦隊と合流するだろうよ。追撃して武田に大ダメージにの可能性があるから。
結局、氏康が引返したってことは、攻め手である北条が武田にダメージを与える目標に失敗して、
守り手である武田がうまく逃げて撤退戦が成功の証。 >>71
小事っていうが、負けると家臣達の知行も失われるぞ?
自分の命だってなくなる。 >>76
川中島知らんのか?
どんだけ無駄が多いか 甲斐にとって 、海(駿河・越後)田園(信濃)はどうしても必要だっただろうよ。
川中島は甲斐にとって宿命だろうよ。
侵略方向をたとえ変更しても、川中島と似た状況にでくわすだろうよ。 >>79
確かに小田原攻めと三増峠合戦をセットに考えないといけない。
関東〜小田原 攻め手、武田 守り手 北条
北条の関東の城に打撃を与えて武田の一定の成果。
三増峠合戦 攻め手、北条 守り手 武田
武田にとっては被害を最小限にして甲府へ戻りたい。これが目標。
北条にとっては武田軍に打撃を加える決定的なチャンス。
戦況は北条の圧倒的有利(氏康本隊の合流を含め)
結果的に信玄が不利な状況から返り討ちにして逃げ切った。目標達成。
関東遠征全体をみて、完全に北条は武田に負けたといえるでしょう。
>>78
無駄と言われてもなあ。
謙信は天下取りたかったわけじゃなかろうし。
武田もそんなものを誰かが取るなんて夢にも思わなかっただろうよ。
信長が一気に天下に近づいたのも半分は誰もが想定しなかった幸運によるものだしね。
だいたい君の父親は大企業のトップや総理大臣なのか。
そうじゃなきゃ小事にとらわれている小物ということにある。 むしろ浅利勢らが捨て石になった隙に本隊は逃げた、という話になるんじゃないの?
荷駄や物資放棄して自領内で略奪するほどという状況は異様 >>82
>荷駄や物資放棄して自領内で略奪するほどという状況は異様
よく聞くけどこのソースは? >>80
返り討ちにした証拠が一切無い。
>>87
あぁ・・・そういえば
確か甲斐への逃走途中で兵が諏訪神社の一部を壊して暖をとっていたが
何も言えなかったとかあったな、なんだったか・・・。 >>84
甲斐への帰還途中で諏訪神社を壊すってどんなルートで撤退だよw
お前嘘言うならもっとましな嘘いえよww >>85
信玄のことを知りたければ諏訪信仰ぐらい勉強しなさい、恥ずかしい。 >>86
あのな、ルートの指摘してるのに信玄のこと知りたければとか
まったく見当違いなこといってんなよ
日本語分からないなら恥さらすだけだからレスすんなよw 甲斐にも諏訪神社くらいあるよ。諏訪大社と勘違いしてない? このスレまだあったのね
メガ豚も草葉の陰で喜んでいる事でしょう そう考えると北条側の書状は内容的には
もう少しで武田に大打撃を与えられたのに逃げられてしまって悔しいみたいな感じだから
自分たちが勝ったこと前提の書状ってことか?
またそんなことを前提に出来るってことは広く宣伝しなくても北条の勝利だって周りには
思われていたってことになるのか? >>91
さぁ?周りの考えなど論拠なしにはどうとも言えない。
ただ北条側はそう考えていたのではなかろうか、ということ。
今のところはっきりしている事を比較しても、北条側が負けを意識する要素は全く無い。 軍鑑の上田原の品で
当時の慣習だと先に戦場から引き上げた方が負けとされるってあるから・・・ >>1
>>前半で浅利が討ち死にしたら後半で追い返しても関係ないと?
北条勢は三増峠から撤退してない。追い返したというのは何を根拠に述べてるのか?
押しなだれてきたってのはそのまま逃げたって事でしょ?
それを追う事が出来なかったら負けだと主張したいの?被害もはっきりしてないのに。
それじゃ長谷堂合戦で直江が勝ちと言うようなもん。
関ヶ原で島津が徳川に勝ったというようなもん。
上記二つも直江や島津が勝ったと思えるんなら俺はもう何も言わない。 >>95
三増峠は北条勢が甲斐に引き上げる武田勢を追跡しておこった戦いだろう。
軍鑑では最初から北条勢が待ち伏せしてそれを武田が突破したように書いてあるが
信玄の書状でも北条の書状でも、北条が後方から追跡して武田勢に挑んだように
書いてある。これは北条5代記でも北条記でも同じだけど。
この状況では武田は追跡してくる北条勢を追い返して甲斐に引き上げればいい。
北条の書状では当方に押しなだれてきたとあるのだから、追跡している北条のほうに
押しなだれているのだから、逃げたという意味じゃなくて武田が逆襲して押したという事だろう。
実際北条遺臣の残した北条5代記でも北条記でもそんな流れだろ。
後方から武田勢を追跡して最初は押したけど最後は逆襲されて追い立てられたと。
そして武田勢は深追いせずに(もともと帰るつもりだったのだし)そのまま帰ったと。
氏康達は間に合わなかったと。(これは氏康書状とも符号。)
上記2つとは状況が違うのでなんともいえん。 >>96
>>押しなだれているのだから、逃げたという意味じゃなくて武田が逆襲して押したという事だろう。
ここに根拠が無いから、説得力がない。
講談の解説をされても困るし、北条五代記がどういうものなのかは過去レスにあっただろ。 >>97
だから根拠あるって。
北条の書状も信玄の書状も北条側が武田を後方から追跡して戦ったように書いてある。
それで「押しなだれてきた」といってるのだから武田が逃げたんじゃなくて
北条側のほうに押しなだれてるっていう事だろう。
むしろそっちのそのまま逃げたというほうが説得力ない。進行方向逆だろう。
北条5代記がこの戦いにおいて本来の史実にもない北条側が追撃して千余討ち取りを捏造し
武田の逆襲による被害を30人にしてるという事も過去レスに書いたでしょ。
それでも最終的に追い払われた事をかかざるをえなかったと。 >>98
小田原から甲斐に向かって進んでいる武田軍に滝山城から向かった氏照が三増峠でぶつかっているのに
後ろから追ったというのは位置関係的に意味不明なんだが。
北条の書状のどの部分で追撃したなんて書いてあった?
氏照の書状であれば自身の滝山籠城戦の話とごっちゃになっててわかりにくかった気はするが。 >>99
氏照書状では相模で武田が働いた(小田原焼かれた事はかかず)、
と書いてその後で津久井に向かって退散した事を書いてたろ。そこで戦ったと。
氏康書状では退く武田勢を攻撃するために三増山まで進んだけど敵がすばやく
去ってしまい、自分達は遅れたと書いてる。
信玄の書状では帰国の時北条勢6、7千の人数が慕ってきた(追跡してきたの言い回し)
ので一戦に及んだと書いてる。
いずれも甲斐に向かう武田勢を北条勢が後方から追っている事をあらわしていると思うが。 >>100
滝山城ってどこにあるのかわかってて言ってるの? 三増峠の北だな。滝山城は。
三増峠を通って移動中の武田勢を氏照勢が南下して捕捉、
後方より攻撃って所だろ。
規制中につき代行レスを依頼中
>>1
どの時点で北条勢が接近したかによるよ。
武田勢がすでに三増峠を移動中でしっぽを見せている時に北条勢が到着して
後備から襲い掛かったならおかしくない。
つーかでないと後方にあるはずの殿軍の浅利が戦って死んでいる事が説明がつかん。
それから返レスは例によってかなり遅くなるのでよろしく。 浅利監物のような親族衆・地方支配任された大物が殿軍勤めるものなの?
戸石崩れの横田備中のように、下っ端とはいえないが撃たれても中枢には響かない程度の武将が勤める役じゃないこれって? >>104
殿軍は重要な役目だよ。
長谷堂では直江が殿軍を勤めたとされるし、
伊勢長島では織田家の一の長である林が殿軍を勤めている。
後背からくる北条勢を抑えるのはこの作戦において重要だし。 >>1
まずあなたの>>115のレスに対してB、Cで決定的に矛盾があるとした部分を答えてもらえないだろうか?
甲陽軍鑑で有名なシーンに大石遠江を山上から見て信玄が戦いぶりを賞賛したという逸話があって、
この人物こそ後の忠臣蔵で有名な大石内蔵助の祖先であると言うものなんだが、
この逸話が入るのは浅利を討ち取る前。
まぁこの逸話自体は眉唾だが有名で武田軍が山上にいることがわかりやすいので引用する。
しかしこの部分を取るならば
>>B氏照書状にあるように、北条勢は優位に戦闘を進め、武田殿軍損害を受ける。浅利はここで討ち死に。
>>Cこの間に武田軍主力は峠道を越えて山上にたどり着き体勢を整える。
この展開では矛盾が生じる。その反論が無い。 >>106
わざわざアゲる意味がわからないがまあいい。
そっちがいうようにその手の逸話は眉唾ものが多い。
ただまあ甲陽軍鑑、北条5代記、北条記、でいづれも山の上にあるとしているのは考慮すべきか。
正直いうと主力が山の上にあったのを確認し忘れていた。
氏照書状でいうなら5日夜に津久井筋でまず敵の人数を除いたとある。そして6日朝には敵に襲い掛かったとある。
いづれも武田軍の後方から襲いかかったのでなければおかしい動きだが。前方なら主力からの反撃がある。
北条5代記でも北条記でも共通するのは後方から武田勢に攻撃し、勢いに乗ってそのまま進軍する北条勢が
山に伏せられていた武田勢から反撃され追い散らされている事。
これなら書状と符合してもおかしな所はないな。 一説によると浅利を撃ち取ったのは綱成指揮下の玉縄衆か小机衆の鉄砲隊だったらしいね。 あんたは根拠挙げて論理的な見解述べてるけど、絡んで来てる奴は根拠無い妄言連ねてるだけで言ってるレベルが低すぎる。
かなり知能が低いことは明白だし、どう見てもバカが事実に関係無く単に武田が負けたと言いたいだけ。
いつまでも絡む意味無いと思うが。 その後の展開を見てみれば駿河は武田に奪われ
氏康が死んで人質差し出してまで同盟結んでもらい
なおかつ武田上洛に援軍をよこすんだから
北条がいかに涙目だったかわかる >>書状では前日からの事項であっても、講談にした時に流れが簡略化されたと 見ればいいだけの話
浅利浅利うるせーやつだな
小田原焼かれ 駿河奪われ 涙目なのは北条だろうが 自分に都合が悪くなるとなんでも講談だから〜か
いいかげん飽きた
>>1の者だが、GW明けは予定が立て込むので次にレスが出来るのは
相当後だと思われる。返レスあったら書いといて。 >>1に追記しておく。
>>142ではあなたがスルーしている武田勢本隊が志田峠に移動したなら
三増峠にて武田軍の前方に位置する北条勢の後背に回りこめる、
これをやられたら北条勢が悲惨な事になるという事実をどう思っているのか。
これにも答えてほしい。 >>117
目の前の本体が山に向かっていったら追いかけるんじゃね? ぶしつけな要望なのはわかっている。だが
>>あなたのレスが変質してるようにしか思えない。
これは俺もあなたに何度も感じてしまった事だ、
パッと見てもとりあえずレス100番台辺りのレスからは相当変わってしまっている
・・・がこれはお互いに誤解が存在するからそうなのだろう。
だからこそ一度整理していかないと意味のない長文が続くだけになると思っての提案。
とりあえず返答が欲しい。受け入れていただけないのであれば改めてレスを返す。 俺、三増の住人だけど畑仕事なんかしてるといまだに骨出てくるよ・・・・。土質のせいか四百年経っても溶けないんだよね・・・・。ホントに参る。 鎧ってあまり出ないみたいだよ。
たいていが戦場荒らしに盗られているw この合戦以外でも基本的に北条・武田との国境ラインだから戦の堪えない場所だったろうしね。 >>ここまで大規模な外交戦は、秀吉の天下統一戦、関ヶ原、大坂の陣くらい
そうでもないよ。
例えば長尾景虎の関東出陣は芦品、関東全体、武田、本願寺、越中、幕府を動かしている。
でも今川の壮大な外交戦略は確かにすごいね。 武田もすごい。
それまで北条と同盟者だったのに関東の反北条勢力を糾合し
徳川・織田・足利まで動かして戦略を構築している。 >>124-159さんへ。長文で読みずらいのに、レスありがとうございます。
>>158さんへ。
@景虎の第二次越山(永禄三年〜四年)は、準備に約10年費やしてますよね。
書き忘れたけど…、謙信は三木もしくは姉小路とも書状の遣り取りをしていたらしく、
「最近、越中金山が不審の動きをしている」と注進してるいるよ。
永禄十二年2月27日付 三木良頼・姉小路自綱父子→謙信宛書状「上杉家文書」より
Aあと、北条は江戸氏を動かして、義重の不審な動きの真意を探っています。
>>159さんへ。
簗田を通して足利藤政を鎌倉に帰還させるという名目で、反北条を糾合させたらしいね。
「第二次薩垂峠の戦い」もしくは、三増峠関連の書状をとことん解読するまで、楽しみにしててくださいね。恐々謹言 >>126
長文でも面白ければ大歓迎です。
あなたの書くことはいつもためになります。
三増峠を軸にした北条やその周辺の動きは
今個人的に興味がある課題のひとつなので楽しいです。 >>1
ID:RGIwAcDK
連休中は家を空けるからなんかあったら書いといて。 室町幕府自体風前の灯になってる上に、
各地で中央をはるかに凌ぐ軍事力を持った大名が多数居るこの時代で京なんぞ本質的には飾りに過ぎない。
>>1が言ってる理屈は要するに戦国時代の公家と同じ、それも本当に京に居る公家じゃなくて
地方に逃げた公家崩れが地方で実力を持ってる大名に虚勢張ってるのと同じ。
実際は田舎大名などと言う言葉に定義はないので、
>>38のレスは「僕の理屈は正しいんだよバーカバーカ」って言ってるのと同じ、
こんなもん反論もクソも無いのにわざわざ史料つきで説明してくれてるんだから感謝すべき。 スミマセン。>>1の訂正その2。
×>>162さんへ。プレッシャー掛け過ぎです。でも期待を裏切らないようにしますよ。
○>>161さんへ。プレッシャー掛け過ぎです。でも期待を裏切らないようにしますよ。
氏康本人が現場(主戦場)に到着してからの合戦だったら
武田もかなり損害でたと思う。 北条氏康がもっと早く小田原から討って出てたら
家康よろしく粉砕されて糞漏らす間もなくそのままご臨終です 北条氏康は名将だが
野戦よりも篭城戦に強い印象がある。
「負けないイクサ」「ドローでOK」ってのは日本人ウケしないんだろうな。 みんなスマン!!
>>1は間違って書いてしまいました。一応、削除以来板に出しました。
>>161さんへ。
第二幕第二場の「第二次薩垂峠の戦い(興津川の対陣)」。永禄十二年(1569)1月26日〜4月24日。
は、8割完成しました。あとは、「年表の推敲」と「北条と里見の政治的(外交・戦争)関係」を調査するのみです。
遅くなってスミマセン。恐々謹言。
削除理由は削除ガイドラインから
削除人さんは消しゴムじゃありません
そんな理由で一々消せるとでも?
sengoku:戦国時代[レス削除]
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1150003335/112
112:長尾忠景ってどお? 08/09/17 10:40 HOST:KD125054189174.ppp-bb.dion.ne.jp<8080><3128><8000><1080> [@nifty.com]
削除対象アドレス: http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1194134285/179n-
削除理由・詳細・その他: スレッドを間違えて、レスを書いたため >>143
あんたなんでそんなにイライラしてるのw 武田侵攻軍を挟撃するまたとないチャンスだったのに・・・
滝山から南下してきた氏照・氏邦勢が津久井城守備隊と連携を保って三増峠付近の山に
陣取れば、地形的には北条勢が大変有利であり、小田原本隊も追撃するとなれば、武田勢に
とっては前門の虎後門の狼であり、北条としては武田を包囲殲滅することも夢ではなかったの
ではないかと。
ところが、史実は武田を挟撃するどころか逆に、北条が手痛いしっぺ返しを食らってしまったと。
これは何故なのかと考えると、どうしても北条側の戦術的な機動がまずかったとしか考えられな
かった。(氏照・氏邦・綱成・関東衆がうまく連携出来ず、各個突撃してしまい逆襲にあったのかと)
そこまで考えて、さてそもそも三増合戦における両者の布陣はどうだったのか。
戦況の推移と両軍の各部隊行動はどうだったのか。
さらに遡って、合戦場に至る迄の各北条勢の進軍速度・経路はどうだったのか。 >>145
>武田勢にとっては前門の虎後門の狼であり ×
武田勢にとっては前門のヌコ後門の羊 ○ 包囲する側と包囲される側では包囲する側が有利なように思えるけど、
無線が実用化されるまでは伝令ではタイムラグがありすぎて部隊間の統率が取れず、
包囲されている内線側に各個撃破されることも多い >>147
前線の指揮官が流れ弾で死ぬことなんてよくあることだろ >>195-197の長文編は…
http://www7.uploader.jp/home/k1361/
にある
No.1 k1361_uljp00001.pdfというファイルをクリックしてみて下さい。
以上、長文でスミマセンでした。恐々謹言。 >>195-198
乙。
…よく読むと矛盾点があるような。
謙信の動向とか。 >>154さんへ。返レス有難う。
>謙信の動向とか。
謙信も含めて、信玄・里見+佐竹ら関東諸将、越相和与交渉については、
次回「越相同盟について」スレにて、まとめて書く予定です。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192090470/l50
>>161さんも、特に北条の動きが知りたそうなので…、チェックしてみてください。恐々謹言。
つまり三増峠の戦いの敗因は氏政が遅れたことでも何でもなく
最初から氏康自身の采配のミスによるものだったんだね?
それを後から、当時の体調が思わしくなかった、息子のミスだって
もしかして氏康って実際は相当、無能だったの? 三増峠を信玄の勝利って、金ヶ崎を信長の勝利と言ってるのと同じようなもんだね。 本拠地焼かれてそれはないだろ 蹂躙されまくってるじゃん
しかも小田原まで出向いてやったのにろくに決戦も挑んでこないヘタレ具合 深沢城では三増でボコられた綱成が信玄公に脅され逃げ出す始末
どんだけ恐ろしい目にあったことやら トラウマになってたんだろうね
まあそんなみじめな綱成も信玄公に武勇を褒められて涙ぐんで感謝したんだから
戦国ちょっといい話だ その深沢も元々武田が占領してたのを落とされて必死こいて取り返そうとしたもの。 必死こいて屈辱同盟した上杉にはなんの援助もしてもらえず
結局駿河はめでたく武田家が獲得 一方北条は戦でボコられ涙目
何も得るものなく恥を上塗りし武田家に和を請う始末 ところが興国寺城だけは最後まで落とせてないんだよな。
2度も攻めて失敗とかw
因みに北条が本気で守りに行ったのはこの興国寺と蒲原だけ。
やっとこさ蒲原落とした程度で北条に勝ったといえるのかなー? 三増でボコられ小田原焼かれ駿河奪われやっとこさ興国寺城恵んでもらって
涙目で武田家と再同盟 もともと涙目の北条には勝ち目はなかったねー残念ー 北条領は1_も奪えず援軍に着た北条軍に手も足も出せずせっかく落とした駿府以下まとめて放棄して逃げ帰ったり
せいぜい追撃を撃退した程度で、
「あと少しで信玄を討ち取れるところだったんだが惜しかった」
くらいにしか北条側に思われてない三増峠(笑)ごときで一体武田のどの辺が北条に勝ったんかねえ? 勝った!勝った!と高らかに勝利宣言しながら駿河から逃げ出す北条サイコー 勝った!勝った!と高らかに勝利宣言しながらこのスレから逃げ出すID:z0E0NI0F=ID:yaGP1BEMサイコー どの面下げて上杉と同盟したんだろうねー
笑えるねー そんで都合が悪くなるとまた武田家に頭下げに来たんだよねー
笑えるよねー どの面下げて甲斐へ逃げ帰ったんだろうねえ。
緒戦で大勝して調子に乗って徳川にまで手を出したあの勢いはどこへ?
十分勝ちはよしとせず、五分勝ちこそ最良の勝利、って誰の言葉だっけ? 北条が本気を出せば駿河はおろか越後も伺えたよねー
最強だね 小田原城 ID:z0E0NI0Fは小田原が氏康の時代から総構えだったと思ってそうだな。 小田原城が本気を出せば篭城パワーで天下も取れただろうねー
さすが土下座外交のホウジョー もはや脊髄反射で支離滅裂なレスしか出来なくなってきたようだな。 おやおや北条得意の勝利宣言ですかー?
とっとと小田原に篭城してたほうが身のためですよー
篭城しか取り柄のないヒキコモリ北条は >>164
蒲原で守ってた北条一門全滅してるし、
それが攻略された事で駿府は陥落。
駿河の中枢は武田の手に落ちる。
興国寺の時は3日しか攻めてないし
もともと駿河の外れ。
比較にならないと思うが。
つか深沢は綱成が必死に抵抗したんだから評価しなよ。 >>166
>>北条領は1_も奪えず
第一回駿河攻めなら駿河を一か月で攻略した後で北条が来たんだから仕方なくね?
それ以後なら武田の別動隊が北条領の武蔵御岳城を攻略してたんじゃね?
三増峠もその氏照書状は謙信相手の外交誇張入ってるし、
信玄が綱成相手に出した深沢書状では「三増峠の北条勢は前代未聞の見苦しい敗軍であり、
諸軍の嘲りの的だった。」という参戦してたらしい綱成に言ってるくらいだし
古河公方の重臣とか死んでるし、結構やばかったんじゃね? >>162
確かにそうじゃが、それをいうなら北条も綱成開城後に
必死で取り返そうとし3月末まで戦っていたはずじゃ。
そして結局奪還できずに深沢は武田の手に帰し、駿河の攻防は決着するわけじゃ。
武田もそうじゃが北条も十分深沢にこだわっていたといえるのう。 おいおいいつまで北条オタは見苦しい態度ばかりとってんの?
それとも本気で、武田側の資料が信憑性が無いとでも言いたいわけ?
北条側の資料の方が捏造だらけだと言うのは今や歴史家や学者などの
間でも有名だというのに、いまだに甲陽軍艦批判から頭が離れられない
んだねえw
今まで軍艦に信憑性が無いと言われてきたもんだから、逆に勝手に北条側の
資料を鵜呑みにしてきたんだろうけど、事実を知ってショッキングになってる
気持ちも理解出来るよ、てゆうか笑えるw
北条が武田に勝った事実はどこを探してもありませんww
・信玄の誘導作戦によって駿河から兵を撤収せざるをえなくなる
・外交戦略で信玄にボロ負け、謙信の援軍は無し、北関東の敵に
さらに脅かされる事にw
・三増峠で先鋒隊は壊滅w 三増峠の戦いって聞いたことある。武田軍が北条軍に圧勝した戦いでしょ?
北条って、ずっと武田と同盟結んでたから
上杉にも対抗できたし、武田にも滅ぼされなかったんだよね
でも、刺しで勝負したら上杉にも武田にも負けてるとこ見ると
本当は格下の大名だったのかも知れないね よくわからんけど戦術も戦略も武田の勝利なの?
それとも戦闘では負けたけど戦略は北条の勝ち? 北条って、そもそも
戦だけなら里見や佐竹すらの豪族大名にも負けてない?
元から弱かっただけなんじゃ? 武田って、そもそも
戦だけなら村上や長野すらの豪族大名にも負けてない?
元から弱かっただけなんじゃ?
信玄て第一次駿河侵攻で氏康どころか氏政に負けたんだよな…。 >>189
長野には負けてない。これははっきり言える。
>>235
第一次駿河でもその後も戦略を描いたのは氏康。
駿河を最終的に取ったのは信玄。 現場で陣を張ったり補給路を押さえたりしたのは氏政でしょ。
苦し紛れに穴山と葛山に城攻めさせてるけどこれも失敗。
非の打ち所のない氏政の完全な勝利だと思う。 >>192
苦し紛れにというが一部隊千名あまりだしな。
これで城をとろうというものだろうかと。
つーか結局引いたのは今川残党ゲリラや謙信への対処が必要だったからだし。 >>193
そりゃいつ本隊が襲ってくるか分からん状態で大軍は裂けんだろ。
落とした城の大半を放棄して退却とあっては惨敗もいいところだろう。 城落として退却したならそれは戦略的退却って奴で惨敗とは言わないよ、普通の人は(笑) 放棄していった城ほとんど今川側や北条側に取り返されてるんだけど。 >>194
だからそれは戦略状況からの引き上げであって
その戦略状況を作ったのは氏政じゃなくて氏康なわけ。
そんでその後も戦略は氏康が主導し続けるわけで。 折角落とした城打ち捨てて撤退しておいて単なる引き上げとか、大本営発表かとw
6度も長野攻略失敗しといて負けてないとか、どんだけ(ry >>199
まあその理屈でいうと金ヶ崎も負けになるんだが。
第一次は信玄の戦略的負けである事は認めるが。
長野に信玄が負けたというのは江戸時代以降の講談にしかない。
信玄はそれまで上杉謙信との戦いで1561年9月の第四回川中島まで北信濃の
攻略に集中してる。
実際信玄が西上野を攻め始めるのは1561年11月以降だが、この時には
長野業政は死んでいる。
そして1561年11月以降の戦いでは信玄は長野の味方である西上野の勢力を次々に攻略し
1565年には長野の箕輪城を孤立させる事に成功。1566年には総攻撃で攻略してる。 >>197
里見は最盛期には50万石か60万石ぐらいはあったと思うんだが
>>245
戦術的にも結構ボロボロじゃないか第一次駿河に関しては、
兵力差と置かれた状況考えれば善戦していると言っていいと思うけど ていうか北条は武田方の領土に攻め込んで、一体いくつの城を落としたことあるの? TV番組かよw
しかしこの苦しい状況から逆転し
大国北条を追い込み駿河を奪還して再同盟締結。
信玄の知略軍略が光るねえ〜。 北条は武田に盾突いて、
何一つ得をしていないな。
東京大空襲された大日本帝国みたいに首府まで焼き打ちされてる。
しかも武田は日米戦争みたいな明らかな物量差のある相手じゃないし。
これで信玄に並ぶとか戦国一の名君なんて笑わせる。 所詮氏康が死んで代替わりのゴタゴタ時期に掠めとっただけだからな。
運が良かったね武田は。 ま、史実とは一切関係なしに100%適当に反論しました感丸出しだな。
三増峠なんか氏康モロ健在だったし
結局、北条って親子揃って武田に侵略された大名ってだけ >>206
分かった分かった
信玄最強!
信玄完璧!
神だね信玄は
そして信玄を崇拝する人は素晴らしい
な?そう言えば君は満足なんだろ?
分かったからあっち行け
↓シッシッ ヾ(`ε´ )
http://speedo.ula.cc/test/r.so/gimpo.2ch.net/sengoku/1177336438/1-?guid=ON 後北条の方が凄いよ。
義元信玄謙信信長秀吉とかアザトース倒したし。
宇宙大将軍北条氏康。 >>207
横からだが
史実に即した書き込みまでその扱いかね。
煽りでしか書けない君の惨めさに同情する。 >>207
こいつ小学生だろ
いい年こいてこんな馬鹿いないよ >>210
三増峠を武田の大勝利と思ってる書き込みのどこが史実に即した書き込みなのか。 実際に武田が北条相手に大勝してるから史実に即してるだけじゃんw
これが川越夜襲とか生山合戦とかなら講談扱いされてもいいけど
三増峠の戦いまで講談扱いしないで欲しい 大勝利と書いてるのは甲陽軍艦だけ。北条側は信玄を取り逃がした程度にしか書いてない。
第一大勝利とするなら具体的にどのような戦略的損害を北条に与えたというんだ? >>214
軍鑑だけじゃないよ。残念ながら。
信玄が籠城する北条綱成に深沢で送った書状では
>>223の言うとおり「三増峠の北条勢は前代未聞の見苦しい敗軍だった」と
参戦していた綱成に言って恫喝している。
事実じゃなきゃこんな事書かないし、第一北条勢は古河公方の重臣が戦死している。 >>215の補足として
信玄自身も2千人余り討取って大勝利を得た、この勝利は神のおかげと書状を書いている。 敵対する相手に送った降伏を促す書状の内容を鵜呑みにする奴があるか。 >>217
でもよ、綱成は三増峠に参戦してるんだぜ?
その戦いに参戦してる相手に大勝してもいないのに>>261みたいな事書いたら
「ぷっw何ふかしこいてやがんだw必死だなw」ってなるだけで意味ないぜ。
信玄がわざわざ参戦してた綱成に送ってる書状なんだから信じていいんじゃねえの?
>>218
綱成本人がどの辺にいたか分からんが、氏政本隊は結局参戦せずに途中で引き返してる。
戦闘に直接は参加してなかった可能性が高い。
それに深沢城矢文は普通に「ぷっw何ふかしこいてやがんだw必死だなw」って反応されてるけど?
開城を決意したのは金堀衆を使って城を崩しにかかったからだし。
関八州は天が信玄に与えたものとか、駿河に攻め込んだのは氏真が謙信と結託しようとしてたからとか、
内容滅茶苦茶。 >>219
軍記じゃ綱成は氏照勢に参入してたはずだぜ。
そういうことじゃなくてよ、信玄がわざわざ参戦してる相手に
ふかしこいてもしょうがねえだろ、って事よ。
「駿河をはじめとして関八州は信玄に従うのが天命だろう、
氏康ごときのたくらみでなんで留める事ができるものか」ってのは恫喝としての文だと思うぜ。
「俺達が勝ちまくるのは俺達が武勇や軍略に格別に優れてるからじゃなくて
天命ってもんだぜ。」っていう文章もあるしな。
あと氏真が謙信と結託してたのは事実だぜ。
氏真は対武田を想定して共同戦線を張る約束もしてるし、三国同盟の内情も暴露してるぜ。 そもそも>>214で言われてる氏照の書状自体が
小田原焼かれた事隠してたり、北条優位の前半は得意げに書いてるけど
武田勢が山の上から押し寄せてきたというくだりから
急に口をつぐんじゃってるからな。
どう見ても謙信相手に虚勢を張って都合の悪い所を隠ぺいしてると見るのが妥当。
やっぱり北条負けてたんだね
なんで北条って大名も厨も、こんなに見苦しい捏造すんのかね? 実際のところ公正な記述なんてない。双方都合のいいように書いてる。
ただ、甲陽軍鑑の武田びいきな記述が有名になって武田の大勝のようなイメージが広まったが、
詳細は不明ながら両上杉や古河公方を弱体化させたのは確実な川越と違い、
戦略的に北条に大きなダメージを与えたとは言えない。
ただ信長の金ヶ崎同様信玄の窮地を無事に脱した撤退戦だったと言えるだけ。 >>223
なんか強引じゃないか?
戦略的にはこれで小田原焼き打ちからの
越相同盟への楔と反北条連合への宣伝が完全なものになった。
この二つの因子によって北条の戦略は崩れ信玄が駿河を獲得する。
その意味でこの三増峠の戦いは十分に戦略的意味を持つ。
第一戦略的かどうかじゃなくても「前代未聞の見苦しい敗軍」だなんて
参戦してた将が言われてしまうような状態は、十分大勝利だと言えると思うが。
金ヶ崎はその後につながる戦略的因子を残さなかったし相手に打撃を与えてもいないが
信玄は戦略的因子を残し、相手に打撃を与えて追い払ってるんだから違うだろ。 信長は朝倉の本拠にまで攻め込んでないだろ 戦略的にも失敗
しかも味方のはずの浅井に裏切られるという踏んだりけったりな有様 >>224
所詮恫喝な上結局無視された矢文の内容なんて話半分に見るべき。
実際は痛み分けと言われてるところ、誇大に事実をすり替えてることもありえる。
何も相手を脅すのに本当のことを言う必要もないし。 >>226
痛み分け、っていうのが定説化されてるわけじゃないんだが。
だからそれなら参戦してた綱成にわざわざ三増峠での北条勢の敗北の様を
示す意味がないと言ってる。
痛み分けなら恫喝のネタにならんだろ。まして相手は参戦者なんだから。
なんでこれで話し半分にみなきゃならんのやら。
普通に北条が大敗しててその様を示して恫喝のネタに使ったけど
豪気な綱成がそれを跳ねのけただけだろ。
結局その一月後には開城するけど。 「また三増峠みたいに無様に負けてえのか?おぉコラァ!」
「え?あれはいいとこ引き分けだったはずだけど?」
「ハァ???何言ってんだ俺の勝ちだよ勘違いしてんじゃねえよボケェ!!wwwww」
「うーん、言われてみたらそんな気がしてきた…」
みたいなことを狙ったんだろ。
ま、結果的に失敗したわけだけど。 >>228
都合よく考えすぎだろ。
君の中の綱成は記憶障害者か何かなのか?
「前代未聞の見苦しい敗軍で諸軍の嘲りの的だったよな」なんて
事実無根で言われて信じ込むようなやつなのか?
そして信玄がそれを期待するような人物なのだと。
戦国武将をなめすぎだろ。
「関東は全部この信玄のもんだと天命で決まっとるんじゃあ!!」とか
「援軍呼びたきゃ呼べ一大決戦も受けてやるわ!!」とか
とかくでかい事ばかり書いてある内容なんぞにどこが信憑性あるのやら。 >>229
状況考えろ。冷静に外交やってる時の文書じゃねえぞ。
殺し合い罵り合いの戦場の矢文が貴重にも残っていた。
大抵はこんなもんざけんなボケと破り捨てられる。 使者ではなく矢文で送っている点から城内の動揺を誘う策だったとか >>230
前半のは恫喝だし、援軍よびたきゃ呼べよ、決戦しようっていうのは別に
でかい事でもないと思うが。
第一、三増峠だけでなく、蒲原に立てこもっていた北条一門皆殺しにした事や
駿府で岡部を説得して開城させた事や、薩睡砦が自落した事や、
花沢城を攻略して守将が他国者だから解放したこととか
堅実な戦果もしっかり書いてあるんだけど。
>>231
実際しっかり残ってるんだから仕方ない。
書式も北条綱成に対する敬意をこめた文章だしな。
その書状の中で信玄は北条綱成とその部下たちを
北条家随一の衆と呼びたたえている。
綱成もうれしかったろうよ。 やっぱ河越夜戦での活躍があったからか他国まで綱成および玉縄衆の勇名は響いていたのか
川中島での援軍の効果か、単なるリップサービスか >>233
さすがに嘘ばっかりと言う訳にはいかんだろう。
都合のいい成果だけは具体的に伝えるのは氏照の時でも指摘してなかったっけ?
>>280
その辺も使い分けだな。こき下ろすだけじゃ反発されるので持ち上げもしておくと。
あくまで記録文書じゃなくて降伏勧告だからな。
>>281
綱成の武勇を認めていたのは間違いないね。忘れていった旗を家宝として後世まで大事にしてたくらいだし。
だからこそ矢文にしてはやたら手の込んだ長い文章にしたのでは。 >>236
言ってることめちゃくちゃ。
三増峠についてもしっかり具体的に書いてる。
つーか参戦者に対して嘘をつくってどうするんだよ、ばからしい。
小田原焼き打ち、三増峠、蒲原から薩睡、駿府、花沢、といった深沢城攻防戦に
いたるまでの武田の戦果を羅列してその一環で三増峠が出てきてるんだから
うそばっかりとかいう問題じゃないだろう。
言ってることおかしすぎるだろ、君。 綱成に関しては本当に参戦していたのかという疑問も残るけどな 小田原に援軍頼んでもどうせ送ってくれねーし もうだめぽって観念したんだろ
散々負けてそんな余裕ないこと知ってたんだな 三増峠の戦いを局地戦と見ても>>237の言ってることの方が具体的で説得力を感じた
それが駿河を睨んでの戦略的観点から見れば、尚更>>283の言ってることの方が頷ける
北条負けてないって言ってる人って「ただ負けてない負けてない騒ぐだけで」
全然、具体的じゃないんだよな
なんか、ただの感情論に走ってるような印象を受ける 三増峠についての具体的な記述って何?
具体的に書かれていればもう少し矢文も資料として引用されるはずだが しかし小田原包囲は戦略的には失敗だろう。
2万も軍勢率いて放火しただけてw
むしろ謙信に続いて信玄ですら落とせなかったと小田原城に箔が付いただけと思うが。
甲陽軍艦ですら不要な合戦だったと書いてるくらいだし。 小田原を陥落させて、北条の大領を一気に奪取できるならともかく、
本能寺の時の織田・明智みたいに周辺勢力を肥らせるだけだから、
焼き打ちで首府壊滅させれば示威行為としては充分成功じゃないかね? 信玄も小田原城の規模や北条の動員力くらい把握してたと思うんだけど、
それでも本気で小田原城を攻略できると思ってたのかな?
そうでないとしたらなんで敵領深く侵入するような危険を冒したのか理解できない。 >>243
小田原焼き打ちで越相同盟にも楔を打ち込み
関東の反北条勢力へのいい宣伝にもなって活性化に成功、
さらには駿河の北条勢の呼び戻しも成功。
大成功だと思うけど。
>>291
途中の鉢形も滝山も攻略しないでさっさと進んでるから
小田原攻略する気はなかっただろう。上記の理由が主だろう。 >>246
たったそれだけのために一歩間違えれば武田軍が壊滅するような作戦行動を
起こしたというのは下策としかいいようがないんじゃないの?
正直、信玄も冷や汗ものだっただろう。 城攻めこそ下策だからさっさと城からおびき出して野戦でボコる
これ武田の兵法 常識ね でも肝心の北条本隊は城から引きずり出せず、ようやく城から出たと思ったら
野戦でボコるどころか先回りした北条支城軍との間に挟撃体制をつくられるという
戦略的には北条に手玉に取られまくりでしかないように見えるが。
挟撃体制w そんな体制とってみてもまともな挟撃もできなかったのが北条だろ
おまけに別に野戦で叩かなくても戦略目標を達したならあとは帰国するだけだし 挟撃というなら川中島の戦いとかそこらへんのレベルの高いものを出してくれないと
かすりもしないうちから挟撃できていたとか言われても行軍遅くて戦意が乏しいドン亀が
追いつけるわけでもなし 息子達がボコられるのを確認してすごすご城に引き返る北条親子
がみじめだわ 武田:駿河丸取り☆
北条:越相同盟とその破綻という迷走ぶりで小田原を焼かれた上、三郎を上杉に取られたただけ >>249は、昨日までバカ晒しながら必死に否定のための否定してた北条厨だろ
言ってるレベルの低さから見てこんなバカそういういないだろうし
こいつコテにすりゃアボーン出来るのに、電波飛ばしに必死になる暇あるなら少しは他人の迷惑考えろよ 何でこんなに荒れてるの?
武田がすきなのは勝手だけどこんなことで必死に他人をけなすというのは情けないことだぞ。
>>251
は?
レベルが高いのかあれ
講談にしてもキツツキとかレベル低いぞ
高地に布陣する敵に奇襲かけて、逃げたとこを挟撃とか、作り話にしてもヒド過ぎだぞ 北条にしてみれば謙信に続いて信玄も小田原攻め失敗で堅城ぶりをアピール♪
結局悔し紛れに放火しただけw
被害にしては最小限の上々の篭城戦だったぞ。
それとも放火って2万人も動員しないと出来ない凄いことなの? 「放火しただけw」って、さすが北条様は民思いだなwwwwww
城が無事なら城下町が焼け野原になっても「堅城ぶりをアピール♪」で大喜び。
すげぇな。 188 名前:人間七七四年 投稿日:2008/10/05(日) 01:29:15 ID:F0qg8FfB
そこまで弱くないだろ
浅利とか死んでるし
190 名前:人間七七四年 投稿日:2008/10/05(日) 09:22:37 ID:B5PMKTsh
>>147
前線の指揮官が流れ弾で死ぬことなんてよくあることだろ
さすが武田様は兵士思いwwwwww
そりゃ三増峠は大勝利だわ。武将は単なる消耗品だもんね。 一月前のレスww
さすが北条ヲタ。
アザトースをも狩った北条が最強!!
火星守 やっぱ、ここも同じ展開だな
北条厨は煽ったり、話ごまかしてるばっかりで
自分らの低レベルな荒らし合戦で逃げるのが精一杯の様子
全然、正論言えてないし、言い返せてもいない。
北条厨は知識も何もない、ただのゲーム脳の集まりだな ゲーム脳w
直上で煽ったり話ごまかしてる武田厨の姿が見えないのかね。
何事も都合のいいようにしか解釈できない武田厨の武田脳には畏れ入るね。 まず武田厨は学術論文に引用する事がタブーとされている虚妄多き甲陽軍鑑を元にクッチャベルのを止めてくれたまえ 北条厨は
スレと無関係な言い訳とか相手の出した具体論に乗っかることしかしてない
自分ら、この時の史料によると、とか、この時期の両勢力の動きは、とか
何も出さないし意見もしないでで
自分らの北条は勝った勝ったばっかりで
これじゃ逃げてるのと変わらないわ。ゲーム脳だからそんなことも気付かないのか? >>265
まず涙を拭いたらどうだ?
鼻もかんだほうがよかろう 自己紹介か?
分かってるなら引っ込んでろよ
北条厨って痛すぎる
こんなのしかいないの?
これがレベル? 君らはなんて無神経なんだ。
北条厨は、頑張った賞が欲しくてたまらないんだよ。
振り向いてほしいんだよ。
気を利かせてあげなよ。
上杉との同盟に楔をうったというが、
人質も交換して実際越相同盟が機能しだすのは1570年からじゃ・・・? 軍艦が学術論文でタブーなんて言ってたら、
平山優氏の近年の著しい活躍なんかどうなんだよw ただ軍鑑の三増峠の部分がどこまで信用できるかは微妙だが
とは言っても他に良質な史料があるわけでもないが、一次資料からじゃ
お互い損害こうむりあって、武田は撤退に成功、
北条は主力を取り逃すものの撤退させるのに成功という結果ぐらいしかわからないし >>270
小田原侵攻から三増峠前後の北条の書状を見ると
北条は武田が小田原に侵攻してきたのを見て
上杉に出兵を要請しまくっている。
だが結局上杉は動かず北条は小田原を焼かれ、三増峠でも撃破される。
これを受け北条は加勢がなかった事を上杉に批難し
勝手に越中を攻めてろよ、的な嫌味を書状で述べたりしてる。
北条と上杉の同盟が絵にかいたモチだった事が明白に示されてしまった。
さらには1570年に氏康の譲歩によって上杉に対する三郎の人質提出と
上野および武蔵北部の提供がされた後も、謙信は下野を攻めたり越中を攻めたりで
武田と本格的に戦う事はついになかった。
やがて駿河が武田に攻略され、氏康が病に倒れると氏政達はとたんに武田との再同盟を模索するようになる。
執着していた氏康を除けば両家の信頼関係はぼろぼろだったとみていい。 >>272
武田は信玄書状でも深沢書状でも大勝を主張してるけどな。
特に参戦してた綱成に向けて大勝を述べて恫喝してるのは興味深い。
軍鑑だけでなく北条方の軍記も描写は全く異なりながらも
三増峠で北条が武田に敗れたことが一致してるのも興味深い。 でもそれって三増峠は関係なくないか、それ以前も一向に謙信は武田へ攻撃しなかったのだし
もともと同盟結ぶのに無理があったとしか思えん
この合戦の直後ぐらいに上野に出兵して信玄を警戒させたぐらいしかしていないし >>274
そりゃ単に北条方の軍記が軍鑑参考にしているからじゃね
軍配で謙信の攻撃を受け止めるという記述は軍鑑と北条五代記ぐらいなんじゃ 史料における具体的記述は
ttp://homepage3.nifty.com/yogokun/mimasetouge.htm
↑が詳しいんじゃね
ここの管理人は北条の側の史料は信用しないけど武田側の史料は信用するって感じで
公平ではなく結論ありきって感じも多少はあるけど、纏められている史料は有用 >>275
関係大ありだろ。
氏康はできると思って越相同盟を企画したが
信玄の小田原侵攻から三増峠の動きによって結局無理だった事が
明白に示されてしまった。
ここまで無理な事がはっきり示されたのも珍しい。
>>323
北条5代記は軍配で太刀を止められるわけないだろ、って意見だし
参考にしたという割には全然三増峠の描写が違うんだが。
>>324
面倒なやつだな。
該当部分を書いてあげるからちょっと待ってな。 深沢書状における三増峠の該当部分要約
「我々武田勢が小田原において働いてる間、北条勢は一向に出てこなかった。
やがて焼き打ちを済ませて本国に引き返す時、北条は氏照・氏邦を送り込んできたので
三増峠において大方討取ってやった。この時の北条勢は前代未聞の見苦しい敗軍であり
諸軍の嘲りの的であった。さらなる加勢があるだろうと備えていたが氏政は
味方の北条勢が敗北している間中ずっと追いかけてこなかったので、
こちらは寄り道をしないで帰陣した。」 おいおい、別に具体的でもなんでもないだろ。
焼き討ちのことも触れてるけど焼き討ちの規模も詳しくは書いてないね。
なんか焼き討ちの規模が分かる資料ある? >>281
具体的だろ。これだけ書いてるのになにが不満なのか。
一応深沢書状では蓮池まで焼いたといってるな。
蓮池まで踏み込まれて焼かれてるって事は周辺の侍屋敷は丸焼けっぽいが。
文字通り城だけ残ってる状態だな。 後、信玄が三増峠後に出した書状では
氏政の館をはじめとしてことごとく放火したとも言っている。
信玄書状は誇張が入ってるだろうけど
氏政の方も書状で小田原が焼かれたと書いているから、多少の焼き討ちがあったことは確実 >>279
何故って、それ以前の駿河出兵でも武蔵出兵でも上杉役に立ってないし、何で三増峠だけ取上げるのか
結局上杉はかろうじて三増峠の後に関東に出兵して信玄を警戒させて、信長に仲介頼ませるぐらいでさ 武田方は、史料やソースを提示して、当時の状況や戦況推移をしてるにも関わらず
北条方は、何一つ自分たちの反論根拠となる史料もソースも提示しない
いつも、武田方には質問質問で、自分たちは一向に具体的な根拠を述べる気配も見えない
で、話題を濁したり、摩り替えたり、煽り合戦に持ち込もうとしたり、これはさすがに酷すぎる
明らかにフルボッコだな。
ここまで一方的になったら
三増峠の戦いで武田が北条に大勝したのは事実と認めざる負えないよ。 >>285
北条は預かり知らぬことではあったが
信玄が第一次駿河侵攻の後で甲斐に戻った後
甲越和与を成立させているからな。
将軍や管領職の権威をフル活用していた謙信にしてみれば将軍を通じて行われた
この和与は拒否しがたかったのか、それとも北条にいっぱい食わせるためにあえて乗ったのか。
北条にしてみれば上杉は駿河や武蔵では動いてくれないが、それは局地戦だからで
ここぞという時には動いてくれるだろう、という期待があっただろう。
そして本拠小田原に信玄がなだれ込んできて北条が何度も救援要請しても無視。
小田原が焼き打ちされ三増峠で敗れても知らん顔。
本拠が襲撃されても助けてもらえないというのは明確な信用不信だと思うが。
氏康を除いて北条家臣や氏政に与えた衝撃は大きかっただろう。 >>286
低脳な煽りだな。今更氏照書状、深沢矢文、軍艦、五代記その他に目新しい資料でもあんのかね?
この辺の資料に誇張捏造入ってるから議論…にも満たない言い争いになってる。
深沢に前代未聞の云々以外になんか書いてあったかと聞いてみたらこれだよ。
ま、とりあえず言っておくと、
お 前 が 史 料 出 し て 批 判 し て み ろ
そんな逃げ口上はいい。
早く武田方の説明に対して
おまえも、その史料を基に自分の意見を主張してみろ
下らん煽りや話のすり替えなんか、傍から見てると一目瞭然なんだ
いい加減、逃げずにまともな議論をしろ
出来ないなら、どう見ても、武田方の方が知識は豊富だし正しい姿勢で議論をしている
すなわち、武田方の主張の方が正しく聞こえる。
>>289
スレの途中から見てると、お前の煽りの方がよっぽど汚らしいんだけどね。
北条側も史料を元に意見してるのに明らかに無視して北条側を批判してる。
お前自身は何も意見を出さず、ただ煽り入れてるだけ。 >>288
その中に信玄書状や氏康が三増峠で戦死した古河公方の重臣の奥さんに
お悔やみを述べてる書状なども追加してくれ。
>>333ではないが、議論にも満たない言い争いとはひどい言い草だ。
武田派は深沢書状の状況や記述から見て三増峠に参戦していた綱成に
述べている事でもあり信用性があると述べたり、
周辺状況などにも説明をしている。
>>333ではないがそろそろ北条方からも見解や説明が欲しいところだ。
読めるのはおそらく明日以降だろうが、期待している。
どっちも上杉頼みじゃないか
上杉が裏切って動かなかったから上杉の呼応を前提にした配置分けしてた北条に不利な転回になっただけで、逆に上杉が動いていたなら
○上杉が関東に兵を送ってたなら、武田は北条上杉に挟撃ちにされる
○上杉が信濃に兵を動かしたら、武田は多大な犠牲を覚悟で北条の追撃を受けながら急いで帰国しなければならない
不義理者の謙信との不確かな盟をあてにした北条も北条だが、武田の命運を謙信の腹一つに預けて二万の軍勢かき集めて遠征する信玄も信玄だな 迫撃戦かあ。
寡兵でありながら、砥石崩れで武田に大ダメージを与えた村上義清。
有利な情勢であったにもかかわらず、たいした戦果を挙げられなかった北条氏康。
村上義清>北条氏康は真理なのかなあ?
どっちも上杉の動向を探りながら牽制しあってた感じだな。
それであえて氏康も篭城策で時間稼ぎを選んだのかな。
この間必死に上杉に出兵依頼を送ってた氏照がずっといらついていたと。 つまり上杉をあてにしてた北条は戦略が外れて小田原の一部を焼かれ、一方武田は上杉が気になって早めに決戦に挑みたかったが北条にスカされて撤退、その際いくらかの被害を被る
ただ上杉があてにならない事を知った北条は編成を見直さなくてはならなくなり、どうしても駿河は手薄に成らざるを得なくなった
そこに武田は付け込んで駿河を得るも、それと引き換えに嫡男と重臣を失う
双方痛み分け
よって引き分け
武田完勝?それは無い 義信らの反抗は北条とは関係ないお( ^ω^)
対北条戦略は完勝と言っていいぐらい上手くいったおね( ^ω^) >>296
いいえ引き分けです
これね、決定した事ですから(`ω´)v >>287
上杉は上洛のため北進したかったから、
さっさと関東の情勢から切り抜けたかったんだろうね。 >>299
んんにゃ
あの女は病で倒れる前にしっかり関東征伐する気満々だった
あの女としては北条はいずれ倒さねばならない相手
一時的に手を盟を結んだからといって共に武田を倒そうとは思えない仮想敵国
間違っても上杉領に攻めてこようとは思わない武田を潰して北条が台頭するよりも、大人しくていい子の武田を生かして北条に釘をうっておこうとしたのだろう
どうせ武田北条は決着つくわけねーし、お互い消耗するだけならやらしときゃいいわって 深沢矢文のどこに三増峠に綱成が参加していた記述があるんだ?
兄弟が参加したことしか書いていないようだが あれだけ言われたにも関わらず
結局ID:RdYQXdJCは、何も自分からは具体的に根拠を基に話してはいなんだな・・
思うけど、こーいう知識のない人間は
北条に関わらず、ある特定の大名の擁護しない方がいいよ
傍から見てて、その擁護されてる大名がものすごく弱く不利な印象に映る
知らないなら最初から、シャシャリ出ない方が良い わざわざ荒れる方向に持って行こうとする>>302の神経が理解できない。 ってことは一次史料にはやっぱ綱成の参戦は無いのか・・・
となると>>224あたりの意見は前提が間違っているのか。 >>304
>>270はもともと戦略的意味を残してる事を述べているし
第一、武田遺臣、北条遺臣の記した2次資料すべてが綱成参戦を肯定してるのに
何を間違ってるというのか。 逆に言えば二次資料にしか無いという事では
その上、軍鑑は北条五代記に影響を受けているし、北条記は成立年代不明で信憑性が怪しいものだし。
何を間違っているって具体的には273 >>307
全然影響を受けていないんだが。
5代記では軍鑑と全然三増峠の書き方が違うし、
第一5代記では軍鑑の太刀を軍配でとめられるわけないだろ、っていってるんだから
むしろ否定だろ。
>>273を間違えている根拠なんか何もないはずだが?
>>308
>第一5代記では軍鑑の太刀を軍配でとめられるわけないだろ、っていってるんだから
明らかに軍鑑を読んだことがあるって証明じゃないか?
影響を受けているからってすべて同じに書くわけでもないだろうに、それじゃ盗作じゃないか。
>>273は綱成が参戦していることが前提
でも1569年の信玄書状でもこの時の矢文でも他の一次史料でも、綱成の参戦には一言も触れていない。
まあ氏照氏邦なんかと同格というわけでは無いので省略という可能性も考えられなくも無いが、
それにしても綱成が参戦していたなら矢文でそのことに触れるのが普通だと思うが。 >>309
そんな事をいうなら影響を受けた所をあげられるわけで?
すべて、どころか全く違うんだよ。この二つの2次資料における
三増峠の書き方は。
仕方あるまい。書状でいちいち一武将の名前すべてをあげるわけもない。
軍鑑は武田遺臣の中枢にいたものの口述筆記を原本としている可能性が高く、
5代記は北条遺臣の三浦が記している。
さらに北条記にいたるまで綱成参戦を記している。
ないよりはあるとみる根拠のほうが明白だな。
そもそも武田の戦果を記した一環で三増峠が出てくるのだし。 参戦はしてたけど氏康氏政隊の方にいて信玄攻撃部隊にはいなかったとか。 >>303
荒らすのは片方が知識がないからだろ?
質問ばかりのスタンスで自分からは何も具体的な根拠も意見も言わない人間と
真面目に根拠やソース、意見を繰り広げる人では
議論としてフェアじゃない
両方、知識も根拠もあれば、スレは荒れないよ
荒れるのは片方が無知なときだけ 北条綱成に関しては考えたこと無かったが、確かに参加しているかどうかは疑問が残る。
上の人も言っているように矢文では三増峠で敗れたのは氏照氏邦の名しか載っていない、
何故ってなるな、信玄書状でも破ったのは氏康の子供たちとなっている。
またこの時期の綱成は深沢城か玉縄城にいたとして、そこからどうやって氏照らに合流したのか、
深沢城からでは氏政の本隊に合流しているだろうし、玉縄城にいたとしたら、
どうやって武田を追い抜いて氏照らと合流できたのか、
武田が鎌倉行くって噂を流したのが事実なら出撃なんて出来るはずない気もする。
それでなくても、武田が北上するまでは城から出撃なんて危険すぎるし、
wikiによると最近発見された史料によると参加していたとなっているが、一体なんだろ? 小田原まで侵入したと言う事実が重要だお( ^ω^)
数的に特別勝っていたわけでもない武田が本拠地まで押し寄せたのは
北条が劣勢に立たされていた何よりの証拠だおね( ^ω^)
今となっては戦の詳細など知りようがないが、これらは駿河争奪戦の一環であり
結果、北条は敗れて再同盟という言わば
「駿河は貰うけど今まで通り仲良くやろうぜ」的な武田にとってはこの上なく都合よく
北条にとっては屈辱的な結末だったのは間違いないお( ^ω^) 北条としては上杉との同盟強化が狙いだろう。
単独で武田を破るより北条・上杉連合軍という名目で破ることで確固たるものにしたかった。
要するにこっちで武田を引き付けておくから半分手柄やるよってこと。
それを恐れていたから武田も早々に切り上げたわけだし。
結局上杉は浅井長政にはならなかったわけだが。
もし参戦していたら武田は金ヶ崎の信長のように無事に撤退できていただろうか興味深いところではある。 >謙信の戦略は、北条+佐竹ら関東衆全員が沼田(厩橋)で越後勢と集結して、(8月15日に)信濃に侵入するものだったようだ。
謙信らしい壮大な構想ですが、相変わらず絵に描いたもちみたいだなあ。
この通りだとしたら北条と関東衆との領土抗争を終焉させた自負が謙信にはあったのでしょうけれど、
関東衆は北条に対する疑心暗鬼があって「こんな境界線が永続的に続くわけないじゃなーい」と言いたかったんでしょうかねー。
北条も氏康は越相同盟の継続に積極性を感じますが、氏政は消極的な印象を受けます。 ID:jC6dku4bさんへ。何でも何時でもいいので、読み終わったら遠慮なくレス宜敷ね!!
>謙信らしい壮大な構想
これは謙信の基本的な戦略だよね。関東を平定してから、越中ルートで上洛。
景虎越山(1560〜1561)とまったく変わらないねぇ。恐々謹言。 >>315
非常にシンプルで分り易い結論だな。
確かに自分たちより寡兵に
本国まで攻め込まれて、国まで取られて
挙句は追撃戦でも返り討ちにあって被害甚大
だからこそ、屈辱的とも取れる武田との再同盟を選ばざる終えなくなったんだろーな
言うなれば、同盟というよりも降伏に近い停戦とも捉えられるな 途中経過は北条不利でも、最終的に武田は織田と組んだ北条に滅ぼされてるんだよね?
(´・_・`;) そんな苦しい事を言わなければ自尊心を保てないのか、北条鮮の人民は >>322
でも実際武田は北条に滅ぼされてるんだよね?
(´・_・`;)
「北条に」じゃないよ。
それをいうなら北条は、太田に滅ぼされたということが出来る。
足軽に滅ぼされたともね。 なんで武田ヲタっていちいち煽り口調で瑣末なことでも揚げ足とって
なんでも言い返さなきゃ気が済まない連中ばっかなんだろうね。
そのくせ自分はまともに議論してるつもりになってるw
こんなスレタイからして糞スレ丸出しの糞スレでも全力投球で必死w
そりゃどこ行っても嫌われるわwww 北条様は領民に優しい近代的な善政大名
織田様は何をやっても計算のうちである天才大名
いい加減こんな考えは捨てたほうがいいな かといって武田様が領民に優しい善政大名でも何をやっても計算のうちの天才大名であるわけでもないけどな。 誰もそんな事いってないだろw
どっちの厨か知らんが武田厨は天才なんて言葉に執着しないw まあ北条厨の知能の低さは評判通りであって今に始まった事じゃないけどな 北条厨の頑張りって馬鹿丸出しだから見てて痛い。
反論なんてもちろん出来なくて、ただ必死で否定のための否定を繰り返してるだけだもんな。 広島の俺にしてみりゃ
おまいらみんな雑魚なんだけどなww
まあどっちでもいいやw 広島?
ああ、国人盟主のまま豊臣時代を迎えた原始的な大名ですね。
後北条どころか若年の信玄程度のヌルい統制にすら至らなかった。 ほうとうと葡萄くらいしか売りがない山梨ごときが何言ってるんだかw 山梨相手に必死になる広島w
現代でも戦国時代でも最下層w 神の領域…東京・神奈川という現首都圏二大都市の元を築き上げた北条
大都会の領域…大阪の繁栄の基礎を築いた本願寺
都会の領域…名古屋の英雄織田
(超えられない都会の壁)
地方都市の領域…中国地方の中核都市広島を栄えさせた毛利
地方都市の領域…東北地方の中核都市宮城を栄えさせた伊達
地方都市の領域…北九州を繁栄させた大内・大友
(ド田舎の壁)
新潟(笑)上杉
山梨(笑)武田 名古屋は別に信長が発展させたわけでもないような。
江戸時代の影響のが強いだろ。
信長が自ら作った安土は今別に都会じゃないし。 みなさん、明けましておめでとう。本年も宜敷お願いします。
「謙信の動向」取りまとめ中ですが…
>>338さんへ。
神奈川の繁栄は、横浜港の開港じゃないの?
すると、幕府と諸外国になる。 >>340
マムシ注意!! の看板が立っているよ。 >>344
横から割って入る必要のないただの喧嘩状態だなw >>344
まるで成長していない・・・(AAry
いや本当にコピペでもしているんじゃないかと思うぐらいここと同じ主張の繰り返しだ 確かにリンク先何度も見たようなレスの応酬。
新たな話題として政治的な側面からで、
武田は遠征からの帰国直後の10月12日に出した軍役定書が複数残っている。
その中で鉄砲を特に用意するように、(中略)村から出すものは適当なものではなく
有徳の者武勇のある者を不足無く用意すること
帰国直後にこのような行いをしたということから、
少なくとも楽勝ではなかった・現状では北条相手に不安を覚えた、
あるいは被害が多かったという結論へと繋がるのではないだろうか。 上洛戦も控えてるしな 武器の補充もしないとならんだろう
いいがかりにもほどがあるな 1569年の段階で上洛戦を考えるはずもないし、武器の補充なら武器の補充だけ定めれば良かっただけじゃ。 >>347
その理屈だと北条も信玄襲来で総動員令に近いもの出してるから
北条は全壊に近い打撃をどこかで武田相手に受けてたんだろうか?
武田としては越相同盟の楔も打ち込んだし、牽制もした事だし、
小田原焼き討ちで宣伝材料も得た事だし、で
いよいよ強敵北条相手の駿河攻めに全力傾注って事で
戦力の増強と再編成を図ったんじゃないかね。
実際これ以後駿河は武田に順調に攻略されていくし。 鉄砲重視するなんて当然だしね
三増で北条をフルボッコした戦果に満足してさらに装備を充実させただけだろう しかし北条厨もしつこいな
どうみても負けてるのに証拠はないとかいいがかりと屁理屈ばかり
戦の本当の細かい状況までは参加してなきゃわからんが
その後の展開やら状況を見てみれば北条が本拠を焼かれ駿河を奪われ
氏康が死んだ途端に再同盟を打診してくるあたりボコボコじゃねーか
なさけないにもほどがある 久々に伸びてる
>>347
>>405
武田と同様北条も合戦直後の10月11日に軍役を
駿河西部大半が武田の手に落ちた1569年末には、人足改に小田原城など各城の普請を行っている
更には武田は後に棟別改したりとどっちの家もともに軍事力強化に務めている
お互いの家にとって負担の多い戦争だったんだろうと思う
しかも得た物は武田は駿河の大半手に入れたが北条は何も得ていない。 マジで言わせてもらうと
北条をビビらせたのは、三増峠や小田原放火でもなく、
廿里合戦だね。
北条は小山田信茂隊の急襲に驚愕してしまい、敗北した。
それ以降、北条は後手にまわってしまったね。
小田原放火や三増峠も
前哨戦である廿里合戦の勝利によってもたらされた。
さすが武田家最強、小山田信茂。
廿里合戦を提示しないから、北条厨が騒ぐんのだろう。
>>352
負けたっつーことより、戦後の影響は三増峠の勝敗より
上杉が北条に援軍送らなかった事実の方が大きいからな。 小田原急襲の一手で劣勢の駿河情勢を一気に立て直した手腕は、
戦略家としての信玄の真骨頂と言えるな。
俺的に氏照氏邦は好きだから、この戦はあんま好きではないんだが あれで上杉が北条方で参戦してたらどうなってたかわからんけどな。
結果オーライってことでいい具合に終わったが、
信玄かなり危ない橋渡ってたな。 なんで上杉が参戦するの?
武田と上杉はそんなに仲悪くないよ。
武田の駿河攻略・小田原攻めは、
上杉にとっても都合がいいんだから。 >>358
謙信が義将で同盟国の北条の為に動いてれば武田は終わってたけどね
謙信が義将じゃなかったから信玄は助かったんだよね? >>359
そういう安易に型に当てはめようとするものの見方を続けると
何ら本質を見抜けなくなるから改めたほうがいいよ。 北条は何を失敗したんだろ?
鉢形・滝山〜三増峠ではそれなりの兵数をかき集める事ができたわけだから、
勝機は結構あったでしょ。
やっぱり、小田原で武田をもう少し足止めさせれば、
かなり状況は変わってたんだろうなあ。
そもそも上杉が始めから同盟の申し出を蹴っていれば
北条も野戦策を選んだはず。
窮鼠と化した北条に武田も迂闊に手を出せなくなり、結果的に駿河攻略は不可能に…あれ? そもそも小田原攻撃〜三増峠はボコられたわけではないのだが。 >>344
浦野と豊前の所領など一部の人のレスに関しては参考になったな。 あっちのスレ以上に頭のおかしいのが湧いてるみたいだなこのスレ。 笑わせんな お前ら北条厨の基地外っぷりを棚に上げてよくいうぜ >>368
頭おかしいってどんな人?
あんまそういう認定はよくないと思うが。 君の真上にいるよ〜
しょーもない煽りを繰り返してるだけのおかしいのが 氏照が津久井で待ち構えていた、ってなっているけど、
実際は違うんじゃないかな。
兵をかき集めるのに時間がかかって、
急いで迎撃しにいったけど、武田すぐそこまで来ていた。
挟劇地点をもっと南にしたかったんだ。
ドタバタしたのは武田じゃなく、氏照のほうかもね。
小田原からの追撃部隊のなかに氏康っていたの?
氏政が引き返すときに小田原の父になんて報告しよう・・・って凹むシーンの
小説を読んだ記憶がある。氏康は留守番じゃなくて?
実際は? 軍記物では氏康は参加していることに、
一次史料上は参加の確認も留守番の確認も出来ない、
深沢矢文では『氏政』がと記されていて氏康の名は出ていない。
実際は氏政は追撃部隊を率いていた可能性が高いが、氏康は留守番の可能性のほうがやや高いぐらいかと、思う。 氏照本陣を突いたのが真田昌輝って話どっかで聞いたな
数少ない昌輝の逸話か? ここまで冷静に見てくると、確固としてるのは
武田の殿の幹部が討ち取られたってことと
武田側の氏邦や氏規、他2000人も討ち取ったとかいう滅茶苦茶な報告記録があるってことだな
戦術的には北条側の負けといえるような妥当性は無いと判断するしかない >>379
北条方も氏康・氏政・古賀公方と親しげに話をするような
豊前山城が死んでるし
北条側の遺臣のこした本でも負けを認めてるという事実があるだけだが。
なんかめちゃくちゃ。 大 爆 笑 ア ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ
北条や本願寺が東京大阪の基礎を作り上げたってギャグですか?(笑)
江戸という過疎地に家康が基礎を築いたのが史実ですが何か?
本願寺時代の大坂市はただの宗教地帯ですが何か? コピペの元文章は武田厨が書いた代物だけど
キチガイ信長厨の長文コピペとセットで貼り付けてるのは当の信長厨だよ 武田厨本人だろ
武田勝頼が織田信長、徳川家康に勝つ方法・2や桶狭間の合戦の真実について その2
武田信玄こそが世界最強(880)
でのfD4rsKRRの発言を抽出すればわかる
キチガイ信長厨の長文コピペとセットで貼り付けてるのが当の武田厨という可能性は
同時間帯にレスがあることから、何らかの方法でID変えていない限り別人だろうが まあ北条は三船山で負けてたり合戦ポカはけっこうあるわな 戦術を戦略でカバーするのが北条なんだから勘弁しろよ だがは三増峠を大勝利にしたいために豊前山城守を持ち上げるのに必死 豊前山城は当時において関係書類が大量に残る重要人物ではある 残ってる書状の内容から見て重要人物とはとても思えんが・・・。 少なくとも古河公方の重臣として古河公方・北条宗方の家から信任され
折衝役として関係文書を多くのこし
医者としても活躍し北条家の人間を氏康に至るまで診察したり薬を与えたりしてる人間
死んだ後も手厚い内容 少なくとも武将として参陣している以上
本陣の中心で過保護な扱い受けていたということはない。 武将として参陣してたとしても立場的に本陣付きで居る事は十分考えられるし
もともと医者や折衝役として活動してることが多い人だしな
武将として参陣しているという根拠は資料なしだし 考えられんな。医療専門の非戦闘員としての参陣なら
頭髪剃った軽装の僧体でそれと分かる風体で参加する。
そしてそういう人間は臆病者のなる仕事として軽んじられた。
あくまで「医療行為もできる武将」としての参陣が見るのが妥当だろう。
無論本陣近くにいた可能性もあるがそうでない可能性もある。そこは「正確には分からない」が正解。 >>400
>そしてそういう人間は臆病者のなる仕事として軽んじられた
別にそんな事はないな
医師のマナセ道三とかすごい尊敬されてるしな 曲直瀬は軍医専属じゃないだろう。
それに尊敬されるのはどちらかと言えば内科。
豊前も内科治療の記録が残ってて内科の方の人間だしな。 >>402
豊前が医師として尊敬される人間だって認めてるじゃないか
実際北条家からも医師として尊敬されてるが だから内科だろ。尊敬される内科の武将が
身分の低い外科の連中と一緒になって専門外の外科医療に専属に就く訳ないだろう。 >>404
当時の医者は内科外科のそこまで厳密な区分もない
しかも北条家当主まで診察してるような医者が戦場で先陣切って闘うとか
それこそありえんだろ 鎌倉時代にはすでに軍陣専門外科医の金創医が生まれてたんだがな。
別に先陣切ってたとかも言ってないが。正確な場所は分からないとすでに言ったはずだが。 それにいくら医療が得意とはいえ曲がりなりにも古河公方に仕えた武将である以上、
武功の一つも挙げておきたいという気持ちもなかったとは言えんしな。 >>406
三国時代のカダとかは外科も内科も兼任してる
北条家当主に信任されてる古河公方の重臣にして医者が
戦場においてどこにいるのが自然かというと、先陣でないなら
本陣か後陣になりそうだが >>407
それこそ憶測の域を出てない
古河公方の重臣として長年にわたって折衝と医者を任務にして過ごしてきたのに
いい年をしてわざわざ前にでるとかそれこそありえない 三国時代の中国など何の関係もないだろうw戦国時代からさらに1000年以上も前の話じゃんか。
現に戦場に出て討ち死にしてるんだからしょうがない。
そんなに大事な人物なら戦場に連れて来なけりゃいい話で。 >>410
近代医学になるまでは結構兼用あるけどな
古河公方の重臣だからな
権威づけにはなる
死なせたくないから本陣か後陣においとくのが妥当だろ 兼用なんて現代でも町医者クラスなら普通にある。
場所は死傷者続出の戦場だぞ。半端な兼用医者など衛生兵の中心に置くわけなかろうが。
武田との合戦、援軍の交渉相手は上杉という状況下で
古河公方の折衝役などをわざわざ側に置いておく必要性は感じられんな。 >>412
権威づけにはなるし実際に戦死してるんだから仕方ない。
古河公方の重臣にして北条当主からも信頼される医師にして折衝役を
本陣近くにおいて守らず、先陣で使い捨てにする必要性の方が感じられんな。 だから死なせたくなかったら最初から戦場に連れてこなければいい話。
軍師参謀とかでもない人間をわざわざ連れてきて過保護な扱いするなど
無駄な手間がかかるし不公平で他の家臣から不満が出るだけだ。 >>414
権威づけにはなると言ってる。
なんでスルーすんのかね。
本陣おいとくだけなんだから過保護でも何でもない。
古河公方の重臣にして折衝役にして北条当主さえ診察する医師なんだから。
マナセ道三だって戦場に参陣してる。 わざわざ戦場で権威もへったくれもないと思うが。
まあ本陣にいても後陣にいてもいいと思うが。
先陣しか戦闘しないわけでもあるまいし。
曲直瀬も確かに戦場で診療してるな。合戦中に病気になった元就の診療だが。 信玄も戦場に侍医がついていったと思う。
名前はなんだったかな。 >>418
おおっ!!それだ。
ありがとうこれでスッキリした気持ちで眠れる。 三増峠の戦いは、駿河併合戦略とセットで考えないと、
必要性及び重要性が理解できないよ。 四万も動員しながら二万の武田にフルボッコされた北条 >>422
甲陽軍鑑では北条勢は六千らしいけどね
単純にその兵力差が出たのだろう 武田にとってこの戦いって勝ったからよかったものの一歩間違えたら山岳地帯で挟撃されるという
最悪の事態になってたよね。
対村上戦や川中島を経て戦上手になってた時期の信玄にしてはかなり不味い戦い方じゃない?
そんな事言ったらそんな状況で逆に返り討ちにされた北条の立場がないお( ^ω^) >>427
だから不味い戦とか不要な戦とか軍鑑で言われているんじゃ。 >>428
もちろん実力が伯仲した両勢力故に勝負はその時にならないと解らない。
でも通信手段の貧弱なあの時代に本城と支城の軍で敵を挟撃しようという作戦自体は
非常に有効でありかなり高水準の連携能力があったのは間違いない。 基本的に信玄は相手より多い兵を動員し、相手より有利な状況を作ってからはじめて合戦に及ぶ様にしているから三増峠は異質だよな。
まあ、その基本戦略は信玄最大の長所(賭け事をしない)にして最大の短所(時間掛け過ぎ)なわけだが。
信玄って、上田原の戦い&砥石崩れだけじゃなく、生涯で4回は敗北してるよね
他の二回は、
第一次川中島合戦
先鋒が上杉軍に敗北し荒砥城も奪われる。
小田原城攻め
包囲を解き、撤退をしたため、攻城戦の目的を達成できていない。
細かい敗北を見れば4回なんてもんじゃないし
その辺はどこの大名もいっしょの話だが 謙信が来るときは出撃しないのになんで信玄の時は行ったのか
信玄をなめてたのか >>431>>495
信玄が撤退中だったからでしょ。所謂追撃戦
でも結局、信玄は荷駄を捨てて身軽にしたため北条本隊に追いつかれず、
待ち構える別働隊(氏照)を撃破
氏照軍は急遽募集した兵が多いために烏合の衆だったらしい(氏照の弁明) >>437
急遽兵を募集したから負けた?w
つまり北条軍は弱小ってことじゃねーか
言い訳が女々しいな北条は
北条は兵もザコなら将も無能
氏政がバカだったから追い付けなかったんだよ 信玄は荷駄まで捨てて必死で逃げたのが逆に功を奏した感じか
氏照は六千ほど(甲陽軍鑑)でしかも烏合の衆。氏政到着前に単独で戦闘開始
武田側は最初のうちこそ苦戦したみたいだが(上野方面司令官:浅利信種の戦死)、
山県の活躍で勝利。北条側は準備不足だったな >>436
謙信の最初の遠征でも出撃していたし、それ以後の謙信の遠征時も基本的には出撃している、
そして戦闘はともかく戦争にはほぼ毎回勝っている。 >>426 >>499
氏照達を6千7千としてるのは信玄書状であって軍鑑じゃない 幾ら敵が多くても、峠を抑え追撃中の氏康が迫ったりと北条方圧倒的有利な状況だったのに
それを覆した信玄が凄かったと言う事だ >>443
書状が正しいのであろう。
損害については武田側2,000(諏訪家文書、信玄書状。但し甲陽軍鑑では3,269)、
北条側1,000(北条五代記)のようだね
損害は別にしても、とりあえず北条勢の追撃は撃退したのであろう 謙信だったら北条に挟撃されて川中島クラスの損害だしてたな
まあ北条にそんな甲斐性はないがw >>446
細かいことではあるが
損害武田側2千、北条側千、と書くと
まるで武田側が2千の損害を受けて
北条側の損害が千に見える
実際は武田側が北条側に2千から三千の損害を与えているので
ここは損害ではなく戦果、と書いて
武田側戦果2千、北条側戦果千、と書くのが正しかろう
もっとも、北条側の戦果千、というのは
北条5代記にある、北条氏康本隊が武田勢を追撃して与えたとされる戦果で
一次資料では確認が取れないので、真か偽かは謎ではあるが >>448
氏康本隊は氏照の敗北を聞いてその時点で引き返したから武田軍とは一切交戦してないってのが
一応、今までの通説だったよね。 >>449
そう
一次資料の氏康書状を見ても「敵がすばやく去ってしまい、我が旗本は一日の遅れで間に合わなかった」
とあるので、氏康本隊が戦闘に参加してないのは明らか
武田側の信玄が書いた深沢矢文でも「氏照達を撃破した後で、しばらく氏政達の本隊を待っていたが来なかったので我々は甲斐に帰った」
とあるので、一次資料では敵味方双方で氏康氏政本隊が到着しなかったのは共通してる
ただし、北条5代記には小田原から包囲を解いて移動する途中の武田勢を氏康達が追撃して千人討ち取ったというのがあり、
武田勢がその後で三増峠で北条勢を撃破する事になっている
北条5代記は北条遺臣が残した書物であり、氏康を称える傾向が強いから、
その氏康が武田相手に戦果がなかったというのが嫌で創作したのか
ただ、それでも最後に三増峠において武田勢に敗北した事は、北条5代記でもしっかり認められている 北条方は武田の重臣、浅利を討ってるのが大きな戦果だな
氏照は「勝った」という書状さえ出しているようだ。最終的に撃退されているはずだが。
まあ、「勝利」と「敗北」の定義が難しいけど、追撃戦で追撃される側(武田)が
どの程度の被害に抑えて敵を撃退すれば「勝利」なのか・・・
俺的には追撃戦で「勝利」とか「敗北」って無いんじゃないかなって思う
無論、双方相手の大将を討ち取れればそれは「勝利」と言えなくもないが。 まあ確かに、武田としては「逃げるのに成功した」のに対して北条から見れば「捕まえるのに失敗した」ともいえるしね。
そうなると峠での戦術面では武田が勝ったけど北条の包囲を脱しようとしている武田軍の行動方針自体は
少なくとも作戦行動に成功した軍隊が行うようなものではないな。 流れ弾って怖いねぇ〜 まあ武田の将は命を惜しまず勇戦するのが常だから
勝った勝ったってあんたそれ前代未聞の見苦しい敗軍の将勝利宣言綱成くんかよ
なぜかwikiとかでは「氏照が勝ったという書状を残している」とか書かれているが
あれは原文を正しく見れば、氏照達が三増峠の戦闘では勝ったなんて
一言も言ってない事がわかるんだけどな >>451
氏照がこの三増峠の戦いについて述べた書状を
正しく読んでみれば、氏照は三増峠の戦いにおいては勝ったとは一言も言ってない
氏照が「度々勝利を得」と書いてるのは、武田勢が小田原を包囲する前に
氏照の城である滝山城を攻撃した時の事を言ってるのだとわかる
ただこの氏照の主張も、武田勢が滝山の二の丸まで攻め込んで追い詰めたが、
小田原を攻める予定だから止めはささずに先を急いだ、とされてる事や
武田の小山田が「我々は小田原を狙って進軍中だが、これまで通り道の鉢形や御岳を攻撃してやった。次に向かう滝山も放火は必然だ。」と書状に書いてるから
氏照達がそんな大規模な勝利を挙げたとは考えにくい
もともとこの氏照書状は上杉に対して弱みを見せない為に、誇張や強がりが随所に見られる それ読んで謙信はどう思ってたんだろうね 北条さんはんぱねーっす!ってwktk
するほどお人よしでもないし北条の嘘吐きめがって嘲笑してたのかフーン状態だったのか
勝負の勘をなげうってでも小田原は攻めさせんぞって息巻いてたのに結局篭城でしょ
北条のいいわけばっかでアホらしかったろうね謙信 なんでこんな奴らのために信濃に攻め込まなきゃ
ならねーの?って
例えるならお舘の乱で景勝支援に方針変えた勝頼の気分 敵に回すと面倒くさい
味方にすると役立たず
それが北条 >>457
氏康も謙信に対してそれと全く同じ印象だったろうな。 氏照の山吉孫次郎宛書状および河田重親宛書状では、
1.滝山城で度々勝利、手負いの敵は数知れず
2.敵は津久井に退散。小荷駄隊をことごとく切り落とした。
3.氏政はまだ到着しないが、敵に取り掛かり、宗の者も多数討ち取った
4.敵がこちらになだれてきたが、当方烏合の衆のことにて信玄を討ち漏らした
という内容。
無論、言葉通りの戦ではなかったろうけどね
坂本徳一氏は、この戦いのを逃れた武田側が津久井あたりで傷の手当てをした後、
家臣の不満がくすぶっていた兆候について指摘(信玄が兵たちの規律違反をとがめなかった)
小林計一氏、磯貝正義氏は、武田は堂々と勝利だとは言えないとしている。 >>459
柴辻・平山・丸山氏はこの戦いを普通に武田の勝利としてる
信玄自身が三増峠の勝利を深沢で北条への恫喝に使ってることや
10年くらいたった後でも、この戦いを武田側は大勝利としてる書状があるから
武田にとっては勝利という認識が明確だったんだろう 工藤章興氏は、領土を奪われることなく武田軍を退却させたのだから、
戦略的に見て北条の勝利としている。
人により見方はまちまちだね。追撃戦を判定するのが難しいからか、
あるいは史料不足によるものか。 工藤氏が?
そんなこと書いてたか?
もともと武田の狙いは領土ではなかったし、北条の勝利といわれると疑問 小田原包囲の目的が北条領という説は初めて聞いたな
駿河争奪戦の牽制が定説だと思ってた あれ駿河攻略のための牽制でしょ
わざわざ滝山も鉢形も攻略せずに小田原向かっていき、
小田原を3日焼き討ちしたらさっさと帰路についてるし
どうみても北条領狙いとは… >>466
>北条は駿河一国失ったから普通に負けだw
それ以前に北条が駿河一国掌握してた時期など一度もないだろう。 勝手に今川領駿河がまるまる北条に転がり込んできたんだから
第一次駿河侵攻は北条の大勝利だな。 戦略でも戦術でも見事に完敗やん 北条
前代未聞の見苦しい大敗 まぁ北条は信玄にメンツを潰され
コケにされてるのは事実
だからこそ謙信に土下座外交して氏康はメンツを取り戻そうとしたら
謙信からもコケにされて外交的大敗北のまま脳卒中で憤死寸前。
後遺症でボケ老人になり邪魔なんで氏政に暗殺されるw 元々駿河など北条領でないし奪う気もないし今川への義理で戦ってたんだからプラマイゼロ。
単に氏真がヘッポコだったってだけ。 まあ北条にとってメインの戦場は飽くまで関東だからね。
普通に考えれば関東と駿河の両面作戦なんてやらないほうが効率的なはず。
ところが武田が勝頼の代になっても北条ってけっこう駿河で武田と交戦してるんだよね。
いくら氏康の娘が今川に嫁いでたからって氏康死後10年経っても北条が駿河を攻める理由が解らないな。
計画性がない北条は行き当たりばったりのクルクルパーだから仕方がない。 氏康が病に倒れた途端、信玄は駿河に侵攻。
でも駿河を完全には奪えず、最終的には甲相同盟締結時に駿河の北条領
と上野の武田領を交換したんだよ
そもそも信玄の駿河侵攻は凄く危険なもので、平山優氏によれば
「信玄が滅亡の危機を乗り切り、かろうじて生き残れたのは・・・
大国間の思惑や齟齬に助けられた、幸運によるものといわざるを得ない。
それはまったくの偶然によるものだった」
としている。つまり北条上杉間が上手く連携できなかったことが幸いし、
自身の危機を乗り切れただけでなく、甲相同盟復活により駿河を完全に手中に
出来たということ。 そんなとってつけたような連携を思いつきでやるあたりさすが有言実行大名ルーピー北条さんだな 謙信は戦バカだし北条も場当たり的だし信玄も没落瓦解の今川を徳川と挟撃してるくせに
えらい手間取ってるわで東国の有力三大名って案外ダメなところが多いな。 いえいえダメダメで前代未聞のアホは北条鮮だけですよ やっぱりなんか最近、氏康叩きがブーム化してない?
お前らあれだろ、全ての面において高水準にバランスが取れてて欠点の無い氏康に
嫉妬してるんだろう? 絶対そうだろう? ならば尚更最初の駿河侵攻は棚ぼた駿河ゲットで北条大勝利ですな。
後で武田に奪われたと言ってもプラマイゼロという事実は変わらず。 >>483
ノリノリで取りにいって
駿河の継承権譲り受けて
一門や有力武将をいそいそと配置して
鉄壁の守りにしたのに、武田に結局ひっくり返されて
一門や有力武将や戦力を多く失ってるのに
そりゃないぜ 戦後の収穫で言うならむしろ謙信の関東諸侯からの信頼を失墜させたのは大きいぞ。
あのおかげで関宿城をあっさり陥落できた。 >>485
まあ、それはあるかもな
ただ、それって氏康が狙っていたものかは疑問だよな
氏康はその死に至るまで越相同盟に執着していた形跡が目立ち、
あのまま越相同盟堅持の方向で行ってたら関宿攻略はできなかったろ
北条厨としては、氏康が最後に「謙信とは手を切り、信玄と結べ」と遺言したという話を
どううけとっているんだ?
これを真実とみるかフィクションと見るかでだいぶ違うだろ
三増峠は武田が荷物捨てて必死で逃げた結果、準備不足の氏照軍を
撃破できただけで、平山氏の言う通り、信玄にとっては薄氷を踏む
ような退却劇でしょ 本当これほどの戦いを見事に成功させる信玄公の凄みを感じる
一方の氏康はまるでボケ老人のよう >>488
別に全部捨てたわけでもないぞ
わざわざ内藤が荷駄奉行やって
荷駄を守りながら進軍してる
良い荷駄をえりすぐったってな話な
てか平山氏は三増峠の戦いに関しては普通に武田の勝利として評価してるが
勝手に曲解すんなってーの 信玄は三方原では家康を城から誘い出して得意の野戦に持ち込み勝利
なのに三増峠では氏康本隊に追いつかれないよう、必死で逃げてるでしょ
得意の野戦に持ち込めばいいのに、それをせずに荷物捨てて身軽にして
必死で逃げ、挙句兵士たちが神社を壊したりするのも咎めず・・・
とにかく氏康本隊との決戦を避け、逃げることに徹しているのがわかる
兵力で劣るからかもしれないが(信玄は大体、兵力で劣る戦いをしない) >>491
なんで挟撃される危険おかしてたたかわにゃならんの
深沢書状によれば
武田勢は氏照達を撃破した後で、しばらく氏康氏政本隊が来るのを待ち構えていたが
結局こないので帰還したとある
(氏康の書状でも一日の遅れで間に合わなかったとあるので、武田もさすがに一日は待ってられなかったんだろう。)
余分な荷駄をはずして良い荷駄を集めたのは、山岳での戦闘をしながらの帰還戦闘なんだから
当たり前。戦闘しながら進むのに余計な荷物は邪魔なだけ
武田勢が余分な荷駄をはずしたのは三増峠の戦いに入る直前 ってかさ、敵が待ち構えててまもなく戦闘になるって分かってるんならあらかじめ
荷駄を後ろに置いといて荷駄隊を全部戦闘部隊にして勝った後で荷駄を回収して行けばいいんじゃね? 氏康本隊の到着がいつになるかわかんなかったし、
移動しながらの戦闘になることがわかってたから
荷駄を全部捨てたりなんかしたら
長引いたときに悲惨なことになる >>494
氏康本隊の到着がいつになるかわかんかった武田にとって
荷駄を全部後ろにおいておくなんてしたら、
最悪の場合、後ろから到着した氏康本隊に奪われたり
回収できなくなる可能性があるから
そんなことできなかいだろ 武田もきわどい作戦行動するな。
壮年期の信玄にしては北条への牽制のためだけにずいぶん大きいリスクを冒してるのが解せんですな。 敵の懐に飛び込んで殴りこみかけて返り討ちにして帰ってくなんて危険すぎる
確かに晩年になってものすごく強くなってる 最強だ ある意味謙信と似てきてるw といっても影虎時代かな 晩年の氏康は完全にボケ老人害悪でしかない
10年早く死んでりゃ氏政がもっと上手くやった 逃げる信玄 追う氏康
「氏康の不戦勝」とするのが妥当かな 武蔵方面軍が弱かった訳じゃない
ただ武田軍が強すぎたんだ
これで氏照等を馬鹿にするのは駄目だろ 一応フォロー入れるなら北条家は武田の関東遠征直前の大水害の影響でまともに戦えるような状況じゃ無かったかもしれないってところか。 >>504
ソースは?まさかまた北条厨得意の「根拠はあるある詐欺」で
ソース無し発言を繰り返す気? >>503
氏照は烏合の衆を使って武田重臣を倒しただけでも十分頑張ったと思うぞ 三千人撃ち殺されて居城もボコボコにされてお疲れさんだな >>507
「ボコボコ」とは抽象的なw
結果、落とせてないし、そもそも滝山城が存在しなかった説まであるほど、
全てがあいまいな戦い 北条が目指すのは飽くまで関東であって武田なぞどうでもよかった。
ただ粘着信玄が武蔵や相模を攻め取る力も無いくせに攻めて来るからちょっとビビらせてやろうぜってことで
発生したのが三増峠の戦い。
結果として局地戦では武田が勝ったものの得るものは何も無く自軍を危険にさらしただけに終わり、
北条も多少の痛手は受けたが北条家全体から見れば軽微と言っていい程度の損害で
この敗戦で北条家が揺らぐようなことは全く無かった。
別の例で言えば川中島の戦いで上杉が徒労に終わる戦を仕掛け武田がその相手をしてやったのと同じようなもの。
>>508
具体的には2の丸まで踏み込まれ、
三増峠には寄せ集めで挑まざるを得なくなるくらい被害を受けた、て事じゃね
滝山城が存在しなかったとしたら
氏照さんはどこの城にいて、武田に攻められたのはどこの城だったんですかね
なんというか、あなたのレス見てると悲しくなってくる
>>569
その割には駿河継承権まで譲り受けて
一門や有力武将配置して守り固めてたよな
蒲原で武田軍の攻撃を受けながら玉砕して果てた北条一門衆や、深沢で奮戦してた綱成のことは
なぜかなかったことにされてるのかな >>510
なんかさっきから下手糞な釣り続けてるよね。
がんばってね。
>>501
武田が待ってたけどこなかったよな、氏康 ビビッて城に篭ってたからね 息子達が三増峠で殺されかけてても見捨てて逃げ帰ってるし >>513
待つんだったら、荷物捨てる必要ない
>>574
氏康が城から出てきたのに、信玄は何で逃げたのか、そこが知りたい 河越が有名になったから他が空気なんだよ
武蔵攻略の拠点である河越城を任されるくらいだ、信頼はあると言う事 >>517
駿河進攻を予定してたのに、その前に大きな合戦はしないでしょ
北条うぜーな、って感じで始まった訳だし >>518
河越野戦自体が講談話で実際には存在してません。
よって綱成が籠城してた話もデタラメ 滝山城について工藤章興氏は、むしろ武田側がダメージが大きかったと
甲陽軍鑑の記述(勝頼や信豊の討死を危惧し撤退)を基に指摘。
その後小田原も攻めてるが、3日で退却したのは、何もせずにただ退却
するより、まだ戦力があるぞと見せかければ追撃を受けずに済むと考えた
のかもしれない。
武田軍は実際にはダメージが大きいから氏康・氏政本隊との決戦を避けて、
荷駄を捨ててまで逃亡に専念したと考えると納得いく。 だから城に篭ってる時点で決戦さけまくってたのはどこのどいつだよと >>520
歴代古案にも記載されている合戦が存在しないはずが無い
綱成籠城も太田資武書状で記載されている。(幻庵と綱成籠城時に扇谷共輩の
軍が押し寄せ云々・・・)
>>582
氏康は無茶をしないタイプ。信玄の小田原攻めが貧弱だったので勝機あり
と踏んだのだろう。それに真正面から決戦するほどイノシシでも無い。
信玄は三方が原のように反転して決戦すればいいのに、しなかったでしょ? >>523
その書状のどこに川越野戦を証明できる部分があるんだね?ないよねw >>522
ロシア帝国もソ連も決戦を避けることでナポレオンやドイツ軍を退けた。
どんな手を使おうが守備側は守り切れば勝ちであり、攻撃側は攻め落とせなければ負け。
三増峠で局地的に武田が勝ったとはいえ戦略的には武田の負けであり北条の勝ちなのは明白。 戦略で負けまくってるのは北条
駿河失い 謙信との同盟も機能せず 関東に包囲網しかれる >>525
どっちの書状のことかわからんが、
歴代古案では憲政らが河越城を取り囲んだこと、氏康が河越近辺に布陣したこと、
憲政の馬廻り等を討ち取ったことなど含め、諸々書いてる
太田資武書状ではさっき書いたことや、氏康が出陣したこと、合戦となって
官領方(扇谷)が敗北したことなど含め、諸々書いてる とりあえず書状と年月日を転載してくれないと信用できない。 歴代古案は氏康から簗田政信へ宛てた書状 天文12年4月
※一般に言われている天文15年より前な理由は不明
太田資武の書状は太田資正から資武へ語られた内容を、資武から資宗への
書状で書いている。11月13日(年は不明) 年数が違う時点で
ぜんぜん関係ないじゃんw
やっぱり北条厨ってデタラメばっかだな。
むしろ廿里での横地監物の大敗が効いていたのでは?
あれで順当に横地監物が勝っていれば氏那攻めてる武田勢を牽制出来たかもしれないのに
小山田勢に牽制されて氏照は動くことが出来ずに座して攻められるのを待つだけとなったのだから
>>505
1569年8月の綱重の書状だか願文のことだろうな
黒田氏だかの論文にあったと思う
最もその論文の中じゃ三増峠では武田が勝っているとしているので
ここで北条家を押している人間にとっては微妙な内容かもしれんな 綱成が川越城主と決まったのは天文15年4月の川越野戦の勝利からだが
攻城自体は天文14年9月だと言うから防衛のために綱成がその前後に川越城へ入ったとしても
天文12年4月に綱成がすでに川越城にいて川越野戦があったと言うのは明らかにおかしい。
人物配置に矛盾があり、年がまったく合ってないが月だけは合わせている偽文書っぽさが実に香ばしい。 当事者が書いたなら年を間違わない。
しかも相手に読ませるものを間違えるなどみっともないを越えて、
年を間違えるなどは褒美恩賞で詐欺をやろうとしてると疑心暗鬼するような悪質さだ。
後世に別人が書いたから事実誤認して年を間違えてる。
別人も当時揃えた史料内でリアリティを追求したつもり。
現代はいろいろな史料を突き合わせてチェックできるからミスがチェックできるだけの話。
そもそも日付自体もデタラメな可能性もある。
>>534
>当事者が書いたなら年を間違わない
「絶対」間違わないと?人間のすることなのに。
>>597
生野山の戦いの感状って複数あるんでしょ
なんで全部否定しないの?否定しやすい一通だけ選んだの? その原文が手元にないから自信ないが書状は日付は書いても年数は普通書かないぞ、
天文12年との比定が間違っているだけという可能性もあるぞ。
永禄3年から永禄9年辺りでも普通に氏政の文書はあるはずだが。
>写本だから書き間違えたのだと苦しい論理のシロモノ
でもこれって学者の意見じゃ。 >>1
荷物全部捨てたわけじゃないかもしれないが、
撤退時に自分の領地の寺社を焼くぐらい困窮している状態にまでなっていることを
考えると余裕があったようには思えないが。
>>593
武田氏研究の7号?だったかな。
この論文だと武田側は本当は北条領奥深くまで侵攻し焼き払う予定だったが、
大洪水の影響であまり平野部への焼き打ちがあまり行えず中途半端な成果に終わってしまった、
と書いていたな。 そもそも生野山とか河越とか、スレ違いだね
論点ずらしに引っかかっちまったようだw >>535
他の書状?生野山の戦いを立証できるような内容のものなんて他にないですよ。
そんなものがあるなら書状の内容と日付をここに転載してみてくださいよ。
>>599
年数は書かれている。
なぜ書かれてないかもと言うのか理由を聞かせて頂きたい。
永禄3年と書かれた同型式文の感状を氏政が出していると主張するなら転記してもらいたい。 >>537
人の寺社心配するより自分の居城焼き討ちされてるほうを心配したほうがいいよ >>533
黒田基樹も江戸時代成立の軍記物により「河越野戦」として喧伝されている戦いについては
同合戦そのものに関する良質な史料は極めて少ないと語っているし
当時の川越城は玉縄北条綱成ではなく宿老大道寺盛昌が城代をしていたとしてるから
天正12年にすでに綱成が河越城にいたとするのは明らかに事実誤認して偽文書を作成してしまったと断言できる。
北条厨は武田文書は偽文書ばかりと喚くくせに北条の文書は偽文書がないとか主張する気か? >>539
謙信公御年譜では生野山の戦いで謙信が野戦で唯一敗北したと記載されてるらしいよ
>>604
寺社を壊したのも北条の居城を焼き討ちしたのも武田。ヒドイよね
>>605
>天正12年にすでに綱成が河越城にいたとするのは明らかに事実誤認して偽文書を作成してしまったと断言できる。
天正12年といえば河越の戦いから38年後のことだが、それがどうしたの? >>542
リンク先に>>攻城自体は天文14年9月だと言うから
って書かれてる。
揚げ足行為なんざ北条厨ってのは性格も悪いな。
>>謙信公御年譜では生野山の戦いで謙信が野戦で唯一敗北したと記載されてるらしいよ
性格の悪い北条厨のあるある詐欺「〜らしいよ」発言には聞き飽きた。
ちゃんと内容を明確に転載しろ。
話はそれからだ。 黒田基樹氏が曰く
永禄三年頃から謙信が関東出陣。時を同じくして関東で飢饉
永禄十年頃まで謙信はたびたび関東出陣。飢饉は収まらず、永禄四、五年には
連続して徳政令
永禄九年、謙信は下総小金城・臼井城の攻略失敗。関東国衆なだれを打って北条方へ
飢饉は止まず
永禄十年には下野から謙信撤退。この年の秋頃から飢饉が回復状態に
永禄十一年には謙信の関東出陣が無くなる。飢饉回復
謙信=飢饉だな >>543
アンチの書き込みってヒドイな
氏康書状の年の間違いはそれを根拠に「捏造ニダ!」と言っていながら、
自分の書き込みの年の間違いには「察しろニダ!」と逆ギレ
氏康も天国で「俺の書状は今年の書状なんだから、察しろよ」って思ってるだろうな 永禄4年を永禄2年と偽書状を作る際にミスった生野山の感状では
戦いがあった翌日に慌ただしく感状を出してることになってるのは
明らかに当時を知らないやつが信憑性を出そうとして日付をもっともらしくしようと「昨廿七日」なんて書いてるんだろうね。
一方、臼井城での戦いが終わったのは3月25日であり、
感状が発給されたのは半月以上経って落ち着いてきた4月12日。
明らかに生野山の発給スピードは北条のやり方から逸脱してておかしい。
やはり偽書状とみて間違いないなー。 >>1
飢饉の話も臼井の話も、まるで北条厨が勝手に捏造したように書いてるが、
あくまで黒田氏の説をそのまま書いただけ(「早雲と北条一族」)
北条厨の捏造と決め付けたり、
>それを根拠として、関東でも飢饉が起きていたと決め付けるやり方
と、勝手に根拠を決め付けたり。。。論拠の捏造はやめてくれ >>548
論拠としてここに書き込んだからには
説明責任が生じている。
できないなら最初から書くなよアホ厨房が。 北条厨のヤツずっと歴代古案の上杉書状は偽文書だと主張してたくせに
歴代古案にあるから川越野戦はあったと主張しだして自爆したなw
しかも黒田も川越野戦は軍記に頼っているようなシロモノで大した根拠が存在しないって書いてるのになw
マジ馬鹿過ぎてワロタw
>>552
北条厨は厄介払いか・・・
そもそもアンチが生野山とか河越とか、スレ違いネタ出してきたんだがw 北条のことは良く分からないが一部のアンチ北条派が酷いということは理解できた。
まあだからといって北条派が正しいとは限らないけど。 >>521
勝頼や信豊が暴れん坊なのは平常運転です
それに後詰のない城なんて無理攻めしないで牽制しときゃいいだけ
出てこりゃ夜戦で粉砕する 小田原フルボッコされたのに涙目で勝利宣言してたら駿河まで失いましたw 武田も駿河を得てもむしろ投資しただけ損だったからなあ 結果だけ見れば戦死者もかなりだったみたいだし
武田勝ってもいいことなかったね あとになっての損得勘定と勝利が結びつかないって空しい うん。投資的意味合いからすれば武田大損だったもんな。 >>560
なんで損?
立派な勝利だったろ
てかその理屈は全部丸ごと無駄だった織田を皮肉ってるわけ?
>>628
北条のほうがしんでるし、武田は普通に大勝利
>>629
織田とかまさにそれだよな
>>630
ぼろもうけだろ
駿河丸取で北条とも再同盟 >>564
確か駿河にかけた分、取れなかったと思った
統治にすごい苦労しているし >>564
取れなかった?
何をいってるんだ?
普通に駿河を完全制圧してるぞ
統治も苦労した形跡はみあたらんが
何をいってるんだ? >>566は>>632宛
「かけた分」って言葉自体も謎だし、何をいってるのかよくわからん >>566
徳川はおろか今川ほどのあともないじゃないかwww >>568
あともない、って痕跡の事か?
それなら武田があちこちに築いた城もあるし、
行政を行った書状とかもあるぞ
何がいいたいのか正直意味不明すぎ 書状があるだけじゃ統治が上手く行った証拠にはならんよ 推測するに『駿河取得にかけた支出分の収益が取れなかった』かなぁ〜?
どんだけかかったのかどれだけ取れたのか是非数値で表してほしいものだが。
統治に関しては北条と最同盟後も一揆が起きてそれの鎮圧に軍を出しているのはあるが、
また甲斐信濃並の税制を敷くようになるのは勝頼時代になってからという論文もあるが、
別に苦労ってほどの苦労とは言えないと思う、駿河完全統治が1571年なんだから、
それを信玄の寿命までの僅かな期間で甲斐信濃並にしてたらそっちの方が凄いってw
まあ統治のシステム的には当時としては進んでいた今川領だったから治めやすくはあったかもしれんが。
あとは駿府が今川時代の繁栄取り戻すのは江戸時代の家康の時とかいう評ぐらいか? >>570
うまく言ってない証拠のほうがないだろ
さっきから一体何をもとにして語ってるんだ? 上手く行ったんで6〜7年で駿河統治が終りですか
そりゃ、すごいわwwww 自分のソースは
一揆は1572年の誰か宛の感状、駿河の蒲原辺りの一揆を鎮圧して云々という内容。
税制は確か戦武の目次前の付録みたいに付いている小論文、4巻か5巻だったと思う。 >>573 >>642
1582年で一旦武田滅亡したんだから仕方なかろ
それで統治がうまくいったかどうかを決めるのはおかしかろ
てかその言い方だと
織田なんか数ヶ月で手放した統治領土なんかざらにあるし
一年もたなかったところや、
5年以下で手放したところもある
織田のは普通に一揆続発で国ごと火祭りになって手放さざるを得なくなってる状態だけどな >>574
よければ1572年の何月かをおせーて
書状番号でもいい
後はこっちでも見れる 織田は領地の拡大速度に人手が追いついていってない感じだ。
もっとも急激に領土拡大した家はみんなそんな感じで、
重要なとこだけ確保して他は在地勢力に丸投げ、
在地勢力をそのまま取り込むって感じ多い。
>>577
何月かさえ覚えていない、正直1572年かも自信が無いが・・・
ただその感状は多分3巻であったはず、
ちゃんと感状の中身まで読まないと分からないから、
上の情報だけで調べるのは大変だろうと思う。
一月ぐらい待ってくれれば調べてくるが。
でも今図書館閉まるの早いんだよな・・・ >>575
てか11年か12年だろ?
少なくとも1569年や1570年や1571年には駿河における行政文書が無数にあるぞ >>578
お疲れさん
俺も最近はリアル忙しくて
色々大変だわ
いくつもの資料を全部あたるとかかなり大変
できれば手がかりが欲しかったが・・・まあ仕方ない まさに織田の事だよな
文字通り完全崩壊
暴虐さと杜撰な政治で後世に恨みと悪評ばらまいて無駄の極み 織田の孫とか爺さんの悪行のせいで寺にも庇護してもらえずに
野垂れ死にしちゃったよな
業の深い爺さんのせいでかわいそうすぎる 織田は大名として三家、四家残れたけんじゃなかったっけ?
家臣に裏切られまくって、山の中に追い立てられて自害も悲惨だお… 大名として一家だけそれも一万石だか三万石だか
武田は高家をはじめ複数が旗本として残ってる 華族なんて江戸末に残ってた藩主なら軒並みなってるし
結局WW2敗戦で消滅
てかそんな後の事を言うんだったら現在にまで生きてる武田家当主は
会社の創設して代表取締役になってるよ
つかここまで来るともう比較対象としてもわけわかめ それいったら織田は現在の会社創設者でもなければ社長でもない
なんだってこんな数百年以上たった後の事で比べあわねばならんのか 大名としては有楽系と信雄系の二つが残ったはずじゃ
あと旗本としていくつか >>580
戦武1881
山梨県史だと番号は分からない
1572年5月16日原市川から小栗彦三郎宛の朱印状、
感状では無かった。
去る2月5日油野口(芝川町)において不慮の一戦のみぎり云々〜
でその時真っ先に帰参してくれたので褒美に知行として富士川のどっか与えるという内容。
閉館時間が迫っていたので日数と軽く内容確認したのみ、つか昔は貸出可だったのに・・・
日付と場所から北条との再同盟後もごたごたが続いていたと見るのが自然、
駿河の動乱時に、一揆組んで離反武田に不服従といった地域があった模様。 >>593
それいったら武田も残っているのは複数あるな >>1
それを普通は戦国時代的な意味での一揆と呼ぶんじゃないのか?
とはいえそれが630辺りの言う統治の凄い苦労に値するかと言うとかなり疑問符が付くなw >>596
武田としては北条という敵がいなくなって
心置きなく富士大宮完全掌握に乗り出したって事であって
5月には戦後処理や富士大宮完全掌握達成と思われる書状が大量に出てる事を考えれば
富士大宮の抵抗は2月から4月の3ヶ月程で、それも結局使節の交渉で決着してるようだから
それ程の血は流れてないようだな
これで統治に凄い苦労とか言われると無理ありすぎというしかない 武田は宗教勢力の懐柔が巧みだからな
ただ保護するだけではなく、細かい金の流れに口出せるほど内部まで掌握する。
諏訪を統治する際に培ったものだろう。 武田がというより今川時代の段階でほぼ無力化されていたからの方が大きいんじゃね
武田の統治で苦労というと佐久の方が当てはまりそう
武田の場合あれの方が一揆に苦労した例じゃね >>599
今川時代には全然無力化されてないぞ
でないと武田が侵攻してきた時に富士大宮がその軍事力をフルに活用して
抵抗した事が説明つかなくなるし、
武田が内部にまで介入して完全掌握してる事も説明がつかなくなる
佐久もそれ程一揆なんて起きたか?って感じだけどな 無力化されていたからその程度で済んだってことだろ。 >>601
だから無力化されてたら抵抗されてる理由がないっての
武田の業績否定したいのはわかったから
今川時代に無力化されてたとかいうなら根拠示せや
とてもそんな兆候ないと思うが
>>671
何がいいたいのかわかりくい
今川領は今川仮名目録にあるように基本的に寺社豪族の特権認めずが基本方針だから、
この今川の業績肯定派の人達(?)の言っていることはそれほどおかしくはない、と感じるが。
もっとも三河一向一揆のような例もあるし、氏真時代の遠江の乱もある、
弱体化はさせていたにしても完全な無力化はしていないだろうな、
ただ畿内や北陸に比べれば統治のしやすさは基本的に遥かにましな状況だっただろう。
ただ富士大宮は今川武田北条間の境目に位置していため独自性を保っていた、
という部分が大きいから、上記とはまた別な気もする。
武田が直接統治に入ったのも境目ではなくなったのだからある意味当然、
戦国時代ではよくあることだし、そういった直接支配を嫌い反抗するのもよくあることだ。
確か富士大宮と駿東郡支配に関する論文があったはずだが、何だったかな? >>604
>ただ富士大宮は今川武田北条間の境目に位置していため独自性を保っていた、
>という部分が大きいから、上記とはまた別な気もする。
そんなことあったか?
今川時代の段階で既に政権側に組み込まれたいたはずじゃ。
武田における恵林寺のように、富士大宮は代々今川氏と関係が深く、
葛山から代官交代したりとか氏真時代にもあったはず、誰が役の負担するとかも口出ししていたはず。
反抗した理由も武田が完全支配を目指したと言うのもあるかもしれないが、
単純に今川との関係が深かったためじゃ。 そりゃそうだ
第一刀狩されていたはずの地域で武器持って反乱一揆騒動が起こったりするんだ
弱体化であれば理解できるが無力化というのは不可能に近いはず どれくらい弱体化していたものか
弱体化できても後にきたのにかっさわれちゃったからなあ 座して食らうは徳川家康じゃないけど
前領主がちゃんと仕事していた所は治めやすいだろうな
逆に前領主が豪族放置していて大名権力が全く及んでいないところは
統治するにしても完全に一から始めていかないといけないから統治は難しいだろな
まあ前領主の方がいいって理由でごねられる場合もあるが >>611
多分ない
反織田の一揆が起きたのは本能寺後だから
勝ち組?につこうとしたとか単なる落ち武者狩りの類だと思うし >>612
多分で答えるのはどうかと思うが
信長生存時に既に信濃では8千人規模もの大規模一揆が起きてる
これは信玄時代はおろか、勝頼時代にすら無かったほどの大規模一揆
さらには甲斐衆の暴発は、暴政をしたとして後世にまで恨まれている織田の支配層に対して行われたものだから
落ち武者狩りというのはありえない
勝ち組につこう、というのも甲斐衆は河尻をはじめとした織田支配層を殺した後で
帰属をどこにも決めずにしばらく過ごしているから、これまた勝ち組とかいうのもありえない
単純に織田の政治が嫌で嫌われたか、武田の政治を懐かしんだか、どっちかだろう >>609
弱体化されていた前提で話をするのはおかしくね?
今川時代に特に弱体化していた形跡は無いぞ
ま、その理屈なら織田は全部丸ごと無駄ってことでFA >>613
>勝ち組につこう、というのも甲斐衆は河尻をはじめとした織田支配層を殺した後で
>帰属をどこにも決めずにしばらく過ごしているから
これは前後の時系列と書状から考えて北条の影響と謀略による可能性が高い、
また徳川の謀略という可能性は低い。 >信長生存時に既に信濃では8千人規模もの大規模一揆が起きてる
これ日付考えると織田の実際の政治が嫌で嫌われたは時間的に無理そう
まだ政治なんて始まってもいない状態
織田の戦後処理が嫌われたか上杉の扇動か
織田家の政治というものに対する風聞でも聞いていて恐れたか
そんなところだだろう
また武田の政治を懐かしんだも無さそ
そもそも武田領となってわずか数年でそんな慕われるようなことになるか?
無論例外はあるだろうがその例外に当たるような実績残しているような資料は見当たらない
信濃全体で見ても武田を復興させるような動きも担ぎあげるような
動きも(穴山が生きていたりしたらとか後の徳川は別として)無かったし
それどころか旧領復帰目指して小笠原などの武田統治以前の勢力が頑張る始末だし >>615
にわかに信じがたい話だな
そこまで北条の手が伸びていたなら、甲斐衆が結局大軍の北条ではなく、
徳川を選んだ理由もわけわかめになる
>>685
政治が始まってすぐに不満続出、ってのもありそうだけどな
数年って、信濃は武田が20数年間にわたって統治した領土だぞ
明らかに武田の影響が強い地帯
そりゃもともと武田のお膝元は甲斐だからな
担ぎ上げるような一族も特に無しの状態だからな つか織田の占領行政が嫌われたのが理由なら武田領全土で一揆が起きてるはずじゃね >>618
武田領において織田が占領行政行って支配したのは甲斐と信濃
駿河は徳川のものになってる
その甲斐と信濃で両方とも国中反織田で一揆がおきてる事を考えれば
どう見ても占領行政で嫌われてるだろ
家康が占領した駿河じゃそんな事なかったんだし
>>1
それだと穴山が生きていれば武田再興なったかもな、
確か甲斐の一郡与えられているから甲斐の4分の1支配してるということだし、
それと駿河の一部がある。
甲斐を上手くまとめれば徳川北条から簡単には手を出されない程度の勢力になれる。
>>690
そりゃそうだな。
でも実際には信越国境のみか、でも上杉の影響を理由にするのは弱いと思う、
沼田では一揆なんて起きていないのだから。 >>619 >>692
野良犬だがよ、8千人って数はどこから出たんだ?妄想かw? >>621
信長公記の記述
信長万歳の厨でもなぜか信長厨御用達の資料に書いてあるこの記述をスルー、ってか大抵しらない
なんでかしらないが
旧領復帰や新領獲得のためみんな動いているんだから
織田の統治や武田の統治がどうであったろうと結果は差ほど変わらんだろ
武田統治以前の状態を目指す小笠原や山浦のような連中も多いし
だからといって武田の統治が駄目だったとは言い切れんだろうし
あと徳川領で一揆が無いのは家康が生きているからだろjk 織田の統治が占領行政が嫌われたするなら甲斐信濃駿河上野で一揆が起きたのは
奥信濃のみなので本当に嫌われていたのか?ってなるし
本能寺後織田の統治が嫌われていたとするなら何で甲斐信濃の一部のみで一揆が起きたのかってなるし
一揆が起きて織田家臣を殺そうとしたことで嫌われていたとするなら
武田滅亡時武田領民が率先して勝頼や武田滅亡後に武田家臣を狩り出そうとしていたことから
武田も同様に武田の統治は嫌われていたととするのが論理的
織田の統治のみを悪いとするとどうしても論理破綻する
結局武田滅亡も本能寺後の混乱も恩賞目当ての落ち武者狩りや勝ち組につこうとする行動
混乱に乗じて勢力拡大を図っただけとするのが無難
織田武田の統治は領民には同程度に嫌われているか好かれているか程度でしかないだろう >>624
奥信濃のみも何も、1万数千規模なんて武田統治時代を通して存在しなかった大一揆だぞ
これでどっちもどっちにもちこむのは無理だろ
勝頼政権末期は外交失敗で多方面作戦によってあちこち敵に回した結果として
領民負担が多かったから不満が蓄積されていた
しかし、勝頼死亡後には徳川時代においても政治において信玄の遺風が残されるように運動されている
信長万歳の信長公記の記述では「(1582年の織田侵攻時点での)武田領国の民衆は早く織田領になりたいと思っていた」と
書いてあって、まるで織田軍を解放軍みたいに書いてるが
実際はすぐさま1万数千規模もの大一揆が起きてるのは異常
それでなくても、河尻をはじめとする織田系代官の所業は織田の暴政として後世に語りつがれている
てか、織田領国では信長が死ぬ前から離反や反乱続出なんだから
そんなに珍しい事でもなく、織田の政治が持っていた本質的な欠陥だったと考えたほうがいいだろ >>623
だから信長生きてる時点で1万数千規模もの大一揆がですねry
徳川生きてるから一揆無かったというなら、信長は生きてる時から信濃で武田時代には無かった程の大一揆が起きてるわけよ
そんで死亡後には国ごと離反 横からだが
自分が思うに1万数千規模もの大一揆ってほとんどの人間がまともに取り合っていないんじゃないか?
あと多分あなたの意見反論になってると思われないぞ
質問に答えず別の部分で答えているから
くだ研風に言うとごくまれな反例をとりあげるってやつか? 一応公記とかに記されていないだけで他の地域でも一揆はあったという可能性はあるかもしれんぞ 滅亡による混乱、大名が死んだことによる占領行政の崩壊ってことで考えればよくあるような話って気もするが。
今川滅亡時に駿河遠江で一揆が起きて武田徳川に従わなかったが、
それだって今川時代には起きなかった一揆であり武田徳川の統治の酷さの証明である、
というかとそうじゃないだろうし。 川尻のブチころされかたは悪政の結果だろうな
逆さに埋められるってw >>628
まともに取り合ってないって、認めたくないだけだろ?
信長公記にある記述を基にすれば
どうやったって1万は超えることになるぞ
長沼進出した一揆だけで8千、大倉に立てこもって殺された一揆の連中が最低でも千数百、
さらには飯山をこの間ずっと包囲していた一揆勢、これらを合計すればどうやったって
1万数千規模になるのにどうして認められないのか謎すぎる >>1
なにいってんだ、こいつ、じゃないだろ
実際にこれだけの一揆がおこってるのにどうして影響を無視すんのかね
織田勢主力が信濃南や甲斐に在中してる状態じゃ一揆がおこしにくかっただけかもな
他の大名も似たり寄ったりとはどうしても思えないが
織田領国の離反・反乱の多さはどうみたって普通の有名大名を圧倒的に上回ってるだろ
奥信濃、ってか川中島周辺地域でも一揆は活動してるだろ
ここら辺は武田が統治して10数年以上になる十分武田の影響が強い地域だぞ
>>704
それで信長生存時でさえ1万数千規模の一揆がおき、さらには信長死亡後には国ごと離反
これで織田領国が無謬とかありえんから
てか、他の領国でも信長は生涯にわたって離反されまくりだろうに だがはだがか
人のフォローに対して罵倒で返す辺りぶれない男だ >これだと武田の統治が進んでいなかった奥信濃のみで一揆が起きたことから
それだと沼田などの北上野や東上野などではどうして起きていないとなる。
>織田勢主力が信濃南や甲斐に在中してる状態じゃ一揆がおこしにくかっただけかもな
その理屈だと織田勢主力が帰国してから起こせばいいとなる。
というか飯山の一揆も織田勢が帰国してからか帰国しだしてからの出来ごとでは。
>>635
>その理屈だと織田勢主力が帰国してから起こせばいいとなる。
だから本能寺後に一揆を起こしたと言えそうでもあるけど、
あれは北条上杉の暗躍もあったし、大名とその後継者及びそれを支える近臣がほぼ消滅、
これだとたとえどんな善政しいていても一揆は起きただろうし、
でも上野では一揆は起きていなかったし。
川尻個人が嫌われていたぐらいなら成り立つか? >>635
前半と後半で別人に突っ込んでるんだな?
とりあえず後半の俺宛だけに返答するが
織田勢が駐屯してるだろ
森も河尻も織田の威をかさにきてる
てか、現にたった2ヶ月たらずで国ごと離反だろうに
>>710
織田が善政しいてたっていいたいのか?
無理ありすぎだろ
後世に織田の暴政としてそしられ、河尻は酷い殺され方して
北条上杉の暗躍って織田がしっかり政治してりゃあそこまで酷い暴発にはならんだろ
てか、適当統治で国ごと暴発されて織田の代官が逃亡したり殺されたりしてるのは
信長生前からおきてる事態なのに、しかも織田の暴政としてそしられてるのに
無理やり善政にする理由がないとおもうが 織田の暴政に対する国人達の感情を把握していた家康と
信長にビビって婚姻関係を結びたくて必死で余裕がない北条
これが甲斐・信濃の領国化に有用だっただろうね。 コピペ荒らし基地外のせいで次々とスレが荒廃していく・・・ガチ気持ち悪いわ。
いま、ブロック紙だけど神奈川新聞で
「〜新説 三増合戦 愛川町郷土資料館企画展から〜」ってな特集やってるぞ
昨日が一回目 北条氏康・氏政・氏照・氏邦が大バカ親子であることが確定した戦いだったね
北条厨が悔しくて悔しくて隠蔽したい戦いだね もうすっかり北条厨も大人しくなったな 完全な負け戦をいつまでも勝った勝ったと捏造するのも疲れるんだろう 深沢城にて北条綱成「勝った勝った勝ったぞー!」と言いながら小田原に帰ったとさ。 まあ綱成が活躍した
川越野戦からして捏造説が強いからね。 軍記ブームで捏造豪傑が生産されたからね。
綱成とか伊達の成実とか毛利の元春とか
妄想武勇伝しか無い。 そしてなんと言っても北越軍記の謙信がやはり最大の虚飾ですね 他の厨が軍記内容と史実の見分けもつかず
ごっちゃにして書き込みしてるが、
誰も戦国板で北越軍記なんて持ち出して書き込みしてるヤツはいないだろアンチ乙w むしろ北越軍記なんて
現代語訳活字出版さえしてない。
手に入れること自体が高難度だし そして養祖父を惨殺して家名を簒奪した長尾上杉
武田が一番キチンとしている 喧嘩相手を捜しているのか?武勇伝でも聞き出したいのか?‥一体どのような主旨で漢を募集するのかね?
中・高生の頃、単なる不良として地域に名を残しても現在は建設作業員やトラックの運転手など世の中に数知れないが…(爆)
俺の場合、腕っ節の強さと明晰な頭脳&度胸&仲間達等関わる人達総てに対する優しさが評価され、若い頃は組関係の大物から焼肉屋で深夜まで接待されてスカウトされた経験も数多い。(爆)
それはそれとして方向が違っても成功出来たであろう自信は在るが、現在のリーマン生活で良かったと思うぜ。だって学卒だし、年収は2000万は貰えてるし…
決して、威張れるような額じゃないが…フーガとエルグランドを所有して生活にも困っていないょ!(爆)
永禄年間ってすごい大旱魃・長雨・大洪水・疫病・大飢饉報告が
越後・上野・甲斐・常陸で災害記録として残ってるけど
伊豆・相模・武蔵・下総などでは一件も記録ないんだよね。
そのくせ災害国から逃亡する民ってのもいない。
北条って北朝鮮みたいに情報統制国家だったんだろうな怖いわ。
多くの識者がこれをもって北条領も飢饉だったから氏康が徳政令出したとか言ってるけど
なんで災害記録がまったく無い北条領も飢饉だったと捏造するのか。
北条領では失政の人災でその責任を取らされて氏康が隠居に追い込まれ
徳政令を出さないなら力づくで自力救済の叛旗を挙げるぞ!
という状況まで庶民が追い込まれたとしか考えられない。 わざわざこんな過疎スレで頑張らなくてもいいのにだがさん 北条に勝っても、上杉に勝っても、徳川に勝っても
どこよりも早く滅亡した哀れで惨めな乞食武田であった 上杉は辛勝
北条は城攻め行って果たせてないから負け
徳川は土地奪ったけど取り戻されたから惜敗
だろ?
甲陽軍鑑の公式記録はご都合主義すぎる 小田原にピンポンダッシュみたいな悪戯をした信玄餅はなんで、
三増方面から帰路についたんだろ?
なんで箱根裏街道とか足柄街道とかじゃないんだろう? おい誰かしてくれよ。
信玄さんが三増方面からかいった理由。 ピンポンダッシュで城下町を放火した武田軍をおっかけて
裸足で逃げてく愉快な北条さん みんなが笑ってる謙信も笑ってる
ふーふふふっふー 今日もいい天気♪ おいお前面白いかえ歌だな。
いいぞ。
ついでに信玄さんが三増方面を帰路に選んだ理由も教えろ。 北から来たから帰るのは北の方が良かったんじゃね?
元気な箱根の支城などで頑張られると北条本隊に追いつかれて厄介。 3年以上前のにレスするのもあほっぽいが
>>1
>>613
感状なんて翌日どころか当日に出る物だってあるぞ。 足柄、箱根は山があるだろ!武具とか兵糧とか背負って山越えするのは大変なんだよ。
三増なら大きな山越えをしなくていいから楽ちん。
それと足柄、箱根は駿河に通じているが、三増なら直接甲斐に帰れる。 わざわざ三増から迂回して帰陣したのは、北条を城から出す誘いだったのかも。たとえば三方が原の戦いのような。 最初から北条なんて潰す気はなかったよね 生意気だから少し痛めつけてやろうくらいの牽制 でも一次史料からだと武田が痛めつけられて逃げ帰ったことしか分からないんだよ 小田原焼かれて滝山城ボコボコにされてそれはないなw 北条を本気で潰す気なら上洛戦なんてしないからな
アホの北条厨には理解できないだろうけど 完膚なきまでに叩きのめされたから豊穣と和睦したんだよ
氏照も上杉に報告してるしな 一次史料からは北条が負けたことしか解からない
北条側、豊前山城の戦死は氏康の書状から確認できるが、浅利信種の戦死は軍記がソース
信玄書状では「北条勢2000余を討ち取った」と勝利宣言以外の何物でもないが
氏照の書状は「前半は優勢だったが後半は・・・でも、それはあんた(上杉)が援軍を出してくれなかったせいだ。北条は悪くない」
という愚痴とも言い訳ともつかぬもの。勝利宣言とは程遠い 信玄が今度は鎌倉と小田原と江戸を見学するコースでの、
第二次小田原城襲撃ツアーをチラつかせたら、
速攻で土下座したのが北条じゃんw ソース豊前氏古文書
北条氏康から戦死した豊前山城守の未亡人に宛てた書状が現存している >>702
いやそれは討ち死にしたのがわかるのであって
いつどこで戦死したのかはわからないはず
しかもあの書状、日付はあっても年が書いていない 北条厨の屁理屈に付き合う気はないから
文句があるなら神奈川県立公文書館にどうぞ
主な収蔵資料(中世) - 神奈川県ホームページ
ttp://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f1040/p10481.html
9 北条氏康書状 永禄12年(1569)ID:2200800603 (豊前氏古文書)
豊前山城守の後室が永禄12年10月6日の三増峠の合戦で戦死した夫の遺品(梅の絵)を氏康に寄贈したことに対する礼状です。
女性宛の書状であるため、仮名書きとなっています。
10 北条家朱印状 永禄12年(1569)ID:2200800604 (豊前氏古文書)
豊前山城守が三増峠の合戦で戦死したため、北条氏政が夫の恩給地を未亡人となった夫人に安堵したものです。
女性宛のものであるため、朱印状のような公式文書にも仮名書きを使用しています。 武田厨は武田擁護のためなら一次史料をネジ曲げ
軍記物・講談を掻き集め、自治体の郷土史研究レベルを絶対視するからな… >>704
だからそれに書いていないから聞いているというのにw 武田はうすい峠から南下して北条領になだれ込んだんだよね。信玄が出張っても北条が出てこないから、
いけいけどんどんと進んで小田原に到着したんだ。でも信玄は小田原城を見て愕然。こんなところ攻めら
れないよ〜と難攻不落の小田原城を目の当たりにして涙目。気を晴らすために、小田原城下を焼いて帰
って行ったとさ。 自領の民草を一切守らず、
焼き討ち略奪されまくって荒らされてるのを黙殺。
自分らは城内で引きこもりして、
はやく敵が退去するように祈る北条…
こんな領主は最悪だよな。
戦争は敵地でやるもんだわ。
税や金利や質をとって搾取するくせに、
民に自力救済を要求するクソ大名北条。 無辜の民草を焼き払う残虐な侵略者武田信玄って事か
寺領にも重税かけて退屈候なんていわれる始末w でもさあ、焼き討ち略奪するような信玄は逆に恨まれなかったのかね? 敵地での焼き討ちは無辜の民草を守れぬ統治者の無力をアピール 家康でさえ打って出たのに氏康は城でガクブルしてたんだよなぁ
出てこいよ? 武田と野戦なんて勝てる見込みないもんなぁ北条じゃ 謙信にも焼き討ち略奪され、
里見にも海路から上陸焼き討ちされる
馬鹿当主北条は、
神奈川県民から嫌われてる。 氏康は歳だからな〜。
息子の氏政は小田原から出撃したよ。結局追いつかなかったけど。 >>712
普段年貢とられるだけとられてんのに自分たちを守らない領主なんて許せるわけ無いだろ
他国を攻めまくって自国領民の安全守るのが名将だ >>717
でも氏康の時代、氏政の時代には領国を拡大できたんだから、領民からは嫌われていなかったんじゃ? その理屈だと氏康より領土を拡大した謙信・信玄・元就あたりは氏康より遥かに民に慕われてた事になるし、
領土を失った小田天庵は民に嫌われてた事にるなw 小田氏治は何度負けてもへこたれず謙信相手でも野戦を挑んだ見上げた漢
民草も応援したくなるというもの
城に引き篭もってガクブルってた氏康とは雲泥の差 まあ武田は織田相手に単独で当たれず周囲煽って見方につけても中々攻めようとしなかった腰抜けヘタレ根性無しだけどな そんなヘタレ相手でも城に引き篭もってガクブルってた北条氏康 城に引きこもって、兵たちを守った氏康さんは慕われていたんじゃあないのかい? 城に引きこもってガクブルってたが故の三増峠の挟撃失敗
2000余の兵を無為に死なせた北条氏康 795
織田が勢力拡大できたのは武田の後ろ盾あればこそだろ >>724
居城を囲んだ敵の撤退に追いつけないとか有り得んからな
出撃しようとする氏政を「そんなことしたら俺の身を護る兵がいなくなっちゃうだろ!」
とか言って引き止めたんだろうなガクブル氏康はw 武田が今川を攻められたのも織田のおかげ
失敗したがなw 桶狭間でまぐれ勝ち 徳川にビビって今川本国まで攻め込めない織田
徳川倒したとしても武田&今川に勝てるわけがない織田 まあ実際今川当主を葬ったわけですがw
たかだか先兵を打ち破ったぐらいでたらればを繰り返して勝っただのという武田とは違うにですよw 武田も勢力拡大できたのも、織田の後ろ盾があればこそ。信濃とか今川とか。。。。 痛いところを突かれると織田武田厨の争いを演じてレスを押し流そうとする
北条厨のいつもの手さw 今川が衰退したのは遠江総劇による遠江国人の大反乱のせいで、
信長なんて全く関係ないからなあ。 織田厨は、信長が大軍率いて最初に上洛できたのも
信玄のおかげというのは無視するんだな 確かに信玄がバカだから上洛できたというのはあるなw まあもっとバカなのは信玄の駿河攻めに協力したから、後にやっかいな目に合う
信長自身だけどな だな 裏切られたニダーとか泣きわめいて発狂してたからw 厄介なめ?
どこがw
結果観れば織田領に一歩たりともあしをふみいれられなかったのにw えっ?織田領の東美濃を侵食しまくってましたがw
その基盤があったから勝頼による明智城攻略が簡単に成功したわけだし。 あ、流れ的に震源の話だと思ったけど違うんだな
勝頼の時代は知らん >>742
岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて
城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。 そういえば、信長の子供を勝頼が生け捕ったって聞いたけど、本当なのか?名前がたしか勝長とかいうやつ。勝頼すごいやんけ。 岩村城主として遠山家の養子として送られていた幼児を
遠山家が武田についたときに甲斐に送られたって話
しかも信玄時代の話だ 信玄の小田原対陣が長引けば、小田原城兵と北条の救援部隊によって挟み撃ちになったな。そうすれば北条圧倒的有利〜 そうならなかったのは氏康が城に引きこもってガクブルってたせいだな
北条圧倒的へタレ〜 800 :人間七七四年:2014/01/18(土) 16:03:11.31 ID:QOvNLpHX
>>724
居城を囲んだ敵の撤退に追いつけないとか有り得んからな
出撃しようとする氏政を「そんなことしたら俺の身を護る兵がいなくなっちゃうだろ!」
とか言って引き止めたんだろうなガクブル氏康はw ウィキとか本当にひどいよ 挟撃しようとしてた!もし成功してたらウリ達は勝っていたニダ!とか
本当 くたばれや北条 まあ武田が相当ヤバイ橋を渡ったのは事実。高坂も諌言してるしな
相手が北条のようなへタレでなければ武田軍は壊滅してもおかしくなかった 高坂さんは勝ちまくるのが嫌いだからなぁ あんま真に受けないほうがいいよw なるほど
勝ちがまくるのが嫌いな高坂さんに諌言されるほど武田の圧勝だった訳だ
当に北条圧倒的へタレ〜w 信玄が次は岩槻や江戸経由で第二次小田原ツアーを表明したら、
氏康ショックで信玄と同盟しろって発狂して死んだからな。 でも信玄の小田原ツアーで得たものはなかったんじゃねーか?それとも駿河でも取れたのかね? 越相同盟崩壊と甲相同盟再成立と
信玄の思惑通りになったじゃん。 >>760
たしか岩槻ってのは勘違いで
書状に書いていたのは鎌倉と小田原と江戸だったはず。 佐竹と里見と合流するつもりだったようだし、
江戸より岩槻の方が合流はし易かっただろうけどね。 北条が泣いて土下座するまでとことんいじめるつもりだったんだな
さすが信玄公 鬼やわw まあ義昭によって越後と甲斐は和睦状態だったって言うし、
いくら北条が謙信に泣きついて喚こうが無駄なんだよな。
だいたい氏政の子を謙信に送る約束を反故にしといて、
もう同盟なってるんだからって謙信に泣きつく時点で、
は?まだ条件闘争中なのに何言ってんだ北条死ねやレベルの違背だからな。 信玄包囲網
今川を木端微塵にし、北条には脅しをかけて同盟し、包囲網はあっちゅう間に瓦解。 信玄が小田原に来た道筋ってわかる?たしか碓井峠から登場したかと思うが。で、問題です。なぜ信玄は三増峠から登場しなかったのでしょうか? 八王子などを襲って氏照とかを重臣層を恐怖に陥れながらゆっくり関東を南下して、
謙信と同盟しても無駄だ!俺と同盟しないとヤバイぞってじわじわ小田原に近付いていく強迫南下だからだろ。 そもそも甲府→三増峠間には大軍が一度に通過できるような街道がない
帰路なら部隊を小分けにして間道を通れば良いが、往路でそれは各個撃破の良い的 栗さんま芋スタミナ教京観光金北パークルーム羽田代々木チェックタイ八幡しょうゆトンコツ塩分子アパラーメン
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高血圧カウンセラーコーチング横暴態度問題 基本的に北条一族は戦下手だよな。
川越の野戦くらいだろう。番狂わせで勝てたのは 勝っても支配域の拡がらない対戦相手とかやんなっちゃうね この戦いが北条勝利とか言ってる馬鹿がいるぐらい
この板のレベルは著しく低下してしまったからな
北条が武田に勝てるわけねーし、三国同盟も
その後の再同盟も北条が土下座してきたから
信玄が渋々受けてやってる史実を考えれば
北条は武田の格下だと分かるもんだけどな
西上作戦時には援軍まで出してるってのに 武田が遠江の城を落としまくる勝ち戦の最中に
人知れず壊滅した北条の援軍・・・ 無理な勝ち戦しも金欠して金に釣られて同盟くずして滅亡してれば世話ないお┐(´∀`)┌ >>778
人質に弟二人出してるんだっけ もう完全属国ですわ >>779
まあ武田の属国として北条としては死ぬ気で頑張ったんだろうな
あるいは糞弱かったかのどっちかw 惰弱な北条軍は武田では常に捨て駒として運用される
先方衆の百歩先で戦わされ、逃げると背後から容赦なく矢を射掛けられ、壊滅するまで酷使される運命 >>782
必死ですな。国力が無い甲斐の山猿共。
こっちは関東制覇で忙しいんだよ。 >>782
織田のボンボンに蹂躙された人達の言うことは違いますなぁ。 と、下がりまくった過疎スレで
一月前の単発レスに
連投で気を吐くID:EF0F6tEeであった
北条厨・・・必死すぎるwww 北条って武蔵統一してないん?某ゲームだと相模 伊豆 武蔵の太守なんだけど。 一時的に統一しても上杉が南下してくると押し返されるし、時々武田もプレッシャーかけてくる。 >>788
なるほど、でも武蔵の国人衆弱いよね?江戸氏やら太田氏やら足利公方とか佐野氏とか >>789
上杉が武蔵から北条を追っ払っても、すぐに北条に巻き返される
オセロゲームみたいなもん P35.cgi (Perl,SJIS) 2015/11/18 FOX.
>&ft;1 元のスレ
../sengoku/dat/1194134285.dat
P35 【武田完勝☆】三増峠の戦い【北条涙目wwww】
339325 -> 207760 (バイト)
P35 テストに夢中。これ以降書いても消えちゃうかも
>>234
寂しい、か
高校のころ同級生の女の子と後輩の女の子から言い寄られて遊び、別高校の先輩と付き合った
大学行って彼氏持ちの軽音楽部でヴォーカルやってる女の子と部室でHしながら
オケ部で宣伝PVにも出る看板娘、栗山千明似の美術部の子を家に連れ込んで
結局はサークルの先輩と付き合ってこの前のバレンタインデーもいちゃらぶデートしてきた俺の人生が寂しいのであれば
お前の人生はさぞ充実してるんだろうな ヘルマン・ゲーリング
「国民を戦争に参加させるのは、常に簡単な事だ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、
平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしてると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」
https://twitter.com/neko_aii/status/765532497778139138
戦争法のポスターが貼ってある家などに「ダニ・ゴキブリ・共産党」「ゴミの家」などの卑劣な落書き
https://twitter.com/tok aiama/status/769281871888814080
渡邉哲也氏「SEALDsは公安の監視対象団体。テロリスト予備軍や準テロリストのような扱いになってしまった」
世界の公務員平均年収(円) 1 日本898万 2 米国357万
覚者より 『彼らの時代はほとんど終わっている。間もなく起こる出来事が国民を解放するだろう。』 2016、8
∧,,,∧
(´・ω・`) < 近い将来、欧米で株式市場が破綻すれば、マイト レーヤは直ちに出て来られるでしょう。
(| |)
し--J
最初になくなるのは世界の株式市場でしょう。
差し迫る株式市場の暴落は、他の人々が飢えている間にお金を儲けることの結果です。彼らはただ座って待っているだけです。世界を餌にして生きており、何も還元しません。
日本から始まる世界的株式市場の大暴落
ウォールストリートの大暴落(1997年)につながったプロセスが、いま日本におけるプロセスの中に写し出されており、再び株式市場の暴落につながるでしょう。
終いには政府にも支えることができなくなり、どん底に落ちていきます。日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻し、マイト レーヤは出現するでしょう。
マイト レーヤはまずアメリカに現れ、それから日本です。彼は日本語で話し、非常に物静かなやり方で話します。彼の最初の控えめな態度に混乱してはなりません。
非常に間もなくマイト レーヤを、テレビで見るでしょう。マイト レーヤは毎日テレビに現れ、質問に答えるでしょう。彼は「匿名」で働いております。
マイト レーヤが公に現れるにつれてUFOが、とてつもない数で姿を表すでしょう。 三増峠の戦いの頃にはもう目も見えないくらい病床にふせっていたから、
もし氏康が健在なら信玄の西上も叶わなかっただろう。 言葉が抜けているのに、周囲はしっかり理解している
当たり前だろう
まこと1人の自演なのだから(笑) 信玄側からすれば、予定調和的戦だろ。
最初から小田原城を落とせない事はわかってたし。
周辺を焼いて古府中へ帰るところを追い討ちしてくることもわかってた。
それを待ち伏せしてやっつけて古府中に帰った。
三増峠の局地戦だけならお互い犠牲者はでたが武田側の勝利。
多分、信玄からすると待ち伏せしてやっつけることに意味があったんだろ。 まことは、オレがPCをサイバー犯罪課に
いつ持っていくかのかおそれている 開店休業のおわっちゃったスレでこっそり言ってみる
信松尼って北条氏照の愛人だったんじゃないのか?
正直言って会ったこともない元婚約者に操ってのにリアリティが感じられない
氏照は甲相再同盟の際に外交担当者として甲斐と接触しているわけで
局面により自ら赴いた可能性だって十分ある
そもそもなんで同母妹のいる越後を頼らず八王子に住み続けてんのかって話ですよ
仮に甲州崩れの直後は身を隠す必要があったにせよ小田原陣のあとは自由放免なんだから しかし何でこんなマイナーな戦に
皆詳しいんだ。史学専攻の院生か。 金ヶ崎が信玄だったらどっちか撃破してそのまま悠々と帰還したんだろうな。
日本史で挟撃されつつあったのを逆手にとって片方を全力で撃破して勝った例って他にあるのかな。
謙信の川中島がやや優勢勝利したぐらいか。 三増峠の戦いでも武田信玄は真田昌幸に策を考えさせたみたいで、それが採用されて、
武田軍は勝ったみたいだが、ほんと、真田昌幸は凄すぎる。 三方ヶ原の戦いで、武田軍の策を考え出した将はだれだろうか?
個人的には真田信綱であってほしいと思う。 薩埵峠の戦いでは真田昌幸、三増峠の戦いでも真田昌幸、
三方ヶ原の戦いでは真田信綱、がそれぞれ活躍していたのは本当らしいから、
これらの戦いはもっと有名になってほしいですね。 北条にとってほんとに痛かったのは天正壬午
三増峠なんて地域のイザコザの範疇を超えない 「三増峠の戦いは引き分けである」
という見方もあるがどんなもんだろうね? お前が群馬、埼玉、東京、神奈川の領土持ってて隣の山梨長野から群馬から侵略され神奈川まで放火略奪されまくってるのに撃って出ることもできず町破壊されまくり
これで勝ったと思えるやつは凄いな 勝ってたのに頼ってきた今川捨てて屈辱の講話したんだから北条の勝ち目だよ
町も好き放題破壊されたけど北条の勝ちだ >>816
結局逃げ帰ったのは武田の方
自国領で略奪までする始末だし(笑) はなから制圧する気ゼロだったのが引き上げたから勝ったのは北条だってw
北条馬鹿はすげーな
まさかあのときの武田が関東占領する気だと思ってるの?
群馬埼玉東京神奈川好きなだけ暴れてるのに迎撃もしなかったヘタレが勝利ですか
凄い思考ですね で武田が破壊するだけ破壊したから帰ろうと背後見せたからこの段階になってやっと出陣するも返りうちにあいもう武田と敵対いやだようと今川見捨てて武田に屈辱の講話
だっさ
異民族にやられまくって略奪破壊に満足すると引き上げたを繰り返された中国王朝と同じだよ北条なんて
しかも武田だけでなく謙信が来たときもこれ
この板の奴らやたら勝頼馬鹿にするが北条と勝頼の戦いでも北条の連戦連敗
上野衆から援軍の催促来てるのに御館の乱と同じく送らない。うるせーなこっちは佐竹宇都宮と戦ってんだよとシカト。
武田水軍にも負けまくり北条海岸荒らし回られる
上野衆は援軍寄越さない北条見限りこぞって武田に寝返り上野取られてからようやく氏邦軍が取り返しの軍派遣するも撃退され織田による甲州征伐まで武田が上野一国維持
北条は取り返せなかった
ちなみにこのときの北条は佐竹宇都宮とも同時に戦う状態で包囲網くらい武田に連戦連敗で信長に「当家滅亡」と泣きつき従属するから武田攻めてとお願いするもさすが信長。いいけどお前完全に隠居して氏直に俺の娘と婚姻なと言われ焦る氏政
伊豆に新築したばかりの城まで武田に速攻で寝返る
北条が勝ちまくってるのに上野、伊豆寝返りまくってる?
いーや当時の人間は北条すげーとは思ってなかった
だから国衆、城主、城代が裏切りまくってる
いや裏切ってるのは援軍寄越さない北条テメーだ
武田滅んだあとも下野上野の国衆たちが佐竹に寝返り大規模な戦いに
北条は相手の倍以上いたのに睨み合いで終わるヘタレ
勝頼軍15000vs北条軍40000
睨み合いになり勝頼から決戦やろうやと使者が来るもビビって応じず
戦う気がない北条を見て武田軍撤退。背後見せるがこれでも襲わない北条
天正壬午の乱
上杉軍5000vs北条軍40000
ここでも睨み合いになり講話
天正壬午の乱
徳川軍9000vs北条軍40000+援軍1万
真田、木曽、諏訪が味方について4万もいたのに徳川に負ける
ここでも真田、木曽、諏訪が北条見限り徳川につく
沼尻の合戦
佐竹宇都宮と北条見限った国衆連合25000vs北条軍70000
倍以上いたのにここでも睨み合いで終わるヘタレな北条
以上北条の雑魚っぷりでした
相手の倍以上いるのに睨み合いで終わらすヘタレ。しかも後方にいるから
軍に参加して直接指揮を取る信長、秀吉、家康、信玄、謙信、政宗、元就、官兵衛のようなことができないので北条はいつも後手後手に周る。
上記の大名たちはその場で決断、すぐ行動に移すが北条の場合は前線からどうするかうかがう知らせがはるか後方に走るので数日経過。評定開く数日経過。前線に軍議の結果知らせる数日経過で上記の陣頭に立つ名将たちのようなことができない
睨み合いで終わってしまうのも大名参加じゃないので勝手なことして負けたらとびくびく迷ってる無能揃いだから
北条さぁお前戦えよ情けねえな しかも武田に裏切った(裏切ったのは援軍送らなかった北条だが)国衆、城主たちにねぇねぇうち戻らない?援軍送らなかったの悪かったよと勧誘するも全て断られるヘタレw
上野衆から頼りにならないと思われてた北条
謙信時代からまともに上野維持したことない北条
伊豆でも築城したばかりの城がいきなり寝返るって相当当時の人達は北条見限ってたね
だってこいつ援軍送らないんだもん信用無いよ
馬鹿が焦土戦術とか言ってるけどさ
それは違う国、違う民族との戦いで負ければ国民も虐殺されるのわかってるから国民も国に全力で協力したけど
同じ国、同じ民族で焦土戦術なんかしたら国衆、城主、民は見限るに決まってるだろ
戦略方針決まったわ。いずれれ飽きて撤退するの待つわ。援軍は送らないから我慢して籠城して。大丈夫いずれ撤退するから
お前の領土焼け野原になるけど我慢してな。
焦土戦術だからな。我慢してな
お前はこれ許せるのか?
自分の領土持つ奴がこんなもん喜んで協力すると思うか?
せっかく本能寺の棚ぼたで再び上野取れたのにすーぐ裏切られて国力大差で負ける真田、景勝、佐竹にホイホイ裏切られる 北条研究の大御所、黒田基樹の語る国衆とは
大名が国衆の領土を保証するとは国衆を敵方大名の攻撃から保護するということであった。
そのため大名は国衆が攻撃されたら迎撃の軍勢を派遣して軍事支援をしなければならなかった。対して国衆が大名に忠節を働くというのは大名の要請で軍事動員に応じることであった。
(略
このように大名と国衆との関係は大名は国衆の領土を保護し国衆は大名からの軍事動員に応じるという形で示された
敵方大名と接する国衆は本拠にあって領国を維持することが忠節と認識された
(略
しかし国衆が大名からの動員に応じたのは領国の維持が果たされてる限りで敵方大名から攻撃を受けているにも関わらず軍事支援が行われなかった場合、国衆は簡単に離反し敵方大名に従属した。
国衆にとっては大名への忠節よりも領国の維持が大切だったからである
そもそも大名への忠節は領国維持への対価だからそれが果たされないことは国衆にとって大名による裏切りと認識された
例えば上野国衆は北条武田上杉の3者間を従属と離反を繰り返した
北条が上野に進出してから小田原合戦まで一度も北条から離反したこと無い国衆は存在しない
また上総下総の国衆は里見北条間で従属と離反を繰り返した
大名は離反された後に再従属された場合にもあからさまな処罰は行わなかった
(略
厳しい処罰をしなかったのは国衆の存続を認め何よりも味方してもらうことを優先したからである おいおい焦土戦術の馬鹿
黒田基樹にも否定されてるよw
同じ国、同じ民族で焦土戦術なんかしたら嫌われるに決まってんだろノータリン うわ北条さん見事に国衆裏切ってますねぇ勝頼の高天神城馬鹿にできんわ
こいつ謙信、信玄、景勝、勝頼から攻められたり紛争起きても援軍送らなかった裏切り者
よっぽどの小勢力でも無い限り100万石の大名ともなると国境まで迎撃出すのに
北条は何故か迎撃しない当時の日本でも珍しい存在である
毛利が織田と戦い本拠まで焦土戦術なんかやってないようにな
ちゃんと最前線に軍送ってる
もし政宗、謙信、信玄、信長、秀吉、家康、元就だったら自ら出陣し迎撃するし
御館の乱だって彼らだったらこんなおいしい機会はないと自ら出向いてただろう
守りの兵なん2万も置いときゃ十分で
それでも北条なら2万~3万は動員できて余裕で景勝上回る
何故か遥か後方で武田に全振りで任せ投げ出してた勝頼恨んでるアホがいるけど
お前が出るんだよ あちゃー北条研究第一人者の黒田基樹に北条の戦略否定されてるよ
焦土戦術w
日本国内で焦土戦術w
ヤバいだろまじで言ってるんだぜw 従属してる味方見捨てたらどうなるかも知らない焦土戦術馬鹿息してるの?
自分の好きな大名だからってなんでもかんでも最強。明らかな負け戦まで勝ったって思う神経がわからん
お前は牟田口か
ただ好きなだけ破壊されて帰られたものを焦土戦術なんて言葉で勝ったつもりでいるんじゃねーぞカス
お前はあんだけ武田ゆるさねーて息巻いていて迎撃もせずただ国破壊されて今川見捨てて情けなく武田とヨリ戻して上杉に上野譲って関東管領も返上して得るものが何もなかった戦略的にも敗北した情けないヘタレだ >>826
この先生、最近BS11の歴史番組で1561年の上杉政虎(謙信)と反北条勢力国衆による小田原攻城戦を「東京大空襲のようだった」とかいっていたな。1569年の武田信玄による小田原攻城戦に対しても同じ事なんだよね。1590年の豊臣秀吉の関東平定による小田原攻城戦も。
あの番組乃至政彦先生まで「謙信は義の武将でもなんでもない」とか言ってるし。乃至先生は著書の中で1566年の上杉輝虎(謙信)による常陸小田城での人身売買を「安い価格で人質を解放した」とか否定してなかったかな。(苦笑) >>825
汁かけご飯の汁こぼすような男だよなああいつ