【三浦介】葦名氏総合スレ【会津守護】
桓武平氏良文流三浦氏族で陸奥会津を本拠とし
戦国時代には南奥州に覇を唱えた葦名氏について語りましょう その通りだよ
伊達も佐竹も本隊はお互い動きが取り難くて睨み合いに終始していたから大きな合戦には至らなかった
戦いは専ら石川氏や船尾氏・赤阪氏など高野郡周辺の国人達の間で行われていた
その後は状況が目まぐるしく変化してお互い簡単には動けなくなってしまったと言う事情もあるのだけど 刷り上げ原の後でまた大きな軍事行動はとりにくかったろうね お互い損害が大きかったしね
それに伊達は葦名を滅ぼしたといっても会津には残存勢力がまだ残っていたし相馬も攻めている
佐竹は赤館以北を放棄して戦線縮小し防衛線の構築に移行していたから
お互いに探り合いといったところか
まあ、佐竹方は赤阪が頑張ってたな
船尾はだいぶ怪しげな感じだったがw いやいや伊達の南下阻止に必死で
北条と伊達の連携を受けてたから
義宣の軍事行動は大規模だっただろ。
なぜ大したこと無いとイメージさせようとしてんの?
会津が平定できてないって言うが
それも反伊達は最西部山岳地帯の水久保城くらいなもんで、
しかも秀吉が伊達は後回しにして北条攻める令が上杉にきてから
ほぼ佐竹独力での伊達南下防衛戦争じゃん。
岩城常隆や那須や白河まで伊達側になって八方塞りだったのが佐竹。
それを戦線縮小とか大きな軍事行動をしてないとか詭弁すぎだろ。 八方塞がりだったからこそ大規模な軍事行動起こす余裕がなかったんだろw
言ってること支離滅裂過ぎ どう考えても佐竹の全力防衛状態だから
義宣だけでなく東義久も投入されてんじゃん。
これが大規模でなければ何なのw 東義久はもともと南奥方面の総責任者だったようだが
佐々木倫朗氏の論文によれば 全力で義宣が支援しなければ
赤坂と滑津も離反確定
間違いなしの危機的状況なのに
大したことは無かったとか捏造にもほどがある。
たしかに全力じゃなきゃ佐竹本領まで
伊達に侵入されかねない
危機的状況だったのは確かだろう。
だから義宣も雪解けを待たずに
北条も気にせず正月も早々に
北方戦線に向ったんだし。 >>799
どこをどう読んだら大したことなかったなんて考えが浮かぶんだ
危機的状況だったから大規模な軍事行動を起こす余裕なんてなかったとみんな言ってるんだろ まあ、佐竹も摺上原で政宗にまんまと出し抜かれた時点でいい加減詰みかけてたからな
防衛するのがやっとで反撃するどころの話しではなかっただろう 最後のライン死守なんだから
大規模防衛してたに決まってんだろ・・・
大規模防衛=大規模軍事行動 摺上原以降に佐竹が大軍を率いて行った合戦があるかないかと言う事を議論していたのだから
結局それは「ない」と言う事を肯定する事になるが >>805
いや、こっちがそれを聞いてるんだろw
結局のところ大規模な軍事行動起こしたと言うソースが出てない >>807
俺の質問に質問で返しておきながら何言ってんだよお前w 芦名再興が許されず、そのまま羽柴飛騨守氏郷に与えられたのは何故だ?
まあ、惣無事令も適当だから
結局は豊臣政権の都合で安堵されたり潰されたりした 秀吉にしちゃ「滅ぼされたような弱い奴は自業自得」ってこと
四国だって九州だって、
島津やチョウソカベに城や領土全部奪われちゃった家は再興されずに
秀吉の子飼に分け与えられた。
滅ぼされて再興を認められた家は、下野の佐野家ひとつだけだね
佐野は早くから秀吉に従って、小田原征伐で功立てたから >>819
領国統治能力や戦争を遂行する力量が乏しいやつ(=豊臣政権の
駒たりえないやつ)が潰された印象を受けるな 基本的に秀吉が仕置きした時点での領地が有効なんだよ
失った領地を取り返してまで安堵はしてくれない
その辺りは自己責任と言う事だろう
だから佐竹も滑津城など伊達に奪われていた一部の領地は安堵されなかった >>821
そんなことは関係ない
秀吉に近い大名かどうか 秀吉からしたら佐竹一統には常陸常陸虐殺権与えたんだから後は自分で分けろってことやない >>824
別に佐竹の肩を持ってたわけじゃない。
むしろ秀吉は伊達の肩を持っていて、
伊達の歪曲弁明を信じ、
佐竹が惣無事違反してると誤解してた。
それで蘆名と伊達の戦を止めないと小田原行った時、
どうなるかわかってんだろうな!って義重が言われてる。
それで佐竹が消極的、限定的な活動しかしなかったから、
蘆名は佐竹に、お前らが支援してくれないなら義広を佐竹に突っ返して伊達側になると恫喝される始末。
そんで蘆名が分裂自壊し滅亡。
秀吉が上杉に惣無事違反で伊達追討と一時は反応し命令したが、
これは三成主導であり、
すぐ秀吉はザコ伊達は後回しにして北条潰すと方針転換してる。
それに伴い、前田や徳川、浅野、木村らが小田原後の奥羽に影響力を及ぼそうと伊達擁護に回り、
三成、大谷、上杉、佐竹路線に対抗していく。
>>823
伊達より葦名の方が豊臣に近かったけど
豊臣と近かった葦名は潰されて、豊臣を無視してた伊達は本領安堵されている
大友も積極的に豊臣に接近していたが一部しか安堵されなかったし
下野、常陸でも佐竹宇都宮と共に小田原参陣したのに潰された勢力がいくつもある 実際、伊達が葦名を潰した時点で
秀吉は北条攻めを計画したとみて間違いなくて
北条側は秀吉の豹変ぶりに驚いてる。
しかも再三にわたり北条は名胡桃城奪取について
まったく知りませんと主張していて
讒言を信じないでくださいと悲惨モード。
一次史料にも名胡桃城に関してまったく残ってなく
秀吉のデッチ上げが濃厚。
伊達のせいで北条が潰されると言う
とんだトバッチリを北条が受けている。 >>825 >>827
誰が見ても明らかな事実誤認に基づく妄想乙 >>828
>>秀吉の書状には名胡桃城の事は明記
だからそれが秀吉によるデッチ上げで
北条は名胡桃城を実際は奪ってないってことだろ。
事実、名胡桃城事件前から関東遠征の動員準備の命令を
秀吉はやってる。
>>829
伊達厨ってモノの味方がおかしいからな。
秀吉が政宗の邪魔ばかりして、佐竹を贔屓してたとか
頭のおかしいことを主張するし。 >>830
いや、準備していたけど一度は和解したんだよ
和解後に起きたのが名胡桃城の事件
だから秀吉は怒って北条を糾弾する書状を送った
8月氏規の上洛により和平ムード
10/10に秀吉が兵糧20万石の駿河への蓄積指令を出す。
10/14氏政が上洛するので年末までに金の準備を申し付けるが
のちに来春へ延期を申し伝える。
11/3名胡桃城を北条が奪取したとするデッチあげ。
同日の家忠日記「相模より真田の城を急襲し手出しに参り候」
11/5氏直が事実確認のために山上久忠を沼田の猪俣へ派遣。
11/24宣戦布告書状が家康の手にくる。
秀吉の態度急変に北条方は気づかず驚愕する。
さて秀吉が言う境目の者ども
北条が言う辺土の郎従
とはいったい何者なのか。
秀吉や真田の罠であろうと思われる。 天正14年
11月15日 家康から北條へ関東惣無事令の通達(持田文書)
天正16年
5月21日 家康、北條の上洛を再要求。上洛の無い場合は同盟の解消する旨を通達(鰐淵寺文書)
8月22日 氏規上洛
9月2日 秀吉、北條を赦免(潮田文書、佐竹文書、伊達文書)
天正17年
秀吉、北條が望んでいた沼田問題の裁定を行う
6月5日 氏直、裁定を受け入れて上洛を約束する(岡本文書)
7月14日 北條、沼田城を受け取る(内田文書)
10月1日 沼田城に入った猪俣邦憲が和田伊賀に知行を与える(真田文書)
10月26日 氏政、猪俣邦憲に仕置きに油断無き様に指示する(猪俣文書)
11月3日 北條、真田の城をとる(家忠日記)
11月5日 氏直、猪俣へ山上久忠を使わし大鉄炮を送り境目の警戒を命じる(猪俣文書)
11月11日 佐野房綱、木戸元斎に「北條は沼田を受け取って以来連絡がない、上洛がなければ来年に陣触れがある」旨を通達(上杉文書)
11月21日 秀吉、北條が沼田裁定を破って名胡桃城を攻めた事に激怒し、国境を固めて臨戦態勢をとる事を真田に命じる(真田文書)
11月24日 秀吉、北條が沼田を受け取り上洛を約束しながら、違約して名胡桃城を攻めた事を非難し北條を征伐する旨を通達する(北條文書、毛利文書、佐竹文書、伊達文書)
11月29日 氏直、名胡桃出兵の件は関知していなかったと弁明する(武将文書)
12月9日 氏直、上洛の更なる延期と秀吉への執り成しを家康に依頼する(古証文)
12月13日 秀吉、北條討伐の陣触れを発する(家忠日記) 10/10の時点で秀吉が北条を討つ気がまんまんだな。 「一次史料に無い=デッチ上げ」
という論理の飛躍が理解できない
全ての史実を裏付けする一次史料が残ってないから歴史研究が難しいのに 小田原や秀吉がどう交渉してようと真田が挑発辞めなかっただろうからな 10月にはすでに
軍事作戦発動準備してたのか。
そりゃあ、秀吉にいくら北条が弁解しようとしても、
使者にすら会おうとしないはずだわ。 >>835
そもそも一次史料にあるのに、
彼の脳内では存在しないらしいw 北条の方は去年から戦仕度してたよ
本気で和睦をするつもりがなかったのは北条の方も同じ
それに秀吉は家康の上洛前に戦仕度をしているが、家康から上洛の打診があったので急遽出陣を取り止めた経緯がある
戦仕度=和睦する気がない
とは言えない >>839
家康の場合のタイムスケジュールを書いて述べて下さい。
戦支度発動日と家康上洛通知の日付。 新聞の宮城版に盛興が輝宗次男養子欲しいって支社と文書送っていたそうな >>843
盛興の娘の小杉山御台と結婚して婿養子になる感じか
彦姫の甥でもあるから伊達色が強くなっただろうな
この時点で養子貰っていれば葦名も潰れずに済んだろうな 小次郎も斬られずに済んだかも
それとも本格的な兄弟対決に発展するか
いずれにしても仙道の諸勢力に大きく影響を与えたはず 福島県は安全です! ぶっちゃけ原発も放射能も問題ありません。
連日マスゴミ左翼が煽ってるのが一番の問題!
BAZOOKA 切腹ピストルズ 田母神俊雄
http://www.youtube.com/watch?v=WuZ2-2gXIts
MCの小藪千豊って意外とまともで安心したw
小梁川さんと被るけど、さすがに「盛宗」じゃないと一般家臣扱いレベルだな
伊達当主以外で「宗」が下についてるのは一門級の一部
留守:郡宗、景宗、顕宗
亘理:綱宗、元宗、重宗、定宗
懸田:俊宗、義宗
石川親宗(昭光)
杉目直宗
このぐらい?
留守は一応は傘下の独立大名だから、葦名ならなおさら… 最上義盛
佐竹義盛
田村盛顕
相馬盛胤←あまり違和感ない
那須盛胤
宇都宮盛綱
芳賀高盛
(山内)上杉憲盛←あまり違和感ない
(扇谷)上杉朝盛
北条氏盛←あまり違和感ない 政宗が10年早く生れていたら天下統一は夢じゃない。
当時の当主は相馬親子に大敗を喫し、御館の乱でも敗戦するなど戦が雑魚で
政略面でも南奥州連合の形成の波に取り残された田村との同盟を余技なくされるなど
凡庸な才覚しかない輝宗だったけど
政宗なら70年台一杯使って奥州制覇
その後南下して佐竹、北条などを潰し一気に天下に一番近い存在へ。
生れた時期が遅すぎたのが悔やまれる
>>861
僅か11年で
盛興→盛隆→亀王丸→義広
と4人も当主が変わってるしな
普通の代替わりでさえ混乱が生じる事が多いのに、こんな頻繁に当主が変わっては家中が治まらないのもやむを得い 葦名盛隆ってけっこう才気あったみたいだけど・・・・ 盛隆は景勝と表面的には友好なフリして
実際は新発田を後援した挙句に
葦名精鋭が本国に帰れずボコボコにされてる
これにより新発田の補給路が断たれ滅亡。
軍記物に出てくる佐瀬源兵衛って系図上では誰に比定されるの? 伊達成実の生涯唯一の武功が摺上原の戦いでの
金上盛備と佐瀬平八の討ち取りだと大々的に自慢してるが
そもそも金上盛備を成実は討ち取ってないから捏造なのは明白。
それで佐瀬平八とは何者か調べたんだが下記の人物なんだわ。
葦名が敗走中にこのレベルのを討ち取って自慢になるなんて伊達ってショボイね。
葦名修理太夫盛氏旗下之大名
佐原氏葦名五黨ト称ス者
葦名四天老中四人並ニ小頭附ケタリ老中同心八十人
若年寄四人並小頭四人附同心
用人五人並取次十人
側用人五人並取次五人
奉行四人並用人役祐筆兼諸役兼勤者八人
郡代十七人並小頭十七人附同心百七十人但同心十人宛
下郡代十七人但シ下郡共勘定頭共云フ
侍大将十二人 同組士外様三百六十人
旗頭八人並與力野士八十人小頭八人其組足軽八十人
弓大将四人並與力士四十人小頭四人足軽四十人
鑓大将四人並與力士四人小頭四人足軽四十人
使番十二人
奏者番十二人
大目付四人
寺社奉行四人並小頭4人附同心四十人但一組十人宛
寺社小役十二人
町奉行四人並小頭四人附同心四十人m一組十人宛
足軽大将三十人並小頭六十人m一組二人宛足軽九百人m一組三十人宛
大番組八人並組士七十二人
佐瀬平八組←やっと登場wwwwwwww
下妻市太輔 神原源左エ門 賀ガ見村右エ門 杉田平右エ門 笠尾藤右エ門
神尾利右エ門 関脇十郎兵衛 金山吉右エ門 岩永太左エ門
>>869
葦名の名簿だね。
うちもすみっこに載ってる(´・ω・`)
佐瀬、満田、渋川、儀堂、三橋なんかは今でも会津にいる。
猪苗代、針生なんかは仙台に。 そもそも晴宗が父と大戦争してた隙に会津をなんとか統一できただけの盛氏を過大評価し過ぎなんだよ。
統一って言ったって葦名政権へ地方割拠豪族たちを何とか参加させたのに成功しただけの話で、
葦名執政や葦名四天に代表される巨大国人家臣団の合議連合政権に過ぎず、
後年になっても葦名と上杉や伊達との両属家臣がいて国境すら曖昧。
葦名宗家の力が無力なのか葦名盛興なんて家臣団の勢力争いが絡んで本城を家臣に奪われたり挙げ句に暗殺されてるし、
その頃の会津は貧困からか頻繁に徳政令や禁酒令(食用米を酒にするのは禁止)を出さざる負えないほどに逼迫していた。
こんなボロボロなのに葦名は大国だから娘婿の白河を全力応援してたに違いないって思い込みで捏造してるに過ぎない。
実際、盛氏は伊達探題家から嫁が貰いたくて仕方がなかったが
輝宗からなかなか許可されなかった弱小国葦名ってのが現実。
会津盆地の見た目の大きさで大国と誤解してるのか知らんが洪水で水浸しになる盆地なんてほとんど価値ないから。
永禄元年に葦名は晴宗との間で伊達家と盛隆の婚姻が取り決められていたが
伊達側がまったくそれを実行しようとしなかった。
そして盛氏の諸兄の氏方と結んで富田親子の謀反が永禄4年に起きた。
この政変のあとに富田氏・三橋氏・常世氏などが自害してる。
この時期に向羽黒山城が築城されてるから
そもそも軍事的な目的であり隠居のための城じゃない。
この政変の責任をとって家督を盛隆に譲って隠居しただけの話。
永禄3年はついに那須や田村を支援している佐竹と直接矛を交え始めたし
永禄4年は北条は古河公方義氏を認めず謙信が小田原包囲してるし
世の中がめまぐるしく動き始め葦名家中も外交方針を巡り混乱したから隠居せざるおえなかった。
ここら辺り以後の葦名は大規模外征が内政問題のために出来なくなり
佐竹に圧迫されていくなど急速に弱体化を開始してる。
それどころか永禄7年になると輝宗の葦名侵略が開始され、
永禄9年には輝宗に盛氏が誓詞を送って和睦してる。
佐竹でも同じことで、親公方義氏&北条武田方重臣が義重側で
反北条側が義昭側についていたに過ぎない。
義昭は親北条の水戸の江戸氏や宍戸氏らを攻め、
次男義尚の那須当主の約定の元に大関を後援して
北条・白河・大掾・小田が味方する那須を攻めてる。
しかし永禄6年に北条が松山城を落とし信玄が信濃飯山を攻め
義昭も従軍していた関東戦線から謙信が帰るなど
次第に北条武田側が優勢になってくる中で義昭は隠居してる。
義昭は大掾の家督を弟の義政に継がせて、なおも小田氏と争っているが死去するや
義重の元では反北条の謙信とは距離を置き、
関宿城で北条と和睦調停を進め北進重視に方針転換するようになってしまう。
輝宗が氏方に書状だしてるし
盛氏を廃すべく伊達を引き入れたい
蘆名家臣団との間で手打ちした妥協案が
盛氏隠居だろね。
黒川城奪取や盛隆暗殺など蘆名家臣団はその滅亡の時まで
バラバラだった。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185038268/714 >>873
古い大名は合議制だからね
ワンマンでやりたくてもやれない ていうか佐竹はあの緩〜い統治システムでよく生き残ったな
他の大大名は多かれ少なかれ大名の権力集中化を果たしているんだがw
あるいみ義重個人の才能なんだろうな あの古臭い体制は当主の能力への依存度が高いからな
馬鹿殿なら一気に傾くし、名君なら一気に勢力拡大出来る
義重はそれなりに有能だったから、佐竹もそれなりに成長、維持出来た 盛興は一人っ子だし、盛氏自身も一人っ子だからな(庶兄はいたけど)
ほんと子供の数は重要だね
伊達なんかは代々子沢山だから、それがかなり有利に働いた
佐竹も義昭と義重は嫁と養子を周辺大名に次々に送り込んで飛躍したし 氏方は蘆名氏の第15代当主・盛舜の庶子
盛氏が長沼実国を攻め黒川を留守にした際、義実父子らに奉じられ謀叛を企てるが、数
日で鎮圧され、東山にて家臣と共に自害し果てた。