【三浦介】葦名氏総合スレ【会津守護】
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
桓武平氏良文流三浦氏族で陸奥会津を本拠とし
戦国時代には南奥州に覇を唱えた葦名氏について語りましょう 芦名
蘆名
葦名
本やサイトによって表記がバラバラ
どれが正しいのか 10年ぐらい前、自分が初めて蘆名の表記を見たのがこれだった。
以来これで統一している。
『戦国合戦クロニクル』だったかな。 >>3
後に伊達に仕えた分家は、同時代資料では「葦」の字が使われることが多い。 東北出身の俺からすると
葦名は伊達絡みでもよく出てくるし、勢力もそこそこ大きいので十分馴染みがあるんだが
西日本の松田や三村、秋月あたりは馴染みがほとんどわかん
西日本の人からすると、葦名は若干マイナーな存在なんだろうか >>3
会津の民俗学者の方が言うには「葦名」が正しいらしお
11代盛信以来、葦名氏の菩提寺は会津天寧寺であるが
安置されている盛信や盛氏の位牌は「葦名」で書かれている
例の盛氏座像にも「葦名」で刻銘されているらしいお
それと植物の葦についてだけど
未熟のものは葭
成長したものを蘆(芦は蘆の略字のようなもの)
成熟し穂を付けたものを葦
と呼ぶらしい
だから姓にするなら成熟した葦こそ相応しい
以上の事から見てなるほどと漏れも思ったお( ^ω^) 葦名家が何故弱いというイメージがあるのかというと、奥州の戦国史は伊達政宗を中心に見られがちだから。政宗が家督を継いだ頃の葦名は、すでに弱体化していたのだ。 >>19
専門家ですか?
プロの見解をどーぞお願いしまーす! つか室町時代後期の伊達は
中央の人からは南奥羽の実質のボスの認識されてたし
天文の乱が始まるまでのは南奥羽は伊達の領土と言ってよい
ゲームでもそのように変えるべき 戦国前期に6年も内乱してたんだから相当な財力と武力があったんだろw 天文の大乱において稙宗時代の近隣諸大名との緩い主従関係を
一度清算することができたのは、後の伊達氏にとって+に働いたんじゃないだろうか? プラスになってないな
稙宗はどんどん主従関係を強くしていったから
あの勢いのまま10年たってたら越後も伊達のものだっただろう どっちかと言うと盛興じゃないお?( ^ω^)
盛隆は男色のもつれが原因と言われているし
余り悲劇って感じでもないお 酒飲みが原因で死んだのが盛興
男色のもつれで殺されたのが盛隆
どっちも悲劇とは言えん気がする
>>32
父親の方が悲劇だろ、早くに息子死なれて
盛氏はもっと評価されるべきだし、佐瀬種常はもっと非難されるべき 何で盛隆を世継ぎにしたのかイマイチ分からんお( ^ω^) >>37
人質としてたときに盛氏が何らかの素質を感じたのだろう。
関係ないが東北は伊達の血が流れすぎだ。 血縁たって大したものじゃないおね?
しかも従属国の人質だお
普通は家格が上であったり
力がある所から養子を入れると思うのだけど
格下から迎えた当主にいいように使われたら
そりゃ一族や重臣は面白くないお 松本太郎など重臣たちは、盛隆よりむしろ盛隆夫人(伊達晴宗の娘)に近い
立場のものが多かったようだ。 でも、その夫人もすぐ後に亡くなったし
結果論ではあるけれど
盛隆養子は葦名と二階堂の共倒れを招いただけだったおね しかし、もし寵臣に斬られなかったら盛隆はなかなかの将になったと思うぞ。
信長とも接触して三浦介の称号を許されてるぐらいだし。
外交技術はなかなかだったと思っている。
大庭三左衛門に夢中になりすぎたゆえの悲劇だったが。 じゃあ、岩城常隆と同盟を結んだような、
柔軟な対応の方を評価するか。 なんにせよ実父の二階堂盛義より優れていた可能性は高い 盛隆の生母(晴宗公長女)と正室(晴宗公四女)は姉妹だし伊達だらけだお
これで盛隆の娘に小次郎を迎えたらもう完全に伊達だお
初めから小杉山御台に佐竹か伊達から養子迎えた方が
混乱は少なかったような気もするけど 伊達信者的にはあまり嬉しいことではないな、その事実は。
正直、盛隆は盛氏に比べると見劣りするし…活動期間は四年と短いけれど。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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「三浦・会津蘆名一族」
七宮A三 新人物往来社 定価2800円+税 2007年7月15日発売 >>57ヤンジャンでやってる漫画の影響もあるのかな? >>57の本読んだ人に質問があるのですが、宜しいでしょうか?
その本面白いのでしょうか?
私は盛氏に興味があり、彼の年表を作りたいのですが、データが見つからないので…
これ以外の簡単に入手できる資料があれば、是非教えてください!!お願いします!! 松本図書助、最高や! 猪苗代盛国なんか最初からいらんかったんや。 >>60
その本は読んでないけど葦名に関する代表的な史料はあげてあげよう。
塔寺八幡宮長帳
異本塔寺長帳
会津旧事雑考
会津四家合考
ふたつの『長帳』は同時代のもので、会津の高田町かどこかにあった八幡宮の古記録。
『旧事』はおそらく江戸時代に作られた会津に関する事柄の記録。
『旧事』は『長帳』を原本にしている記事もある模様。
『合考』は江戸時代の軍記物だが、内容は信頼できるところが非常に多い。
あとは秋田藩の『家蔵文書』や伊達関連の文書類の中にあると思う。
多分『福島県史』の中にあげられていると思うが(オイラは見たこと無い)、
なかったら茨木県史料や米沢仙台方面(上杉、伊達)の史料集などから見ていくしかない。
葦名は滅亡してしまったので、葦名氏の諸氏が持っていた文書などは
ほとんど散逸してしまって、「無い」といっていい状況。
上記のものなどは福島や会津やその周辺の自治体史に治められているので、
あとは自分で探して頂戴。 >>64 レス、ご丁寧にありがとうございます
そうですね『会津旧事雑考』と『福島県史』ならなんとかなりそうです。
>>61
会津松本氏は代々謀反人の家系だから…盛国と同等じゃないのかな?
長尾(上杉)や伊達、佐竹に囲まれてどうにも動けないな。 本家三浦氏の通字は「義」
「盛」といえばこの一族では和田義盛が初出。
仮冒くさいね >>70
例外は、佐竹から養子に入った「義広」ぐらいかな?
>>71
後には盛重となのってるけどね、義広
手持ちの本だと江戸崎の頃になってるけど、蘆名を継いだ頃という説もあるの? >>72
実家に逃げ帰ってから、義広→盛重に改名というのは、
一緒に逃げてきた蘆名旧臣の求めもあったからかな?
その蘆名の名跡にしても、伊達家に於ける留守氏みたいな扱いだろうけど。 江戸崎では一応大名だよね。
どの程度旧臣がついてきたのかな? 猪苗代盛胤・富田隆実・針生盛信・沼沢出雲らが従ったらしい。
但し、盛胤は後に故郷の会津に戻り、隆実は後に相馬氏に仕えている。
両名とも葦名千鶴丸の死後に佐竹家から去ったのかどうかはわからん。
盛胤の子盛親は後に保科正之に仕え、隆実の息子又は孫の正実は相馬氏の家老を務め、
盛信は慶長七年に伊達氏に召し出されて仕え、曾孫の盛定は葦名千鶴丸死後に葦名氏を名乗っている。
沼沢出雲は盛重の命令で畠山義綱を討ったとも言われるな。 >>75
盛胤は猪苗代盛胤の子か。
盛胤と聞くと名将・相馬盛胤が思いつくが、あやかって名付けられたかな?
葦名盛連の子
長男の大炊助経連は耶麻郡猪苗代(福鳥県耶麻郡猪苗代町)に住み、猪苗代氏の祖となった。
次男の次郎広盛は河沼郡北田(福島県河沼郡湯川村)に住み、北田氏の祖となる。
三男の盛義は同郡藤倉(同河東町)にあって藤倉氏の祖となった。
四男の光盛は蘆名家の正統三代目を継ぎ、事実上の会津蘆名氏の祖となった。
五男の五郎左衛門尉盛時は耶麻郡下三宮(福島県耶麻郡熱塩加納村)に住み、加納氏の祖となり、
六男の六郎左衛門尉時連は同郡新宮(福島県喜多方市)に住み、新宮氏を称した。
上三人は側室の子だったのだろうか
長男〜三男と四男〜六男が本当に兄弟であるかどうかは、不明な点もあるらしい
宝治合戦で北条方についたのは光盛、盛時、時連
この段階では三兄弟は佐原を名乗っているんね
>>78
通字の「盛」の字が、上に付いたり下に付いたりバラバラだな。 鎌倉期の通字は戦国期にくらべれば法則性が緩いからね
通字が複数認められる場合も少なくないし なんかもう義広でも小次郎でもどっちでもいいや…二階堂万歳! やはり盛興死後、盛隆に継がせたのが敗因だお
いくらなんでも従属国の人質を養子にしたのでは家中が納得しないお┐ (´ω`) ┌
それに折角養子入れるなら力のある大名から貰って関係強化を狙った方が効果的だお
この時点で伊達か佐竹から養子入れておけば良かったのだお
そうすれば伊達や佐竹との争いが本格化する前に体制を固められたお >>40
たとえるなら信長が信忠の急死に際して蒲生氏郷を後継者に指名したり、
秀頼が生まれなかった場合の秀吉が宇喜多秀家を後継者にしたりするようなものかね? >>88
関東管領山内上杉家に養子に入った長尾景虎。
離合集散の関東諸将。
仙台藩百姓さんへ
それは違うよぉ。葦名家が衰亡したのは、
盛氏が戦争ばっかりやっていたので、
領地が疲弊していたんだよ。
フランス革命が起こったのも、マリー・アントワネットの浪費ではなく…
ルイ十四世の戦争好きとヴェルサイユ宮殿造営、中産階級である新教徒(ユグノー)を追放したからフランスが財政難になったわけで…
それを放置したルイ十五世の責任。
それと葦名も同じことじゃないのかな?
『塔寺八幡宮長帳』によると、盛氏の治世にわたって、六回も徳政令を出したり、二回も禁酒令を出している。こんなこと他の戦国大名には見られない。
内政では盛氏の能力は、やや疑問視。
さらに、付け加えると…
これは、あくまでも私見だが…
戦争ばっかりやっていたから、家臣に重い軍役を課し、その結果「四天の宿老」の反乱ばっかり発生しているんじゃないかなぁ。 >>90
それは話が全く逆だと思うよ。
そもそも葦名は他のそれなりの大名と比較しても、それほど元の基盤が強くない。
だいたい室町の大名が戦国(的)大名化するに当たっては、家督問題を中心とする
内紛の克服が必須なんだけれど、葦名はこれに失敗してるのね。
同じような基盤の弱さを持っていた伊達は、天文の乱でこの内紛を完璧に決着させた。
伊達政宗の強さは天文の乱の結果によるものだよね。佐竹は鎌倉以前の領主で
一族結合が非常に密だったから、葦名とは基盤の強さがもともと違うんだけど、
内紛の処理がやや中途半端だったので、戦国時代に出遅れた部分がある。
葦名は盛高と盛滋の争いはそれなりに決着させたんだけど、猪苗代とは決着してないし、
葦名内の家臣団の再構築もどうやら行われていない。所謂葦名四天と呼ばれる
宿老達は盛高盛滋の争いのあとも以前と同じように君臨しており、平気で主家に対して
謀叛を何度も繰り返している。これが「基盤の弱さ」のひとつなんだな。
しかし盛氏の代になると、これらの四天宿老の反乱はぴったりと止んで、
「てどお」氏が言うように領地の外へ向かって戦争を仕掛けるようになる。
オイラはこれを領地の疲弊を生み出したととらえない。むしろ強さであると思う。
葦名家の家臣に対する権限が強化されたからこそ外征を行い得たのであって、
また外征を行うことによってさらに葦名の権力強化につながった。
つまり織田とか武田とか、他の戦国大名と同じなわけ。徳政令に関しても領国が
疲弊したから徳政令を頻発したのではなく、徳政令を出せるほど葦名の権力が
強化されたということ。
ところがまずいことに家督者が次々死ぬ。その際のゴタゴタが再び家臣の
増長をもたらすことになる。知られているように義広が入った時に、連れてきた
元佐竹家臣が傲慢だったので元々の葦名家臣と軋轢を起こしたという話も、
家臣団に対する主家の更なる権力強化という大名の近世化への普遍的な有り方に
過ぎないんだな。そのまま進めば、恐らく葦名は家臣団の再構築を遅ればせながら
行ってより強力な大名になったと思われるんだけど、運の悪いことに
伊達政宗がやってきてしまったというわけ。
つまり収穫逓増。戦争することで大名が疲弊するのであれば、どの大名も
より大きくはなれないことになる。こういった静的均衡をもとにした見方では、
多くの戦国大名が国規模での地域権力となり、さらには地方規模の権力と
なっていた事実を上手く説明できなくなってしまう。 外征で消耗はあるにせよ、外征したくてもできない大名よりは
マシだということだねw いや、あやまってない
佐竹の子を取ったから伊達と戦っただけ
伊達の子を取ったら佐竹と戦っていただろう 息子はアル中、養子はホモすぎたしな。
名門もこうなっちゃあつらいな。
そうして新たに呼ぶことになった当主候補は、戦はなかなか強そうだが、
かなり性格が粗暴な感じだな。下手したら大変な目にあうかもしれないな。
ただ、その兄貴は真面目で律義者だそうだ。
兄貴と連合すれば平和な統治ができるかもしれない。金上様が推す気持ちもわかる。
ちなみに、もう一人の当主候補は凡庸で普通の子らしい。頼りないな。
でもそういう君主ならそんなに揉め事起こらなさそうだな。意外といけるかも。
ただ、彼の兄貴は粗暴でやりたい放題のあいつだろ?小手森の件は最悪だな。怖いよ。
下手したら俺らもあんな目にあうんじゃないか・・・?恐ろしいなおい。
まあでも流石に弟さんには手は出さないだろう。
当主候補の選定でゆれている、黒川城。 蘆名とか芦名とかの別表記もスレタイに
入れなかった>>1はアホ >>107
伊達の子を取ったら滅亡しなかったということか?
そんなに単純じゃないぞ 佐竹の子をとって滅亡したのは事実だしな
せめて佐竹家中で葦名氏が存続してれば 秀吉か家康の治世で、ちらっとでも再興の話は出なかったのだろうか 総無事令を気にするあまり、葦名も頑強に抵抗しなかったし
佐竹も大規模な援軍を出さなかった。だから葦名は黒川城を破棄するに至った
これが滅亡の直接の原因だろう。
佐竹と葦名が全力で伊達の進軍を止めようとすれば
こんな結果にはならなかったはずだ >>108
結局秋田では3代で絶滅したもんな。
ここらへんは何とも言えんな・・・
>>111
いつまでもネチネチやってたら共倒れで全部改易だわな 伊達の養子を迎えた場合の正誤なんて誰にもわからん。たらればだし。
>>111の「ならなかったはずだ」も同じ。(たらればより、むしろ願望に近いように読める。)
結果論ではあるが、純然たる事実はあくまでも>>109の1行目
ただし「佐竹から養子を迎えたこと」と「滅亡」は直結しない。(一方で、無関係でもない)
盛隆が暗殺されたのが痛い…というより二階堂から当主を据えたのが痛いのか? >>109の文章では、佐竹から養子を取ったから、滅亡したのだと
言っているように見えてしまう まあやはりどこの大名でも養子だと
家臣団の不満がでてくるってことでいいのかな?
一致団結とまではいかんかもな。
実の息子がついでも揉め事はあるけどさ。
実の息子は酒で身を持ち崩し、その後の当主は養子な上に男色過ぎる男。
仕事はできていたようだが、痴情で実を崩すという。
もう家臣団が頭に来て建て直し不可能の状態だったのかもしれんな。
>>110
角館葦名の家臣が、葦名の流れをくむ天海に掛け合ったという話がある。
本当かどうかは知らないが。 >>110
家臣も離散してるし、もはや必要はなかったような。 義広がわりと運動してたようにも思えるけど
子孫が夭折してちゃやっぱ無理だわな { ! |\ /ハ, |
ィ彡三ミヽ `ヽ ||ヾ\,,,.‐‐ー−// ヽ|
彡'⌒ヾミヽ `ー i ,,,ゝ..-‐‐ー−一''''' ' |
ヾ、 i/" _,,,,,福●島 -‐一|
_ `ー―' iレ'"ハ.\\_://::::::::.|
彡三ミミヽ i! ヽ:.:.:.: 冫': : く :::::::::::|
彡' ヾ、 _ノ i!: ̄(\ )ー:( /) ̄:| このスレは
`ー ' {ヘラ "''''ンテ ヽ''''"ン.:::| 福島恨人によって
,ィ彡三ニミヽ __ノ ヽヘ彡 ( o -o )ノ ::| 覗かれています
彡' `  ̄ `l ∴ )-=ェっ(∵ ::::|
_ __ ノ ヽ ⌒ |
,ィ彡'  ̄ ヾ ヽ-- ' |
ミ三彡' /⌒ / ヽ ::::::::::|
ィニニ=- ' / i `ー----(二つ
,ィ彡' / ミ/ (二⊃
// / ミ/ 白虎隊 ヽ、二)
彡' __,/ ミ/ .:...`ト-'
/ / ミ/ 会 ..:.:.:.:|
/ ヾ\_ 津 ,.:.:.:.:.:|
ィニ=-/ ミ/ 魂 ,:.:.:.:.::::|
>>123
チョン州人キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!
山口は怖いねw 政宗最強は捏造スレに葦名崩壊への流れが書いてあるな。 そうやって直ぐに山口に目が行く時点で124が恨文化に染まった恨人であるというのが良く分かる。 怖いといえば21世紀になっても焼き鳥や高校野球を戊辰戦争にリンクする福島恨人だと思うけど、124はどう思う?w そういうひと昔前の煽りネタは時間が止まっている日本史板でやれよ >>127
福島を煽るのはチョン州ぐらいしかいないだろw
巣に帰れよ 福島を煽る=山口という思考が
会津観光史学に犯されてる証拠だね
立派な恨族だよ129さんは^^ 日本の幕末史を荒らす福島恨人は半島なり大陸なり帰ってください^^
>>131そう言うなら福島県から会津を切り離してから言えよ。同じ同郷だろ呆けが! 133が長州人という明確な証拠もないのに指すの方がチョンだと思うんだけどw
つかすぐに「長州だ」と思う時点で133は福島恨人か会津病って事じゃん。
おたく洗脳されてるよ、会津の観光史学と会津系小説にwww サイタマーな自分にはよくわからんが、
ここは名門芦名について語るスレじゃなかったのか(´・ω・`) 長州と会津のアホとバカが罵りあうスレになったようです。 簡単に言うとさ、会津=長州という方程式を持ってる時点で
会津系作家の作品(長州敵視)を鵜呑みにしてるって事じゃん。
長州藩は会津戦争に主力として参加してないし
前原一誠とか多くの長州人が会津人を庇護してる。
この事実を知らないで、会津発信ばっか信用してるから
会津=長州なんて作家と会津観光の商魂にのせられるんだよw 無関係なスレで醜悪な罵り合い始めるとか
松平だの毛利だの田舎の成り上がりは品がなくて嫌ですお┐ (´ω`) ┌ くだらない罵り合いしてないで
とりあえず
三浦・会津蘆名一族
七宮 けい三 著 新人物往来社 版
2007年06月 発行 ページ 268P サイズ 四六判 2,940円
これ買ってから
もう一度
このスレにやってこい。 同意。
スレッドの主旨に外れすぎるのが常態化すると
三戦みたいになる。
>>140
越後上杉の研究に役立つ記事あります?
特に気になるのは謙信が初めて関東に出る時期の動きなんですが、
なんで越後に援軍を出したのかが気になる。 >>123=>>143 は何がしたいの?
最初に荒らし始めておいて会津が云々って・・・・・
半島並みのキチガイ工作員だな 半島並みに工作員を海外に派遣してるのはフグスマだけどね
脚本・美化した創作で外国から慰霊碑まで貰っちゃって・・・
早く本田氏をパリから連れて帰れば? チョンも松平も長州も出てけよ
福島人から見たらお前らみんな同じにしか見えん >>140
一族シリーズだけど、戦国期のページはどの程度あるの? >>140
個人的には、会津謹製の割に視点が偏ってないので「会津 芦名一族」「会津 芦名四代」の連作の方が好きだな。
前者は今絶賛品切れ中だけどw
あと、蛇足ながら佐竹もこのシリーズよりは無明舎の「佐竹氏物語」の方が良いように思う。 パリの工作員・本田マサヨは会津虚構史の宣伝部員では?w
しかし恨人ってのはすぐに会津=山口(長州)という方程式を出すよなw
本当分かりやすいよwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 無明舎の「佐竹氏物語」は、大きい書店ではたまに見かける
>>153
はやく山口か半島へ帰れよ あぁ、俺持ってるよ。新神仏往来者の三浦・会津葦名一族。
他に下野小山・結城一族も持ってる。
内容については・・・イマイチかなぁ。
戦国時代は盛氏の登場から60ページが該当するかな。
9p〜245pまでが本文だから1/4くらいか。
俺は桧原地方の穴澤一族や金上と小田切と上杉景勝と新発田の戦いを調べたかったから
購入したが、完全黙殺スルーだったので評価をイマイチにした。
伝説や軍記や檜原戦物語の検証なんかもやって欲しかった。
あと葦名盛氏が天正6月に死去ってのも???10/6じゃなかったかと。。
晴宗の兄弟の入嗣先についても諸説いろいろあるのを触れたりしないで断定してるのもな。
訂正
×葦名盛氏が天正6月
〇葦名盛隆が天正12年6月 154を見ると分かるけど、やっぱ目線が直ぐに山口に行くんだね、福島恨文化継承者って。 >>157
執拗なキチガイだな。日本史板にでも逝け。 >>157=>>123だからな。
北の工作員並みのキチガイ粘着だ 北チョンみたいに、外国に工作員(M.HONDA)を派遣して
創作の歴史を「史実」として、現地(パリ)の子供に擦り込んでるのは会津では?w >>155
結城も暁印書館の「結城一族の興亡」の方がよかったと思う。 蘆名が万単位で動員できることを知ったときの驚き=三村が万(ry 123以降延々と、同じようなことばかり連呼して荒らしている
長州半島人は帰ったほうが良いね >>155
一族シリーズはお勧めと聞いてたが、葦名の分はそうでもないのか。 なぁ、くだらない疑問なんだが
会津の人が長州を恨んでるって事は都市伝説みたいなもんじゃね。
私の会社の同僚でまだ26歳くらいのヤツはまったくそんな話に
興味なかったし、親もそんな感じらしいよ。
そもそも会津藩は斗南へ転封してるんだから、恨むようなやつはむしろ青森県むつ市の方面の方じゃないのか? 会津地方は攻めるの簡単。守るの不利。戦国も幕末も共通。 佐原十郎左衛門義理連が会津に所領を与えられたのは奥州征伐か、古いね 守護を騙るなよ、クソ大名蘆名!
関東上杉スレに出張して伊達信者の味方してんじゃねぇよ
家格から言えばあきかに長尾>>>>>蘆名 三浦と中村、有力なのはどちら?と言ってみる。
そろそろ飽きてるけどね。 >>177
伊達厨が論破され、追い詰められたので
必死にくだらん工作してるなw
浅はかアホ宗乙w
なんでもかんでも伊達ファンのせいにすれば良いと思ってるのかな 一箇所でやるべきだな。
血縁でもないのに他を貶めるほどのファンになる、という流れに無理がありすぎる。 >>181
なんでもかんでも伊達ファンのせいですが、何か? あぁ飛び火がここにもきたか。
もうしょうがないね。経緯が経緯だ
しかし、葦名は名門ですと言っとくぞ。 譲れん。
いつもの過疎スレらしくマッタリしようぜ。 蘆名は幕府に認められた名門だもんな
ドサクサに紛れて蘆名を汚すのは許せん 会津といえば加藤が会津に転封されたが、すぐ改易だったな…。
しかし要所だよなぁ会津って。 なぜか松川の戦いスレで葦名を貶すキチガイ登場。しかもすべて根拠無し
http://ex24.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1198253856/
515 無名武将@お腹せっぷく sage 2008/08/18(月) 17:59:44
鎌倉から16歳の時に左遷され、
22年も廃絶されていた六波羅南方探題を無理やり再興させ鎌倉から追放され(北方探題の方が地位が上)
のちに二月騒動の謀反人として北方探題に攻められ25歳で死んだ時輔と関係ある幕府非公認の会津(佐原)経光は廃絶され乞食坊主に転落w
幕府は弟の泰盛の血統に継がせてるしw
しかも三浦遠江次郎左衛門尉=経光かどうかも実際ははっきりしないんじゃなかったっけ?たぶんそうだろみたいなw
1290年には時輔の次男も謀反をたくらみ三浦頼盛と謀反して2人とも斬首されてるし。
南北朝の混乱以前に、すでに系図もボロボロで血がつながってるかどうかも危ういんだがw
おかしい人間をそっからここに連れて来られても困る。
せっかく隔離しんだからやめてください。 ちがうでしょ。
一人爆発してる変な人がいるだけで
上杉とか関係無い。
上杉スレでも迷惑がられてる。
勝手にVSにされても困る。 鎌倉期に入ったとこと室町に入ったとこあるんだなあ。 執権北条氏が政権簒奪の過程で三浦氏を支えた長尾氏も一緒に一度滅亡してる。
その後、上杉が鎌倉へやってくると長尾は上杉の家宰として復活した。
上杉も足利との婚姻関係で鎌倉府の重鎮になった。 ちなみに盛氏末期は景勝との10年戦争で大敗し
大幅に衰退した挙句に
最後は景勝との和睦を望み死亡する。
しかも後継者が二階堂の人質だし。。。
盛氏も上杉後継者問題で北条・織田と組んで介入しなければ
葦名の名君で終了してたのにな。
まぁ勝頼がワイロで景勝と結ぶ政策変更しなけりゃ、新発田氏を葦名従属下にして、新潟湊や庄内まで葦名拡大できたかもな。 後に保科正之に仕えた蘆名遺臣(やその二世)って佐瀬氏ぐらい?
佐瀬氏は最上氏に身を寄せていた(仕えていたのかな?)が、
その最上氏も除封となり、出羽山縣領主となった保科正之に
召抱えられたらしいが。
山内氏は郷頭(大庄屋)になり、後に長男が家来(會津藩士)になった
ようだけど。 早乙女貢こと鐘ヶ崎秀吉の先祖は財力で中士下級クラス(徒格)に
昇格した郷頭(郷士と大庄屋を併せたような会津藩の身分)・富農
だったと2ちゃん日本史板で聞いたけど、
蘆名遺臣末裔なのかな?鐘ヶ崎姓は九州・西国に多いことからして、
蘆名氏とは関係なく蒲生氏か加藤氏の旧臣だったのかな?
俺は早乙女貢(本名:鐘ヶ崎秀吉)の偏向な論調・作風は嫌いだけど、
重臣末裔が早乙女貢の先祖の身分のことを馬鹿にしてると聞いて、
それが本当ならば早乙女貢よりもDQNだと思ったよ。 >>212
俺も早乙女嫌いだけど庄屋上がりの徒士末裔話は2ちゃんねるでの
電波つーか誹謗
信州高遠以来の保科家臣ではなかったようだけど
幕末には葦名仙吾という30俵どりの会津藩士がいたらしい。 >>214
支流もいいところだろうけど葦名(蘆名)一族の末裔だろうね
それにしても30俵とは・・・ >>214
その人の家は本家(と言っても支流)の分家かもしれない
佐瀬氏だって上士の端くれだったのだから、本家はね >>210
最上改易後の山形には鳥居が入封してるのだが
その鳥居減転封の後釜が保科正之
鳥居の時代はどうだったのだろう? >>220
保科正之は鳥居旧臣(減転封のため浪人になった)のことも
召抱えたらしいよ。
信州高遠かた羽州山形は倍増以上の加増転封だったから、
鳥居旧臣・最上旧臣を大勢召抱えたそうな。
蘆名遺臣の佐瀬氏のそのときに山形で召抱えられた。
会津移封は確か3万石程度の加増でしかなかったから、
加藤旧臣(こちらはとんでもない大減封で諸国に散らばった者を含め
浪人だらけ)で召抱えられたのは下士・中士と雑魚上士が多く、
大身の上士は極めて少なかったそうな。
幕末まで家老身分だった萱野氏(加藤重臣末裔)はレアケース。 >>223
出て来る気がしない。
出てきても奥羽征伐前に「蘆名も滅ぼします政宗は」とかと説明で一言出るぐらいジャマイカ?
佐瀬氏は戊辰戦争に負けて青森県下北半島(斗南)に行き、
廃藩置県後、上京して下級・中級役人や警視庁の警察官になったという、
旧会津藩士の典型的パターンだったらしく、現在も首都圏在住らしいけれど、
確か会津若松市には白虎隊記念館とは別に会津郷土博物館があったはず。
蘆名氏家老、会津松平氏中老・馬廻という名門で、蘆名氏滅亡後、羽州山形にいた、維新後に斗南→東京に移り現在に至るとはいえ、
会津の名門だった時代の方が遥かに長い。
是非、本家でなくてもういいから佐瀬氏当主で定年を迎えた方orもうすぐ迎える方がおられれば、
会津若松市並びに会津郷土博物館は佐瀬氏に館長になっていただくようお頼みすべきたろう。 >>225
幕末・戊辰の役とくに白虎隊士中二番隊自決組を売り物にしている
からなぁ。
でも佐瀬氏ならば単に蘆名遺臣じゃなくて会津松平家中だったし、
禁門の変、鳥羽・伏見の戦、会津戦争と会津中将松平肥後守容保のために
戦った家でもある。分家がいくつもあって他藩なら文句なしの下士たる
徒格の中士まであったけれど、本家は中老か馬廻、上記した徒格以外の分家
も上士と中士最上位(他藩なら上士最下位)。
まぁ、そんなこと俺が思っても、現地はせいぜい蒲生氏から会津若松の
歴史が始まったって感じだもんね。
現に黒川を若松に改称したのも蒲生氏郷だけど。
同じく合掌
渡辺こうぞう氏も頑固ジジィ的で好きだが、
あと横山元会津若松市長もね 大河に旧蒲生家臣や葦名遺臣も登場したら神だが。三成側にも蒲生旧家臣いるしな。
旧田村家臣の石川弾正とかも登場して欲しいが。旧大崎家臣らも。 平良文−忠光−忠通−三浦為通−為継−
義継−義明−佐原義連−盛連−光盛−
葦名泰盛−盛宗−盛員−直盛−詮盛−盛政−
盛信−盛詮−盛高−盛舜−盛氏 >>209
>ちなみに盛氏末期は景勝との10年戦争で大敗し
>大幅に衰退した挙句に 最後は景勝との和睦を望み死亡する。
はあ?蘆名アンチ死ねよ
>>237
ちゃんとした史実だが何が不満なの?
じゃあこれで満足かね?
天正12年
6月
葦名盛隆(二階堂からの人質だったが盛氏嫡子が早世した為葦名を嗣ぐ)が家臣栗村下総に居城黒川城を奪われる。
(栗村の父の新国定通も岩瀬郡長沼城で挙兵)
10月
盛隆(24歳)が男色相手の近習に暗殺され、まだ生まれたばかりの亀王丸が葦名を嗣ぎ家臣団が動揺する。
政宗が伊達の家督を嗣ぎ、葦名後継に弟を送り込もうとして政治的敗北をした為に、怒った政宗が葦名に電撃奇襲をかけるも桧原で政宗は大敗。
>>238
盛氏と景勝の話なのになんで伊達の話を持ってくるんだ?
意味不明。
盛氏と景勝が10年も戦ったという史料は何?
景勝は1578年に上杉氏の家督後継を宣言し、1579年に名実共に上杉氏の総領となる。
盛氏の没年は1580年。
1579年と1580年の2年しか景勝と盛氏は戦えないわけだが?
一手を率いて景勝が蘆名勢と戦ったというならその合戦の名前を教えてくれないかね?
まさか政宗と景勝の間違いとか言わんよな?
偉そうに語った挙句勘違いとか、噴飯もんだしな。 盛氏が御館の乱で北条に呼応して景虎支援で越後乱入して敗北。
盛氏隠居し、何事も盛隆へお願いしますと景勝に頼んで死去。
続いて盛隆が織田方に内通して新発田の乱に介入(信長に三浦介を推薦してもらった)合わせて10年。
その間ずっと金上が葦名執政だったし、その後、葦名滅亡まで金上。
まぁ芦名が思い気っきり衰退したのは上杉と佐竹のおかげ。
芦名が上杉に大敗した後も
芦名の須賀川から入った当主の義隆は、
佐竹に白川結城に続いて
須賀川も取られそうになっても
救うことができず、逆に佐竹の覇権を認めて
田村にやられてるから
これからよろしくとか頼っちゃってるし。
どんだけ衰退しきってるんだよと。
それでも芦名は伊達にだけは勝てるんだよな。 >>240
言ってる事は理解できたが、日本語が不十分だから無用の突っ込みを受けるんだよ。
「盛氏末期」じゃなく「盛氏末期から」だろ。
>>209を一般人に見せたら盛氏が景勝と10年戦ったと勘違いするっつの。 >>240
>>241
おまえが言うほどには衰退していない
景虎支援だって数百の兵しか投入していないし
戦後に友好を求めてきたのは景勝のほう 七宮って人の本に晩年の盛氏が必死に上杉にすりよってた話はでてくるな 盛氏は佐竹義重にもすり寄ってるぞ。
盛氏は二階堂に手紙を送って
「我々においては分別せしめ候、何分にも御分別を以って、
佐竹へ無二御懇望の儀肝要存じせしめ候」
と、芦名も二階堂も佐竹とともに歩んでいくことが大切だと言っている。
つーかたったひとりの男子を病気で失い晩年を迎えた盛氏は、
多少弱気になっていたんだろう。天正中後期の関東奥州全体の流れから見れば、
芦名と佐竹、そして上杉が共同歩調を取るのは当然のことだしな。
しかも支配構造もこの三者は起請文多、命令系文書少と似ている。
あと新発田援助に関しては盛隆は消極的だったが、小田切は積極的だったようだ。
盛隆が新発田に兵を送ったと書いているのは『北越軍記』がおおもとじゃないかい?
あと芦名は佐竹なんかよりも地頭的領主の力がはるかに強くて、
お家騒動を中途半端で終わらせてしまったこともあって、
強力な支配を築くことが出来なかったことが滅亡の大きな一因。
盛氏の代に版図が拡大したといっても、内情は決して安心できるものではなかった。
それだけでなく盛隆が殺害され、二歳児を担がなければならなかったことも痛い。
>>241
何を言ってるんだ?
盛氏の死によって求心力が低下した、それだけだ
上杉も佐竹も、葦名滅亡の遠因になっていない 盛氏と義重は宿敵とも言うべき険悪な仲だったのに
どういう心境の変化があったのだろうね
普通なら伊達と組んで佐竹に当たりそうなものだけど 盛氏が生きていても葦名の衰退は止まらなかっただろうね >>243
会津四天王のさらに上である葦名執権家の金上氏が主導した戦いだし
景虎支援から始まり、新発田が維持していた越後新潟湊〜会津の巨額の河川通商流通路の利権を葦名が失ったのは
葦名財政の崩壊の始まり。 >>252
新潟津を新発田が抑えてたのは1582年〜1585年の実質3年だ。
しかも完全に支配下にあったわけではなく、景勝方から何度も攻撃されとる。
第一湊の規模からして 蒲原津>沼垂湊>新潟湊 だろ。
葦名財政は元から日本海交易に依存しとらんよ。
つか葦名氏の財政が日本海交易の利権を喪失したため悪化したっていう典拠よろしく。
脳内推理をもっともらしく話してないで、ちゃんと根拠を示せ。 金上盛備の金上氏が代々の葦名執政の家柄なのは、日本海からの河川流通の要路を押さえて
葦名氏財政に多大な影響力を及ぼしていたから(特に塩)
仙道方面から猪苗代への軽視はその方面からの流通は主たる河川流通がなく葦名にとって死命を制するほどの流通はない。
そもそも太平洋からの流通自体が難し過ぎる。
明治になって那須と共に削堀開発が行われるまで水不足で荒れた地だった。
しかも新発田の乱初期には織田の支援ルートも新潟湊はあった。
湊の規模どうこうではなく、新潟湊が葦名方面流通が依存した場所。
葦名にとって新潟湊流通を止められると塩やミネラル分を含む昆布から多くの物を止められると生きていくことすら難しいから、
盛氏末期は、新発田支援の反省の意味を込めて出家引退し景勝にすり寄った。 >>254
確かに塩や昆布に関しては簗田氏も扱っていたろう。
だが、推論ばかりで根拠がない。
相変わらず盛氏死後である盛隆時代のことを盛氏末期としているし。
君の脳内では盛氏は新発田の乱後に死んだことになっているのか?
盛氏の出家も御館の乱より遥か以前に行われている。
大体なんで津川から最も遠い新潟湊に依存しなけりゃならんのだ。
比較的新しい湊であり信濃川左岸にある新潟湊よりも、
古来より会津との往来も多く、何より阿賀野川に面している沼垂湊・蒲原津に依存して当然だろ。
それに新発田が新潟湊を抑えていてその恩恵を葦名が受けたような書き方をしているが、
新発田が葦名寄りになったのは謀反を起こす1581年以降で、それまでは反葦名だ。
重家滅亡後に新潟湊流通が止められるなら、重家の乱以前にも止められているはずなのではないかね? 盛氏は死の年になった天正8年くらいから
白河や上杉に自分のことを閑居の身と言っている。
佐竹や上杉に負け葦名が衰退した反省から
政治の後見役として実権を握り続けるのを止めて
本格的に引退した時期なんだろう。
白河には老衰したとか誰も尋ねに来ないと言い
上杉には私のことは放置して連絡しなくてよいので、これからは盛隆をなにぶんよろしくって頼んでるし。 各県市町村史や『直江兼続』(新人物往来者)を読めばわかるが
盛隆も表面上は上杉との関係を悪化させてないが裏では物資の支援など積極的にやっていた。
盛氏死んでから天正10年7月景勝によって小田切四郎太郎に1500貫文の地を与えられ、
翌11年5月には小田切弾正忠が『最前より当方馳走の恩賞』として5000石の地を給与され、
富田氏実も10年1月から越後堀越の地を与えられるなど景勝の領土宛行が葦名4天の宿老
にまで及んでいるなど家中の統率力の弱さが露呈している。 新潟湊はもっとも下流の河口にあり、
新発田が戦略的見地からいきなり新潟城を確保したのも
河川の入り口にあたるから封鎖を恐れてのことだろう。
当時の新潟は湖水といっていい状況で、
信濃川や阿賀野川で区分けされていたのではなく
沼垂湊も新潟湊もほぼつながっていたと見るべきである。
しかも砂丘化したり、土砂が堆積したりで古くからの沼垂湊・蒲原津では
機能不足がおきて、新しく新潟湊が作られたとするのが正しい。
(新潟湊は1520年から文献に散見し、蒲原津はこの後数十年のうちに港の活気を失い,
新潟津が信濃川・阿賀野川河口を代表する湊に発展)
それらは下総や常陸南部と同じ湖沼状であったろう。
北条との同盟を元に景虎支援で中蒲原郡の菅名庄を攻めて、
景勝陣営の安田城を落とし笹岡の山浦衆を味方に付けたり、
信長から三浦介補任を受けて景勝を裏切り新発田後援したのも
新発田重家の妻は、金上の弟とも従兄弟とも言う赤谷城の小田切氏の女であると言う事実に裏づけが取れる。
新発田長敦も表立って親葦名は無理だが、流通を止めて商業圧迫することはしないだろう。
なんせ流通税は新発田側も取れるわけだ。反葦名とは言いがたい。
加治川から赤谷城を経て陸路で黒川への補給ルートだけでは
日本海からの物資は厳しいだろう
(新潟城を奪われた後の新発田支援ルートだが、新発田は一気に衰退した)
また極少量だが塩は会津でも取れる。塩とつく地名が会津で付くところが多い。
(大塩、塩坪、塩沢、小塩、塩生、熱塩、塩川)
参考 ttp://194924226.web.fc2.com/yamazio.htm >>258
新潟湊の所在については今もなお意見が割れているので断定は避けるが、
一般的な見解では新潟が信濃川左岸、蒲原が信濃川右岸/阿賀野川左岸、沼垂が阿賀野川右岸。
繋がっていたと見るべきという主張は否定しないが、断定に足る根拠は見たことが無い。
また繋がっていたとしても地理的に遠い新潟より近い沼垂が水運に利するはずだ。
新潟の初出は1520年代だが、散見はしておらず、その後の登場は1560年代になる。
蒲原津が衰退するのは少なくとも慶長以降で、寛政頃には新潟が最有力となる。
戦国時代に新潟湊が登場して、整備されるようになり発展したのは確実だろうが、
蒲原や沼垂を押しのけるようになったのは戦国時代も後期になってのこと。
葦名氏の流通を語る上で新潟湊を重視するのは時期尚早すぎる。
葦名末期に新潟湊が会津に通ずる日本海交易に関与したのは事実と思うが、
古くより会津との通商のあった蒲原や沼垂を一切無視する姿勢はいかがなものかと思う。
1580年頃に既に新潟湊が隆盛にあり、蒲原や沼垂が衰亡していたという資料があるわけではあるまい。
蒲原津が「その後数十年で衰亡した」という見解は永禄の後、である。確かに早くに衰えた様子だが。
沼垂湊が衰亡するのは江戸時代に入り阿賀野川の氾濫に悩まされるようになってからのことで、
18世紀に新潟湊との利権抗争に敗れて新潟湊の優位が確立されるまでは繁栄していた。
また新潟湊は御館の乱において景勝の人質提出要求を拒否していることから、
当時の新潟の実質的支配者は1577年以降に三条城主となった神余親綱と考えられる。
1577年以前の三条城主山吉氏ならともかく、新発田長敦は新潟湊の流通とは関係ないのではないか?
三条道如斎が三条町奉行であったので新潟湊に対する影響力はあったかもしれないが、
それでも直接的な結びつきは緩かったと思われる。
なぜそこまでして新潟と葦名を結びつけるのかがわからん。
阿賀野川を通じての沼垂湊と会津の水運をなぜ語らないのかと思うよ。 新潟湊の支配に関して言えば、
信濃川と阿賀野川の間に砂上の三角州があり、そこに新潟砦があり、それを新発田側が奪取し新潟城を築いたと言う。
これにより上流の蒲原や沼垂の支配も一挙に兼ねたように思える。
新潟湊がもっとも川下であり、畿内方面から一番近いのだろう。
よって砂上が溜まり湾の口にあたる新潟城の争奪によって新潟湊の封鎖こそが重点なんだろう。
信濃川と阿賀野川が繋がっていたのは事実だろうし、信長の支援ルートもまた新潟湊からの北上だろう。
基地外うざいぞ!
おまえぜんぜん人の話きかないやつだろww 亀レスだけど早乙女貢亡くなっちゃったね
極端な論調・作風は好きではなかったけど、頑固っぷりが好きだったよ
ところで、佐瀬氏と私の母方の先祖(某氏←無名)以外の
蘆名遺臣末裔の会津藩士を教えて下さい。
葦名時代の石高は非常に小さく(24万石程度?)蒲生氏郷があてがわれた時はかなり誇張されてたのは
商業水利田畑開発でそのくらいになる可能性があるから見なし石高だったと聞きました。
実際に上杉時代の開発まで表高と実高の差は埋まったのでしょうか?
氏郷が会津を充てがわれて嘆いた気持ちが理解できますね。
近江・松阪の商人を呼び若松城を設計した氏郷が現在、会津で影が薄いのが可哀想。 会津から新潟の新津への電車からの風景が素敵でした。 >>263
どこで聞いたのか知らないけど完全に嘘
会津の検地やったのは蒲生だもの
貰ってから石高が確定した >>265
すでに葦名盛氏晩年の徳政令の多さから家臣団と農村の疲弊があったと大石直正氏が指摘している。
その後の会津の惨憺たる状況推移を考えれば、
表高のような収入はまったく期待できない疲弊ぶりだったろう。
葦名の会津盆地(20万石前後)からすでに自立化していた仙道筋の大内・二本松・石川・田村・須賀川・白河あたりの方が裕福だったろう。 >>266
それはないと思う
葦名が疲弊したのは盛氏の度重なる出兵によるものだけど
その大半は仙道への出兵
天文の大乱以来南陸奥は混沌と化し、葦名は仙道の覇権を確立すべく度々侵攻した
そのうち山入一揆を克服した佐竹が北進し、同じく天文の大乱を克服した伊達が南下し
仙道は彼らの草苅場と化し天正18年まで戦火に晒され続けた
陸奥のどこが一番荒廃したかと言うなら仙道だろう 仙道は南北は関東と陸奥をつなぎ
東西は太平洋と会津を結ぶ街道がクロスチェンジする通商の要衝として栄えていた。
このようにクロスチェンジする要路は古来、洋の東西を問わず重視された。
だからこそ国人レベルの割拠を経済的に可能にした。
その豊さゆえに佐竹も葦名も伊達も相馬も田村も白河結城も仙道を欲したのです。
また南北朝の頃は南朝側が盛んに支配を試みてるし、
鎌倉公方も稲村御所や篠川御所を配置した。 秋田以前に常陸に戻った時点で僅かだったはずだお( ^ω^)
金上や会津四天など重臣の大半が伊達家に臣従したし
義広も離反を恐れてこっそり抜け出したから黒川退去は家臣に知らせなかったお
正室さえ置き去りにするほど慌てて脱出したようだから
側近以外の動向が怪しい会津衆などは連れていくはずもないお( ^ω^) 会津の将で岩出山へ伊達について行ったヤツいたっけ?
はっきりしないところも多いが、
wikipediaには総勢200名ほどの蘆名家中の家臣が義広の秋田移住に付き従ったとなってるね
で、蘆名家臣の有力どころだが
金上→仙台藩の召出家の中に見られる
平田→米沢藩に仕えた一族がいる
佐瀬→後に会津藩に仕えた一族がいる
富田→常陸について行った後、相馬家に仕える
(伊達家に仕えた一族がいるとも言うが、その伝には怪しいところがあるとかないとか)
松本→摺上原以前に没落、一族の一部はその時点で伊達家を頼っている
まあ、ばらばらですな、他にそれなりの規模の家だと、
長沼→そのまま伊達に仕えた
河原田→一部はそのまま下野し、一部は義広に従い秋田までついて行った
山内→上杉家に仕える
となる
全体としては多くは摺上原直後は伊達に降るも、奥州仕置き以降は伊達に付き従わず、
そのまま会津に残ってという者が多かったというところですな そんなにあるわけねーだろアホが。30万石くらいなもんだ >>280
南陸奥最大の大名で、会津周辺一円から北越後まで領して30万石なわけねーだろアホが 蘆名の支配の内実も知らんだろw
直轄地なんて大してないのに何が90だよバァカ。
だいたい伊達と両属してたような大内や二本松まで含めるつもりかよw
お前は蒲生や上杉の石高からいい加減に+−して出してるだけの低脳。
上杉120から米沢伊達信夫30を引いて90ですかwww庄内や佐渡はどこに行ったんだよ超絶ワロタwww >>279-282
葦名氏の最大領土は会津四郡27万石と安積郡10万石、岩瀬郡5万石
、西白河郡西半4万、東蒲原郡5万の合計51万石
90万も30万も大嘘だぞハゲが 安積郡・岩瀬郡・西白河郡西半…あれ蘆名が支配していたとは言えないだろ。
それどころか猪苗代あたりですら自立心満々だったし。
二階堂あたりも田村や大内にはさんざん荒らされていたしな。 大内に荒らされてたのは田村だおね( ^ω^)
それで政宗公に泣き付いてきたわけだし >>287
それはだいぶ後の話。
以前の大内は下克上した後に田村に属してその先鋒になって蘆名領や須賀川領まで荒らし回ってた。 そもそも蘆名の領内支配は弱いものだったから実質的に30万石の収入などまったくない。
だいたい伊達の強固な支配とはまるで違う。
伊達は種宗時代の1536年には早くも御成敗式目を範にした分国法たる塵芥集を完成(大内・朝倉・相良・大友・今川に次ぐ速さ)
さらに晴宗は1548年には伊達郡から米沢へ拠点を移すと共に、父の家臣団から土地を取り上げ、自らの家臣達の今までの領地を没収し、新たに知行を交付。
これは土地にしがみついてる国人を土地から離し転封させると同時に、
今まで国人が隠していたような土地を把握し、旧国衛作成土地台帳に基づいて棟別銭や反銭の課税をすることで家臣400人に及ぶ軍役台帳と序列化を完成させた。
まさに秀吉の全国政権が目指した太閤検地をすでに行っていた。
この支配力を大きく後退させる要害制度を築き封権時代に戻してしまったのが政宗。
実収入ではなく石高換算の支配領域を
話していたのではないの? >>289
全くもって逆だお( ^ω^)
稙宗公は近臣と制定した塵芥集・蔵方之掟などによって
国人達の田銭・棟役の直納を廃し、近臣に与えた惣成敗の権限をもって支配を強めようとしたお( ^ω^)
しかしこれに反発した国人達が晴宗公を担いで稙宗公を除こうとしたのが所謂天文の大乱
結果、晴宗公が勝利して再び国人達の所領を安堵し
田銭・棟役・惣成敗などの権限を与えて守護不入を約したお( ^ω^)
要は元通りにしたと言う事だね( ^ω^)
以後は急進的な改革を控えて輝宗公の時代にようやく臣下の反乱も収まり
政宗公の時代には有力国人達の力を抑えて臣下の位置に定着させたお( ^ω^) 蘆名の脆弱な支配を石高換算で表す意味があるのか?
せいぜい甘く見積もって表高で、会津分郡守護として奉られて会津盆地27〜30万石程度の存在でしかない。
ほんの一時的に寄子になったような国人は支配したとは言わないし、
そもそも仙道諸将は一揆を組んで蘆名に対抗していたり、蘆名と伊達に両属してたり利害で離れたり近づいたりしてたに過ぎない。
蘆名が強制したのではなく、国人の利害対立による一時的なもので、それは支配じゃない。
景勝に敗れたのちの盛氏の後半期は早くも衰退してるし。 仙台は政宗が貶されたらすぐ反応して擁護するなw
政宗を持ち上げる為に蘆名の石高を高く設定し、晴宗や輝宗を貶め、政宗の優秀性をアピールしようとする捏造ばかりやるよな。
>>292-293
景勝に敗れる?斥候の小勢送って撃退されただけで衰退の原因にされても・・・・
やはりただの葦名アンチなのか >>294
>>292-293は景勝と盛氏を同世代と断じている例の人だろw
相変わらず景勝と盛氏が直接戦ったかのような書き方をしてるしw
相手にすんなw それって何がソースだっけ?その時期葦名が中通りで敵対してたのは田村くらいだし
もっと大軍勢押し込めそうなもんだが。
葦名は景虎支援で中蒲原郡の菅名庄を攻めて、景勝陣営の安田城を落とし笹岡の山浦衆を味方に付け景勝方揚北衆と戦闘
新人物往来者の『直江兼続』によると盛隆時代は表向きは上杉と関係を取り繕いながらも裏では新発田への物資補給を行う。
義広の代になるとあからさまに兵や鉄砲衆を新発田への支援として送り葦名が津川から兵を赤谷城に振り向けた所で
葦名からの干渉を断つために出兵してきた上杉と戦闘になり500余り討ち取られ兵糧が奪われ、赤谷城を落とされる大敗を喫する
盛氏死んでから天正10年7月景勝によって小田切四郎太郎に1500貫文の地を与えられ、
翌11年5月には小田切弾正忠が『最前より当方馳走の恩賞』として5000石の地を給与され、
富田氏実も10年1月から越後堀越の地を与えられるなど景勝の領土宛行が葦名4天の宿老
にまで及んでいるなど家中の統率力の弱さが露呈している。
上杉との接触が間接的とはいえ葦名の疲弊に少なからず影響してるのは否めないだろう >>296
小田切四郎についてはよくわからないが
富田氏実は領土宛行などされていない
葦名上杉同盟の恩賞として景勝から賜っただけだ
これを葦名弱体化の顕れにするのは間違い >>295
君は過去レスでさんざん論破された人だね。悔しかろうw
毎回、何度となく忘れた頃に蒸し返して蘆名の石高を3倍近く捏造しては論破されてる伊達厨乙。 >>297
しかし福島県史や会津若松史はこの記述を採用してるが?
普通恩賞をそいつが所属してない大名の領土で与えるなんて例他にあるか? >>299
北条高広は、佐竹義昭から小田領の一部を与えられている。 >>300
さらに後北条からも領地をもらい、見事に上杉を裏切っている。 つまり他家から領土宛がいくって事は大体その武将が両属的になってる証拠だろうな。 >>298
そういうおまえさんも葦名アンチ・伊達アンチにしか見えんぞw >>300
ソースとなる史料か論文が知りたい。教えてくれ。 富田氏実が上杉に従った形跡はないし
景勝から知行を受けたなら、むしろ支配が増したとしか言えないお( ^ω^) >>304
これなら俺が書いた。
http://c.2ch.net/test/-/sengoku/1189679152/133
のちの国人北条の謙信からの離反とともに後北条への鞍替えと、佐竹義重の離反による関宿落城への布石として北条の暗躍の証拠として書いたつもりだが。 >>304
-----------------------------------------------------------------
猶々、当口之様義、彼是口上ニ申候間、不及細筆候、
去春小田口ヘ、輝虎御越山之儀、御?本望候、依之沼崎之郷前野郷佐村併
山木進之候、速ニ可有知行事尤ニ候也(以下本文略)
七月二日 源真(花押)
北条丹後守殿
-----------------------------------------------------------------
謙信公御書10 群馬県史2254
源真は佐竹義昭の法名 >>306-307
ありがとう。高広は半独立した大名だったんだなー。 >>308
は?なに言ってんの。
蘆名が上杉に負けて、富田が上杉に買収されたんだが。
謙信配下だった北条が佐竹や後北条に買収されたようにな。 >>310
ソースという306が見えんので、改めてソースを提示してくれ。
論破も何も奇妙奇天烈なこと言って呆れられただけだろおまえw なんか>>240あたりからループしてるな。
>>296
弱体化の件は>>252の河川流通路消失>>266で徳政令が頻発してるなど蘆名盛氏の衰退ぶりが指摘されてる。
謙信が離反した佐竹に復縁を望んだ時は北条高広が悪いって言ってるね。
また、天正3年2月に白河攻略に貢献した和田安房守は(車氏の讒言で佐竹を出奔して白河へ逃げた際に息子達や一族を義重に殺された)
白河家臣の身分でありながら、すでに天正2年3月10日に田島・板橋・競石・上小屋・白石の所領を義重から貰っている。
このように自分が属していない家から加増を受ける例は、主家から離反する前兆。 小田切四郎は天正11年からの上杉の信濃方面への出兵にじかに参加し功をたてて誉められてるのが確認できる ちなみに会津の山内氏も上杉に仕え始めていた。
山内氏勝の勝なんかも景勝から。
そのために、政宗の黒川城占拠あたりの時期では伊達に抵抗し景勝が全力支援してる。
三成は最初は蘆名配下と思って、山内氏の会津内の領地安堵をして水久保城で伊達に抵抗させていたが、
実は上杉配下だったと言う事で、会津での山内氏の領地安堵は取り消しになり、越後上杉被官扱いになった。 >>306-307
栗原修 「北条高広と佐竹氏・後北条氏」 『戦国史研究』33 1997.04
これに調査報告があるのかな? 上杉厨は自分の妄想以外信じようとしないから理で諭すのは無理だお( ^ω^)
それにしても葦名が滅びてから上杉に鞍替えしたのを以って
上杉が葦名を衰退させたとか言うつもりなのかお( ^ω^)
完全に発狂してるお(≧ω≦)プッ 肝心な話題ないな。葦名と云えば摺上原での敗戦の際
猪苗代湖に再興の軍資金投棄したとか、磐梯山?に埋めた話しないの?
猪苗代湖の埋蔵金は、磨上原(摺上ケ原)の合戦で、
伊達軍に破れた葦名(芦名)軍が、実家の常陸に敗走する途中で、
中田浜の湖底に沈めたそうです。
現代に至って、実業家や芦名の末裔を名乗るものが、
財宝引き上げを図りましたが、いずれも失敗に終わったようです。 投棄を命じられた将兵が持って帰ったんじゃね?
滅びつつある大名と運命をともにする必要もないし。 確かに急いで退去したし埋蔵金は有り得そうな話しだけど
義広一行は大戸町から白川に抜けたから中田浜に立ち寄る事はなかったと思うけど( ^ω^) 待て待て。
殿様一行が棄てないで、密名帯びた家臣が責任を持って遂げるもんでしょ。
>>318
確かに。山内が葦名配下であったなら蒲生か佐竹に仕えてたはずだが、上杉に付き従ったからね。 自演乙。
そもそも上杉に従ってないし。蟄居で上杉家預かりになっただけだし 山内は為景・輝虎代々入魂だから景勝も援軍を派兵したわけだが。 上のほうに蘆名を小勢力にしようと必死なヤツが居るなw >>329
むしろ為景の頃までは越後寄りだったのに
盛氏時代になると山内一族はこぞって葦名の旗下に収まったお( ^ω^)
景勝に後詰めを求めたのは葦名が滅亡し伊達に圧迫されたから 会津藩士で山内さんや会津藩の郷士で山内さんって多くいるのだけど、
彼らは会津山内氏の支流末裔? 山内氏勝の倅は上杉氏に仕えて越後に行ったはずだけど、
支流では会津に残留した者や最上氏に仕えた者がいたのかな?
蘆名遺臣や会津の豪族で最上氏に仕えて、最上改易後に山形で
保科正之に召抱えられた家があったから。 山内と一口に言っても大まかに見て
横田・野尻・川口・沼沢・西方・滝谷・桧原の七ヶ所に居館を構えて
山内七騎と言われていたお( ^ω^)
氏勝は横田山内に当たる そもそも葦名なんて他家と両属してたような国人ばっかりじゃん。
盛氏なんて過大評価されすぎだし。 >>338=>>318
はいはい、蘆名アンチの妄想乙 国人達が複数大名間を行き来していたのは全国どこも同じだおね( ^ω^)
それが戦国時代だし >>341
オイラの理解では、
国人=領主
豪農(つーか地侍のことだよね?)=地主
小作人を自分の耕地で耕作させ、地代(=加地子など土地使用料)を取っている人が地主で、
彼らは自分で耕作もするだろうが、他の商売(銭貸しなど)をしている場合もある。
戦争の時には小作人を連れて行き、小作人は荒子や足軽、地主は侍身分といった感じ。
領主は農民から年貢を取っている存在で、上の地主=地侍は領主に年貢を支払っている。
戦争の時に侍とそれらの荒子や足軽が集まるのは、自分が年貢を支払っている領主のところ。
これら領主は武士身分で、領主の子弟も武士身分だろう。
この辺の区別は多分それほど明確ではなく、地主でありながら領主でもある
(つまり地代を取りながら、年貢も取っている)人々も沢山いたと思われる。
小作人から見て、地侍と領主は「公」であって、例えば「五公五民」などという場合は、
耕地の収穫量の半分は地代や年貢等ということになる。
この場合、地代と年貢の比率が半々だったとすれば、収穫量全体の年貢率は当然25%となる。
実際には、管見の限り、地代の三分の一が年貢相当分の場合が多いと見る。
ただ領主や守護、戦国大名は、年貢以外にも点役や棟別銭、雑役を賦課することも出来た。
年貢の起源は国衙に納める貢納物から。(更に遡れば、神様への供御物なんだろう)
地主の土地を所有する権利は懇田永年私財法あたりから。 要は知行地(非課税地)の有無ではないかお( ^ω^) 盛隆の養子は有り得ないおね┐ (´ω`) ┌
盛氏もボケていたのだおうか 下手に一族重臣を養子にすると派閥争いが起きそうだったのでは? 古い家系だけに色々とめんどくさそうだ。
大内にちょっと似ているかもな。 >>1
なんで蘆名とか芦名でも検索かかるようにしなかったの? 蘆名ファンなら漢字が3通りあることくらいわかるんだから併記くらい
思いついても良さそうだがね 今更いいじゃん
次スレから変えれば・・って何年後だろうw それ言ったら沼田氏は玄孫だな
養珠院(徳川頼宣と徳川頼房)も三浦氏系って説があるけど
この辺は家系図後付けかな? 会津山内家の子孫ですけど
山内家ってどんなレベルだったんですか? 三万石くらいの豪族
先祖は山内首藤氏だから意外と名門 三万石ですか、でも分家で本家の場所すら知らない名前だけなんですよね
後、最近知ったのですが、土佐の山内家とは全然別物だと思ってたんですが元は同じなんですね 土佐の山内も首藤の分家を名乗っているくらいだから。
名門じゃね? まあ、いつ頃誰が下向したのか不明なわけだが( ^ω^) 仮冒だろうね。
一豊は近江の出だっけ?美濃?尾張? 高校まで会津に住んでいたが
そういや同級生に山内姓は2〜3人位いたなぁ
佐瀬、富田、平田もいたが
松本は全くいなかったぞ
まぁ皆が皆子孫というわけではないだろうけどね
>>365はきっと坂下とか柳津の人なんだろうな 会津の山内の出自はあまりにもできすぎてる感があるのは確かだな
史料がたくさん伝わった山内首藤家の記録上では
鎌倉期を通じて会津に所領を有していたことが確認できないとかあるみたいなので、
仮冒の可能性も正直否定できない
後、戦国期になると豪族としての会津の山内家ってのは普通総領である横田の山内氏を指すんだが、
蘆名家中の記録にぽつぽつ見られる蘆名家中の会津山内氏は
蘆名に仕えるようになった分家ではないかという考え方があるようで、
総領としての横田山内氏が戦国期を通じてどのような立場にあったかについてはまだ議論の余地がありそう
完全に余談だが、摺上原の合戦後、会津山内氏は伊達氏に対して地の利を生かした持久戦を行ってるんだが、
その時、徳川家に派遣していた当主氏勝の弟である大学頭を呼び戻したという記録があって、
この大学頭が山内一豊であるという超が何個付くかわからないぐらいの珍説と言うほかない伝承があるとかないとか 一豊はそこまで引っ張り出したい人物だったんだろうか? 当時はその位の人物として認知されていたんだろう
今もそうだけど 家康から門出として鎧と馬を貰って伊達と戦うために会津へ出発し上杉に仕えたんだっけ? 武将喫茶では、まず入店すると店員が一斉に「殿!よくぞご無事で…!」
と片膝をついて迎えてくれる。
コーヒー持ってきたときは「失礼いたす」と言って一口毒見、20分の1くらいの
確立で毒入り(のふり)で毒見役の人が悶絶。
帰るときは「ご武運を…!!」と言われたりする。
軍師もいたりしてたまにオーダーに文句を言われる
「殿!そのような品はふさわしくありませぬ。ここはケーキセットで敵の
目を欺くのです」
また、先代から仕えているという(設定の)爺もいて、うっかり水でも
こぼそうものなら鬼の形相で登場
「若!何と情けなや!、若のお年の頃、お父上はご立派でしたぞ!
爺は亡き大殿様に会わせる顔がござりませぬ!ああ情けなや!情けなや!」
と大げさに叱り飛ばしていると、
ご家老様、全てはこのおふぢの至らなさ、どうかおふぢをお叱り下さいませ!
と乳母が来てかばってくれて、濡れたテーブルや服を拭いてくれるのである。 >>383 大覚助=横田大学っということだと
三成の書状の「大沼郡以北は弟云々…」
というのも納得できるな
しかし、知れば知るほど政宗とか秀吉って残念だな
よく尊敬する人物にあげられられるが
笑っちゃうよ うわ〜秀吉って・・・というか
石田三成からの書状だから秀吉より三成の謀略? 一応横田山内氏が領地没収になったのは、
当時伊達家と戦ってたため小田原に参陣できなかったこともあるだろうが、
それ以上に奥州仕置きの関係で秀吉が会津に来たときに
一切挨拶に行かなかったことが影響しているとされているね
タイミング悪く当主である氏勝が病に伏せっていたとかの事情はあるんだが、
代理も立てなかったことが自らの立場を悪くした可能性は高いと思われる 戦国時代の尾瀬は誰の支配地だったんでしょうか?あそこは国人にとって守りやすい地形ですよね。 >>389
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-07126-8.jsp
小説のようだし、どこまで信用していいのかわからん。
国人と書いてはいるが、そもそも尾瀬に戦国時代当時まともに
年貢を取れるだけの人々が住んでいたとは思えない。
むしろ地侍的な自分らで生産活動してた半百姓っぽいな。 三浦の葦名ほどの名家が尊氏の金魚の糞のそのまた糞なんて成り上がりの最上となんて 会津風土記?(図書館で立ち読み)では尾瀬沼近辺に開墾された後があるとか ホモダチに刺されて昇天するようじゃ明君とは言い難いですおね( ^ω^)
佐竹に主導権を奪われて勢力減退していったし。
盛氏時代のツケがまわってきた部分が大きく、盛隆だけの責任ではないけど( ^ω^) 留守中に居城奪われるくらいだしな
二階堂出身で蘆名重臣にナメられてたのかもな >>396
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```` ト, i | 、 i´´´ 上杉景勝から蘆名盛隆宛の書状が新発見されたみたいだね >>396
\\ / .::::::::::::::::::::::::::::::::: く
\ / .::::::::::::::::::::::::;;:;;::,ッ、:::::: ) く ホ す
\ l ,ッィrj,rf'"'"'" lミ::::::: く れ モ ま
Y ,!ミ::::::: ヽ な 以 な
`ヽ、 | くミ:::::::: ノ い 外 い
|、__ ャー--_ニゞ `i::::,rく か は
``''ー- ゝ、'l  ゙̄´彑,ヾ }::;! ,ヘ.) ! 帰
゙ソ """"´` 〉 L_ っ
/ i , /| て r
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,、yx=''" `ー{゙ _, -、 ; l レ' ヽr、⌒ヽ'
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_,,、- ゙、 ー'' / ; `、
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-''" / `ー─''ぐ;;;;' ,' ノ ヽ `ヽ、
// / ヾ_、=ニ゙、、,,_
/// // ,、-'´
// // / / 佐竹から来た義広が伊達派を一掃していたら磐石になれたかもしれない。
忍者衆も手厚く保護しておけば・・・ 秀吉が佐竹に惣無事令を守って伊達と戦うな和睦しろ!じゃなきゃ富士山を見に行った時にどうなるかわかってんだろうな?
なんて圧力をかけまくったから、佐竹が伊達との戦いを回避するため葦名支援から手を引いた。
葦名側は佐竹が当方への支援を止めるなら義広を突っ返すぞってな感じで険悪になったからね。
情勢分析がやたら甘い伊達は北条がそう簡単に滅亡するわけないから、まだまだやりたい放題wって感じで葦名圧迫してくるし。
あれは佐竹を圧迫した秀吉が悪い。
まぁ秀吉が最初から蒲生や堀にやる領地どうするべ〜まあ葦名滅亡しても別にいいやw
と思ってたのかも知れないが 葦名、宇都宮、結城の件で佐竹は秀吉嫌いだったろうなぁ。 土地と密着した名門なんて潰したほうが統治がやりやすいことに気づいたんだろ しかし常陸の名実ともに旗頭にしてくれたもん。葦名や宇都宮らがどうなろうが、佐竹本家にとっちゃ悪い話じゃないだろ。 南陸奥、下野、常陸、下総に幅きかせていたのに常陸の2/3程度に押し込められては
名実共にランクダウンしてるじゃんお( ^ω^) 常陸での実効支配力は強化されてんだからウマイ話
しかも岩城は寄騎にしてもらってるし相馬も限りなく組下扱い 確かに宗家の支配力は増したけどそれは他の東国大名も同じであって
西国大名のそれに並んだだけであり佐竹だけの特権ではないお( ^ω^)
岩城は元々支配下にあったじゃんお( ^ω^)
それに与力と言っても特に強権持ってるわけではないお
実際相馬は関ヶ原時に単独行動してるし( ^ω^) 蘆名は名門だよね
女系で武田、鎌倉北条、宇都宮、伊達の血が入ってるし 芦名義広(佐竹盛重)は、常陸に逃げ帰った後も芦名の名字を使ってたの? 葦名義広が佐竹を名乗ったことあるの?
宗家の嫡男か方角家の嫡男じゃないと佐竹を名乗ることができなかったんじゃないの? 佐竹義広→結城義広→蘆名義広(会津時代)→蘆名盛重(角館時代) 角館時代は義勝で盛重は江戸崎時代じゃないか?
佐竹家に居るときに元服して佐竹義広って名乗ったことあるの? 葦名に滅ぼされた慶徳新宮氏の新宮城
今はエロ本捨て場になっています >>424
少なくとも元服したのは白河でだね
養子の話しが持ち上がったのが義広が生まれたばかりの時で
白河に入部したと思われるのが4歳ぐらいの時だし
元服した後はずっと義広で、盛重の初見は江戸崎時代なわけだけど
「義広」は結城氏の諱だし葦名入嗣時に改名しなかったのだろうか…
でも「義」の字は便利だね
佐竹の通字だし、白川結城の通字でもある
そして三浦氏の通字でもあるからある意味いずれの氏族としてもおかしくはない >>428
葦名になった時点で通字「盛」を使った名前になってそうな貴がするんだけどねぇ 葦名さんて家臣に居城乗っ取られてましたよね、一時期。 ここんちって、名門なのにいまいち地味なんだよな。
なんつーか華がないっていうか。 それ言ったら大大名以外はみんなそんなもんだよ
葦名は会津合考、芦名記、永慶軍記や伊達佐竹関連資料などを見ると
結構いろんな逸話あるだけマシな方 >>6
それ、うちのご先祖様だ。
祖母がよく伊達家中で家老になった蘆名がご先祖様だって良く言ってたなぁ。 盛滋が庶子ならわざわざ連れ戻して当主にしないかと
まあ、盛舜も庶子なら有り得なくもないが まあ、君たち わたなべこうぞう氏に感謝したまえよ。 盛氏は部下に恵まれなかったな
唯一優秀だったのが金上盛備 人がいなかったわけではないが独立思考が強くて反乱ばかり起こすんだよな 氏方も我慢していれば宗家乗っとれたかもしれないお( ^ω^) ・wikiの記述
蘆名軍の大敗の様子は『奥羽永慶軍記』では、次のように記されている。
「会津勢、日橋川に行き詰まり、とても死する命をと踏み止まり、
敵と組みて刺し違ふもあれば、日橋川に落ちて大石岩角に馬を馳せ当て、自滅するもあり。
歩者は川へ飛び入り、逆浪に打ち倒され、流れ死するもあり……。ここにして会津勢1800余人討つ」
・奥羽永慶軍記の原文
「会津勢、日橋川に行き詰まり、とても死する命をと踏止まり、
敵と組みて刺し違ふもあれば、日橋川へ落ちて大石岩角に馬を馳せ当て、自滅するもあり。
歩者は川へ飛び入り、逆浪に打ち倒され、流れ死するもあり。
伊達勢も川の中迄追入り、討ちつ、討たれつ、突きつ、突かれつ、多くは河岸・川中にての軍なれば、只凡人の業とも見えず。
ここにして会津勢千八百余人討るれば、伊達勢も五百余人討れたり」
永慶軍記は激戦の様子を書いているのだけどwikiではその部分を抜いてあり
更に伊達側の損害記述の寸前でカットしている
その上で伊達側は犠牲が全然でていないような書き方をしている 葦名って會津でも影薄いね
歴史館とか行っても松平氏がメインで葦名は少ししか展示してないし
歴史書も松平氏に比べて圧倒的に少ない
まあ、茨城でも佐竹が全く同じだけど
そういや葦名氏の文書はやはり義広が持っていたのだろうか
敗戦ともなると金品だけではなく文書類を含み家財を持ち出さなきゃならないし大変だったろうね 佐原義連の妻が武田信光の娘って・・・・・ありえんだろ、年代的に あーあホワイトハウスとディズニーランドに原爆落ちればいいのにな Wikipediaを「Wiki」って略す人って、ものを深く考えない人だと思う。 >>473
お前みたいな考えすぎて偏屈なのも問題があると思うが。
既に一般企業もそう略して公的な場で使っているからな。 >>474
企業が使っているからと言って正当化されるわけじゃないだろ。
そもそも、wiki〜〜 なんてwikipedia以外にもいろいろあるんだから。 >>474
自分が理解できないからって、「偏屈」とは・・・・・。 どちらかと言うと賢君というか猛将ってイメージ
戦は強かったけど、じわじわ足元を崩されてしまった感じ 晩年は景勝に敗北し
徳政を繰り返し
国人の離反が相次ぎ
最後はかつての敵の上杉に
葦名を頼みますと頼む始末
完全に過大評価。
景勝〜?
盛氏晩年は仙道沿いがボロボロでむしろ越後側だけ唯一安定していたわけだけど( ^ω^) >>482>>483
伊達厨には非常に都合が悪い話だから必死ですねw
政宗をマンセーするために盛氏を過大評価して、輝宗を過小評価する工作するなら
ちゃんとすごい理由を箇条書きにして具体例を書いてみろよw >>487
ちゃんと盛氏がすごい理由を箇条書きにして具体例を書いてみろよw
盛氏とか政宗公と時代が違うじゃんお( ^ω^)
接点とか皆無に近いし >>490
相手への悪口よりも
盛氏の凄さを列挙して反論した方がはるかにマシだよ。
それをしないあなたはバカな厨房にしか見えない。
相手の意見に対して反論できないからと言って、その悪口はつまらんと思う。
これが単なる知識なき厨房の下劣なやり方と言うものか。
とても議論は成り立たないな 481のような事実無根の悪口に対して、イチイチ論理的に反論する必要があるの? まず事実無根とする根拠をあげよ。
できなければ反論ができないから議論から逃げてると
判断せざるおえない発言だ。
要求された内容は下記のように至極簡単な内容なのだから書けばいいだけ。
「すごい理由を箇条書きにして具体例を書いてみろよ」
できないで逃げる発言を繰り返すのは卑怯なだけ。 >>481は事実だから>>490>>492の伊達厨が涙目なだけ。
盛氏末期は徳政令だけでなく禁酒令も出してるし。
支援してた景虎が敗北するや景勝に和平を望むと同時に盛隆を頼みますと書状に書いてるし
盛氏は近頃は洞中の者たちも挨拶に来ず、1人で囲炉裏で寂しくやってる茶器の一つも欲しいなあとも書いてる。
ここで葦名洞中だった者たちの輝宗への離反が明らかになってくる。
もっとも葦名盛隆は景勝を裏切り輝宗に要請され新発田支援をやって景勝にまた敗北し、輝宗勢力下に落ちた仙道での挽回に力を注がずにいたせいで、
実家二本松まで衰退し盛隆が家臣に殺された直後から政宗に実家まで圧迫されるアホぶりを示したが。 盛氏は佐竹に白川や石川をめぐる攻防戦で敗北してからは
南陸奥でのイニシアティブを失っていったからなぁ
その佐竹も政宗が登場してからは4年で南陸奥から駆逐されてしまった
やっぱ政宗は凄いね >>496
惣無事令が無ければ政宗は佐竹らにフルボッコされ速攻で討ち死にしてたけどな。
政宗は秀吉に感謝しないとな。 惣無事令ないと後北条氏が北上してくるから政宗にとっては余計に楽だよ 輝宗が二本松城は堅城だと指摘したように惣無事令がなかったら相馬の仲介による二本松城の和睦開城すらなく、
政宗は父を殺したことに後悔しながら、輝宗暗殺の懲罰にきた佐竹にブチ殺されてたから
北条の北上なんてまったく関係ねーよバカ はいはい
無知なSub君は自分のスレで大人しくしてようね >>495
盛隆の実家が「二本松」?「二階堂」だろ。
>>504
揚げ足とかくだらないから。
なんか内容あるレスくらいしろよ。 >>505
基本的なことすら取り違えているクソSub乙www つーか初歩的な間違えするやつの論理が正しいと思われるわけないじゃんw 無知の蛆虫政宗厨房さん相変わらず論議から逃げまくって、
細かい揚げ足取りに必死な低辺の屑デスネwww
揚げ足部分なんざ、単純ミスなんだから脳内補完しとけやアホ。 まぁ知識がコーエーゲーム程度の伊達厨には葦名なんて語れないよねw 【親父】長尾為景【強い】スレ
283 :仙台藩百姓:2010/02/12(金) 08:01:21 ID:HQryFEej
家紋に使用権なんてないから誰がどんなもの使おうと問題ないお( ^ω^)
それに伊達宗家の竹に雀はオリジナルだから、全国でも伊達宗家しか使用していないものだお( ^ω^)
それより上杉氏をぶち殺してちゃっかり上杉名乗っている偽上杉が江戸時代に米沢の辺りにいたけど
あれはとんでもない事だお┐ (´ω`) ┌
284 :人間七七四年:2010/02/12(金) 10:56:13 ID:iI2sK1nr
そもそも成実記や政宗記って事実誤認しまくりで成実本人が書いてないだろあれ。
仙台の主張は支倉の絵画のすり替え疑惑もあるし怪し過ぎ。
285 :人間七七四年:2010/02/22(月) 07:13:40 ID:UvXEQWZ0
>>284
中野義時や駒姫の件に触れた成実の記述のせいで都合が非常に悪くなる鮭厨乙w
286 :人間七七四年:2010/03/06(土) 20:37:35 ID:OcnFz7KZ
>>285
糞伊達厨乙w
287 :人間七七四年:2010/03/07(日) 01:13:08 ID:atk/fiN5
>>286
捏造とウソで塗り固めた鮭厨乙
288 :人間七七四年:2010/03/08(月) 08:56:06 ID:psgfzA2q
>>287
捏造美化常習犯仙台乙
289 :人間七七四年:2010/03/13(土) 11:43:38 ID:CK32UFiN
スレ違いなのに
場外乱闘の
醜い争いワロタwww
さすがクズ厨同士www
ここって蘆名について語るところなのにでしゃばんなよ伊達厨&長尾厨
どもが(・ω・) 伊達の話題ねじ込んでるのもSubっちだし一緒にしないで欲しいお( ^ω^)
まあ、真面目に話したとしても葦名を語る上で伊達は避けて通れないだおうけど( ^ω^) >>51
北条狭山藩のあった場所に隣接したPLの塔も気持ち悪いよな
ネット検索すりゃすぐ出てくる
時間あたりの花火量で日本一とかの花火大会でも有名だ。
子孫といっても実質2代で終了してるけど( ^ω^) 寄付金50万以上で感謝状貰えるとか書いてあるけどどんなのなんだおうか( ^ω^)
どうせなら殿様が感状発給すればいいのに( ^ω^) 跡継ぎに恵まれなかったばかりに伊達ずれに舐められるとは・・・ 三代続けて早世は組織をズタズタにしちまったからね。
しかも葦名は芦名家執政の金上盛備の主導による
織田の上杉侵攻や上杉後継者争いや新発田の乱に介入しまくった
挙句に上杉に大敗して終了してるし
もともと執政の金上盛備の領地が越後隣接してる関係で真反対側の仙道には興味がない上に
二本松畠山国王丸と会津葦名亀王丸の幼君コンビで組織指導力もオワタw状態だし。 金上盛備の生年て何年?
wikiの1527年だと享年とあわない気が… 滅びた家の常で葦名家臣は殆ど消息不明だから仕方ないお( ^ω^)
だが、享年と没年書くなら辻妻ぐらい合わせるべきだおね( ^ω^) 正統芦名氏である針生氏からは、片倉小十郎重長の妻、白河義実の妻が出ており、
前者が産んだ娘が松前安国に嫁いで片倉景長と松前広国を産み、後者は伊達綱村公の乳母として、協力して伊達家を救った。
伊達家の存続は、全て芦名家の功績によるものである。
さらに、景長の娘が産んだ吉村公が5代を継ぎ、伊達宗家にも芦名の血が6代ぶりに入ることになって現代に続いている。
よく、重長の妻お梅(真田幸村の娘)が時代祭りでも取り上げられ、あたかも片倉家には真田の血が流れているかのように思い込んでいる者も多いが、
正妻はあくまで芦名家(針生家)の娘であり、その偉大な血が伊達家を救い、片倉家を大きくしたのである。 針生氏は政宗公が拾って準一家として優遇したからね( ^ω^)
政宗公の目は確かだったと言う事かお( ^ω^)さすがだお 芦名宗家は盛氏公以降早死にで他家からの養子が続き、三浦氏の血を引いているとはいえない(伊達氏を通してかろうじて繋がっている、晴宗母が芦名、盛隆母が晴宗長女、盛重母が晴宗5女、亀王丸母が晴宗4女)
一方、針生家は14代盛高公の嫡男に始まる家で、その後他家からの養子もないため、こちらこそが本当の芦名家なのである。
針生家は、伊達騒動を解決した功績と、角館芦名家の断絶を受け、芦名氏に戻って維新を迎えた。
「伊達騒動」を最終的に解決した片倉小十郎と、若君を護衛した松前鉄之助(本当は八之助)は兄弟、乳母の政岡は従姉だと知った時は驚いた。
政岡の婚家の白河家は一門に昇格したが、芦名家は準一家のままだった。
準一家は、芦名と松前を除くと、他家を裏切って政宗公に味方した者が多いのであまりいい印象がありません。
(猪苗代→芦名を裏切り、保土原→二階堂を裏切り 上遠野→岩城家臣ながら、政宗公を見逃す) 政宗は人を見る目は確かだよ 行動は最悪だけど
じゃなきゃあんなDQNについて行く家臣なんかいない 人取橋後に霧散してるよ
自分に忠節を尽くしてくれる家臣や時勢の判断は優れたもの 礼節はないが
・・・誉めてんのかけなしてんのかよくわからんな わたしには彼氏がいます。
彼とわたしはデートの時、どちらかの家に行き、
だれもいないとき、部屋で横になって裸でだきあいます。
それがだんだんエスカレートしていって、学校の体育倉庫で服をぬがされ、まだ3年生ですが、
学年で1番大きいおっぱいをつかむように触られたり、しゃぶったりされます。
最初は苦手だったんだけど、だんだん気持ちよくなりサイコーです。
しかも、わたしは学年1美人でもてます。
彼も同じで、美男美女でよくみんなにうらやましく思われます。
: : このカキコ見たあなたは4日後に不幸が訪れ44日後に死にます。
それがイヤなら、コレをコピペして5ケ所にカキコして下さい。
わたしの友達はこれを信じず4日後に親が死にました。
44日後友達は行方不明・・・・。
いまだに手がかりもなく、わたしはこのコピペを5ケ所に貼り付けました。
すると7日後に彼氏ができ、10日後に大嫌いな人が事故で入院しました。
: : 信じる信じないは勝手です。 蘆名家って1500年代以降、当主の近親者が異様に少なかったよね 正腹の子が一人だけってパターンが何代も続いたからね
盛興の早世と氏方の反乱が致命的であった 盛氏は寂しい幼年期を送ったからグレたって書いてあったお( ^ω^) 室町〜戦国の芦名って正室腹以前に庶子自体殆どいない
正室腹2子の盛舜
白拍子の子 氏方
位か 葦名の魂は片倉小十郎に受け継がれましたとさ
めでたしめでたし 正直、松本行輔の反乱は適切に処遇すれば防げたもののように思う。
意図的に反乱させたのかも知れないが。 金谷遠江守(金遠江守)、松本図書助、奥山常陸介、鳥尾屋石見守、猪苗代盛盛 二階堂盛隆の生母は蘆名氏という説をどっかでを見たことがあるのだが、思い出せん 盛隆の娘で後に二階堂氏に養子入りした岩瀬御台と混同しているのではなかろうか >>574
伊達稙宗のせいでさらにややこしくなってるからなww 相馬スレ住人として、胤の方が雅な字面だと思う。稙胤。 >>585
雅という割には笑いの胤にしちゃってるなw 相馬の苗字はいいけど、胤は語呂がいまいち良くないお┐ (´ω`) ┌
意味的にも少々アレだし
漏れの家の通字も胤じゃなくて良かったお( ^ω^) >>37
1574〜1575年ぐらいかな。
佐竹に対する岩瀬郡防衛のためだろうね。須賀川城主は二階堂氏だし。
葦名盛興は病死したことになってるが、死因は実際どうかわからんぞ。
そのころ佐竹が仙道進出してきて、両方に多くの戦死者の出る激戦になってる。
しかも、田村隆顕も死んで清顕が家督を継いで蘆名攻めている。
田村は佐竹と共闘してるみたいだし。
奥州諸将が盛氏やばいかも?義重強くね?と最初に思い始めたのが、たぶんこの頃だと思う。
そのまま葦名領が佐竹に侵食されたら、伊達は佐竹に威圧されたろうし、
輝宗も和睦調停にも必死になるよ。
会津葦名は岩瀬二階堂と一致団結しなくちゃならなかった。
結城義顕は葦名派だったが、小峰義親が佐竹派に寝返っただけかもしれないぞ。 つまり言いたい事は、もし盛氏が盛隆を跡目にしなかったら
そのまま二階堂もころりと佐竹派に転向したかもしれないという事。
>>588
ちっと認識違くないか。
田村は本来かなり独立志向が強くて蘆名とも佐竹とも仲が良くなかったが、
佐竹が脅威になってきたので已む無く蘆名と協力した。
蘆名盛興がアルコール中毒で死んだのはほぼ間違いなくて、
会津では盛興の禁酒の為?に禁酒令まで出していた(「塔寺過去帳」)。
佐竹と蘆名の戦争があまりにも際限無く続いたので、間を調停したのは謙信。
これに白川も乗って、以降伊達が仙道に出てくるまでは南奥は安定する。
んで白川はもともと「屋裏激乱」とか何とか言われるほどの内戦が起こってて、
これを静める&権益確保の為に佐竹と蘆名が乗り出していた。
佐竹と蘆名田村は南郷での戦争の講和をしているが、
ほとんど白川の所領であるにも関らず調印式にハブられるほど、白川は終わっていた。
つまり、この頃の佐竹の南郷進出を「対白川」だと位置付けている研究者が多いが、
恐らくこれはかなり間違ってて実際は「対蘆名田村」が正しいんじゃねーか。
この一連の戦争で佐竹側はかなり負けこんでいたので、
石川領を直接占拠&白川善七郎を名代に立てるというかなり卑怯な裏技で、
南郷白川を管理下に置こうとするが、これが反佐竹派としての白川義親の
勢力の拡大を呼んでしまう。
こんなところだと思うが如何か。 実際、佐竹と葦名は言うほど険悪な対立なんてしてないんだけどな。
葦名対佐竹なんて勝手に妄想で話を大きくしてるだけだし。
佐竹にとっては旧領奪回のために白川領に攻め言ってるだけの話だし。
葦名視点からしたら遠くで紛争による小競り合いが起きてる程度の話に過ぎない。 >>594
いや佐竹と蘆名は、険悪かどうかは知らんが十分深刻な争いをしてる。
それに高野郡が戦国期以前に佐竹の影響下に属したことあったか?
佐竹が白川に対して「旧領奪回」なんて言えるのは精々依上保くらいであって、
それも既に義篤の治世には完了している。
佐竹の白川攻めは、対蘆名戦争の中で行われた局地的な経過のひとつであって、
それ事態が戦争の焦点になるものではなかった。 葦名の敵は田村であって佐竹は辺境で紛争を起こしてるだけの立ち位置。
依上保は高野郡内であり、
白河側も奪回に動くんだから
戦いが周辺に飛びするのは仕方がない。
石川郡の石川は同じ源氏の同朋だから助けようとしてただけだし。
そもそも白河から盛氏への婚姻要請がきても渋りまくってた一方で探題家の伊達との婚姻に盛氏は熱心だったし
永禄3年義昭の時に那須の北上の際に佐竹も援軍を送った際に娘の顔を立てて白河に葦名が援軍を送っていた為に偶発的に葦名と衝突したと言えるかも知れないが
翌年に盛氏は家督を譲って当事者から一歩引いてるし。
北条から佐竹を挟撃しようって話がたびたびやってきたけど積極的な態度にはならなかった。
葦名は田村との戦いから二階堂攻略に目がいっていて、そのさらに下にあまり手を出すつもりはなかった。
結局、探題家の輝宗との婚姻許可と二階堂嫡男を人質にもらう無事交渉が成立して満足してるし。
結局、白河の内紛とクーデターの際には盛氏は娘を回収してしまったし。 そもそも晴宗が父と大戦争してた隙に会津をなんとか統一できただけの盛氏を過大評価し過ぎなんだよ。
統一って言ったって葦名政権へ地方割拠豪族たちを何とか参加させたのに成功しただけの話で、
葦名執政や葦名四天に代表される巨大国人家臣団の合議連合政権に過ぎず、
後年になっても葦名と上杉や伊達との両属家臣がいて国境すら曖昧。
葦名宗家の力が無力なのか葦名盛興なんて家臣団の勢力争いが絡んで本城を家臣に奪われたり挙げ句に暗殺されてるし、
その頃の会津は貧困からか頻繁に徳政令や禁酒令(食用米を酒にするのは禁止)を出さざる負えないほどに逼迫していた。
こんなボロボロなのに葦名は大国だから娘婿の白河を全力応援してたに違いないって思い込みで捏造してるに過ぎない。
実際、盛氏は伊達探題家から嫁が貰いたくて仕方がなかったが
輝宗からなかなか許可されなかった弱小国葦名ってのが現実。
会津盆地の見た目の大きさで大国と誤解してるのか知らんが洪水で水浸しになる盆地なんてほとんど価値ないから。 ほとんど価値無いにしては政宗も秀吉も家康も重視してるな。 蒲生氏郷が上方の土木技術を動員して会津盆地を開発するまでは大した価値無いよ。
特に蒲生がいた近江や伊勢は農業先進国だし、商人も伊勢松坂からたくさん連れて行ったからね。 古代から会津って蝦夷討伐の最前線として開発されて来て
あまり東北っぽくないじゃなかったっけ? >>595
佐竹氏は依上というか南郷(高野郡の寺山以南)の地頭職を得ていたらしい
山入一揆を克服した佐竹義舜以来、旧領回復に奔走するわけだが
義昭の代にはあらかた近隣勢力と和睦若しくは従わせる事に成功し南郷も支配下に置いた
南郷を奪われた白川氏は小峰義親が葦名盛氏の娘を正室に迎えていた事から
葦名氏の助力を得て南郷奪還を図る
以来、葦名白川両氏と佐竹氏が争うという構図が十数年続く
時には葦名白川氏と田村氏が組んだり佐竹氏と石川氏が組んだりして高野郡で争い
双方ともかなりの損害を出している
この頃の関係は険悪といっていい
武力では当時最盛期だった葦名氏の助力を得た白川方が割と優位にたっていたが
佐竹方の外交戦略による切り崩しと、手を広げすぎた葦名氏の衰退によって
結局白川氏は佐竹氏の軍門に降り葦名氏も和睦に至る
以降、葦名佐竹両氏の関係は一転して極めて良好に転じるわけだが。
要は初め南郷を巡って50年ぐらい白川佐竹両氏が争っていたが
白川氏が押されるに至って葦名氏を引き込み
葦名氏と佐竹氏の戦いに発展していったと言う事だね
後半になると葦名氏が白川氏を飛び越えて直接高野郡の国人と関係を結ぶようになっている
石川庄でも同様の動きがみられる 依上保が高野郡内だったていつの話だよ。倭名鈔とかの時代じゃねえか。しかも推定の話だし。
まあそんなことはどうでもいいので高野郡の変遷には深く立ち入らないけれども。
大体仮にそうだったとしても、「高野郡は佐竹の旧領」なんていえる時代は、
義篤期未前には存在しないじゃないか。高野郡南郷がいつぞやの時代に
佐竹旧領だったとしても、その旧領回復とやらは義昭の時代で終わってることだ
「石川が源氏の同朋だ」なんてもあまりにも馬鹿馬鹿しくて話にならんわ。
そもそも御家騒動で散々より近親の同族殺しをやっている時代を経てるのに、
そんな頓珍漢な論理で軍事外交的な政策を立案するなんてドンダケだよ。
義重は天正元年頃赤坂朝光に送った書状(『家蔵文書20』)の中で、
「竹貫三河と相談して石川と手切れし、(石川氏属の)白石で勝利しろ」と言ってるんだよ。
佐竹は常に石川の味方をしていたわけではない。当り前だがあくまで佐竹の利益優先だ。
そんで、所謂佐竹の対白川戦が、実は対蘆名戦の枝葉に過ぎなかったのは、
史料的にあまりにも明白過ぎることなの。
永禄十〜永禄十一年(1567〜1568)くらいまで、石川白川領が佐竹と蘆名の
政治的角逐の場となり、石川白川麾下の諸氏に対して両陣営が所領安堵や
所領宛行を頻発させるという事案が発生。
●上館左衛門大夫に所領安堵、帰属支援の確認(『佐竹義喬起請文・沢井八郎文書』)
●上遠野藤兵衛に浅川領の所領宛行約束(『止々斎宛行状・上遠野秀夫文書』)
●赤館左衛門尉に支援約束(『止々斎起請文・沢井八郎文書』)
●上館左衛門尉に支援約束、上の半年後(『止々斎起請文・沢井八郎文書』)
●沢井左衛門大夫に支援約束(『佐竹義重起請文・沢井幸一家文書』)
これらの書の文言には「道堅(石川晴光)が帰城しようがしなかろうが」とか、
「白川よりその方に対して慮外の刷い候えども」なんてのが付いてくる。
こうした中で永禄12年(1569)蘆名による石川領侵攻が行われ(『塔寺八幡宮長帳』
『平田常範書状・上杉家文書』)、元亀二年(1571)佐竹が石川に援軍を送るが
蘆名に協調した田村の後詰によって敗れる(『佐竹義重感状・家蔵文書44』
『止々斎書状・伊達家文書』)ということになる。
そして蘆名との講和を説いた?和田昭為が出奔し、元亀三年(1572)八槻で
蘆名田村対佐竹戦(『東州雑記』等)、上記の「白石での勝利」、天正二年(1574)
白川善七郎蜂起・二階堂が蘆名から離反?・赤館で蘆名対佐竹戦(『伊達輝宗日記』)、
金波で蘆名田村対佐竹石川戦(『白河古事考』かなんか)、天正三年(1575)に
白川陥落・天正四年(1576)佐竹による蘆名方の長沼攻め(『東州雑記』)となる。
こうした多くの蘆名と佐竹の戦争を見かねた上杉謙信が、蘆名盛氏に対して
「これらの佐竹との際限無き弓箭は全くの理由の無いものでは?」と手紙して、
佐竹との講和を勧め(『謙信書状・伊達家文書』)、実際に蘆名と佐竹の講和が成る。
こうした流れを見れば、石川白川が一連の戦乱で果たした役割は限定的で、
主導権は明らかに蘆名と佐竹にあったのが分かる。
伊達輝宗日記にも「佐会田(佐竹会津田村)無事の事定まり」、赤館での戦闘でも
「義重清顕対面あるべき」などとあり、白川の存在が表に出てこない。
最後の謙信の書状でも講和とは蘆名と佐竹の間のことで、白川には触れられていない。
当時でも戦争は蘆名と佐竹の間のものだったという認識なんだよ。
さらに。蘆名盛興が暗殺されたなどという証拠はない。『塔寺八幡宮長帳』によれば、
「御北様(盛興)御患いにて御酒止まり申候」とあり、おそらく酒に関る病気っつーか
中毒的なものに罹っていたと思われる。
小峰義親が葦名盛氏の娘を正室を迎えたと言っても
盛氏は再三の懇望に負けての話だし、
それを元に葦名が白河を全力で支援したなんて
誇大妄想のし過ぎ。
白川氏は佐竹氏の軍門に降ってないね。
むしろ結城や小田と結んで外交的に
義重を屈服させて人質を取ってる。
>>葦名佐竹両氏の関係は一転して極めて良好
一転も何も最初から険悪でもなんでもない。
辺境の小競り合いの紛争。
>>葦名氏が白川氏を飛び越えて
例えば上遠野氏は葦名から「石川氏が帰国しない間はそちに安堵する」といってるだけ。
白河領を石川が奪っていたが、それをさらに上遠野氏が奪っていた。
その領地を白河に返すわけでなく、石川が帰るまで安堵という暫定的な判断をしている。
この時期の石川は本拠から逃げている時もあり、佐竹や芦名から石川家臣が安堵をもらったりしてる。
さらに探題伊達から養子をもらって旧領への帰還を狙うことになるわけだ。
葦名を無理矢理巨大勢力と考えて話を展開するのはおかしい。 >>「竹貫三河と相談して石川と手切れし
それ天正に入ってからの書状とされてるヤツでしょ。
葦名と佐竹はこの頃はさらに仲が良好になってるわけだが?
だから石川領の葦名佐竹の共同統治に進化するわけだが。
さらに盛隆と義重の対田村同盟へと進んでいく。
それなのに葦名と佐竹が険悪なわけないだろうが。
もともと辺境の小競り合いでの遭遇戦や偶発戦だから
全面戦争にすら発展してない。
そもそも奥羽の戦は親戚同士のナアナアなんだから
大げさに考えるのは間違い。 >むしろ結城や小田と結んで外交的に義重を屈服させて人質を取ってる。
最早絶句という他ないwww
じゃあ義広が蘆名の養子になったのは、蘆名に人質を奪われたことになるな。
織田信長も神戸に人質をやり、秀吉は信長から秀勝を人質に取り、
徳川は結城に人質を差し上げたわけだ。斬新で革命的な見方だね。
いや、この言い合いは、もう私の敗北ですわ。負けを認めます。
あなた>>605の言い分が正しいと思います。申し訳ありませんでした。 市村先生が論文において
わすが4才なのに送られた義広は
白川の人質だったと記してるよな。
だから発給文書に署名すらしてないし
義重はさらに養女も出して義親に嫁がせてるが、
白川側からは人質を出してすらいない不平等な講和だし。 だいたい須賀川二階堂氏は息子盛隆を盛氏の養子に
無理やりネジ込み送り込んだわけじゃあるまいに極端な発言するのはよくない。
養子か人質かはそれぞれ考察しないと判断できず何でも同一視してはいけない。 >>603
依上保が分離したのは永正の頃だよ
まあ、どうでもいい事だが >>611
それは佐竹義舜が依上保を支配下に組み入れたことで、
依上保の「行政区分」が陸奥国から常陸国となった、という話でしょ?
ここで前提として言っているのは、そもそも和名抄の時代の「陸奥国白川郡高野」
「陸奥国白川郡依上」から、「陸奥国高野郡」「陸奥国依上保」という
区分に分かたれたのが何時か?ということ。
「保」という国衙領の中の一区分の名がついているのだから、
これはほぼ間違いなく平安時代(といっても長いが)に分割されたと言えるわけね。
つまり「依上保が高野郡内」なんていうのは平安時代の話で、
その頃には佐竹はともかく白川の所領だのなんてのはなんてありえないわな。
少なくとも史料上では、建武年間に白川氏が高野郡と依上保の検断権や
地頭権を手に入れ、応永年間頃には佐竹氏族の依上三郎なるものが
依上保を領有していたらしいこと、その後足利持氏が白川氏朝に依上保を
預け置き、また知行させたこと、その後佐竹義舜が云々ということになる。
そこで、「佐竹が奪回に動いた」とか旧領回復とか、上レスの人々が言っているでしょ?
依上保については依上三郎が領有してたという事実が確認できるのだから、
「旧領回復」というのもまあまあ成り立ち得るけれども、
高野郡については「佐竹の旧領回復」なんてのは言えないわけね。
勿論佐竹義篤、佐竹義昭が南郷を制圧する以前に、高野郡が佐竹の所領とか
地頭職とか、あるいはせめて検断職とかいう事実があるなら、
まあそういうことも言えるかもしれない。
ただそれが当時存在してる大名の優先すべき戦争理由として設定され得るとは、
私は思わないけれども。だから深く立ち入らないわけね。意味ないから。 となると各町村史にかつて南郷を佐竹が支配していたと記載してあるのは一体何なんだろう? 今の「しらかわ」郡が「西白河郡」と「東白川郡」で分かれてるのが
なんとなくわかった。小峰城は白河市内だったな。
葦名と佐竹の2大勢力によって分けられたのか。
アメリカ、中国、ロシアの介入で国が別れた朝鮮半島に似てるな。
>>608
マジで市村氏のその論文読みたいので、題名教えて あまり関係ないかもしれないが、白川周辺のことについて。
船尾山城守昭直の子である船尾義綱(三七、兵衛尉、右兵衛)は
何故か白川義親から義の字と白川の名字を貰い、
義綱と名乗っている『白川義親一字状/家蔵文書25』。
また天正十三年の『白川義親礼式帳』に「白川御城主御礼式」として
家臣団の中で最上級の格式を与えられている七人のうちのひとりに
「白川右兵衛殿」がいるが、これは右兵衛の官途が示すところを考えると、
船尾三七義綱と非常に関係が深い人物であると思われる。
言うまでもなく「義綱」は白川晴綱の父に当たる人物の名でもあり、
後に白川義親の養子になった人物の名でもある。
船尾家の人物が隆直、昭直の父子に示されるように「直」を通字とする
にも関わらず、船尾三七が白川後代の重要な字である「綱」を
名乗ったのは、三七が白川家の中で重要な地位を得たことが想起される。
これらを前提として考えると、白川義親という人物の立場にも重大な疑義が
差し挟まれる。ズバリ言ってしまうと、船尾義綱は一時的にせよ白川義親の
跡を継いだのではないか。となると、次のような系譜が考慮できる。
白川庶子家? 義綱?→義親→(右兵衛殿?→)船尾義綱→義名→義綱
白川本宗家 義綱→晴綱→隆綱→(朝顕?→)白川義広→義広子(が継ぐはずだった)
最終的には船尾義綱が伊達の赤館侵攻直前に白川から離反して赤館に退くことで、
白川義親養子の件は反故にされたと思われる。
問題は『礼式帳』で「白川右兵衛殿」と白川義名なる人物の存在で、
白川右兵衛殿=白川義名 もしくは 白川右兵衛殿=船尾義綱か。
ただし白川義名≠善七郎であるのは確実らしい。
上記のように考えると白川隆綱=白川義親説は益々疑いがもたれる。 会津、ドイツに北海道と日本海側の地域をあげるから助けてと懇願してた事がドイツの史料から判明。 ドイツは不景気になったら公務員の給料から真っ先に下げる。日本は見習うべき。 佐竹や上杉撃退したのに
佐竹と伊達に食い物にされた、、、悔しい。 葦名盛氏時代は上杉謙信と友好関係を構築してきたから、
仙道方面にも進出できたんだよな。
謙信が子を残して葦名家に養子にでも、嫁にでも出してればねえ。 ぼくは子どもの頃から素直で物覚えが良くて頭が悪く、まで読んだ >>627
信玄と結んで越後侵攻したが謙信に葦名軍は瞬殺されてるはず。 北条高広が離反した翌年の永禄10年に信玄が信越国境の野尻城を攻略した際に
呼応した盛氏が菅名庄へ乱入してきたので上杉軍は野尻城を奪回し
さらに葦名500余を打ち取り菅名庄も回復してる。
さらに佐野城監視の五十公野氏が謙信に無断で佐野を離れて葦名を頼り自領へ帰国しようとしたところを盛氏が捕縛し北条氏に引き渡してしまい
謙信は急ぎ色部氏を佐野へ向かわせた。
さらに信濃飯山城を強化してから佐野へ出陣。 嫡流は江戸期初期に断絶
近い庶流は針生氏が仙台藩士で残ってる
それ以外の分家は知らない 1代だけのピンチヒッターだが仙台藩主になれた針生さん 葦名って代々子供少ないよね
特に正室の子となると一人っ子ばかり
なんとか細々繋いで来た感じ あっ、あっ、徳政令出ちゃいまひゅうううううぅぅぅぅぅ!!!!!!
7倍アイスクリーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーム!!!!!!!!!!!!!!!! >>638
金上も芦名の分家筋
今も末裔がいるはず
芦名の嫡流は絶えたが、重臣クラスが芦名の庶流だったりする 金上氏は分家じゃなくて別家だな
足利と新田とか佐竹と武田みたいな関係 長男 猪苗代
次男 北田
三男 藤倉(金上)
四男 葦名
五男 加納
六男 新宮
らしい 蘆名が会津代表みたいな感じになっているのは
一番勢力が強かったから? いや、光盛(葦名)は嫡男で佐原の家督を相続したから初めから代表(宗家)だよ
上3人は庶子だから分家を立てたに過ぎない 猪苗代とか松本とか自分の事を
蘆名の家臣と思ってなさそう 政宗
「あのじじい・・・「わしは生涯一人の女しか愛さない」
と聖人みてーな事言って跡取りがいなくなってがたがたになったてめーの
家を今、つぶしたぜ」 芦名・加納(佐原)・新宮が宝治合戦で北条方についてたんだよな >>654
一応
蘆名の直轄地が一番広かったんだよね 正室矢部禅尼腹の三兄弟の一番上だからか
だが三浦介(三浦氏宗家)の地位はその弟である盛時(加納氏祖)が継承してるんだよな 盛興が死んだ後、後継に盛隆を指名したのは正しい選択だったんだろうか?
武勇に優れていたのは確かだけどさ。頓死してしまったのがなお悪い
まあそもそも盛興が早死したのがいかんかったのだけど 別冊少年マガジン連載嵐の伝説より
崩壊後の世界、本やコンピュータ、情報を記録するものは消えていき、
完全に忘却される事物もある。
富田隆実、「信長の野望」なんかにチラッと出てはいるが、基本的には超マイナー武将である。
その富田隆実を記憶している最後の男が死んだ。
「あしなっ!!」
こうして富田隆実は地球の歴史から消滅した・・・・・
永遠に・・・・・・・・・永遠に・・・・・・・・・ 実際に名前が記録に残って無いせいで歴史的には存在しなかったことになるからなぁ 世継ぎを遺せなかったという点では無能だったと言える 伊達派が勝利して小次郎が養子になってればどうなったろ
小田原で潰されるか、叔父達と同じ目に合うか佐竹派に篭絡されて政宗に滅ぼされるか 蘆名盛氏
「佐竹領に乱入し、兵数百を打ち取り
女を数百人さらった。戦ほど面白いものはなし」
盛氏がある坊主へあてた手紙 小峰義親「あのお義父様、それうちの領民なんですけど」 寺山だか赤館だかを攻めた時の手紙だろ
でも元々は結城氏の領地だし義親にしてみれば荒らされるのは複雑な心境だったろうな 盛氏ってなんか小物臭ぷんぷんなんだよなw
やたら徳政令出したり、盛興死後に禁酒令出したり全てが後手に回ってる
生まれる時代が早かったから助かっただけで、伊達政宗と張り合ってたら確実に蘆名滅亡に導き暗君のレッテル貼られてたなw
>>691
昔の女は不潔、下品、粗野
やめたほうがいい ( ^ω^)( ^ω^)( ^ω^)( ^ω^)( ^ω^) 會津郡 耶麻郡 大沼郡 河沼郡 蒲原郡
千葉郡 結城郡 奈須郡 白川郡 安積郡
小田郡 行方郡 磐瀬郡 宮城郡 安達郡
※郡内全てを支配していたわけではありません >>696
うーん、現代だとどこら辺か判らない郡名があるなぁ
千葉郡とか小田郡とか福島県及び周辺にあったかなぁ
宮城郡は宮城県とも思えないし、まさかと思い仙台藩の葦名(針生)氏を調べたら栗原郡だし 葦名盛氏ニ至リ押領之郡地
十五郡之内令知行高積百二十万石當
士分以上千三百五十人余
野士八十人余
外輿力徒歩士合三千六百人
旗下大名五万六千人余
都合六万騎余 現実的には20万石ちょっとで
城下は毎年洪水で
徳政令を出さなきゃ
治安維持すらできなくなるほど 分限帳によると会津四郡に、従属大名が須賀川、二本松、塩松、白河、石川
後の検地と見比べると
葦名本領が28万石
従属大名が
須賀川5万石
二本松3万5千石
塩松3万5千石
白河7万石
石川3万石
合計50万石
まあ、こんなものだろう
間違っても100万石は無理 >>703
盛氏末期にはことごとく彼らは離反してるし
そもそもその石高は明らかに
開発ラッシュ時代の秀吉時代石高を利用した後世からの逆算。
当時は石ではなく貫で表記してたし
度量衡も統一されてないから石を貫に換算するのも不可能。
>>704
石高は文禄検地のデータ
葦名滅亡から4年目だからそれほどは変わっていないはず
領域と支配体制については細かく議論するときりがないが
他の藩同様に大まかな指標にはなる 白河・石川も葦名傘下と言えるの?
佐竹傘下な感じがするけど >>706
大きく違う。
氏郷が上方の土木技術で治水新田開発や農業先進国伊勢の作付けと灌漑、
近江伊勢の商人の動員で
もはや外征費用を内治に投入できるようになった。
蘆名滅亡による帰農もあるし。
豊臣化とは、開発独裁による豊国安定の上で
将来の唐出兵を実行すること。
その開発のために動員する人数も蒲生権力の徹底浸透目的地でもある。 蒲生入部の際の石高は42万石じゃん
これは会津四郡に白河、石川、須賀川を含めたもの
塩松、二本松は含まれない
まあ、だいたい50万石ぐらいで合っている
盛氏全盛期の話しね
摺上原の戦い時点では、白河、石川、塩松、二本松に加え高玉、猪苗代辺りも失っていたから
せいぜい30万石弱がいいところだろう それ上方の検地と同じ方法を使ってないから甘い。
京升を使ったりしたのも
大崎葛西の乱の後の平定地域だけ。
本気で機内同様の石高制で検地をしたのは
朝鮮出兵して国元が抵抗できない状態に三成らが奥羽に赴任してやってる。
石高なんて細かく言ったらきりがないから大体ていいんだよ
毎年収穫量が違うのだから実高とか言うだけ無駄 >>702くらいが実態だろね。
じゃなければ佐竹におんぶに抱っこ状態の理由がわからん。
別におんぶに抱っこしていたわけではない
伊達の伸長を押さえると言う目的の下で利害が一致したから協調関係が築かれただけ
白川、岩城、石川なども同じ
彼らはあくまで盟友であって、独自の判断で行動している 1581年の相馬進攻での伊達軍(亘理・名取・宮城・二本松畠山・大内・須賀川二階堂・石川)との小深田の激戦
(相馬側300騎だったが狭い谷という地の利で防戦し、血気の逸った初陣の政宗が片倉を身代わりにして敗走)
1582年の相馬の小斎城の佐藤宮内が援軍の将を斬って伊達に降伏。
小斎城には伊達軍が、城の周囲には伊達騎下の二本松畠山・大内備前親子が布陣し急遽、相馬が冥加山に砦を築く。
1583年3月に氏照から輝宗へ「奥州の伊達と関東の北条はさらに入魂すべき」と東日本を二分して統治しようとの手紙。
6月輝宗から義重へ「奥羽両州諸家のほとんどが私に申し合わせてご挨拶し織田と入魂するから奥羽にちょっかい出すな」
輝宗から岩城へ「相馬攻め出馬よろしく。織田軍がもし関東へ乱入するようなことあらば、葦名ら奥州諸家は伊達に属して戦う」
1584年5月、田村清顕(母が稙宗の娘・妻が相馬盛胤・政宗正室の愛姫は一人娘)が
金山・丸森城を伊達に譲渡しての和睦斡旋。これを機に10月輝宗は政宗に家督を譲渡(葦名盛隆が家臣に暗殺される)
このようにほとんどの諸将は輝宗の指示で動くまでになっており
そのほかに黒川氏や最上氏なども傘下におさめている。
大崎氏も伊達に頭を下げて兵を借りる始末だし、葛西も隷属。
天正5年に家康の使者の鷹師が伊達の遠藤基信と会談した際に
伊達領内と最上領内を書状を添えて滞りなく往還させたとしており
明らかに最上領が伊達の自由にできた状況である。
この時に輝宗が鷹師を義光にも会わせてる。
明らかに外交において伊達を窓口にしている。
家康も最上からの書について伊達に感謝してる。
村山郡での戦いにおいての義光は
天童や東根攻めで、わざわざ政宗取次役の最上窓口である留守政景を通して断りをいれている。
政宗の大内攻めに最上軍を従わせている点や
天正14年7月〜8月に米沢へ帰った政宗が
大宝寺の嘆願により政宗が奥羽の無事の指導主催者として、
上位者位置から庄内最上の和睦の指示を出し停戦にこぎつける。 >>713
佐竹に依存しまくりだろ。
盟友なわけがない。 >>719
じゃあ家臣から剣術やら学問やらを指南して貰ってる大名は転落したって事なの?w >>705
会津の中にも、二階堂や石川のように
家臣というより従属大名と呼んだ方がいい家もあるからな >>722
何がおかしいの?
具体的に言わないと分からないよ >>684>>685>>686
「戦ほど面白いものはなし」って言ってたのは本当。
俺も見たことがある。
その前にそんなセリフがあったんだとは知らなかった。
本当?それはそれでキャラが立って面白い。 表面上は上杉に味方顔しつつ
陰で新発田を支援してた。
猪苗代や新宮って葦名庶流って言えるのか?
佐原(相模三浦)庶流という意味で同格? >>735
織田が揚北衆を調略するように輝宗に要求してるから
葦名が伊達に足並みを揃えて
上杉攻めを陰で支援するのは仕方がない。
武田を滅ぼし北条すらビビらせてた信長が死んだ
本能寺の変後の情勢変化への家臣団それぞれの対応が、
盛隆暗殺、輝宗隠居、
政宗が上杉と同盟し葦名攻め、
伊達からの大内、畠山離反、
葦名らを擁護した輝宗暗殺と
畿内に遅れて奥羽大乱が始まる導火線になった。
揚北衆の周辺地域にいる国人達はかなり複雑な状況になっていて、
盛隆が何で上杉を支援してんだと文句言ってたりしてるし。
その盛隆が暗殺され、
輝宗が失脚し、
政宗が上杉と同盟するのは
政宗のクーデターだろう。
葦名の後見人輝宗と上杉と同盟した政宗の親子喧嘩。 会津陣物語では政宗を親殺しとしている。
会津陣物語の元ネタが1620年頃とされてるから
すでに当時の人達がそう思っていたのは間違いないね。 政宗の母が政宗が父を殺したと書いた書状あっただろ。 そりゃそうだ
輝宗が畠山義継に拉致られて、政宗が輝宗もろとも義継を撃ち殺した事はどの資料でも一致しているから「親殺し」は間違いないだろう
ただ、政宗と輝宗が不仲で政宗が故意に輝宗を殺害したと言うのが有り得ないと言う事 伊達家恒例のいつもの親子ゲンカだろ。
そもそも若過ぎる輝宗の隠居なんてあり得ねぇじゃん。
どこまで戦国時代を現代並みに家族和気あいあい妄想してんだ。
若い輝宗の隠居は有り得ない?
隠居年齢↓
佐竹義昭 33歳
佐竹義重 39歳
伊達輝宗 41歳
葦名盛氏 41歳 34歳で義昭死んでるじゃん。
盛氏は眼病を患いはじめたからだ。 >>746
盛氏は盛興急逝後に何年も公務に復帰しているから体調だけが隠居の要因ではあるまい
義昭の享年は35(数え)、隠居したのは3年前
義重が隠居したのは天正十四年、摺上原の戦いの3年前だから全く関係ない 盛氏の隠居は向羽黒山城を拠点に領土拡大に乗り出す為と言われてるよな。 >>750
向羽黒山城…隠居所にしては物々しい山城みたいですな
奥会津・越後方面を睨んだものかな
でも、結局仙道の戦乱に明け暮れた感じがする 詳しい話は忘れちゃったけど、奥会津・越後に睨みを利かせておいて、仙道方面で作戦を展開する
という事なんじゃね。 >>752
ああ、なるほど
軍勢の集結・移動がスムーズに出来るなら効果があるかも
ただ盛氏自身が事実上の支城に拠る事は効果的でもあり、問題でもあるな
・盛氏の勇名で睨みを利かせられる
・重臣に任せちゃうと勢力を増して統制が難しくなる
・盛氏死後、主家を支える有力家臣が育たない
庶流は多い葦名だけど、盛氏に近しい血縁の有力家臣がいないのがネックか
針生氏あたりは御家騒動を忌避して力を与えられなかったのかな
wikipediaソースだが「蘆名盛氏からも重用されたが、盛氏の代に台頭してきた金上盛備と権勢をめぐって
対立し、蘆名氏の分裂を招いたという。」だそうだ。盛氏が生きてるうちはまだ良かったけど、って処だろう。 お前らデタラメばっかだな。
永禄元年に晴宗と盛隆の婚姻が取り決められていたが
伊達側がまったくそれを実行しようとしなかった。
そして盛氏の諸兄の氏方と結んで富田親子の謀反が永禄4年に起きた。
この政変のあとに富田氏・三橋氏・常世氏などが自害してる。
この時期に向羽黒山城が築城されてるから
そもそも軍事的な目的であり隠居のための城じゃない。
この政変の責任をとって家督を盛隆に譲って隠居しただけの話。
永禄3年はついに那須や田村を支援している佐竹と直接矛を交え始めたし
永禄4年は北条は古河公方義氏を認めず謙信が小田原包囲してるし
世の中がめまぐるしく動き始め葦名家中も外交方針を巡り混乱したから隠居せざるおえなかった。
ここら辺り以後の葦名は大規模外征が内政問題のために出来なくなり
佐竹に圧迫されていくなど急速に弱体化を開始してる。
それどころか永禄7年になると輝宗の葦名侵略が開始され、
永禄9年には輝宗に盛氏が誓詞を送って和睦してる。
佐竹でも同じことで、親公方義氏&北条武田方重臣が義重側で
反北条側が義昭側についていたに過ぎない。
義昭は親北条の水戸の江戸氏や宍戸氏らを攻め、
次男義尚の那須当主の約定の元に大関を後援して
北条・白河・大掾・小田が味方する那須を攻めてる。
しかし永禄6年に北条が松山城を落とし信玄が信濃飯山を攻め
義昭も従軍していた関東戦線から謙信が帰るなど
次第に北条武田側が優勢になってくる中で義昭は隠居してる。
義昭は大掾の家督を弟の義政に継がせて、なおも小田氏と争っているが死去するや
義重の元では反北条の謙信とは距離を置き、
関宿城で北条と和睦調停を進め北進重視に方針転換するようになってしまう。
三成&増田宛て天正17年10月2日付け書状に天正17年正月に隠居したと書いてるが
7/17の摺上原の敗北より前に隠居したとアピってるだけだろうな。
なんせ藩翰譜には天正18年隠居とされてるから。佐竹家譜の天正14年説は完全に捏造。 Subキチは駄文だらだら垂れ流すな
嘘つきクズが
朝鮮人かお前は 輝宗が氏方に書状だしてるし
盛氏を廃すべく伊達を引き入れたい
蘆名家臣団との間で手打ちした妥協案が
盛氏隠居だろね。
黒川城奪取や盛隆暗殺など蘆名家臣団はその滅亡の時まで
バラバラだった。 天正14年7月に起請文を義重、義宣の連署で発行したのを初見に
以後の公式文書は二人の連署により発行されるようになる
そして天正16年になると義宣単独の書簡にシフトする
つまり天正14年に義宣への家督相続が行われ、16年までは義重後見による政をし
16年以降は義宣に権力移譲が完了した事を意味する
これは天神林由緒書とも一致する
天正17年以降の隠居説は明らかな間違い 義重は10歳頃には単独で書状送ってるし
政宗も家督相続前に単独で書状出してる。
単独で書状出してれば
家督譲渡されてるとするのは成立しない。
共同で連署なんてまったく参考にならない。 そういえば「松明あかし」明日なんだな。
須賀川城落城のときの戦死者を弔ったことが起源らしい。
今年は震災が絡んで本来の追悼の火祭りになるか。
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. ヽ.  ̄´ / ,、 ' / / \
ノ:lゝt-,-‐''" / ,.ィ゙ /
,、 - '''´ | ヽヽ /,、ィ / >>759
当主を差し置いて諸勢力と起請文を取り交わしたり、出兵の取り決めを行うなど有り得ない
直臣に褒美与えたりただの手紙を送るのとは訳が違う >>763
お前があり得ないと思おうが仕方がない。
三成らにそう書いてんだからハッキリしてる。 小林清治も政宗が家督相続前から
すでに独立した外交をやっていたと書いてるし、
家督相続前からいろいろやるのは不思議じゃないでしょ。
あと佐竹の書状も年が書いてないから年代特定に難がある。
なんせ佐竹研究は茨城県を始めとしてあまり活発じゃないから。
>>765
じゃあ摺上原以前だから全く関係ないという事で決まりだな >>767
義重は豊臣政権が水面下で北条討伐を決めて
通達を出してる中で「引退していた」と書いてるので
やはり摺上原の件でカッコがつかなかったんだろう。
家中的にも摺上原での失策以来、寝返りが頻発してるから責任を取ったと言える。
摺上原は大きな事件だからね。 >>768
そりゃ単にお前の想像だろ
だいたい何の格好がつかないと言うんだ
義重が当主だろうと義宣が当主だろうと負けた事は同じだろうがw 親子それぞれの重臣が水面下で対立してるから
外交方針や戦況結果で追い落とされたり、
なおも対立し家内を二つに割る決断をするってのはあるだろ。
キッカケや口実があればいつ起きてもおかしくない。
大内宿あたりまで行って南下を断念して
黒川城にもどってきた時に、
小田原参陣不可能と知った時におきた
政宗の弟殺しや母追放などをみてもわかる。
直江が越後路を貸す提案をもらって小田原城行けたからよかったが。 カッコがつくとは、
義重が敗戦経験のないカッコいいまま維持とかじゃ無く
佐竹家中における摺上原による
葦名領喪失の責任追求の動きに対して
義重が隠居して体裁を調えて
家中分裂を回避したことを指してるのわからんの?
天正18年前後になると義宣が独自判断で対伊達北上したり宇都宮や赤坂らに書状貰ったり指示してる。
義重にほとんど動きがない。
明らかに佐竹当主を豊臣政権も義宣と認識してるだろ。
そもそも義重も惣無事違反してるわけで、
しかも会津に義広送りを主導した挙げ句に会津を失った。
豊臣政権に対して義宣に当主を譲っておいた方がよいわけだ。 >>771
いや、天正14年から義重の動きは極端に減っているよ
天正14年以降の義重発給文書は10通程度しかない
しかも殆どが領内に宛てたものだ
それと入れ替わって義宣の発給文書ばかりになっている
佐竹が惣無事令違反だと秀吉が思っていたとは思えないが
摺上原の戦いも秀吉は伊達を非難しているが佐竹は非難していない
むしろ伊達を討伐するように指示を出しているし 三成&増田宛て天正17年10月2日付け書状に天正17年正月に隠居したと書いてるが
7/17の摺上原の敗北より前に隠居したとアピってるだけだろうな。
なんせ藩翰譜には天正18年隠居とされてるから。
それに義重は盛隆死後の天正14年になっても佐竹の外交政策を執り行っており
天正14年11月亀王丸死去後になっても葦名への義広の養子入れに力を入れていて
石河彦三郎(昭光の後継者か?)に書状を出したり白河義親などと交渉し
天正15年3月に義広は黒川城へ入るのに成功してる。
これは義重の力によるところが大きい。 家中対立が当主交代せざるを得ない理由だろうね。
そこで嫡男を殺す信玄や家康のような独裁を発揮するか、
大友や南部や上杉や今川みたいな乱が起きるか。
なんの理由もなく家督譲渡はしないでしょ。
まあ信長みたいに武田征伐の功を鑑みて譲渡したケースあるけど、
信長の場合は自分をさらに
その上の存在に模していたようだし。 同じ事何度も言わなくていいよ
書状に書いてある事が正しいと主張する癖に、都合の悪い所だけ根拠もなく否定したり言ってる事が滅茶苦茶過ぎる 天正17年10月2日に家督を譲ると決意して三成に書状出したんだろ。 まぁ実際に摺上原の戦いの時期も
義重が佐竹軍を率いて田村攻めしてるしなぁ。 義久、義斯、義興、義昌辺りだって佐竹軍率いて遠征してたし根拠にはならないかと ケンミンショーで佐竹秋田県知事が登場。
蘆名子孫はどこに今は住んでるのかな? >>780
仙台藩の葦名家(針生)の領地は栗原郡石越らしいので宮城県北部かなぁ
義広(盛重・義勝)の子孫は千鶴丸で途絶えてるよね?
盛氏より前に遡らないと子孫はいないと思っていいかなぁ >>779
天正17年末から18年になると
義重は軍を率いなくなるのは事実。
義久などは率いてる。 >>782
そりゃそうだよ
17年末以後に大きな戦いは一つもなかったもの えっ?伊達軍から赤坂城などを守るために必死だったし、
忍城攻めなんて大規模だったでしょう? 日光山のヤツらが宇都宮方面を攻撃したりで
宇都宮から援軍要請が来て
義宣が軍を率いてるしね。 >>785
小田原出兵の際は、既に豊臣へ正式に義宣が家督を継いだ事を知らせてあるのだから義宣が出陣するのは当たり前かと
小田原出兵以前は小競り合い程度の戦しかない 小競り合いじゃないだろ。
伊達防衛に必死だったぞ。
那須まで伊達になるし。
あれで楽勝だったから小規模だよとは
いくらなんでも言えない。 伊達も黒川を落としてからは会津地方の平定と統治に追われていたから積極的な南下はなかったよ
滑津を放棄してからは赤館で対峙して小競り合いをしていた
秀吉の指示で義宣も出陣したが、お互い積極的な行動には至らなかった 11月中旬以降に伊達は白河と那須の境目の関和久に砦を築きはじめるし
淺川城は伊達の圧迫に耐え切れず降伏。
12月には石川が赤坂城を攻め、滑津城には田村が攻め寄せてる。
正月には軍を率いた義宣が南郷にいるのがわかるし
その後も戦いが続いているようで
小瀬越中や大窪久光に義宣が感状を出して防戦督促してる。
滑津で白河斡旋の講和交渉中の4月に
佐竹から伊達を攻めたりしてるし
完全に双方戦闘状況が続いている。
そうこうしてるうちに大関晴増が義宣に
「はやく小田原に行かないとまずいぞ」と言われて
始めて伊達に関わってるわけにいかねぇと
急いで宇都宮へ行ったじゃん。 その通りだよ
伊達も佐竹も本隊はお互い動きが取り難くて睨み合いに終始していたから大きな合戦には至らなかった
戦いは専ら石川氏や船尾氏・赤阪氏など高野郡周辺の国人達の間で行われていた
その後は状況が目まぐるしく変化してお互い簡単には動けなくなってしまったと言う事情もあるのだけど 刷り上げ原の後でまた大きな軍事行動はとりにくかったろうね お互い損害が大きかったしね
それに伊達は葦名を滅ぼしたといっても会津には残存勢力がまだ残っていたし相馬も攻めている
佐竹は赤館以北を放棄して戦線縮小し防衛線の構築に移行していたから
お互いに探り合いといったところか
まあ、佐竹方は赤阪が頑張ってたな
船尾はだいぶ怪しげな感じだったがw いやいや伊達の南下阻止に必死で
北条と伊達の連携を受けてたから
義宣の軍事行動は大規模だっただろ。
なぜ大したこと無いとイメージさせようとしてんの?
会津が平定できてないって言うが
それも反伊達は最西部山岳地帯の水久保城くらいなもんで、
しかも秀吉が伊達は後回しにして北条攻める令が上杉にきてから
ほぼ佐竹独力での伊達南下防衛戦争じゃん。
岩城常隆や那須や白河まで伊達側になって八方塞りだったのが佐竹。
それを戦線縮小とか大きな軍事行動をしてないとか詭弁すぎだろ。 八方塞がりだったからこそ大規模な軍事行動起こす余裕がなかったんだろw
言ってること支離滅裂過ぎ どう考えても佐竹の全力防衛状態だから
義宣だけでなく東義久も投入されてんじゃん。
これが大規模でなければ何なのw 東義久はもともと南奥方面の総責任者だったようだが
佐々木倫朗氏の論文によれば 全力で義宣が支援しなければ
赤坂と滑津も離反確定
間違いなしの危機的状況なのに
大したことは無かったとか捏造にもほどがある。
たしかに全力じゃなきゃ佐竹本領まで
伊達に侵入されかねない
危機的状況だったのは確かだろう。
だから義宣も雪解けを待たずに
北条も気にせず正月も早々に
北方戦線に向ったんだし。 >>799
どこをどう読んだら大したことなかったなんて考えが浮かぶんだ
危機的状況だったから大規模な軍事行動を起こす余裕なんてなかったとみんな言ってるんだろ まあ、佐竹も摺上原で政宗にまんまと出し抜かれた時点でいい加減詰みかけてたからな
防衛するのがやっとで反撃するどころの話しではなかっただろう 最後のライン死守なんだから
大規模防衛してたに決まってんだろ・・・
大規模防衛=大規模軍事行動 摺上原以降に佐竹が大軍を率いて行った合戦があるかないかと言う事を議論していたのだから
結局それは「ない」と言う事を肯定する事になるが >>805
いや、こっちがそれを聞いてるんだろw
結局のところ大規模な軍事行動起こしたと言うソースが出てない >>807
俺の質問に質問で返しておきながら何言ってんだよお前w 芦名再興が許されず、そのまま羽柴飛騨守氏郷に与えられたのは何故だ?
まあ、惣無事令も適当だから
結局は豊臣政権の都合で安堵されたり潰されたりした 秀吉にしちゃ「滅ぼされたような弱い奴は自業自得」ってこと
四国だって九州だって、
島津やチョウソカベに城や領土全部奪われちゃった家は再興されずに
秀吉の子飼に分け与えられた。
滅ぼされて再興を認められた家は、下野の佐野家ひとつだけだね
佐野は早くから秀吉に従って、小田原征伐で功立てたから >>819
領国統治能力や戦争を遂行する力量が乏しいやつ(=豊臣政権の
駒たりえないやつ)が潰された印象を受けるな 基本的に秀吉が仕置きした時点での領地が有効なんだよ
失った領地を取り返してまで安堵はしてくれない
その辺りは自己責任と言う事だろう
だから佐竹も滑津城など伊達に奪われていた一部の領地は安堵されなかった >>821
そんなことは関係ない
秀吉に近い大名かどうか 秀吉からしたら佐竹一統には常陸常陸虐殺権与えたんだから後は自分で分けろってことやない >>824
別に佐竹の肩を持ってたわけじゃない。
むしろ秀吉は伊達の肩を持っていて、
伊達の歪曲弁明を信じ、
佐竹が惣無事違反してると誤解してた。
それで蘆名と伊達の戦を止めないと小田原行った時、
どうなるかわかってんだろうな!って義重が言われてる。
それで佐竹が消極的、限定的な活動しかしなかったから、
蘆名は佐竹に、お前らが支援してくれないなら義広を佐竹に突っ返して伊達側になると恫喝される始末。
そんで蘆名が分裂自壊し滅亡。
秀吉が上杉に惣無事違反で伊達追討と一時は反応し命令したが、
これは三成主導であり、
すぐ秀吉はザコ伊達は後回しにして北条潰すと方針転換してる。
それに伴い、前田や徳川、浅野、木村らが小田原後の奥羽に影響力を及ぼそうと伊達擁護に回り、
三成、大谷、上杉、佐竹路線に対抗していく。
>>823
伊達より葦名の方が豊臣に近かったけど
豊臣と近かった葦名は潰されて、豊臣を無視してた伊達は本領安堵されている
大友も積極的に豊臣に接近していたが一部しか安堵されなかったし
下野、常陸でも佐竹宇都宮と共に小田原参陣したのに潰された勢力がいくつもある 実際、伊達が葦名を潰した時点で
秀吉は北条攻めを計画したとみて間違いなくて
北条側は秀吉の豹変ぶりに驚いてる。
しかも再三にわたり北条は名胡桃城奪取について
まったく知りませんと主張していて
讒言を信じないでくださいと悲惨モード。
一次史料にも名胡桃城に関してまったく残ってなく
秀吉のデッチ上げが濃厚。
伊達のせいで北条が潰されると言う
とんだトバッチリを北条が受けている。 >>825 >>827
誰が見ても明らかな事実誤認に基づく妄想乙 >>828
>>秀吉の書状には名胡桃城の事は明記
だからそれが秀吉によるデッチ上げで
北条は名胡桃城を実際は奪ってないってことだろ。
事実、名胡桃城事件前から関東遠征の動員準備の命令を
秀吉はやってる。
>>829
伊達厨ってモノの味方がおかしいからな。
秀吉が政宗の邪魔ばかりして、佐竹を贔屓してたとか
頭のおかしいことを主張するし。 >>830
いや、準備していたけど一度は和解したんだよ
和解後に起きたのが名胡桃城の事件
だから秀吉は怒って北条を糾弾する書状を送った
8月氏規の上洛により和平ムード
10/10に秀吉が兵糧20万石の駿河への蓄積指令を出す。
10/14氏政が上洛するので年末までに金の準備を申し付けるが
のちに来春へ延期を申し伝える。
11/3名胡桃城を北条が奪取したとするデッチあげ。
同日の家忠日記「相模より真田の城を急襲し手出しに参り候」
11/5氏直が事実確認のために山上久忠を沼田の猪俣へ派遣。
11/24宣戦布告書状が家康の手にくる。
秀吉の態度急変に北条方は気づかず驚愕する。
さて秀吉が言う境目の者ども
北条が言う辺土の郎従
とはいったい何者なのか。
秀吉や真田の罠であろうと思われる。 天正14年
11月15日 家康から北條へ関東惣無事令の通達(持田文書)
天正16年
5月21日 家康、北條の上洛を再要求。上洛の無い場合は同盟の解消する旨を通達(鰐淵寺文書)
8月22日 氏規上洛
9月2日 秀吉、北條を赦免(潮田文書、佐竹文書、伊達文書)
天正17年
秀吉、北條が望んでいた沼田問題の裁定を行う
6月5日 氏直、裁定を受け入れて上洛を約束する(岡本文書)
7月14日 北條、沼田城を受け取る(内田文書)
10月1日 沼田城に入った猪俣邦憲が和田伊賀に知行を与える(真田文書)
10月26日 氏政、猪俣邦憲に仕置きに油断無き様に指示する(猪俣文書)
11月3日 北條、真田の城をとる(家忠日記)
11月5日 氏直、猪俣へ山上久忠を使わし大鉄炮を送り境目の警戒を命じる(猪俣文書)
11月11日 佐野房綱、木戸元斎に「北條は沼田を受け取って以来連絡がない、上洛がなければ来年に陣触れがある」旨を通達(上杉文書)
11月21日 秀吉、北條が沼田裁定を破って名胡桃城を攻めた事に激怒し、国境を固めて臨戦態勢をとる事を真田に命じる(真田文書)
11月24日 秀吉、北條が沼田を受け取り上洛を約束しながら、違約して名胡桃城を攻めた事を非難し北條を征伐する旨を通達する(北條文書、毛利文書、佐竹文書、伊達文書)
11月29日 氏直、名胡桃出兵の件は関知していなかったと弁明する(武将文書)
12月9日 氏直、上洛の更なる延期と秀吉への執り成しを家康に依頼する(古証文)
12月13日 秀吉、北條討伐の陣触れを発する(家忠日記) 10/10の時点で秀吉が北条を討つ気がまんまんだな。 「一次史料に無い=デッチ上げ」
という論理の飛躍が理解できない
全ての史実を裏付けする一次史料が残ってないから歴史研究が難しいのに 小田原や秀吉がどう交渉してようと真田が挑発辞めなかっただろうからな 10月にはすでに
軍事作戦発動準備してたのか。
そりゃあ、秀吉にいくら北条が弁解しようとしても、
使者にすら会おうとしないはずだわ。 >>835
そもそも一次史料にあるのに、
彼の脳内では存在しないらしいw 北条の方は去年から戦仕度してたよ
本気で和睦をするつもりがなかったのは北条の方も同じ
それに秀吉は家康の上洛前に戦仕度をしているが、家康から上洛の打診があったので急遽出陣を取り止めた経緯がある
戦仕度=和睦する気がない
とは言えない >>839
家康の場合のタイムスケジュールを書いて述べて下さい。
戦支度発動日と家康上洛通知の日付。 新聞の宮城版に盛興が輝宗次男養子欲しいって支社と文書送っていたそうな >>843
盛興の娘の小杉山御台と結婚して婿養子になる感じか
彦姫の甥でもあるから伊達色が強くなっただろうな
この時点で養子貰っていれば葦名も潰れずに済んだろうな 小次郎も斬られずに済んだかも
それとも本格的な兄弟対決に発展するか
いずれにしても仙道の諸勢力に大きく影響を与えたはず 福島県は安全です! ぶっちゃけ原発も放射能も問題ありません。
連日マスゴミ左翼が煽ってるのが一番の問題!
BAZOOKA 切腹ピストルズ 田母神俊雄
http://www.youtube.com/watch?v=WuZ2-2gXIts
MCの小藪千豊って意外とまともで安心したw
小梁川さんと被るけど、さすがに「盛宗」じゃないと一般家臣扱いレベルだな
伊達当主以外で「宗」が下についてるのは一門級の一部
留守:郡宗、景宗、顕宗
亘理:綱宗、元宗、重宗、定宗
懸田:俊宗、義宗
石川親宗(昭光)
杉目直宗
このぐらい?
留守は一応は傘下の独立大名だから、葦名ならなおさら… 最上義盛
佐竹義盛
田村盛顕
相馬盛胤←あまり違和感ない
那須盛胤
宇都宮盛綱
芳賀高盛
(山内)上杉憲盛←あまり違和感ない
(扇谷)上杉朝盛
北条氏盛←あまり違和感ない 政宗が10年早く生れていたら天下統一は夢じゃない。
当時の当主は相馬親子に大敗を喫し、御館の乱でも敗戦するなど戦が雑魚で
政略面でも南奥州連合の形成の波に取り残された田村との同盟を余技なくされるなど
凡庸な才覚しかない輝宗だったけど
政宗なら70年台一杯使って奥州制覇
その後南下して佐竹、北条などを潰し一気に天下に一番近い存在へ。
生れた時期が遅すぎたのが悔やまれる
>>861
僅か11年で
盛興→盛隆→亀王丸→義広
と4人も当主が変わってるしな
普通の代替わりでさえ混乱が生じる事が多いのに、こんな頻繁に当主が変わっては家中が治まらないのもやむを得い 葦名盛隆ってけっこう才気あったみたいだけど・・・・ 盛隆は景勝と表面的には友好なフリして
実際は新発田を後援した挙句に
葦名精鋭が本国に帰れずボコボコにされてる
これにより新発田の補給路が断たれ滅亡。
軍記物に出てくる佐瀬源兵衛って系図上では誰に比定されるの? 伊達成実の生涯唯一の武功が摺上原の戦いでの
金上盛備と佐瀬平八の討ち取りだと大々的に自慢してるが
そもそも金上盛備を成実は討ち取ってないから捏造なのは明白。
それで佐瀬平八とは何者か調べたんだが下記の人物なんだわ。
葦名が敗走中にこのレベルのを討ち取って自慢になるなんて伊達ってショボイね。
葦名修理太夫盛氏旗下之大名
佐原氏葦名五黨ト称ス者
葦名四天老中四人並ニ小頭附ケタリ老中同心八十人
若年寄四人並小頭四人附同心
用人五人並取次十人
側用人五人並取次五人
奉行四人並用人役祐筆兼諸役兼勤者八人
郡代十七人並小頭十七人附同心百七十人但同心十人宛
下郡代十七人但シ下郡共勘定頭共云フ
侍大将十二人 同組士外様三百六十人
旗頭八人並與力野士八十人小頭八人其組足軽八十人
弓大将四人並與力士四十人小頭四人足軽四十人
鑓大将四人並與力士四人小頭四人足軽四十人
使番十二人
奏者番十二人
大目付四人
寺社奉行四人並小頭4人附同心四十人但一組十人宛
寺社小役十二人
町奉行四人並小頭四人附同心四十人m一組十人宛
足軽大将三十人並小頭六十人m一組二人宛足軽九百人m一組三十人宛
大番組八人並組士七十二人
佐瀬平八組←やっと登場wwwwwwww
下妻市太輔 神原源左エ門 賀ガ見村右エ門 杉田平右エ門 笠尾藤右エ門
神尾利右エ門 関脇十郎兵衛 金山吉右エ門 岩永太左エ門
>>869
葦名の名簿だね。
うちもすみっこに載ってる(´・ω・`)
佐瀬、満田、渋川、儀堂、三橋なんかは今でも会津にいる。
猪苗代、針生なんかは仙台に。 そもそも晴宗が父と大戦争してた隙に会津をなんとか統一できただけの盛氏を過大評価し過ぎなんだよ。
統一って言ったって葦名政権へ地方割拠豪族たちを何とか参加させたのに成功しただけの話で、
葦名執政や葦名四天に代表される巨大国人家臣団の合議連合政権に過ぎず、
後年になっても葦名と上杉や伊達との両属家臣がいて国境すら曖昧。
葦名宗家の力が無力なのか葦名盛興なんて家臣団の勢力争いが絡んで本城を家臣に奪われたり挙げ句に暗殺されてるし、
その頃の会津は貧困からか頻繁に徳政令や禁酒令(食用米を酒にするのは禁止)を出さざる負えないほどに逼迫していた。
こんなボロボロなのに葦名は大国だから娘婿の白河を全力応援してたに違いないって思い込みで捏造してるに過ぎない。
実際、盛氏は伊達探題家から嫁が貰いたくて仕方がなかったが
輝宗からなかなか許可されなかった弱小国葦名ってのが現実。
会津盆地の見た目の大きさで大国と誤解してるのか知らんが洪水で水浸しになる盆地なんてほとんど価値ないから。
永禄元年に葦名は晴宗との間で伊達家と盛隆の婚姻が取り決められていたが
伊達側がまったくそれを実行しようとしなかった。
そして盛氏の諸兄の氏方と結んで富田親子の謀反が永禄4年に起きた。
この政変のあとに富田氏・三橋氏・常世氏などが自害してる。
この時期に向羽黒山城が築城されてるから
そもそも軍事的な目的であり隠居のための城じゃない。
この政変の責任をとって家督を盛隆に譲って隠居しただけの話。
永禄3年はついに那須や田村を支援している佐竹と直接矛を交え始めたし
永禄4年は北条は古河公方義氏を認めず謙信が小田原包囲してるし
世の中がめまぐるしく動き始め葦名家中も外交方針を巡り混乱したから隠居せざるおえなかった。
ここら辺り以後の葦名は大規模外征が内政問題のために出来なくなり
佐竹に圧迫されていくなど急速に弱体化を開始してる。
それどころか永禄7年になると輝宗の葦名侵略が開始され、
永禄9年には輝宗に盛氏が誓詞を送って和睦してる。
佐竹でも同じことで、親公方義氏&北条武田方重臣が義重側で
反北条側が義昭側についていたに過ぎない。
義昭は親北条の水戸の江戸氏や宍戸氏らを攻め、
次男義尚の那須当主の約定の元に大関を後援して
北条・白河・大掾・小田が味方する那須を攻めてる。
しかし永禄6年に北条が松山城を落とし信玄が信濃飯山を攻め
義昭も従軍していた関東戦線から謙信が帰るなど
次第に北条武田側が優勢になってくる中で義昭は隠居してる。
義昭は大掾の家督を弟の義政に継がせて、なおも小田氏と争っているが死去するや
義重の元では反北条の謙信とは距離を置き、
関宿城で北条と和睦調停を進め北進重視に方針転換するようになってしまう。
輝宗が氏方に書状だしてるし
盛氏を廃すべく伊達を引き入れたい
蘆名家臣団との間で手打ちした妥協案が
盛氏隠居だろね。
黒川城奪取や盛隆暗殺など蘆名家臣団はその滅亡の時まで
バラバラだった。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185038268/714 >>873
古い大名は合議制だからね
ワンマンでやりたくてもやれない ていうか佐竹はあの緩〜い統治システムでよく生き残ったな
他の大大名は多かれ少なかれ大名の権力集中化を果たしているんだがw
あるいみ義重個人の才能なんだろうな あの古臭い体制は当主の能力への依存度が高いからな
馬鹿殿なら一気に傾くし、名君なら一気に勢力拡大出来る
義重はそれなりに有能だったから、佐竹もそれなりに成長、維持出来た 盛興は一人っ子だし、盛氏自身も一人っ子だからな(庶兄はいたけど)
ほんと子供の数は重要だね
伊達なんかは代々子沢山だから、それがかなり有利に働いた
佐竹も義昭と義重は嫁と養子を周辺大名に次々に送り込んで飛躍したし 氏方は蘆名氏の第15代当主・盛舜の庶子
盛氏が長沼実国を攻め黒川を留守にした際、義実父子らに奉じられ謀叛を企てるが、数
日で鎮圧され、東山にて家臣と共に自害し果てた。 12年で5人も当主が代わってるからな
その都度、反乱が起きたり家中がガタガタで崩壊寸前だった
摺上原でも結局、まともに戦ったのは富田将監の五百騎と義広の旗本ぐらいで
他の将達は勝手に退却を始めてしまった
まあ、どの国でも滅びる時は内から滅びるものだけど
武田の最後と同じだ 盛氏も一人っ子なのに(庶兄はいるが)、子供たくさん作って安定させようとはしなかったんだね
逆に兄に反乱起こされた事で御家争いを恐れていたのかもしれないが 御家争いを恐れるあまり御家断絶の危機を迎えたのなら、もうね…
戦乱の時代に嫡男一人はいくらなんでもリスキー過ぎ
せめてあと一人は男子をもうけるべきだった マジレスすると芦名滅亡の原因は転封後の独立運動だと思うんだ
客分の分際で母屋まで取るような真似をしたから徹底的に潰された
おとなしくしていれば岩城のように家名だけは存続できた可能性が高い
ひょっとすると今の知事は芦名知事になっていたかもしれない 断絶したんじゃなかったっけ?
もっとも養子入れて家名存続させる事も出来た訳だから
確かに主家から良く思われてなかったんだろうな 葦名といえば、滅亡寸前に猪苗代湖に軍資金放棄した話あるな ありがちな埋蔵金伝説だが、滅亡時の状況からすると有り得なくもないな 會津鑑によると何と160万石以上らしいw
まあ、それはホラ吹きすぎだけど
おおよそ葦名家の領地と被る會津藩が23万石+預り地の南會津5万石で28万石ほどだったので
葦名家もそれぐらいと考えて間違いないでしょう
それに支配下にあった二階堂家の5万石余を加えて33万石前後と言ったところか 30万石もあったら 優秀な大名じゃん! 大名家として残って欲しかった一族ですな 蒲生が入部し水害灌漑対策を兼ねた開発が行われる以前の実高は20万石程度だった。 何か問題あるか?摺上原の蘆名の動員考えたら妥当だが
文句あるならテメエで検証しろや、逃げんなよ糞野郎 その動員とやらは正確な数字が残ってるのでしょうか。軍記類ソースだったら論外ですけど >>876
> ていうか佐竹はあの緩〜い統治システムでよく生き残ったな
地形的に防戦しやすかったというのもあるだろうな。 吉川弘文館の東北の中世史ではほぼスルーされてて悲しかった
書く人誰もいなかったのかな ここまで書き込みが少ないのではどうしようもないな。 惜しくも直木賞受賞はならなかったけど会津執権の栄誉読めよお前ら 全体の半分くらい占めるのが架空人物で、しかも名前が会津らしさに欠けてて違和感あった。
隆実はともかく盛備は表題なんだしもっと掘り下げてほしかったな。 戦国期奥羽の地域と大名・郡主
小林清治著作集2(全3巻・第2回配本)
2018年6月刊
編集委員 阿部浩一*・遠藤ゆり子*・菅野正道・佐々木徹・佐々木倫朗*・高橋 充*・ 七海雅人・三宅正浩(* 本巻担当)
編集顧問 伊藤喜良・入間田宣夫・大石直正
第一部 総 論
第一章 東北の戦国時代
第二章 南と北の戦国争乱
第三章 戦国期南奥の武士と芸能
第二部 北 奥
第一章 中世の安東(安藤)秋田氏
第二章 戦国期における大崎氏と伊達氏
第三章 葛西晴信黒印状について
第四章 葛西大崎一揆の背景
第五章 九戸合戦 −中世糠部郡の終末−
第三部 浜通り
第一章 相馬市域の歴史的環境
第二章 佐竹勢力の浸透と岩城氏の衰微
第四部 中通り
第一章 戦国期の田村氏と三春
第二章 陸奥国田村荘における大名権力と荘園制
第三章 岩代地方史の特質
第四章 中世の玉川村地方と大寺氏
第五章 戦国期の石川氏
第六章 結城白川氏と八槻別当 −戦国大名と修験勢力−
第五部 会 津
第一章 中世の会津
第二章 蘆名盛氏と向羽黒山(岩崎)城
第三章 会津時代の伊達氏
第四章 東北織豊大名の領国構造 −会津蒲生領について−
第五章 檜枝岐と舘岩 −南会津の村と村名−
【既刊】@戦国大名伊達氏の領国支配 2017年6月刊・486頁・8800円(税別)
【続刊】B中世・近世の奥羽社会(仮題) 2019年春刊行予定
http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-86602-037-2.htm 丸池ポスト御免御容赦
431名無し募集中。。。2018/05/18(金) 22:43:54.02ID:CXdEkNBg
<中略>
それよりも気になるのは「黒川ミのキ衆」「くろ川」のほうなんだが
盛氏って隠居後は向羽黒に移ったんじゃないかしらん
それとも盛隆政権では黒川復帰した? 葦名盛隆の母は伊達晴宗の娘。母もさぞ美人だったんだろうか 葦名好きの方の好きな戦いてなんになるの?
摺上原以外になんかある? 金上、猪苗代、平田、松本、富田、山内、長沼など偏諱を受けている
佐瀬だけ受けてないのはどういう理由だろうか 本拠地の会津が金城湯池で伊達氏はそれを狙ったみたいな表現されるときがあるけど実際に豊かな土地だったの? >>935
平田、富田、松本、佐瀬の4家が蘆名四天と言われている
ただ蘆名末期は金上、針生、平田、富田で書状が出てたりするし
常に4家が協力して書状を出していたとかではない REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。