もし、本能寺の変がおきなかったら
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明智光秀が裏切らず、そのまま信長自ら中国地方に責めに入る
ことができれば、やはり信長の天下統一は成し遂げられたのだろうか? 「本能寺」直前の書状発見=長宗我部、光秀家臣に−岡山
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201406/2014062300865
織田信長が明智光秀に討たれた1582年の「本能寺の変」の直前、
四国の戦国武将・長宗我部元親が光秀の家臣で親戚関係にあった斎藤利三とやりとりした書状が見つかった。
林原美術館(岡山市)と岡山県立博物館(同市)が23日、発表した。
書状で元親は四国侵攻を計画していた信長の命令に従う意向を示しており、
同博物館の内池英樹主幹は「本能寺の変直前のやりとりが史料で初めて明らかになった。
本能寺の変に影響を与えた可能性がある」と話している。
同美術館は、光秀にゆかりのある石谷家に関する古文書47点を所蔵。
同博物館と共同調査したところ、元親と利三がやりとりした書状があった。
本能寺の変の約10日前に元親が利三に宛てた書状では、元親が信長との戦闘を回避するため、信長の命令に従う意思を示していた。
信長はこの時期、元親の四国領有を容認する当初の方針を翻し、四国に侵攻する計画を進めていた。
本能寺の変をめぐっては、信長の仕打ちに光秀が恨みを抱いていたとする「怨恨(えんこん)説」のほか、
四国出兵をめぐる意見対立が原因だったとする「四国説」などがある。
内池主幹は「光秀は四国出兵を止めるよう家臣から求められていたと推測され、
四国説が有力になったのではないか」と話している。(2014/06/23-21:57)
「四国説」支える書状発見
http://www3.nhk.or.jp/okayama/lnews/4025282771.html
織田信長が明智光秀に討たれた1582年の「本能寺の変」の直前、四国の統治をめぐって四国の戦国大名、
長宗我部元親が光秀の重臣、斎藤利三にあてた書状などが岡山市の林原美術館が所蔵する古文書群に含まれていたことがわかりました。
本能寺の変がおきた理由を探る上で、貴重な発見として研究者の注目を集めています。
これは23日、林原美術館と岡山県立博物館が記者会見して明らかにしました。
林原美術館では所蔵する明智光秀の重臣、斎藤利三の親戚関係にあった石谷家に関する古文書群を岡山県立博物館とともに調査していましたが、
その中に四国の戦国大名、長宗我部元親と利三がやりとりをしていた書状などが見つかりました。
このうち、本能寺の変の5か月前に斎藤利三が長宗我部家の自分の親戚にあてた書状では
四国の一部の領有しか認めないとする信長の提示を拒否した長宗我部元親に対して考え直してもらうよう働きかけを依頼しています。
また、元親から利三にあてた本能寺の変の10日ほど前の書状では、すでに四国への出兵を決めていた信長に対して恭順の意を示していて、
元親がこのいくさを避けようとしたことがうかがえます。
本能寺の変をめぐっては光秀が元親と親戚関係にある利三を通して、元親に四国全体を領有させようと交渉したものの、
信長が方針を変更して最終的には元親を討とうとしたため、反旗を翻したとする「四国説」があります。
今回、本能寺の変の直前の四国の政策をめぐる光秀の重臣と長宗我部家とのやりとりが書状という1次史料の形でわかったことで、
四国説を支える有力な根拠となるものとみられます。
岡山県立博物館の内池英樹主幹は「四国説の弱点は後世に書かれた二次史料に基づいていたことだったが、
それを裏付ける有力な一次史料が初めて見つかったという意味で非常に貴重だ」と話しています。
今回見つかった史料の一部は林原美術館で7月19日から公開される予定です。
06月23日 18時45分 本能寺の変:直前の新資料…「四国攻め反対」が動機?
毎日新聞 2014年06月23日 23時33分(最終更新 06月24日 00時47分)
http://mainichi.jp/select/news/20140624k0000m040104000c.html
林原美術館(岡山市)と岡山県立博物館(同市)は23日、明智光秀の謀反で織田信長が自害した「本能寺の変」の動機について、
土佐(高知)の武将だった長宗我部元親が関わっていた可能性を示す手紙が見つかったと発表した。
四国支配を巡り、信長と元親が対立、譲歩するなどした内容を伝える書状。光秀は重臣が長宗我部家と婚姻関係にあったこともあり、
専門家からは「信長の四国討伐から元親を守る狙いがあったのでは」という見方が出ている。【前本麻有、小林一彦】
手紙は、林原美術館が所蔵する、足利十三代将軍・足利義輝の側近「石谷(いしがい)家」の文書全3巻47点の中から見つかった。
信長は1581年、元親に「土佐と阿波半国しか領有を認めない」と通達したが、翌年1月11日付で、明智の重臣・斎藤利三が実兄の義父で、
元親の義父にもあたる石谷光政(空然)に宛てた手紙では、反発する元親をいさめるために使者を派遣することや、
空然にも元親が御朱印(信長の指示)に従うように依頼する内容が記されていた。
また、本能寺の変の直前に、元親が利三に宛てた5月21日付の手紙は「阿波国の一部から撤退した。
(信長が甲州征伐から)帰陣したら指示に従いたい」と伝え、元親が信長に対して態度を軟化させたことを示していた。
元親が信長に「従う」と示した史料が見つかったのは初めてという。
ただ、5月7日には、信長は三男の神戸信孝を総大将に任命し、四国討伐に備えていたことが既に分かっている。
本能寺の変は、信長と元親の仲介役だった光秀が、四国討伐の方針に納得していなかったのが原因の一つという「四国説」がある。
内池英樹・県立博物館学芸課主幹は「光秀は態度を軟化させた元親をはじめ、重臣の利三らと婚姻関係があった長宗我部家を守るために、
信長の四国討伐を止めようとしたのでは」と話している。見つかった史料の一部は林原美術館で7月19日から公開される。
◇本能寺の変◇
1582(天正10)年6月2日、織田信長が備中高松城包囲中の羽柴秀吉を救援しようと京都の本能寺に宿泊した時、
明智光秀が信長を襲って自刃させた事変。光秀の動機は「怨恨(えんこん)説」や「野望説」など複数あり、明らかになっていない。
http://mainichi.jp/graph/2014/06/24/20140624k0000m040104000c/001.html
天正10(1582)年5月21日に長宗我部元親が斎藤利三に宛てた書状。
阿波国の「一宮(城)を始め、夷山城、畑山城、牛岐の内仁宇、南方を残らず明け退いた」
と織田信長の命に従ったことを伝えている=岡山市の林原美術館で、前本麻有撮影
<視点> 謎解きに挑む大発見 新たな議論に期待
2014.6.23 21:50
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140623/wlf14062321500028-n1.htm
光秀はなぜ、信長を襲ったのか。「本能寺の変」の動機は、邪馬台国の所在地論争と並んで日本史最大の謎とされている。
さまざまな説が出されてきたが、今回の石谷家文書は、謎解きに挑むための大発見といえる。
変を考える主な史料は、信長の伝記「信長公記(しんちょうこうき)」のほか、関係者の間で交わされた書簡「兼見卿記(かねみきょうき)」
「晴豊記(はれとよき)」など当時の公家の日記、さらには「川角(かわすみすみ)太閤記」などの編(へん)纂(さん)物がある。
編纂物は面白いのだが、光秀が安土城での徳川家康の接待をしくじった話や領国を取り上げられた話など、
後世に作り上げられたフィクションが多い。
その点、石谷家文書は変の直近の史料であること、しかも出したのは長宗我部元親、受け取ったのも斎藤利三と、
四国攻め交渉をめぐる当事者であり、史料価値は高い。
書状からは、信長の四国政策の突然の方針転換に対する長宗我部側の率直な戸惑いと反発、そしてあきらめの心情も生々しく伝わってくる。
もちろん、これで変の謎解きがすべて決着かといえば、それほど簡単ではない。しかし質の高い史料を突き合わせて、
当時の政治状況を考えていけば、歴史の空白は少しずつ埋まる。今回の発見をもとに、新たな議論が始まるのを期待したい。 (渡部裕明) 「やっぱり出たか」 一級史料に驚きの調査員や作家ら
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140623/wlf14062321440027-n1.htm
「こんな書状があったとは…」。本能寺の変に関する一級史料を発見した林原美術館の浅井尚民(なおたみ)学芸課長は、驚きの声を上げた。
四国の雄・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が明智光秀の腹心・斎藤利三(としみつ)宛てに記した書状の日付は5月21日。
「変」の10日ほど前という生々しさだ。四国攻めを何とか阻止してほしいという元親の必死の願いが、光秀を謀反に突き動かしたのだろうか。
林原美術館は昭和39年、バイオ関連企業「林原」の3代目社長、林原一郎氏(故人)が設立した。
国宝「太刀・銘吉房」などを所蔵しているが、石谷家文書がいつコレクションに入ったかは不明だという。
解読を進めるうち、長宗我部元親や斎藤利三ら、本能寺の変に縁の深い名前が現れた。そして文意が明らかになり、調査員の間に緊張が走った。
「そうですか、やっぱり出ましたか…」
四国攻め回避説、特に斎藤利三の役割を重くみている作家、桐野作人(さくじん)さんは興奮を隠せない。
21日の書状で桐野さんが注目するのは、元親が阿波(徳島県)に築いた城郭に関して述べた部分。(徳島市など)中心部分の城は撤去するが、
南部の海部城と西部の大西城は所領の土佐を守るために残してほしいと切々と訴えている。
「元親が譲歩したといっても、信長は阿波を取り上げる方針を決めており、とても報告できない内容だった。
こうなったら四国攻めに加担するか、あるいは思い切って謀反に立ち上がるか。決断を迫られたと思う」(桐野さん)
変の契機に、織田政権内の四国政策をめぐる明智光秀と羽柴秀吉の抗争を見るのは藤田達(たつ)生(お)・三重大教授(戦国史)だ。
「四国攻めは信長の三3男、織田信孝を総大将に6月2日、大坂住吉から出陣する予定でした。長年、長宗我部との取り次ぎにあたってきた光秀には、
業績を全面否定される屈辱だったでしょう。ライバルの秀吉にも追い落とされるとの思いで、クーデターに及んだのではないでしょうか」
元親の子孫で「長宗我部」(バジリコ社)の著者、長宗我部友親さん(72)も次のように喜んだ。
「元親の生涯を記した『元親記』という江戸時代の伝記があるが、これほど必死な外交交渉が繰り広げられていたとは…。
先祖を誇りに思うし、書状を早くこの目で見てみたい」 謎に迫る新史料 光秀、四国攻め回避で決起か 林原美術館が明らかに
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140623/wlf14062321240026-n1.htm
明智光秀が主君の織田信長を討った「本能寺の変」について、林原美術館(岡山市北区)が所蔵する「石谷家(いしがいけ)文書」に
土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が光秀の腹心に宛てて四国攻めに苦悩する書状があったことが23日、明らかになった。
変の要因には諸説あるが、長宗我部との関係を重んじた光秀が四国攻めを回避するため決起した可能性を示す史料として大きな論議を呼びそうだ。
石谷家文書は、美濃国(岐阜県)の武将・石谷光政・頼辰(よりとき)父子の書状などで構成され、天正年間を中心とした3巻47通。
同美術館と岡山県立博物館(岡山市北区)の共同研究で、本能寺の変直前の天正10(1582)年5月21日付で元親が光秀の側近、
斎藤利三(としみつ)に宛てた書状が見つかった。
当時の元親は四国統一の途上。ところが大坂本願寺との和睦が成立したことなどから信長は当初の友好関係を転換し、
長宗我部側に土佐以外の占領地からの撤退を要求していた。
今回発見されたうち、6月2日の本能寺の変の約5カ月前にあたる1月11日付書状では、利三が元親に「要求に従うのが長宗我部家のためになるし、
光秀も努力している」と助言。
これに対し元親は5月21日付で「阿波国中心部の諸城からは退いたことを信長殿に伝えてほしい」と返答。
信長の命に従うことで激突を避けようとしていたことが初めて分かった。
光秀は信長から元親との取次(交渉役)を任されており、利三は石谷頼辰の実弟で、頼辰の妹は元親に嫁ぐなど、明智と長宗我部は深い関係にあった。
本能寺の変の要因については、光秀が天下取りを目指した「野望説」をはじめ「怨(えん)恨(こん)説」などがあり、定説がない。
今回の発見は、光秀が信長の四国攻めを回避しようとしたとする「四国説」を補強するものといえ、今後の論争に大きく影響を与えそうだ。
同博物館の内池英樹学芸課主幹は「この発見で50点程度だった四国説が80点までになり、他説に比べ一歩抜きんでた」と話す。
書状などは、7月19日から同美術館で公開され、その後は高知県立歴史民俗資料館、岡山県立博物館などでも展示される。
本能寺の変 天正10(1582)年6月2日早朝、明智光秀が織田信長を京都の宿所・本能寺に攻め、自害させた事件。
信長はわずかの護衛しか従えておらず、近くの妙覚寺にいた嫡男の信忠も自害した。しかし光秀はその後、孤立し、後継者として羽柴秀吉が台頭した。 本能寺の変、なぜ起きた 謎に迫る長宗我部書簡見つかる
西江拓矢2014年6月24日15時16分
http://www.asahi.com/articles/ASG6R53XDG6RPPZB00K.html
長宗我部元親の恭順の書…岡山で発見
2014年06月24日
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20140624-OYO1T50012.html
長宗我部元親が斎藤利三に宛てた書状の一部。信長に従う旨が記されている。左下には元親の花押が見られる
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/photonews/article.html?id=20140624-OYO1I50004
「本能寺」直前、光秀の重臣宛て
明智光秀が織田信長を討った本能寺の変(1582年6月2日)の直前、四国の戦国武将・長宗我部元親(1539〜99年)が、
光秀の重臣・斎藤利三としみつ(1534〜82年)に宛てた書状が、林原美術館(岡山市)所蔵の古文書群から見つかったと、
同美術館と岡山県立博物館が23日発表した。
書状は、四国の統治について約束をほごにした信長に恭順の意を示す内容だった。この頃、信長と元親の関係は悪化していたとする説が有力だが、
書状からは交渉が続いていたことがうかがえる。交渉などについて書物の記録はあったが、当事者の資料が見つかるのは初めて。
書状は、利三の親戚筋が残した「石谷家いしがいけ文書」にあった。1582年の5月21日付で、
「東州奉属平均之砌、御馬貴所以御帰陣同心候」(甲州征伐から信長が帰ってきたら指示に従いたい)と記す。
また、利三が82年の1月11日付で元親のもとにいた親戚に宛て、元親の信長への反発を抑えるよう依頼する書状もあった。
信長は75年頃、元親に四国を治める許可を出したが、後に土佐と阿波の半分しか統治を認めないと翻意。
信長は、本能寺の変がなければ、四国に攻め入る予定だったという。
光秀は信長と元親の仲介役を務めた。本能寺の変の原因には諸説あり、信長が四国の統治方針を変え、
面目をつぶされた光秀が謀反を起こしたとする「四国説」がある。同美術館などは、書状がこの説を支える資料とみている。
金子拓ひらく・東京大准教授(日本中世史)は「光秀に元親の意向がどのように伝わったのかまではわからないが、
書状からは信長と元親との気持ちのすれ違いがくみ取れる」と話している。 2014年06月23日
林原美術館所蔵の古文書研究における新知見について
―本能寺の変・四国説と関連する書簡を含むー
http://www.hayashibara.co.jp/press.php?id=392
一般財団法人 林原美術館
岡山県立博物館
(2)本能寺の変直前に関するもの
@斎藤利三書状(天正10年(1582) 1月11日) 第2巻所収
斎藤利三が実兄石谷頼辰の義父、空然(石谷光政)に出した書状。利三が書いた書状は、現在数通しか残されていません。
天正3年(1575)頃、織田信長は長宗我部元親に、四国内は元親の切り取り次第という許可を出していましたが、
天正9年の後半頃に、土佐と阿波半国しか領有を認めないと通達しました。元親は承知せず、それを諫めるために利三が、
石谷頼辰を使者として派遣したと『長宗我部元親記』(寛永8年(1631)に元親の家臣だった高島重漸が著した)や
『南海通記』(享保2年(1717)に福岡藩士の香西成資が著した)にはあります。本書状は、頼辰を派遣する旨を伝えると同時に、
空然に元親の軽挙を抑えるように依頼したもので、信長と元親との対立状況がわかるとともに、利三が元親に働きかけを行った確証となる史料です。
A長宗我部元親書状(天正10年(1582) 5月21日) 第2巻所収
長宗我部元親が斎藤利三に宛てた書状。1月の時点では拒絶した元親ですが、この書状では信長の命令(朱印状)に従うとしています。
阿波国の一宮、夷山城、畑山城などの一部の地から撤退していますが、海部・大西城は土佐国の門(入り口)にあたる場所だからこのまま所持したいこと、
甲州征伐から信長が帰陣したら指示に従いたいと、斎藤利三に伝えています。また「何事も頼辰へ相談するように」とも述べています。
5月の段階で信長は四国への出兵を命じており、戦闘を回避しようとした元親と信長の違いが明らかになります。
この2通の書状のやりとりで、本能寺の変直前の斎藤利三と長宗我部元親の考えや行動が明らかになりました。
今後は、本能寺の変のきっかけとなった可能性のある書状として本資料が取り上げられ、さらに研究が進んでいくと思われます。 重なる偶然が掘り起こした新資料…光秀を決起させた心情をどう読むか
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140625/wlf14062515180021-n1.htm
岡山市北区の林原美術館が所蔵する古文書から「本能寺の変」にかかわった戦国武将たちの書状が新たに確認された。
明智光秀が決起する遠因として、土佐の長宗我部元親をターゲットとする四国攻めを回避する意図があったことを証明する歴史的新発見だった。
文書を掘り起こした同館の浅利尚民・学芸課長に発見の経緯などを聞いた。
◇
学芸員として林原美術館につとめて14年。今回ほどびっくりしたことはありません。
本能寺の変で主君の織田信長を討った明智光秀。「石谷(いしがい)家文書」には、その重臣である斎藤利三に宛てた長宗我部元親の書状があり、
四国攻めを回避するため信長に同心しようという元親の心情が浮き彫りになっていました。
まさか、当館の所蔵品にこれほど重要な史料があったとは。共同研究している内池英樹氏(県立博物館学芸課主幹)と読み進めても、
最初は実感がわかなかったのですが、次第に「とんでもないことになる」と思うようになりました。
今回の発見には、多くの偶然が重なっています。史料を見つけたのは昨年の9月、開館50周年の企画展のための調査過程でした。
ちょうどそのころ、内池さんが高知県立歴史民俗資料館と「長宗我部氏と宇喜多氏」という展覧企画を進行中。元親が専門の野本亮・学芸チーフと
既に面識があり、協力いただけることになったことが大変ありがたかったです。元親研究はやはり高知が最先端ですから。
そうでなければ、こんなスムーズに内容確認はできなかったでしょう。
研究を重ねて、発表にメドがついたのが、旧暦6月2日(本能寺の変)の直前というのが偶然なら、大河ドラマがちょうど変の前後をなぞっているのも偶然です。
こわいぐらいの偶然が重なって今回の発見と発表になりました。今でも信じられないくらいです。
今回の「石谷家文書」は当館の所蔵品の柱の一つである林原一郎(故人)のコレクションに含まれていました。埋もれていたといっていい。
おそらく入手はしたものの、ほとんど中身を見られることもなかったのかもしれません。豪快な方だったようですから。
それがここまできれいな状態で保存されていたのはすごい。発表の際にも話しましたが、文書は石谷家の親戚の斎藤家に伝わった可能性があります。
春日局が出たように斎藤家は江戸時代に幕臣として存続していましたから。このような石谷家ゆかりの史料が、
江戸期を通じて大切に保存されていたのは奇跡的なことです。
本能寺の変にまつわるものばかり注目されますが、他の文書も全て新発見の一次史料です。(談)
■石谷(いしがい)家文書 長宗我部元親が四国の領有をめぐり、織田信長の命令に従う意向を示した書状などが確認され、
林原美術館と岡山県立博物館が23日に発表。本能寺の変の要因には諸説あるが、
長宗我部との関係を重んじた明智光秀が四国攻めを回避するため決起した可能性を示すとして注目されている。
【「石谷家文書」の公開スケジュール】
林原美術館「武士のダンディズム」 (7月19日〜9月15日)
〃 「林原美術館の名宝 第一部」(9月30日〜11月16日)
高知県立歴史民俗資料館
「長宗我部氏と宇喜多氏」 (10月11日〜12月7日)
岡山県立博物館「戦国大名 宇喜多氏と長宗我部氏」
(1月16日〜2月15日) 長宗我部の手紙発見に「センゴク」作者も歴ドルも興味津々
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2014/06/24/kiji/K20140624008437500.html
戦国時代に土佐(高知)の武将だった長宗我部元親が四国の領土をめぐり織田信長の命令に従う意向を示した手紙が見つかったことを受け、
歴史好きや著名人がツイッターなどで反応している。
天下統一へまい進していた信長は、四国はを元親の切り取り次第にさせるとの方針から、阿波(徳島)の半分と土佐しか領有を認めないと変更。
手紙(1582年=天正10年=5月21日付)は明智光秀の家臣斎藤利三に宛てたもので、元親が従う姿勢だったことが確認されている。
信長はこの手紙以前に出兵を決意。直後の6月2日に起きた本能寺の変は、
織田と長宗我部の仲介役だった明智光秀が信長の方針転換に納得しなかったことが原因とする説もある。
仙石秀久を主人公とした「センゴク」で知られる漫画家の宮下英樹氏はツイッターで「(本能寺の変の)元親関連がこれで有力になるのか?
今後の行方が気になる。出陣日時と謀反の日を考えると四国攻めを止めるためとも思えなくもないんだが…」と興味津々の様子を伝える。
歴ドルとして知られる美甘子も「光秀が信長と元親の板挟みになっていた様子が分かるそう。これはびっくり!スゴイ発見!」と驚いている。
「本能寺の変」新史料 光秀はなぜ信長を襲ったのか…謎解きに挑む大発見
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140624-00000546-san-cul
光秀はなぜ、信長を襲ったのか。「本能寺の変」の動機は、邪馬台国の所在地論争と並んで日本史最大の謎とされている。
さまざまな説が出されてきたが、今回の石谷家文書は、謎解きに挑むための大発見といえる。
変を考える主な史料は、信長の伝記「信長公記」のほか、関係者の間で交わされた書簡「兼見卿記」「晴豊記」など当時の公家の日記、
さらには「川角太閤記」などの編纂物がある。
編纂物は面白いのだが、光秀が安土城での徳川家康の接待をしくじった話や領国を取り上げられた話など、後世に作り上げられたフィクションが多い。
その点、石谷家文書は変の直近の史料であること、しかも出したのは長宗我部元親、受け取ったのも斎藤利三と、
四国攻め交渉をめぐる当事者であり、史料価値は高い。
書状からは、信長の四国政策の突然の方針転換に対する長宗我部側の率直な戸惑いと反発、そしてあきらめの心情も生々しく伝わってくる。
もちろん、これで変の謎解きがすべて決着かといえば、それほど簡単ではない。しかし質の高い史料を突き合わせて、
当時の政治状況を考えていけば、歴史の空白は少しずつ埋まる。今回の発見をもとに、新たな議論が始まるのを期待したい。(渡部裕明) >>774
1586年10月 内 家康臣従(上洛) 血の濃い一族だな。
蜷川親順の娘┬石谷光政┬女 斎藤利賢┬蜷川親順の娘
................................│.....................│....................┌─┴─┐
元親┬元親夫人.....................女┬石谷頼辰 斎藤利三
.....┌┴┐...........................................│
.....│信親──┬─────女
.....│.....................│
盛親────女
※「蜷川親順の娘」は同一人物
盛親の血は「元親50%、光政25%、蜷川25%」
盛親妻の血は「元親25%、光政25%、蜷川25%、その他25%」 元親は信親の出来がよかったこともあって正室の血を重んじてたのだろうな
信親戦死後、反対派を粛清して盛親を後継にしてるし
まあ庶兄を差し置いて正室腹の弟が継ぐことは珍しくもないけど 魚津城の後詰めに失敗した上杉と、
備中高松城の後詰めに失敗した毛利は、
高天神城の後詰めに失敗した武田みたいになってたんだろうか。
それとも、兵は出してたからそこまでのダメージは無かったんだろうか。 本拠を攻囲されつつあった上杉と最前線のみ戦闘中だった武田や毛利とではめるで状況が違わないかい? 秀吉が全国統一に乗り出すころには、
伊達は政宗に代替わりし奥羽の南半分を制覇、
北条は常陸を除く関東の大半を支配、
長宗我部は四国統一間近、
島津は九州統一間近、
という感じで地方の統一も進んでた。
だけど、本能寺直前は、どの地方もまだ統一が進んでないから、
信長が侵略するのは、より容易そう。 本能寺の変時点で、織田家以外の大国は毛利と北条だけだな。
北条は友好国だから、
実質的に毛利が織田家にとっての最大最後の敵だったんだな。
(毛利征伐後に大きな情勢の変化が無ければ)
秀吉に光秀を加勢させて、信長親征までする力の入れようは当然だし、
信長にとっては統一まであと一歩だったんだから、無念だったろうな。 逆に各地で統一が進んでいたから一気にいけたっていう面もある
群立してるのをいちいち攻略していくのは時間かかる 確かに一大名を下すだけで数ヶ国が味方になると考えるならその通りだね
光秀なんて豪族が割拠する丹波一国にかなり骨折ってたし 家康は本能寺の変が起きてなかったらどうするつもりだったんだろうな。
織田と北条という同盟国に四方をふさがれてしまっている。
武田滅亡から本能寺までは信長に領内を案内したり、安土に呼ばれたり、余裕は無かったろうな。
武田に侵攻されて三河や遠江も満足に領有出来てなかったわけだから、
まずは駿河含めた領国経営で手一杯だったのかな。 織田が北条とずっと同盟関係維持してるとも思えないなあ
上野にしろ甲斐にしろ駿河にしろ領国経営が安定してきたら対北条戦線が始まってたんじゃない? 播磨・但馬・備前・美作・因幡・淡路・伯耆の東半分・備中の東半分を攻略した秀吉はすごいよな。
光秀が焦る気持ちも良く分かる。
でも、信濃・甲斐・駿河・上野を武田から奪った信忠・一益もすごいよな。
面積的には秀吉より広そうだし。
もっと二人の活躍を見てみたかったね。
本能寺の変が起こるにしても、もう少し後(武田遺領統治が軌道に乗った後)だったら面白かったのに。 朝鮮落としたら加速度的に攻めそう
最終的にインド、モンゴル辺りまで行きそう あけおめ。長生きのスレだね。
全国統一→天皇幽閉→皇帝即位→明と国交(同盟)→朝鮮分割→北虜南蛮へ備え
という流れで「大東亜共栄圏成立」はいかがでしょう そして南蛮との戦争で負けて日本が占領されるのであった 近代兵器で琉球を占領し、島伝いに日本侵略を企図する南蛮軍。
九州で猛反撃にあい進撃スピードが落ちたところへ明水軍主力により琉球が日明連合軍に奪還される。
本州への進出を諦め、南蛮軍は軍船を博多湾に集結するが・・・再び神風が船団を襲いかかるのだった。
誰か歴史群像新書に書き下ろしおながいします 毛利、上杉、長宗我部滅亡で終わりだろうね
東北も北条も九州も織田に近づいてたから
その後国家体制で天皇を排して絶対王政国家になってたのかどうかが気になる 本能寺の変がなければ、信長親子の天下
それが秀吉の天下取りより早いだけ
天下人は信長と信忠
譜代になるのは明智光秀以外の家臣
秀吉と家康も仲良く譜代大名
織田家と家康らは幸せな一生を終える
明智光秀だけは出雲、石見の大名になり最後は反乱を起こしてみじめに死亡
秀吉にミンチにされる 日本の神様大好きな信長は、反乱分子の光秀を出雲には置かない、たぶん。
もっとどこか違う所でミンチ。 >>852-853
おまいらミンチ好きだなw
しかし明智は5月17日に徳川接待の任を解かれてから本能寺を襲うまで、半月近くも何やってたんだろう?
確かなのは愛ご山での歌会だけ…
信長もよく怒らなかったよな、早く秀吉助けに行けってさ >>854
万単位の軍勢を集めるのに半月くらいかかるだろ 光秀は5月28日にあたご山で歌を詠んでるわけよね
で、当時の暦は5月29日までらしいんだけど、亀山城には戻らずに本能寺に直行したのかな?
だって3日しかねえしw
歌会が5月24日だったって説もあるけどな… しかしオレオレ詐欺の光秀信者は信長を何かと悪者扱いするよな
その信長をだまして光秀も数多くの利権とうまい汁を得ていたのに
あと秀吉の中国返しでも早いというが当時は馬の乗継もあった事を忘れている >>857
明智子孫が出した本だと、言われてるような信長の暴力も怨恨もなかったらしい
ネタバレ注意で言えないけど
あと暦を信長の使う三島暦に統一したいと。当時日本には複数の暦があったようだな、面倒くさい もし、本能寺の変がおきなかったら
江戸・東京遷都はなし
↓
関東、東海道や東北の発展も遅れる
・・・これくらいの予想はできるが 信長はまだ関東平野を見ていなかったので、
信長が関東平野を見たときにどんなインスピレーションが湧くか気になる。 桶狭間から本能寺までの信長の人生って、良くも悪くも本当に神仏がお膳立てした様な物語だね
小説より小説らしい
まぁ何かしら脚色や捏造はあるんだろうけど 脚色捏造は「乱暴残酷」この類い。当時の史料だとこういう評価は出てこない
まあ信長って元神官家の人だしね
江戸初期史料で、(桶狭間後)皇后が「尾張へ行きなさい(信長を頼りなさい)」ってお言葉があり云云ってのもある
なにか不思議な力が動いたかも??… 勝手に年表を変えてみれば……
1582年(49歳)光秀の援軍が秀吉の元へ到着。毛利軍の休戦により戦い中止。条件として毛利の領地何ヵ国くらいか渡せといい成立。
1583年(50歳)織田、徳川連合軍毛利軍を攻め降伏させる。中国平定
1584年(51歳)信長の命令により柴田勝家、羽柴秀吉等が中国を攻めるしかし攻める攻めない等秀吉、勝家言い争う。結局勝家の言うことになるが負ける。
1585年(52歳)真田昌幸が秀吉と勝家のパワーバランスは繋張の度を高める。昌幸上杉景勝との関係を作るため幸村を差し出し秀吉への従臣する。秀吉vs勝家。前田利家により休戦。
1586年(53歳)織田、徳川連合軍により四国平定。
1588年〜1589年(55歳、56歳)九州平定。この頃勝家の体調が悪くなる。
1590年(57歳)全国の大名に小田原攻めに向かう用命じる。
1591年(58歳)勝家病死。出羽平定
1592年(59歳)陸奥平定。これにより全国統一
1593年〜1594年(60歳、61歳)朝鮮出兵
1596年(63歳)朝鮮に向かう途中信長死去。
※適当に自分の妄想で作ったものです。正しいと言う意見ではありません。 >>863
毛利さん和睦したのに翌年攻められてさらに翌年攻められてるのですが
1584年が反乱軍や小豪族相手だったり明だったりしたら別だが 864»間違えました1584年の奴は四国攻めでした 後攻めるか攻めないと言うのはどのタイミングデ攻めればいいのでもめます。 1582年に北陸、信州、上州の3ルートから織田軍に攻められて、
さらに新発田が反乱を起こしていた上杉家が1585年まで生き延びてるとは考えにくい。 本能寺が無ければ1582年中に上杉・毛利・長曾我部は詰んでたのじゃないの?
大きな謀反や内乱も無く秀吉の統一より遅くなるとは考えにくいわ 毛利と上杉は、確実に1582年中で片がつくと思う。
長曽我部はどうかなー。信孝と長秀のコンビがどんな指揮能力を発揮するか未知数だからな〜。
まあ、仮に手こずっても、毛利を降した後の中国方面軍団が加勢に転じれば、一気に進展しそうだな。 もう関東東北は信長に恭順してたから
上杉が82年に滅亡して毛利も82年に降伏
長宗我部も82年には滅亡しそうだし九州は島津がまだまだだからあっさり平定で
83年には天下統一だろうね 同意
当時の人が光秀謀反の理由「彼は戦争が好きだったから」って言ったのはこういう理由もあるかもね
信長が死んだおかげで戦争長引いちゃったし 秀吉の奥州仕置時点よりさらに地域統一が進んでいない東北は、
奥州仕置以上に手こずらずに平定できそう。 天正大判に輝元や景勝の血で「天下布武」と花押されてたに銭二百貫! 上杉武田は1582年中に両方消えて、北条はビビって強引な要求でも飲み込んで臣従しそう
相模と武蔵以外を差し出して、織田から養女や養子貰って家督乗っ取られるとか
東北も土下座するやつが出るだろうし楽に支配下に収められるだろう 武田上杉毛利長宗我部が滅亡したらもう織田に逆らう奴居ないだろさすがに
一気に織田の領土1582年だけで倍増してるんだぞw その勢いで、朝廷あげあげ政策も始まろうとした矢先に本能寺の変
「日本国中大混乱」になるわけだ
当時の人たちは、日本国滅亡、この世の終わり、くらい思ったろうね >>874
北条は伊豆・相模安堵くらいじゃないかな
長曾我部と同等の対応だと スレ違いだが
現在の本能寺はこまるだろうね。織田信長でしかネタのない小さな小さな宗派のお寺だから 似たような京都の日蓮系のお寺は、それなりにしっかり経営しているよ。
等伯の絵を持ってたり、隠れ名所の庭があったり、見所もある。
本能寺もそんな感じでやってたんじゃないかな? >>878
本能寺が観光名所になったのは、戦後のことだろう 本能寺って、実際どれくらいの大きさだったんだろうか。
明智1万の軍勢が取り囲んだとか、信長の死体が見つからなかったとか
えらいスケールでかいイメージあるけど
100m×100m程度だったらしょぼすぎるな。 明智軍1万3千の内、本能寺攻撃に参戦したのは3千のみ。
あとの兵1万は待機組。 戦の上手さで言えば秀吉より光秀のが数段上手だな
伊達に織田軍屈指の外様ではない
自分が起こしたクーデターで想定より家中が混乱したから、より外交に長けてて先を読める秀吉に負けたんだろう
これは柴田も同じ 明智光秀子孫は今も昔もすごく性格悪い
信長家臣団を内部から破壊したのも明智光秀だし
その上に全然反省がなく今でも信長らの悪口を陰で言い続けているのはこいつら 恩を仇で返す系、嫌いな人多いからな
しかも嘘ついて恩人貶める系でもあるしw 亀山とか福知山とか全然反省なく明智光秀アピールしてるよな。
明智光秀 〜1人でも多くの人に知ってもらいたい〜 亀岡市
光秀ゆかりの地を訪ねて 福知山市
こいつら祭りまでやりやがって、反省する気配ゼロ。 反省とか何とか言ってる奴って、信長が絶対100%正しいと思ってるのかw 福知山って光秀推してるか?
前に市内通ったけどそんな雰囲気無かったぞ 福知山市郷土資料館・美術館特別展 明智光秀没後430年
「明智光秀 本能寺の変・小栗栖 五十五年夢」
「大河ドラマ誘致」福知山市
明智 光秀
信長の家臣。ガラシャの父。知将であり文化人。
おい、おい、反省しろぉぉぉぉぉぉぉぉ! 反省云々じゃなくて、誰も頭が上がらなかった信長にまんまと謀叛起こして殺った光秀が単純にすごい
楠流兵法かくやというか、信長より計算高い チャンスを活かせるかどうかって意味では光秀は凄いと思うよ
日本の歴史変えちゃったんだから
織田軍団も所詮は信長ありきでいなくなれば空中分解だし
信長のやった方面軍制度がそのまま配下武将の独立に繋がったのは皮肉だね そもそも光秀は兵法、砲術、築城とかこの時代の戦争に必要な物を先取りして学んで供えてるインテリ武将
信長にDV受けてた話は尽く作り話だし、陰謀論も総じてこじつけがましいテンプレだかりだし、光秀は最初から優秀な家臣を演じて土岐明智氏の再興を狙ってた野心家
織田家中でも信長に染まらず一貫してた点で素晴らしい 反省言うのはさ、たぶん正親町天皇が死んじゃった信長に贈った言葉からきてんだよ
「一人扶翼の功をはかり、万邦鎮撫の徳を布かす、これ中興の良士…」だっけな
つまり日本国としては良士の死を残念がり、光秀反省しろ!ってなるんよ
まあ最近外人さん増えてるし、光秀褒めたい人も増えてるんだろうけど >>892
>>893
信長を殺ったまではいいが、その後のことをぜんぜん考えていなかった馬鹿者 >>894
土岐氏の再興狙ったってのも嘘だと思う
再興のために何もしてないし、再興の努力を実際やってた人には嫌がらせしてるし どのみち信長では天下を維持できないから戦国に逆戻り。
いい時に死んだと思うわ。 信長の天下統一は確実だが、
信長には守成の才能がないから、
信忠に譲り早く引退すべき。 源氏の棟梁じゃないので幕府は開かないだろうし
どうなってたやら 別にそんなのどうにでもなるんじゃね?
家康は実は源氏でした!で通したけど、別に平氏だけど無理にでも
将軍になるぞって言えばなれるでしょ 前例破りは誰かがする
実際、信長公が死ぬ直前には朝廷からなんにでも任命させて下さいって
言われたとか言われてないとか 信長は天下統一を果たしたら、やっぱり半島に行っていたんだろうな。 エクスプロージョンで本能寺の変やってるが、俺は島原の乱の方が好きだ。
女の子がやると可愛い。
PPAPの りかりこも可愛いが、この人たちも可愛いぞ。
https://m.youtube.com/watch?v=Vcbew9YVjvg&feature=youtube_gdata_player >>909
908はまんざら間違ってない
あの話はそもそも研究家によるフロイス記事の拡大解釈と、江戸期史料の読み間違えでしょ >>870
島津は、天正3年末〜4年に近衛前久の薩摩下向に際し、
信長より九州の動静探りを申し付けられて同行した
伊勢貞知に黄金10枚などを渡した。
更に天正8年に、大友氏との停戦、及び臣従と
毛利討伐への協力を求める信長からの書状を
もって再下向した伊勢貞知に対し、大友との
停戦勧告を受け入れると共に、織田信長へ
「上様〜」と敬称を用いた臣従を示す書状と、
黄金・馬・反物・緞子などの献上品を送って
いる事から、島津も織田には逆らわない。
大友は耳川の合戦以降、織田に臣従を誓い
この和平交渉を依頼、要は泣きついているので
九州の大勢力で反抗する者は特に出ないかと。 >>910
そんなこと信長にしか分からんだろ。アホかね。 信長って過大評価されてるけど、改革者としての才能はあったかもしれないけど、統治者としては疑問符つくでしょ
明智に裏切られなくても、そのうち誰かに裏切られたでしょ
あるいは天下統一に時間がかかりすぎて病死して、信忠の代でくつがえされるとか
安定した統治を作るには、やっぱり秀吉や家康みたいな調整型のほうがいいよ
時代というのは遅れてもいけないけど、進みすぎてもいけない >>915
秀吉のやり方では駄目なのは歴史が証明してるのだが もし本能寺が起こらなくて明智もそのまま信長の下で働いてたとしても秀吉より早く統一できてたかな?
信長の場合は相手の降伏を認めず滅ぼすから却って時間がかかったのではないか?
例えば長篠で武田をボロボロにした後に武田滅亡まで10年くらいかかってるし
毛利が徹底抗戦することになれば信長・秀吉・明智軍で大合戦して勝つにしても完全征服にはやはり10年とかかかったのではないだろうか? レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。