浅井長政総合スレ
織田との縁を切り、朝倉義景の救援に駆けつけるも、
朝倉からも軽く見られ、信長包囲網を断られ、
孤立無援となってしなった名将・浅井長政を語りましょう!!
長政以外の浅井家、妻・お市、長政の関連した事象、何でもおkです! こちらはテンプレ不足の失敗の方らしいので、放置してください。 朝倉と浅井の関わりは織田と松平と同様で
同盟ではなく従属のような関係だったとも言われているな
亮政時代(創業期)からのものだから累代のものと神格されたのか
後の佐々木(六角)氏や織田氏のものより重く見られたとか。
会話が成り立ってないな…
こっちに書いてる人は一人か?
重複スレには書き込まない方がいいぞ 茶々の肖像画も、でっぷり型だな。
そういう家系なのか。 >>11
事情が分からないが、先に立ったのはこっちでしょ
重複とはこれいかに。 長政は古くからの盟友朝倉を見捨てることが出来ずに仕方なく信長を裏切ったというのは創作だろうな
長政も所詮というか生粋の戦国大名だったんだよ。そこには野心もあり気骨もあった >>10
秀頼君がデブったのは、城内に閉じこもってろくに運動していないからで
家系はあまり関係なさそうだがw あと隠居させたはずの久政が、信長を裏切るときに出てきてる
これは家中が朝倉派・尾だ派で分裂していたことを暗示させる >>1-16
君をからかうのは本当に面白い^^
こっちは何もしてないのにここまで事態が発展するとは。
これからも楽しませてもらうよ^^ >>10
そういえば秀忠の子供たちにピザがいるとかいう話は聴かんね。 >>16
死に体の久政が発言権を維持できたのは、やはり浅井は国人の連合体だったのだろう。
京極討伐の時には亮政が担がれ、六角が脅威になると久政が担がれ
朝倉や織田とのコネが出来ると長政が担がれやがて織田が邪魔になると
再び久政が担がれる。淀も豊臣に担がれたし最終的に徳川史観は浅井家そのものを担いだ
滅亡してなお、これほどまでに利用されまくった家も珍しい そう考えると浅井は部下に翻弄された家なんだな・・・ 浅井井頼は、浅井氏一族の浅井井規の息子だったと思う
この系統の浅井氏の通字は「井」だった
浅井井演−浅井井伴−浅井井規
本家浅井氏の通名は「政」だったので「井頼」なんて名前は出てこないと思う いひろ-いとも-いのり
この流れだったっけね。別名が政賢とか政信とかいうあたりはどうしよう。
甥なんだろうか。 最後の「いのり」が主君の「ながまさ」裏切った上に信長にも処刑された恥さらしだからな
「井」一族の痕跡を消したくて、井頼が「政」名義の名前を名乗って
誤魔化そうとしたと予想する
予想でしかないがな 別名の「賢」と「政」が六角・浅井に絡むのが気になるね。
平井氏との間にできた庶子で井演家に養子に出されてた、という妄想もできる。 ,. -、
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| .i ヾヽ ...::::::::...::: i i 近江浅井氏滅亡後の浅井庶流の事績については、尾張一宮出身の浅井と混同して伝達してる可能性はある 井頼が大坂の陣で生き延びた説は、
京極家中に浅井作庵って人がいるから、出てるのかな? 信長が美濃も入手してないうちに
浅井長政に婚姻を持ちかけてた話が本当だとしたら、
長政は「尾張の大名と婚姻した」程度にしか思ってなかったのに、
それが後々に事実上の従属という意味だった事に気づき呆然としただろうね。
信長と家康との同盟も最初は対等だったが、
のちに自然な形で徳川の従属という事になったが、家康は柔軟性あった。
それに対して長政は柔軟に対応できなかったのね。 大坂城に入城した浅井井頼が浅井長政の子だとしたら
淀にとっては兄妹(姉弟?)としてかなり厚遇されるはず
末期の大坂方は、かつての豊臣・浅井の敵である織田信雄を総大将にしようとするくらいだから
井頼が仮に長政の子ならば、確実に担がれただろうがそれもないし
まして大坂開城後に作庵として生き残るのは難しいのではないかと思う >>34
賢政から長政の名前変更が、仮に信長の一字を拝領したとするなら
長政は早期の段階で織田に従属したと考えられるかも 長政が家督を継承した後も、久政の政治的発言力はあった? >>37
余裕であったよ。
久政は家臣たちに強制的に隠居を迫られて、一時期は幽閉されたみたいだが、なぜか復活して政治に口出しできるようになったらしい。
しかしこれがかなり謎なんだよね。 >>39
それはありえない。久政は器量がないから家臣たちは久政を強制隠居させて、長政に家督を譲らせたんだから。
長政は有能だと思われてた。
誰かはわからないけど…家臣に強制隠居させられたという記述はある。 「江北記」にこの辺の詳細な経緯が書かれてまして、このあと承禎がキレて野羅田合戦に突入
…という訳ですが、オレは野羅田自体が本当にあったのかどーかを懐疑的に見てるので、
「江北記」の記述全体には釈然としないものを感じます。
しかし久政隠居劇に加わったとされる上の連中が、
やがて長政を盛り立てて歴史の表舞台に登場して来ますから
あながち嘘という訳じゃないでしょーね。 野良田合戦は普通にあったんじゃないの?
と言ってみよう 合戦というより小規模な睨み合い程度じゃなかろうか
腐っても佐々木本家だしね
915 : ◆aLXOebf7Oc :sage :06/08/02 15:03 ID:TPkZHTX.
代行よろしくお願いします。
依頼先アドレス:http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1150003807/
掲示板アドレス:http://hobby8.2ch.net/sengoku/
削除対象区分:[スレ削除]
削除対象アドレス:
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1154000558/
削除理由・詳細・その他:
6. 連続投稿・重複
重複スレッド(4のレス番にて誘導済み)
IP晒しても、何の不都合も無いし
自分で依頼した方が確実だと思うんだが。 >>54
実権はともかく名目は取りきれていないんだよなあ。 いっそこのスレは
浅野長政総合スレにして再利用したら? 一回京極の立場から、浅井の関係を整理するね(名前がかわる人は一つの名前で統一します)
永正二年(1505)京極高清が北近江統一
(家臣や叔父との確執で、一時甲賀や越前に逃れていたが、上坂家信を味方として統一)
大永三年(1523)上坂家信の子信光の専横を恨み、高清と子の高延の対立に乗じ、
浅見貞則、浅井亮政、三田村忠政らが高清と子の高佳を追放
高広を近江守護に擁立
この後
浅井亮政らが、浅見貞則を追放、浅井亮政が実権握る
天文十年(1541)この年より、京極高延、浅井亮政と争うが敗れる
天文十八年(1549)両者和議、北近江支配権は、完全に浅井に
高吉=高佳と言いたいところだが
某事典では、高秀の子になってるんだよね
この高秀=高清なのかどうなのか
高峰、高秀がよくわからない >>63
33 名前:削除科医師 ★[sage] 投稿日:2006/08/03(木) 23:00:40 ID:???0
「【上杉家の特徴】〜」のコピペは無視して流してください。
「愛知の〜」は削除しました。
>【忠】小早川秀秋にカッコイイ台詞を言わせる【義】
一部削除。残したものは無視しておいてください。
>戦国武将になりきるスレ その4
無視して流してください。
>888 浅井長政総合スレ 888
スレが重複しているようですね。
重複スレに対してスレ削除依頼を出すなどして、
本スレ一本化させてください。
本スレ一本化するまで、レス削除は控えます。
以上、ここまで診ました。
925 名前:木戸隆一 ◆OfMtr4G69c [sage] 投稿日:06/08/02(水) 22:01 ID:TsJqSGJk
>>916
完了です。http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1143057738/209
次回からは騙り防止のため、トリップをお願いします。
>>915 >>919
判断に迷ったので、代行は見送り、他の代行人の判断に委ねます。
>>920-921
本人からの代行依頼があった段階で検討させていただくこととします。
m9(^Д^)プギャー 違うよ〜〜〜爺まとめきれず死んだ!ぱぱ大親分(六角)に家臣化してしまう。
子供がんばる。勝っちゃって!大親分から格下げ。子供がんばる。京極しにそう。
そいで手を差し伸べる。家臣化させるため。裏切りそうだから、めんどくさいから一族にしちまった・・
結果的には浅井が強くて婚姻。でも浅井パパ時代弱虫。京極にビビッてた。
婚姻時期は、浅井せがれ強虫。 馬鹿にした文章のせいで意味がわからない
家臣化なんて浅井氏の立場で言い出せるものでもなかったしな 京極が信長に匿われた時点で、浅井家は京極の直臣から織田を介して陪臣格に成り下がり、
江北支配の名目を喪失したという見方が出来るかもしれませんね。
憶測ですけれど、京極―織田―浅井というラインが出来たと仮定するならば、
早期の同盟も「長」の偏諱も説明が付くような気がします。
あと、上で書いた「江北記」は「江濃記」の間違いっす;;; 名分としての佐々木氏を内包する意味があったと思うんだけどダメっすか。 ごめんなさい読み違い。
織田が京極を掲げて浅井を従える、でよろしいね? 自己訂正。
実際に京極が信長を頼る時期はもっと後になりますから、上のは我ながらおかしな推論でした。
「上洛前の義秋を介して、京極と織田が積極的に京極―織田―浅井ラインを作ったとするなら」
と訂正しときます。 ・四職京極氏に対して信長は家格で敵わない。
・浅井は1550年代までは京極家臣であり続けた。
で、よろしいか? 少なくとも天文二十二年十一月の地頭山合戦までは京極氏の家臣すね。 亮政死去までは確定すね。
小堀遠州の親父とか見ると、京極氏と浅井氏はかなり血縁も濃いような。 東浅井郡志など系図上の直接的な血縁は>>67くらいしかありませんが、なるほど。。。 わかりにくいやりとりだが
半従属を含めても浅井氏は独立した大名だったことがない、ということかな
亮政:京極氏
久政:京極氏→六角氏
長政:六角氏→京極氏→朝倉氏
こんな感じで名目上の主家を推戴して半独立の大名だった、と 世代的には高吉なら信長と結んだときの名目として成り立つんじゃないかな。
すぐに朝倉氏に移行してるけどね。 高吉って、足利将軍近習→子の高次は織田家臣と思うが
長政が家督を継ぎ、六角を破ったのは永禄三年(1560)
当時高吉は京で、義輝将軍に近侍している
永禄八年(1565)義輝横死後に、覚慶→義昭は近江、若狭、岐阜と移るわけだが、
高吉は彼のために奔走した
さて高吉はこの間近江に在国していたのか、信長の上洛以降に名目的当主となりえたのか? 長政への改名が1567年頃とされている。
また足利義昭は義輝横死直後の朽木ですぐに織田に救援を求めている
斎藤がいたからすぐ上洛出来なかったが義昭と信長の接点は早くから出来てたので
そこから高吉と信長の接点が生まれたのでは?
長政の改名には他に根拠らしいものってあるのかな >>84の 四行目 若狭と岐阜のあいだに越前が抜けていた、ごめんなさい
>>85
長政改名はよくわかりませんので、ごめんなさい
高吉が介在しなくても、信長と義昭の接点はあって、
又、高吉の主君はあくまでも、義昭なわけですからね
私が言いたかったのは、高吉がずっと小谷の京極丸にいたのかな?
義昭に同行してるんじゃ?ということ
マリアはいたのかな、高次や高知生まれてるし
>>86
高吉は京極丸に供応した記録がありすくなくとも大永年間のその時点までは小谷に居るね
長政の長の字がどこから来たか、市との結婚から織田一門化?
京極>織田>浅井で織田の家臣化?
名目として織田が京極を推戴するという考えは納得出来る
京極と織田の関係が強まれば浅井の立場はどんどん弱くなるし
長政が焦りを覚えるのも無理はないね
ただ名目としての京極がどこまで権威として働いていたのか・・・ >>87
天文3年(1534年)亮政が、京極親子(高清、高延か?)を饗応したともあるね
高延=高吉なら問題ないけど、どうなんだろうね
もしそうだとしたら京極丸→義輝近習の流れがよくわからない 若干憶測を交えながら、久政・長政と京極等を整理
1542 亮政死去、久政相続(京極高佳は京極丸にいると推定)
1546 義輝将軍に
1549 京極高延(高広)と久政和議(高延がこの後どうなったかは?)
1559 賢政元服(この頃までに、久政が六角に従属)
(これ以前に高吉(高佳?)は義輝に近侍?、京極→六角に主家が替わったためと推定)
1560 野良田で、賢政(名前がこれでいいかどうかは別として)六角に勝利、久政から替わり当主に
1565 義輝将軍殺害、高吉、義昭とともに諸国をへて岐阜へ
1568 信長、義昭、上洛、高吉も従う
1570 姉川合戦、この年京極高次、信長の人質に
1573 小谷落城
京極屋形跡っす。となりが工事現場で騒々しかった(笑
ttp://p.pita.st/?adgigmsi お疲れさまです
県政の動き(ニュース)
米原市の国史跡京極氏遺跡 竿秤の錘が出土!
ttp://www.bcap.co.jp/s-hochi/bno/2006/06-02/k060203.html >>92
おお。お疲れ様です。
今はなんもないんですねえ・・・ 【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。 水戸の老臣に岡崎氏っているのは知ってたけど、正直三河人だと思ってた。 渦中さんの問いには、「信憑性より夢を買いましょう」ということで。