信濃の戦国時代について語るスレ
小笠原、諏訪、村上、木曾、仁科、保科、海野、真田・・・
北も南も東も西も仲良く語ってやってください。 >>98
上杉景勝時代には北信濃四郡を16年間(1582〜98)迄領土としている。 >>263
生まれてからこのかた一度も長野県に行った事もない自分の意見としては
村上氏は小県郡の土豪勢力を駆逐し海野平に勢力を扶植したい
武田氏は過去に敵対した事もありなにかと目障りな岩村田大井氏を佐久や小諸から追い落としたい
村上氏も武田氏も足利幕府や関東管領上杉氏と懇意だが
一方の滋野三氏や大井氏は古河公方の勢力と関わりが深かった過去がある
諏訪氏の元々の家臣筋である矢沢氏(真田幸隆の実弟が養子に入っている)
諏訪の神事に関わり深い禰津氏(当主の禰津直元は諏訪の神事の要職に付いていた)
滋野三氏を内部から切り崩すには諏訪氏を村上・武田氏側に引き入れる事が賢明であり
諏訪氏当主の諏訪頼重も勢力の拡大に色気を見せる中々の好戦タイプ
これらの事情が重なって村上・武田・諏訪の連合が一時的にせよ出来上がったのではないかと…
何となくこんな感じなのではと長野県に縁がない歴史好きの素人なりに考えてみました >>48
長尾為景(越後守護代・上杉謙信の父)の妹婿であるから謙信の義理の叔父。謙信の京都上洛のため 高梨氏の配下に夜交氏っておるんやな
スケベ過ぎひん?? >>266
追記。謙信公の京都上洛のため天文22年(1553)1月に石山本願寺・証如上人に会見した。その年の9月に謙信公は上洛し梨氏は上洛に貢献したのである。 >>267
夜交(よませ)氏だね。中野市の東側に夜間瀬(よませ)川という川がある。そこから東隣の山ノ内町の国衆だったと思う。 >>265
まずは、三氏といえば滋野三氏のことですよね
ここで村上武田諏訪を三氏と呼ぶのはややこしかったですね
265さん個人の意見だとしてもとてもわかりやすく説得力があります!
ありがとうございます♪ 毎日新聞によると、信長横死後の信濃は北から上杉、東から北条、南から徳川、そして西からは秀吉に狙われていたらしい
秀吉って、そんなに早く織田家中を牛耳ること出来ていたんだっけかw >>273
清須会議で後継者に秀信を推して柴田勝家を打ち負かせて日の出の勢いじゃん。1584年って。翌年に関白になってる訳だし。 現実的に無理だから狙っていなかったというのはおかしいもんな
狙うなんて気持ちの問題だもんな 秀吉は家康に甲信は切り取り次第のお墨付きを与えてるだろ 本能寺直後かと思ったら小牧長久手の頃か
徳川と北条って親戚になって北条が信濃を窺うことは無くなってなかったっけ? 掲示板で評判よかった「富子株の億様レシピ」
これ試してみたら昨年半年で3000万円ほどプラスになってウハウハ。
派遣で月収20万いくかいかないなだったし、
投資全般、株と為替の損失もー300万円だったから
金富子さんの億様レシピを知ったのは人生で最高のできごとだったかも。
自分は危険な銘柄と宝石銘柄て記事(銘柄)が楽ちんで凄い利益毎回出せた。 村上方5000(実数300)
小笠原方8000(実数400)
が今井原で雌雄を決す >>103
四人とも上杉謙信を頼りそのまま上杉家家臣になる。村上氏以外の井上・須田・高梨の高井郡三家(頼季流信濃源氏)は幕末まで米沢藩上杉家の家臣になっている。 >>180
春日信達→1582年の天正壬午の乱で上杉方だったが真田昌幸の調略で北条方になったのがばれて上杉景勝に誅殺される。
須田信正→1582年の天正壬午の乱で上杉景勝の配下になるも1585年5月に徳川方の真田昌幸の調略が発覚し上杉方に殺害される。
真田昌幸→須田信正が亡くなった2ヶ月後の1585年7月に上野沼田領を巡って徳川家康と対決するため、上杉景勝と急遽同盟を組み徳川軍と戦い勝利する(第一次上田合戦)
昌幸パパは上杉氏に頭が上がりません(笑) 批判が的を得てないんだよな。
まず業務で高校数学が応用として使える時点で、世の中の上側1%以上なのよ。
アク界隈はお受験からのエリート教育で育ってるから、世の平均以下がちゃんと認識できていない。
残念ながら需要が存在してしまうわけですわ。高校数学の範囲だろうが何だろうが知らんがな。
あと、純粋な高等な数学になればなるほど、応用が狭まっていく。平たく言うと役に立たない。
なんでそんなものと比較するのか意味が分からない。好きなら勝手に博士課程でも行ってろ。
そして、哀れにもアク候補生として入社して、想像以上に日本社会の企業文化に揉まれ疲弊し、
自分は東京一工のエリートなのにこんな試験にも受からないクヤシイ!!みたいな人が、
5chで見えない敵をたたいて必死にもがいているんだな。憎むべきはその選択の損切りができない自分自身なのに。
だから、嫌ならやめろよと。クソ試験と思うなら今すぐやめて転職なりしろ。何事も中途半端が一番良くない。 >>286
関ヶ原役の昌幸西軍鞍替えも景勝の指示かもな >>288
そうかもしれないね。東北と関東は上杉、関東から甲信地方は真田、それより西は石田、大谷、小西、宇喜多、島津、毛利という構図を作り徳川勢と豊臣家反三成派を包囲するという構想を三成と兼続は描いてたと思う。 伊達との和睦を契機に景勝が関東へ押し出し真田が秀忠に追い打ちをかければ
関が原の敗戦諸将が逃げ延びて大坂籠城で戦線は膠着したかも >>290
伊達の抑えとして佐竹を残し、上杉六万が関東へなだれ込む
秀忠軍団は空中分解、再編成された上杉軍団が東海道を西へ
大坂へは毛利軍団を中心に各地から友軍が集う
小西 やあ!三成無事であったか
石田 関ヶ原では家康にしてやられたわい。 上杉上洛軍20万が家康を蹴散らし入京
輝元 上杉殿お待しておりました
景勝 反逆者どものみしるしをお持ちいたした。しかるに治部は何処に?
秀家 別間にて臥せっておる。先ほど干し柿をお持ちしたが、胆の毒と言うてニラ雑炊を食うておる。 官兵衛は九州で様子見か
ならば、上洛せよと申せ
天下は上杉、毛利、宇喜多の三大老が主軸となり、豊臣関白政権が太平の世を築くのであった。 >>294
上杉・毛利・宇喜多が支える新・豊臣政権も見たかった。 信濃守護代の大井氏、信玄に虐殺された笠原氏、依田氏の分家の平尾氏、大井氏と敵対した伴野氏と佐久郡の国人衆は滋野・海野・真田一門で武田信繁の息子が養子に入った望月氏と佐久郡の国人衆はバラエティにとんでる。 >>296
佐久郡への村上氏の影響力はどんなもんだったの? 佐久の滋野一族に手を出せんかったから、関東管領軍、信虎連合で攻めたんだよな
で、村上方が増えたところで北信係争が始まり、信虎が虚をつく→信虎追放→晴信の佐久制圧戦で関東管領軍敗北→晴信の村上征伐戦へ→村上越後遁走→新関東管領軍出現 >>298
信玄が佐久郡を制圧した1547年は前年に河越城の野戦で北条氏に敗北し関東管領上杉氏が佐久郡の小田井原の戦いで武田氏に敗北して衰退に一途を辿ったね。それで上杉憲政は越後長尾氏出身の謙信に関東管領を譲るはめに。滋野海野真田一族と村上一族の東信での戦いは謙信と信玄の川中島の戦いの序章になってしまったね。
東信の一部では村上に関する事を言うと口をつぐむ人がいる。 >>299
地縁的に近いのに武田や管領に与した裏切り者とおもわれてたのではないかな 村上義清やろな
信濃豪族最強やで
兵数さえあれば武田の侵攻なんて防げたわ >>302
国力の差ですな
あとは、砥石城を奪われて前線基地を失ったから >>305
村上義清・小笠原長時・仁科道外としっかりと連携が取れていれば状況が変わった。 少し後ろ盾がなかったのはツライかも、かと言って幕府の影響も受けやすい距離だし、先に京極氏や土岐氏を支援して、その後支援を受けて戦乱期に先駆けて団結してれば 信濃って室町幕府管轄から当人たちが知らされぬうちに鎌倉府管轄になったり
気付いたらまた室町幕府管轄に戻ってたりと良い様に振り回され過ぎたせいで
幕府そのものに不信感が募り過ぎて「もうどっちの言う事も聞かないっ」みたいな感じで
好き勝手な自主路線歩み出したような所なかったっけ
そのせいで周辺国に比べて同格の小領主層が淘汰されずにどんぐりの背比べ状態のままだったみたいな >>308
似たようなイメージを持ってて、巨大権力からの距離的に自主路線を持て安い場所でありながら、逆にその要因が
大きい規模の統一を妨げる結果になってしまったみたいな
統一が早ければ東海の今川は覇者に近かったイメージだから小笠原氏も可能性はあったんじゃないか? >>16
今やってる武田信虎の映画みてきたら、舞台がほぼ信州でワロタ
信濃戦雲録かよ
https://nobutora.ayapro.ne.jp/ 来年の今頃GYAO!で無料放送されてそうな映画だな
かなりガチなノリの作風にはなってるようだが 諏訪頼定さん諏訪大社下社一跡を継ぐはずだったのにどうなっちまったんや・・ 映画『信虎』のキャストに村上義清やその周辺の配役がないんだが
海野平の戦いや上田原合戦砥石崩れは物語に出てこない?
劇中の会話やナレーションでもスルーなのかな?
教えてください観た人