【最北端】 蠣崎・松前 【北海道】
日本最北端にして北海道唯一の戦国大名
松前氏について語り合おう 敵対してたのか?そもそも松前家はアイヌの王だろ?逆に何故敵対する必要があるんだ? 松前氏自身が弓の達者を強調していた家だから、鉄砲を殊更重視する方向に行かなかった可能性はあると思う そもそも秋月俊幸ってどんな人?
はい、そんなレベルなんで答えられません(>_<) >>313
>しかし、アイヌ人相手にぼろ負けという認識は共通なのね
コシャマインの戦いの時点で和人の支配地がどれだけあり、1549年の蠣崎季広が行ったアイヌ人との和睦の時点で支配地がどれだけ縮小したのかを見れば誰でも分かりまっせ。
蠣崎季広の和睦内容(夷狄之商舶往還之法度)を知れればさらに。ほぼ不平等条約なので。
コシャマインの戦いしか世に知られていないので誤解する人も多いけど、あれは始まりにすぎない。 >>317
津軽海峡を封鎖した異国船というタイトルの著書で松前道広がロシアに寝返ったというデマが流れたってあるけどこのときの松前道広って梁川に転封されてるはずだからデマの流れようがなくね?と疑問に思っただけだよ >>319
マイナー大名だから転封されていたことを当時の人たちの多くが知らなかったということだろう。 >>318
松前氏自身はほとんど負けてなくね?
負けたのは他の氏族。松前氏はほとんど尻拭い。 >>320
情報漏れないようにしてたんじゃなくてただ単にマイナーだから知られてなかっただけか 蠣崎光広の頃だと思うけど、陰謀によって下ノ国守護と松前守護を滅ぼし、蝦夷地の首領になったという話は本当だろうか。
蠣崎派のアイヌを操って下国氏(下ノ国守護)の館を攻撃させて滅ぼし、
松前守護に対してはアイヌ兵に擬装して松前の館を奇襲して滅ぼした、またはアイヌ人を煽って滅ぼさせたというんだけどなんかの出典があるんでしょうか。
ネットでけっこう転がってる話なんだけど、陰謀論めいて面白い。 >>320
つまり松前家の梁川転封を知っていたのは幕府首脳部と梁川周辺の人だけ? >>324
> つまり松前家の梁川転封を知っていたのは幕府首脳部と梁川周辺の人だけ?
他の大名たちや憂国の知識人たちも知っていただろう。
庶民は1万石の大名に関心ないから知らなかっただろ。 松前氏が梁川で積極的に治世を行った記録は残されていない。
それは藩政の方針が倹約、粗食を常とし、領民と事を構えないことを第一としたためであり、
松前氏はひたすら幕府や公家に蝦夷地への復帰を働きかけていた。
その努力が実ったのは移封から15年後の文政4年(1821年)であった。
(ウィキペディア) >>323
松前累系あたりから大体採ってる。
今の史書でもちょこちょこ採用されてる説よ。 >>323
こういうのとか?
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/matuma_k.html
>これはアイヌに偽装した光広の軍勢であったとされている
戦国時代にしては器用すぎる気もするが・・・ >>321
いや負けてる。
タナサカシ相手に支館の瀬田内館を失陥してる。
そして瀬田内の回復を試みた際は、利別川での戦いに大敗して重臣の工藤佑兼が討たれるなど大損害を被っている。
結局瀬田内と、江差も多分合わせて失ってしまい、それっきり。 >>327
ありがとうございます。ちゃんと典拠があるんですね。
新羅之記録しかまともな文献はないと思いこんでいました。色々あるんですね。 >>323
>>328
さすがに無理があるやろw
・アイヌのコスプレしたって常識的に考えれば一発でばれる
・松前を落とせるほどの軍勢を隠密に行動させるのは至難の業
松前守護の連中は撫切りにすれば良いとして、 自分の館や松前周辺
の住民は必ず異変に気付く。軍隊レベルの人数の偽装なんて不可能。
そして他の独立の舘主や北海道出入りの商人から主家の桧山安東
氏に注進が行けば反逆として扱われることとなる。
しかし、蠣崎氏が主家から咎めを受けたという話はまったくない。
史実として考えるには無理が多すぎる。
松前守護の館が落城した永正10年の前年に函館周辺の館が皆アイヌ人
の攻撃で落城してるようなので、その勢いに乗ったアイヌ人の攻撃
があったと考えた方が自然ではないか。 胡奢魔犬をなんでコシャマインと呼ぶんだろうな。コシャマイヌ(コシャム+アイヌ)の方が音として正しいかと。
公的な名乗りでは男性アイヌは名前+アイヌ(良い人)で呼ばれる風習があるから最後は〜イヌで終わるはず。
ゴールデンカムイのキロランケにしたって、公の場ではキロランカイヌと呼ばれるのが正しいと思う。 アイヌ語の発音だとアイヌというよりアィヌって発音になる場合があるから、
和人から聞いてアインに聞こえることがあったってことじゃない?
日本語で記録されたアイヌ人名だと〜犬の他に〜院とか〜尹も結構あるしね。 >>333
和人兵をアイヌ兵に偽装するのは無理かもしれないけど、裏で函館方面で蜂起してたショヤコウジ兄弟と手を結んでいた可能性はあると思うよ。
武器や兵力の貸与もしていたかもしれない。
蠣崎光広には動機があるのは確か。
それが噂となって正史以外に記録されているとかね。 >>335
阿弖流為はアイヌじゃないから。
蝦夷(エミシ)とアイヌは全然ちがう。 若狭武田の末裔のスレがあったとは!
でも松前藩開祖の武田信広の出自はどれくらい信頼できるのかな?
家督争いで単身出奔したあげく、東北で戦い、北海道にまで流れて一家を起こしたって、
大河のネタにもなりうる行動力だわ。 このスレは勉強になる(*^^*)
アイヌ民族に対するイメージが変わった。
おとなしくて争いを嫌うってイメージだったけど、実は精強果敢な面もあったのだな。
武田氏などの日本人側が戦いでかなり負けてることをはじめて知ったよ(@ ̄□ ̄@;)!!
城を落とされまくりじゃない。
ゴールデンカムイでのイメージとは全然結び付かないよ。 ゴールデンカムイはもう明治だし。
左翼学者がアイヌ人等の先住民族の温和さを過度に強調しすぎた側面は
あると思うけどね。
ルイス・フロイスが
「日本国の北にエゾという大国があり、住民は酒を好み、戦いに勇猛にして
日本人ははなはだこれを怖る。彼らは出羽の国の秋田という都市まで時々
やってきて商売をしている。日本人もエゾに行くものがあるが、夷人に
殺されることを怖れていてその数は少ない」
なんて書簡をインド総督に報告してるくらいで、往時は勇猛な民族との
評判があったようだ。
他国の地域の蛮族(スキタイとかモンゴルとか)に比べるとはるかに平和的な
民族だったとは思うけど。 アイヌって熊さんと共に暮らしてたイメージ
相手熊さんだもん、そりゃ勇猛果敢になる >>342
面白いね、その情報(゚ロ゚ノ)
フロイスなら安東愛季の頃か。安東愛季は北海道と密接な関係があったということだね。
下国安東氏は蝦夷地に三つの守護を置いて間接統治してたということらしいけど、
フロイスの情報を見ると、たしかに強い関係を持っていたように思える。
そして、本州まで海を越えてアイヌ民族がやって来てたということも分かる。
それも秋田まで来てたとは凄い行動力、航海技術もそれなりのものがありそうだね。 >>345
名門武田氏の出自だろw
武田氏かどうかはともかく内地の武士で
あったことは間違いない。
松前氏はアイヌではないよ。 松前家の家祖とされる武田信広の正体は
蠣崎蔵人の乱を起こした蠣崎蔵人本人だと
思われる。
蠣崎蔵人は南部政経に敗れたあと、自害も討死もしていない。蝦夷地に逃れたと南部氏系の史書にも記されている。
蠣崎蔵人が蝦夷地に逃れた後、唐突に武田信広という男が歴史に現れてくるが、時代的にあまりにも符号しすぎている。
武田信広=蠣崎蔵人で間違いない。
いずれにしてもアイヌの血筋ではない。 >>349
現地の有力アイヌの家から嫁さんもらったという意味か? 渡党の子孫かもしれないということなら、アイヌと無縁ではないかもね。
諏訪大明神画詞に曰く、蝦夷には日の本、唐子、渡党の三種あり。
日の本、唐子は言葉が通じない。
渡党は全身に体毛が生えており、言葉は野卑だが、和国の人間と意思の疎通が可能であるという。そして、宇曽利鶴子(ウソリケシ)と萬堂満伊犬(マトウマイン)という二つの島に群居しているともいう。
ウソリケシとは現函館、マトウマインとは現松前のことと思われる。
一説には渡党とはアイヌと和人との混血であるうという。
そして、道南の武士の多くは渡党の子孫とも言われている。 倭人が北海道に渡るようになったのは江戸時代から。昆布や帆立といった清王朝以外の
平民の中国人が北海道の産物を高値でも求めるようになってから。 室町時代にはもう相当渡来してたよ。
文献でも東は鵡川(日高地方)、西は余市(小樽近郊)まで和人の集落があったということだ。
考古学の発掘でも余市の大川遺跡から14世紀頃の和人のかなり規模の大きな集落跡が発掘されていて、文献の記述を裏付けている。
和人の墓や住居、大量の伊万里焼やら中国青磁が出土しているようだ。
16世紀以降はなぜか衰退しているので、戦国〜江戸時代初期には、一時的に和人が撤退していることは確かだけども。 松前というアイヌ語の地名の場所を本拠にしていたから松前を名乗ったわけで。
地名を名字にする例はいくらでもあった。 アイヌから名前を貰ったのにアイヌを虐殺した松前藩許すまじ 別に虐殺というほどのことはしていない。
まあ商売では詐欺に加担はしたかもしれぬ。
あとは騙し討ちにしたことが3〜4回ほど・・・
いや、勝ち目が薄くてさ >>358
でも虐めてたんでしょ?アイヌにかなり助けてもらったのにね アイヌとの交易を松前藩に独占させてしまったのが諸悪の根源だなあ。
それで市場原理が働かなくなり、圧倒的大手の松前藩側のいいようにされるようになってしまった。
それ以前は個々の商人と商売して高値で買ってくれるところに売り込めたし、
気に入らんなら海を越えて南部や津軽、秋田までも行っていた。
つまり、松前藩の独占交易権を認めてしまった徳川家康が悪い。 >>353
え?蠣崎って光広の代からずっと蝦夷地にいたんじゃないの?一旦撤退してたの? >>348
> 松前家の家祖とされる武田信広の正体は
> 蠣崎蔵人の乱を起こした蠣崎蔵人本人だと
> 思われる。
同意するが、なぜ蠣崎蔵人だと名乗らなかったのか? 南部氏の追撃をかわすためだろう。
津軽海峡は以外と近い。 >>348
確かに。
蠣崎蔵人信純、自称は甲斐武田氏の末裔。
武田信義から五代目の末と称す。
武田信広、自称は若狭武田氏の末裔。
武田信賢の三男と称す。
しかし、若狭武田氏の系図に信広らしき人物は見当たらず、松前藩側が伝える父子兄弟の名前、在世年数など付き合わせるとかなり目茶苦茶。
蠣崎蔵人の乱、長禄元年2月に蠣崎城が落城し、蠣崎蔵人信純は蝦夷地に逃れる。
長禄元年5月にコシャマインの乱勃発。
花沢館の蠣崎季繁の客将だった武田信広が侍大将になり初めて歴史に姿を現す。
どうみても同一人物だな。 明智光秀=天海みたいな話か。
しかし改めて見ると、武田って"信"の字を持つ奴が多いのか?
武田信玄こと武田春信もそうだが、何かいわれがあるのだろうか。 >>365
いわゆる通字。武家は先祖から諱を一字受け継ぐ風習がある。武田家は信。
武田家に限らず色んな家がそれぞれの通字を持っている。徳川は家、上杉は憲、毛利は元、伊達は宗など。
ちなみに松前家は多分“広”。宗家の安東家は季。 >>368
>武家は先祖から諱を一字受け継ぐ風習がある。
公家もそうだっけ? 言われれば公家もそう。
高貴な家柄特有の風習だね。
ただ、通字には例外も多い。代表的なのは武田勝頼とかかな。武田家なのに信がない。 >>365
> 明智光秀=天海みたいな話か。
蒲池幸子 = 坂井泉水 >>354
鎌倉時代とかできるだけ死刑は実施せず、蝦夷渡嶋(えぞがわたりしま)への流刑
としていた。罪人を渡嶋に送り届ける任務を執行していたのが蝦夷管領であった
安東氏。
>>353
>16世紀以降はなぜか衰退しているので
古文書(新羅之記録)によれば、コシャマインの乱で余市から勇払までアイヌの攻撃があったとのこと。
生き残った人間が松前と上之国に逃れてそこに集住するようになったとある。
>>358
>まあ商売では詐欺に加担はしたかもしれぬ
第5代藩主高広の時にアイヌとの交易レートを一方的に3倍にするなど、
交易に関しては強圧的だった。商場知行制では知行を請け負う商人に対して
の監督はまったく機能せず、商人側のやりたい放題。 北海道ってオーストラリアみたいな流刑地だったのか。
蠣崎・松前とか立派な名前を持っていても実は罪人の子孫だったりするのかな。 武田氏の諱の信の通り字は、おそらく武田氏の先祖でもある河内源氏の祖の源頼信の信から来てるんだろう。 北海道が日本地図に載ったのは松前藩が出来てからだよね?渡島半島の部分だけだけど >>342
まあ九州人から聞いた蝦夷の話だし大袈裟になったり曲解があるのはしょうがないんじゃないかな >>342
それでも松前藩の野蛮さに比べればアイヌなんてまだマシなほうだけどな
そもそも中央政府から見れば松前もアイヌも同じ蛮族だし アイヌとロシア人の区別がつかなかったっていうのもよくわからないな
顔も身長も服装も言語も全然違うだろ >>380
松前は官位もっているから蛮族ではないだろ。 >>380
そもそも中央政府自体が蛮族みたいなもんだろ、この時代は >>382
いや蛮族扱いされてるからシャクシャインの戦い後の処罰も軽かったんだよ 松前藩の連中よりも最上徳内や間宮林蔵のほうが北海道愛ありそうだよな 北海道に行くと各地にアイヌ民族ではない謎の民族の壁画とか遺跡が残ってるけど殆どが後から入ってきたアイヌ民族に虐殺されて歴史から消されている
アイヌも大和民族もやってることは一緒でどっちもどっちなんだよな 古代の縄文人と渡来人の闘いが場所を北海道に移して再開されたというか
棲み分けできていたのが片方の人口爆発で片方の居住域が浸食されてしまったんだ
アイヌも元々は本州の住民で北海道には先住民がいたものと思われる 昔は冬の間宮海峡を徒歩で渡れたようだからアイヌが必ずしも本州から来てるとは言えない
むしろ大陸だろうね >>391
新大陸はかつて繋がってたのが一旦途切れて、コロンブスまでは交流がなかったけど
樺太や北海道は有史以来ずっと本州と行き来があったから、大陸から渡った集団がいたとしてもその後本州経由の方が多数派になってそう 大陸と地続き時代の遺跡としては390が言ってるような
小樽方面の洞窟や壁画やストーンサークル
北海道東部から十勝にかけての通称オホーツク文化
函館周辺の中空土偶などが発掘される遺跡群
3者とも類似性は低いらしい
アイヌの生活様式は魏志倭人伝に出てくる倭人そのもの ○389が言ってるような
×390が言ってるような アイヌは極東ロシアと松前藩との中継貿易もしてた
大陸のアイヌと交流があったからね
アイヌを通すというのは建前で完全に松前藩の密貿易でそういう意味ではアイヌを隷属化なんかできない
下に見てたとは思うけど松前城にある城下町の絵なんか見ると日本人もアイヌも仲良く商売してるのがよく分かる 松前だけではアイヌを隷属化する武力が足りなかったんだろな アイヌ側の認識として蠣崎は和人の地方豪族の一つに過ぎない存在だったのが
秀吉の朝鮮出兵中に豊臣氏直轄の大名となる
秀吉が大陸の次はお前ら(蝦夷ヶ島)と言ったとか言わなかったとか
家康が幕府を開設すると関ヶ原の前年に松前藩の藩主に
近代武器も大量に入るようになり
このへんを境にアイヌ民族の悲劇が始まる 松前藩がまとまった数の鉄砲を所有するようになってからかな?
アイヌとの軍事力が開いたのは。 それと。
仮にアイヌと野戦して負けちゃって松前城に籠城した場合。
松前城は防御力が弱いから、本州からの援軍が到着する前に落城するリスクもあったと思うんだが、どうだろう? 松前城の城下町って全国では珍しく武家町と商業町が混在してたくらい商業に特化してた
武力に目覚めたのは幕末じゃない? 蠣崎の2代目が渡島半島南部全域を支配する
4代目の時に一番美味しい函館とその周辺地域をアイヌに奪還される
さらに和人の居住域を東西2つの一部の地域に限定されてしまう
また本州からの商船に高い関税を課しその多くをアイヌの酋長に納める
という条件で和睦しこの状態が秀吉の天下統一の頃まで続く 津軽と南部。場合によっては佐竹も出兵して直ぐに鎮圧されるだけかと
その後、交易権は津軽か南部に渡り武力を背景により松前時代より
酷いレートが課されると思われ 松前城は城というより砦みたいなもんだから籠城戦はできないのではないだろうか? そもそも松前城ができたのは1855年で江戸期を通じてずっと福山館が居館だぞ
しかも幕府が松前は防衛上不適だから函館に築城すると言い始めたら全力でそれだけはやめてくれと懇願して渋々松前城ができた
松前城が半端なのは徳川幕府のお墨付きとも言える 福山館ではとても籠城戦はできない。
万一、アイヌの大軍が押し寄せてきたらどうするつもりだったのか? >>405
福山館の人達はほとんどがアイヌさんの親族です
だから大丈夫なんです アイヌ人もバカじゃないんだから松前の背後には東北の大名たちが
控えてることくらい理解してるだろ わざわざ松前の城下町までアイヌが物産売りにきてたくらいなんで和人とうまくやる方を取るだろう
アイヌを虐げられた無垢な原住民という理解こそ差別だよなあ >>407
コシャマインは松前まで攻めようとしていたのでは? 樺太方面にも進出してモンゴル帝国とも地域紛争起こしてるくらいだから
情報網もあって和人の本国の情勢も熟知してただろうね 薩摩藩のソテツ地獄。二つ名の黒糖地獄に比べれば松前は良心的 そもそも松前もアイヌだからね
日本に友好的なアイヌが松前だよ >>351
萬堂満伊犬って元は人名だったのかな
名前の語尾にアイヌがついてるし