【最北端】 蠣崎・松前 【北海道】
日本最北端にして北海道唯一の戦国大名
松前氏について語り合おう 蠣崎幕府
ttp://www5f.biglobe.ne.jp/~kakibaku/ 松前家って米が作れないから実質5万石もないんだよな
だから魚介や海の特産物等を上手く使って他大名とやりとりしてたんだが
そういえばこれは今の北海道にも変えられてない
と考えるとあるいみ立派な先駆者の仲間だな
今の北海道は日本で数少ない自給自足のできる県なんだが。 蠣崎か・・・奥羽の戦乱に直接かかわってないからね
ところで武田信広は若狭から来たのかな? ある本によれば、武田信広は館主(たてぬし)の一人であったと
この館主は、商人が武士的成長を遂げた者や、
頼朝の奥州征伐時等などに渡海した奥羽の土豪衆、の何れかではないかと 松前が武田一族だというのはかなり怪しい。
証拠があるわけでもないし。 確か蠣崎家の最後の当主は大東亜戦争で二等兵で戦死しているんだよね。
最近「アイヌと日本人」って本再読してるんだけど、
どうも蠣崎氏ってのは、安倍、清原、藤原氏から安藤一族へと続く
「浮囚」(大和時代に日本に帰依した蝦夷の一族)の末裔らしいな。 そうであっても不思議はないね
安藤と違うのは、自ら誇ってないこと どちらにしても信広より前は、よくわからないってことだね
長禄元年(1457)のコシャマイン蜂起の鎮圧かな、
信広が颯爽と登場するのは 天文二十年(1549)にアイヌと講和し、以後は支配が安定 蠣崎って下北に居たんだよね。
根城南部(八戸氏)に破れて蝦夷に敗走したんだよね。
根城南部氏は、同族(武田一族)に対しては攻められる事は有っても、自ら攻め入る様な武将ではない。
蠣崎を攻めた当時は、武田信虎とも親交が有る。義を重んじる根城南部が同族蠣崎を攻めるとは考えられない。
以上の事から、蠣崎の武田一族説は胡散臭い。 アイヌに対して相当、酷いことしてるんだよね。
>>4
いや、確かに頃は取れなかったけど、
交易などで相当っね豊かな藩だった。
ただし、その裏にはアイヌに対する過酷な収奪があったのだが・・・・
>>17
多分、事実ではないだろうね。
ちなみに武装コンブ商人説やアイヌ説がある。
>>18 >>19
そこが日本の変だったとこで
家族や名門の子息が二等兵のような最低の地位で
ガンガン前線に投入されてる。
松前どころか徳川将軍家ゆかりの人物もそうだった。 >>18
最後じゃないけど21代当主正廣子爵ですね。
現在はまだ弟の之廣氏が22代目としてご存命の筈。 >>4
その海産物の収入が莫大だったらしいじゃないか。
しかし日本は石高本位だからその分は計上しなくてよかった。 >>34
確かに三戸南部(盛岡藩)の系図は胡散臭いな。
しかし南部系図の疑問は本家がどこかって事みたいだから、蠣崎が南部の庶流との資料は信頼できるのでは?
根城南部の1334年からの資料は信頼できるのでは?
蠣崎蔵人が根城南部に破れて蝦夷に敗走した時は、根城南部が宗家。
打ち負かした敵武将の出自を捏造する必要が無いと思う。
家康にアザラシの肉を献上して
「精力付けてください」って歓心を買ってたとか何かで読んだ どうもオットセイらしいね
本草網目にふれられていた、オットセイの効能を
漢方好きの家康が目に付け、松前慶広に献上を命じたとか 必死だな、道産子。
あー弱者いびりは楽しいねえ。
由緒正しい日本人でなければできない遊びだよ。
まあ、嗜みのひとつって事で。
お前らは俺らの気分で運命すら左右される
野蛮人と罪人のなれの果てなんだよ。
悔しいか?理不尽か?そうだろうなあ。
でもそれはお前らが悪いんだよ。
少数派で弱者だからな。
誰もお前らを守ってはくれない。
お前ら自身で自分の身すら守れない。
みじめだねえ。 >>35
だけど大名だから石高で領土を表現しなきゃならんので、
とりあえず10万石相当、ってことになってたんだっけか。
というか、秋田藩ですら江戸幕府開いたときには太閤検地も終わってないしで、
家康も石高知らなかった、っていうし・・・。
それより北の蝦夷の立場は推して知るべし、かな。 秋田藩は安東氏の過小申告と
元々小大名が乱立してた場所を一纏めにしてたからじゃないのか? 最近知ったことですが、北海道人の女性はおしっこの後に
股間を拭かないそうです。男性と違って、女性の場合は
おしっこをすると、陰毛が濡れたり、股間全体が不衛生になりがちですので、
拭くのが内地では常識だと思います。
インターネットで検索すると北海道の女性はおしっこをしても
股間を拭かないという情報がいっぱい出てきて驚きます。
なぜ拭かなくても平気なのか理解できません。
北海道人女性と交流のある方、私の疑問に答えてくれませんか?
北海道は隣なので仲良くしたいと思っているのですが、
こんな事実を知ってがっかりです。 >>44
なかった。アイヌの部族ならいっぱいいたが。
あと江戸中期にはロシアの脅威が出てきた。 室町〜戦国前期は日の本将軍の影響力があったと思うが >>47
道南十二館館主の出自
ttp://www5f.biglobe.ne.jp/~kakibaku/his0202.html と言うかアイヌとの抗争以外は、安東氏の軍役徴収で陸奥に出兵したのが主なんだよね 松前22代目は横浜で教師をしていたらしい・・たった150年で堕ちるもんだな。 >>54
子爵か…
まあそんなもんじゃないか?特に明治維新のときに功は無かったから。 >>53
安東氏のことだね
室町期は日の本将軍だし、支配権を認められていた [写真集][IV] JUN(20070804-071432)のアルバム.zip 599,365,104 f104383345fe9f8bd35c3e8f5f0e3d05d4de981a
奥さん?のマンコ撮りあり
オリジナルフォルダにトイレ盗撮多数
武藤 曙らの宴会写真あり 誰かがチンボ出してるwww
職場 浜頓別町
http://megalodon.jp/?url=http://www10.plala.or.jp/junsoft/matu/matuya.html&date=20070806205052
ご尊顔
http://aycu39.webshots.com/image/22518/2001984865194809123_rs.jpg
まとめ
http://www.mudaijp.com/wp/?p=687
http://tn1600mg.canalblog.com/archives/2007/08/12/5870313.html
北の国から盗撮画像流出【バスガイド OL 曙 武蔵】
http://sports11.2ch.net/test/read.cgi/wres/1186328026/ 戦国期は渡島半島の南端が勢力圏じゃないかな
ちなみに和人で初めて羊蹄山に登ったのは寛政年間の最上徳内とも 確実な線としては、
だいたい今の上ノ国町と知内町を結ぶラインから南ぐらいかな
東側はもう少し北(今の木古内町とか北斗市南部あたりまで影響力はあったかもしれないけど 羊蹄山って名前自体が平安時代だかに蝦夷討伐に船で向かった誰だったかが名付けたんじゃなかったっけ? >>時は、根城南部が宗家。
宗家てのは嫡流血統で決まるものだよ
勢力の強弱で決まるものじゃない
根城南部と南部光行の血統関係が定かでないでしょ
細川の宗家は没落してもずっと京兆だよ(忠興の家系ではない) 蛎崎氏の連れてきたアイヌ兵って命中率が非常に高くおまけに毒矢を使ってて
九戸の乱を鎮圧しにきた諸将がそうとうビビったってマジ? >>73
確かにそういう記録が残ってますな
原文忘れたけど、一部を現代文化すれば、
「アイヌの撃つ矢に当たったものは軽傷でも死なないものはいなかった」
だったかな アイヌが毒矢を使うのは 平安期の記録にも載ってるらしい。
長い歴史があるね。 甚だ酒を好み、戦闘に勇猛にして、日本人は之を恐る、か 戦国時代に津軽氏と合戦でもやっていれば
このスレももっと盛り上がったんだろうが。 >>76
その天文の講和の内容自体、アイヌを持ち上げる形のものでしたからねぇ
束縛がきつくなったのは蠣崎氏が名実ともに独立した大名となった1590年代以降ですね
>>80
秋田の方には結構行ってたみたいだけどね
安東家から手伝いに来い言われて 天文十五年〜天正十八年に七回安東氏の軍役徴収に応じている 72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/12/08(土) 16:38:52 ID:vAQqiA0b
>>時は、根城南部が宗家。
宗家てのは嫡流血統で決まるものだよ
勢力の強弱で決まるものじゃない
根城南部と南部光行の血統関係が定かでないでしょ
細川の宗家は没落してもずっと京兆だよ(忠興の家系ではない)
細川の場合、忠興の家系が本家よりも官位が高い
「ねじれ現象」があったのではなかったか。 京兆家って縁戚の秋田(安東)家の客分になったんだよね >>94
自称若狭武田氏傍流だが、実際は激しく怪しい
実際は南部氏傍流でないかというのが可能性の高い説
どちらにしても武田氏流になるにはなるけど、
南部氏の傍流でしかないなら支流の支流のそのまた支流程度でしかないかと ●北海道サミットで札幌の犬肉自粛
札幌市飲食業界協会が加盟飲食店に対してサミット期間中、
犬肉料理を出さないよう呼びかけていた。
11日付の北海道新聞が報じた。
同紙によると、札幌市は112店あるサミット組織委員会契約レストランに対し、
犬肉料理の提供を禁止する通知を出した。
飲食業界協会は北海道新聞の取材に
「02年日韓サッカーワールドカップ(W杯)のとき、
韓国が犬肉料理で欧米から批判されたのを意識した」と話した。
日韓W杯の際には国際サッカー連盟(FIFA)や動物愛護団体が
「犬肉を食べないで」と韓国側に要請したが、
犬肉料理店などから「わが国の食文化であり、一方的な主張だ」との反発も強かった。
道内でも帯広、旭川両市を中心に犬肉を食べる習慣があり、
札幌市内でも郷土料理や両市の料理を出す店で食べることができる。 >>99
武田信広(出自は実際の所不明)は当初蠣崎季繁の客将として花沢館にいたかと思われる
コシャマインの乱の後、安東家の娘と縁組みし、さらに蠣崎季繁の養子になった
当然蠣崎家を継いだ時点で花沢館主だろうねぇ
その後、勝山館建てて移ったけど 蠣崎って水軍持ってなかったの?
兵一人一人も戦慣れしてなさそうで弱そう 九戸の乱では矢が当りすぎwwとか言われてなかったっけ? 安東との結び付きもあり水軍はそれなりに長じていたのではないかな。
あと九戸の乱では弓矢の練度の高さと毒矢を使用していた記録があり、
アイヌと狩猟などの協力や生活圏を巡る鍔ぜり合いをしてきた影響が伺える。
和人化したり混血したりもあったのだろう。
家督を巡る内紛もあったし決して戦いに不慣れでは無かったと思う。
ただ、数を揃えるのは大変だったのではないかな。 所でおまえら蠣崎の家臣でだれが好きよ?
だんぜん南条広継だな逆さ水松の伝説の詳細を見て気に入った
なんという忠義の将 安東氏とは何年くらい抗争してたんだ?
>>18
陸軍上等兵 永倉含めていいなら
蠣崎松前家中で一番有名なのは
新八になっちゃうだろうなw 労災隠しこわい労災隠しこわい隠ぺい口封じ殺される隠ぺい口封じ殺される隠ぺい口封じ殺されるパワハラこわいパワハラこわいパワハラこわい殺される殺される殺される殺される死にたい死にたい死にたい死にたい死にたいごめんねごめんねごめんねごめんね死にたい 拷問は嫌 >>18
そういう点では
大日本帝国憲法の平等性は素晴らしいからな >>120
憲法というか、昭和陸軍がソ連真っ青の平等社会だっただけw
高学歴とか、名家とか一切関係なしで二等兵扱い。 徳川がアイヌいじめたらだめだよ
って言ってたのに松前藩がいじめたから
教科書にも幕府はアイヌにひどいことした
って乗ってるんだよな
江戸期は大規模な反乱なかったんでしょ。であればうまくやってた。 日本海交易、北の終着点だったからね
本州からは米や酒、後は陶磁器とか
逆に北海道からは昆布などの海産物などが取引で出入りしていった
この交易が寄港地に与えた影響は大きくて、
蝦夷からの昆布の運び出しは各地に昆布料理の文化を芽生えさせ、
逆に、新潟の酒造業は蝦夷との取引で活気づいていたそうな 【日之本將軍】安東氏スレ【蝦夷管領】
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1246273764/ 衆院選、民主勝利後の最悪シナリオ
民主が国政第一党になる
↓
公明「外国人参政権などの党としての本懐で民主党と一致した」
民主、公明の連立政権成立
↓
国政での外国人参政権が成立
国政選挙で民主、公明、社民更なる躍進
↓
人権擁護法が与党の賛成多数により成立
行政、在日朝鮮人、中国人、宗教法人を批判すると罰せられる様になる
↓
国籍法の更なる緩和
日本国籍と生活保護資格だけ持つ、日本人の血が一滴も入ってない中国人が急増
↓
在日朝鮮系、中国人系の国会議員も出現
親中国の自民議員が民主に寝返る
自民党完全無力化、または解散消滅
↓
日本乗っ取り完了
「民主党の正体」 「ミコスマ」 「韓国は“なぜ”反日か?」で検索 ありすぎてかつどれも信頼に足る根拠がない
そして松前氏が主張した出自にも実のところ根拠がない
本人達は〜主張しているが、実際には不明と言わざるを得ないという典型例 財界さっぽろかなにかで
「松前家の当主が死去して後継者争い」
という記事が載っていた。
去年だったか、もっと前だったかなあ。 松前家は現在は松前ではなく函館か札幌に移住しているのではなかったか?
違っていたらすまん。 前にオカ板で松前の家老の子孫の人が降臨してたぞ
資料館に漆器を寄付したとか言ってたな 松前家の当主は現在は札幌ではなく東京在住ではなかったか?
間違っていたらすまん。 松前の資料は松前町と開拓記念館とに分散してるみたいだな >>115-116
いまさらだが永倉の家は江戸中期に幕府から送り込まれて松前の家臣になっただけの筈。
それにずっと江戸勤めで北海道には中年になって初めて行った。 >>165
> いまさらだが永倉の家は江戸中期に幕府から送り込まれて松前の家臣になっただけの筈。
松前の家臣になる前の永倉家はどうしていたんだ? まずまず島津と松前はろくでなしばかりだお( ^ω^) >>125
いや、そういう論理にはならない。
アイヌに対して、結構酷いこともしてた。 >>152
意味不明なレスだな。
政治活動している殿様の子孫の方が珍しいと思うが。
細川とか亀井とかはごく少数。
>>156 >>159
松前家は別に北海道の人の尊崇を集めているわけではない。
松前町あたりは知らないが。 そもそも、この平成の世に
「殿様の祖先」とやらがいきなり出てきて知事とか市長の選挙に出るとして
当選できる確率はどれくらいあるんだろうか?
そんな「殿様の祖先」というのがウリなだけで当選できるとはとても思えんぞ。
そんな「殿様の祖先」よりは「タレント候補」でも擁立したほうがよっぽどいいと思うが。
そのまんま東みたいな。 まともな大名なら今でも政財界に食い込んで一定の支配力を維持していたり
家士による組織を形成している場合もあるから出馬すれば当選する確率は高いお( ^ω^)
漏れの地元などは田舎だから今でも支配層が明確に分かれているお( ^ω^) 本家の先代の家長はもう故人になったけど、担ぎ出されて1期だけ市長をやったことがある
大名だったわけではなく千年以上続いている神社やってるので地元では知られてる家
親や本家の人から聞いた話で、まだ昭和の頃ね
出れば当選確実だった当時の市長が急に次期市長選には出ないと引退宣言(全くの私的理由。子供が
難病患ってしまいその介護に専念したいという今では不思議でもなんでもないけど当時だと降板理由に
なっていないとかで大揉めしたらしい)
後継めぐって水面下で市や県の議会与野党巻き込んでgdgdの争いをやってしまって終始がつかなくなった
そこで市長や地元選出国会議員複数(与野党含めてというのが笑えるんだが)が本家に来て出馬依頼
お神輿という表現がまさに当てはまるわなってくらいの1期限定の臨時登板だったそうな >>177
そりゃ、あくまで伊達家の場合の話しでしょ。
松前なんて、北海道ではあまりに小さい存在だし。
松前家がどうとかなんて道内ではよほどの歴史マニアくらいしか知らんぞ。 >>175
>政治活動している殿様の子孫の方が珍しいと思うが。
> 細川とか亀井とかはごく少数。
秋田の佐竹さん。
井伊さんは彦根市長だったことがある。
柳川の立花さんも選挙に出たことある。 >>181
佐倉の掘田さんも「殿様市長」として有名だった方だな。 だね
佐竹一門筆頭はゲームとかでよくでる東家だが
北家は角館城代だ >>181
でも、そういうのって、割合から言えばごく低いと思うよ。
明治の廃藩置県以来の日本全国の県知事とか市長の全任期期間から
殿様直系の人物がどれだけ勤めたか割合で計算すれば
0.01%もないんじゃないのか? 殿様というほどじゃないけど田舎じゃ庄屋や郷士が市町村長や議員を務めている例が結構多いね
>>186
義久の頃は東家が筆頭だけど江戸時代になってからは西家(小場)か北家が筆頭みたい 戦国時代で分かってるアイヌ人てチコモタインとハシタインだけ? >>189
16世紀初頭だけどショヤコウジがいる
蠣崎を攻め立てたものの、例によって偽の講和で誘き出されて惨殺されてる 結局出自は
若狭武田?南部?俘囚?安東?アイヌ?商人? 北海道の人間にとっては松前の殿様なんかより間宮林蔵、伊能忠敬、松浦武四郎の方が100倍偉い
間宮林蔵と松浦武四郎は北海道神宮の祭神になってるしな
>>197
松前さんからしたら、南部・安東あたりは絶対に名乗りたくなかっただろうね。
アイヌ出身も嫌だろう。
松前の自称する若狭武田説はかなり突飛な気がするけど、
青森の髭が近衛のご落胤を称したのと同じ理屈じゃないかな。 南部の相当初期のだろうが津軽のトラブルみていて名乗る訳ないな >>199
津軽家臣の沼田氏とか若狭武田家臣にもいるんだよなー。
意外と若狭武田系ってありえそうなんだよな。
そういや若狭武田は安芸武田に養子を出してるよね。
>>120-121
その代わり、帝国陸軍内部では
高学歴者に対して鬼のようなイジメがあったけどね・・・
鎌倉幕府内で三浦氏の被官だった長尾氏や沼田氏も三浦滅亡とともに壊滅。
その後、北条執権幕府滅亡に伴い、足利尊氏の母の上杉氏の執事として長尾氏が復権する。
三浦氏の支流も葦名氏として会津平定へ派遣される。
この時に上野国北部に沼田氏も派遣されたのだろうか?
一説に大友氏の支流が沼田氏であり、三浦氏流と称する沼田氏と入れ替わったとする話もある。
いずれにしても沼田氏も謎の家系の一つだろう。
津軽の沼田祐光の話だと源頼朝の時代に若狭国熊川を拝領した上野国沼田氏の一族で
永禄年間に若狭武田氏の内紛で破れて近江へ出奔したらしい。
ちなみに沼田の名が示すように古代の沼田の地は利根川のせいか、大きな湖や沼地だった伝承もある。 慶広が独立することに対して秋田側は嫌がらなかったんだろか。
確か松前側の記録では上洛したさい実季がついてきてくれたとかなんとか。
愛季時代は忠実な家臣として振る舞ってただけに不思議だ。 携帯の戦国時代で全国統一を目指すゲームで松前慶広で北からじわじわと
攻めて行くのがひそかな楽しみだったw 城を築いたが旧幕軍と新撰組にあっさり落とされた伊豆守崇廣 >>205
その頃の安東は家中の混乱を押さえた南部信直の
進攻に晒されていてそれどころではなかったと思うよ。
松前漬けって松前藩で作ったから松前漬けなのかな
蠣崎漬けだとまずそう >>208
ついでに言えば、すでに直接的影響を及ぼせなくなっていた蝦夷地は安東氏にとっては価値が低かったと見るのが自然
当時は係争地になっていた鹿角とかの方が圧倒的に優先度高かったから
であれば、無理に抑えつけるよりは、独立的立場を認めて、友好的関係を続ける方が当時の情勢下であれば利益が大きいともみれる
>>209
松前一帯の郷土料理
誕生時期は明確には不明だったはず
一般に知られるようになったのが昭和に入ってだから松前漬けとして売られたのかもしれんという予想はできなくもないが >>210
> 無理に抑えつけるよりは、独立的立場を認めて、友好的関係を続ける方が当時の情勢下であれば利益が大きいともみれる
あーそういうことか。すごい納得いった。
確かに直接統治するには本州と何もかも違いすぎる。影響力を持ちながら同盟国にしちゃったほうが賢明なわけか。
慶広のトーチャンも独立をすごく喜んだというから、お互い旨味のある提案だったのね。
松前さんて武田さんなの?あきんどさんなの?南部さんなの? 松前藩は支配面積でいえば日本の1/5を支配するという江戸時代最大の藩と言えなくもないのだろうか
>>219
石高や官位ではなく、面積での評価は斬新だ。 江戸にまで名前が知られるような有名な学者とか文化人を輩出しているか? 「場所」という交易権が誰にどこを割り振られたかは分かったの? あーよく蒼天録のイベントエディット使って、なんの脈絡もなく朝廷から使者がきて関白と征夷大将軍を授与される蠣崎さんやってたな。 戦国大名といっても、ガチで天下を欲したのは少数。
松前とか南部とか里見とか宗とか飛騨姉小路が天下人になろうとしたことは1度もない。 元参議院議員のご子息、萱野氏がアイヌ民族党という政党を設立しました
日ハムの日常
ttp://www.youtube.com/watch?v=jb9TWJ_CjWo&sns=em 豊臣、徳川で樺太あたりまで天領にしとけば偉大な人物になれたのにとおもふ 当時はアイヌをからかいながら冬に怯えて平和に暮らしてたのかな 津軽藩とか盛岡藩にもアイヌ人はいたみたいだけどね。
幕府と松前藩の目を盗む形で、北方交易に手を出してたし。 土居良一氏の海翁伝読んだぞ
瀬戸内の河野家が蠣崎家の先祖だとか言う話になってた
なかなか面白かったけどね >>244
>瀬戸内の河野家が蠣崎家の先祖だとか言う話になってた
フィクションとしては面白いが、史実でその可能性はないと思う。 >>16
ユメピリカって北海道じゃないっけ?
ユメピリカってコシヒカリより美味しいと思う。 榎本守恵って人、松前氏は若狭あたりの商人じゃないかと言ってるよね
この人と対談してる司馬さんの短編小説で本物の信広?を殺す→
すりかわる→蝦夷へ→コマシャインの戦い→松前氏
みたいのがあったような… 松前という姓にしても松平氏と前田家に
ごまをすって松前だからもと商人だ。
ラックスマンが通称交渉にやってくるまで函館が本拠地だった 洞爺丸とか、昭和に入っても歴史の裏で色々と動いてるのを、一般人は知らないんだろーな。 シャクシャインの乱は
本州に同化したエゾ(松前)、同化しないアイヌ、のエゾ・アイヌ地域内乱だな
アイヌが砂金など利権をめぐって殺し合い、仲介しようとした松前氏も標的にした内乱
シャクシャイン指揮の、かなりの鉄砲も持った武装アイヌ集団が
まず、一般人(本州人)を大量に殺害 (時期の近い島原の乱などに比し、鎮圧は激甘)
※ 少し前の地域状況として
アイヌがニブフを繰返し侵略して、後ろ盾の元王朝がアイヌに懲罰遠征した件
アイヌの侵略は、ニブフで重要な、鷹狩り職人の拉致が目的とも言われてる
また、格差社会アイヌでは、長が多くの妾を独占し、女性を贈答品扱い
http://30932531.at.webry.info/201205/article_4.html
> 擦文人やアイヌが
> それほど親交関係にないオホーツク人を同化させた方法は、
> まず女性を贈答品として彼らに送ることであった。
オホーツク人の文化(イオマンテの起源など)も、アイヌが同化侵略で吸収してた 砂金で儲けたアイヌ部族も火縄銃持ってたようで、砂金発見がもう少し早ければ歴史が… ロシアの極東進出、砂金利権でのアイヌ富裕化、がもっと早ければ状況変わってた > シャクシャインの話
「ウタフが疱瘡で没すると、シャクシャインは松前氏が毒殺したとして挙兵。」
http://www2u.biglobe.ne.jp/~shuuzo2/kaisetu_5.htm
≫ ★ 交易船員・鷹師・金堀など合計355人が殺される。
****略****
> 北方史史料集成第四巻と『渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書』と『松前蝦夷一揆聞書』
> によると以下のような
≫ 「松前は我々の絶滅をたくらんでいる。今後の商船の貨物には毒が入っている恐れがある。
≫ 全ウタリは力を合わせ、シャモ(和人)を殺し、米・味噌を奪って兵糧にすること。
≫ アイヌモシリ(蝦夷地)から和人を追い出し、我々のモシリを取り戻そう。
≫ 参戦しないコタンはシャモよか先に殺す !!」
・デマの扇動・脅迫で挙兵し
・まず民間人(本州人)を狙い百人単位で虐殺、と相当な武装テロだ >>261
変わらんよ。アイヌじゃ松前さえ倒せない
仮に松前を支配下においてもその先の南部は無理ゲー アイヌは文字がなく、数が苦手で商売下手
狩猟技術は高いが兵器の発達に呑まれ、ロシアの進出にも追われた
さらにアイヌは格差社会で、酋長が妾として女性を独占し、若者が結婚できず人口減
(見かねた幕府が、妾の数制限でアイヌを助けた)
http://8003.teacup.com/doshin/bbs/5841
> 莫大な富を蓄えた酋長が多くの妾を独占して
> 若者に結婚の機会が与えられないことがアイヌの人口減少の原因だと
> 判断して、酋長がもつ妾の数を三人までに制限しました。
・・・こんな部族集団は、近代以降は大した勢力にはなれない >>266
土地の生産力が低いから、人口抑制のために敢えてやってたんじゃね? シャクシャインの悪虐>>264に対する、幕府の甘い対応(島原の乱に比べて)は
渡党(蝦夷)が本州化した松前 vs アイヌ の、ある意味異民族同士の内乱だからか >>45 北方諸民族は交易相手として出てくるくらいだな
江戸時代になると、サンタン交易で借金作ったアイヌから家財奪ったり
アイヌを債務奴隷として連れ去ったりする、サンタン武装商人も関わってくる 裏日本は沿岸交易で平安期からトーホグと若狭交流あるからな アイヌの行動は「心まかせ」とされ、放任主義だったとある 松前・渡党はアイヌを放任してたから北方領土確保の面でちょっと >>267
北海道に農業技術教えた、ルイスベーマー・エドウィンダンら開拓外国人に感謝だな
開拓以前
山菜などの採集は主に女性の役割だが、人食いオオカミの襲撃などで命がけ
ウバユリ(山菜)掘りに行って、大勢の女性がエゾオオカミの大群に襲われ
ほとんど食い殺されてしまった惨劇が、アイヌの口述で伝わってる
梅木佳代/口承文芸にあらわれるアイヌのオオカミ観
http://douminzoku.web.fc2.com/kaishi_pdf/10/10-04umeki.pdf
> 3-3-1. 人を襲うオオカミ
> 人を襲うオオカミ「狼から逃れた娘」<資料 12>と
> 「狼の襲撃から危うく難を逃れた女の話」<資料 46>は、
> 酷似した内容のテキストであり、
> 大勢の女性がオオカミの群れに襲われ、食い殺された事件が描かれる。 『アイヌ学入門 (講談社現代新書) | 瀬川 拓郎』によれば
渡党とは、北海道南西にいた日本文化をかなり取り入れたアイヌのことらしい
この渡党(和人化したアイヌ)がやがて松前藩を形成する 蠣崎氏※アイヌの渡党※→松前藩 つまり松前藩もアイヌの一派 シャクシャインによる、民間の和人虐殺
http://www2.rikkyo.ac.jp/web/esdrc/products/zoku_senjuminzokutoESD.pdf
> 小屋を懸けさせ、くつろき候時分、
> 狄共夜に入りよせ、皆皆殺し申由に付……」すなわち寛文9年の蜂起の和人殺害は、
> シコツではじまった。
http://30932531.at.webry.info/201205/article_4.html
> アイヌの鎧、甲冑は基本的に倭人のものと同様で、
> 武器の備えもかなり先進性を帯びており、
> たとえば1669年のシャクシャインの戦いにおいては、 倭人側の相当数の武士が
> アイヌの火縄銃の犠牲になったということがわかっているそうである。
シャクシャインのテロ蜂起>>264に対し
松前は他の藩から武器を借りたが、他のアイヌ各部族は多数の銃で武装してた 松前藩はジャガイモを導入するべきだった。
さらに北の樺太まで植民・領有するべきだった。 蠣崎氏は安藤氏の傘下とあるのだが、安藤は秋田でしょ? 地理的に言ったら青森の南部の傘下じゃないの?
勢力図がよくわからん 元々津軽や下北は下国安東領だけど南部に奪われて、下国安東氏は蝦夷地にいったん逃げた後、湊安東氏のツテで秋田に移転
津軽下北はその後南部系領主や浪岡氏に分割、蝦夷地はそのまま安東系領主が勢力保ったって形。海路で秋田と繋がっていたので特に問題は無かった模様 安東から独立を果たしたり、南部が仕切っていた北方交易の権利を奪取したりと
この時代の大名としては意外と活躍してるんだよな。 戦国時代なのに、それほど戦争しなかったのではないか? 普通に安東配下として鹿角やら由利やら津軽に出兵してるがな 独立した時には秀吉天下統一してる。後は江戸時代になって大坂やヘナウケやシャクシャイン 江戸時代に
ロシアのコサック兵が、千島列島を武力で制圧したり
レザノフが、軍艦で北方領土を襲撃したのは、、、
松前藩としては応戦して無いかな、、しかもボロ負けだし アイヌとの同化を拒んでたんだっけ?アイヌには見分けがつくようにアイヌの衣装を着ることを強制させてたとか 津軽、南部、佐竹にもアイヌは居たようだけどこちらは同化政策したんだよな
何で松前藩は同化政策しなかったんだろう 松前藩があまりにも信頼がないせいで文化露寇時に松前道広がロシア側に寝返ったってデマが流れてたってマジ? >>292
よく分からんがアイヌとの交易が飯の種だから同化されて減ってしまうことが嫌だったのかも。
松前藩は何しろ経済基盤が貧弱すぎてな。
幕府が直轄地にしたのも、基盤の弱さを慮ってだろう。
対露防衛といっても武器も武士も数が揃えられず、下手すりゃアイヌ側が本気出せばアイヌ人にも(単独では)負けかねない程度だし。 >>287
ところが意外と戦っている。
主にアイヌ人相手に。もちろん苦戦の連続ですよ。
他に宗家の檜山安東氏に何回か援軍を出している。 >>297
> 主にアイヌ人相手に。もちろん苦戦の連続ですよ。
松前さんの場合、鉄砲の数が少ないし、城郭は砦レベルの防御力だしで、苦戦するのは仕方ないんだろうな。 >>298
蛎崎氏等の道南の武士たちがアイヌ人に勝てなかった理由は当時の蝦夷地の地勢にあると思う。
当時の蝦夷地は農民なんかまったく居ないから足軽を使った集団戦法が使えない。多分、当時の道南武士は南北朝時代そのままの戦闘方しか知らなかったんではないかな。
しかし、当時の蝦夷地はまったく開拓もされてないから一歩内陸に入ったら湿地か密林。騎馬が活躍できる場所が少ない。
比較的近距離で弓矢の打ち合いということになったろうけど、相手は毒矢を使うのに長けている。
なかなか厳しい状況だよね。鉄砲が普及すれば状況は変わったと思うけど。 今北海道に来てる、さすがに寒いぜ。
函館空港近くの志苔館(しのりだて)跡に来たぜ。
説明板にアイヌとの戦いで2回落城して廃館になったと書いてるわ。
たしかに虎口は二重土塁に二重空堀だけど、全体に見て本州の出城レベルだね。
これからイカを食いに行く 【第一次23名、第二次36名、計59名】 来年はサヨク捕り放題、好きなだけ死刑執行ですか、安倍ちゃん
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1546064815/l50
日本が死刑大国へ、もはや無関心層が一番足引っ張ってる。 >>299
>鉄砲が普及すれば状況は変わったと思うけど。
ひょっとしたら鉄砲を買うカネがなかったのかな? >>303
蠣崎季広の子・蠣崎慶広の代には上洛して、天下を平定した豊臣秀吉(関白、太閤)に拝謁することで本領を安堵された。
これによって秋田氏(旧・安東氏)から名実ともに独立する事になった。天正19年(1591年)、
秀吉の命に応じて九戸政実の乱に多数のアイヌを動員して参陣。秀吉の死後は徳川家康に接近して
慶長4年(1599年)、
姓名をアイヌ語「マトマエ」由来の地名である「松前」に因んで松前慶広に改める。
(ウィキペディア)
「松」は特に誰ということはないようだ。 >>302
多分、金はあったと思う。海産物の交易は今も昔もドル箱。
松前藩は、海産物の交易で設けていた。3万石相当とされていたけど、実際はそれ以上に設けていたらしい。
また300さんが訪ねている志苔館からはコシャマインの戦いの時に埋蔵されたと推定される埋蔵古銭が発掘されてるが、その数なんと38万7千枚。
日本国内で一ヶ所から発見された古銭として今もって最大。
単に北の端っこにいたから鉄砲の知識が伝わらなかったとか。 鉄砲を買い込み、さらにそれなりの規模の城塞をつくっておけば、
たとえアイヌが攻めこんできても籠城して、
城内から鉄砲で反撃すれば負けることはなかったと思うんだが。 >>306
完全に独占できるならともかく、普通に買い込むだけなら市中にも同じように出回るしアイヌ側も持つようになってしまう
よく西部劇で馬に乗ったインディアン(アメリカ先住民)が描かれてるけど、あいつらが馬に乗り始めたのはヨーロッパ人が大陸に馬を持ち込んでからなんだぜ >>307
アイヌ側は仮に鉄砲を入手できても、銃弾の補給が続かない。 >>305
本州最北の南部家で北信愛が侍100人と鉄砲隊20丁でクーデターを起こした例もあるし伝わらなかったとは考えにくい。
常識的に考えて領内へ入らないようにしたんでしょ。アイヌ人も鉄砲を知れば害獣対策という名目で手に入れたがるだろうし >>309
> 常識的に考えて領内へ入らないようにしたんでしょ。
鉄砲を持っていなかったとは考えにくいが、記録が残っていないのではなかったか。 そもそもアイヌ相手にボロ負けしてた時期は鉄砲無いやろ
主筋の安藤氏が鉄砲使い始めたのがせいぜい永禄頃、その頃にはアイヌとは比較的平穏になってる
シャクシャインの頃は松前もそれなりに鉄砲使ってる 九戸の乱の時にわざわざアイヌ弓隊を率いてそれが表看板になるくらいだから鉄砲は重視されていなかったのかもしれず。
シャクシャインの時も南部藩や津軽藩からかなり鉄砲と銃兵を借り受けたという話だし、鉄砲があまりあったとは思えない。
九戸の乱の時に大活躍したらしいアイヌ人の毒矢部隊も色々謎が多い。
長年敵対したはずのアイヌ人をどうやって組織したのか。日本ではあまりいない傭兵だったのか。士分にしてたのか。有力氏族を味方につけていたのか。分からないことは多い。
しかし、アイヌ人相手にぼろ負けという認識は共通なのね。 敵対してたのか?そもそも松前家はアイヌの王だろ?逆に何故敵対する必要があるんだ? 松前氏自身が弓の達者を強調していた家だから、鉄砲を殊更重視する方向に行かなかった可能性はあると思う そもそも秋月俊幸ってどんな人?
はい、そんなレベルなんで答えられません(>_<) >>313
>しかし、アイヌ人相手にぼろ負けという認識は共通なのね
コシャマインの戦いの時点で和人の支配地がどれだけあり、1549年の蠣崎季広が行ったアイヌ人との和睦の時点で支配地がどれだけ縮小したのかを見れば誰でも分かりまっせ。
蠣崎季広の和睦内容(夷狄之商舶往還之法度)を知れればさらに。ほぼ不平等条約なので。
コシャマインの戦いしか世に知られていないので誤解する人も多いけど、あれは始まりにすぎない。 >>317
津軽海峡を封鎖した異国船というタイトルの著書で松前道広がロシアに寝返ったというデマが流れたってあるけどこのときの松前道広って梁川に転封されてるはずだからデマの流れようがなくね?と疑問に思っただけだよ >>319
マイナー大名だから転封されていたことを当時の人たちの多くが知らなかったということだろう。 >>318
松前氏自身はほとんど負けてなくね?
負けたのは他の氏族。松前氏はほとんど尻拭い。 >>320
情報漏れないようにしてたんじゃなくてただ単にマイナーだから知られてなかっただけか 蠣崎光広の頃だと思うけど、陰謀によって下ノ国守護と松前守護を滅ぼし、蝦夷地の首領になったという話は本当だろうか。
蠣崎派のアイヌを操って下国氏(下ノ国守護)の館を攻撃させて滅ぼし、
松前守護に対してはアイヌ兵に擬装して松前の館を奇襲して滅ぼした、またはアイヌ人を煽って滅ぼさせたというんだけどなんかの出典があるんでしょうか。
ネットでけっこう転がってる話なんだけど、陰謀論めいて面白い。 >>320
つまり松前家の梁川転封を知っていたのは幕府首脳部と梁川周辺の人だけ? >>324
> つまり松前家の梁川転封を知っていたのは幕府首脳部と梁川周辺の人だけ?
他の大名たちや憂国の知識人たちも知っていただろう。
庶民は1万石の大名に関心ないから知らなかっただろ。 松前氏が梁川で積極的に治世を行った記録は残されていない。
それは藩政の方針が倹約、粗食を常とし、領民と事を構えないことを第一としたためであり、
松前氏はひたすら幕府や公家に蝦夷地への復帰を働きかけていた。
その努力が実ったのは移封から15年後の文政4年(1821年)であった。
(ウィキペディア) >>323
松前累系あたりから大体採ってる。
今の史書でもちょこちょこ採用されてる説よ。 >>323
こういうのとか?
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/matuma_k.html
>これはアイヌに偽装した光広の軍勢であったとされている
戦国時代にしては器用すぎる気もするが・・・ >>321
いや負けてる。
タナサカシ相手に支館の瀬田内館を失陥してる。
そして瀬田内の回復を試みた際は、利別川での戦いに大敗して重臣の工藤佑兼が討たれるなど大損害を被っている。
結局瀬田内と、江差も多分合わせて失ってしまい、それっきり。 >>327
ありがとうございます。ちゃんと典拠があるんですね。
新羅之記録しかまともな文献はないと思いこんでいました。色々あるんですね。 >>323
>>328
さすがに無理があるやろw
・アイヌのコスプレしたって常識的に考えれば一発でばれる
・松前を落とせるほどの軍勢を隠密に行動させるのは至難の業
松前守護の連中は撫切りにすれば良いとして、 自分の館や松前周辺
の住民は必ず異変に気付く。軍隊レベルの人数の偽装なんて不可能。
そして他の独立の舘主や北海道出入りの商人から主家の桧山安東
氏に注進が行けば反逆として扱われることとなる。
しかし、蠣崎氏が主家から咎めを受けたという話はまったくない。
史実として考えるには無理が多すぎる。
松前守護の館が落城した永正10年の前年に函館周辺の館が皆アイヌ人
の攻撃で落城してるようなので、その勢いに乗ったアイヌ人の攻撃
があったと考えた方が自然ではないか。 胡奢魔犬をなんでコシャマインと呼ぶんだろうな。コシャマイヌ(コシャム+アイヌ)の方が音として正しいかと。
公的な名乗りでは男性アイヌは名前+アイヌ(良い人)で呼ばれる風習があるから最後は〜イヌで終わるはず。
ゴールデンカムイのキロランケにしたって、公の場ではキロランカイヌと呼ばれるのが正しいと思う。 アイヌ語の発音だとアイヌというよりアィヌって発音になる場合があるから、
和人から聞いてアインに聞こえることがあったってことじゃない?
日本語で記録されたアイヌ人名だと〜犬の他に〜院とか〜尹も結構あるしね。 >>333
和人兵をアイヌ兵に偽装するのは無理かもしれないけど、裏で函館方面で蜂起してたショヤコウジ兄弟と手を結んでいた可能性はあると思うよ。
武器や兵力の貸与もしていたかもしれない。
蠣崎光広には動機があるのは確か。
それが噂となって正史以外に記録されているとかね。 >>335
阿弖流為はアイヌじゃないから。
蝦夷(エミシ)とアイヌは全然ちがう。 若狭武田の末裔のスレがあったとは!
でも松前藩開祖の武田信広の出自はどれくらい信頼できるのかな?
家督争いで単身出奔したあげく、東北で戦い、北海道にまで流れて一家を起こしたって、
大河のネタにもなりうる行動力だわ。 このスレは勉強になる(*^^*)
アイヌ民族に対するイメージが変わった。
おとなしくて争いを嫌うってイメージだったけど、実は精強果敢な面もあったのだな。
武田氏などの日本人側が戦いでかなり負けてることをはじめて知ったよ(@ ̄□ ̄@;)!!
城を落とされまくりじゃない。
ゴールデンカムイでのイメージとは全然結び付かないよ。 ゴールデンカムイはもう明治だし。
左翼学者がアイヌ人等の先住民族の温和さを過度に強調しすぎた側面は
あると思うけどね。
ルイス・フロイスが
「日本国の北にエゾという大国があり、住民は酒を好み、戦いに勇猛にして
日本人ははなはだこれを怖る。彼らは出羽の国の秋田という都市まで時々
やってきて商売をしている。日本人もエゾに行くものがあるが、夷人に
殺されることを怖れていてその数は少ない」
なんて書簡をインド総督に報告してるくらいで、往時は勇猛な民族との
評判があったようだ。
他国の地域の蛮族(スキタイとかモンゴルとか)に比べるとはるかに平和的な
民族だったとは思うけど。 アイヌって熊さんと共に暮らしてたイメージ
相手熊さんだもん、そりゃ勇猛果敢になる >>342
面白いね、その情報(゚ロ゚ノ)
フロイスなら安東愛季の頃か。安東愛季は北海道と密接な関係があったということだね。
下国安東氏は蝦夷地に三つの守護を置いて間接統治してたということらしいけど、
フロイスの情報を見ると、たしかに強い関係を持っていたように思える。
そして、本州まで海を越えてアイヌ民族がやって来てたということも分かる。
それも秋田まで来てたとは凄い行動力、航海技術もそれなりのものがありそうだね。 >>345
名門武田氏の出自だろw
武田氏かどうかはともかく内地の武士で
あったことは間違いない。
松前氏はアイヌではないよ。 松前家の家祖とされる武田信広の正体は
蠣崎蔵人の乱を起こした蠣崎蔵人本人だと
思われる。
蠣崎蔵人は南部政経に敗れたあと、自害も討死もしていない。蝦夷地に逃れたと南部氏系の史書にも記されている。
蠣崎蔵人が蝦夷地に逃れた後、唐突に武田信広という男が歴史に現れてくるが、時代的にあまりにも符号しすぎている。
武田信広=蠣崎蔵人で間違いない。
いずれにしてもアイヌの血筋ではない。 >>349
現地の有力アイヌの家から嫁さんもらったという意味か? 渡党の子孫かもしれないということなら、アイヌと無縁ではないかもね。
諏訪大明神画詞に曰く、蝦夷には日の本、唐子、渡党の三種あり。
日の本、唐子は言葉が通じない。
渡党は全身に体毛が生えており、言葉は野卑だが、和国の人間と意思の疎通が可能であるという。そして、宇曽利鶴子(ウソリケシ)と萬堂満伊犬(マトウマイン)という二つの島に群居しているともいう。
ウソリケシとは現函館、マトウマインとは現松前のことと思われる。
一説には渡党とはアイヌと和人との混血であるうという。
そして、道南の武士の多くは渡党の子孫とも言われている。 倭人が北海道に渡るようになったのは江戸時代から。昆布や帆立といった清王朝以外の
平民の中国人が北海道の産物を高値でも求めるようになってから。 室町時代にはもう相当渡来してたよ。
文献でも東は鵡川(日高地方)、西は余市(小樽近郊)まで和人の集落があったということだ。
考古学の発掘でも余市の大川遺跡から14世紀頃の和人のかなり規模の大きな集落跡が発掘されていて、文献の記述を裏付けている。
和人の墓や住居、大量の伊万里焼やら中国青磁が出土しているようだ。
16世紀以降はなぜか衰退しているので、戦国〜江戸時代初期には、一時的に和人が撤退していることは確かだけども。 松前というアイヌ語の地名の場所を本拠にしていたから松前を名乗ったわけで。
地名を名字にする例はいくらでもあった。 アイヌから名前を貰ったのにアイヌを虐殺した松前藩許すまじ 別に虐殺というほどのことはしていない。
まあ商売では詐欺に加担はしたかもしれぬ。
あとは騙し討ちにしたことが3〜4回ほど・・・
いや、勝ち目が薄くてさ >>358
でも虐めてたんでしょ?アイヌにかなり助けてもらったのにね アイヌとの交易を松前藩に独占させてしまったのが諸悪の根源だなあ。
それで市場原理が働かなくなり、圧倒的大手の松前藩側のいいようにされるようになってしまった。
それ以前は個々の商人と商売して高値で買ってくれるところに売り込めたし、
気に入らんなら海を越えて南部や津軽、秋田までも行っていた。
つまり、松前藩の独占交易権を認めてしまった徳川家康が悪い。 >>353
え?蠣崎って光広の代からずっと蝦夷地にいたんじゃないの?一旦撤退してたの? >>348
> 松前家の家祖とされる武田信広の正体は
> 蠣崎蔵人の乱を起こした蠣崎蔵人本人だと
> 思われる。
同意するが、なぜ蠣崎蔵人だと名乗らなかったのか? 南部氏の追撃をかわすためだろう。
津軽海峡は以外と近い。 >>348
確かに。
蠣崎蔵人信純、自称は甲斐武田氏の末裔。
武田信義から五代目の末と称す。
武田信広、自称は若狭武田氏の末裔。
武田信賢の三男と称す。
しかし、若狭武田氏の系図に信広らしき人物は見当たらず、松前藩側が伝える父子兄弟の名前、在世年数など付き合わせるとかなり目茶苦茶。
蠣崎蔵人の乱、長禄元年2月に蠣崎城が落城し、蠣崎蔵人信純は蝦夷地に逃れる。
長禄元年5月にコシャマインの乱勃発。
花沢館の蠣崎季繁の客将だった武田信広が侍大将になり初めて歴史に姿を現す。
どうみても同一人物だな。 明智光秀=天海みたいな話か。
しかし改めて見ると、武田って"信"の字を持つ奴が多いのか?
武田信玄こと武田春信もそうだが、何かいわれがあるのだろうか。 >>365
いわゆる通字。武家は先祖から諱を一字受け継ぐ風習がある。武田家は信。
武田家に限らず色んな家がそれぞれの通字を持っている。徳川は家、上杉は憲、毛利は元、伊達は宗など。
ちなみに松前家は多分“広”。宗家の安東家は季。 >>368
>武家は先祖から諱を一字受け継ぐ風習がある。
公家もそうだっけ? 言われれば公家もそう。
高貴な家柄特有の風習だね。
ただ、通字には例外も多い。代表的なのは武田勝頼とかかな。武田家なのに信がない。 >>365
> 明智光秀=天海みたいな話か。
蒲池幸子 = 坂井泉水 >>354
鎌倉時代とかできるだけ死刑は実施せず、蝦夷渡嶋(えぞがわたりしま)への流刑
としていた。罪人を渡嶋に送り届ける任務を執行していたのが蝦夷管領であった
安東氏。
>>353
>16世紀以降はなぜか衰退しているので
古文書(新羅之記録)によれば、コシャマインの乱で余市から勇払までアイヌの攻撃があったとのこと。
生き残った人間が松前と上之国に逃れてそこに集住するようになったとある。
>>358
>まあ商売では詐欺に加担はしたかもしれぬ
第5代藩主高広の時にアイヌとの交易レートを一方的に3倍にするなど、
交易に関しては強圧的だった。商場知行制では知行を請け負う商人に対して
の監督はまったく機能せず、商人側のやりたい放題。 北海道ってオーストラリアみたいな流刑地だったのか。
蠣崎・松前とか立派な名前を持っていても実は罪人の子孫だったりするのかな。 武田氏の諱の信の通り字は、おそらく武田氏の先祖でもある河内源氏の祖の源頼信の信から来てるんだろう。 北海道が日本地図に載ったのは松前藩が出来てからだよね?渡島半島の部分だけだけど >>342
まあ九州人から聞いた蝦夷の話だし大袈裟になったり曲解があるのはしょうがないんじゃないかな >>342
それでも松前藩の野蛮さに比べればアイヌなんてまだマシなほうだけどな
そもそも中央政府から見れば松前もアイヌも同じ蛮族だし アイヌとロシア人の区別がつかなかったっていうのもよくわからないな
顔も身長も服装も言語も全然違うだろ >>380
松前は官位もっているから蛮族ではないだろ。 >>380
そもそも中央政府自体が蛮族みたいなもんだろ、この時代は >>382
いや蛮族扱いされてるからシャクシャインの戦い後の処罰も軽かったんだよ 松前藩の連中よりも最上徳内や間宮林蔵のほうが北海道愛ありそうだよな 北海道に行くと各地にアイヌ民族ではない謎の民族の壁画とか遺跡が残ってるけど殆どが後から入ってきたアイヌ民族に虐殺されて歴史から消されている
アイヌも大和民族もやってることは一緒でどっちもどっちなんだよな 古代の縄文人と渡来人の闘いが場所を北海道に移して再開されたというか
棲み分けできていたのが片方の人口爆発で片方の居住域が浸食されてしまったんだ
アイヌも元々は本州の住民で北海道には先住民がいたものと思われる 昔は冬の間宮海峡を徒歩で渡れたようだからアイヌが必ずしも本州から来てるとは言えない
むしろ大陸だろうね >>391
新大陸はかつて繋がってたのが一旦途切れて、コロンブスまでは交流がなかったけど
樺太や北海道は有史以来ずっと本州と行き来があったから、大陸から渡った集団がいたとしてもその後本州経由の方が多数派になってそう 大陸と地続き時代の遺跡としては390が言ってるような
小樽方面の洞窟や壁画やストーンサークル
北海道東部から十勝にかけての通称オホーツク文化
函館周辺の中空土偶などが発掘される遺跡群
3者とも類似性は低いらしい
アイヌの生活様式は魏志倭人伝に出てくる倭人そのもの ○389が言ってるような
×390が言ってるような アイヌは極東ロシアと松前藩との中継貿易もしてた
大陸のアイヌと交流があったからね
アイヌを通すというのは建前で完全に松前藩の密貿易でそういう意味ではアイヌを隷属化なんかできない
下に見てたとは思うけど松前城にある城下町の絵なんか見ると日本人もアイヌも仲良く商売してるのがよく分かる 松前だけではアイヌを隷属化する武力が足りなかったんだろな アイヌ側の認識として蠣崎は和人の地方豪族の一つに過ぎない存在だったのが
秀吉の朝鮮出兵中に豊臣氏直轄の大名となる
秀吉が大陸の次はお前ら(蝦夷ヶ島)と言ったとか言わなかったとか
家康が幕府を開設すると関ヶ原の前年に松前藩の藩主に
近代武器も大量に入るようになり
このへんを境にアイヌ民族の悲劇が始まる 松前藩がまとまった数の鉄砲を所有するようになってからかな?
アイヌとの軍事力が開いたのは。 それと。
仮にアイヌと野戦して負けちゃって松前城に籠城した場合。
松前城は防御力が弱いから、本州からの援軍が到着する前に落城するリスクもあったと思うんだが、どうだろう? 松前城の城下町って全国では珍しく武家町と商業町が混在してたくらい商業に特化してた
武力に目覚めたのは幕末じゃない? 蠣崎の2代目が渡島半島南部全域を支配する
4代目の時に一番美味しい函館とその周辺地域をアイヌに奪還される
さらに和人の居住域を東西2つの一部の地域に限定されてしまう
また本州からの商船に高い関税を課しその多くをアイヌの酋長に納める
という条件で和睦しこの状態が秀吉の天下統一の頃まで続く 津軽と南部。場合によっては佐竹も出兵して直ぐに鎮圧されるだけかと
その後、交易権は津軽か南部に渡り武力を背景により松前時代より
酷いレートが課されると思われ 松前城は城というより砦みたいなもんだから籠城戦はできないのではないだろうか? そもそも松前城ができたのは1855年で江戸期を通じてずっと福山館が居館だぞ
しかも幕府が松前は防衛上不適だから函館に築城すると言い始めたら全力でそれだけはやめてくれと懇願して渋々松前城ができた
松前城が半端なのは徳川幕府のお墨付きとも言える 福山館ではとても籠城戦はできない。
万一、アイヌの大軍が押し寄せてきたらどうするつもりだったのか? >>405
福山館の人達はほとんどがアイヌさんの親族です
だから大丈夫なんです アイヌ人もバカじゃないんだから松前の背後には東北の大名たちが
控えてることくらい理解してるだろ わざわざ松前の城下町までアイヌが物産売りにきてたくらいなんで和人とうまくやる方を取るだろう
アイヌを虐げられた無垢な原住民という理解こそ差別だよなあ >>407
コシャマインは松前まで攻めようとしていたのでは? 樺太方面にも進出してモンゴル帝国とも地域紛争起こしてるくらいだから
情報網もあって和人の本国の情勢も熟知してただろうね 薩摩藩のソテツ地獄。二つ名の黒糖地獄に比べれば松前は良心的 そもそも松前もアイヌだからね
日本に友好的なアイヌが松前だよ >>351
萬堂満伊犬って元は人名だったのかな
名前の語尾にアイヌがついてるし >>351
やっぱり渡党もアイヌ扱いじゃん
要するに渡党は日本語も通じるアイヌってことだろ >>417
渡党(松前藩の前身である、渡島半島のアイヌ集団)
については、
和人に「似て」言葉が通じるが、髭が濃く多毛(※つまり和人とは違う)
「 アイヌ学入門 (講談社現代新書) | 瀬川 拓郎 」によれば
渡党とは、北海道南西にいた日本文化をかなり取り入れたアイヌ、等とあった
>>313
シャクシャインの内乱テロ>>264当時も、蝦夷地では、アイヌ部族同士の武力抗争がずっと続き
津軽藩の調査だと、松前城下で、アイヌ部族は鉄砲を30〜40丁も所持
(また別に)東蝦夷地でも、鉄砲などで武装したアイヌ集団が津軽藩の隠密船を攻撃してる
近世アイヌ民族の社会と生活 - アイヌ文化振興・研究推進機構
http://www.frpac.or.jp/about/files/sem1215.pdf
> 津軽藩士は松前城下でアイ ヌ民族の武装についての情. 報を収集していますが、
> それには、. 「〇本具足は少しばかり之れ有るべき由。
> 〇自分にて木具. 足仕立て、 着け申し候う。 〇鉄砲三、 四拾挺も之れ有る. べき由。
> 〇弓丶 鍵は大方所持仕り候う由」 とか >>418
>>421
和人に帰化したアイヌだろうな
劉淵みたいなもんだろ アイヌが反乱起こしまくって暴れていたのは応仁の乱以降だね
日本の中央政権の混乱を認識していた故の行動だと思う
蠣崎に対する秀吉の朱印状と家康の黒印状及び松前姓の授与
これ以降ピタッと従順になる というかならざるを得ない状況になった
秀吉と家康が現れなければ北海道は今頃ロシアの領土 >>423
気候変動なり技術革新なりで農業生産力が上がったんじゃね?
そのおかげで地方の豪族が力をつけて群雄割拠できるようになったと 応仁の乱の頃って逆に小氷河期では?
大坂の陣あたりから転換したと聞いたけど >>44
ニヴフ・ウィルタ・モヨロなどは既にアイヌに制圧されてしまったのか…?
≪北海道斜里町オロンコ岩チャシのドローン写真測量と3次元モデル作成の予備実験
2.オロンコ岩チャシの概略≫
> アイヌに伝わる伝承が残されている。
> 昔この島の上にオロッコ族(トナカイ遊牧を生業とするサハリン北東部の先住民族5))が住んでおり,
> 下を船で通るアイヌ目がけて石や木を投げて邪魔をしたが,
> 急崖で囲まれた島の地形を利用して防ぎ,なかなか追い払うことができなかった。
> そこでアイヌはオロッコ族をこの島から下りさせるように,
> 海草や魚を鯨のように積み重ねておき,見に下りてきたオロッコ族を皆殺しにした6)。 道南の蝦夷の渡党(わたりとう)
松前藩の祖とされる武田信広は和多利党(わたりとう)
北海道開拓に尽力したのが仙台藩主伊達家の分家である亘理(わたり)伊達家
「わたり」はアイヌ語の「うたり(住民・一般人)」のことと思われる
東北と道南はいち早く日本に同化した蝦夷達の居住域 道南の蝦夷の渡党(わたりとう)
松前藩の祖とされる武田信広は和多利党(わたりとう)
北海道開拓に尽力したのが仙台藩主伊達家の分家である亘理(わたり)伊達家
「わたり」はアイヌ語の「うたり(住民・一般人)」のことと思われる
東北と道南はいち早く日本に同化した蝦夷達の居住域 これらの東北・道南の史跡は現在ユネスコの世界遺産の認定を目指しています
最近白老にできたヘンテコリンなのは無視してくださいw >>423
松前姓は貰ったんじゃなくて元から道南にあった松前という地名から取って名乗ったんだろ
諏訪大明神画詞に萬堂満伊犬という地名が確認されている 1550年の時点で、意外とロシアと軍事交流あった?
http://www.tamatele.ne.jp/~psmizu-2/started/personal/rekisi.htm
> アイヌも火縄銃を利用したといわれる。
> 幕府はアイヌに銃を渡すことを禁じたが、ロシア由来の銃も利用された >>431
それ時系列おかしくね
それだと1550年より前に松前氏を名乗ってることになるし 松前藩の武士はアイヌを側室・愛人に迎えたりしないの?
和人女性は不足していたんでしょ >>398
貧しい松前藩(アイヌの一派:渡党)は、金掘りなど少しは潤ったが
少ない収益の独占目的か
和人流入を制限した程で、1799でも武家は足軽含め170戸規模のみの弱小藩
1669年>>264
シャクシャイン勢力らがデマを流し、民間の和人らを虐殺して回った武装テロ事件>>278
ハウカセ:江戸前期の蝦夷地の5大勢力の1(シャクシャインの武装テロ蜂起では中立)
<参考文献>
海保嶺夫『近世蝦夷地成立史の研究』,喜多村校尉編『津軽一統志』(『新北海道史』7巻)
…
また,ハウカセは近江八幡出身の金太夫という娘婿に
軍事顧問的役割をさせており,
蝦夷地への武器輸出が不可能になったシャクシャインの戦の時点で
40〜50挺もの鉄砲を所持していたといわれる点などから,
松前藩のほかにも和産物輸入ルートを確保していたとも考えられる。
…
あれだけ広いし、あちこちから武器が流入し続けてたようだ >>434
アイヌの女性って成人すると唇に入れ墨いれるから
外見から敬遠したとか? 松前藩自体は負の遺産で大嫌いだけど松前城を燃やしたのだけは勿体無かったな
せっかく戦火から逃れたのに焼失した理由が職員のミスというしょうもない理由とか
生き残ってれば日本に13箇所しかない天守閣が現存する日本式の城だったのに もしかして大名の中で一番の成り上がりじゃね?
元は異民族だし 江戸時代こそ松前藩が独占してたが
南部とアイヌの繋りが発見されてたけど
以前浪岡も発掘されてたしアイヌも割と自由に動いてたのかもしれない >>440
本州のアイヌ人は青森の津軽地方を拠点に活動していたみたいだな。
恐らく北前船での交易で倭人との通訳や交渉に携わっていたと思われる 北方交易は北京語、アイヌ語、日本語を使う商人で行われていたから公用語は無かったんじゃないか 80〜年代に書かれた文庫本の歴史小説。
江戸時代を舞台にしたもので、松前氏を好意的に描いたもの。
大分前に、立ち読みしたが、題名がわかりません。
知っている人がいたら、教えてください。
松前氏を弁護したものには、梅棹忠雄も書いていた。
松前藩は、アイヌの有力者の娘を藩主や家老の側室として
迎えていれば、アイヌへの態度も大分変わっていたのでは?
側室は単なる愛人ではないから、相手の実家の領地を考えて
搾取を控えるようになったから。 樺太や千島も日本領に組み込んでいたら、こいつらの領地も広がったのかなあ >>451
アイヌの乱を単独で鎮圧出来ないくらい弱小なのが松前藩。
九州南部の薩摩藩が琉球諸島を制圧したように樺太や千島列島を制圧するとしたら
東北北部の盛岡藩に道南、北海道を任せるくらい思いきった事をしなきゃ無理かと >>453
蠣崎以前は単独で鎮圧してるしやろうと思えば出来ただろ
弱小なのはその通りだけど 樺太、千島を日本に組み込むには松前の力じゃ足りないということだろ。
武士の人数は最盛期でも500人にも届いてない それならいくら鉄砲を持っていたとはいえシンドイな。 当時の技術水準で樺太に北方進出するには松前藩と津軽藩を南奥羽にでも転封し南部藩、
佐竹藩が共同で北海道への入植と開発を100年単位でやらないと難しいだろうな >>455
まず樺太千島どころか北海道本土すら守れてねぇからな
しかもオーストラリアの正規兵でもない武装捕鯨グループに涙目敗走してるんだから むしろ、幕府直轄で天下普請的なことをやって全国からリソース集めるくらいじゃないと無理じゃね?
諸大名の力を削ぐために、交代制で北海道警備させるとか ウラヤコタンの戦いでも武士は10人しか居なくてあとは射撃と乗馬の上手いアイヌと和人で対応してたらしいなw 樺太千島を支配したいならもっと早くアイヌの同化政策を進めるべきだったと思う
19世紀にもなって同化したのは渡島半島周辺のアイヌだけって舐めてんのか それをやる力が松前単独ではないのが問題。
松前藩は何処かに転封させて馬産が盛んな南部藩と伊達藩に、共同開発と
北海道奥地への入植事業をやらせるくらいでないと。 蠣崎は青森県の外が浜にも領土を持っていたようだけどこれは交易のために浪岡氏に与えられたもの? REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 えぞってえみしから転訛した言葉?それとも全くの無関係? >>463
亀レスだが交易というよりアイヌから手に入れた海産物を加工する為の労働力と必要な資機材を
浪岡北畠から提供されていたんじゃないかな。その際、蝦夷からやってきた武士や商人の居住用に城と土地を与えられたのかも 面白い見解だけど根拠はある?
外が浜で加工が行われていた史料があったらよろしく