【最北端】 蠣崎・松前 【北海道】
日本最北端にして北海道唯一の戦国大名
松前氏について語り合おう >>261
変わらんよ。アイヌじゃ松前さえ倒せない
仮に松前を支配下においてもその先の南部は無理ゲー アイヌは文字がなく、数が苦手で商売下手
狩猟技術は高いが兵器の発達に呑まれ、ロシアの進出にも追われた
さらにアイヌは格差社会で、酋長が妾として女性を独占し、若者が結婚できず人口減
(見かねた幕府が、妾の数制限でアイヌを助けた)
http://8003.teacup.com/doshin/bbs/5841
> 莫大な富を蓄えた酋長が多くの妾を独占して
> 若者に結婚の機会が与えられないことがアイヌの人口減少の原因だと
> 判断して、酋長がもつ妾の数を三人までに制限しました。
・・・こんな部族集団は、近代以降は大した勢力にはなれない >>266
土地の生産力が低いから、人口抑制のために敢えてやってたんじゃね? シャクシャインの悪虐>>264に対する、幕府の甘い対応(島原の乱に比べて)は
渡党(蝦夷)が本州化した松前 vs アイヌ の、ある意味異民族同士の内乱だからか >>45 北方諸民族は交易相手として出てくるくらいだな
江戸時代になると、サンタン交易で借金作ったアイヌから家財奪ったり
アイヌを債務奴隷として連れ去ったりする、サンタン武装商人も関わってくる 裏日本は沿岸交易で平安期からトーホグと若狭交流あるからな アイヌの行動は「心まかせ」とされ、放任主義だったとある 松前・渡党はアイヌを放任してたから北方領土確保の面でちょっと >>267
北海道に農業技術教えた、ルイスベーマー・エドウィンダンら開拓外国人に感謝だな
開拓以前
山菜などの採集は主に女性の役割だが、人食いオオカミの襲撃などで命がけ
ウバユリ(山菜)掘りに行って、大勢の女性がエゾオオカミの大群に襲われ
ほとんど食い殺されてしまった惨劇が、アイヌの口述で伝わってる
梅木佳代/口承文芸にあらわれるアイヌのオオカミ観
http://douminzoku.web.fc2.com/kaishi_pdf/10/10-04umeki.pdf
> 3-3-1. 人を襲うオオカミ
> 人を襲うオオカミ「狼から逃れた娘」<資料 12>と
> 「狼の襲撃から危うく難を逃れた女の話」<資料 46>は、
> 酷似した内容のテキストであり、
> 大勢の女性がオオカミの群れに襲われ、食い殺された事件が描かれる。 『アイヌ学入門 (講談社現代新書) | 瀬川 拓郎』によれば
渡党とは、北海道南西にいた日本文化をかなり取り入れたアイヌのことらしい
この渡党(和人化したアイヌ)がやがて松前藩を形成する 蠣崎氏※アイヌの渡党※→松前藩 つまり松前藩もアイヌの一派 シャクシャインによる、民間の和人虐殺
http://www2.rikkyo.ac.jp/web/esdrc/products/zoku_senjuminzokutoESD.pdf
> 小屋を懸けさせ、くつろき候時分、
> 狄共夜に入りよせ、皆皆殺し申由に付……」すなわち寛文9年の蜂起の和人殺害は、
> シコツではじまった。
http://30932531.at.webry.info/201205/article_4.html
> アイヌの鎧、甲冑は基本的に倭人のものと同様で、
> 武器の備えもかなり先進性を帯びており、
> たとえば1669年のシャクシャインの戦いにおいては、 倭人側の相当数の武士が
> アイヌの火縄銃の犠牲になったということがわかっているそうである。
シャクシャインのテロ蜂起>>264に対し
松前は他の藩から武器を借りたが、他のアイヌ各部族は多数の銃で武装してた 松前藩はジャガイモを導入するべきだった。
さらに北の樺太まで植民・領有するべきだった。 蠣崎氏は安藤氏の傘下とあるのだが、安藤は秋田でしょ? 地理的に言ったら青森の南部の傘下じゃないの?
勢力図がよくわからん 元々津軽や下北は下国安東領だけど南部に奪われて、下国安東氏は蝦夷地にいったん逃げた後、湊安東氏のツテで秋田に移転
津軽下北はその後南部系領主や浪岡氏に分割、蝦夷地はそのまま安東系領主が勢力保ったって形。海路で秋田と繋がっていたので特に問題は無かった模様 安東から独立を果たしたり、南部が仕切っていた北方交易の権利を奪取したりと
この時代の大名としては意外と活躍してるんだよな。 戦国時代なのに、それほど戦争しなかったのではないか? 普通に安東配下として鹿角やら由利やら津軽に出兵してるがな 独立した時には秀吉天下統一してる。後は江戸時代になって大坂やヘナウケやシャクシャイン 江戸時代に
ロシアのコサック兵が、千島列島を武力で制圧したり
レザノフが、軍艦で北方領土を襲撃したのは、、、
松前藩としては応戦して無いかな、、しかもボロ負けだし アイヌとの同化を拒んでたんだっけ?アイヌには見分けがつくようにアイヌの衣装を着ることを強制させてたとか 津軽、南部、佐竹にもアイヌは居たようだけどこちらは同化政策したんだよな
何で松前藩は同化政策しなかったんだろう 松前藩があまりにも信頼がないせいで文化露寇時に松前道広がロシア側に寝返ったってデマが流れてたってマジ? >>292
よく分からんがアイヌとの交易が飯の種だから同化されて減ってしまうことが嫌だったのかも。
松前藩は何しろ経済基盤が貧弱すぎてな。
幕府が直轄地にしたのも、基盤の弱さを慮ってだろう。
対露防衛といっても武器も武士も数が揃えられず、下手すりゃアイヌ側が本気出せばアイヌ人にも(単独では)負けかねない程度だし。 >>287
ところが意外と戦っている。
主にアイヌ人相手に。もちろん苦戦の連続ですよ。
他に宗家の檜山安東氏に何回か援軍を出している。 >>297
> 主にアイヌ人相手に。もちろん苦戦の連続ですよ。
松前さんの場合、鉄砲の数が少ないし、城郭は砦レベルの防御力だしで、苦戦するのは仕方ないんだろうな。 >>298
蛎崎氏等の道南の武士たちがアイヌ人に勝てなかった理由は当時の蝦夷地の地勢にあると思う。
当時の蝦夷地は農民なんかまったく居ないから足軽を使った集団戦法が使えない。多分、当時の道南武士は南北朝時代そのままの戦闘方しか知らなかったんではないかな。
しかし、当時の蝦夷地はまったく開拓もされてないから一歩内陸に入ったら湿地か密林。騎馬が活躍できる場所が少ない。
比較的近距離で弓矢の打ち合いということになったろうけど、相手は毒矢を使うのに長けている。
なかなか厳しい状況だよね。鉄砲が普及すれば状況は変わったと思うけど。 今北海道に来てる、さすがに寒いぜ。
函館空港近くの志苔館(しのりだて)跡に来たぜ。
説明板にアイヌとの戦いで2回落城して廃館になったと書いてるわ。
たしかに虎口は二重土塁に二重空堀だけど、全体に見て本州の出城レベルだね。
これからイカを食いに行く 【第一次23名、第二次36名、計59名】 来年はサヨク捕り放題、好きなだけ死刑執行ですか、安倍ちゃん
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1546064815/l50
日本が死刑大国へ、もはや無関心層が一番足引っ張ってる。 >>299
>鉄砲が普及すれば状況は変わったと思うけど。
ひょっとしたら鉄砲を買うカネがなかったのかな? >>303
蠣崎季広の子・蠣崎慶広の代には上洛して、天下を平定した豊臣秀吉(関白、太閤)に拝謁することで本領を安堵された。
これによって秋田氏(旧・安東氏)から名実ともに独立する事になった。天正19年(1591年)、
秀吉の命に応じて九戸政実の乱に多数のアイヌを動員して参陣。秀吉の死後は徳川家康に接近して
慶長4年(1599年)、
姓名をアイヌ語「マトマエ」由来の地名である「松前」に因んで松前慶広に改める。
(ウィキペディア)
「松」は特に誰ということはないようだ。 >>302
多分、金はあったと思う。海産物の交易は今も昔もドル箱。
松前藩は、海産物の交易で設けていた。3万石相当とされていたけど、実際はそれ以上に設けていたらしい。
また300さんが訪ねている志苔館からはコシャマインの戦いの時に埋蔵されたと推定される埋蔵古銭が発掘されてるが、その数なんと38万7千枚。
日本国内で一ヶ所から発見された古銭として今もって最大。
単に北の端っこにいたから鉄砲の知識が伝わらなかったとか。 鉄砲を買い込み、さらにそれなりの規模の城塞をつくっておけば、
たとえアイヌが攻めこんできても籠城して、
城内から鉄砲で反撃すれば負けることはなかったと思うんだが。 >>306
完全に独占できるならともかく、普通に買い込むだけなら市中にも同じように出回るしアイヌ側も持つようになってしまう
よく西部劇で馬に乗ったインディアン(アメリカ先住民)が描かれてるけど、あいつらが馬に乗り始めたのはヨーロッパ人が大陸に馬を持ち込んでからなんだぜ >>307
アイヌ側は仮に鉄砲を入手できても、銃弾の補給が続かない。 >>305
本州最北の南部家で北信愛が侍100人と鉄砲隊20丁でクーデターを起こした例もあるし伝わらなかったとは考えにくい。
常識的に考えて領内へ入らないようにしたんでしょ。アイヌ人も鉄砲を知れば害獣対策という名目で手に入れたがるだろうし >>309
> 常識的に考えて領内へ入らないようにしたんでしょ。
鉄砲を持っていなかったとは考えにくいが、記録が残っていないのではなかったか。 そもそもアイヌ相手にボロ負けしてた時期は鉄砲無いやろ
主筋の安藤氏が鉄砲使い始めたのがせいぜい永禄頃、その頃にはアイヌとは比較的平穏になってる
シャクシャインの頃は松前もそれなりに鉄砲使ってる 九戸の乱の時にわざわざアイヌ弓隊を率いてそれが表看板になるくらいだから鉄砲は重視されていなかったのかもしれず。
シャクシャインの時も南部藩や津軽藩からかなり鉄砲と銃兵を借り受けたという話だし、鉄砲があまりあったとは思えない。
九戸の乱の時に大活躍したらしいアイヌ人の毒矢部隊も色々謎が多い。
長年敵対したはずのアイヌ人をどうやって組織したのか。日本ではあまりいない傭兵だったのか。士分にしてたのか。有力氏族を味方につけていたのか。分からないことは多い。
しかし、アイヌ人相手にぼろ負けという認識は共通なのね。 敵対してたのか?そもそも松前家はアイヌの王だろ?逆に何故敵対する必要があるんだ? 松前氏自身が弓の達者を強調していた家だから、鉄砲を殊更重視する方向に行かなかった可能性はあると思う そもそも秋月俊幸ってどんな人?
はい、そんなレベルなんで答えられません(>_<) >>313
>しかし、アイヌ人相手にぼろ負けという認識は共通なのね
コシャマインの戦いの時点で和人の支配地がどれだけあり、1549年の蠣崎季広が行ったアイヌ人との和睦の時点で支配地がどれだけ縮小したのかを見れば誰でも分かりまっせ。
蠣崎季広の和睦内容(夷狄之商舶往還之法度)を知れればさらに。ほぼ不平等条約なので。
コシャマインの戦いしか世に知られていないので誤解する人も多いけど、あれは始まりにすぎない。 >>317
津軽海峡を封鎖した異国船というタイトルの著書で松前道広がロシアに寝返ったというデマが流れたってあるけどこのときの松前道広って梁川に転封されてるはずだからデマの流れようがなくね?と疑問に思っただけだよ >>319
マイナー大名だから転封されていたことを当時の人たちの多くが知らなかったということだろう。 >>318
松前氏自身はほとんど負けてなくね?
負けたのは他の氏族。松前氏はほとんど尻拭い。 >>320
情報漏れないようにしてたんじゃなくてただ単にマイナーだから知られてなかっただけか 蠣崎光広の頃だと思うけど、陰謀によって下ノ国守護と松前守護を滅ぼし、蝦夷地の首領になったという話は本当だろうか。
蠣崎派のアイヌを操って下国氏(下ノ国守護)の館を攻撃させて滅ぼし、
松前守護に対してはアイヌ兵に擬装して松前の館を奇襲して滅ぼした、またはアイヌ人を煽って滅ぼさせたというんだけどなんかの出典があるんでしょうか。
ネットでけっこう転がってる話なんだけど、陰謀論めいて面白い。 >>320
つまり松前家の梁川転封を知っていたのは幕府首脳部と梁川周辺の人だけ? >>324
> つまり松前家の梁川転封を知っていたのは幕府首脳部と梁川周辺の人だけ?
他の大名たちや憂国の知識人たちも知っていただろう。
庶民は1万石の大名に関心ないから知らなかっただろ。 松前氏が梁川で積極的に治世を行った記録は残されていない。
それは藩政の方針が倹約、粗食を常とし、領民と事を構えないことを第一としたためであり、
松前氏はひたすら幕府や公家に蝦夷地への復帰を働きかけていた。
その努力が実ったのは移封から15年後の文政4年(1821年)であった。
(ウィキペディア) >>323
松前累系あたりから大体採ってる。
今の史書でもちょこちょこ採用されてる説よ。 >>323
こういうのとか?
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/matuma_k.html
>これはアイヌに偽装した光広の軍勢であったとされている
戦国時代にしては器用すぎる気もするが・・・ >>321
いや負けてる。
タナサカシ相手に支館の瀬田内館を失陥してる。
そして瀬田内の回復を試みた際は、利別川での戦いに大敗して重臣の工藤佑兼が討たれるなど大損害を被っている。
結局瀬田内と、江差も多分合わせて失ってしまい、それっきり。 >>327
ありがとうございます。ちゃんと典拠があるんですね。
新羅之記録しかまともな文献はないと思いこんでいました。色々あるんですね。 >>323
>>328
さすがに無理があるやろw
・アイヌのコスプレしたって常識的に考えれば一発でばれる
・松前を落とせるほどの軍勢を隠密に行動させるのは至難の業
松前守護の連中は撫切りにすれば良いとして、 自分の館や松前周辺
の住民は必ず異変に気付く。軍隊レベルの人数の偽装なんて不可能。
そして他の独立の舘主や北海道出入りの商人から主家の桧山安東
氏に注進が行けば反逆として扱われることとなる。
しかし、蠣崎氏が主家から咎めを受けたという話はまったくない。
史実として考えるには無理が多すぎる。
松前守護の館が落城した永正10年の前年に函館周辺の館が皆アイヌ人
の攻撃で落城してるようなので、その勢いに乗ったアイヌ人の攻撃
があったと考えた方が自然ではないか。 胡奢魔犬をなんでコシャマインと呼ぶんだろうな。コシャマイヌ(コシャム+アイヌ)の方が音として正しいかと。
公的な名乗りでは男性アイヌは名前+アイヌ(良い人)で呼ばれる風習があるから最後は〜イヌで終わるはず。
ゴールデンカムイのキロランケにしたって、公の場ではキロランカイヌと呼ばれるのが正しいと思う。 アイヌ語の発音だとアイヌというよりアィヌって発音になる場合があるから、
和人から聞いてアインに聞こえることがあったってことじゃない?
日本語で記録されたアイヌ人名だと〜犬の他に〜院とか〜尹も結構あるしね。 >>333
和人兵をアイヌ兵に偽装するのは無理かもしれないけど、裏で函館方面で蜂起してたショヤコウジ兄弟と手を結んでいた可能性はあると思うよ。
武器や兵力の貸与もしていたかもしれない。
蠣崎光広には動機があるのは確か。
それが噂となって正史以外に記録されているとかね。 >>335
阿弖流為はアイヌじゃないから。
蝦夷(エミシ)とアイヌは全然ちがう。 若狭武田の末裔のスレがあったとは!
でも松前藩開祖の武田信広の出自はどれくらい信頼できるのかな?
家督争いで単身出奔したあげく、東北で戦い、北海道にまで流れて一家を起こしたって、
大河のネタにもなりうる行動力だわ。 このスレは勉強になる(*^^*)
アイヌ民族に対するイメージが変わった。
おとなしくて争いを嫌うってイメージだったけど、実は精強果敢な面もあったのだな。
武田氏などの日本人側が戦いでかなり負けてることをはじめて知ったよ(@ ̄□ ̄@;)!!
城を落とされまくりじゃない。
ゴールデンカムイでのイメージとは全然結び付かないよ。 ゴールデンカムイはもう明治だし。
左翼学者がアイヌ人等の先住民族の温和さを過度に強調しすぎた側面は
あると思うけどね。
ルイス・フロイスが
「日本国の北にエゾという大国があり、住民は酒を好み、戦いに勇猛にして
日本人ははなはだこれを怖る。彼らは出羽の国の秋田という都市まで時々
やってきて商売をしている。日本人もエゾに行くものがあるが、夷人に
殺されることを怖れていてその数は少ない」
なんて書簡をインド総督に報告してるくらいで、往時は勇猛な民族との
評判があったようだ。
他国の地域の蛮族(スキタイとかモンゴルとか)に比べるとはるかに平和的な
民族だったとは思うけど。 アイヌって熊さんと共に暮らしてたイメージ
相手熊さんだもん、そりゃ勇猛果敢になる >>342
面白いね、その情報(゚ロ゚ノ)
フロイスなら安東愛季の頃か。安東愛季は北海道と密接な関係があったということだね。
下国安東氏は蝦夷地に三つの守護を置いて間接統治してたということらしいけど、
フロイスの情報を見ると、たしかに強い関係を持っていたように思える。
そして、本州まで海を越えてアイヌ民族がやって来てたということも分かる。
それも秋田まで来てたとは凄い行動力、航海技術もそれなりのものがありそうだね。 >>345
名門武田氏の出自だろw
武田氏かどうかはともかく内地の武士で
あったことは間違いない。
松前氏はアイヌではないよ。 松前家の家祖とされる武田信広の正体は
蠣崎蔵人の乱を起こした蠣崎蔵人本人だと
思われる。
蠣崎蔵人は南部政経に敗れたあと、自害も討死もしていない。蝦夷地に逃れたと南部氏系の史書にも記されている。
蠣崎蔵人が蝦夷地に逃れた後、唐突に武田信広という男が歴史に現れてくるが、時代的にあまりにも符号しすぎている。
武田信広=蠣崎蔵人で間違いない。
いずれにしてもアイヌの血筋ではない。 >>349
現地の有力アイヌの家から嫁さんもらったという意味か? 渡党の子孫かもしれないということなら、アイヌと無縁ではないかもね。
諏訪大明神画詞に曰く、蝦夷には日の本、唐子、渡党の三種あり。
日の本、唐子は言葉が通じない。
渡党は全身に体毛が生えており、言葉は野卑だが、和国の人間と意思の疎通が可能であるという。そして、宇曽利鶴子(ウソリケシ)と萬堂満伊犬(マトウマイン)という二つの島に群居しているともいう。
ウソリケシとは現函館、マトウマインとは現松前のことと思われる。
一説には渡党とはアイヌと和人との混血であるうという。
そして、道南の武士の多くは渡党の子孫とも言われている。 倭人が北海道に渡るようになったのは江戸時代から。昆布や帆立といった清王朝以外の
平民の中国人が北海道の産物を高値でも求めるようになってから。 室町時代にはもう相当渡来してたよ。
文献でも東は鵡川(日高地方)、西は余市(小樽近郊)まで和人の集落があったということだ。
考古学の発掘でも余市の大川遺跡から14世紀頃の和人のかなり規模の大きな集落跡が発掘されていて、文献の記述を裏付けている。
和人の墓や住居、大量の伊万里焼やら中国青磁が出土しているようだ。
16世紀以降はなぜか衰退しているので、戦国〜江戸時代初期には、一時的に和人が撤退していることは確かだけども。 松前というアイヌ語の地名の場所を本拠にしていたから松前を名乗ったわけで。
地名を名字にする例はいくらでもあった。 アイヌから名前を貰ったのにアイヌを虐殺した松前藩許すまじ 別に虐殺というほどのことはしていない。
まあ商売では詐欺に加担はしたかもしれぬ。
あとは騙し討ちにしたことが3〜4回ほど・・・
いや、勝ち目が薄くてさ >>358
でも虐めてたんでしょ?アイヌにかなり助けてもらったのにね アイヌとの交易を松前藩に独占させてしまったのが諸悪の根源だなあ。
それで市場原理が働かなくなり、圧倒的大手の松前藩側のいいようにされるようになってしまった。
それ以前は個々の商人と商売して高値で買ってくれるところに売り込めたし、
気に入らんなら海を越えて南部や津軽、秋田までも行っていた。
つまり、松前藩の独占交易権を認めてしまった徳川家康が悪い。 >>353
え?蠣崎って光広の代からずっと蝦夷地にいたんじゃないの?一旦撤退してたの? >>348
> 松前家の家祖とされる武田信広の正体は
> 蠣崎蔵人の乱を起こした蠣崎蔵人本人だと
> 思われる。
同意するが、なぜ蠣崎蔵人だと名乗らなかったのか? 南部氏の追撃をかわすためだろう。
津軽海峡は以外と近い。 >>348
確かに。
蠣崎蔵人信純、自称は甲斐武田氏の末裔。
武田信義から五代目の末と称す。
武田信広、自称は若狭武田氏の末裔。
武田信賢の三男と称す。
しかし、若狭武田氏の系図に信広らしき人物は見当たらず、松前藩側が伝える父子兄弟の名前、在世年数など付き合わせるとかなり目茶苦茶。
蠣崎蔵人の乱、長禄元年2月に蠣崎城が落城し、蠣崎蔵人信純は蝦夷地に逃れる。
長禄元年5月にコシャマインの乱勃発。
花沢館の蠣崎季繁の客将だった武田信広が侍大将になり初めて歴史に姿を現す。
どうみても同一人物だな。 明智光秀=天海みたいな話か。
しかし改めて見ると、武田って"信"の字を持つ奴が多いのか?
武田信玄こと武田春信もそうだが、何かいわれがあるのだろうか。