【木刀】宮本武蔵を語る【サイコー!】
子供部屋おじさんじゃない自炊してる社会人なら宮本武蔵の
何十人切りって話はフィクションだと分かるかと 武蔵が何十人も切ったというエピソードって、なんかあったっけ?
小倉碑文にも、武公伝にも、二天記にも、吉岡一門に切り殺したというような話は書いてない。
一番威勢がいいこと書いてある小倉碑文でも
「衆敵を散ずるや、走狗の猛獣を追ふに似たり。威を震ひて洛陽に帰る」
武公伝では
「武公察之、又七郎ヲ切弑シ彼門弟ヲ追奔シテ、威ヲ震フテ洛陽ニ帰ル」
二天記では
「武藏又七郎ヲ斬殺シ、徒黨ノモノヲ追退ケ、威ヲ振ヒテ洛陽ニ歸ル」
となっている。
これは要するに、敵に囲まれたけど上手く逃げおおせたって話だね。
まあ、数については最初の小倉碑文が数百人だったのが、以降は数十人という具合にグレードダウンしているから、当時からリアリティない話だと思われていたのだろうね。 >>721
自炊だろうと子供部屋だろうと独り身なら大差ないような
というか家庭持ってないのを得意げに語られても困るぞ 撃剣叢談の村上吉之丞から武蔵が逃げたという話、
同書に熊本では村上平内の武蔵流が繁盛していること書いてるし、
ソース元は同じとみていいだろうね。
村上家は新免弁助と揉めたらしいから、先祖を称揚して武蔵sageようとしたんだろう。 島原の乱で石投げ攻撃で足が折れてちんばになったやつ 島原で石ぶつけられた話、有名になってるけど、あれ呼び出しに際してそれでいけませんって断りの手紙に書いてることで、本当かどうかはよくわかんないぞ。 ただ、武蔵の自己申告ではあっても、どうもあの書状は有馬家の軍功を証明するものとして重要視されたらしい。
確か吉川英治文学館の記事に書いてあったが、書状は有馬家の軍功の証明のための証拠の櫃にいれてあったようで、特に手垢で汚れていたので、よく読み返されていたのだろうと。
となれば、実際にあったかどうかは調査されただろうから、武蔵が嘘ついたかどうかは調べられたと思う。
武州伝来記には、武蔵が投石を木刀で弾き返したという、事実と逆の逸話が収録されている。
伝承される過程で変異したんだろうけど、これ自体が武蔵が投石をぶつけられたとかの話が当時も知られていた証明になるんじゃないかな。
だからまあ、武蔵が島原で投石で負傷したというのは事実であると考えた方がよい。
ただ、その後すぐに江戸まで旅に出ているし、江戸から直で熊本にもいってるし、負傷者リストにもないし、程度はそんなに重くなかったんだと思う。
いい加減、いい歳だったんだから、それで負傷したらかなり足弱ったんじゃないかな。
もちろん、武蔵が足が弱ってたという逸話もあるし、晩年の二天一流の風格が弱った足と体力を反映したものであるという可能性もあるが。
それが投石による負傷が長引いたものなのか、スポーツマンが晩年に足を萎えさせるものみたいなものなのか。
あるいはその合わせ技だったのか、今となっては解らんけども。 >負傷者リストにもないし、
おいおい…
客観的事実の裏づけがないってことが確定かよ >>729
あくまでも、現在見当たるものではという話でね。言葉が足りなかった。申し訳ない。
中津藩の負傷記録に武蔵の名前がないというのは、魚住先生も書いてる。資料の名前だしてなかったと思うけど。
もしかしたら今後でてくる可能性はあるかもしれんけど、今のところはない。
ただ、軍忠状とかの類は自己申告だったようだし、島原では石ぶつけられた人の話は他にもあるし、状況的に一揆勢は最後は石投げるしかなかったのかもしれない。
だから、ちょっと石ぶつけられた程度のことは記録しなかったのかもね。
あと、元のツイートにも書いたけど、
城乘ノ時、賊徒石ヲ抛ツ。馬前ニ來ル石ヲ、
「石ガマイル」ト言葉ヲカケ、五尺杖ニテツキ戻シ、
落城ニ及ンデハ、例ノ薙刀ニテ數人薙伏ラレシト也
という説話が筑前の武州伝来記に採取されているということは、武蔵に向けて投げられた石…のエピソードはある程度知られてたんだろうね。
この話は熊本で拾われてないので、筑前ローカルだったものかもしれんけども、もしかしたら小倉の方から伝わったのかもしれない。
有馬直純宛の書状の内容が外部に漏れたとは考えにくいからね。小倉の関係者から広がったのかも。 まあ武蔵の自己申告なんだから、石ぶつけられたこと自体は疑うほどのことではないけれど
自分の名を落とすようなことを嘘ついてまで書くこともないだろうし。
前後の状況から考えて、さほどに深刻なものでもなかった…くらいじゃないかな。
ただ、剣豪が石ぶつけられて負傷したってのは面白い話だから。
話を又聞きでみんな大きくしていってるって部分はあると思う。
島原にいったら、ガイドさんは武蔵は子どもに石ぶつけられたことになってるって話もあったよ。
何処ソースかもわからないけど、いつの間にかそういうことになっているのだそうだ。 >自分の名を落とすようなことを嘘ついてまで書くこともないだろうし。
手柄傷という通り合戦の負傷は不名誉どころか手柄なんですけどね ああ、それもそうか。
武蔵の書状はそういえば、有馬直純の手勢が活躍していることを賞賛してのものだから
それは同時に、武蔵は最前線にいたことの証明でもあるな。
どうせだから、武蔵の書状も貼っとこう。
上にもあったかな?
【有馬直純宛武蔵書状】
被思召付尊礼忝次第ニ奉存候。随而せがれ伊織儀、御耳ニ立申通大慶奉存候。
拙者儀、老足可被御推量候。貴公様御意之様、御家中衆へも手先ニ而申かわし候。
殊御父子共本丸迄早々被成御座候通驚目申候。
拙者も石ニあたりすねたちかね申故、御目見得ニも祇候不仕候。
猶重而可得尊意候。恐惶謹言
即刻 玄信
先に有馬直純から伊織への賞賛があったものらしいが、伊織もかなり加増されているので、かなりの手柄だったらしい。 なんか播磨武蔵研究会、復活しているっぽい
http://musasi.siritai.net/
一部リンク切れで見れないのが気になるけど…。 武備和訓で武蔵流や武蔵の弟子の柴任三左衛門についてdisり記事が載ってたけど、これの作者の片島武矩、筑前黒田家を致仕しているんだな。
そしてその直前に筑前二天流の継承者で、柴任の孫弟子で、直接指導を受けたこともある立花峰均が遠島から復帰している。
これ多分、片島は立花と敵対していた側だったんだな…。 リアルの武蔵?
生前の武蔵のスキルではなく、キャラクターについて同時代人で言及があるのは、今のところは小倉碑文だけだな。
生来おおらかで細かいことを気にしない人だった、とある。
ここらは漢文の慣用句だけど、普通はあまりいい意味では使わない言葉なので、そういうのわざわざ持ち出すくらいには、武蔵は細かいことを気にしない性格してたんだろう。 太刀ひとつより、ふたつのほうが良い場合は…とは、五輪書にかかれているけど、あれが太刀二刀流なのかはわからんな。
文字通り読んだり、その章は戦場のケースを中心に語られているから、太刀二刀流を戦場で使う場合という、特殊なケースでのことに読めるは読める。
ただしこれは一般的な解釈ではない。