【木刀】宮本武蔵を語る【サイコー!】
「剣道二刀流の技と理論」P187
この日本一の剣士と手合わせしてみた。私もかなり自信をもっていたのだが、
てんで歯がたたない。勝負をすると十本の中一本しかとれないし、
得意の遠間からのさし面も全く通じない。そんな時のこと、
子供を相手に二刀で遊んでいたりしていたのだが、試みに二刀で日本一と対戦してみた。
すると三本の中一本はとれる。はじめたばかりの二刀で日本一の剣士とほとんど対等に戦える。
そこで二刀に転向した。
相手のペースを崩せる変則の強みじゃね
仮想敵と違う動きってやっぱりイヤだし >>705
月之抄だったと思うけど、十兵衛が柳生但馬守宗矩との問答で二刀について聞いてるけど、小太刀を盾のように使うと書いてたので、そのようにしていたんじゃないかな。
それに盾といっても、西洋の剣術でいうバックラーは攻撃にも使うし、小太刀なら盾にも攻撃にも使えるだろうね。
宗矩の言葉にはそこらの含意もあると思う。
あとやはり、普通に防御は硬くて手数も増えるというのもあるだろうね。
>>706
ロマンもあるよね。
普通に指導されている二刀には、ロマンもへったくれもないけど。
二天一流など地味にもほどがある。
ある会派がここ何十年かで動きを大きく派手にしたという批判があったので動画見たけど、それでも他の流派より普通に地味だったよ…。
>>707
柳生流なんかでは二刀対策はかなり確立されていたらしく、天狗抄には二本、対二刀の技があるみたいですね。
尾張は円明流と隣接していたので、お互い研究がよくされていたらしい。
元柳生流の円明流とか、元円明流の柳生流とかいて、今の尾張円明流は柳生に伝わる両刀からのものだそうな。
円明流の方でも昭和の終わりくらいまで伝承者いたみたいなんだけど、今はいない。もったいない。 天狗抄に対二刀の技があるのは慶長六年に石舟斎が金春七郎宛に出した伝書と変わらんような
疋田なんかは新陰流としてではなく奥山念阿弥陀仏由来の「小太刀虎乱の目録」として
二刀剣術の伝書出してたりする
疋田系統の新陰流としては「磯浪」の仮想敵が二刀に構えてるな
こういうの見ると二刀ってのはイメージ以上に広まってたことを実感させられるよ ああ、その点に関しては別に尾張だけがどうとかの話してないか
お詫びとして知ってるかもしれないけど二刀がいっぱい載った東博の陰流伝書のリンクを貼っておこう
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0083304 >>709
補足どうも。
というか、紛らわしい書き方しました。天狗抄のあとで尾張のところは一行あけないと。
念流に近い、やはり古く歴史ある流派でもある堤宝山流にも二刀があるね。
以前にネットで見た二刀の歴史の論考では、堤宝山流ですでに二刀は完成していたように書いてたっけ。
ただ、この流派の二刀は鉄人流からいれたのではないかと『二刀流を語る』にはあった。
この流派自体の資料も江戸初期以前のものはないそうだけど…。
二刀そのものは武蔵以前からあったけど、二刀兵法の開祖…つまり、二刀を主体とした流派を作ったのは武蔵が最初、というのが小倉碑文の主張なんだろうね。 >>712
どうも。
そして、リンクありがとうございます。
この絵伝書は以前に別に見た記憶があるけど、ここで見れたのは知らなかったです。
ありがとうございます。
ではこちらからも。
あんまり興味もないかもだけど、このスレに来ている人ならば多分、嬉しいと思うから
https://heihouechigo.jimdo.com/
播磨武蔵研究会、再開するって。
以前に未掲載だった資料つきで。 ほー!播磨武蔵研究会再開ですか!
これは嬉しい情報ですね ありがたい >>714
どうも主宰者が完成させていた兵法先師伝記がネットで読めるかもって話で、ありがたい。
あれは書籍化してるものには現状ではほぼ一つしかないから、解説もつくとなるとなお素晴らしい。 兵法先師伝記はwikiに解説が載っているけど、武蔵伝記としての価値は武蔵についての情報ではなくて、当時の二天一流関係者がどういう風な武蔵情報をもっていたのかの確認になるかな。
あと武蔵百周忌についての話がどういう風に補足されているのかも興味がある。
それと当然、執筆者でもあり、越後二天一流の丹羽信英についての情報もあるんだろうな。
越後の伝は剣道日本に掲載された分か播磨武蔵研究会に掲載されたくらいしかろくに情報がないから、気になっていたんだ。 最近思うけど、宮本武蔵が二階堂流の村上吉之丞から逃亡したという撃剣叢談の話、
創作なのは年代から解っていたけど、どういう文脈からできた話かわからんかったが
当時の熊本では村上吉之丞人気がちょっとあったぽいから、そのageエビソードだったんじゃないかと思う。
そのローカル伝承を廻国修行の武芸者が聞き拾って、それを三上元龍が伝え聞いて…という
そういう流れで全国区にたまたま有名になって、村上は熊本マイナー有名人だから忘れられ
それで武蔵sage部分だけが強調されて今に残るのではないか。 子供部屋おじさんじゃない自炊してる社会人なら宮本武蔵の
何十人切りって話はフィクションだと分かるかと 武蔵が何十人も切ったというエピソードって、なんかあったっけ?
小倉碑文にも、武公伝にも、二天記にも、吉岡一門に切り殺したというような話は書いてない。
一番威勢がいいこと書いてある小倉碑文でも
「衆敵を散ずるや、走狗の猛獣を追ふに似たり。威を震ひて洛陽に帰る」
武公伝では
「武公察之、又七郎ヲ切弑シ彼門弟ヲ追奔シテ、威ヲ震フテ洛陽ニ帰ル」
二天記では
「武藏又七郎ヲ斬殺シ、徒黨ノモノヲ追退ケ、威ヲ振ヒテ洛陽ニ歸ル」
となっている。
これは要するに、敵に囲まれたけど上手く逃げおおせたって話だね。
まあ、数については最初の小倉碑文が数百人だったのが、以降は数十人という具合にグレードダウンしているから、当時からリアリティない話だと思われていたのだろうね。 >>721
自炊だろうと子供部屋だろうと独り身なら大差ないような
というか家庭持ってないのを得意げに語られても困るぞ 撃剣叢談の村上吉之丞から武蔵が逃げたという話、
同書に熊本では村上平内の武蔵流が繁盛していること書いてるし、
ソース元は同じとみていいだろうね。
村上家は新免弁助と揉めたらしいから、先祖を称揚して武蔵sageようとしたんだろう。 島原の乱で石投げ攻撃で足が折れてちんばになったやつ 島原で石ぶつけられた話、有名になってるけど、あれ呼び出しに際してそれでいけませんって断りの手紙に書いてることで、本当かどうかはよくわかんないぞ。 ただ、武蔵の自己申告ではあっても、どうもあの書状は有馬家の軍功を証明するものとして重要視されたらしい。
確か吉川英治文学館の記事に書いてあったが、書状は有馬家の軍功の証明のための証拠の櫃にいれてあったようで、特に手垢で汚れていたので、よく読み返されていたのだろうと。
となれば、実際にあったかどうかは調査されただろうから、武蔵が嘘ついたかどうかは調べられたと思う。
武州伝来記には、武蔵が投石を木刀で弾き返したという、事実と逆の逸話が収録されている。
伝承される過程で変異したんだろうけど、これ自体が武蔵が投石をぶつけられたとかの話が当時も知られていた証明になるんじゃないかな。
だからまあ、武蔵が島原で投石で負傷したというのは事実であると考えた方がよい。
ただ、その後すぐに江戸まで旅に出ているし、江戸から直で熊本にもいってるし、負傷者リストにもないし、程度はそんなに重くなかったんだと思う。
いい加減、いい歳だったんだから、それで負傷したらかなり足弱ったんじゃないかな。
もちろん、武蔵が足が弱ってたという逸話もあるし、晩年の二天一流の風格が弱った足と体力を反映したものであるという可能性もあるが。
それが投石による負傷が長引いたものなのか、スポーツマンが晩年に足を萎えさせるものみたいなものなのか。
あるいはその合わせ技だったのか、今となっては解らんけども。 >負傷者リストにもないし、
おいおい…
客観的事実の裏づけがないってことが確定かよ >>729
あくまでも、現在見当たるものではという話でね。言葉が足りなかった。申し訳ない。
中津藩の負傷記録に武蔵の名前がないというのは、魚住先生も書いてる。資料の名前だしてなかったと思うけど。
もしかしたら今後でてくる可能性はあるかもしれんけど、今のところはない。
ただ、軍忠状とかの類は自己申告だったようだし、島原では石ぶつけられた人の話は他にもあるし、状況的に一揆勢は最後は石投げるしかなかったのかもしれない。
だから、ちょっと石ぶつけられた程度のことは記録しなかったのかもね。
あと、元のツイートにも書いたけど、
城乘ノ時、賊徒石ヲ抛ツ。馬前ニ來ル石ヲ、
「石ガマイル」ト言葉ヲカケ、五尺杖ニテツキ戻シ、
落城ニ及ンデハ、例ノ薙刀ニテ數人薙伏ラレシト也
という説話が筑前の武州伝来記に採取されているということは、武蔵に向けて投げられた石…のエピソードはある程度知られてたんだろうね。
この話は熊本で拾われてないので、筑前ローカルだったものかもしれんけども、もしかしたら小倉の方から伝わったのかもしれない。
有馬直純宛の書状の内容が外部に漏れたとは考えにくいからね。小倉の関係者から広がったのかも。 まあ武蔵の自己申告なんだから、石ぶつけられたこと自体は疑うほどのことではないけれど
自分の名を落とすようなことを嘘ついてまで書くこともないだろうし。
前後の状況から考えて、さほどに深刻なものでもなかった…くらいじゃないかな。
ただ、剣豪が石ぶつけられて負傷したってのは面白い話だから。
話を又聞きでみんな大きくしていってるって部分はあると思う。
島原にいったら、ガイドさんは武蔵は子どもに石ぶつけられたことになってるって話もあったよ。
何処ソースかもわからないけど、いつの間にかそういうことになっているのだそうだ。 >自分の名を落とすようなことを嘘ついてまで書くこともないだろうし。
手柄傷という通り合戦の負傷は不名誉どころか手柄なんですけどね ああ、それもそうか。
武蔵の書状はそういえば、有馬直純の手勢が活躍していることを賞賛してのものだから
それは同時に、武蔵は最前線にいたことの証明でもあるな。
どうせだから、武蔵の書状も貼っとこう。
上にもあったかな?
【有馬直純宛武蔵書状】
被思召付尊礼忝次第ニ奉存候。随而せがれ伊織儀、御耳ニ立申通大慶奉存候。
拙者儀、老足可被御推量候。貴公様御意之様、御家中衆へも手先ニ而申かわし候。
殊御父子共本丸迄早々被成御座候通驚目申候。
拙者も石ニあたりすねたちかね申故、御目見得ニも祇候不仕候。
猶重而可得尊意候。恐惶謹言
即刻 玄信
先に有馬直純から伊織への賞賛があったものらしいが、伊織もかなり加増されているので、かなりの手柄だったらしい。 なんか播磨武蔵研究会、復活しているっぽい
http://musasi.siritai.net/
一部リンク切れで見れないのが気になるけど…。 武備和訓で武蔵流や武蔵の弟子の柴任三左衛門についてdisり記事が載ってたけど、これの作者の片島武矩、筑前黒田家を致仕しているんだな。
そしてその直前に筑前二天流の継承者で、柴任の孫弟子で、直接指導を受けたこともある立花峰均が遠島から復帰している。
これ多分、片島は立花と敵対していた側だったんだな…。 リアルの武蔵?
生前の武蔵のスキルではなく、キャラクターについて同時代人で言及があるのは、今のところは小倉碑文だけだな。
生来おおらかで細かいことを気にしない人だった、とある。
ここらは漢文の慣用句だけど、普通はあまりいい意味では使わない言葉なので、そういうのわざわざ持ち出すくらいには、武蔵は細かいことを気にしない性格してたんだろう。 太刀ひとつより、ふたつのほうが良い場合は…とは、五輪書にかかれているけど、あれが太刀二刀流なのかはわからんな。
文字通り読んだり、その章は戦場のケースを中心に語られているから、太刀二刀流を戦場で使う場合という、特殊なケースでのことに読めるは読める。
ただしこれは一般的な解釈ではない。