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【木刀】宮本武蔵を語る【サイコー!】

0486人間七七四年
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2012/05/28(月) 14:00:42.00ID:cVqDuZeA
ウィキで見たけど武蔵って卑怯者じゃん
小次郎との決闘で弟子連れてくるし、カスじゃん。男なら約束守れよ
つーことで小次郎リスペクトします。武蔵は卑怯者です
0487人間七七四年
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2012/06/15(金) 14:38:19.51ID:5ilIzPHJ
>>485
あの研究サイトにある根拠のない自説か…あそこはデータが膨大な上に読みにくいものだから、何処に何があるか把握しきれねえw
他説を小馬鹿にした言動が目的に、というのは同意だw
0488人間七七四年
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2012/06/17(日) 12:41:57.61ID:v3Gsmwmv
他説を小馬鹿にすることが目的って、具体的にどこよ?
引用してみてよ。
0489人間七七四年
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2012/06/18(月) 03:36:43.85ID:YYobcQPK
小馬鹿にするのが目的というのは言いすぎだな。
言い方が小馬鹿にしているように見受けられる…というのは、印象としてはあるな。
多分座談会とか読んだ印象なんだとは思うが。

あそこのデータはなんだかんだと豊富なのでありがたい。
0490人間七七四年
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2012/07/20(金) 13:02:03.46ID:i3x1MxjB
武蔵はどういう状況で脛に石食らったの?野戦?
0491人間七七四年
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2012/07/24(火) 23:18:38.78ID:icCd1TFg
モダンミステリースクールとかいうインチキカルトいわく、宮本武蔵はそこの信者だったらしいんだけど、本当か?
0492人間七七四年
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2012/08/03(金) 02:02:37.81ID:12o3JMzy
>>490
城攻めに際して、本丸に直接向かった小笠原家の軍の旗本一番隊にいたらしい。
まあかなりの最前線。
有馬直純宛武蔵書状で投石でどうこうとあるのは有名だけど、どういう風に当てられたとかは確か書いてない。
激戦区であることを考えると、まあ石ぶつけられててもなんら不思議ではない。
書状は互いの戦功を慶びつつ、有馬直純が会いたいというのを断ったっつー内容だな。
面会を断ったのは有馬家と水野家の戦功争いに巻き込まれたくなかったからではないかって意見もあるが、これはちょっと穿ち過ぎじゃないかね。よくわからんが。
0493人間七七四年
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2012/08/03(金) 07:33:31.36ID:dN7x3qGm
塚原ト伝だって矢傷は受けてるし、最前線に出たら無傷というわけにはいかないだろうね
0494人間七七四年
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2012/08/03(金) 17:30:43.51ID:CFT0U79P
攻城戦での石傷だと高所からって可能性もあるな。
0495人間七七四年
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2012/12/13(木) 13:28:13.39ID:yLHOL2bW
別に一人で突っ込んだわけでもないしなあ。
基本、護衛だし。
0496人間七七四年
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2012/12/17(月) 22:32:25.81ID:5WDcnPdB
「禅の思想と剣術」という大学教授が書いたわりとまじめな本の中で
ネット上で武蔵の資料を見る手段として播磨武蔵研究会を推薦してて驚いた
0497人間七七四年
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2013/01/09(水) 17:18:54.28ID:y9a3Z1Z7
実際、武蔵研究としてはあそこが一番進んでるんじゃないの?
舌鋒鋭く他説の批判をしてるから反感も買いやすいかもしれないけど
0498人間七七四年
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2013/01/09(水) 17:25:32.14ID:kTi1fjoE
舌鋒鋭いというか主観による決め付けもあるしな。
0499人間七七四年
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2013/01/09(水) 18:36:44.66ID:y9a3Z1Z7
少なくとも原文と資料を同時に提示・比較してるから
筆者の主観だけでなく読者にも判断できるようになってるところはフェアだと思うけどね
ここら辺は紙面に制限のないネットの強みだな
0501人間七七四年
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2013/01/09(水) 19:55:13.21ID:y9a3Z1Z7
ただの一読者ですよ
それより、主観による決め付けって例えばどういうところを読んでそう思ったの?
0502人間七七四年
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2013/01/15(火) 01:50:47.18ID:jSfsZABn
ずっと準備中のページがいくつかあるけど、もう中の人いないのかな
0503496
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2013/01/17(木) 19:35:11.61ID:EFH5Rnqi
>>500
サイトは攻撃的(というか偉そう)なとこが嫌でちょっとしか読んでないけど
ちゃんと資料を提示した上で批判してるのは偉いと思う
0504人間七七四年
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2013/01/19(土) 10:30:27.57ID:VIBn5ZTQ
攻撃的といえば菊池寛と直木三十五の武蔵論争もどぎつい言葉の応酬だったな
0505人間七七四年
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2013/01/29(火) 12:02:54.51ID:Owjd7C7H
>>502
去年に中の人の一人が新潟の方で講演会したとかなんとか聞いたから、純粋に手間食ってるだけだろう。
更新日だけ見ると細かく更新しているから、修正作業とか日々忙しく動いてはいるみたい。
多分、中の人たちがかなり高齢なんで、なかなか準備がおわんないんだろう。
綿谷雪のアタマの具合とか証言できるっていうてたくらいだし、今七十は八十前後の人たちだと思う。
0506人間七七四年
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2013/03/14(木) 11:54:57.68ID:y/kJejr7
優れた主張というより、経済的に支えられた物量によって、優れたサイトであるかの印象を与えている。
まあ、物量に価値があるといえばそれまでだが。
あれだけの量だから、原文で間違っている所も多い。
ただ、あの主張内容だから、
単なる間違いでなく、わざと間違って、サイトからの引用を炙り出しているのかと疑ってしまう。
とにかく、性格が悪い。本当に勉強したいのなら、あのサイトは読まない方がいいというか
触れないほうがいいのというのが個人的感想。
毒が多すぎる。
0507人間七七四年
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2013/03/14(木) 12:14:33.81ID:MAw90jZB
そちらのサイトによると「疋田の新当流起請文はマユツバ」らしいんだが、
何か根拠はあるんですかね?
0508人間七七四年
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2013/03/14(木) 12:15:54.35ID:MAw90jZB
これです。

http://www.geocities.jp/themusasi2de/bukou/b204.html
>しかも、かの疋田豊五郎が雲林院弥四郎入道(光秀)に提出した起請文なるものがあるそうだ。
そうすると、疋田豊五郎は雲林院光秀に新当流を学んだということになり、これはいささか眉に唾してかからざるをえない。
0510人間七七四年
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2013/04/06(土) 13:13:44.34ID:ZB0YnPt7
五輪書に書いてある一言一句の真の意味を
理解するのは容易じゃないな
容易じゃないってわかることがまた容易じゃない
0511人間七七四年
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2013/04/06(土) 13:20:04.10ID:ef6yYq7n
>>510
それがわかったってことは貴方も相当な人なんですね。
0512人間七七四年
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2013/04/06(土) 18:54:52.71ID:ZPjD0TQe
剣客というのはどうやって収入を得ていたんだ
0513人間七七四年
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2013/04/06(土) 19:37:31.30ID:Wu0vdMmj
用心棒だろ昔はいろんなとこで毎週仕事あったし
0514人間七七四年
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2013/04/07(日) 01:53:33.42ID:CEAfOSGc
武蔵は絵を描くだけで左団扇だったとか
0515人間七七四年
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2013/05/02(木) 12:46:01.79ID:w1zPw1Ps
ウチの近所には武蔵野子孫と言うおじさんが居るぞ。
武蔵と千葉のお姫様の間に生まれた一人息子の子孫。証拠は何もないそうだが武蔵が愛用していたという包丁がある。
見せて貰ったがステンレス製なんだけど…まー刺激して怒らせても怖いから感動したフリしたけど。
0516人間七七四年
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2013/05/12(日) 13:03:46.32ID:ydxbU8hp
>>514
元々赤松支流の新免武蔵守家の跡取りで
養子の伊織が二千石で仕官ということを考えると
身分的には二千石のご隠居スタートだしな
吉岡との戦いも門弟率いて
洛中で小規模な合戦を行って逃げ出すだし
若い頃から文化人かつ剣術家のお坊ちゃまだったんだろう
金に困っていたとは思えない
0517人間七七四年
垢版 |
2013/05/12(日) 14:00:57.87ID:NgaGbV+R
>洛中で小規模な合戦を行って逃げ出すだし

これはどういう史料からわかりますか?
0518人間七七四年
垢版 |
2013/05/12(日) 14:16:42.64ID:ydxbU8hp
>>517
ごめん。すぐには出せないけど門弟同士の諍いがエスカレートして
両方の手勢が弓矢とかまで持ち出す騒ぎになったとか、そんな話だった気がする
それでその時の洛外での大騒ぎが誇張されて
一人で吉岡一門ぶっ殺す後の流れに繋がるという流れ
どの資料だったかは、ちょっと調べ直してくる
0519人間七七四年
垢版 |
2013/05/12(日) 19:11:24.66ID:+BSA7NGB
>養子の伊織が二千石で仕官ということを考えると
>身分的には二千石のご隠居スタートだしな
そりゃ武蔵が名を上げたから養子が二千石で仕官できるほどになった訳で
二千石のご隠居がスタート地点というのとはだいぶ開きがあると思う
0520人間七七四年
垢版 |
2013/05/13(月) 19:29:24.66ID:SQABOVf+
剣を極めれば70人も切れると思えるけど
二刀流で移動しながら戦ったんだろう
間違っても囲まれないように戦ったはず
今の剣道みたいな動きでは絶対無理だろう 前にテレビで素人相手に4段の人が同時に何人相手にできるかやっていたが三、四人で終わった
0521人間七七四年
垢版 |
2013/05/13(月) 21:20:56.06ID:TCVqrIqJ
原田芳雄主演の「浪人街(ガイ)」という映画を見ると、多人数vs一人というのがなんとなくわかるよ。
一人ぶった切ると周囲はビビッて中々手を出せなくなる。様子を伺いすぎて突出できない。そうこうしているとパッと
身を翻して木立の中→追いかけると振り向きざまぶった切り→繰り返し。
ナマクラになってもいいように刀は8本くらい身につけてて、結構考えてると思った。
面白いのが敵陣に突入するまえに横に居た若者に「おい○○!!……重いぞ;;」と吐露したシーン。
一番燃えたシーン邦画も捨てたモンじゃないっていう映画だったなw
0522人間七七四年
垢版 |
2013/05/13(月) 21:38:55.06ID:beWZ6HvL
みんなで石なげたらいいじゃん(いいじゃん)
0523人間七七四年
垢版 |
2013/05/13(月) 22:31:52.09ID:TCVqrIqJ
誰か見てたら、吉岡が剣使わないで石投げて武蔵殺してたwwwww
って言われちゃう><
殺し合いならアリだけどねw変な見栄があると固執しちゃうんじゃない?
0524人間七七四年
垢版 |
2013/05/13(月) 23:25:19.30ID:beWZ6HvL
吉岡が70人がかりで武蔵殺してたwwwww
の時点で大概だから平気よ
0525人間七七四年
垢版 |
2013/05/13(月) 23:33:54.64ID:rjpagfO3
テレビとか映画とかそんなばっか基準だな
0526人間七七四年
垢版 |
2013/06/05(水) 03:40:31.82ID:T/AhstE9
万像我師

万像おめこ
0527人間七七四年
垢版 |
2013/06/05(水) 05:49:21.72ID:3QbHkx7H
SEXずっとしてないから最近ちょっとそうなってきた。
危ないな俺も・・
0528人間七七四年
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2013/06/13(木) 13:55:09.26ID:D1x10AfC
初めて内田吐夢の宮本武蔵(2作目)見てるけどバカボンドと同じような感じだね
それだけどっちも原作に忠実に作ってるのかな
原作読むべき?
宮本武蔵好きからすると吉川英治の「宮本武蔵」てどういう評価?
0529人間七七四年
垢版 |
2013/07/19(金) NY:AN:NY.ANID:MaPHLR51
吉川武蔵の評価は…って、アレ読んでる武蔵好きっていまどきどんだけいるのかね。
自分は一応読んだけど、まあなんだかんだと面白かったような印象あるよ。長いので休み休みだったけど。
吉川英治の文章は小難しくなくて読みやすいのがいいね。
ただ、戦前の書評の中には
「新聞で読むと面白かったのに、まとめて読むと人物が一貫してないし行き当たりばったりな展開で、なんでこんなものを熱中して読んでたのかわからない」
みたいなのがあったと思う…ソースが思い出せないので、話半分に聞いてくれ。
高校時代の教師から、吉川英治作品では法然が一番評価が高いとかいうてたが…。

ただ、武蔵もののスタンダードというか、原形の一つではあるから、それを考えると読む価値はあるかもね。
魔界転生の最後の決闘なんかも吉川武蔵のパロディな部分があるし。
戦後の武蔵ものはお通や沢庵の存在を含めてここらから引っ張ってたりするし。
知ってるとくすっとなれるような感じ?
0530人間七七四年
垢版 |
2013/12/26(木) 14:16:08.26ID:YVb5Wc1N
吉川英治の宮本武蔵は自分はすきだな
あと自分の剣の腕は生まれ持ってのものだった。って言う言葉を遺してるけど、あれは誇張ではなくてそういう脳の特性だと思う。
武蔵好きすぎて熊本の島田美術館と武蔵の墓最近行ってきたわ
0531人間七七四年
垢版 |
2013/12/28(土) 05:46:35.64ID:bHHsGdlK
うん?武蔵が自分の剣の腕についてそんなこと書いてたっけ?
0532人間七七四年
垢版 |
2014/01/19(日) 17:53:25.63ID:pneZ+vcU
吉川のは強い武蔵と弱い又蔵を比較しているのが面白い要素だわな
逆に言えば他に特徴がない
0533人間七七四年
垢版 |
2014/01/19(日) 18:48:35.35ID:dZoYNp8T
又蔵って誰だっけ?
本位田またぐら?
0534人間七七四年
垢版 |
2014/03/15(土) 22:28:51.40ID:ff7TNVyr
合成www
0535人間七七四年
垢版 |
2014/03/16(日) 08:40:51.68ID:d2rnKi6g
たけぞうの頃、合戦にいたのは本当か?
0536人間七七四年
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2014/03/30(日) 21:10:14.26ID:Dj0Q0lF6
ttp://livedoor.blogimg.jp/mildch/imgs/2/0/20683162.jpg
0537人間七七四年
垢版 |
2014/04/30(水) 13:46:08.86ID:OkGH+Hco
神道・仏教から歴史、政治経済まであらゆる情報の宝庫!

本日の講義は【大日本帝国は生きている 武士道】です。

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0538人間七七四年
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2014/04/30(水) 14:42:35.33ID:W8ZC8cBG
木刀の宮本武蔵。扇子の牛若丸。どつちが強い?
0540人間七七四年
垢版 |
2014/08/31(日) 19:40:04.04ID:ykDHZIml
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0541人間七七四年
垢版 |
2014/09/02(火) 05:29:54.35ID:1CaQ1FMf
宮本さんバキを瞬殺しました
0542人間七七四年
垢版 |
2014/09/02(火) 12:08:44.69ID:zjQ3wq4l
いくらなんでも宮本さんが刃牙に勝てるわけないだろ。
刃牙が無敵すぎて話が作れなくなったから実力を落としたんだろうな。
宮本さんは農民の投げた石で骨折する奴だぜ。
刃牙がそんな事ないだろw
0543人間七七四年
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2014/09/02(火) 15:47:14.55ID:FnljsfCI
「骨折」しましたっけ?
どういう史料に骨折が出てくるのかな?
0544人間七七四年
垢版 |
2014/09/03(水) 01:10:55.82ID:pG+leBjd
検索してみると骨折したって思っている奴が結構いるんだな
そんな事が書いてある資料は存在しないから、思い込みなのか何かの受け売りなのか
0545人間七七四年
垢版 |
2014/09/03(水) 20:28:24.08ID:0XAP8O3X
島原の乱では籠城側が投げ落とした石で幕府側に多数の被害が出てる
武蔵の場合はどういう石だったのやら

あと、武蔵の手紙での自己申告以外にその情報ってあるのかな?
0546人間七七四年
垢版 |
2014/09/04(木) 22:15:47.38ID:UQ7nl8+7
無いね
もしそんなものがあったら久しぶりの新史料発見てことになる
0547人間七七四年
垢版 |
2014/09/06(土) 18:42:43.25ID:gl1guV5v
>>529
「吉川英治の武蔵はウソパッカリよ、子供のトキは夢中でよんだけど
 大人になってわかったヨ」大山倍達の言葉
0548人間七七四年
垢版 |
2014/09/29(月) 20:27:51.05ID:QFEMeudW
>>547
お前の「空手バカ一代」もウソパッカリだったけどな〜
0549人間七七四年
垢版 |
2015/05/05(火) 06:54:04.95ID:V0IDDkBv
あ〜、俺生きてても何も意味がねぇ。
完全に嫌になるよ
0550人間七七四年
垢版 |
2015/09/03(木) 21:10:07.56ID:+gQf9lnK
空有善無惡
智者有也
理者有也
道者有也
心者空也

今更研究サイト読んだんだけど五輪書空の巻にある識語?っていうのかこれ
これは武蔵オリジナルではなく肥後系五輪書の後入れって事で確定でいいのかな
0551人間七七四年
垢版 |
2015/09/28(月) 05:02:43.36ID:Bbi3YePo
>>550
筑前系の五輪書にはないというから、肥後系で後入れと思っていいんじゃないかな。

去年くらいにヤオフクで孫之丞の弟子・柴任の五輪書…の写しという、恐らく最古に近い五輪書写本が出されたが、残念ながら水の巻だけだった。
もしもこれの空の巻があって、それで確認できたら…と思うと色々と残念だった。

ちなその写しの五輪書は、確か二万とかそこらで売れたんじゃないかと思う。
もっと下だったったかな?
0552人間七七四年
垢版 |
2015/10/02(金) 01:13:48.53ID:ZucWRY9U
>>551
五輪書の解説本では晩年の武蔵が達した境地みたいに紹介されることが多いけど、
後世の後入れだとすると色々とシュールな事になるなw

柴任の五輪書というのは柴任美矩→吉田実連の吉田家本の事?
吉田家本の空の巻なら既に最古の写本として発見されているけれども、
そうでなくて寺尾孫之丞→柴任美矩の五輪書だとしたら例え水の巻だけでも大発見だね
0553人間七七四年
垢版 |
2015/10/02(金) 21:29:59.92ID:wgi/qzNC
>>552
五輪書については当の筑前系の武州伝来記で「清書がない」とあるので、未完成品だったのは共通認識だったんだろうね。
空の巻の後入れが確定の証拠にはならんだろうけども、肥前系の武公伝で五輪書は孫之丞が授かったことになってる。
それで肥後に伝わってる五輪書の方が記述が多いというのは、こちらには未完成だったという伝承は残らなかったのか。
あるいはそれを踏まえた上で完成させようとしたものなのか…。

オークションの内容は忘れたが、柴任が受け取った五輪書の写し、だったはず。
なんか水の巻だけでてた。
記憶曖昧なのだけど、吉田家本ではなかったと思う。

>>547
今更のレスだけど、大山倍達は吉川武蔵について「本物はあんなではない」と聞いてから
「むしろあのような武蔵を作り出せたものだと感心した」
みたいなこと何処かで書いてた記憶があるよ。
極真の道場訓も吉川英治監修だしね。
0554人間七七四年
垢版 |
2015/10/09(金) 08:15:07.36ID:AMcdgkjQ
>>553
未完成だと踏まえた上で完成させようとしたんじゃないかなあ
肥後に流出した写本には筑前系空の巻のように代々の相伝証文が載ってないから
>>550の識語で穴埋めする必要があった、というのが研究サイトの見解だけどこれには同意
0555人間七七四年
垢版 |
2015/10/10(土) 10:16:23.99ID:mQ/TWqXE
ところで沼田家記って検索してみると成立した時期が
寛文十二年(1672年)もしくは元禄二年(1689年)と出てくるんだけどどっちが正しいんだろう
0556人間七七四年
垢版 |
2015/10/10(土) 22:30:10.86ID:Wr8Tq+ar
沼田家記は…確か細川家が命じてそれぞれの家の記録を提出させたものの中の一つだったような記憶があるのだが…ソースが見当たらない。
覚え違いだったかな。
でまあ、その胡乱な記憶が確かだったなら、という前提で、寛文二年が成立年代で、元禄二年は細川家に提出して公文書扱いになった頃…かなあ?

しかし、このスレでの上の方で沼田家記の記述についての論争とか、今見るとなんだか面倒くさいだけだねえ…。
小倉碑文や泊神社の棟札の内容を否定するために、随分とグダグダと書いてる。
0557人間七七四年
垢版 |
2015/10/11(日) 09:58:16.85ID:oA+zABTa
成立してから17年後に提出って遅すぎるんじゃないかって気がするけど……
寛文十二年に一応成立して、その後増補やら追補やらが色々あって元禄ニ年に舟島の記事が追加されたとかなのかな?
引き続きもう少し調べてみる。
0558人間七七四年
垢版 |
2015/10/12(月) 10:02:33.08ID:bFSKK/xE
沼田家記が成立してから、それと無関係に提出されるようになった…ということだと考えてるけど、そもそもが曖昧な記憶による前提なんでなんとも。

個人的には沼田家記の巌流島の戦いの描写はどうにも全面的には信用しかねるが、いつ頃に成立かは正確には知っておきたいので、調査結果は知りたいものである。
0559人間七七四年
垢版 |
2015/10/14(水) 17:19:31.72ID:ftZZglsB
「図説宮本武蔵の実像 別冊歴史読本 (33) 」に、沼田家記を所蔵する永青文庫の川口恭子氏の記事が載っていた。
それによると沼田家記は二部構成になっていて、一部は延元について、二部は延之についての書だという。
そして沼田家記第一部の奥書には「寛文十二年九月日」と書いてあるそうだ。
寛文十二年という数字の根拠はあっさり見つかった。
引き続き元禄二年の根拠を探そうと思う。けど、これは難航しそうだなあ。
0562人間七七四年
垢版 |
2016/03/02(水) 20:12:32.14ID:1XZuShBk
>>560
お、そっちだった。
ご指摘ありがとうございます
0564人間七七四年
垢版 |
2017/03/05(日) 05:47:01.54ID:nl1LhQw1
age
0565人間七七四年
垢版 |
2017/03/11(土) 06:38:00.35ID:WBPw5SUf
>>138
十年も前の書き込みにレスするのもアレだけど、美作の宮本村は武蔵の死後にできたから、平田武仁は多分実在しない。
ただ、自分も無二は二人いたのではないかと思う。
無二が二人というのも変な話ではあるが。
武蔵は一時期、「宮本無二斎」あるいは「宮本無二之助」を名乗っていたのではあるまいか。
0566人間七七四年
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2017/03/12(日) 04:58:44.80ID:oebB/9Vz
天正年間に死んだ新免無二
百年以上戦って天正八年に死んだ平田武仁
慶長二、三年に当理流の免許状を書いた宮本無二助/無二斎
慶長六、七年に黒田家に仕官していた新目無二
慶長十八年に木下延俊の御咄衆&兵法指南をしていた無二

どの無二が武蔵だと辻褄が合うかと言ったら年齢的にも状況的にも慶長十八年くらいのしか無いんじゃないの
0567人間七七四年
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2017/03/17(金) 03:18:02.50ID:/zqiNM8k
>>566
おお。まさかこんな放置されっぱなしのスレにすぐにレスがあるとは思わなかった。

木下延俊の日記にある無二を武蔵のこととすべきかはまだ慎重であった方がいいと思う。
黒田家に仕官していたという新目無二は、黒田家の分限帳の記載からだけども、分限帳は写本しかなくて後世伝承が混入されているようなので信頼性には疑問がある。
当理流の宮本無二之助については、現存の当理流伝書はみな筆跡が違う上に記名も微妙に異なるし、時代的に使われていないだろう季語もあるので、やはりそのまま信じるのは難しい。
そもそも当理流というのは宮本武蔵の弟子の塩田松斎が、武蔵より無二の流儀を学んで創始したと松斎の顕彰碑にあり、顕彰碑は野田一渓が伝書などを読んで当理流を再興し、塩田流を造ったことが書かれている。
そのことを考えると、当理流伝書は後世の造作じゃろなあ。
平田武仁は論外。

まあ武蔵が無二を名乗っていたのかはまだ要検証事例ではあるんだけども、無二流、あるいは新免無二流、無二も弟子の流派とも考えられている鉄人流…の分布が、なんか二天一流の分布とちょっと重なるのが気になっている。
塩田の顕彰碑にもあるけど、武蔵は無二の流派を教えていたという伝承があるわけで…。
武蔵の無二流の弟子というのがいて、話をややこしくしているのではないかあって気がする。
0568人間七七四年
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2017/03/17(金) 10:27:00.59ID:AWcFD7Bh
>後世伝承が混入されているようなので

具体的にどういった後世伝承が混入されていると確認されるんだろうか?
0569人間七七四年
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2017/03/17(金) 13:06:58.30ID:/zqiNM8k
>>568
無二関係の記載は幾つかあるけど、慶長六年正月中津より筑前江御打入之節諸給人分限帳には
新免無二に、「武州師父」とある。
これは武蔵先生の父という意味で、慶長六年というと武蔵は十八歳。いくらなんでも、その当時から武蔵が先生と呼ばれる凄い兵法者であったとは考えにくい。
というか、武州というのは筑前系二天一流の用語みたいね。
新免無二の名前がまずあって、そこに二天一流関係者が書き込んだ可能性はあるけども、この時点で写本が弄られているというのは間違いない。

現存の分限帳は転写を繰り返されて、明治になってまとめられたものだから仕方ないっていえば仕方ないんだけど…。
0570人間七七四年
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2017/03/18(土) 13:03:09.01ID:9BqeKXGl
慶長年中士中寺社知行書附だとこれだけじゃないかな

一、百石

古御譜代
 新目無二 
  一真、播磨人


こちらには何か後世の伝承が混入されているんだろうか
0571人間七七四年
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2017/03/18(土) 13:54:12.33ID:KD/9ROnN
>>570
慶長年中士中寺社知行書附の方は新免無二になってない?
新目無二は慶長七年諸役人知行割同九年知行書附の方だったかと。
他に新免伊賀守を新目伊賀という書き方もしているし、「新目」は分限帳特有かは知らんが多い誤記だよね。

「新目」は「新免」の転訛だろうけど、18世紀の本で「新免」を「にいみ」とルビを振っている例がある。
そこから「にいみ」→「新目」になったのではないかという類推しているところもあるね

無二に「一真」と諱をいれるのは円明実手流系譜の「宮本無二之助一真」が最初らしい。
そこからあちこちに「宮本/新免無二◯◯一真」の表記が広がったものと考えられるとか。

いずれ新免を新目に誤記をしてしまうあたりで、かなり資料としては辛い。
0572人間七七四年
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2017/03/20(月) 13:29:12.22ID:XYz5/u6T
>>569
長岡寄之の宮本伊織宛書状案に「御同名武州、熊本より程近き在郷へ御引き込み候いて居られ候」とあるから
「武州」という敬称は武蔵存命中には肥後で使われていた。
それが筑前の黒田家中で使われるようになったのは柴任美矩が黒田家に仕官して二天一流を伝えた後だろうから、
件の分限帳は最低でも柴任仕官の年である万治三年(1660)以後の書写ということになるか。
0573人間七七四年
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2017/04/18(火) 22:34:25.12ID:ZRMvPOeF
天下無双は吉川英治とバガボンドが98%創ってる事を知るべき
歴史捏造はどこかの国だけで十分
0574人間七七四年
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2017/04/19(水) 00:05:18.76ID:MQRJpiEi
>>573
それはさすがにお前が武蔵のことを知らなすぎるだけだよ…
0575人間七七四年
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2017/04/20(木) 10:49:08.91ID:4vy+pUuy
吉川武蔵が書かれるきっかけは作家たちの武蔵強弱論争だけど
それは武蔵がその時点での有名人じゃなかったら起こりようがない論争なのにな
こういうスレに来る人間で吉川以前からフィクションに取り上げられる人気者だったことを
今時知らないヤツがいるんだろうか?
0576人間七七四年
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2017/04/21(金) 11:41:29.87ID:Uuym7VZw
一次史料で武蔵を天下無双と評したものはないけれど二次資料であれば江戸時代からあるわな

『地誌 播磨鑑』
其後、伊織十六歳の時、赤石の御城主小笠原右近侯に、宮本武藏と云天下無双の兵術者を召抱へられ、客分にておはせしが

長岡房成『刀法録』
円明流の祖新免玄信も亦巡方してその地の剣客と試合す。
既に無双の剣なり。名、後世に高し。この人、教えるに直道を以ってす。

『尾張公徳川氏系譜』
天下無双の達人宮本武蔵至る。卿これが武芸を見ていわく、凡骨に非ず、妙神に入る。
これに仕を勧む、肯かず、客遇し、留まる三年。
0577人間七七四年
垢版 |
2017/04/21(金) 11:49:52.11ID:Uuym7VZw
つか吉川英治やバガボンドの武蔵ってあまり天下無双という感じがしないんだが
明らかに上泉や胤栄、石舟斎、一刀斎達の方が格上の描写だし
0578人間七七四年
垢版 |
2017/04/26(水) 04:45:22.48ID:2HfufJl6
宮本武蔵非名人説の論争のきっかけは、確か斎藤茂吉だっけか。
洋行の行きか帰りか、巌流島に立ち寄ったら、茂吉のイメージとは違う、策略を使って小次郎を陥れて勝った武蔵の話が書かれてる。
それに憤った斎藤茂吉は武蔵を批判する文書を書いて、小次郎を哀れむ歌を詠んだ。
「わが心いたく悲しみこの島に命おとしし人をしぞおもふ」
それで菊池寛と論争してたところに直木三十五が割り込んで、吉川英治が絡んで…という流れだったかな。

斎藤茂吉が憤ったのは、武蔵に対して講談なんかの仇討ちをする武蔵のイメージが否定されたからだったか。
吉川英治も武蔵を書くといった時は編集に「なんで今さら武蔵なんか」と言われたくらいなので、まあ講談なんかでの有名人ではあったらしい。
0579人間七七四年
垢版 |
2017/04/26(水) 10:41:25.63ID:nIydoC7/
晩年の勝海舟の談話録である『氷川清話』の中に武蔵への言及があって、
武蔵は大悟して後は丸腰でいても隙が無く、弟子が不意に打ちかかっても軽くいなしてしまった、
みたいな逸話が載ってる。この話の出典は不明。
武蔵が有名だったのは講談のヒーローであったというだけではなく、このような逸話やら伝説やらが
今知られているよりも昔はもっとあったからなのではなかろうか。
0580人間七七四年
垢版 |
2017/04/26(水) 15:53:56.35ID:2HfufJl6
本朝武芸小伝なんかでも言及されているしね。
千葉周作も武蔵は二刀流は実戦では使わなかった、みたいに考証?しているし、やはり剣術関係者にはビッグネームだったんだろう。
一応いっとくと、勝海舟も直心影流の使い手で、男谷信友とも親戚。
0581人間七七四年
垢版 |
2017/04/29(土) 03:04:15.37ID:Stx4oHjZ
武蔵対小次郎の巌流島の戦いの真相を、ウィキで調べた知識と勝手な妄想を混ぜてストーリーを考えたんだけど、書いてもいいかな

ちなみに歴史は苦手で正確に資料の調査もしてないから完全にフィクション

この戦いに関するいろんな説もちゃんとチェックしてないからもしかしたらありがちな妄想かもしれないけど

しかもめちゃ長文
0582人間七七四年
垢版 |
2017/04/29(土) 18:31:43.27ID:J9q4UZMl
そういうのは別のところでやってくれ
創作関係の板はあるだろ
0583人間七七四年
垢版 |
2017/04/29(土) 18:41:52.76ID:Stx4oHjZ
はい
とりあえず立ってるスレは無さそうだかし、スレ立てするほどでもないし消えます
0584人間七七四年
垢版 |
2017/04/30(日) 14:28:34.16ID:mQNVoZG/
巌流島の決闘の真相、というのは『漂流巌流島』でもネタにされていたが、
戦前の鷲尾雨工も小次郎の正体とは何かを論じさせる短編を書いてるね。
0586人間七七四年
垢版 |
2017/10/30(月) 04:55:46.11ID:68rIWQZq
映画で見たいんだけど、どれが一番傑作と言われてるの?
0587人間七七四年
垢版 |
2018/05/27(日) 11:13:46.72ID:ZLr2fcgC
☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
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0588クバの化身
垢版 |
2018/05/31(木) 09:18:21.04ID:g7E1rbI/
まことは、考えていることが、スグにわかる
反応がわかりやすいからである
0590人間七七四年
垢版 |
2018/08/07(火) 16:21:43.57ID:LWHNwiKM
>>49
それだけ首とっても徳川には雇ってもらえなかったんだ
0591人間七七四年
垢版 |
2018/08/14(火) 05:53:14.22ID:9oCLMN57
>>590
そんな十年以上前の与太にレスつけんでもw

武蔵が猟官活動していたという証拠はない。
していたかもしれないし、していなかったかもな。
個人的にはしていなかったと思う。
卜伝や上泉、一刀斎なんかも、一時期所属しても基本的に移動していたみたいだしな。
そういう、各地で弘流していく古い世代の兵法者のスタイルを踏襲してたんじゃないか。
0592人間七七四年
垢版 |
2018/08/21(火) 15:18:22.23ID:0NaidUHg
大坂の陣の水野、姫路本多、豊前小笠原、肥後細川等徳川親藩の有力大名の元で
客分、客将としての暮らしはしたけど「徳川に雇ってもらう」なんて運動したことあったっけ?
0594人間七七四年
垢版 |
2018/08/21(火) 16:44:57.76ID:BB6lypaI
>>593
そういうイメージだけの話はもういらないから
何がしかの史料に基づいた具体的な情報を語って欲しい
0595人間七七四年
垢版 |
2018/08/22(水) 04:24:43.31ID:rXaeRXq9
武蔵が猟官活動をしていたという話の元ネタは、武州伝来記だろ。
それでは武蔵は将軍に召し抱えられそうになるが、柳生がいるし、その下風に立ちたくないからと断るんだ。
自分は仕官の望みを抱いたことはないし、姿も法外だからと。
兵法御覧の沙汰もあったが、将軍様は柳生を尊敬しているし自分の兵法見せても仕方ないやろと断った。
柳生も特に推挙はしなかったそうだ、とかある。

恐らくここらの話が戦後くらいから歪んだんじゃないかな。
0596人間七七四年
垢版 |
2018/11/13(火) 20:23:12.13ID:bBhHhhbp
細川家とつながったのはいつからなのか
そこが争点なんだよ
0597人間七七四年
垢版 |
2018/11/17(土) 00:55:03.77ID:12BHW4Sj
宮本武蔵、は存在していない
証拠もある
0598人間七七四年
垢版 |
2018/11/20(火) 22:42:53.91ID:ynASBiXb
武蔵と細川家の関係?
元々、武蔵は水野家やら本多家やら小笠原家やら有馬家に謎の人脈があるからな…。
ここらの大名は外戚関係があるとか聞くがよく知らないな。その伝手がふつたものかもだが。
けど確か、武蔵が熊本に行ったのは長岡佐渡相手の書簡があって、用事があってきたから挨拶しときます
くらいのものだったと記憶している。
それで細川家から接待されたんじゃないかな。
武蔵当人はただの隠居の爺さんだけど。
徳川家の親戚で、九州の大名の監視役のように配置された小笠原家の筆頭家老・宮本伊織の義父だもの。
そりゃ細川家だって丁寧に対応するのが当たり前というか…。
0599人間七七四年
垢版 |
2018/11/20(火) 23:04:56.51ID:ynASBiXb
武蔵と細川家の関係?
元々、武蔵は水野家やら本多家やら小笠原家やら有馬家に謎の人脈があるからな…。
ここらの大名は外戚関係があるとか聞くがよく知らないな。その伝手がふつたものかもだが。
けど確か、武蔵が熊本に行ったのは長岡佐渡相手の書簡があって、用事があってきたから挨拶しときます
くらいのものだったと記憶している。
それで細川家から接待されたんじゃないかな。
武蔵当人はただの隠居の爺さんだけど。
徳川家の親戚で、九州の大名の監視役のように配置された小笠原家の筆頭家老・宮本伊織の義父だもの。
そりゃ細川家だって丁寧に対応するのが当たり前というか…。
0600人間七七四年
垢版 |
2018/11/20(火) 23:05:42.12ID:ynASBiXb
あ、なんかミスって二重書き込みしてしまった。失礼。
0601人間七七四年
垢版 |
2018/11/24(土) 11:54:11.06ID:IdrBMRM4
>元々、武蔵は水野家やら本多家やら小笠原家やら有馬家に謎の人脈があるからな…。

謎のというか水野勝成は武蔵の弟子になってるだろ
0602人間七七四年
垢版 |
2018/11/25(日) 16:59:47.01ID:AARvFstc
山田真竜軒との対決の漫談、途中までしかしらない。
結末を教えて。
0603人間七七四年
垢版 |
2018/11/26(月) 20:47:58.97ID:YrOwRlYk
>>601
水野勝成が武蔵の弟子ってのは、円明流に伝わる伝書だったっけか。
宮本武蔵義軽名義で発行されてたやつ…あれ本物かね?
そもそもどういう経緯で武蔵と勝成が関わったのかがよくわからん…。
大阪の陣の時に兵を募集して、その中に武蔵がいたというだけの話かもだが。
0604人間七七四年
垢版 |
2018/11/27(火) 01:22:15.03ID:tYFTfCRe
>大阪の陣の時に兵を募集して、その中に武蔵がいたというだけの話かもだが

その他大勢の扱いとして水野家の史料に登場するならそうかもしれないな
でもそうだったっけ?
0605人間七七四年
垢版 |
2018/11/27(火) 05:02:20.76ID:nPghBI4c
>>604
大坂御陣御人数附覚というのがある。
これによると、武蔵は水野勝成の御供騎馬武者二百三十人の中の一人として名前が載っているそうだ。
これがその他大勢の扱いだったかどうかは解らない。
福田正秀先生の記事のコピペだが
ttps://mizunoclan.exblog.jp/14496991/

《総御供騎馬二百三十騎、総御人数三千二百人之由》となっている。
士(さむらい)大将は中山外記、そして御供騎馬武者二百三十人の中
「作州様附」十人の四番目に宮本武蔵の名前があった。
作州様とは勝成の嫡男、美作守勝重(のち勝俊)のことである。
(略)武蔵の立場は当初陣場借りかとも考えたが、
勝重付十人のうち二人までは名前の上に「牢人にて出陣」との但し書きがある。
武蔵にはそれがないということは、仕官を求めての陣場借りとも思えない。
この頃すでに六十余度の勝負に勝ち、天下無双の剣豪として高名であった武蔵は、
その気になればいくらでも仕官が出来たはず。水野家では遊遇の名士、
勝成の御客分としての身分で、後の島原の陣での小笠原家同様、
若殿勝重の身を守る護衛の任を特に勝成から頼まれたものであろう。
いわば客将と見るのが正しいと思う

…とあるが、順序は逆で、武蔵が大阪の陣で活躍したから世間に知られたのかもしれない。
当時の価値観だと、兵法(剣術)勝負の勝ち負けなんぞ大名連中はたいした評価はしなかったと思う。
まあそれだと、武蔵が勝成に優遇されているっぽい理由は解らんけど。
0606人間七七四年
垢版 |
2018/11/27(火) 12:35:29.98ID:AN3qyr2E
>若殿勝重の身を守る護衛の任を特に勝成から頼まれたものであろう。
>いわば客将と見るのが正しいと思う

これがその他大勢のやることなのかあ
こんな重要なことをその他大勢にやらせるってことは
よほど人材がいなかったってことなんだろうな

普通は主君の兵法師範を務める人間とかがやることだよなあ
たとえば水野勝成を弟子にして信頼を勝ち得ている「宮本武蔵義軽」なんかが
やればよかったのでは?
0607人間七七四年
垢版 |
2018/11/28(水) 00:53:58.23ID:fHd9FOJa
宮本武蔵義軽名義の伝書は、正直偽書くさいが、元になる伝承なりがあったんだろう…というのが妥当なところかな。
なんらかの師弟関係か、それに準ずるものがあったと考えるのは自然ではある。
とはいえ、武蔵は伝承の範囲からしても明石在住していたようだし、水野家との関わりはどうにも見えにくい。
大阪の陣の前の水野勝成は刈谷にいたんだっけ。ちょっと遠いな…。
0608人間七七四年
垢版 |
2018/11/28(水) 00:55:03.54ID:fHd9FOJa
宮本武蔵義軽名義の伝書は、正直偽書くさいが、元になる伝承なりがあったんだろう…というのが妥当なところかな。
なんらかの師弟関係か、それに準ずるものがあったと考えるのは自然ではある。
とはいえ、武蔵は伝承の範囲からしても明石在住していたようだし、水野家との関わりはどうにも見えにくい。
大阪の陣の前の水野勝成は刈谷にいたんだっけ。ちょっと遠いな…。
0609人間七七四年
垢版 |
2018/11/28(水) 00:55:52.84ID:fHd9FOJa
あら。また二重書き込みしちまった…どうにも最近の仕様には慣れないなあ
0610人間七七四年
垢版 |
2018/11/28(水) 15:11:57.01ID:mvy3BPtf
どの辺が偽書臭いんだろう
義軽名義の文書に見られる活動と反する内容の別の信頼性の高い同時代史料があるとかならともかく
伝承の方を無批判に優先するってのも凄いよな
0611人間七七四年
垢版 |
2018/11/29(木) 19:30:42.65ID:Iw6EH8cX
武蔵についての関係文書は、私信なら「宮本武蔵」はあるけども、五輪書や小倉碑文など
そういうのだと「新免武蔵(守)藤原玄信」なんだよ。
他にも「新免玄信」があるけども、武蔵の正式な名乗りは「新免」だったのは間違いない。
熊本でも武蔵の弟子筋から「新免」を再興させるべく誰それに名乗らせた、みたいな話が二例でてくる。
どうも宮本は後から名乗ることになったものらしい。それは伊織の遺した棟札にも書いてある。
なんで宮本と名乗ったりしだしたかの理由は解らないが、通称として使用していたのが妥当だと考える。
だからまあ、「宮本武蔵守藤原義経」あるいは「宮本武蔵守義軽」みたいな署名の伝書はかなり怪しい。
というか、この「義軽」というのが当時としてはかなり怪しい名前であると、綿谷雪先生は兵道鏡について当時から述べていた。
多分、「義経」の写し崩れではないかという話なんだが、森田栄先生はこれに反論して、義軽名義はあり得るとして
綿谷先生が死んでから30年くらいして…何年か前に反論の本書いてたな。
0612人間七七四年
垢版 |
2018/11/30(金) 16:00:06.35ID:HjvgaNi8
大坂御陣御人数附覚では「宮本武蔵」だな
0613人間七七四年
垢版 |
2018/11/30(金) 19:29:50.47ID:3XM0cOBO
大坂御陣御人数附覚は1650年代前半の写本だから、原本でもそうだったかは解らん。

もちっと上の方でも書かれているが、黒田分限帳なんかでも後世写本には伝承を反映したと思しき書き込みがされることがある。
その記述をそのまま受け取っていいものかは断言できない。
0614人間七七四年
垢版 |
2018/11/30(金) 20:14:55.33ID:3XM0cOBO
大坂御陣御人数附覚の内容は恐らく大まかには正しいと思うのは、武蔵はその後、
水野の家臣の中川志摩之助から三木之助、九郎太夫の二人を養子にとっているから。
なんの縁もなしに、養子縁組をするとは考えにくい。

とりあえず水野勝成宛の伝書は、改めて調べたけども慶長十三年発行…水野勝成44歳、武蔵25歳か…。
年の差は師弟関係としてありえなくはないけども、武蔵は若すぎないか?

あと勝成宛の伝書が兵道鏡として転写されているものの一つなのだけども、この兵道鏡は何種か
同様の内容のものがあって、しかもほぼ同内容の伝書が18世紀に円明流の脇坂によって発行されている。
脇坂の伝書、兵法教之巻とかいうそうだ。他にも円明流奥義書とか、類似内容の文書があるんだとか。
これらが武蔵の兵道鏡から抜粋して発行したと考えてもいいけど、箔をつけるという意味からすれば、
最初から全部、武蔵より相伝されし云々と兵道鏡と名付けて伝授しただろうと思う。

…とかここらは某所の記述のほぼそのまんまの要約だから自分の考えたみたいに書くのはアレだが、
水野勝成が武蔵の弟子だったとかいう話は、それこそ水野家の方に記録がなければおかしい話だが、
ぶっちゃけこの兵道鏡以外には調べてもでてこない。
現状、水野勝成と武蔵の関わりから18世紀以降に誰かが円明流の伝書を改変して創作した可能性が高いと思っている。
0615人間七七四年
垢版 |
2018/12/03(月) 22:18:50.35ID:ljR7NFzJ
そういえば、播磨武蔵研究会、ジオシティーズだから三月にはたぶんなくなるよ。
主宰死んだそうだし、消えたら復活はないだろうな。
0616人間七七四年
垢版 |
2018/12/24(月) 13:05:24.59ID:cs8FHIPT
>>614
誰かの受け売りっぽいと思ったら案の定かよ
結局あんた自分で判断してないんだな
ちゃんと史料の内容確認してるのかとか聞くのがバカらしくなってきた
0617人間七七四年
垢版 |
2019/01/01(火) 08:28:26.11ID:9HK53fF4
>>616
入手できる資料は検討したんだよ。
やや自信はないので書かなかったが、自説としても、兵道鏡にある真位之事の記述は
かなり怪しい。
これが二天一流にもない、対二刀の教えでな。
自分は歴史資料の研究はそっちの研究者の方々にまかせて、実技方面と現在の伝承から
検討しているんだが、武蔵が対二刀技法を初期に完成させているのなら、晩年の二天一流
にもなんらかの痕跡がないとおかしいが、これがまったくない。
取材できる範囲で幾人かの二天一流の指導者に伺ったが、対二刀はないんだ。
そういうものが兵道鏡にあるのはやはり不自然にすぎる。
武蔵より後代に研究と検討が重ねられて作られたものだと思う。
ただ、これは他の事情からやや整合がとれないので、得意げに説として掲げるには躊躇われた。

あと剣道史研究の森田栄先生の著書だと兵道鏡は武蔵の著書であるという主張で
こちらは武蔵の筆跡から『五方之太刀道』などと共通しているという話ではあるが、
この書は大倉隆二先生などは武蔵筆であることは否定的だったと記憶している。

付け加えると、播磨武蔵研究会さんは五輪書以前の兵法書を武蔵は発行していないという立場で
一貫しているが、それは五輪書に「初めて書いた」ようなことが書いてるのが論拠で、
これは個人的には結構危ういと思っている。
0618人間七七四年
垢版 |
2019/01/13(日) 20:08:20.90ID:yWBkSCP2
ここ数年、武蔵は二刀流は使っていない、今の二天一流で二刀を使用しているのは歌舞伎などで武蔵が二刀流で有名になったから
五輪書から適当に創作した…という話をあちこちで書き込んで広めようとしている人を見つけて困惑している
0619人間七七四年
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2019/03/11(月) 05:58:25.58ID:C0Snur4Z
>>462
>>459じゃないけど、柳生但馬守が松山主水を恐れて戦わなかったという記述は『綿考輯録』だな。

松山主水ハ戸田流の剣術名人にて色々語伝も有之、
中にも柳生但馬守殿御聞およひ候而忠利君に御噂ニ而、
御対面之時忠利君御所望ニよつて但馬守殿御立合有之候、
然処双方しなひを取て立向はれ候処、但馬守殿しなひを下ニ置、
主水との立合ハ御断ニ被及旨ニ而被差止候、
主水御次ニ罷立候跡に而、何故に御やめ候哉と忠利君御尋被成候得は、
主水儀しなひを取立向ひ候得は、両足畳より弐寸程すき申候、
常の事ニ而ハ無之と存御断申候、
但右之者遠からさるうち剣難の相見へ申候と被仰候由、
然に無恙御供ニ而罷下、其翌年庄林十兵衛ニきられ候と或人の咄也

…とある。
>>464の江戸期のとある流派の伝書のひとつ、とか書いてあるのは、多分、
孫引きでうろおぼえてたのでソースが出せなかったので適当なこと言って誤魔化したか
あるいは、伝書は実在して、それは綿考輯録のソース元と同じ文献から引いたのかもね。
0620人間七七四年
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2019/04/10(水) 10:56:50.70ID:3+uInH3K
宮本武蔵って、吉川英治が小説にする前にはどんな扱いだったのかね
今ほど神格化はされてないと思うんだけど
0621人間七七四年
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2019/04/11(木) 13:20:23.52ID:RsCdepMR
作家の間で宮本武蔵強弱論議が起こるくらいには有名だった
0622人間七七四年
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2019/04/12(金) 11:19:27.98ID:F407akk9
一般庶民は武蔵の存在を認識するくらいには知名度あったのかな?
武道家や武芸者、学者、研究者、作家ではなく
そこいらのオッさんとか
0623人間七七四年
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2019/04/12(金) 15:21:39.48ID:5QRPX+Zs
こういうスレに来る人に江戸時代から芝居や講談にもよく登場することすら
知られてないってのは逆に意外だな

真田十勇士を作って有名にした子供向けの立川文庫にも武蔵を主人公にしたものがあるよ
当然吉川武蔵より前
0624人間七七四年
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2019/04/12(金) 19:56:12.72ID:hTF8TKHm
そうなんだ
無名の剣客を小説の題材にして
そこで初めて有名になって
俄かに研究する人があらわれて
みたいなパターンかなと思ってたのよね
例えば坂本龍馬なんかが、そのパターンでしょ
武蔵もそのクチなのかなと
0625人間七七四年
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2019/04/13(土) 00:26:29.07ID:rYw+8YYp
>例えば坂本龍馬なんかが、そのパターンでしょ

坂本龍馬って昭和3年に桂浜に巨大銅像が建てられた坂本龍馬のこと?
あれってそれ以前の小説家が題材にしたから作られたものだったの?
0627人間七七四年
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2019/04/16(火) 08:16:53.30ID:FCnCwpdw
>>626
何の地元?
0628人間七七四年
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2019/04/16(火) 14:51:15.06ID:5TlD9bT+
地元の郷土史家は偏った論文書くから学会では忌避される傾向がある
オラが村の英雄とかね
坂本龍馬もそのパターンで高知で騒がれてただけの人でしょ
0629人間七七四年
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2019/04/16(火) 15:59:50.22ID:zyer7sxM
>>626
>無名の剣客を小説の題材にして
>そこで初めて有名になって
>俄かに研究する人があらわれて
>みたいなパターンかなと思ってたのよね
>例えば坂本龍馬なんかが、そのパターンでしょ

明治16年の「汗血千里駒」はそんなに影響力あったのか?
0630人間七七四年
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2019/04/17(水) 10:55:31.46ID:qvxFCE04
まず地元の新聞であること
たびたび時事物の政治論争を混ぜ込んで連載中止させられてること
このあたりから現地でば大人気で、時事的な出来事も龍馬の考案にされて偉人賢人化に拍車がかかって
いまの俺たちの龍馬像になってる可能性が否定出来ない
0631人間七七四年
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2019/04/17(水) 10:59:33.82ID:o/1gioOj
吉川以前から武蔵が有名だった事も知らない無知な>>624
司馬の竜馬がゆくあたりを頭において書いたんだろうけど
随分強引な流れになってきたなw
0632人間七七四年
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2019/04/17(水) 13:30:41.16ID:TvD8Gx+w
新撰組はどうだろうね
明治や大正期だと当人達がまだ生きているから
無名ってことはなさそうだけど
0633人間七七四年
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2019/04/18(木) 22:58:56.70ID:npoVu0y6
戦艦大和も宇宙戦艦ヤマトがヒットするまでは
一部の軍オタしか知らなかった
0635人間七七四年
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2019/04/19(金) 12:09:39.26ID:Yz4Cjkxx
梶原一騎も一部の軍オタなんだな

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%88%A6%E8%89%A6%E5%A4%A7%E5%92%8C

>『新戦艦大和』(しんせんかんやまと)は、梶原一騎による絵物語、漫画。
>絵物語版は、1961年に吉田郁也の絵で「日の丸」に掲載された。漫画版は、「少年画報」の1963年7月号から1964年3月号まで連載された。作画は団鉄也。

>艦長の沖田とその息子2人が新戦艦大和でキラー博士と戦うという物語。アニメ『宇宙戦艦ヤマト』の10年以上前に「戦艦大和が空を飛ぶ」アイデアを出した先駆的作品である。
>新戦艦大和は潜水も可能となっている。
0636人間七七四年
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2019/04/20(土) 17:11:00.16ID:mTpmCaTf
>>632
新選組も戦前からある程度知名度はあったと思う。
大菩薩峠だとか鞍馬天狗だとかにも出てくるし。
どういう扱いをしていたのかは知らないけども、
三田村鳶魚の「話に聞いた新選組」というエッセイを読むと

いずれにも人を沢山斬ったなどというと、剣術の腕前の凄じいように思うものもありましょうが、
彼の剣道は決して立派なものではない。私の祖父は剣術が好きでありまして、
近藤とも立ち合ったことがあるといって、よく近藤の剣術の話をしました。
ナニあれは強くはない、しかしいかにも粘った剣術であった、三本に一本は取れる、
と申しておりました。私の祖父なるものは、びっくり仰天するだけの人間であって、
真剣なんぞを持って斬り合うなんていう肚胸のある人間ではありませんから、
何のお話もないが、竹刀を持って立ち合ってみても、その人の根性が出ないことはありません。
私の大伯父になります谷合量平というものがございまして、
それも近藤の剣術の話を致しましたが、やはり祖父が申すのと違っておりません。
先日新徴組の一人でありました千葉弥一郎さんから承りますのに、
近藤の剣術はさまでのものじゃない、ということを言っておられました。
そういうふうでありますから、近藤が剣術の道場を持っておったなどという話は、
私は聞いていない。とても剣道の指南などをするほどの腕前があった人ではないのであります

…と書いてある。
青空文庫にあるけども、発表の日付が子母澤寛が新選組関係本を出した二年くらい後だから
多分そこらを意識して書いたものだと思う。
三田村鳶魚は時代小説だとかそういうのに噛み付いてた人で、だけど彼にして天然理心流など当時は知らなかったのだろう。
あと、もしかしたら戦後の小説で近藤勇の剣術が大したことがない、三本に一本はとれたみたいな言説はここらに端を発してるかもしれない。
なにせ割と最近まで、三田村鳶魚全集読んでたら時代小説は書けるって言われたくらいに影響力はあったからね

だからまあ、子母澤寛までは新選組は知られていたけど、割と半端だった…くらいの認識でいいと思う。
あと子母澤寛もかなり適当に虚偽とか混ぜていることは近年の研究で知られているという話だが詳細は知らない。
0637人間七七四年
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2019/04/20(土) 17:19:22.70ID:mTpmCaTf
>>636
あ、「話に聞いた近藤勇」だった。
タイトルミスったわ。

>>624
元々は斎藤茂吉が洋行のついでに立ち寄った巌流島に建てられた顕彰碑かなんか読んだら
それが講談のヒーローだった武蔵と違い、わざと遅れたりして戦ったという卑怯な振る舞い
をしているということにショックを受け、小次郎を哀れむためになんか建てたのが評判になって
菊池寛や吉川英治と武蔵は実はーという論争を引き起こし、そこに直木三十五が載ってきて
「武蔵非名人説」というのを出してまあまあ評判になって、吉川英治はそれに反論する形で
「宮本武蔵」を書き出した…という経緯がある。
そして「随筆宮本武蔵」によると、今更武蔵?と言われたそうだ。
だからまあ、吉川英治以前から創作物の題材になったり、議論の対象になる程度には
みんなには知られていた。
0638人間七七四年
垢版 |
2019/04/20(土) 20:18:59.86ID:nVzIaWdj
歌舞伎とか浄瑠璃の武蔵は佐々木厳流に仇打ちのために挑むなんて筋立てだから
そりゃ実像とはかけ離れてるよね
0639人間七七四年
垢版 |
2019/04/20(土) 20:21:05.67ID:nVzIaWdj
でも明治大正期の講談ならもう少しマシにはなってるかな
0640人間七七四年
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2019/04/21(日) 01:40:41.13ID:mei1NlLe
まあ歌舞伎とか浄瑠璃の宮本武蔵イメージは、小倉碑文の適当な内容を、さらに伝聞で聞きかじったものがベースだろうしなあ
武蔵が卑怯なことをした系の話は江戸時代からあるはあるけど、やはりメインにはなりえないんだろう。

とはいえ、武蔵の実像がどんなものだったのかはやはり今持ってよくわからんけどね。
現在の武蔵イメージは反「吉川英治『宮本武蔵』」がベースになった、狷介孤高の野望強き兵法者って感じか。
ただ、『随筆宮本武蔵』を読むと吉川英治も実在の武蔵をかなり暑苦しくて側にいてほしくないと書いてる。
当時から20世紀くらいの資料だとだいたいそういう感じの、我の強い兵法者ってところに落ち着くんだと思う。
0641人間七七四年
垢版 |
2019/04/21(日) 15:37:30.86ID:f/ETPLDD
最近じゃ後半生に関しては自分の名声や社会的信用で養子を名家に仕官させ
自分は客分として誰の下になることもなく悠々自適に暮らすイメージも出てきている

仕官を熱望した武蔵ってのも古いイメージになっていくのかもしれない
0642人間七七四年
垢版 |
2019/04/21(日) 20:49:55.79ID:F+HAzJLt
無収入で、どうやって糊口を凌いでいたのだろう。
辻強盗などまさか。
0643人間七七四年
垢版 |
2019/04/21(日) 21:22:24.73ID:mei1NlLe
伊織は養子になってから仕官したのか、仕官してたのを養子として斡旋されたのかちょっと解んないな。
どちらにせよ、武蔵は当時はそれなりの名士として認識されてたんだろうけど。

武蔵は弟子が多かったし、仕官はしてなくても生活するのに十分な収入はあったんじゃないかな。
もしかしたらパトロンくらいいたかもしれない。

小倉碑文には「生来大らかで細かいことは気にしない人だった」とあるので、その人物評が正しくて
それでいて五輪書なんて教本を書き残そうとしたとしたのなら、難しいことを言ったりガミガミ怒ったりしない、
人当たりがよくて面倒見もよい先生だったのかもね。
0644人間七七四年
垢版 |
2019/04/22(月) 08:47:10.32ID:dfTz1tBj
武蔵の葬儀は熊本の泰勝寺という寺で執り行われているが
ここって細川家の菩提寺なんだよな

家臣でもない浪人者の葬儀を藩主菩提寺で行うことって割とあるのかな?
0645人間七七四年
垢版 |
2019/04/22(月) 16:59:54.17ID:qyb8ipws
武蔵が浪人者というのはどうかな。
武蔵当人の身分はおいといて、武蔵の社会的地位は小笠原家筆頭家老、宮本伊織の養父だし。
小笠原家の当主、小笠原忠真は細川忠利の義理の兄弟で、当時の細川家の当主、光尚の伯父にあたる。
その小笠原家にとっての重要人物の伊織の養父だから、そら歓待もするだろうし、盛大に葬儀もあげて不思議でもないな。
0646人間七七四年
垢版 |
2019/04/22(月) 19:01:14.72ID:cjec0O3U
武州伝来記の「一生福力ありて、金銀に乏しからず」ってのも
武蔵の後半生に限っていえば案外誇張ではなかったのかな?
0647人間七七四年
垢版 |
2019/04/22(月) 19:57:03.82ID:qyb8ipws
養子たちは全員優秀だったしな…弟子も多くいた上にハイソサエティにも顔が利く…
これで貧乏して生活困ってたら逆に変だ。

伊織は島原の乱で加増されて四千石超えたけど、それまでにも二千石はあったし。
若くして殉死した三木之助も知行七百石貰ってた。
武蔵が世話になってたかどうかは不明だが、二代目三木之助の九郎太郎も恐らく七百石。
武蔵自身の収入も併せたら、まあ苦労のない生活はできただろうな。
0648人間七七四年
垢版 |
2019/04/22(月) 20:09:24.46ID:BQJ5Ga8I
やっぱり悠々自適な生活なのか
昔よく言われていた仕官に失敗し失意の後半生ってのとはちょっと違う感じするな
0649人間七七四年
垢版 |
2019/04/22(月) 20:49:31.25ID:qyb8ipws
仕官に失敗した失意の後半生を送った…というのは、元々悪意有りきの解釈だからね。
戦後の武蔵イメージが吉川英治の死後、こぞって吉川武蔵の作り出した偶像の武蔵を壊すため
殊更に武蔵は剣聖と呼べるような人間ではなかった、高名な割に評価は低かった……
みたいな方向で語られてたというのはある。

元々、吉川英治が描く武蔵も「強かったかもしれないが人格卑しく失敗者であった武蔵」という
直木三十五の武蔵非名人説に対する反論という意味合いがあったが、直木三十五のこれも
講談のヒーローであった武蔵の実像を暴いて失墜させるという目的があったわけで。

江戸時代でさえも武蔵については毀誉褒貶あった。
むしろこの評価の反復が長い間繰り返されて続いてきたということ自体が、
武蔵の特異さの証明かもだ。

ここ十五年くらいで武蔵の研究も色々と進んできた感じはあるけど、
最近の創作物がそれを反映しているかどうかは、ちょっとわからない。
趣味人で明るく楽しい武蔵を描いてるのは、漫画だと伊藤勢先生くらいしか自分は知らない。
0650人間七七四年
垢版 |
2019/04/23(火) 18:04:39.19ID:FvOGqL8E
武蔵の人格なんて本当のところは解らないんだから、創作物ならば別に史実ベースでなくてもいいというのはある。
剣術にすべてをかけた求道者というのもありだし、狷介孤高で野望に溢れた天才剣士なのか。
これが史実だ、という風に断定しなければどっちでもいいと思う。
0651人間七七四年
垢版 |
2019/04/23(火) 18:54:05.56ID:fatayY06
個人的には吉川や司馬等の先行作品に乗っかってるだけだったり受け売りの武蔵像は萎えるが
逆にそれ以外ならなんだってアリじゃないかなと
0652人間七七四年
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2019/04/24(水) 05:22:32.84ID:7mJrnEil
変な武蔵といえば『中年宮本武蔵』なんか、やや古い作品だけどなかなかすごかったよ。
あらゆる意味で空気読まなくて好き勝手に生きている迷惑親父で、伊織がそれに振り回されていると。
そして伊織は若い頃はその武蔵とホモセクシャルな関係があったという…
色々と無茶苦茶な話。後半がやや失速気味だったかな。
0653人間七七四年
垢版 |
2019/07/10(水) 02:26:14.28ID:jHKFlTl3
宮本武蔵なんて実際の強さは幕末の志士たちと戦ったら2秒で斬り殺されるレベル
0654人間七七四年
垢版 |
2019/07/19(金) 06:43:48.14ID:mFYUNZSf
一応、二天一流の使い手が幕末の切り合いに出た記録はある。
高木元右衛門という人物が池田屋事件で襲撃されて、とっさに脇差と短刀の二刀で切り抜けて新選組の方位を突破したそうだ。
0655人間七七四年
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2019/08/08(木) 19:00:53.96ID:LGmwoIXe
20世紀までは関ケ原で西軍として参戦してそのせいで仕官が進まず〜みたいなのがよくある武蔵像だった
2000年代以降に大坂の陣で水野家配下で参陣記録が見つかったり、信憑性はそれ程高くないにしろ関ケ原より黒田家配下で九州地方の参陣可能性も出てきた
晩年の来歴も東軍の名家を厚遇で転々としてるので、仕官は養子に任せて自分は悠々自適な楽隠居を満喫してる21世紀盤武蔵像が出来つつある
0656人間七七四年
垢版 |
2019/08/10(土) 15:16:02.98ID:cbU790Vy
細川家が自らの菩提寺で盛大に葬儀を行ったのも失意の人生を生きた武蔵へのせめてもの同情みたいなこと言ってるのがいたが
なんてことはない、名士である客分にふさわしい待遇を行ったってだけなんだよな
0657人間七七四年
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2019/08/11(日) 03:42:26.38ID:yH+BVuY5
武蔵の葬儀は、細川光尚の母親が小笠原忠政の娘だからってのはあるだろうね。
伊織が小笠原家筆頭家老だったわけだし、武蔵の厚遇は、やはりそちらから考えた方が通りがいいと思う。

例の武蔵が島原の乱で石ぶつけられたということが書かれた書状も、
有馬直純からの呼び出しへの断りのものだったし、
しかもその書状、有馬家の戦功の証拠として保存されていたというからな。
それを考えれば、武蔵は大名家にとって信頼できる証言できる人物であったということなんだろう。
0658人間七七四年
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2019/08/14(水) 15:59:48.64ID:r1L8K3rG
武蔵とあわせて、武蔵の流派である二天一流や円明流のイメージの更新もした方がいいかもね。
昔は時代小説などでも武蔵の死後すぐ廃れたみたいに言われてたけど、今も普通に伝承されているし
結構各地に伝播していたりするし。
0659人間七七四年
垢版 |
2019/08/18(日) 15:17:02.48ID:Ae47HUpZ
宮本武蔵の美作出生説、当時は宮本村なかったけどそれを承知しつつまだ主張している人がいるんだよなあ…。
0661人間七七四年
垢版 |
2019/08/19(月) 12:50:07.84ID:gM+/XcRu
一応、武蔵の生前からあの地方が宮本と呼ばれていたという史料はあったと思うけど、そこに村があったかは別の話だからなあ。
0662人間七七四年
垢版 |
2019/08/21(水) 12:15:59.28ID:8m4Vrs6u
>>658
二刀流は怪力の武蔵しか使えなかったみたいな変なイメージすらあるね
武蔵が生まれる以前からあるっていうのに
0663人間七七四年
垢版 |
2019/08/21(水) 20:26:53.99ID:2aeQueTb
>>662
まー、なんで武蔵以前に二刀流をメインに据えた流派がでてこなかったのか、という疑問からそういう結論になるのはわからないでもない。
あと昔は、武蔵流はそんなに広まらなかったって考えられていたしね。
二刀流がそんなに強いのならばみんなやっていたはずだ、というのも、シンプルではあるが説得力がある話だとは思うよ。

ここらは多分、刀剣史とか服飾史も含めて考えないとあかん領分なんだと思う。
0664人間七七四年
垢版 |
2019/08/22(木) 09:03:02.80ID:OZuYiOZj
武蔵は強いから二刀流にしたんだっけ?
0665人間七七四年
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2019/08/22(木) 15:08:59.33ID:mSyACOrB
単純に、武蔵が家を嗣いだ新免無二の家が二刀多めに含む十手術の家だったからじゃないかね。
十手は腰に常用するものではいから二刀の流派にした、だから武蔵が二刀兵法の開祖である…と、小倉碑文にはある。

武蔵以前に二刀流がメインになる流派がでてこなかった理由は、現状では推論するしかないが、剣術ができた頃の武士は二本差ししてなかったからじゃないかな。
恐らく武術はその文化圏の社会背景だとか風俗が関係して生まれるのだと思う。
二本差ししてないのなら、刀を二本持つのが前提の二刀流が生まれる理由は薄い。
刀の二本差しが常態になったのがいつ頃かは明確には解らないが、戦場には刀を複数持ち込むことが多かったので、それが日常化したんじゃないかな。
脇差は腰刀が長大化したものだという話も聞くけど。
0666人間七七四年
垢版 |
2019/08/22(木) 19:07:26.97ID:mSyACOrB
二刀流が強いか弱いかは人それぞれだと思うけど、武蔵が熊本に滞在したのは五年で、その短期間で流派が定着して、それなりに隆盛して今も継承されているからには二天一流はなんだかんだと優秀な流派だったんだろうね。
0667人間七七四年
垢版 |
2019/08/23(金) 21:24:07.28ID:idApuWuR
しかしこのスレ、13年たつのにまだ600台か…宮本武蔵なんて有名な剣豪の割に、スレなかなか埋まらないなあ。
0668人間七七四年
垢版 |
2019/08/25(日) 09:11:43.19ID:WcAqQBmI
西遊雑記の巌流島の記述と沼田家記の記述は類似しているから、多分、ソースは同一だと思うが
そうすると沼田家記の記述の元になるような事実、あるいは伝承は細川家の転封の前からずっと下関近辺に残っていたってことになんのかな?
火のないところに煙は立たないというが、世間の噂が火のない所に湧いて出ることもあるので即事実であるとも限らないけれど、武蔵はその後、小倉で棲んでいたはずだな。
さぞ、居心地が悪かったろうなあ。
0669人間七七四年
垢版 |
2019/08/25(日) 15:04:02.04ID:WcAqQBmI
割と誤解されるているところであるけど、沼田家記での武蔵は、一度小次郎に勝ち、その後で弟子たちが殺したことになっている。
弟子たちと一緒に殺したというような話は、西遊雑記などからだな。武芸小伝もかね。
沼田家記は、元々沼田家の手柄話が書かれたものであるというが、巌流島の決闘の他の記述をネットでみたことがないからなあ。
武蔵を護衛して木下家にまで送り届けたのがこの場合の沼田家の手柄になるのだけど、恐らく武蔵はそのために一度勝つ必要があったと思われる。
つまり、武蔵は決闘の正統な勝者であるから、それで強者であることは証明され、その武蔵も小次郎の弟子たちに狙われると立ち行かない。
その武蔵の護衛をした沼田家の者は、武蔵より上ということに必然となるということだ。
そう考えると、このエピソードは元々は西遊雑記と同様に小次郎を武蔵は弟子たちと一緒に殺した話だったのかもしれない。
それを手柄話として改変してこの形にしたのかもね。
武蔵が一度勝ってから、さらにその弟子がとどめを刺すっていうのはよく考えたら意味がわからん行動だしね。
沼田家の手柄話とするためには、武蔵には強者であってほしかったし、護衛する必要性があったから弟子に殺させるという、逃走の理由を残したのかもしれない。
しれない、しれないばかりだけど、まあ、こういう解釈もできる…くらいの話。
0670人間七七四年
垢版 |
2019/08/25(日) 15:29:04.37ID:WcAqQBmI
ただ、沼田家記のこの記述については、元々の伝承の改変があったかどうかは別にしても、地名は怪しいし、日付も書いてないし、泊神社の棟札を信じるのならば死んだはずの無二が存在していることになる。
無二の生死に関しては伊織の勘違いであるとして処理するとして、他の二つに関してはよくわからない。
やはり後世に伝承を元にして創作したのだと思う。
武蔵の死後30年以内という、比較的近い時期に成立した文書だからその分の信頼性は高いと考えたいけども、それなのに地名からして胡乱ということはやはりみながいうほどそのまま信頼できるかどうかはやはり怪しいんじゃないかな。
ただ、西遊雑記とソースが同じであるとしたら、細川家転封以前から小倉、下関にはそういう伝承があったということの証明にはなるけど。

あとこれはもしかしたら無関係かもしれんのだけど、沼田家記がまとめられた寛文十二年頃の熊本、なんかあったかなと二天一流関係の話漁ってたら、このくらいの時期に新免弁助が活躍してたんだな。
正確な時期はわからないけど、この頃、武蔵の再来と言われた弁助の登場によって二天一流はかなり勢力を伸ばしたそうだ。
もしかしたら、もしかしたら、沼田家記のこの記述は、今をときめく二天一流だって、その開祖も集団でかかられると逃げるしかなく、自分の先祖はその護衛したった…所詮、個人の兵法者の武勇なんてたかが知れたものだ…
という意図があって、伝承を元に書かれたのかもしれない。

あとこれは、本当にただの思いつきで、なんら証拠はないけど、西遊雑記の古川古松軒は、肥後にまできているんだよなあ…。
その時に沼田家記の話を拾って、創作したという可能性は…多分、ないだろうけど。
何かしら後でまとめる時に下関の話と勘違いしたとかーー
いや、単なる思いつきでしかないんだが。
0671人間七七四年
垢版 |
2019/08/28(水) 09:33:28.47ID:2J9DCfda
>>130
今更十年も前のにレスつけるのはどうかと思うが、小倉碑文見るとキツキツだから、書かなくていいことは書かなかったんじゃないかな。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%80%89%E7%A2%91%E6%96%87

碑文は武蔵を顕彰するためのものだから、無二の情報なんか文字数入らないのならできるだけ省くと思う。
あと、沼田家記が書かれた頃には、無二周辺の情報がなくなってたとしても、別に不思議ではない。
武蔵の死後30年たってるしね。
正確な情報もなくなってたのだろう。
0672人間七七四年
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2019/08/28(水) 23:27:44.19ID:isgCIm7K
西洋東洋を問わず二刀流は常人以上の握力と腕力が必要不可欠な時点でマイナーな宿命からは逃れられない
0673人間七七四年
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2019/08/29(木) 03:08:21.29ID:J+QdniLT
>>672
そう思うのは無理もない話であるが、江戸時代の武蔵関連流派の分布の仕方とか考えると、特殊な条件が必要な技術とするのは資料と整合しない。
二天一流なんかは熊本で主流な流派として伝承され続けたし、武蔵の弟子が一人移動するだけで根付いたりもするし。
刀なんて片手で持てるものをあつらえればよいだけの話で、そういうのはむしろ多かった。
二刀流がマイナーなのは確かだけども、中国武術では双剣や双刀はむしろかなり多い。
東南アジア武術でもかなりある。
何かしらの条件があるんだろう。
0674人間七七四年
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2019/08/29(木) 03:18:50.83ID:J+QdniLT
ヒストリカルではないが、甲冑競技をしている人たちは普通に双剣や二刀を使う人たちはいるが、格別に腕力が必要でないのは確認している。
0675人間七七四年
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2019/08/29(木) 23:35:06.95ID:J+QdniLT
元々、二刀流が難しいとか、弱いとかの言説は、宮本武蔵の流派が広まらなかったということを説明する「ための」ものという側面が強い。
昔は情報があまりなかったから、二天一流も武蔵以降は目立った名人がいないとかで形骸化したとか続かなかったとか時代小説家が適当吹いて、それが定着していったんだよなあ。

現実には全国展開する流派は江戸にあることが前提だし、武蔵関係流派は武蔵以降も続いてる流派は多いし、地元限定ではあるが名人の話もかなりある。
そもそも全国規模で有名になる名人というのが少数派だということが見落とされている。
0676人間七七四年
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2019/09/06(金) 23:36:21.11ID:zGinOuRg
二刀流は利き手でない腕の訓練が必要であり良くも悪くも人を選ぶ剣術。
ただ利き手の矯正は吃音の原因になったりと日常生活に支障を来す場合もあるから
やっぱり片手剣や両手剣に比べると主流にはなれない
0677人間七七四年
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2019/09/07(土) 00:29:45.66ID:ua/pvmmw
>>676
それだと、現実に二刀流が藩によっては大きな勢力になってたり、江戸時代を通じていたことの説明はできませんね…。
世界的には双剣や二刀流はいっぱいあるし、国によっては主流になっていたりする。
よもや日本人以外には利き腕がないってこともない。

両手をそれぞれ使う武術は日本でも珍しくないし、これは上にも書いたけど、二刀が難しいというのは、
「昔の小説家」が書いたような「二刀は広まらなかった」とか「武蔵の流派は絶えた」ということの『ため』
に創作されたもので、実際のところはそんなことはないので、まあ要するに前提が間違っている。
0678人間七七四年
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2019/09/12(木) 20:07:49.43ID:mnSJcCod
二刀流は利き腕じゃない腕の訓練が必要だから難しいとか言うが
素手の格闘技では打撃系でも組技系でも利き腕じゃない方の腕の鍛錬もするんだから難しいからとか日常で支障をきたすとか言い訳にならないだろ
ようはその武術武道流派で片手や利き腕じゃない方の腕の技術的な使い方のノウハウが有るか無いかってだけで
0679人間七七四年
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2019/09/13(金) 05:26:27.26ID:5KsoK931
二刀流が広まらなかったのは、ある程度の刃渡りを持つ刀剣がそれなりのお値段だったからのと
平時は1本差しの時代が長かったから。

また、ほとんどの道具(武器か日用品かは問わず)が片手か両手で1つずつ使うものだったため、片手に1つずつ刀剣をもって戦う技法は中々根づかなかった。
0680人間七七四年
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2019/09/13(金) 11:36:06.15ID:m5oOEEOB
刀の値段はよくわからないな。
武士以外の者もたいがい持ってたんだから、そんなに極端に高かったものでもないと思うけど。

二刀技法は念流の最初期からあったみたいだから、まあ二本差ししてないからメインにならなかった、程度の話だと思う。
二本差しになるまで念流ができてから200年近く経過しているはずだから、その間に蓄積された剣術メソッドをひっくり返して二刀から教えるってのは勇気がいったことなんじゃないかな。
どれだけ強かろうと、やはり人間、最初に習った技術、鍛錬を積んだ技術を信頼するものだからね。

武蔵流系統は多くが二刀から指導するけども、ああいう順番の変更は些細なようでいて、相当に革命的なことだったんじゃないかって気がする。
0681人間七七四年
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2019/09/13(金) 21:51:40.40ID:Jx0jieyZ
まあ何れにせよ二刀流は一刀と比較してマイナーなのは事実
江戸にある多くの流派は一刀だし幕末の内乱に二刀を用いる剣士は殆ど居ないしな
0682人間七七四年
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2019/09/14(土) 02:23:55.70ID:XZxdcXPn
二刀含むまでいれると、心形刀流、柳剛流、鏡心明智流なんかが江戸で有名な流派になるけどね。
柳剛流は心形刀流から出ているし、心形刀流の二刀は武蔵流…どうも江戸初期にあった青木家の鉄人二刀流からいれたらしい。
『二刀流を語る』によると、寛永以降の多くの流派の二刀技法は、鉄人流から入れたものが多いのではないかとある。
これもやはり、江戸に道場があるというのが大きいのだろうね。

明治の撃剣試合で有名を馳せた奥村左近太は、愛媛の田宮神剣流の高橋と試合して、二刀遣いに苦戦してから独自に二刀流を工夫したという。
これを奥村二刀流というが、田宮神剣流の二刀も江戸にあった鉄人流からいれたらしい。
佐賀の鉄人二刀流の達人、牟田文之助が愛媛の田宮神剣流と対戦して、ここの二刀は武蔵流だと証言している。

まあこれは一例だけど、他にも両剣時中流なども鉄人流系統らしいし、江戸にあるということはそれだけ影響力があったということだろうか。

江戸の青木家がどうなったのかは解らんけども、江戸初期の道場はほとんど残ってないことを考えれば、断絶していたとしても特に不思議でもないか。
確か熊本で山東派二天一流を継承した八代目青木規矩男が鉄人流の青木家の裔だという話もあったが、根拠になる資料は知らないな。
0683人間七七四年
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2019/09/14(土) 02:32:20.58ID:XZxdcXPn
幕末で二刀を使用した例は桜田門外の変の話が有名だけど、これは流派はわからない。

宮崎滔天の義理の兄貴にあたる、山東派二天一流の高木元右衛門が二刀で池田屋事件の際に近藤を突破して、新選組の包囲から抜けたという話があるか。
まあ蛤御門の変で死んでいるけど。

まあ考えれば、全国に何千とある流派で幕末で京都の動乱で活躍した流派はそんなに数はないし、その中で二刀遣いがなかったというのは確率的には仕方ないかもしれない。
肥後には二天一流伝わっていたし、もっと何かしら関わっていてもよかったのにな。
もしかして暗殺に二刀を使っているケースもあったかもしれんが、それはわからないからなあ。
0684人間七七四年
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2019/09/22(日) 06:20:55.01ID:8gjNK4Vl
幕末にどれだけの流派が存在していたのかは正確な数は解らないけど、剣術の数は江戸後期の防具の発明からの試合が盛んになってからだしね…。
その原動力になったのが江戸の直心影流と一刀流で、このふたつはたまたま一刀だけの流派だったんだけど、ここらの影響を受けて流派が創作されていったのならば、そら一刀しかないのが多いのも仕方がないかもしれない。

幕末に活躍した人間の流派も、ざっと思い出す限りだと神道無念流とか北辰一刀流とか直心影流、鏡心明智流…なんかの有名流派が多いような印象もある。
多分、もっとほかにもあるんだろうけど、やはり江戸で遊学してからきたって人間が多いと思うので、必然、江戸の流派になるんじゃないかな。
新選組で有名な天然理心流も、あれも近藤勇の前の世代では関東ではかなり有力な流派だったらしい。

やはり江戸になかったというのが、二天一流や他の武蔵流が活躍できなかった最大の理由なんだろうね。
肥後の武士もそれなり京都にきているはずだから、高木以外の使い手もいたんだろうけど。
幕末の志士には詳しくないけども、薩長土肥の中で、肥後ってなんか影薄いね…。
0686人間七七四年
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2019/09/22(日) 23:27:44.65ID:8gjNK4Vl
>>685
おっと、すげえ勘違いしてた!なんでこんな覚え間違えしてたのか…。
恥ずかしいぞ!
ご指摘ありがとうございます。
0687人間七七四年
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2019/09/22(日) 23:29:43.59ID:HZ2bpJC8
単純に両利きの鍛練が求められる二刀は習得の難易度が高いから流行らなかっただけだろ
ボクシングや空手といった素手ならまだしも利き手でない腕で道具を使うのは相応の訓練が必要
野球や卓球でサウスポーが有利と言われてもそうか
0688人間七七四年
垢版 |
2019/09/22(日) 23:30:57.04ID:HZ2bpJC8
そう簡単にサウスポーになれるわけでないのと同じ
0689人間七七四年
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2019/09/23(月) 06:59:32.25ID:dSid3MCT
>>687
それについてはも少し上の方で重ね重ね指摘しているけども、それだと隆盛した地方が存在するのと整合しない。
そもそもからして、利き腕のあるなしに関わらず、たいていの格闘技も武術も両手をそれぞれ使うわけだし。
二刀双剣は東洋の武術としてはありふれている。
もっといえば、剣道でも両手で使うけど、両手をそれぞれ操作するのでね…。

文化発信のセンターになりえる江戸や京都で普及してなかったというのが、武蔵流の分布が偏っていた最大の理由だろうね。
0690人間七七四年
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2019/09/23(月) 17:47:15.82ID:dSid3MCT
しかし二刀流の話になると、「難しいから流行らなかった」というような持論?をスレをよく見ずに書き込んで去っていく人、でてくるね。
現実に隆盛してた地方があった以上は武蔵しかできなかった、難しくてできなかったというのは前提としても間違っているとわかろうものであるが。
0691人間七七四年
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2019/09/24(火) 12:29:10.34ID:p7u77M67
武家中心の都市である江戸で二刀流が隆盛しなかったことがその答え。
競争が激しい武術を教える道場の多くが一刀や体術が中心であまり二刀を扱わなかった
0692人間七七四年
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2019/09/24(火) 15:21:11.28ID:822FU99v
>>691
それを言い出せば、今も昔も武道で知られた熊本で二天一流が隆盛したことはどう説明したものか。
そもそも、江戸でも17世紀は武蔵の弟子筋の青木家の鉄人流が結構門人がいたらしい。
江戸は武家の町であるが、特に武張っていたのは元禄以前…17世紀までだね。
これも上で書いたけど、寛永年間以降に二刀を入れた流派はこの鉄人流の影響があるという。
この青木家が江戸からいなくなったのが18世紀の前半くらいらしいけど、当時は医学も未熟で、養子とか入れないと家が続かないしね。
それで養子をいれて家を存続させても、家の流儀が継承されていたわけでもない。
地方の大名に仕官したという説もあるしね。

4代家綱が剣術での他流試合を控えるようにしたせいで剣術が衰退したというから、それで見切りをつけて地方にいったのかもしれない。
この手のお触れはお膝元の江戸ならともかく、地方ではあんまり守られてなかったということも多いらしいが。
18世紀後半になると九州で武蔵流が流行っていたという証言が撃剣叢談にでてくる。
撃剣叢談の著者は岡山の人間で、西国中心に書いてるけど、江戸の記述も多いが、とりあえずは岡山に伝わる程度には武蔵流の隆盛は聞こえてたのだろう。
0693人間七七四年
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2019/09/24(火) 15:33:35.79ID:822FU99v
江戸の武蔵流というと、武蔵の最後の弟子とも言われてる柴任三左衛門が江戸で道場を開いて隆盛したけど、明暦の頃に地方に下っているね。
これは時期的に明暦の大火が関係しているんじゃないかって説もあるけど、はっきりとは解らない。
柴任は筑前に二天一流を伝え、気難しい人であったのか、幾つかの家に仕えては致仕を繰り返している。

まあこんな感じで、たまたま、江戸で定着する人がいなかったってだけだろうね。

尾張だとこの時期の少し後に新陰流が衰微し、円明流が隆盛してる。
これは柳生連也斎が厳しい人で、門人が逃げたからではないかって説もあるが…。
0694人間七七四年
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2019/09/25(水) 12:01:13.71ID:Z9/BnLQd
そういえば、なぜ武蔵流なんですかね
流派名って概ね苗字から取ることが多いと思うですけれど、俗称とはいえ言うなら宮本流じゃないのかと
それとも知識がないだけで自称の官名から名を取った流派ってあるんですかね
0695人間七七四年
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2019/09/25(水) 12:04:26.75ID:Z9/BnLQd
いや違うな間違えました、宮本も苗字じゃないから新免流になるはずか
0696人間七七四年
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2019/09/25(水) 16:39:04.16ID:DExalZgs
>>694
播磨龍野の円明流に伝わる文書の中には「宮本流」って書いたのもあったようですね。
確か『昔咄』には新免無二流と書いてたのもありましたか。
この手の流派の名前は割といい加減というか適当で、通称とか俗称が正式な名称になったりというか、流派の正式名称という考え方自体があったかどうかもよくわかんない。

姓名ではなく名とか号からとった例だと、新免無二の無二流、青木鉄人の鉄人流とかありますね。
この鉄人流も元々は円明流が世間では鉄人流と言われたかいうし、心形刀流の伊庭是水軒が学んだ武蔵流はこの鉄人流だという話もあるから、鉄人流も武蔵流とまとめられていたらしい。
多分、鉄人流の場合は円明流だったので武蔵流でまとめられていたけど、世間では鉄人の流派ということで鉄人流とも呼ばれていた、くらいのことだと思われる。

円明流も播磨で水野流居合を併せた系統は、「円水流」という、なんのひねりもない流派名にしたとか。
ここらの感覚は江戸時代も長いし、個人差はあると思うけど、割合と適当だった時期がかなりあるのではないかと思う。
0697人間七七四年
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2019/09/25(水) 18:36:26.06ID:Z9/BnLQd
>>696
お答えありがとうございます
今更ながら一心流とか卜伝流とかありましたね

何かネーミングに法則や慣習があるわけじゃなく、なんとなく決まってるものばかりなんですね
勉強になりました
0698人間七七四年
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2019/09/25(水) 19:35:44.82ID:DExalZgs
>>697
最近は、かなりうるさいようですけどね。
柳生新陰流は俗称で新陰流が正しい云々、野太刀自顕流が正しいとか薬丸自顕流こそが正式であるとかどうとか。
あそこらは団体の正統性を謳うための主張としての側面があるので、歴史的な経緯はおいといて、当人たちのいってることを殊更に否定する必要もないですが…。

先日に熊本の郷土史の本読んでると、二天一流の弟子筋が「天下一流宮本武蔵流」と呼ばれていたのがあるの見つけて大笑いしました。

ちなみに二天一流は、日天月天の二天を一つにした…日月陰陽の合一された完全で完璧なもの、くらいの意味なんだそうです。
これは元々の武蔵の流派である円明流の円明も完全なものという意味なので、意味的にはかぶりますね。
そして円明という字を重ねると、「明」を円…「○」で囲む…日月を一つにしている…ということではないか、とする説もありますね。
つまりは円明流という言葉を、より典雅に捻った形で呼んだのが二天一流ではないかって。

まあその宮本武蔵も、五輪書では二刀一流と書いてる箇所もあるんですが、これは表記ブレなのかなにか意味があるのかは解りません。
自分は表記ブレ説採ってるけど。特に根拠はない。
0699人間七七四年
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2019/09/25(水) 20:41:04.57ID:WoZLxdt+
>>695
新免流だと時代的に新免無二のほうを連想する人もいて
それと区別する意味でも武蔵流なのかもね
0700人間七七四年
垢版 |
2019/09/25(水) 22:34:23.44ID:Z9/BnLQd
>>698
道場破りとかのイメージで看板持ってくという印象が強かったので
名前にうるさい印象を当時に対しても持ってました、ありがとうございます

>>699
新免無二流から意図的に違う流派であると印象づける必要があったってことなんですかね
0701人間七七四年
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2019/09/26(木) 03:26:09.12ID:2PJoeyNx
新免無二も無二流とか無双流とか言われてたみたいだし、あそこらも適当感あるなあ。
よく言われる当理流は宮本無二斎とかを開祖とするけども、泊神社の棟札によるならば宮本を名乗りだしたのは武蔵の代からだから、後世の創作物だって説もある。
実際、熊本には当理流は宮本武蔵に宮本無二の流派を学んだ塩田松斎が創始したという石碑があるそうだ。
その当理流を伝書などから再現したのが塩田流であるとかなんとか。

>>700
名前については時代や人による差も有り得るので、一概には言えないというのが正解だとは思う。
道場破りは、ああいうのはいつの頃に形成されたイメージかは解らないけども、現実に存在したものかどうか。
江戸中期から後期にかけての廻国修行の記録を見るに、なんだか勝負に白黒つけない交流試合という感じだし。
誰それと試合して勝ったの負けたのというのはあるし、まったく勝負しなかったとも思えないけど。
ただ、江戸後期でも馬庭念流と千葉周作の対立の話とかあったみたいだし、なにかことあればメンツが関わって大事になってたと想像はできる。
近世の人間は今でいうヤンキーみたいなもので、メンツがまず大切だったから。
これが戦国の遺風が残ってた江戸初期だと、それこそ簡単に殺し合いに発展したかもしれない。
そういう時代に道場破りなどしてたら、命が幾つあっても足りなかっただろうね。
武蔵と吉岡の対立がまさにそうだったかもしれんけど。
0703人間七七四年
垢版 |
2019/09/26(木) 13:11:05.49ID:MJjno70E
まともに調査していない史料見てないヤツの言葉は軽すぎて反論にもならんな
0704人間七七四年
垢版 |
2019/09/26(木) 19:31:19.31ID:2PJoeyNx
>>702
まあ、地方の剣術には違いないですね。
これは武蔵が直接指導した場所や、直弟子がたまたま江戸にはほとんどいなかってだけのことでしかないけど。
武蔵が若い頃は西国の方が都会だったことと、小笠原家が九州移転とかしたのが主な原因だね。
しかし田舎の流派だったけども、心形刀流や柳剛流に二刀は受け継がれているし、武蔵流を入れた流派は他にもある。
大日本武徳会剣術形の審査員の中には武蔵流の三橋鑑一郎とかいるし、地味に剣道史に影響がある。
地方剣術としてはかなり面白い。
0705人間七七四年
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2019/09/26(木) 23:07:43.79ID:h3n7Coya
二刀流のメリットってなんだろ?西洋剣術ではソードブレイカーのように
盾としての役割があったけど日本の剣術では盾の役割なんて聞かないけど
0706人間七七四年
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2019/09/27(金) 00:15:25.64ID:ziBmGzKn
見栄えの良さが一番。逆手持ち同様にロマンがある
0707人間七七四年
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2019/09/27(金) 10:08:18.88ID:0OEYvHVg
「剣道二刀流の技と理論」P187
この日本一の剣士と手合わせしてみた。私もかなり自信をもっていたのだが、
てんで歯がたたない。勝負をすると十本の中一本しかとれないし、
得意の遠間からのさし面も全く通じない。そんな時のこと、
子供を相手に二刀で遊んでいたりしていたのだが、試みに二刀で日本一と対戦してみた。
すると三本の中一本はとれる。はじめたばかりの二刀で日本一の剣士とほとんど対等に戦える。
そこで二刀に転向した。


相手のペースを崩せる変則の強みじゃね
仮想敵と違う動きってやっぱりイヤだし
0708人間七七四年
垢版 |
2019/09/27(金) 10:56:35.74ID:bm4/SOIz
>>705
月之抄だったと思うけど、十兵衛が柳生但馬守宗矩との問答で二刀について聞いてるけど、小太刀を盾のように使うと書いてたので、そのようにしていたんじゃないかな。
それに盾といっても、西洋の剣術でいうバックラーは攻撃にも使うし、小太刀なら盾にも攻撃にも使えるだろうね。
宗矩の言葉にはそこらの含意もあると思う。
あとやはり、普通に防御は硬くて手数も増えるというのもあるだろうね。

>>706
ロマンもあるよね。
普通に指導されている二刀には、ロマンもへったくれもないけど。
二天一流など地味にもほどがある。
ある会派がここ何十年かで動きを大きく派手にしたという批判があったので動画見たけど、それでも他の流派より普通に地味だったよ…。

>>707
柳生流なんかでは二刀対策はかなり確立されていたらしく、天狗抄には二本、対二刀の技があるみたいですね。
尾張は円明流と隣接していたので、お互い研究がよくされていたらしい。
元柳生流の円明流とか、元円明流の柳生流とかいて、今の尾張円明流は柳生に伝わる両刀からのものだそうな。
円明流の方でも昭和の終わりくらいまで伝承者いたみたいなんだけど、今はいない。もったいない。
0709人間七七四年
垢版 |
2019/09/27(金) 15:32:25.16ID:3A95AroI
天狗抄に対二刀の技があるのは慶長六年に石舟斎が金春七郎宛に出した伝書と変わらんような
疋田なんかは新陰流としてではなく奥山念阿弥陀仏由来の「小太刀虎乱の目録」として
二刀剣術の伝書出してたりする
疋田系統の新陰流としては「磯浪」の仮想敵が二刀に構えてるな

こういうの見ると二刀ってのはイメージ以上に広まってたことを実感させられるよ
0711人間七七四年
垢版 |
2019/09/27(金) 15:50:00.69ID:bm4/SOIz
>>709
補足どうも。
というか、紛らわしい書き方しました。天狗抄のあとで尾張のところは一行あけないと。

念流に近い、やはり古く歴史ある流派でもある堤宝山流にも二刀があるね。
以前にネットで見た二刀の歴史の論考では、堤宝山流ですでに二刀は完成していたように書いてたっけ。
ただ、この流派の二刀は鉄人流からいれたのではないかと『二刀流を語る』にはあった。
この流派自体の資料も江戸初期以前のものはないそうだけど…。

二刀そのものは武蔵以前からあったけど、二刀兵法の開祖…つまり、二刀を主体とした流派を作ったのは武蔵が最初、というのが小倉碑文の主張なんだろうね。
0713人間七七四年
垢版 |
2019/09/27(金) 16:07:43.57ID:bm4/SOIz
>>712
どうも。

そして、リンクありがとうございます。
この絵伝書は以前に別に見た記憶があるけど、ここで見れたのは知らなかったです。
ありがとうございます。

ではこちらからも。
あんまり興味もないかもだけど、このスレに来ている人ならば多分、嬉しいと思うから
https://heihouechigo.jimdo.com/
播磨武蔵研究会、再開するって。
以前に未掲載だった資料つきで。
0714人間七七四年
垢版 |
2019/09/27(金) 18:40:12.57ID:X4JITU3f
ほー!播磨武蔵研究会再開ですか!
これは嬉しい情報ですね ありがたい
0715人間七七四年
垢版 |
2019/09/27(金) 18:58:58.01ID:bm4/SOIz
>>714
どうも主宰者が完成させていた兵法先師伝記がネットで読めるかもって話で、ありがたい。
あれは書籍化してるものには現状ではほぼ一つしかないから、解説もつくとなるとなお素晴らしい。
0716天上天下唯我独尊
垢版 |
2019/09/29(日) 23:37:29.41ID:Hce4vw+G
てんぷらたぬき三日天下
0717人間七七四年
垢版 |
2019/09/29(日) 23:38:26.63ID:Hce4vw+G
戦国武将剣豪実は兄弟 
0719人間七七四年
垢版 |
2019/10/01(火) 19:08:28.84ID:fPMGvfoT
兵法先師伝記はwikiに解説が載っているけど、武蔵伝記としての価値は武蔵についての情報ではなくて、当時の二天一流関係者がどういう風な武蔵情報をもっていたのかの確認になるかな。
あと武蔵百周忌についての話がどういう風に補足されているのかも興味がある。
それと当然、執筆者でもあり、越後二天一流の丹羽信英についての情報もあるんだろうな。
越後の伝は剣道日本に掲載された分か播磨武蔵研究会に掲載されたくらいしかろくに情報がないから、気になっていたんだ。
0720人間七七四年
垢版 |
2019/10/30(水) 16:01:19.57ID:pbxZexm3
最近思うけど、宮本武蔵が二階堂流の村上吉之丞から逃亡したという撃剣叢談の話、
創作なのは年代から解っていたけど、どういう文脈からできた話かわからんかったが
当時の熊本では村上吉之丞人気がちょっとあったぽいから、そのageエビソードだったんじゃないかと思う。
そのローカル伝承を廻国修行の武芸者が聞き拾って、それを三上元龍が伝え聞いて…という
そういう流れで全国区にたまたま有名になって、村上は熊本マイナー有名人だから忘れられ
それで武蔵sage部分だけが強調されて今に残るのではないか。
0721人間七七四年
垢版 |
2019/11/03(日) 01:03:05.72ID:U2HdI7W+
子供部屋おじさんじゃない自炊してる社会人なら宮本武蔵の
何十人切りって話はフィクションだと分かるかと
0722人間七七四年
垢版 |
2019/11/03(日) 19:28:39.36ID:UmoSFGqT
武蔵が何十人も切ったというエピソードって、なんかあったっけ?
小倉碑文にも、武公伝にも、二天記にも、吉岡一門に切り殺したというような話は書いてない。
一番威勢がいいこと書いてある小倉碑文でも
「衆敵を散ずるや、走狗の猛獣を追ふに似たり。威を震ひて洛陽に帰る」
武公伝では
「武公察之、又七郎ヲ切弑シ彼門弟ヲ追奔シテ、威ヲ震フテ洛陽ニ帰ル」
二天記では
「武藏又七郎ヲ斬殺シ、徒黨ノモノヲ追退ケ、威ヲ振ヒテ洛陽ニ歸ル」
となっている。
これは要するに、敵に囲まれたけど上手く逃げおおせたって話だね。
まあ、数については最初の小倉碑文が数百人だったのが、以降は数十人という具合にグレードダウンしているから、当時からリアリティない話だと思われていたのだろうね。
0723人間七七四年
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2019/11/04(月) 18:45:13.69ID:HTbFsbG2
>>721
自炊だろうと子供部屋だろうと独り身なら大差ないような
というか家庭持ってないのを得意げに語られても困るぞ
0724人間七七四年
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2019/11/06(水) 04:36:21.11ID:2oEok99D
撃剣叢談の村上吉之丞から武蔵が逃げたという話、
同書に熊本では村上平内の武蔵流が繁盛していること書いてるし、
ソース元は同じとみていいだろうね。
村上家は新免弁助と揉めたらしいから、先祖を称揚して武蔵sageようとしたんだろう。
0725人間七七四年
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2019/11/06(水) 06:57:16.87ID:VmPO0qTN
島原の乱で石投げ攻撃で足が折れてちんばになったやつ
0726人間七七四年
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2019/11/06(水) 09:05:44.49ID:2oEok99D
島原で石ぶつけられた話、有名になってるけど、あれ呼び出しに際してそれでいけませんって断りの手紙に書いてることで、本当かどうかはよくわかんないぞ。
0727人間七七四年
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2019/11/06(水) 17:54:25.38ID:YtrBQmiZ
武蔵の自己申告でしかないからな
0728人間七七四年
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2019/11/08(金) 14:34:15.89ID:LsfGXmgL
ただ、武蔵の自己申告ではあっても、どうもあの書状は有馬家の軍功を証明するものとして重要視されたらしい。
確か吉川英治文学館の記事に書いてあったが、書状は有馬家の軍功の証明のための証拠の櫃にいれてあったようで、特に手垢で汚れていたので、よく読み返されていたのだろうと。
となれば、実際にあったかどうかは調査されただろうから、武蔵が嘘ついたかどうかは調べられたと思う。
武州伝来記には、武蔵が投石を木刀で弾き返したという、事実と逆の逸話が収録されている。
伝承される過程で変異したんだろうけど、これ自体が武蔵が投石をぶつけられたとかの話が当時も知られていた証明になるんじゃないかな。

だからまあ、武蔵が島原で投石で負傷したというのは事実であると考えた方がよい。
ただ、その後すぐに江戸まで旅に出ているし、江戸から直で熊本にもいってるし、負傷者リストにもないし、程度はそんなに重くなかったんだと思う。
いい加減、いい歳だったんだから、それで負傷したらかなり足弱ったんじゃないかな。
もちろん、武蔵が足が弱ってたという逸話もあるし、晩年の二天一流の風格が弱った足と体力を反映したものであるという可能性もあるが。
それが投石による負傷が長引いたものなのか、スポーツマンが晩年に足を萎えさせるものみたいなものなのか。
あるいはその合わせ技だったのか、今となっては解らんけども。
0729人間七七四年
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2019/11/08(金) 21:00:52.38ID:o7Bs7aNG
>負傷者リストにもないし、

おいおい…
客観的事実の裏づけがないってことが確定かよ
0730人間七七四年
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2019/11/08(金) 23:06:29.79ID:LsfGXmgL
>>729
あくまでも、現在見当たるものではという話でね。言葉が足りなかった。申し訳ない。
中津藩の負傷記録に武蔵の名前がないというのは、魚住先生も書いてる。資料の名前だしてなかったと思うけど。
もしかしたら今後でてくる可能性はあるかもしれんけど、今のところはない。

ただ、軍忠状とかの類は自己申告だったようだし、島原では石ぶつけられた人の話は他にもあるし、状況的に一揆勢は最後は石投げるしかなかったのかもしれない。
だから、ちょっと石ぶつけられた程度のことは記録しなかったのかもね。

あと、元のツイートにも書いたけど、

城乘ノ時、賊徒石ヲ抛ツ。馬前ニ來ル石ヲ、
「石ガマイル」ト言葉ヲカケ、五尺杖ニテツキ戻シ、
落城ニ及ンデハ、例ノ薙刀ニテ數人薙伏ラレシト也

という説話が筑前の武州伝来記に採取されているということは、武蔵に向けて投げられた石…のエピソードはある程度知られてたんだろうね。
この話は熊本で拾われてないので、筑前ローカルだったものかもしれんけども、もしかしたら小倉の方から伝わったのかもしれない。
有馬直純宛の書状の内容が外部に漏れたとは考えにくいからね。小倉の関係者から広がったのかも。
0731人間七七四年
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2019/11/09(土) 00:11:11.20ID:f9FJqTvm
まあ武蔵の自己申告なんだから、石ぶつけられたこと自体は疑うほどのことではないけれど
自分の名を落とすようなことを嘘ついてまで書くこともないだろうし。
前後の状況から考えて、さほどに深刻なものでもなかった…くらいじゃないかな。

ただ、剣豪が石ぶつけられて負傷したってのは面白い話だから。
話を又聞きでみんな大きくしていってるって部分はあると思う。
島原にいったら、ガイドさんは武蔵は子どもに石ぶつけられたことになってるって話もあったよ。
何処ソースかもわからないけど、いつの間にかそういうことになっているのだそうだ。
0732人間七七四年
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2019/11/09(土) 01:02:57.47ID:+9Ecc+pJ
>自分の名を落とすようなことを嘘ついてまで書くこともないだろうし。

手柄傷という通り合戦の負傷は不名誉どころか手柄なんですけどね
0733人間七七四年
垢版 |
2019/11/09(土) 07:44:08.24ID:f9FJqTvm
ああ、それもそうか。
武蔵の書状はそういえば、有馬直純の手勢が活躍していることを賞賛してのものだから
それは同時に、武蔵は最前線にいたことの証明でもあるな。
どうせだから、武蔵の書状も貼っとこう。
上にもあったかな?

【有馬直純宛武蔵書状】
被思召付尊礼忝次第ニ奉存候。随而せがれ伊織儀、御耳ニ立申通大慶奉存候。
拙者儀、老足可被御推量候。貴公様御意之様、御家中衆へも手先ニ而申かわし候。
殊御父子共本丸迄早々被成御座候通驚目申候。
拙者も石ニあたりすねたちかね申故、御目見得ニも祇候不仕候。
猶重而可得尊意候。恐惶謹言
    即刻       玄信

先に有馬直純から伊織への賞賛があったものらしいが、伊織もかなり加増されているので、かなりの手柄だったらしい。
0734人間七七四年
垢版 |
2019/12/12(木) 14:59:48.88ID:noBj64XC
なんか播磨武蔵研究会、復活しているっぽい
http://musasi.siritai.net/
一部リンク切れで見れないのが気になるけど…。
0735人間七七四年
垢版 |
2020/02/09(日) 19:49:42.09ID:/7lhcgGk
武備和訓で武蔵流や武蔵の弟子の柴任三左衛門についてdisり記事が載ってたけど、これの作者の片島武矩、筑前黒田家を致仕しているんだな。
そしてその直前に筑前二天流の継承者で、柴任の孫弟子で、直接指導を受けたこともある立花峰均が遠島から復帰している。
これ多分、片島は立花と敵対していた側だったんだな…。
0737人間七七四年
垢版 |
2021/02/24(水) 20:54:50.38ID:bTOAIm2q
リアルの武蔵?
生前の武蔵のスキルではなく、キャラクターについて同時代人で言及があるのは、今のところは小倉碑文だけだな。

生来おおらかで細かいことを気にしない人だった、とある。
ここらは漢文の慣用句だけど、普通はあまりいい意味では使わない言葉なので、そういうのわざわざ持ち出すくらいには、武蔵は細かいことを気にしない性格してたんだろう。
0738人間七七四年
垢版 |
2021/11/16(火) 23:03:10.28ID:gbTejps+
太刀の二刀流で軽々振り回す武蔵が凄いわ
0739人間七七四年
垢版 |
2022/04/06(水) 16:56:08.21ID:985OAI2Q
太刀ひとつより、ふたつのほうが良い場合は…とは、五輪書にかかれているけど、あれが太刀二刀流なのかはわからんな。
文字通り読んだり、その章は戦場のケースを中心に語られているから、太刀二刀流を戦場で使う場合という、特殊なケースでのことに読めるは読める。
ただしこれは一般的な解釈ではない。
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