【木刀】宮本武蔵を語る【サイコー!】
>>467
古武術流派の伝書とか、昔は麩の裏あてとかに使われていたものだぜ…。
何せ当人以外にはなんら勝ちがないものだからな。一応先祖のものとして大切にしてる家もあったりするが。
最近はヤオフクのオークションなんかでよく出品されているよ。
先々月だったか、幕末で二刀流の達人のものと思しき伝書が売りに出されていると聞いた。
流派によるが五千円から十数万くらいまで上がることがあるよ。 もし剣術家の吉岡が健在で、武蔵はそいつらにボロ負けして逃走したのが本当だとしたら、伊織が顕彰碑を建てた時に黙っていた筈がないと思うがな
碑文が建てられたのは武蔵が死んでから十年も経っていない頃。まだ当時の事件を知っている人間も多く居ただろう
吉岡勢の勝利を伝えるのは吉岡伝のみ。だから剣の吉岡は事実、何らかの形で敗れたか、それとも最初から存在していなかったのか、どっちかだろう 吉岡と武蔵の対決に関しては、どっちが勝ったの負けたの引き分けたのという話があって、どれが本当だかわからん。
吉岡伝以外にも武蔵が負けたと書いてるのはある。勿論、吉岡伝を元にして記述かもしれんが。
伊織はなんぼいうても小笠原家の筆頭家老で、仮にまるで大嘘だったにしても、京都で染物屋なり剣客なりしていたというのでは文句のつけられなかったかもしれんが。
ただ、吉岡家の人間が禁裏で大騒ぎやらかしたって話はあるから、武蔵によって吉岡家が断絶したってのはないと思う。 別に吉岡じゃなくても、伊織の書いた内容が大嘘だったら「あんなもん大嘘」って書いた文献か、もしくは事実を符合させるものが出てるはずで、こんな論争になってないよね
公人の書いたものだけに、事実に反した事書いてたら後世の我々にはすぐバレるよ。それこそ、吉岡は実は断絶していなかった、みたいにさ
まあ後の吉岡と武蔵の戦った吉岡が同じ家である保証もないのだが……仮に同じ筋であっても本家分家の関係かもしれんし
これだけ逸話がある以上は間違いなく何がしかの関係があったと思うけども 武蔵と吉岡の関係はどういうものであったにせよ、伊織が書き残すくらいだから何かあったんだろうね。
武蔵に敗れたという吉岡清十郎は吉岡直綱でない可能性は確かにある。
一族で剣術やってて、たまたま兄弟で強い吉岡が幾つもあったのかもしれん。
顕彰碑だから誇張はあるにしても、まったくの嘘であるとは考えにくい。
まあ伊織の遺した史料については泊神社のとか、こっちもなかなか難題だったりする。
天正年間に嗣子なくして死んだ新免無二と、慶長年間に伝書を発行している当理流の宮本無二之助。
そして細川家で慶長年間に剣術を教えていたという無二の関係とか。
綿谷雪先生は、考証武芸者列伝で無二が嗣子なくして死んだと書いてあることについて、伊織は武蔵のことをあまりよく知らなかったのではないかと書いている。 筑前で天正年間に死んだ新免無二の後を継いで武蔵が新免を名乗ることになったのだとしたら、
宮本無二之助は武蔵と無関係の人物になるのだが、よく解らんな。
武蔵研究サイトでは、当理流の無二之助は後から捏造された人物ということにしている。 >武蔵に敗れたという吉岡清十郎は吉岡直綱でない可能性は確かにある。
一族で剣術やってて、たまたま兄弟で強い吉岡が幾つもあったのかもしれん。
現状で一番説明がつくのは案外、この説かもな
端っから武蔵の作り話だとして落とすのは簡単だが、それじゃ思考停止だし、何より碑文をはじめとした数ある史料の存在の説明がつかん
いくら武蔵が伝説的人物だとはいえ。
元となる事実なしにここまで発展した逸話になったとは思えん そもそもを言い出すとアレだが、吉岡憲法って武蔵に敗れたという話と一族が禁中能か何かで暴れたということくらいしかしらんw
吉岡染めとかはあるけどあれは後世のものだしな。
実際の吉岡流からして元がなに流からとかワカンネー。
史料によっては神道流から出ているという説もある。
武蔵以上に謎が多い気がするぞw >>468
確かに二天記も兵法先師伝記も巌流島から百数十年たった文書だからフィクションだらけ。
>>476
吉岡の作った「憲法染の掻取」が、江戸の武士の間で正装として扱われるようになったのは
安いってのもあるが、吉岡家が剣術家であったことも理由のひとつだよ
>>477
二天記はそもそも親の書いてた武公伝を底本にしているけどなw
吉岡家については興味はあるが資料をあまり聞かないな…
吉岡染めについて、どういう評価とかされてるの?
>>433
肖像画残ってンじゃん
あれ顔知らない人が想像で書いたんか? 近代文学の中で、宮本武蔵がはじめて登場したのは、恐らく森鴎外の『阿部一族』(大正2年1月「中央公論」)であろう。結末に近いところ、阿部一族の討手に加えられた大兵の臆病者、畑十太夫を武蔵が見て声をかける場面のほんの数行である。 >>480
武蔵研究サイトの人らがいうには、後期のほど武蔵の顔が怖く書かれているらしいぞw 武蔵研究サイトがいうことが必ずしも正しい訳ではない。
少なくとも他説を小馬鹿にした言動が目的に成っている部分が見受けられる。
過去の根拠がない説を非難する中に、根拠がない自説を挿入してある。
ウィキで見たけど武蔵って卑怯者じゃん
小次郎との決闘で弟子連れてくるし、カスじゃん。男なら約束守れよ
つーことで小次郎リスペクトします。武蔵は卑怯者です >>485
あの研究サイトにある根拠のない自説か…あそこはデータが膨大な上に読みにくいものだから、何処に何があるか把握しきれねえw
他説を小馬鹿にした言動が目的に、というのは同意だw 他説を小馬鹿にすることが目的って、具体的にどこよ?
引用してみてよ。 小馬鹿にするのが目的というのは言いすぎだな。
言い方が小馬鹿にしているように見受けられる…というのは、印象としてはあるな。
多分座談会とか読んだ印象なんだとは思うが。
あそこのデータはなんだかんだと豊富なのでありがたい。 モダンミステリースクールとかいうインチキカルトいわく、宮本武蔵はそこの信者だったらしいんだけど、本当か? >>490
城攻めに際して、本丸に直接向かった小笠原家の軍の旗本一番隊にいたらしい。
まあかなりの最前線。
有馬直純宛武蔵書状で投石でどうこうとあるのは有名だけど、どういう風に当てられたとかは確か書いてない。
激戦区であることを考えると、まあ石ぶつけられててもなんら不思議ではない。
書状は互いの戦功を慶びつつ、有馬直純が会いたいというのを断ったっつー内容だな。
面会を断ったのは有馬家と水野家の戦功争いに巻き込まれたくなかったからではないかって意見もあるが、これはちょっと穿ち過ぎじゃないかね。よくわからんが。 塚原ト伝だって矢傷は受けてるし、最前線に出たら無傷というわけにはいかないだろうね 別に一人で突っ込んだわけでもないしなあ。
基本、護衛だし。 「禅の思想と剣術」という大学教授が書いたわりとまじめな本の中で
ネット上で武蔵の資料を見る手段として播磨武蔵研究会を推薦してて驚いた 実際、武蔵研究としてはあそこが一番進んでるんじゃないの?
舌鋒鋭く他説の批判をしてるから反感も買いやすいかもしれないけど 少なくとも原文と資料を同時に提示・比較してるから
筆者の主観だけでなく読者にも判断できるようになってるところはフェアだと思うけどね
ここら辺は紙面に制限のないネットの強みだな ただの一読者ですよ
それより、主観による決め付けって例えばどういうところを読んでそう思ったの? ずっと準備中のページがいくつかあるけど、もう中の人いないのかな >>500
サイトは攻撃的(というか偉そう)なとこが嫌でちょっとしか読んでないけど
ちゃんと資料を提示した上で批判してるのは偉いと思う 攻撃的といえば菊池寛と直木三十五の武蔵論争もどぎつい言葉の応酬だったな >>502
去年に中の人の一人が新潟の方で講演会したとかなんとか聞いたから、純粋に手間食ってるだけだろう。
更新日だけ見ると細かく更新しているから、修正作業とか日々忙しく動いてはいるみたい。
多分、中の人たちがかなり高齢なんで、なかなか準備がおわんないんだろう。
綿谷雪のアタマの具合とか証言できるっていうてたくらいだし、今七十は八十前後の人たちだと思う。 優れた主張というより、経済的に支えられた物量によって、優れたサイトであるかの印象を与えている。
まあ、物量に価値があるといえばそれまでだが。
あれだけの量だから、原文で間違っている所も多い。
ただ、あの主張内容だから、
単なる間違いでなく、わざと間違って、サイトからの引用を炙り出しているのかと疑ってしまう。
とにかく、性格が悪い。本当に勉強したいのなら、あのサイトは読まない方がいいというか
触れないほうがいいのというのが個人的感想。
毒が多すぎる。 そちらのサイトによると「疋田の新当流起請文はマユツバ」らしいんだが、
何か根拠はあるんですかね? これです。
http://www.geocities.jp/themusasi2de/bukou/b204.html
>しかも、かの疋田豊五郎が雲林院弥四郎入道(光秀)に提出した起請文なるものがあるそうだ。
そうすると、疋田豊五郎は雲林院光秀に新当流を学んだということになり、これはいささか眉に唾してかからざるをえない。 五輪書に書いてある一言一句の真の意味を
理解するのは容易じゃないな
容易じゃないってわかることがまた容易じゃない >>510
それがわかったってことは貴方も相当な人なんですね。 ウチの近所には武蔵野子孫と言うおじさんが居るぞ。
武蔵と千葉のお姫様の間に生まれた一人息子の子孫。証拠は何もないそうだが武蔵が愛用していたという包丁がある。
見せて貰ったがステンレス製なんだけど…まー刺激して怒らせても怖いから感動したフリしたけど。 >>514
元々赤松支流の新免武蔵守家の跡取りで
養子の伊織が二千石で仕官ということを考えると
身分的には二千石のご隠居スタートだしな
吉岡との戦いも門弟率いて
洛中で小規模な合戦を行って逃げ出すだし
若い頃から文化人かつ剣術家のお坊ちゃまだったんだろう
金に困っていたとは思えない >洛中で小規模な合戦を行って逃げ出すだし
これはどういう史料からわかりますか? >>517
ごめん。すぐには出せないけど門弟同士の諍いがエスカレートして
両方の手勢が弓矢とかまで持ち出す騒ぎになったとか、そんな話だった気がする
それでその時の洛外での大騒ぎが誇張されて
一人で吉岡一門ぶっ殺す後の流れに繋がるという流れ
どの資料だったかは、ちょっと調べ直してくる >養子の伊織が二千石で仕官ということを考えると
>身分的には二千石のご隠居スタートだしな
そりゃ武蔵が名を上げたから養子が二千石で仕官できるほどになった訳で
二千石のご隠居がスタート地点というのとはだいぶ開きがあると思う 剣を極めれば70人も切れると思えるけど
二刀流で移動しながら戦ったんだろう
間違っても囲まれないように戦ったはず
今の剣道みたいな動きでは絶対無理だろう 前にテレビで素人相手に4段の人が同時に何人相手にできるかやっていたが三、四人で終わった 原田芳雄主演の「浪人街(ガイ)」という映画を見ると、多人数vs一人というのがなんとなくわかるよ。
一人ぶった切ると周囲はビビッて中々手を出せなくなる。様子を伺いすぎて突出できない。そうこうしているとパッと
身を翻して木立の中→追いかけると振り向きざまぶった切り→繰り返し。
ナマクラになってもいいように刀は8本くらい身につけてて、結構考えてると思った。
面白いのが敵陣に突入するまえに横に居た若者に「おい○○!!……重いぞ;;」と吐露したシーン。
一番燃えたシーン邦画も捨てたモンじゃないっていう映画だったなw 誰か見てたら、吉岡が剣使わないで石投げて武蔵殺してたwwwww
って言われちゃう><
殺し合いならアリだけどねw変な見栄があると固執しちゃうんじゃない? 吉岡が70人がかりで武蔵殺してたwwwww
の時点で大概だから平気よ SEXずっとしてないから最近ちょっとそうなってきた。
危ないな俺も・・ 初めて内田吐夢の宮本武蔵(2作目)見てるけどバカボンドと同じような感じだね
それだけどっちも原作に忠実に作ってるのかな
原作読むべき?
宮本武蔵好きからすると吉川英治の「宮本武蔵」てどういう評価? 吉川武蔵の評価は…って、アレ読んでる武蔵好きっていまどきどんだけいるのかね。
自分は一応読んだけど、まあなんだかんだと面白かったような印象あるよ。長いので休み休みだったけど。
吉川英治の文章は小難しくなくて読みやすいのがいいね。
ただ、戦前の書評の中には
「新聞で読むと面白かったのに、まとめて読むと人物が一貫してないし行き当たりばったりな展開で、なんでこんなものを熱中して読んでたのかわからない」
みたいなのがあったと思う…ソースが思い出せないので、話半分に聞いてくれ。
高校時代の教師から、吉川英治作品では法然が一番評価が高いとかいうてたが…。
ただ、武蔵もののスタンダードというか、原形の一つではあるから、それを考えると読む価値はあるかもね。
魔界転生の最後の決闘なんかも吉川武蔵のパロディな部分があるし。
戦後の武蔵ものはお通や沢庵の存在を含めてここらから引っ張ってたりするし。
知ってるとくすっとなれるような感じ? 吉川英治の宮本武蔵は自分はすきだな
あと自分の剣の腕は生まれ持ってのものだった。って言う言葉を遺してるけど、あれは誇張ではなくてそういう脳の特性だと思う。
武蔵好きすぎて熊本の島田美術館と武蔵の墓最近行ってきたわ うん?武蔵が自分の剣の腕についてそんなこと書いてたっけ? 吉川のは強い武蔵と弱い又蔵を比較しているのが面白い要素だわな
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刃牙が無敵すぎて話が作れなくなったから実力を落としたんだろうな。
宮本さんは農民の投げた石で骨折する奴だぜ。
刃牙がそんな事ないだろw 「骨折」しましたっけ?
どういう史料に骨折が出てくるのかな? 検索してみると骨折したって思っている奴が結構いるんだな
そんな事が書いてある資料は存在しないから、思い込みなのか何かの受け売りなのか 島原の乱では籠城側が投げ落とした石で幕府側に多数の被害が出てる
武蔵の場合はどういう石だったのやら
あと、武蔵の手紙での自己申告以外にその情報ってあるのかな? 無いね
もしそんなものがあったら久しぶりの新史料発見てことになる >>529
「吉川英治の武蔵はウソパッカリよ、子供のトキは夢中でよんだけど
大人になってわかったヨ」大山倍達の言葉 >>547
お前の「空手バカ一代」もウソパッカリだったけどな〜 あ〜、俺生きてても何も意味がねぇ。
完全に嫌になるよ 空有善無惡
智者有也
理者有也
道者有也
心者空也
今更研究サイト読んだんだけど五輪書空の巻にある識語?っていうのかこれ
これは武蔵オリジナルではなく肥後系五輪書の後入れって事で確定でいいのかな >>550
筑前系の五輪書にはないというから、肥後系で後入れと思っていいんじゃないかな。
去年くらいにヤオフクで孫之丞の弟子・柴任の五輪書…の写しという、恐らく最古に近い五輪書写本が出されたが、残念ながら水の巻だけだった。
もしもこれの空の巻があって、それで確認できたら…と思うと色々と残念だった。
ちなその写しの五輪書は、確か二万とかそこらで売れたんじゃないかと思う。
もっと下だったったかな? >>551
五輪書の解説本では晩年の武蔵が達した境地みたいに紹介されることが多いけど、
後世の後入れだとすると色々とシュールな事になるなw
柴任の五輪書というのは柴任美矩→吉田実連の吉田家本の事?
吉田家本の空の巻なら既に最古の写本として発見されているけれども、
そうでなくて寺尾孫之丞→柴任美矩の五輪書だとしたら例え水の巻だけでも大発見だね >>552
五輪書については当の筑前系の武州伝来記で「清書がない」とあるので、未完成品だったのは共通認識だったんだろうね。
空の巻の後入れが確定の証拠にはならんだろうけども、肥前系の武公伝で五輪書は孫之丞が授かったことになってる。
それで肥後に伝わってる五輪書の方が記述が多いというのは、こちらには未完成だったという伝承は残らなかったのか。
あるいはそれを踏まえた上で完成させようとしたものなのか…。
オークションの内容は忘れたが、柴任が受け取った五輪書の写し、だったはず。
なんか水の巻だけでてた。
記憶曖昧なのだけど、吉田家本ではなかったと思う。
>>547
今更のレスだけど、大山倍達は吉川武蔵について「本物はあんなではない」と聞いてから
「むしろあのような武蔵を作り出せたものだと感心した」
みたいなこと何処かで書いてた記憶があるよ。
極真の道場訓も吉川英治監修だしね。 >>553
未完成だと踏まえた上で完成させようとしたんじゃないかなあ
肥後に流出した写本には筑前系空の巻のように代々の相伝証文が載ってないから
>>550の識語で穴埋めする必要があった、というのが研究サイトの見解だけどこれには同意 ところで沼田家記って検索してみると成立した時期が
寛文十二年(1672年)もしくは元禄二年(1689年)と出てくるんだけどどっちが正しいんだろう 沼田家記は…確か細川家が命じてそれぞれの家の記録を提出させたものの中の一つだったような記憶があるのだが…ソースが見当たらない。
覚え違いだったかな。
でまあ、その胡乱な記憶が確かだったなら、という前提で、寛文二年が成立年代で、元禄二年は細川家に提出して公文書扱いになった頃…かなあ?
しかし、このスレでの上の方で沼田家記の記述についての論争とか、今見るとなんだか面倒くさいだけだねえ…。
小倉碑文や泊神社の棟札の内容を否定するために、随分とグダグダと書いてる。 成立してから17年後に提出って遅すぎるんじゃないかって気がするけど……
寛文十二年に一応成立して、その後増補やら追補やらが色々あって元禄ニ年に舟島の記事が追加されたとかなのかな?
引き続きもう少し調べてみる。 沼田家記が成立してから、それと無関係に提出されるようになった…ということだと考えてるけど、そもそもが曖昧な記憶による前提なんでなんとも。
個人的には沼田家記の巌流島の戦いの描写はどうにも全面的には信用しかねるが、いつ頃に成立かは正確には知っておきたいので、調査結果は知りたいものである。 「図説宮本武蔵の実像 別冊歴史読本 (33) 」に、沼田家記を所蔵する永青文庫の川口恭子氏の記事が載っていた。
それによると沼田家記は二部構成になっていて、一部は延元について、二部は延之についての書だという。
そして沼田家記第一部の奥書には「寛文十二年九月日」と書いてあるそうだ。
寛文十二年という数字の根拠はあっさり見つかった。
引き続き元禄二年の根拠を探そうと思う。けど、これは難航しそうだなあ。 >>560
お、そっちだった。
ご指摘ありがとうございます >>138
十年も前の書き込みにレスするのもアレだけど、美作の宮本村は武蔵の死後にできたから、平田武仁は多分実在しない。
ただ、自分も無二は二人いたのではないかと思う。
無二が二人というのも変な話ではあるが。
武蔵は一時期、「宮本無二斎」あるいは「宮本無二之助」を名乗っていたのではあるまいか。 天正年間に死んだ新免無二
百年以上戦って天正八年に死んだ平田武仁
慶長二、三年に当理流の免許状を書いた宮本無二助/無二斎
慶長六、七年に黒田家に仕官していた新目無二
慶長十八年に木下延俊の御咄衆&兵法指南をしていた無二
どの無二が武蔵だと辻褄が合うかと言ったら年齢的にも状況的にも慶長十八年くらいのしか無いんじゃないの >>566
おお。まさかこんな放置されっぱなしのスレにすぐにレスがあるとは思わなかった。
木下延俊の日記にある無二を武蔵のこととすべきかはまだ慎重であった方がいいと思う。
黒田家に仕官していたという新目無二は、黒田家の分限帳の記載からだけども、分限帳は写本しかなくて後世伝承が混入されているようなので信頼性には疑問がある。
当理流の宮本無二之助については、現存の当理流伝書はみな筆跡が違う上に記名も微妙に異なるし、時代的に使われていないだろう季語もあるので、やはりそのまま信じるのは難しい。
そもそも当理流というのは宮本武蔵の弟子の塩田松斎が、武蔵より無二の流儀を学んで創始したと松斎の顕彰碑にあり、顕彰碑は野田一渓が伝書などを読んで当理流を再興し、塩田流を造ったことが書かれている。
そのことを考えると、当理流伝書は後世の造作じゃろなあ。
平田武仁は論外。
まあ武蔵が無二を名乗っていたのかはまだ要検証事例ではあるんだけども、無二流、あるいは新免無二流、無二も弟子の流派とも考えられている鉄人流…の分布が、なんか二天一流の分布とちょっと重なるのが気になっている。
塩田の顕彰碑にもあるけど、武蔵は無二の流派を教えていたという伝承があるわけで…。
武蔵の無二流の弟子というのがいて、話をややこしくしているのではないかあって気がする。 >後世伝承が混入されているようなので
具体的にどういった後世伝承が混入されていると確認されるんだろうか?