【木刀】宮本武蔵を語る【サイコー!】
>>389
箸で蝿をとらえるのは斬殺者には二天記、それと武公伝が元だとあるが…確認が面倒なので、本当かどうかはしらん。
>>392
それは沼田家記のアレか。
ひく島で決闘したことになってるってアレな。
断言はできんが、どうにもそこら捏造くさいな。 >>219
大分遅いレスだが、宮本無二之助の伝書の記述は新当流の技の名前っぽいの載ってるようなこと武芸流派大事典にあったと思う。
だから新免無二が香取神道流の関係というのは近いかもしれん。新当流とは違うが、地理的に関連はあるだろう…
ただ、面倒くさいことに武蔵の弟子の塩田松斎が熊本で当理流の創始者であるという伝があるんだ。こんちくしょう。
さらに宮本無二之助の伝書は日付などの問題からどうにも偽書くさいし、その年代に松斎が細川家で指導していた可能性がある。
無二は武蔵が新免家を継ぐ前に死んでいたというのが正しいのならば無二之助の伝書は偽造品ということになるし。
「無駄な努力はするな」
と言ったらしいですけど
だれか詳細知らない?
そういうの言ってるのかな。
五輪書は一貫して正しい理にそった稽古しろみたいなこと書いてたように記憶しているが、細かいところは忘れた。
「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」とも書いてるのは確かなので、とりあえず日々の努力鍛錬は否定していなかったと思う。
あといちいち工夫すべしとか書いてたかな。
つまり……
正しい理論でちゃんと鍛錬を重ねるようにしよう。あと自分でも考えるように。
が武蔵の主張なんじゃないかとうろ覚えな記憶でまとめていってみる。 「鍛錬すべきなり」というような記述は何箇所あるんだかというくらいあるけど。
『五輪書』なんて入手が容易なんだから自分で見たほうが納得できると思う。 又聞きの情報で鍛錬を否定していると思われちゃ武蔵もたまらんだろうな。
なんで自分で読まないんだろう? 武蔵はあっちこっちの小説やらの題材にされるので、うっかりそれが有名になると事実無根の創作が広まることになって、
それが前提で話を進められることがよくある。
例えば二天一流などの武蔵の流派は後継者がいないだの広まらなかっただのという話がよくあるけど、ここらは司馬遼太郎あたりのいいがかり。
実際は江戸初期はかなり広まっていたし、明治あたりまで結構使い手はいた。
現代は伝える人も減ったけど、幕末でもっとも広まった直心影流の零落ぶりを考えると、かなり残ってる部類に入る。 直心は三大(四大)道場にも数えられないし、
幕末でもっとも広まった流派ではないでしょ。 三大道場って呼び方は幕末には呼ばれてないみたいね。
wikiると松崎浪四郎が自分が対戦した相手で強かった人間を並べて評したのが元らしい。
これもフィクションが拡大、変容、解釈された結果かもしれんね。
幕末の剣豪の中でももっとも評価された人物として直心影の男谷もいて、この人は講武所の師範まで務めた。
直心影流はむちゃくちゃ広まってた。
剣道形の型なんかも何度か改変されているんだが、
ttp://www.geocities.co.jp/Athlete-Athene/8236/isingonokendo.htm
これを見ると明治44年〜大正元年制定大日本剣道形の制定委員の二十人の内、五人を直心影流の人間が占めている。
ちなみに剣道形の一番最初のは制定をしている内の一人が、三橋鑑一郎という武蔵流で範士号をもらっていたという名人だね。
この当時は範士号はかなりの人間しかもらえないので、幕末から明治期にも武蔵流で強い人間がいたという傍証にはなる。 そもそも三大道場って「江戸三大道場」だったみたいなー。 幕末に最も広まったかは知らんが大正時代に入っても直心影流は多いな。
武道家名鑑を見た感じ北辰一刀流、神道無念流に次ぐくらいの数はいる。 >>401
それにしても幕末でもっともって言葉が好きなんだなw
直心の人? >>404
いや、剣術はやってないw
ちょっと強調しすぎたきらいがあるので反省するわ。
武蔵流の話にすっけど、派によっては竹刀剣術への改変もあったりするし、割とあとの時代まで残ってたみたいな。
九州だけではなくて北陸や関西、愛知あたりにもあった。
江戸後期だったと思うが、江戸でいっぱい試合して、各流派の特徴とか書き残してた人の文章があったが、そのなかにも武蔵流系統の名前はあったと思う。
武蔵一代限りの流派ではなかった、というまあそれだけのことを言いたいだけだが。 >>405
こちらこそあらぬ疑いをかけたなw
ところで秋田に武蔵丸二刀流ってのがあるんだがこれも宮本武蔵の流儀でいいのかい? >>406
武芸流派大事典によれば、祖は秋田藩士、小野崎造酒。
遠祖を丸目蔵人とし、上泉武蔵守の武蔵と丸目の丸をとって流名とした(日本武術流名録)。
二刀流とはいっても、根本は一刀を用いる。
ちょい略したが、こうある。
上泉武蔵守からとって武蔵流だと、武蔵全然関係ないのに二刀を使うのは面妖だが、流祖の小野崎が上泉武蔵守と新免武蔵守とをごっちゃにしてたのかもしれん。
あるいは新陰からでた二刀技法がもとなのか…は見てないのでよくわからない。
武蔵流関係の技法が混入している可能性もあるかもしれんが、実際にやってる人の映像とか伝書みないとなんともいえない。
こんな感じでいい? ありがとう。そこで丸目の名が出てくるとは思わなかった。
現在の熊本に普及した流儀という点では武蔵流と丸目の流儀ってのは接点があるね。
ただ、タイ捨流自体に二刀があるらしい。
http://www.yamame.co.jp/sympo2-3.html
>山北 タイ捨流は、二刀を使いよる。二刀の巻き物があります。宮本武蔵は
左に小刀を持って右に長刀。タイ捨流の場合は、右が短剣で左が長刀。たとえば、
右手と左手に筆を持って書いた場合、同じ字画で同じ名前が書けるかというと絶対書けない。
どういう達人でも、書道の何十段である人でも絶対書けない。二刀といえども一刀の心に
到達するんでないと駄目です。そういう心に到達するには、一つは投げ剣にある。
投げ剣でパッとやり、受けるときに持ち替えて長刀で切る。心と仏教は一致しなければならない。
生きる法則。それをキツエン一刀の心といいます。
あと、宮本武蔵から出たという二刀神影流ってのもあるんだよな。
宮本武蔵かと思えば上泉武蔵守が出てきたり、新陰系統かと思えば流祖が武蔵だったり
正直よくわからんw
二刀神影流鎖鎌術
http://www.nihonkobudokyoukai.org/martialarts/077/ >>408
二刀技法そのものは古くからあるしね。
武蔵も刀は片手で使うものといってるから、もう片方の手にいろいろと持つ戦闘法は過去にあったのかもしれない。
宮本無二之助伝書はシントウ流系だし、武蔵流の用語もそっちの流れらしい。
天真正伝香取神道流にも二刀のかたはあったはず。
>二刀神影流鎖鎌術
それは大正の頃に作られた流派で…坂本土佐海氏の随筆にもその流派作った人のこと言及があったような…悪口ではなかったけど。
武蔵を義経由来の流派の末裔とする流派もあるし、武蔵くらいの有名人になるとほとんど戸川白雲斎とかみたいな伝説上の人物と一緒で、仮託の対象にされてたみたいね。
とりあえず武術の流祖伝説は明確に資料がある場合はともかく、ほぼ話半分で聞いといたほうがいいよw 二刀神影流は創作かw
脈絡の無さが面白いのに残念だ。
>宮本無二之助伝書はシントウ流系だし、武蔵流の用語もそっちの流れらしい。
天真正伝香取神道流にも二刀のかたはあったはず。
現状の香取神道流にも二刀は残ってるけど、武蔵誕生百年前に
新当流の二刀伝書があるというからね。
http://www.yukan-daily.co.jp/news.php?id=14245
>今回、大きな発見の一つが盛嶽(もりたけ)文書という。佐伯市内の民家の古い仏壇に保管されていたこの文書は、
文明16(1484)年の兵法書「新当流両部乱之太刀口伝」。刀を2本持った人の絵が描かれていることから、
二刀流の書という。 残念ながら創作なんだw
いや、もしかしてみんなが創作いってるだけで実は神免派の影響があったりなかったりしていろいろと痕跡があるとかするかもしれんw
>新当流両部乱之太刀口伝
ほう。こいつは面白い。
新免無二が死んだのは伊織の奉納した泊神社の額によると天正年間で筑前の秋月城なんだな。
無二はこの後も生きてたじゃないかという反論は多いんだが、伊織の頃にはそういう伝があったのは確かだろう。
つまり無二は筑前ゆかりの武芸者で、偽造臭いが宮本無二之助の伝書はシントウ流系で武蔵流もそれっぽく、その無二が縁のある筑前の近隣で新当流二刀使いの人間が天正の頃までいた、と。
もしかしたら、可能性だけだけど、ここらが武蔵流のルーツかもしれんねー。 鳥取の武蔵流のように、武蔵にあやかって名前を付けた流派もあるから、
一見しただけじゃ武蔵ゆかりかわからんというのがややこしい所だな 卜伝流の中にもどう見ても卜伝の新当流とは関係なさそうな流派もあるそうだからな。
伊織伝二天一流なんかも、小さん師匠も継承していたって流派だが江戸後期になって突然でてきた流派で怪しい。
二刀遣いは古くからあるし、あるいは武蔵流の末流が伊織に伝承されていたと詐称したのかもしれないが。 あまり柔術と縁がなさそうなのに卜伝を開祖とする柔術もあったりするからな。
昔の神道流は総合武術であったから柔も達人だろうという発想かな。 柔術といえば二天一流柔術ってのも存在した、らしい。
古橋惣左衛門が伝授をうけたというが、伝書の一部が残るだけだという。
武蔵の他の弟子の塩田も小具足が使えたというから、武蔵の体術ってのはあったんだろうけど。 十手と柔は親和性があるから当理流時代からあったかもね。 当理流が武蔵の父の流派であるかどうかはまだ微妙だけどな。
宮本無二之助=新免無二については異論も多い。 明治まで伝わっていた塩田流の建てた石塔には、塩田松斎が武蔵に入門して宮本無二斎の流派を学んでのち、一度破門されてから後に武蔵に許され、天下無双当理流手縛の祖となった、とあるそうだ。
面倒くせえ伝承だぜ。 >>417
だが、宮本武蔵が受けた大名家の厚遇ぶりを見ると、そこそこ良い家柄の人間で有ると考えた方が論に根拠を持たすには都合が良い
必然的に当理流開祖と結び付ける傾向になるのだろう >>419
単純に技術者、芸術家としての厚遇って考えてもいいんじゃないか?
明石時代の武蔵は作庭を随分としているようだし。
林羅山らと直接に関係があったんじゃないかって説もあるし。
そこらのコネクションとかあったんじゃないかな。
あるいは水野勝成の配下で武者奉行だった中川志摩之助の子供たちを養子にもらっているが、
これは水野勝成が大阪冬の陣に武蔵が参戦していて、それが縁だという話もある。
この頃の武蔵が宮本を名乗っていたのかは不明なので後世の混入の可能性は高いけど、
水野家と何か武蔵は関係があったのかもしれん。例えば放浪時代とかで。ちょっと年代あわないけど。
あと宮本無二之助は武蔵との年齢差は13歳…養子にとるのには少し歳の差が少ないかもしれず。 大阪の陣の宮本武蔵は、所謂俺らが武蔵と呼ぶ宮本武蔵の事でいいんじゃないの?
大坂御陳御人数附覚に、そのままズバリ「宮本武蔵」で載ってるし
よく宮本武蔵複数人説というのがあって、この武蔵は新免武蔵とは別の武蔵だと言う奴が言うけど
この武蔵は作州様附の十人の一人、嫡男勝俊の親衛隊であり、とすれば、道明寺と天王山で大暴れした部隊の一員で、しかも最前線に居たという事になる
もしこの宮本武蔵が二天一流の武蔵じゃないのなら、この時活躍した筈の宮本武蔵は一体どこ行っちゃったんだ? という話になる。水野家家臣として何かしらの記録が残る筈
妙政寺に武蔵が勝俊に寄進したという石灯籠があるが、ともあれ、武蔵と水野家は縁深い。この宮本武蔵=新免武蔵と素直に結論付けて問題あるまいよ
絵画や書家の武蔵を「二人の武蔵」とする説もそうだが、それぞれの分野に全く別人の宮本武蔵と名乗る人物が居て、それぞれそれなりに著名で、しかもそういうケースが複数ある、という方が逆に不自然だろう
わざわざ別人の同姓同名、というより同一人物と考えた方がよほどしっくりくる。
少なくとも水野隊の武蔵に関して言うなら、ドンピシャの宮本武蔵という名を持った同姓同名の別人、とわざわざ考えなければならない必然性が無い。
伊織からして宮本だから、新免武蔵が宮本武蔵と名乗っていた事は確実だしな。
まあ現存する大坂御陳御人数附覚が写本だから、確かに後世の人間が付けたした可能性も無くは無いが
宮本小兵衛が武蔵の養子になった経緯から考えても、水野隊に属していたのは、所謂宮本武蔵と考えるのが妥当だろう
>>421
武蔵が宮本を名乗ったのがいつ頃からかはっきりしないからな。
大坂御陳御人数附覚の原本には新免武蔵と書いてあったのを、後の人が宮本武蔵のことだろうと書き直した可能性はある。
というか、新免武蔵守藤原玄信は宮本武蔵の正式な名乗りだよ。まあ武蔵守は勝手に名乗ってたみたいだけど。
どちらにしても水野家と何かの関係があったんだろうけど、武蔵がどうしてそんな関係をもてたのかというのはよくわからない。
あと宮本小兵衛は武蔵の養子三木之助の甥。
三木之助の弟の九郎太郎…二代目宮本三木之助の息子に当たる。
武蔵複数人数説は綿谷雪氏が提唱していた説だけど、現在ではさすがに真に受けてる人はいない。
後世の伝書やらで捏造されているのを間に受けているんだろう。
ただ考証武芸者列伝で名前が列挙されてたけど、十六人とか多すぎるわなw
ここまで多いと逆に複数いたと考えたくなっても仕方ないだろうなー。 大坂御陳御人数附覚の出典は確か小場家文書で、書いたのは恐らく小場家の人間なのだろう
あえて縁も所縁も無い武蔵の名を意図的に付けたすとは思えない。武蔵が大坂の陣に参加したのは事実であったとみていい
黄耈雑録では丁度、「水野日向守が手に付き」として、道明寺合戦で何人もの敵をなぎ倒す武蔵が出てくるが、
それはともかくとして、武蔵が水野家に肩入れし、寵愛を受けていた事は広く知れていたであろう事がうかがい知れる
齢二十九までに六十余度の勝負を経て、勝ちを得ざる事なし、という定説に則るとすると、大坂の陣の時点では既に有名であったという事になる
勝重に招かれて兵法指南でもしていた縁だったのか、水野家家中に門弟でも居たんじゃなかろうか。後に入り浸る本多、小笠原、細川と同じような感じだとは思う どっちにしても武蔵が大坂の陣前後の頃から高名で活躍していた剣豪だってのは確かみたいだな。
仕官できなかったみたいなことは小説とかでよく書かれているけど、しなかったってのが正解だろう。
どっかの家に三百、五百石で召し抱えられるよりは、複数の家に影響がありながらも一人身の方が気楽なんじゃないか。
晩年の細川家で三白石もらってたのも、滞在費として小遣いもらってた感じだったらしい。
細川家に招かれたというのは俗説で、弟子のいる熊本に湯治にきていついたみたいなのが伊織の書簡などに書いてるそうだ。
まあ考えてみたら、高名な兵法者がどうこうの前に、当時の感覚としては小笠原家筆頭家老の養父がきているんだから、それなりの待遇でもてなすのが当然なわけだが。 >>424
正確に言えば、細川忠利に山鹿の温泉に招かれた
細川奉書に、足利道鑑と共に山鹿のお茶屋に招待された事が日付入りで載っている
とりあえず、「宮本武蔵って知ってる?」って人に聞けば、「ああ、あの剣豪の」と返って来るくらいには世間に認知されていたのだろう 全く関係の無い流派が「宮本武蔵源流」を名乗っていたり
吉岡伝や村上吉之丞の逸話で、全く経歴も風体も違う人間に宮本武蔵という名前を付けて、そいつが負けたとか逃げたとか言っているケースがある
それを挙げて鬼の首を取ったように「弟子たちの伝記と違うじゃないか、武蔵は捏造ばかり」と言う輩がいるが
そりゃ他の人間が武蔵の剣名にあやかっていただけで、武蔵本人の責任じゃないよな
大体そういう論者は、武蔵伝記を疑う発想はあるのに、武蔵を否定する所までで思考が止まってしまって、それらの信憑性に言及する事が無いのが残念
そもそも、武蔵研究者だって今更、二天記中の奥蔵院や氏井弥四郎の立ち会いが本当にあったなんて思ってる人間はいない
基本的に傍証出来るものしか信頼に足る、とされていない。そのくらいには武蔵研究は進んでいる
武蔵は情報が無闇に多すぎてどれが本当か、あるいはどの程度まで本当なのかがよくわからん。
それだけ高名であったというか、ネタに使いやすい人物だったんだろうけど。
しかしよく考えれば、その理由は小倉碑文のおかげじゃないかっておもわなくもない。
兵法者の業績を分かりやすく碑文にして顕彰するとか、あまりないから。
どうも名物みたいに結構紹介されてたようにも聞いたぞ。 小倉碑文はよく身内評価だと言われるが、伊織は大名家の家老でちゃんとした身分の人だから、下手な事は書けない
だからむしろ信憑性が高いという見地もある
まあ武蔵の事績はいおりがいたから残ったともいえるね
伊織は武蔵とは別に鵜の真似とかで神格化して取り上げられるくらいに当時知名度あったしね。
播磨ではそこそこの家柄だったとはいえ、忠真の近習として召しだされて、最終的に四千石を超える小笠原家筆頭家老だし。
考えるとものすごい出世だ。
小倉碑文は身びいきの誇張とかが多くて信用できないっていう人もいるが、そもそも顕彰碑なんだから内容の誇張は当たり前ではあるな。
そもそもそれ言い出したら、筆者の主観が介入しない書き物なんてありえないからね
何も参考にしないで勝手に書いたのか、事実に則って書いたのかの違いはあるが
碑文が建ったのが武蔵没後十年以内だから、当時を知っている人もいただろうし、伊織も全くのデタラメや試合結果の捏造は書きにくかったんじゃないかなー
ともあれ、伊織が「公人」であるという事が、信憑性の確かさにつながっているよね 武蔵作州出身説の人間は伊織はうそつきとか間違いが多いってことになってるらしいけどなw
泊神社の奉納額で新免無二が天正年間に死んでることになってるとか。
新免を神免にしているとか。
いずれ言いがかりレベルだけど。 訂正。武蔵作州出身説の人間の間では、伊織はうそつきとか間違いが多くて信用ができないってことになってる、だった。
推敲しないと文章おかしくなるな。
新免無二が天正年間に死んだことになってるのに、宮本無二之助や新免無二斎などは慶長年間に伝書だしたり巌流島の決闘のエピソードに名前が出るのは確かなので、ここらはどう考えるのかはちょっと問題だったりする。 「朝鍛夕錬」を五輪の書でも強調してるから
生涯を通じて相当修行していたことは間違いない。 うちの剣道の師匠七段にもし武蔵と殺りあったら勝てます?
って聞いたら勝てないだろうね
だってさ 剣道は剣術から遠ざかって全く別物のスポーツになってるからね。 そら剣に命をかけたことがない奴が
弱ければ死ぬという世界で生きてきた奴に勝てるわけがない
プロの殺し屋と素人がやってどっちが勝つか?つー話だろ それに武蔵は身長182センチ以上で頑強な肉体で
片手で軽々と刀を振り回せる怪力の持ち主。
当時でもバケモノ的存在だっただろう。 人を殺したこともない自衛隊員チームと人を殺めたこともあるヤクザ屋さんチームに
鉄砲や銃剣を持たせて本気で殺し合いをさせれば、自衛隊員チームが勝つだろう。 『剣に命をかけたことがない奴』が剣道七段取れるわけがあるかww 剣道七段はその道ではほとんど最高位、八段は特別な試験を経て取得(昔NHKで特集で観たことがある)
「一の太刀」のような必殺の一撃を繰り出せるかどうかがその判定方法なんだそうだが、
おもしろかったよ
・・・・剣道七段、で横道にそれてしまった。 >>291
訓練が大事としか書いてないよマジで
剣が異常に長いのは意味ないっていうのは小次郎のこといってるのかと思ってワクワクしたりした 伊織が嘘つきというより、伊織は武蔵のことを正確に知らなかったと考えたほうがよい。 吉岡家断絶がウソなので碑文の細部が皆インチキに見える。 顕彰碑の内容なんて、事績については大仰に書くもんじゃないかね。
武蔵とひと悶着起こした会派が断絶しただけかもしれん。
まあ、実際の所はわからんけど、どっちかと言えば吉岡伝のほうが信用ならん
無理に勘ぐれば、染物屋やってる吉岡家が自分ところは剣術の吉岡家の親戚なんです…というのを主張したいから捏造したのかもしれん。
吉岡流が将軍家指南やってたのが本当なら、本家が無くなっても使える人間は結構いたかもな。 吉岡伝は全く信用できない。
けれども、後の時代まで吉岡一族の動向が他の史料でも確認できるので、
伊織が碑で述べてる完全に絶えたというのは誤り。
それとテレビや物書きが面白いから良く取り上げるが、
現在活躍中の染色家の吉岡氏は、
同じ吉岡姓で先祖の家業が染色であることから、可能性は0ではないが
一族に吉岡一門の子孫である言い伝えや系図などがある訳ではない。 まあ吉岡伝は後世の資料集積本で、登場する武蔵の素性も他の剣豪も他のぱくりくさいし、よほど武蔵にくい人間でなければあれは真面目に採用せんだろうw
後世の吉岡流というと吉岡加兵衛だっけ?昔咄に名前が出てくる。
武蔵と戦ったという吉岡家との関係はよく解らんな。原文読んでないがそこら書いてるんだっけか。
顕彰碑という性格も考えて、武蔵が吉岡家と勝負して大勝したというのはありだとして、
だけど吉岡家が断絶したというよりも道場を構えるのをやめてしまった…
程度のことを大げさに書いたのかもな。
新免無二と宮本無二之助との関係も疑おうと思えば疑える。
自分の感触からすればおおまかに小倉碑文や泊神社の奉納額は信用していいんじゃないかな。 二階堂流の流祖は松山主水だが、武蔵が逃げたって逸話はその高弟の村上吉之丞だな。
いつ頃の話かは不明だが、主水が道場で教えはじめたのはwiki見たら寛永九年とある。
村上が二階堂流を学んだとするならこれ以降となる。
この頃の武蔵は明石に在住していて養子の伊織が近習として小笠原忠真に仕えてた。
寛永九年は武蔵四十九歳で、家督も伊織が継いでいたと考えるのが妥当なところだと思う。
実質隠居してたようなもんだから、仕官を求めて武蔵が細川家に来るというのは考えにくい。
あくまで逸話とした方がいいと思う。
村上の子孫は武蔵の孫弟子の新免弁助に学んで村上派二天一流を創始したという。 松山主水の説話は、ほとんど妖術の類。
戦う時に宙に浮いていたと記してある江戸時代の文献もある。
武蔵でなく柳生但馬が、あれは剣術でなく妖術と対戦しなかったという文献もある。 レベルが違いすぎる武術家のやってることは、時に魔法のように見えるもの…らしい。
関口柔心の子孫がそういうこと言ってるな。
しかし松山主水は妖術師めいているのだが、死に方はあっけなかった…。 >武蔵でなく柳生但馬が、あれは剣術でなく妖術と対戦しなかったという文献もある。
文献もある、で済ますんじゃなくてその文献の名前も教えてくれよ。
中国温家宝首相は戦艦『武蔵』
http://2nd.geocities.jp/jmpx759/02/4/46_2.html
戦艦大和慰霊碑は、沈没場所とは程遠い、徳之島犬田布岬にある。
それには重大な理由がある。
島の名前が示すように、この島は、「徳川の島」だった。
鹿児島でも、「徳」の付く姓は多い。徳地、徳留、徳、久徳・・・・・。
私の知る限り、全て「御庭番」だった。
天皇一族が敵地に入植する時、必ず辺境地から攻める。 >>462
ある流派の江戸期の伝書の一つ
活字にもなってない。
江戸中期以降のものだから、そういう伝説があったんだろう。 >>464
せめて何流かだけでも教えて欲しいもんだぜ。
武蔵や但馬はビッグネームだけあって、あちこちの逸話に引き合いに出されるとかありそうなことではある。
ありそうな話ではあるけど>>464みたいな書き方されると信じるべきかどうか困る。
もう少し手がかりというか詳細頼むよ。 >>466
464が眉唾とか脳内ソースかてのは別にして
流派の伝書の中身なんて口外したら破門らしいぜ。
ソースは、自称日置流印西派の爺さんに俺が言われたことだ。 活字にすらなってないのが400年残ってる時点で嘘だ
明治後でも100年後に書かれた本はフィクションだらけ
リアルタイムを知らない人が書くんだからあたりまえだけど >>467
古武術流派の伝書とか、昔は麩の裏あてとかに使われていたものだぜ…。
何せ当人以外にはなんら勝ちがないものだからな。一応先祖のものとして大切にしてる家もあったりするが。
最近はヤオフクのオークションなんかでよく出品されているよ。
先々月だったか、幕末で二刀流の達人のものと思しき伝書が売りに出されていると聞いた。
流派によるが五千円から十数万くらいまで上がることがあるよ。 もし剣術家の吉岡が健在で、武蔵はそいつらにボロ負けして逃走したのが本当だとしたら、伊織が顕彰碑を建てた時に黙っていた筈がないと思うがな
碑文が建てられたのは武蔵が死んでから十年も経っていない頃。まだ当時の事件を知っている人間も多く居ただろう
吉岡勢の勝利を伝えるのは吉岡伝のみ。だから剣の吉岡は事実、何らかの形で敗れたか、それとも最初から存在していなかったのか、どっちかだろう 吉岡と武蔵の対決に関しては、どっちが勝ったの負けたの引き分けたのという話があって、どれが本当だかわからん。
吉岡伝以外にも武蔵が負けたと書いてるのはある。勿論、吉岡伝を元にして記述かもしれんが。
伊織はなんぼいうても小笠原家の筆頭家老で、仮にまるで大嘘だったにしても、京都で染物屋なり剣客なりしていたというのでは文句のつけられなかったかもしれんが。
ただ、吉岡家の人間が禁裏で大騒ぎやらかしたって話はあるから、武蔵によって吉岡家が断絶したってのはないと思う。 別に吉岡じゃなくても、伊織の書いた内容が大嘘だったら「あんなもん大嘘」って書いた文献か、もしくは事実を符合させるものが出てるはずで、こんな論争になってないよね
公人の書いたものだけに、事実に反した事書いてたら後世の我々にはすぐバレるよ。それこそ、吉岡は実は断絶していなかった、みたいにさ
まあ後の吉岡と武蔵の戦った吉岡が同じ家である保証もないのだが……仮に同じ筋であっても本家分家の関係かもしれんし
これだけ逸話がある以上は間違いなく何がしかの関係があったと思うけども 武蔵と吉岡の関係はどういうものであったにせよ、伊織が書き残すくらいだから何かあったんだろうね。
武蔵に敗れたという吉岡清十郎は吉岡直綱でない可能性は確かにある。
一族で剣術やってて、たまたま兄弟で強い吉岡が幾つもあったのかもしれん。
顕彰碑だから誇張はあるにしても、まったくの嘘であるとは考えにくい。
まあ伊織の遺した史料については泊神社のとか、こっちもなかなか難題だったりする。
天正年間に嗣子なくして死んだ新免無二と、慶長年間に伝書を発行している当理流の宮本無二之助。
そして細川家で慶長年間に剣術を教えていたという無二の関係とか。
綿谷雪先生は、考証武芸者列伝で無二が嗣子なくして死んだと書いてあることについて、伊織は武蔵のことをあまりよく知らなかったのではないかと書いている。 筑前で天正年間に死んだ新免無二の後を継いで武蔵が新免を名乗ることになったのだとしたら、
宮本無二之助は武蔵と無関係の人物になるのだが、よく解らんな。
武蔵研究サイトでは、当理流の無二之助は後から捏造された人物ということにしている。 >武蔵に敗れたという吉岡清十郎は吉岡直綱でない可能性は確かにある。
一族で剣術やってて、たまたま兄弟で強い吉岡が幾つもあったのかもしれん。
現状で一番説明がつくのは案外、この説かもな
端っから武蔵の作り話だとして落とすのは簡単だが、それじゃ思考停止だし、何より碑文をはじめとした数ある史料の存在の説明がつかん
いくら武蔵が伝説的人物だとはいえ。
元となる事実なしにここまで発展した逸話になったとは思えん そもそもを言い出すとアレだが、吉岡憲法って武蔵に敗れたという話と一族が禁中能か何かで暴れたということくらいしかしらんw
吉岡染めとかはあるけどあれは後世のものだしな。
実際の吉岡流からして元がなに流からとかワカンネー。
史料によっては神道流から出ているという説もある。
武蔵以上に謎が多い気がするぞw >>468
確かに二天記も兵法先師伝記も巌流島から百数十年たった文書だからフィクションだらけ。
>>476
吉岡の作った「憲法染の掻取」が、江戸の武士の間で正装として扱われるようになったのは
安いってのもあるが、吉岡家が剣術家であったことも理由のひとつだよ
>>477
二天記はそもそも親の書いてた武公伝を底本にしているけどなw
吉岡家については興味はあるが資料をあまり聞かないな…
吉岡染めについて、どういう評価とかされてるの?
>>433
肖像画残ってンじゃん
あれ顔知らない人が想像で書いたんか? 近代文学の中で、宮本武蔵がはじめて登場したのは、恐らく森鴎外の『阿部一族』(大正2年1月「中央公論」)であろう。結末に近いところ、阿部一族の討手に加えられた大兵の臆病者、畑十太夫を武蔵が見て声をかける場面のほんの数行である。 >>480
武蔵研究サイトの人らがいうには、後期のほど武蔵の顔が怖く書かれているらしいぞw 武蔵研究サイトがいうことが必ずしも正しい訳ではない。
少なくとも他説を小馬鹿にした言動が目的に成っている部分が見受けられる。
過去の根拠がない説を非難する中に、根拠がない自説を挿入してある。
ウィキで見たけど武蔵って卑怯者じゃん
小次郎との決闘で弟子連れてくるし、カスじゃん。男なら約束守れよ
つーことで小次郎リスペクトします。武蔵は卑怯者です >>485
あの研究サイトにある根拠のない自説か…あそこはデータが膨大な上に読みにくいものだから、何処に何があるか把握しきれねえw
他説を小馬鹿にした言動が目的に、というのは同意だw 他説を小馬鹿にすることが目的って、具体的にどこよ?
引用してみてよ。 小馬鹿にするのが目的というのは言いすぎだな。
言い方が小馬鹿にしているように見受けられる…というのは、印象としてはあるな。
多分座談会とか読んだ印象なんだとは思うが。
あそこのデータはなんだかんだと豊富なのでありがたい。 モダンミステリースクールとかいうインチキカルトいわく、宮本武蔵はそこの信者だったらしいんだけど、本当か? >>490
城攻めに際して、本丸に直接向かった小笠原家の軍の旗本一番隊にいたらしい。
まあかなりの最前線。
有馬直純宛武蔵書状で投石でどうこうとあるのは有名だけど、どういう風に当てられたとかは確か書いてない。
激戦区であることを考えると、まあ石ぶつけられててもなんら不思議ではない。
書状は互いの戦功を慶びつつ、有馬直純が会いたいというのを断ったっつー内容だな。
面会を断ったのは有馬家と水野家の戦功争いに巻き込まれたくなかったからではないかって意見もあるが、これはちょっと穿ち過ぎじゃないかね。よくわからんが。