【木刀】宮本武蔵を語る【サイコー!】
とりあえず両手だろうと刀と刀を直交させて受け止めるのはかなり鍔元じゃないと難しいからやってみ。
でヨウツベあたりで剣術流派の形を見て素人が想像するような、マンガや時代劇みたいな受け止め方してる流派あるか探してみるといいよ。
直交するような受け止め方はほとんど無いハズ。
二天一流の五方には受け止める動作なんか一つも無いし、五輪書の受け技も片手でできる攻撃か防御か判断しずらい技だよ。
相手の顔面を切っ先で突くように受ける、って書いてあるはず。この受け方だと、刀と刀の角度が小さくなるから、小さな力で相手の刀を反らす事になるよ。 >>350
は?
言われてる意味がよくわからないんだが、どこを講談や小説と一緒にしてるのか教えてくれないか?
巌流を殺したのは史料にあるし、吉岡と戦ったのは勝敗や顛末は不明だがほぼ間違いない。
>真剣じゃなくてシナイか木刀
それこそ推測にすぎねえな。それに重要なのはそんなところじゃないよ。他流試合を繰り返したのが問題だって事。
しかも巌流の場合、流派の宗家レベルが立ち会い、しかも相手を殺してしまっている。
問題になったのなんて、考える迄もないよ
巌流が細川の兵法指南だったのならなおさらだな 殺したって史料があるの?
そもそも武蔵自身は吉岡や巌流なんて名前は出してない。直近の文書にはなにも残ってないし、巌流も名前か流派かもわからない。
当時の社会状況を考えればわざわざ真剣で勝負よりシナイや木剣の可能性が高い。
武蔵より随分年上の疋田文五郎自身の武者修行での他流試合についての書き付けがあるけど、ほぼシナイか木剣での試合。吉岡一門がその後も普通に剣術家やってるのを見ても普通の試合だったんだろ。
で武蔵自身もシナイで小技早業ばかり求める事を戒めてるけど、逆に言えば当時既にシナイがかなり使われてたって事だよ 長い事書いてるけど
沼田家記や本朝武芸小伝くらい読めよ、このスレの上でも出てるし
経緯はどうあれ、巌流を名乗る小次郎と言う武芸者が、細川家の支配領内の小島で宮本武蔵に殺されたのはほぼ確実
小次郎の生存を伝える史料もない 巌流ってのは小次郎が称した流派ね
揚げ足取られたくないから一応 武芸小伝は1700年はじめの文献で武蔵死後六十年近くたってからの本だよ??
武蔵伝説の元ネタの一つ、1654年に宮本伊織が立てた小倉碑文だと、「兵法の達人、名は岩流」になってる。
小倉碑文だと殺した事になってるけど、兵法指南役とは書かれていない。
武蔵自身は岩流について何も書いてないしね。岩流が有名になったのは1700年代の歌舞伎の影響ってのが研究者の通説だよ。
佐々木姓も歌舞伎の創作だし。
吉岡家も清十郎に試合で重傷を負わせ、又七郎との試合では木刀を奪い打ち殺したと書かれてる。
吉岡とは真剣を使った勝負、とか岩流が真剣を使ったとかは書いてない。
沼田家記については、17世紀成立で小倉碑文よりは新しいけどそれなりに近い年代(武蔵死後三十年ちょっとらしいよね?)
まだ信じられるけど、これまた研究者から歴史的におかしいと疑問点がついてた部分があるはず。どこだったか忘れたけど。
そもそも江戸時代は創作を伝記に入れ込んだり、自分の先祖を良く見せようとしたりするのが普通だった点を理解しとかないと。 >>356
巌流か岩流かなんてさして重要な点じゃないでしょ。
ようは「ガン流」、小次郎の称した流名であることは殆ど間違いないし
名前と言う説もあるが、小次郎と言う名が沼田家記で明らかになっている点から、こっちの説はほぼ否定されてる。
どの史料から引用した戦いの模様かわからんから何といっていいかわからんが、君の挙げた小倉碑文には「岩流三尺の白刃を手にし」と書かれてるぞ。
それに重要だったのは得物がどうだったかというより、他流派の武芸者と戦い、それを殺傷してしまっていること。
だから武蔵の行動が問題視され、それを受けて他流試合を控えるようになったんじゃないか、といってる。これはあくまで俺の推測
巌流島の戦いについて疑問視されているのは経緯や小次郎の素性などで、小次郎が殺されたのはほぼ確実と言われてる
原田夢果や上村道子氏の著書なんかがこの辺の事情で有名だが、現諸史料で小次郎が殺された事は伝えられていても、小次郎が生き残った事を伝えるものは今のところないから。
新しい史料が発見されればどうなるかしらんがね
>岩流について何も書いてない
武蔵は基本的に、自分の著書で戦った相手の事は書かんよ
有馬と秋山が五輪書に名前だけ出てくるだけで、後は六十余度戦って一度も遅れをとってねえ、でまとめられてる
例えば高田吉次の伝記の崇白先生伝、丹治峯均筆記には吉次と武蔵の御前試合の事とか書かれてるが、このことも武蔵は自らでは記していない
吉岡についても武蔵は直接詳しくは語っていない。五輪書の原本には二十一で都に上って天下の兵法者に会い、数度の勝負をして勝たなかった事はなかった、と書かれてるだけ
だから小次郎に関して武蔵自身の筆がないのは別に特筆するような事じゃないよ >>356
『日本史の一級史料』では沼田家記の成立年代については触れていたが
内容について歴史的におかしいとかの疑問点はなかったぞ。 山本博文はなんだかんだいって、自分の好き嫌いがすげー強く出てるけどね
武蔵に対しては辛いのに同書の赤穂浪士の項では評価大甘
細川藩奉書の「石遣候間、佐渡さしず次第ニ可相渡候」の所、さらに忠利が足利道鑑と一緒に山鹿の茶屋に招いた、という個所を無視、千葉城の屋敷や、錦考輯録曰く、武蔵を正月祝いに奥書院に招いた事等、
それら一切シカトして「忠利の武蔵への評価は低かった」と書き、
兵法三十五箇条を献じたのにも触れず、挙句五輪書や永青文庫などで真作と認められている書画などの作品群を全てひっくるめて「後世の神格化による捏造」扱い
東京大学史料編纂所教授の肩書がなかったら大バッシング食らう様なトンデモ論だよ。あくまで「そういう可能性もありうる」というだけに留まっている筈の事なのに、まるで定説であるかのような口ぶりだし
これに比べて、35〜44pの内蔵助への弁護ったらないぜ、最終的には「勘」とか言ってるし
大体、内蔵助がりくに送った書状には触れて、武蔵が佐渡守らに宛てた書状はスルーなのも疑問、武蔵の一級史料に関しては丸岡宗男氏が著書で纏めていたが。
そもそも武蔵は仕官してないんだから、公的文書の残存率が低いのは当たり前じゃないか。そんな基本的な事も押さえないまま批判してるんだから
まあこの人は史料の出典や吟味が重要って事が言いたくて、そのために一次資料の乏しい武蔵を槍玉にあげたんだろーけどね 『日本史の一級史料』の中では「忠利代の奉書に武蔵の名前が出てくる事は少ない、だから武蔵の評価は低い」ってな論法なんだが、
武蔵が熊本に来てから1年後に忠利は没しているんだから、冷静に考えてそんなに記述が残ってるわけがないんだ
むしろ光尚時代になっても待遇は変わらず安堵されたんだから、評価は高かったと考えた方が自然なのだが……
塩田や寺尾兄弟も細川の家臣だしね 重文三作品も捏造ってのはかなりの挑戦だね。自分だって文科省の庇護で飯食ってるのに >>314
遅レスだが武蔵は強いと評価(噂)されただけで
武士として評価が高かったわけではないと思います。
強いだけじゃなくて、文人との交流とか町割の技術なんかを持ってた所を見ると、やっぱり技術者、武芸者として評価されてたんじゃないの?
仕官してないし役人としては評価されてなさそうだけどw 役人になることと人物の出来不出来は直接イコールではない
武蔵ほどの有名人ならしがらみも多いだろうから、弟子や息子を推挙したんだろう フィクションで美化されすぎちゃって、希望的に武蔵はこうだからとされて可哀想な方でもあるな
>>365
講談・歌舞伎はともかくとして、二天一流の系譜や後世に残った武蔵の真作などまでフィクションとする人間が居るが
そういう意見は、はたして各分野の権威に太刀打ちできるのかな
五輪書は糸東流系の達士などが、大学の講義で教材に使う程の、広く認知された名著だ
上記の山本博文みたいな偉い学者なら上手い反論考えるんだろうが、それ以上に中身の無いバッシングが多すぎる 二天一流のは余りにズレが有り過ぎ
吉岡より巌流島が先だったり後だったり
武公伝と二天記ですら記述に違いがあって何を信じて良いやら 沼田家記の顛末みると、細川家に武蔵はこの時点で既に要人扱い
おやっさんのコネだかなんだか知らんが、ほとぼり冷めてから重用されるのに、違和感は感じないよな
ただ、一介の浪人から実力で大抜擢なんて印象ではない。パパ無二の人脈大活用の世故そうな印象にはなるが 。 素朴な疑問なんだが、武蔵の名乗りのうち、
”武蔵”ってのは”武蔵守”のことだよな?
上泉伊勢守とか柳生但馬守みたいな官職名乗りの。
そうすると、呼び名としては普通は「宮本玄信」になるんじゃないの?と思ったんだが。
上二人で言えば、「上泉信綱」「柳生宗矩」みたいに。
何で武蔵の場合、名乗りの方が一般化したんだろ。 武蔵守(むさしのかみ)じゃなくて、
字がそのまま武蔵(むさし/たけぞう)だからだろ。
江戸時代だと武蔵守は基本徳川家の独占。 六三四が武蔵になったって説はアレ、信憑性はあんのかねえ?
上泉伊勢守や柳生但馬守だって諱より流布されているじゃんお( ^ω^)
他にも松本備前、疋田豊後、丸目蔵人とか
それに塚原卜伝、伊藤一刀斎、富田勢源みたいに号の方が有名な人も非常に多いお
本来は通称、官職、号などを使うのが普通なのだから諱を使う方が異質なのだお( ^ω^)
軍記など伝記の類いでもそれらの呼称で記されるのが殆どだから
これらが一般に流布されるのは自然な成り行きだお( ^ω^) >>373
五輪書でも「宮本武蔵守藤原玄信」って書いてるんだから、武蔵が字ってことはないんじゃね。
牢人が自称する程度なら放っとかれてたんじゃないか。
そういえば武蔵の幼名は弁之助だけど、
大人になってからも字はそのままだったのかね。 >>375
その論法で行くなら
武蔵は宮本武蔵じゃなくて、宮本二天とかでメジャーになるはずじゃないの?
つーか俺は「武蔵」が流行った事よりも、なんで新免じゃなくて宮本がメジャーになったか、の方が気になるねえ 下がりすぎてるのでage
>>377
語呂がいいというのもあると思うけど、もしかしたら晩年かあるいは死んだ後は、宮本伊織の養父という意味で有名だったかもよ。
というか伊織からしてすでに宮本だし、新免は武蔵のフォーマルな名称ではあっても、普段は宮本で通していたのかもしれない。
あと上の方で武蔵が巌流島の決闘の時に30前だとか言ってる人がいるけど、それはかなり後代の二天記とかあたりの話で、それ以前では17とか19とかになってる。
時期的に早いほうが正確である、とは限らないけど、案外と若い頃の決闘だったのかもしれない。 武蔵は、間違いなく自己愛性人格障害者だよ
http://f17.aaa.livedoor.jp/~etsubu/npd.html
親父や同僚がこのタイプだからよく分かる
自分でも理由がよくわからないが、サイキョー流ってイメージがある 宮本武蔵のドラマでいつのものか思い出せず困っています。
覚えている内容ですが
武蔵が宍戸ばいけんに挑みに行った時のシーン。
仲良く一緒に酒を飲み交わした相手がばいけんだと知り
眠っているばいけんを斬りつけられず、
喉元に布を巻いた鎌をおいて去る、、こんな感じでした。
これは誰の演じた武蔵ドラマだったか覚えている人いますか? 強かったとは思うけどねえ
宣伝が過ぎて胡散臭いから逆に評価下げてる気が >>383
でもそれ本人の責任じゃないからなあ
小野さんと同じで、柳生や武蔵がらみで信ぴょう性の欠片もないような武勇伝が流布されてるけど、流したのって本人じゃなくて弟子だろうし なんだ
武蔵って卑怯者だったのか・・・
そりゃ、強くて卑怯者なら負けはしないだろうな 1000人の宮本武蔵と10000人の戦国軍隊が戦ったらどっちが勝つかな?! >>385
近年の大河ドラマなんかも同じことがいえるけれど
過去の偉人を持ち上げるための捏造エピソードって
なんで本人を貶める結果にしかならんのだろうな >>388
武蔵の場合、歌舞伎を皮切りに講談師がある事ない事広めまくったからな
飛んだ蠅をハシで掴むとか、有名だけど出典が解らんエピソードも多いぞ 高名な武芸者に無学文盲なものが多い中で、五輪の書を記した武蔵は偉い。 >>391
鉄砲隊で警護して、お父さまのトコまで送って貰える坊っちゃんが、文盲のはずないわな >>389
箸で蝿をとらえるのは斬殺者には二天記、それと武公伝が元だとあるが…確認が面倒なので、本当かどうかはしらん。
>>392
それは沼田家記のアレか。
ひく島で決闘したことになってるってアレな。
断言はできんが、どうにもそこら捏造くさいな。 >>219
大分遅いレスだが、宮本無二之助の伝書の記述は新当流の技の名前っぽいの載ってるようなこと武芸流派大事典にあったと思う。
だから新免無二が香取神道流の関係というのは近いかもしれん。新当流とは違うが、地理的に関連はあるだろう…
ただ、面倒くさいことに武蔵の弟子の塩田松斎が熊本で当理流の創始者であるという伝があるんだ。こんちくしょう。
さらに宮本無二之助の伝書は日付などの問題からどうにも偽書くさいし、その年代に松斎が細川家で指導していた可能性がある。
無二は武蔵が新免家を継ぐ前に死んでいたというのが正しいのならば無二之助の伝書は偽造品ということになるし。
「無駄な努力はするな」
と言ったらしいですけど
だれか詳細知らない?
そういうの言ってるのかな。
五輪書は一貫して正しい理にそった稽古しろみたいなこと書いてたように記憶しているが、細かいところは忘れた。
「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」とも書いてるのは確かなので、とりあえず日々の努力鍛錬は否定していなかったと思う。
あといちいち工夫すべしとか書いてたかな。
つまり……
正しい理論でちゃんと鍛錬を重ねるようにしよう。あと自分でも考えるように。
が武蔵の主張なんじゃないかとうろ覚えな記憶でまとめていってみる。 「鍛錬すべきなり」というような記述は何箇所あるんだかというくらいあるけど。
『五輪書』なんて入手が容易なんだから自分で見たほうが納得できると思う。 又聞きの情報で鍛錬を否定していると思われちゃ武蔵もたまらんだろうな。
なんで自分で読まないんだろう? 武蔵はあっちこっちの小説やらの題材にされるので、うっかりそれが有名になると事実無根の創作が広まることになって、
それが前提で話を進められることがよくある。
例えば二天一流などの武蔵の流派は後継者がいないだの広まらなかっただのという話がよくあるけど、ここらは司馬遼太郎あたりのいいがかり。
実際は江戸初期はかなり広まっていたし、明治あたりまで結構使い手はいた。
現代は伝える人も減ったけど、幕末でもっとも広まった直心影流の零落ぶりを考えると、かなり残ってる部類に入る。 直心は三大(四大)道場にも数えられないし、
幕末でもっとも広まった流派ではないでしょ。 三大道場って呼び方は幕末には呼ばれてないみたいね。
wikiると松崎浪四郎が自分が対戦した相手で強かった人間を並べて評したのが元らしい。
これもフィクションが拡大、変容、解釈された結果かもしれんね。
幕末の剣豪の中でももっとも評価された人物として直心影の男谷もいて、この人は講武所の師範まで務めた。
直心影流はむちゃくちゃ広まってた。
剣道形の型なんかも何度か改変されているんだが、
ttp://www.geocities.co.jp/Athlete-Athene/8236/isingonokendo.htm
これを見ると明治44年〜大正元年制定大日本剣道形の制定委員の二十人の内、五人を直心影流の人間が占めている。
ちなみに剣道形の一番最初のは制定をしている内の一人が、三橋鑑一郎という武蔵流で範士号をもらっていたという名人だね。
この当時は範士号はかなりの人間しかもらえないので、幕末から明治期にも武蔵流で強い人間がいたという傍証にはなる。 そもそも三大道場って「江戸三大道場」だったみたいなー。 幕末に最も広まったかは知らんが大正時代に入っても直心影流は多いな。
武道家名鑑を見た感じ北辰一刀流、神道無念流に次ぐくらいの数はいる。 >>401
それにしても幕末でもっともって言葉が好きなんだなw
直心の人? >>404
いや、剣術はやってないw
ちょっと強調しすぎたきらいがあるので反省するわ。
武蔵流の話にすっけど、派によっては竹刀剣術への改変もあったりするし、割とあとの時代まで残ってたみたいな。
九州だけではなくて北陸や関西、愛知あたりにもあった。
江戸後期だったと思うが、江戸でいっぱい試合して、各流派の特徴とか書き残してた人の文章があったが、そのなかにも武蔵流系統の名前はあったと思う。
武蔵一代限りの流派ではなかった、というまあそれだけのことを言いたいだけだが。 >>405
こちらこそあらぬ疑いをかけたなw
ところで秋田に武蔵丸二刀流ってのがあるんだがこれも宮本武蔵の流儀でいいのかい? >>406
武芸流派大事典によれば、祖は秋田藩士、小野崎造酒。
遠祖を丸目蔵人とし、上泉武蔵守の武蔵と丸目の丸をとって流名とした(日本武術流名録)。
二刀流とはいっても、根本は一刀を用いる。
ちょい略したが、こうある。
上泉武蔵守からとって武蔵流だと、武蔵全然関係ないのに二刀を使うのは面妖だが、流祖の小野崎が上泉武蔵守と新免武蔵守とをごっちゃにしてたのかもしれん。
あるいは新陰からでた二刀技法がもとなのか…は見てないのでよくわからない。
武蔵流関係の技法が混入している可能性もあるかもしれんが、実際にやってる人の映像とか伝書みないとなんともいえない。
こんな感じでいい? ありがとう。そこで丸目の名が出てくるとは思わなかった。
現在の熊本に普及した流儀という点では武蔵流と丸目の流儀ってのは接点があるね。
ただ、タイ捨流自体に二刀があるらしい。
http://www.yamame.co.jp/sympo2-3.html
>山北 タイ捨流は、二刀を使いよる。二刀の巻き物があります。宮本武蔵は
左に小刀を持って右に長刀。タイ捨流の場合は、右が短剣で左が長刀。たとえば、
右手と左手に筆を持って書いた場合、同じ字画で同じ名前が書けるかというと絶対書けない。
どういう達人でも、書道の何十段である人でも絶対書けない。二刀といえども一刀の心に
到達するんでないと駄目です。そういう心に到達するには、一つは投げ剣にある。
投げ剣でパッとやり、受けるときに持ち替えて長刀で切る。心と仏教は一致しなければならない。
生きる法則。それをキツエン一刀の心といいます。
あと、宮本武蔵から出たという二刀神影流ってのもあるんだよな。
宮本武蔵かと思えば上泉武蔵守が出てきたり、新陰系統かと思えば流祖が武蔵だったり
正直よくわからんw
二刀神影流鎖鎌術
http://www.nihonkobudokyoukai.org/martialarts/077/ >>408
二刀技法そのものは古くからあるしね。
武蔵も刀は片手で使うものといってるから、もう片方の手にいろいろと持つ戦闘法は過去にあったのかもしれない。
宮本無二之助伝書はシントウ流系だし、武蔵流の用語もそっちの流れらしい。
天真正伝香取神道流にも二刀のかたはあったはず。
>二刀神影流鎖鎌術
それは大正の頃に作られた流派で…坂本土佐海氏の随筆にもその流派作った人のこと言及があったような…悪口ではなかったけど。
武蔵を義経由来の流派の末裔とする流派もあるし、武蔵くらいの有名人になるとほとんど戸川白雲斎とかみたいな伝説上の人物と一緒で、仮託の対象にされてたみたいね。
とりあえず武術の流祖伝説は明確に資料がある場合はともかく、ほぼ話半分で聞いといたほうがいいよw 二刀神影流は創作かw
脈絡の無さが面白いのに残念だ。
>宮本無二之助伝書はシントウ流系だし、武蔵流の用語もそっちの流れらしい。
天真正伝香取神道流にも二刀のかたはあったはず。
現状の香取神道流にも二刀は残ってるけど、武蔵誕生百年前に
新当流の二刀伝書があるというからね。
http://www.yukan-daily.co.jp/news.php?id=14245
>今回、大きな発見の一つが盛嶽(もりたけ)文書という。佐伯市内の民家の古い仏壇に保管されていたこの文書は、
文明16(1484)年の兵法書「新当流両部乱之太刀口伝」。刀を2本持った人の絵が描かれていることから、
二刀流の書という。 残念ながら創作なんだw
いや、もしかしてみんなが創作いってるだけで実は神免派の影響があったりなかったりしていろいろと痕跡があるとかするかもしれんw
>新当流両部乱之太刀口伝
ほう。こいつは面白い。
新免無二が死んだのは伊織の奉納した泊神社の額によると天正年間で筑前の秋月城なんだな。
無二はこの後も生きてたじゃないかという反論は多いんだが、伊織の頃にはそういう伝があったのは確かだろう。
つまり無二は筑前ゆかりの武芸者で、偽造臭いが宮本無二之助の伝書はシントウ流系で武蔵流もそれっぽく、その無二が縁のある筑前の近隣で新当流二刀使いの人間が天正の頃までいた、と。
もしかしたら、可能性だけだけど、ここらが武蔵流のルーツかもしれんねー。 鳥取の武蔵流のように、武蔵にあやかって名前を付けた流派もあるから、
一見しただけじゃ武蔵ゆかりかわからんというのがややこしい所だな 卜伝流の中にもどう見ても卜伝の新当流とは関係なさそうな流派もあるそうだからな。
伊織伝二天一流なんかも、小さん師匠も継承していたって流派だが江戸後期になって突然でてきた流派で怪しい。
二刀遣いは古くからあるし、あるいは武蔵流の末流が伊織に伝承されていたと詐称したのかもしれないが。 あまり柔術と縁がなさそうなのに卜伝を開祖とする柔術もあったりするからな。
昔の神道流は総合武術であったから柔も達人だろうという発想かな。 柔術といえば二天一流柔術ってのも存在した、らしい。
古橋惣左衛門が伝授をうけたというが、伝書の一部が残るだけだという。
武蔵の他の弟子の塩田も小具足が使えたというから、武蔵の体術ってのはあったんだろうけど。 十手と柔は親和性があるから当理流時代からあったかもね。 当理流が武蔵の父の流派であるかどうかはまだ微妙だけどな。
宮本無二之助=新免無二については異論も多い。 明治まで伝わっていた塩田流の建てた石塔には、塩田松斎が武蔵に入門して宮本無二斎の流派を学んでのち、一度破門されてから後に武蔵に許され、天下無双当理流手縛の祖となった、とあるそうだ。
面倒くせえ伝承だぜ。 >>417
だが、宮本武蔵が受けた大名家の厚遇ぶりを見ると、そこそこ良い家柄の人間で有ると考えた方が論に根拠を持たすには都合が良い
必然的に当理流開祖と結び付ける傾向になるのだろう >>419
単純に技術者、芸術家としての厚遇って考えてもいいんじゃないか?
明石時代の武蔵は作庭を随分としているようだし。
林羅山らと直接に関係があったんじゃないかって説もあるし。
そこらのコネクションとかあったんじゃないかな。
あるいは水野勝成の配下で武者奉行だった中川志摩之助の子供たちを養子にもらっているが、
これは水野勝成が大阪冬の陣に武蔵が参戦していて、それが縁だという話もある。
この頃の武蔵が宮本を名乗っていたのかは不明なので後世の混入の可能性は高いけど、
水野家と何か武蔵は関係があったのかもしれん。例えば放浪時代とかで。ちょっと年代あわないけど。
あと宮本無二之助は武蔵との年齢差は13歳…養子にとるのには少し歳の差が少ないかもしれず。 大阪の陣の宮本武蔵は、所謂俺らが武蔵と呼ぶ宮本武蔵の事でいいんじゃないの?
大坂御陳御人数附覚に、そのままズバリ「宮本武蔵」で載ってるし
よく宮本武蔵複数人説というのがあって、この武蔵は新免武蔵とは別の武蔵だと言う奴が言うけど
この武蔵は作州様附の十人の一人、嫡男勝俊の親衛隊であり、とすれば、道明寺と天王山で大暴れした部隊の一員で、しかも最前線に居たという事になる
もしこの宮本武蔵が二天一流の武蔵じゃないのなら、この時活躍した筈の宮本武蔵は一体どこ行っちゃったんだ? という話になる。水野家家臣として何かしらの記録が残る筈
妙政寺に武蔵が勝俊に寄進したという石灯籠があるが、ともあれ、武蔵と水野家は縁深い。この宮本武蔵=新免武蔵と素直に結論付けて問題あるまいよ
絵画や書家の武蔵を「二人の武蔵」とする説もそうだが、それぞれの分野に全く別人の宮本武蔵と名乗る人物が居て、それぞれそれなりに著名で、しかもそういうケースが複数ある、という方が逆に不自然だろう
わざわざ別人の同姓同名、というより同一人物と考えた方がよほどしっくりくる。
少なくとも水野隊の武蔵に関して言うなら、ドンピシャの宮本武蔵という名を持った同姓同名の別人、とわざわざ考えなければならない必然性が無い。
伊織からして宮本だから、新免武蔵が宮本武蔵と名乗っていた事は確実だしな。
まあ現存する大坂御陳御人数附覚が写本だから、確かに後世の人間が付けたした可能性も無くは無いが
宮本小兵衛が武蔵の養子になった経緯から考えても、水野隊に属していたのは、所謂宮本武蔵と考えるのが妥当だろう
>>421
武蔵が宮本を名乗ったのがいつ頃からかはっきりしないからな。
大坂御陳御人数附覚の原本には新免武蔵と書いてあったのを、後の人が宮本武蔵のことだろうと書き直した可能性はある。
というか、新免武蔵守藤原玄信は宮本武蔵の正式な名乗りだよ。まあ武蔵守は勝手に名乗ってたみたいだけど。
どちらにしても水野家と何かの関係があったんだろうけど、武蔵がどうしてそんな関係をもてたのかというのはよくわからない。
あと宮本小兵衛は武蔵の養子三木之助の甥。
三木之助の弟の九郎太郎…二代目宮本三木之助の息子に当たる。
武蔵複数人数説は綿谷雪氏が提唱していた説だけど、現在ではさすがに真に受けてる人はいない。
後世の伝書やらで捏造されているのを間に受けているんだろう。
ただ考証武芸者列伝で名前が列挙されてたけど、十六人とか多すぎるわなw
ここまで多いと逆に複数いたと考えたくなっても仕方ないだろうなー。 大坂御陳御人数附覚の出典は確か小場家文書で、書いたのは恐らく小場家の人間なのだろう
あえて縁も所縁も無い武蔵の名を意図的に付けたすとは思えない。武蔵が大坂の陣に参加したのは事実であったとみていい
黄耈雑録では丁度、「水野日向守が手に付き」として、道明寺合戦で何人もの敵をなぎ倒す武蔵が出てくるが、
それはともかくとして、武蔵が水野家に肩入れし、寵愛を受けていた事は広く知れていたであろう事がうかがい知れる
齢二十九までに六十余度の勝負を経て、勝ちを得ざる事なし、という定説に則るとすると、大坂の陣の時点では既に有名であったという事になる
勝重に招かれて兵法指南でもしていた縁だったのか、水野家家中に門弟でも居たんじゃなかろうか。後に入り浸る本多、小笠原、細川と同じような感じだとは思う どっちにしても武蔵が大坂の陣前後の頃から高名で活躍していた剣豪だってのは確かみたいだな。
仕官できなかったみたいなことは小説とかでよく書かれているけど、しなかったってのが正解だろう。
どっかの家に三百、五百石で召し抱えられるよりは、複数の家に影響がありながらも一人身の方が気楽なんじゃないか。
晩年の細川家で三白石もらってたのも、滞在費として小遣いもらってた感じだったらしい。
細川家に招かれたというのは俗説で、弟子のいる熊本に湯治にきていついたみたいなのが伊織の書簡などに書いてるそうだ。
まあ考えてみたら、高名な兵法者がどうこうの前に、当時の感覚としては小笠原家筆頭家老の養父がきているんだから、それなりの待遇でもてなすのが当然なわけだが。 >>424
正確に言えば、細川忠利に山鹿の温泉に招かれた
細川奉書に、足利道鑑と共に山鹿のお茶屋に招待された事が日付入りで載っている
とりあえず、「宮本武蔵って知ってる?」って人に聞けば、「ああ、あの剣豪の」と返って来るくらいには世間に認知されていたのだろう 全く関係の無い流派が「宮本武蔵源流」を名乗っていたり
吉岡伝や村上吉之丞の逸話で、全く経歴も風体も違う人間に宮本武蔵という名前を付けて、そいつが負けたとか逃げたとか言っているケースがある
それを挙げて鬼の首を取ったように「弟子たちの伝記と違うじゃないか、武蔵は捏造ばかり」と言う輩がいるが
そりゃ他の人間が武蔵の剣名にあやかっていただけで、武蔵本人の責任じゃないよな
大体そういう論者は、武蔵伝記を疑う発想はあるのに、武蔵を否定する所までで思考が止まってしまって、それらの信憑性に言及する事が無いのが残念
そもそも、武蔵研究者だって今更、二天記中の奥蔵院や氏井弥四郎の立ち会いが本当にあったなんて思ってる人間はいない
基本的に傍証出来るものしか信頼に足る、とされていない。そのくらいには武蔵研究は進んでいる
武蔵は情報が無闇に多すぎてどれが本当か、あるいはどの程度まで本当なのかがよくわからん。
それだけ高名であったというか、ネタに使いやすい人物だったんだろうけど。
しかしよく考えれば、その理由は小倉碑文のおかげじゃないかっておもわなくもない。
兵法者の業績を分かりやすく碑文にして顕彰するとか、あまりないから。
どうも名物みたいに結構紹介されてたようにも聞いたぞ。 小倉碑文はよく身内評価だと言われるが、伊織は大名家の家老でちゃんとした身分の人だから、下手な事は書けない
だからむしろ信憑性が高いという見地もある
まあ武蔵の事績はいおりがいたから残ったともいえるね
伊織は武蔵とは別に鵜の真似とかで神格化して取り上げられるくらいに当時知名度あったしね。
播磨ではそこそこの家柄だったとはいえ、忠真の近習として召しだされて、最終的に四千石を超える小笠原家筆頭家老だし。
考えるとものすごい出世だ。
小倉碑文は身びいきの誇張とかが多くて信用できないっていう人もいるが、そもそも顕彰碑なんだから内容の誇張は当たり前ではあるな。
そもそもそれ言い出したら、筆者の主観が介入しない書き物なんてありえないからね
何も参考にしないで勝手に書いたのか、事実に則って書いたのかの違いはあるが
碑文が建ったのが武蔵没後十年以内だから、当時を知っている人もいただろうし、伊織も全くのデタラメや試合結果の捏造は書きにくかったんじゃないかなー
ともあれ、伊織が「公人」であるという事が、信憑性の確かさにつながっているよね 武蔵作州出身説の人間は伊織はうそつきとか間違いが多いってことになってるらしいけどなw
泊神社の奉納額で新免無二が天正年間に死んでることになってるとか。
新免を神免にしているとか。
いずれ言いがかりレベルだけど。 訂正。武蔵作州出身説の人間の間では、伊織はうそつきとか間違いが多くて信用ができないってことになってる、だった。
推敲しないと文章おかしくなるな。
新免無二が天正年間に死んだことになってるのに、宮本無二之助や新免無二斎などは慶長年間に伝書だしたり巌流島の決闘のエピソードに名前が出るのは確かなので、ここらはどう考えるのかはちょっと問題だったりする。 「朝鍛夕錬」を五輪の書でも強調してるから
生涯を通じて相当修行していたことは間違いない。 うちの剣道の師匠七段にもし武蔵と殺りあったら勝てます?
って聞いたら勝てないだろうね
だってさ 剣道は剣術から遠ざかって全く別物のスポーツになってるからね。 そら剣に命をかけたことがない奴が
弱ければ死ぬという世界で生きてきた奴に勝てるわけがない
プロの殺し屋と素人がやってどっちが勝つか?つー話だろ それに武蔵は身長182センチ以上で頑強な肉体で
片手で軽々と刀を振り回せる怪力の持ち主。
当時でもバケモノ的存在だっただろう。 人を殺したこともない自衛隊員チームと人を殺めたこともあるヤクザ屋さんチームに
鉄砲や銃剣を持たせて本気で殺し合いをさせれば、自衛隊員チームが勝つだろう。 『剣に命をかけたことがない奴』が剣道七段取れるわけがあるかww 剣道七段はその道ではほとんど最高位、八段は特別な試験を経て取得(昔NHKで特集で観たことがある)
「一の太刀」のような必殺の一撃を繰り出せるかどうかがその判定方法なんだそうだが、
おもしろかったよ
・・・・剣道七段、で横道にそれてしまった。 >>291
訓練が大事としか書いてないよマジで
剣が異常に長いのは意味ないっていうのは小次郎のこといってるのかと思ってワクワクしたりした 伊織が嘘つきというより、伊織は武蔵のことを正確に知らなかったと考えたほうがよい。 吉岡家断絶がウソなので碑文の細部が皆インチキに見える。