沼田家記のみで考えると、細川藩の門司城に逃げ込んだのも不思議。鉄砲隊でガチ警護して、豊後の新免無二のところまで送ったって厚遇も不思議。

しかし無二がこの頃、細川忠興の義弟・木下延俊(豊後・日出城主)を指南していたのは延俊の「慶長十八年日記」で明確なので
これを加味すると細川家と新免(宮本)家がこの時代、既に繋がりを持っており、この厚遇も、後年の細川の厚遇にもあまり違和感を感じない。

吉川武蔵なんて昭和のフィクションはともかく、様々な史料上、巌流は確実に武蔵より年上の熟練武芸者だから
武蔵は阿呆だったのではなく、生き残るため必死に策したのではないかな。強者との戦いで生き残るためならば、どんな策も卑怯だとは思わない。
結果的に武蔵も豊前を離れる事になって、兵法指南もできなくなったわけだが、ともかく生き残ったわけだし。

五輪書には巌流島の話はまるで書かれていないことからも、巌流島は武蔵自身の心中では黒歴史だったのかもしれない。