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【木刀】宮本武蔵を語る【サイコー!】

0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/16(金) 21:54:41ID:gKVvU8HE
語りましょう!
0316人間七七四年
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2010/04/30(金) 01:38:09ID:6TmtDzaL
>>314
武士は今で言う政治家、公務員で、
武芸者は文化人やアスリートに近いからな。
まあ当時は軍人の側面も入ってくるが、確かに武士と武芸者を混同してる奴は多い
0317人間七七四年
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2010/04/30(金) 02:19:28ID:JD6sqKrk
実際の武蔵は大した人物ではない、とか言われてる部分って、
ほとんど「武士としての武蔵」についての話なんだよな。
そりゃ仕官自体してないんだから評価が高いわけないだろ。
そんな評価の仕方をする方が筋違い。
そっちの方向で話がしたけりゃ柳生宗矩一人で十分だろ。
無理に武蔵を引き出すこともない。

武蔵はあくまで「武芸者」として評価される人物だと思うんだがな。
0318人間七七四年
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2010/04/30(金) 22:57:01ID:tLJTmFcv
武芸者としてなら一刀斎の方が武蔵より格上
0319人間七七四年
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2010/05/01(土) 03:50:04ID:otAYhVu8
>>315
門外漢からの評価が高いというのはどう評価すべきなんだろうな
一流文化人士も認める才気を持った人物であった事の証明であることには疑いの余地は無いが
武蔵は家柄は決して悪くない。このスレではわざわざ述べるまでも無いのだろうけど、基本的にその辺の腕っ節自慢とはそもそも訳が違う
そのあたりも名士として広く認知されていた理由かもしれん。どこの馬の骨ともしれない出自ならあちこちの大名とあんなにたくさんのパイプは作れまい
林羅山、烏丸光広も、その分野では知る人ぞ知る同時代の権威だ。
0320人間七七四年
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2010/05/04(火) 13:17:03ID:gYYq+Tof
しかし、武蔵って人はつくづく、芸能の人だったんだと思うよ
文武両道の文化人はいないわけじゃないが、
剣士として一大流派を形成する人間でありながら、今日まで世界中で講読される著書を書いて、残した絵が何点も国宝級の物として保管されているって言うのは
ちょっといないよね。
逆にいえばその気質が官には向かなかったのかもしれないが
0321人間七七四年
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2010/05/05(水) 04:04:16ID:ctvZee9+
今上野の東京国立博物館でやってる「細川家の至宝」展に沼田家記と鵜図の現物が展示されてた。
0323人間七七四年
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2010/05/05(水) 15:07:22ID:ctvZee9+
>>322
昨日みてきた。利休由来の茶器と信長の直筆見る気で行ったから、不意打ちをくらった。

鵜図は一気に描いている感じはある。絵師の下でかなり修練つまないと描けない感じ。
姫路にいた頃に習ったのかな。

沼田家記はかなり保存状態が良くて、数百年経過したものとは思えない。
藩の公式文書とはこういうものかと。

小次郎と武蔵の間には一対一という約定がまずあったのに
武蔵は数人弟子を連れてきて島に潜ませていたという記述があった。

そもそも当時の巌流島なんて砂州みたいなもんで数人来てたらバレバレ。
心理的動揺を誘ったんだろうなーと。
こういう騙まし討ち行為を非難する向きはあるけど、
対吉岡戦でも仮病使って清十郎ぶったおしてるって伝記もあるし
「むかつかす」「おびやかす」「うろめかす」のは武蔵のポリシーでもあるからね。

小次郎の弟子達に追われて武蔵が逃げ込んだのが門司城だったというだけで
門司城代は巌流島には来ていなかったようだよ。

立会人もいないし、島に小次郎側は本人しか来ていなかったわけで
沼田延元jは当然ながら、武蔵側にしか事情を聞けない。
実質、戦いの内容については武蔵側の主張しか残りようがないという所でしょうね。
0324人間七七四年
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2010/05/05(水) 19:00:52ID:6fHMCYTc
>>323
スゲー
しかし、小次郎の弟子が巌流島、当時の舟島だが、に来ていなかったとすると、一体どっから出てきて武蔵に襲いかかったんだろうな?
武蔵も武蔵で、本当に立会人が誰もいないのなら弟子を連れていった話なんて言わなきゃわからなかっただろうに
色々と不可解な話だ
0325人間七七四年
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2010/05/05(水) 23:59:55ID:ctvZee9+
>>324

そもそも立会人がいたなら、武蔵側が約束を違えて弟子を何人も潜ませていた件を問題視しないわけがない。

>一体どっから出てきて武蔵に襲いかかったんだろうな?
沼田家記によれば、殺されたことが伝わって、小次郎の弟子達が、復讐のために島に大勢船で渡ってきたんで、武蔵は九州側に逃げ出したそうです。
下関の彦島に弟子待という地名があって、そこに小次郎の弟子達が集まっていたという伝説も残っているんで、そっちから渡ったのかもしれん。

巌流島は九州側からも、本州側からも、岸から数百メートル程度しか離れてない。
0326人間七七四年
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2010/05/06(木) 00:12:49ID:Morzjt9i
>>324
>言わなきゃわからなかっただろうに

そもそも武蔵はそれも兵法の一貫と考えていたんじゃないかな。
勝つ為にならなんでもするのが彼だから、
0327人間七七四年
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2010/05/06(木) 02:07:32ID:hGPhvNNS
>武蔵側が約束を違えて弟子を何人も潜ませていた件を問題視しないわけがない。
>武蔵も武蔵で、本当に立会人が誰もいないのなら弟子を連れていった話なんて言わなきゃわからなかっただろうに

岸から数百メートル程度しか離れてないただの砂州なら、約条を違えば見物客にも一目瞭然
それが見咎められないわけがない
武蔵も武蔵で、自分から不利になるような事を自ら言ったと考えるのは極めて不自然
そもそもなんで一度立ち合いで小次郎を昏倒させているのに後から弟子が出てくる?

この辺の不自然さから出てきたのが暗殺説だよな
>勝つ為にならなんでもするのが彼だから
それはあくまでも後世で創られたイメージ
確かに武蔵は「勝つために最大限の努力をすべし」と言ってるが、
同時に「命は捨てても名は惜しめ(身を捨てても名利は捨てず)」とも言ってる。
0328人間七七四年
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2010/05/06(木) 02:09:28ID:hGPhvNNS
まあとはいえ、実際にはわからないけどな
船頭は二人の決闘を近くで見てたんじゃないか?
0329人間七七四年
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2010/05/06(木) 03:24:06ID:Morzjt9i
>約条を違えば見物客にも一目瞭然それが見咎められないわけがない

地元じゃ無論見物人にバレバレで言い伝えにもなってたらしい。
最後の一行は小倉碑文のことだね。

古川吉松軒  西遊雑記 1726年

 岩龍島はもと舟島といひしを宮本武蔵の介と佐々木岩龍武藝の論をし
 此しまにおゐてしあひをし、岩龍宮本が為に打殺さる
 ゆかりの者有りて墓を建しよりあらため名づけしと云。

 赤間ヶ関にて土人の云ひ傳へを聞しに板本に記せしとは大に異なり

 岩龍武蔵の介と約をなし、伊崎より小舟をかもしてふなしまへ渡らんとせし時
 浦のものとも岩龍をとゝめ武蔵の助門人を数多引具し先達て渡れり。
 大勢に手なしといふ事有り一人にて叶ふまじ、今日はひらに御無用なりといふ。
 岩龍が曰士は言さはまず、かたく約せしなれば、今日渡らさるは士の耻るところ也
 若し大せいにて我を討は耻辱はかれにぞあるべけれといふておして島に渡る
 はたして門人の士四人與力して終に岩龍討る
 初止めし浦人岩龍が義心にかんし墳墓を築しよりかくは稱することゝなれり

 虚實は知らざれども土人の物語のまゝを記して後の考へとす、
 或人また宮本の子孫小倉の家中に在り、武蔵の介墓もありて、岩龍島に相對せりと云。
0330人間七七四年
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2010/05/06(木) 14:54:32ID:dRZElJlF
結局、資料がどこまで信用できるか、という大前提に帰る。
それと
>>見物人にバレバレ
であることは武蔵だって百も承知であったはずなのに、本当にそんなあからさまな手を使う阿呆だったのか、
また、その仮定であれば明らかに正道に反していた行為をしながら、その後の社会的地位を失わず、よりによって渦中の細川の厚遇を受けていること。
議論の余地があると思う。
俺個人としては、武蔵を全肯定するつもりもないし、武蔵が正々堂々戦ったかは記述から疑問の残るところだが、
逆に武蔵卑怯者説も、全くのデタラメ、とは言わないが、所詮、異説珍説の類を出るものではないと思う。
特に地元の民間伝承なんて、殆ど信用に足る史料じゃないし。沼田家記はともかくな。
私見に過ぎんが、伊織の石碑のほうが身内びいきを差し引いても、藩の用心であった分だけ、根も葉もない噂の類よりはまだ信用に足るし、また武蔵死後直後であったということを考えても、あまり事実に剥離したことは書かなかったと思うが。
0331人間七七四年
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2010/05/06(木) 21:10:13ID:hGPhvNNS
小次郎の記録がもうちょっとわかってりゃ少しは変わったんだと思う。
俺は武蔵卑怯者説ってのは小次郎を憐れんだ人間の判官びいきが作った話の一つだと思ってるが
そういう話が伝わるって事はいずれにせよ、地元ではかなり人望のある、有名な兵法家だったんだろうな
0332人間七七四年
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2010/05/06(木) 22:14:23ID:Morzjt9i

それぞれの説の流れを見るとこんなかんじか

 巌流島史実=>試合見物=>巷間地元伝承=>古川吉松軒=>「西遊雑記」
         =>武蔵=>直後事情説明=>沼田延元=>「沼田家記」
              =>後年伝聞=>宮本伊織=>「小倉碑文」
 
 「小倉碑文」=>黒田藩・二天一流=>丹治峯均=>「丹治峯均筆記」(慶長8年・武蔵19歳説)
         =>松井家・二天一流=>豊田正脩=>「武公伝」=>豊田景英=>「二天記」(慶長18年・武蔵29歳説)

 「二天記」=>吉川英治=>「宮本武蔵」=>現在の本流

小倉碑文が作られたのは試合後50年〜60年経過したあたり。
巌流島当時、宮本伊織は生まれてないので、碑文の内容は親の武勇伝を十数年後口伝で聞いた感。
沼田延元は武蔵の処遇のために直後事情を聞いている。
個人的には沼田家記のほうが信頼に足るように感じる。
0333人間七七四年
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2010/05/06(木) 22:30:27ID:Morzjt9i
沼田家記のみで考えると、細川藩の門司城に逃げ込んだのも不思議。鉄砲隊でガチ警護して、豊後の新免無二のところまで送ったって厚遇も不思議。

しかし無二がこの頃、細川忠興の義弟・木下延俊(豊後・日出城主)を指南していたのは延俊の「慶長十八年日記」で明確なので
これを加味すると細川家と新免(宮本)家がこの時代、既に繋がりを持っており、この厚遇も、後年の細川の厚遇にもあまり違和感を感じない。

吉川武蔵なんて昭和のフィクションはともかく、様々な史料上、巌流は確実に武蔵より年上の熟練武芸者だから
武蔵は阿呆だったのではなく、生き残るため必死に策したのではないかな。強者との戦いで生き残るためならば、どんな策も卑怯だとは思わない。
結果的に武蔵も豊前を離れる事になって、兵法指南もできなくなったわけだが、ともかく生き残ったわけだし。

五輪書には巌流島の話はまるで書かれていないことからも、巌流島は武蔵自身の心中では黒歴史だったのかもしれない。
0334人間七七四年
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2010/05/07(金) 00:11:38ID:iqqQS4Xp
>>333
武蔵だってこの時には弟子を抱える一端の武芸者だったんだぜ。沼田家記を信じるなら、だが
円明流を称した前か後かは明確にはわからんにせよ、武蔵も30近い。充実著しい時期だ。
約条を違えた上、大勢で袋叩き、なんて形振り構わないにも程がある。策でも何でもない。
いくらなんでも、そんな横暴は通らんと思うが。仮にも藩ゆかりの兵法者同士の仕合だぞ。
そんなこじれた状況になるなら、普通は対戦自体を避けるだろう。無二に調停してもらうなりなんなり。
「双方の弟子ども兵法の勝劣を申立 武蔵小次郎兵法之仕相仕候に相究」
で、流派全体を巻き込んでそんな程度じゃ対戦を避けられないくらい事が大きくなってしまったというのなら、なおさらそんな無理矢理な手は使えなかったと思うがな。
五輪書には有馬と秋山以外には書かれていないから、これを持って巌流島だけ特別とすることも出来んだろ。

講談や創作はともかくとして、お互いの武蔵像にも隔たりがあるだろうから何とも言えないが、いずれにしても、かなり性急な説だとは思うぜ。
まあ新しい史料が出ない以上、推測の域を出ないがな。
0335人間七七四年
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2010/05/07(金) 15:53:34ID:Ip61LC9b
>有馬と秋山以外には書かれていないから

吉川戦って書かれていなかったっけ。「21で京都へ上り、天下の兵法者と勝負した」とか。
巌流島が丹治峯均筆記説、19の頃の話だったらスルーされてるね。
二天記説、29の頃の話なら巌流が「諸流の兵法者」の1人にあたるのか。
0336人間七七四年
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2010/05/14(金) 11:03:42ID:yYP+F4HP
 
大久保利通暗殺の日は巌流島決闘の日

http://akiba.geocities.jp/pxzuwp/0203/31/200_1.html

これは偶然ではない、

佐賀の乱の首謀者江藤新平も、幕末の志士清河八郎も、

巌流島決闘の日に処刑された。

それだけではない、・・・・。
0338人間七七四年
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2010/05/21(金) 06:01:15ID:2TGnrB/E
第一小次郎が何者だったかがわからんとなぁ。
細川家が始末したい人物で、武蔵が弟子を潜ませるのに協力してた可能性だってあるわけで。
0339人間七七四年
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2010/05/25(火) 23:57:48ID:09TKYWJR
ところで、皆さんは東京国立博物館で達磨さんとにらめっこは済ませましたか?
6月6日が最終日ですが、日曜日の夕方に行って見たら結構空いていて、ゆっくり見れました。
0340人間七七四年
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2010/06/02(水) 20:31:20ID:AkJChxMv
刀って最低でも1kgはあるよな。
1.5リットルのペットボトルを片手で振り回すようなもんだ。
両手なら兎も角片手で
0341人間七七四年
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2010/06/02(水) 22:40:05ID:Qq4tJ7UI
まぁ握りの部分とか全体のバランスがあるからペットボトルと比べて
といわれても違うんだけどね
0342人間七七四年
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2010/06/03(木) 01:56:59ID:GjREZowT
模擬刀もってるけど、俺じゃ片手で振りまわしても多分物切れない。
相当力が無いと相手の剣を受けることも無理だろうな。
竹刀なら余裕なんだけどね。
0343人間七七四年
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2010/06/04(金) 22:42:53ID:NvW4QlYP
片手じゃ全然刀身安定しないもんな
0344人間七七四年
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2010/06/05(土) 14:46:40ID:UAeJMtz1
水墨画がとても好きだな。
あんまり評価を聞かないけど、世間はどんな評価なんだろうな?
0345人間七七四年
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2010/06/06(日) 22:08:14ID:WyYy21Sd
普通に高くね?
特に渡辺華山に評価されてからが高く、重文に指定されているものもいくつかある
0347人間七七四年
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2010/06/09(水) 00:10:03ID:CJI9Xgm8
>>343
片手斬りの多い鹿島新当流では前腕を柄に添えて
刀身を安定させるそうだ。
0348人間七七四年
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2010/06/10(木) 20:33:37ID:ik0wtGQ9
他の同時代の剣豪が実際には殆ど真剣勝負なんてやらなかった事を考えると、
吉岡一門とひと悶着起こしたり、兵法指南を斬り殺したりする武蔵ってかなりのキチガイだよな
巌流島以降真剣勝負をやらなくなったのは、公権力に咎められてお尋ねものになったからなのかも
0349人間七七四年
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2010/06/16(水) 10:37:49ID:elZHUZSe
刀が重いとか、片手では切れないとか剣術した事ないのに言っちゃう男の人って…

シナイの軽さと剣道のイメージがあるからか、刀は重いって良くいうけど、普通の刀は武器としては十分軽いし、刃筋は片手の方が通りやすい。両手の方がぶれやすいんだよ。大薙刀とや槍なんか刀なんかと比べ物にならんほど重いよ?でも槍や薙刀にも片手使いの技はあるよ。

素人考えで書くのって、一輪車みてあんな不安定なものに乗れるわけない、とか言ってるのと一緒だよ。人間の工夫や身体能力は鍛えたらかなりの事が出来るんだし。
0350人間七七四年
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2010/06/16(水) 10:42:11ID:elZHUZSe
>>348
講談や小説と事実を一緒にしちゃだめー
吉岡一門との勝負はあったとしても真剣使った勝負じゃないだろ。シナイかせいぜい木刀じゃね?
0351人間七七四年
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2010/06/16(水) 10:54:46ID:elZHUZSe
とりあえず両手だろうと刀と刀を直交させて受け止めるのはかなり鍔元じゃないと難しいからやってみ。

でヨウツベあたりで剣術流派の形を見て素人が想像するような、マンガや時代劇みたいな受け止め方してる流派あるか探してみるといいよ。
直交するような受け止め方はほとんど無いハズ。

二天一流の五方には受け止める動作なんか一つも無いし、五輪書の受け技も片手でできる攻撃か防御か判断しずらい技だよ。
相手の顔面を切っ先で突くように受ける、って書いてあるはず。この受け方だと、刀と刀の角度が小さくなるから、小さな力で相手の刀を反らす事になるよ。
0352人間七七四年
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2010/06/16(水) 17:49:17ID:PegVEAZV
>>350
は?
言われてる意味がよくわからないんだが、どこを講談や小説と一緒にしてるのか教えてくれないか?
巌流を殺したのは史料にあるし、吉岡と戦ったのは勝敗や顛末は不明だがほぼ間違いない。
>真剣じゃなくてシナイか木刀
それこそ推測にすぎねえな。それに重要なのはそんなところじゃないよ。他流試合を繰り返したのが問題だって事。
しかも巌流の場合、流派の宗家レベルが立ち会い、しかも相手を殺してしまっている。
問題になったのなんて、考える迄もないよ
巌流が細川の兵法指南だったのならなおさらだな
0353人間七七四年
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2010/06/16(水) 18:57:48ID:elZHUZSe
殺したって史料があるの?
そもそも武蔵自身は吉岡や巌流なんて名前は出してない。直近の文書にはなにも残ってないし、巌流も名前か流派かもわからない。

当時の社会状況を考えればわざわざ真剣で勝負よりシナイや木剣の可能性が高い。
武蔵より随分年上の疋田文五郎自身の武者修行での他流試合についての書き付けがあるけど、ほぼシナイか木剣での試合。吉岡一門がその後も普通に剣術家やってるのを見ても普通の試合だったんだろ。
で武蔵自身もシナイで小技早業ばかり求める事を戒めてるけど、逆に言えば当時既にシナイがかなり使われてたって事だよ
0354人間七七四年
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2010/06/16(水) 20:15:59ID:PegVEAZV
長い事書いてるけど
沼田家記や本朝武芸小伝くらい読めよ、このスレの上でも出てるし
経緯はどうあれ、巌流を名乗る小次郎と言う武芸者が、細川家の支配領内の小島で宮本武蔵に殺されたのはほぼ確実
小次郎の生存を伝える史料もない
0355人間七七四年
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2010/06/16(水) 20:18:33ID:PegVEAZV
巌流ってのは小次郎が称した流派ね
揚げ足取られたくないから一応
0356人間七七四年
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2010/06/16(水) 23:09:51ID:elZHUZSe
武芸小伝は1700年はじめの文献で武蔵死後六十年近くたってからの本だよ??
武蔵伝説の元ネタの一つ、1654年に宮本伊織が立てた小倉碑文だと、「兵法の達人、名は岩流」になってる。
小倉碑文だと殺した事になってるけど、兵法指南役とは書かれていない。
武蔵自身は岩流について何も書いてないしね。岩流が有名になったのは1700年代の歌舞伎の影響ってのが研究者の通説だよ。
佐々木姓も歌舞伎の創作だし。
吉岡家も清十郎に試合で重傷を負わせ、又七郎との試合では木刀を奪い打ち殺したと書かれてる。
吉岡とは真剣を使った勝負、とか岩流が真剣を使ったとかは書いてない。

沼田家記については、17世紀成立で小倉碑文よりは新しいけどそれなりに近い年代(武蔵死後三十年ちょっとらしいよね?)
まだ信じられるけど、これまた研究者から歴史的におかしいと疑問点がついてた部分があるはず。どこだったか忘れたけど。

そもそも江戸時代は創作を伝記に入れ込んだり、自分の先祖を良く見せようとしたりするのが普通だった点を理解しとかないと。
0357人間七七四年
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2010/06/17(木) 02:08:56ID:Mgbw6Qv9
>>356
巌流か岩流かなんてさして重要な点じゃないでしょ。
ようは「ガン流」、小次郎の称した流名であることは殆ど間違いないし
名前と言う説もあるが、小次郎と言う名が沼田家記で明らかになっている点から、こっちの説はほぼ否定されてる。
どの史料から引用した戦いの模様かわからんから何といっていいかわからんが、君の挙げた小倉碑文には「岩流三尺の白刃を手にし」と書かれてるぞ。
それに重要だったのは得物がどうだったかというより、他流派の武芸者と戦い、それを殺傷してしまっていること。
だから武蔵の行動が問題視され、それを受けて他流試合を控えるようになったんじゃないか、といってる。これはあくまで俺の推測
巌流島の戦いについて疑問視されているのは経緯や小次郎の素性などで、小次郎が殺されたのはほぼ確実と言われてる
原田夢果や上村道子氏の著書なんかがこの辺の事情で有名だが、現諸史料で小次郎が殺された事は伝えられていても、小次郎が生き残った事を伝えるものは今のところないから。
新しい史料が発見されればどうなるかしらんがね
>岩流について何も書いてない
武蔵は基本的に、自分の著書で戦った相手の事は書かんよ
有馬と秋山が五輪書に名前だけ出てくるだけで、後は六十余度戦って一度も遅れをとってねえ、でまとめられてる
例えば高田吉次の伝記の崇白先生伝、丹治峯均筆記には吉次と武蔵の御前試合の事とか書かれてるが、このことも武蔵は自らでは記していない
吉岡についても武蔵は直接詳しくは語っていない。五輪書の原本には二十一で都に上って天下の兵法者に会い、数度の勝負をして勝たなかった事はなかった、と書かれてるだけ
だから小次郎に関して武蔵自身の筆がないのは別に特筆するような事じゃないよ
0358人間七七四年
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2010/06/20(日) 00:34:14ID:sEW/rWtV
>>356
『日本史の一級史料』では沼田家記の成立年代については触れていたが
内容について歴史的におかしいとかの疑問点はなかったぞ。
0359人間七七四年
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2010/06/20(日) 03:06:31ID:2ReTEt7v
山本博文はなんだかんだいって、自分の好き嫌いがすげー強く出てるけどね

武蔵に対しては辛いのに同書の赤穂浪士の項では評価大甘
細川藩奉書の「石遣候間、佐渡さしず次第ニ可相渡候」の所、さらに忠利が足利道鑑と一緒に山鹿の茶屋に招いた、という個所を無視、千葉城の屋敷や、錦考輯録曰く、武蔵を正月祝いに奥書院に招いた事等、
それら一切シカトして「忠利の武蔵への評価は低かった」と書き、
兵法三十五箇条を献じたのにも触れず、挙句五輪書や永青文庫などで真作と認められている書画などの作品群を全てひっくるめて「後世の神格化による捏造」扱い
東京大学史料編纂所教授の肩書がなかったら大バッシング食らう様なトンデモ論だよ。あくまで「そういう可能性もありうる」というだけに留まっている筈の事なのに、まるで定説であるかのような口ぶりだし
これに比べて、35〜44pの内蔵助への弁護ったらないぜ、最終的には「勘」とか言ってるし
大体、内蔵助がりくに送った書状には触れて、武蔵が佐渡守らに宛てた書状はスルーなのも疑問、武蔵の一級史料に関しては丸岡宗男氏が著書で纏めていたが。
そもそも武蔵は仕官してないんだから、公的文書の残存率が低いのは当たり前じゃないか。そんな基本的な事も押さえないまま批判してるんだから

まあこの人は史料の出典や吟味が重要って事が言いたくて、そのために一次資料の乏しい武蔵を槍玉にあげたんだろーけどね
0360人間七七四年
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2010/06/23(水) 20:27:56ID:/WJjX5lv
『日本史の一級史料』の中では「忠利代の奉書に武蔵の名前が出てくる事は少ない、だから武蔵の評価は低い」ってな論法なんだが、
武蔵が熊本に来てから1年後に忠利は没しているんだから、冷静に考えてそんなに記述が残ってるわけがないんだ
むしろ光尚時代になっても待遇は変わらず安堵されたんだから、評価は高かったと考えた方が自然なのだが……
塩田や寺尾兄弟も細川の家臣だしね
0361人間七七四年
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2010/06/25(金) 23:54:42ID:adK6R7uY
重文三作品も捏造ってのはかなりの挑戦だね。自分だって文科省の庇護で飯食ってるのに
0362人間七七四年
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2010/06/27(日) 08:11:41ID:Q35muoPz
>>314
遅レスだが武蔵は強いと評価(噂)されただけで
武士として評価が高かったわけではないと思います。
0363人間七七四年
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2010/06/27(日) 09:11:41ID:19en28uq
強いだけじゃなくて、文人との交流とか町割の技術なんかを持ってた所を見ると、やっぱり技術者、武芸者として評価されてたんじゃないの?
仕官してないし役人としては評価されてなさそうだけどw
0364人間七七四年
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2010/06/27(日) 12:18:49ID:XIAXl1mr
役人になることと人物の出来不出来は直接イコールではない
武蔵ほどの有名人ならしがらみも多いだろうから、弟子や息子を推挙したんだろう
0365人間七七四年
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2010/06/27(日) 19:18:42ID:Q35muoPz
フィクションで美化されすぎちゃって、希望的に武蔵はこうだからとされて可哀想な方でもあるな
0366人間七七四年
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2010/06/27(日) 22:06:35ID:lxbwYmy0
>>365
講談・歌舞伎はともかくとして、二天一流の系譜や後世に残った武蔵の真作などまでフィクションとする人間が居るが
そういう意見は、はたして各分野の権威に太刀打ちできるのかな
五輪書は糸東流系の達士などが、大学の講義で教材に使う程の、広く認知された名著だ
上記の山本博文みたいな偉い学者なら上手い反論考えるんだろうが、それ以上に中身の無いバッシングが多すぎる
0367人間七七四年
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2010/06/30(水) 04:33:20ID:c/hKlzqd
二天一流のは余りにズレが有り過ぎ
吉岡より巌流島が先だったり後だったり
武公伝と二天記ですら記述に違いがあって何を信じて良いやら
0368人間七七四年
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2010/06/30(水) 13:11:37ID:zoJzkDqX
武蔵擁護派だって二天記なんか信用しちゃいないよ

0369人間七七四年
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2010/07/05(月) 03:22:45ID:Ug/H+Toq
沼田家記の顛末みると、細川家に武蔵はこの時点で既に要人扱い
おやっさんのコネだかなんだか知らんが、ほとぼり冷めてから重用されるのに、違和感は感じないよな
ただ、一介の浪人から実力で大抜擢なんて印象ではない。パパ無二の人脈大活用の世故そうな印象にはなるが 。
0370人間七七四年
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2010/07/05(月) 15:35:16ID:yGdZ8eJl
もともと氏素性の知れない浪人って感じじゃないしね
0371人間七七四年
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2010/07/05(月) 20:27:05ID:VhC4C6Zy
素朴な疑問なんだが、武蔵の名乗りのうち、
”武蔵”ってのは”武蔵守”のことだよな?
上泉伊勢守とか柳生但馬守みたいな官職名乗りの。

そうすると、呼び名としては普通は「宮本玄信」になるんじゃないの?と思ったんだが。
上二人で言えば、「上泉信綱」「柳生宗矩」みたいに。
何で武蔵の場合、名乗りの方が一般化したんだろ。
0373人間七七四年
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2010/07/06(火) 01:54:36ID:kFxw7iJc
武蔵守(むさしのかみ)じゃなくて、
字がそのまま武蔵(むさし/たけぞう)だからだろ。
江戸時代だと武蔵守は基本徳川家の独占。
0374人間七七四年
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2010/07/06(火) 02:11:32ID:KfnPjJ+A
六三四が武蔵になったって説はアレ、信憑性はあんのかねえ?
0375仙台藩百姓
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2010/07/06(火) 14:34:02ID:uw/tIlgd
上泉伊勢守や柳生但馬守だって諱より流布されているじゃんお( ^ω^)
他にも松本備前、疋田豊後、丸目蔵人とか
それに塚原卜伝、伊藤一刀斎、富田勢源みたいに号の方が有名な人も非常に多いお
本来は通称、官職、号などを使うのが普通なのだから諱を使う方が異質なのだお( ^ω^)
軍記など伝記の類いでもそれらの呼称で記されるのが殆どだから
これらが一般に流布されるのは自然な成り行きだお( ^ω^)
0376人間七七四年
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2010/07/06(火) 16:00:16ID:gtwM6KgN
>>373
五輪書でも「宮本武蔵守藤原玄信」って書いてるんだから、武蔵が字ってことはないんじゃね。
牢人が自称する程度なら放っとかれてたんじゃないか。

そういえば武蔵の幼名は弁之助だけど、
大人になってからも字はそのままだったのかね。
0377人間七七四年
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2010/07/07(水) 01:11:27ID:GgST4PDP
>>375
その論法で行くなら
武蔵は宮本武蔵じゃなくて、宮本二天とかでメジャーになるはずじゃないの?
つーか俺は「武蔵」が流行った事よりも、なんで新免じゃなくて宮本がメジャーになったか、の方が気になるねえ
0378人間七七四年
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2010/10/01(金) 05:11:36ID:kxMPl6VX
下がりすぎてるのでage

>>377
語呂がいいというのもあると思うけど、もしかしたら晩年かあるいは死んだ後は、宮本伊織の養父という意味で有名だったかもよ。
というか伊織からしてすでに宮本だし、新免は武蔵のフォーマルな名称ではあっても、普段は宮本で通していたのかもしれない。

あと上の方で武蔵が巌流島の決闘の時に30前だとか言ってる人がいるけど、それはかなり後代の二天記とかあたりの話で、それ以前では17とか19とかになってる。
時期的に早いほうが正確である、とは限らないけど、案外と若い頃の決闘だったのかもしれない。
0380人間七七四年
垢版 |
2010/11/28(日) 12:43:05ID:Bob7MAZk
武蔵は、間違いなく自己愛性人格障害者だよ

http://f17.aaa.livedoor.jp/~etsubu/npd.html

親父や同僚がこのタイプだからよく分かる
0381人間七七四年
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2010/12/03(金) 11:06:47ID:dlPNYliC
自分でも理由がよくわからないが、サイキョー流ってイメージがある
0382名無し
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2010/12/04(土) 05:00:56ID:Pxql0msv
宮本武蔵のドラマでいつのものか思い出せず困っています。
覚えている内容ですが
武蔵が宍戸ばいけんに挑みに行った時のシーン。
仲良く一緒に酒を飲み交わした相手がばいけんだと知り
眠っているばいけんを斬りつけられず、
喉元に布を巻いた鎌をおいて去る、、こんな感じでした。
これは誰の演じた武蔵ドラマだったか覚えている人いますか?
0383人間七七四年
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2010/12/06(月) 14:39:40ID:IjIeaOGi
強かったとは思うけどねえ
宣伝が過ぎて胡散臭いから逆に評価下げてる気が
0384人間七七四年
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2011/01/02(日) 19:15:52ID:yIwiWPVi
五輪書ってオリンピックに関係あるんだってな
0385人間七七四年
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2011/01/13(木) 03:15:35ID:9+eCjuMZ
>>383
でもそれ本人の責任じゃないからなあ
小野さんと同じで、柳生や武蔵がらみで信ぴょう性の欠片もないような武勇伝が流布されてるけど、流したのって本人じゃなくて弟子だろうし
0386人間七七四年
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2011/03/10(木) 12:28:52.14ID:YJztJCCH
なんだ
武蔵って卑怯者だったのか・・・
そりゃ、強くて卑怯者なら負けはしないだろうな
0387人間七七四年
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2011/03/12(土) 20:34:06.61ID:G+KDmZzo
1000人の宮本武蔵と10000人の戦国軍隊が戦ったらどっちが勝つかな?!
0388人間七七四年
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2011/03/13(日) 14:40:27.74ID:QXhoRvDI
>>385
近年の大河ドラマなんかも同じことがいえるけれど
過去の偉人を持ち上げるための捏造エピソードって
なんで本人を貶める結果にしかならんのだろうな
0389人間七七四年
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2011/03/30(水) 05:18:27.35ID:5rpagI9R
>>388
武蔵の場合、歌舞伎を皮切りに講談師がある事ない事広めまくったからな
飛んだ蠅をハシで掴むとか、有名だけど出典が解らんエピソードも多いぞ
0390人間七七四年
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2011/03/30(水) 08:35:30.95ID:L5kzgLYq
時代が変われば人も変わるからな
0391人間七七四年
垢版 |
2011/03/31(木) 00:23:56.26ID:jmYVHa6t
高名な武芸者に無学文盲なものが多い中で、五輪の書を記した武蔵は偉い。
0392人間七七四年
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2011/04/01(金) 08:22:18.33ID:XyGKzj/E
>>391
鉄砲隊で警護して、お父さまのトコまで送って貰える坊っちゃんが、文盲のはずないわな
0393人間七七四年
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2011/04/09(土) 22:08:16.71ID:SnR04j7Z
>>389
箸で蝿をとらえるのは斬殺者には二天記、それと武公伝が元だとあるが…確認が面倒なので、本当かどうかはしらん。

>>392
それは沼田家記のアレか。
ひく島で決闘したことになってるってアレな。
断言はできんが、どうにもそこら捏造くさいな。
0394人間七七四年
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2011/04/11(月) 16:15:14.63ID:ZYenj5fv
>>219
大分遅いレスだが、宮本無二之助の伝書の記述は新当流の技の名前っぽいの載ってるようなこと武芸流派大事典にあったと思う。
だから新免無二が香取神道流の関係というのは近いかもしれん。新当流とは違うが、地理的に関連はあるだろう…

ただ、面倒くさいことに武蔵の弟子の塩田松斎が熊本で当理流の創始者であるという伝があるんだ。こんちくしょう。
さらに宮本無二之助の伝書は日付などの問題からどうにも偽書くさいし、その年代に松斎が細川家で指導していた可能性がある。
無二は武蔵が新免家を継ぐ前に死んでいたというのが正しいのならば無二之助の伝書は偽造品ということになるし。
0395人間七七四年
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2011/04/15(金) 23:25:42.50ID:o88NHY69
「無駄な努力はするな」
と言ったらしいですけど
だれか詳細知らない?
0396人間七七四年
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2011/04/16(土) 15:22:07.20ID:Qte2QnKa
そういうの言ってるのかな。
五輪書は一貫して正しい理にそった稽古しろみたいなこと書いてたように記憶しているが、細かいところは忘れた。
「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」とも書いてるのは確かなので、とりあえず日々の努力鍛錬は否定していなかったと思う。
あといちいち工夫すべしとか書いてたかな。

つまり……
正しい理論でちゃんと鍛錬を重ねるようにしよう。あと自分でも考えるように。
が武蔵の主張なんじゃないかとうろ覚えな記憶でまとめていってみる。
0397人間七七四年
垢版 |
2011/04/16(土) 17:05:49.99ID:CU3ZbNYM
「鍛錬すべきなり」というような記述は何箇所あるんだかというくらいあるけど。
『五輪書』なんて入手が容易なんだから自分で見たほうが納得できると思う。
0398 忍法帖【Lv=2,xxxP】
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2011/04/16(土) 21:24:59.71ID:s5IgCLTp
又聞きの情報で鍛錬を否定していると思われちゃ武蔵もたまらんだろうな。
なんで自分で読まないんだろう?
0399人間七七四年
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2011/04/17(日) 04:03:38.77ID:M7NNeAsv
武蔵はあっちこっちの小説やらの題材にされるので、うっかりそれが有名になると事実無根の創作が広まることになって、
それが前提で話を進められることがよくある。

例えば二天一流などの武蔵の流派は後継者がいないだの広まらなかっただのという話がよくあるけど、ここらは司馬遼太郎あたりのいいがかり。
実際は江戸初期はかなり広まっていたし、明治あたりまで結構使い手はいた。
現代は伝える人も減ったけど、幕末でもっとも広まった直心影流の零落ぶりを考えると、かなり残ってる部類に入る。
0400人間七七四年
垢版 |
2011/04/17(日) 15:48:01.72ID:OrcJUio4
直心は三大(四大)道場にも数えられないし、
幕末でもっとも広まった流派ではないでしょ。
0401人間七七四年
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2011/04/17(日) 16:48:25.71ID:M7NNeAsv
三大道場って呼び方は幕末には呼ばれてないみたいね。
wikiると松崎浪四郎が自分が対戦した相手で強かった人間を並べて評したのが元らしい。
これもフィクションが拡大、変容、解釈された結果かもしれんね。
幕末の剣豪の中でももっとも評価された人物として直心影の男谷もいて、この人は講武所の師範まで務めた。
直心影流はむちゃくちゃ広まってた。
剣道形の型なんかも何度か改変されているんだが、
ttp://www.geocities.co.jp/Athlete-Athene/8236/isingonokendo.htm
これを見ると明治44年〜大正元年制定大日本剣道形の制定委員の二十人の内、五人を直心影流の人間が占めている。

ちなみに剣道形の一番最初のは制定をしている内の一人が、三橋鑑一郎という武蔵流で範士号をもらっていたという名人だね。
この当時は範士号はかなりの人間しかもらえないので、幕末から明治期にも武蔵流で強い人間がいたという傍証にはなる。
0402人間七七四年
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2011/04/17(日) 18:01:11.81ID:M7NNeAsv
そもそも三大道場って「江戸三大道場」だったみたいなー。
0403人間七七四年
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2011/04/17(日) 18:03:19.05ID:pPRmDWrH
幕末に最も広まったかは知らんが大正時代に入っても直心影流は多いな。
武道家名鑑を見た感じ北辰一刀流、神道無念流に次ぐくらいの数はいる。
0404人間七七四年
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2011/04/17(日) 18:08:53.74ID:pPRmDWrH
>>401
それにしても幕末でもっともって言葉が好きなんだなw
直心の人?
0405人間七七四年
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2011/04/17(日) 18:22:38.77ID:M7NNeAsv
>>404
いや、剣術はやってないw
ちょっと強調しすぎたきらいがあるので反省するわ。

武蔵流の話にすっけど、派によっては竹刀剣術への改変もあったりするし、割とあとの時代まで残ってたみたいな。
九州だけではなくて北陸や関西、愛知あたりにもあった。
江戸後期だったと思うが、江戸でいっぱい試合して、各流派の特徴とか書き残してた人の文章があったが、そのなかにも武蔵流系統の名前はあったと思う。
武蔵一代限りの流派ではなかった、というまあそれだけのことを言いたいだけだが。
0406人間七七四年
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2011/04/17(日) 19:31:57.73ID:pPRmDWrH
>>405
こちらこそあらぬ疑いをかけたなw
ところで秋田に武蔵丸二刀流ってのがあるんだがこれも宮本武蔵の流儀でいいのかい?
0407人間七七四年
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2011/04/17(日) 19:54:31.37ID:M7NNeAsv
>>406
武芸流派大事典によれば、祖は秋田藩士、小野崎造酒。
遠祖を丸目蔵人とし、上泉武蔵守の武蔵と丸目の丸をとって流名とした(日本武術流名録)。
二刀流とはいっても、根本は一刀を用いる。

ちょい略したが、こうある。
上泉武蔵守からとって武蔵流だと、武蔵全然関係ないのに二刀を使うのは面妖だが、流祖の小野崎が上泉武蔵守と新免武蔵守とをごっちゃにしてたのかもしれん。
あるいは新陰からでた二刀技法がもとなのか…は見てないのでよくわからない。
武蔵流関係の技法が混入している可能性もあるかもしれんが、実際にやってる人の映像とか伝書みないとなんともいえない。

こんな感じでいい?
0408人間七七四年
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2011/04/17(日) 20:10:12.05ID:pPRmDWrH
ありがとう。そこで丸目の名が出てくるとは思わなかった。
現在の熊本に普及した流儀という点では武蔵流と丸目の流儀ってのは接点があるね。
ただ、タイ捨流自体に二刀があるらしい。

http://www.yamame.co.jp/sympo2-3.html
>山北 タイ捨流は、二刀を使いよる。二刀の巻き物があります。宮本武蔵は
左に小刀を持って右に長刀。タイ捨流の場合は、右が短剣で左が長刀。たとえば、
右手と左手に筆を持って書いた場合、同じ字画で同じ名前が書けるかというと絶対書けない。
どういう達人でも、書道の何十段である人でも絶対書けない。二刀といえども一刀の心に
到達するんでないと駄目です。そういう心に到達するには、一つは投げ剣にある。
投げ剣でパッとやり、受けるときに持ち替えて長刀で切る。心と仏教は一致しなければならない。
生きる法則。それをキツエン一刀の心といいます。


あと、宮本武蔵から出たという二刀神影流ってのもあるんだよな。
宮本武蔵かと思えば上泉武蔵守が出てきたり、新陰系統かと思えば流祖が武蔵だったり
正直よくわからんw

二刀神影流鎖鎌術
http://www.nihonkobudokyoukai.org/martialarts/077/
0409人間七七四年
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2011/04/17(日) 20:21:11.63ID:M7NNeAsv
>>408
二刀技法そのものは古くからあるしね。
武蔵も刀は片手で使うものといってるから、もう片方の手にいろいろと持つ戦闘法は過去にあったのかもしれない。
宮本無二之助伝書はシントウ流系だし、武蔵流の用語もそっちの流れらしい。
天真正伝香取神道流にも二刀のかたはあったはず。

>二刀神影流鎖鎌術
それは大正の頃に作られた流派で…坂本土佐海氏の随筆にもその流派作った人のこと言及があったような…悪口ではなかったけど。

武蔵を義経由来の流派の末裔とする流派もあるし、武蔵くらいの有名人になるとほとんど戸川白雲斎とかみたいな伝説上の人物と一緒で、仮託の対象にされてたみたいね。
とりあえず武術の流祖伝説は明確に資料がある場合はともかく、ほぼ話半分で聞いといたほうがいいよw
0410人間七七四年
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2011/04/17(日) 20:28:26.71ID:pPRmDWrH
二刀神影流は創作かw
脈絡の無さが面白いのに残念だ。

>宮本無二之助伝書はシントウ流系だし、武蔵流の用語もそっちの流れらしい。
天真正伝香取神道流にも二刀のかたはあったはず。

現状の香取神道流にも二刀は残ってるけど、武蔵誕生百年前に
新当流の二刀伝書があるというからね。

http://www.yukan-daily.co.jp/news.php?id=14245

>今回、大きな発見の一つが盛嶽(もりたけ)文書という。佐伯市内の民家の古い仏壇に保管されていたこの文書は、
文明16(1484)年の兵法書「新当流両部乱之太刀口伝」。刀を2本持った人の絵が描かれていることから、
二刀流の書という。
0411人間七七四年
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2011/04/17(日) 20:44:09.58ID:M7NNeAsv
残念ながら創作なんだw
いや、もしかしてみんなが創作いってるだけで実は神免派の影響があったりなかったりしていろいろと痕跡があるとかするかもしれんw

>新当流両部乱之太刀口伝
ほう。こいつは面白い。
新免無二が死んだのは伊織の奉納した泊神社の額によると天正年間で筑前の秋月城なんだな。
無二はこの後も生きてたじゃないかという反論は多いんだが、伊織の頃にはそういう伝があったのは確かだろう。
つまり無二は筑前ゆかりの武芸者で、偽造臭いが宮本無二之助の伝書はシントウ流系で武蔵流もそれっぽく、その無二が縁のある筑前の近隣で新当流二刀使いの人間が天正の頃までいた、と。

もしかしたら、可能性だけだけど、ここらが武蔵流のルーツかもしれんねー。
0412人間七七四年
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2011/04/20(水) 03:14:12.13ID:Zvgk6X2C
鳥取の武蔵流のように、武蔵にあやかって名前を付けた流派もあるから、
一見しただけじゃ武蔵ゆかりかわからんというのがややこしい所だな
0413人間七七四年
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2011/04/20(水) 21:12:06.20ID:m5Y71A2m
卜伝流の中にもどう見ても卜伝の新当流とは関係なさそうな流派もあるそうだからな。

伊織伝二天一流なんかも、小さん師匠も継承していたって流派だが江戸後期になって突然でてきた流派で怪しい。
二刀遣いは古くからあるし、あるいは武蔵流の末流が伊織に伝承されていたと詐称したのかもしれないが。
0414人間七七四年
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2011/04/22(金) 00:21:28.71ID:nfOHUc58
あまり柔術と縁がなさそうなのに卜伝を開祖とする柔術もあったりするからな。
昔の神道流は総合武術であったから柔も達人だろうという発想かな。
0415人間七七四年
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2011/04/22(金) 04:30:49.87ID:MQN31F0Z
柔術といえば二天一流柔術ってのも存在した、らしい。
古橋惣左衛門が伝授をうけたというが、伝書の一部が残るだけだという。
武蔵の他の弟子の塩田も小具足が使えたというから、武蔵の体術ってのはあったんだろうけど。
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