【木刀】宮本武蔵を語る【サイコー!】
>>284
必要経費は七人扶持十八石で賄えてるんじゃね?
300石って純粋な収入かと。
下手したら兵庫助や忠明より収入は多かった可能性があるな >>285
ま、俸禄の半分以上は家来の扶持に消えるとも言うから正式な家臣よりは裕福でしょう。
武蔵のような客分の軍役負担はどういう形になるのか。正式な家臣はいろんな資料や研究があるが
客分の武芸者の負担はどうなのか?
算盤片手に小まめに帳面をつける武蔵というのも変だし、憶測しかないのかな? >>286
武蔵に関しての経理は弟子でもある塩田浜之助が管理していたとも言われるが
塩田であるかはともかく、細川の人間がやっていたと言うのは間違いなさそう
客分という事は形としてはあくまで細川家に逗留している間の滞在費という形だから、労役等の義務はなかったように思う
忠利に請われて何度か御前試合をしたり会談したりという逸話は残ってるが、それって労働じゃないだろうし
司馬武蔵は真説ならぬ珍説だよな
どうしてあれが「武蔵の現実の姿」などと絶賛されているかわからん
我欲を捨て去った仏法僧のような吉川武蔵と対極的な武蔵を論じているだけで、極論、トンデモの典型というのは変わらない
訳知り顔で司馬武蔵のステレオタイプなイメージそのままの武蔵を実像として語る人間にこそ
「小説を真に受けるな」と言いたい。
あれは小説と言うより論文と蘊蓄だが >>279
「ウチの先生最強!最高!」ってやりたいなら2番目を倒しても意味ないだろ?
そういうことだよ。
とりあえず、小野忠明の逸話に柳生と武蔵が両方出てきて、
柳生と武蔵の逸話には小野忠明が出てこないことが全てを物語っているかとw
まあ、一刀流の人間はその辺を都合よく解釈できるのかもしれないけどねww >>271
前に一刀斎マンセーで
武蔵の逸話は一次資料が見当たらない、身内評価ばかりだから信憑性が薄くて剣豪としての腕を評価するべきでは無いなどとさんざん講釈垂ながら
柳生十兵衛が忠明に弟子入りしたのは歴史的事実だとか平気でぬかす香具師を見たぞ
所詮、批判好きな連中はその程度の見識しか持っていない 五輪の書って読んで見たいんだけど、文庫で売ってるの?
中身ってさどんな事書いてんの?
私はこうやって吉岡一門を倒しました
とか自伝みたいな部分もあるのかね? >>291
俺も文庫でしか読んだことないから偉そうなことは言えんが
巻ごとに分野が分かれてて序文があって、箇条書きで要点が簡潔につらつら書いてあるような感じ
原文ママだとわけわかんなかったから諸般の本の訳と一緒に照らし合わせて読んだけど
文庫でよければ、市民図書館や大学図書館とかにあんじゃね?
俺は大学の図書館で借りたけど 岩波文庫で売ってる。
ただし武蔵の戦歴で紹介されているのは有馬喜兵衛と秋山某くらいで
内容は「実戦ではこうやって戦え!俺はこうやって戦ってきた!」というマニュアル本。 五輪書と兵法家伝書を読み比べてるんだけど、
内容も通じるとこがあったり、見解が違うところもあったりで、
そのまま武蔵と宗矩という当時を代表するニ剣士の違いが出ていて
なかなか面白いよ。 五輪の書で読み解く〜みたいなのは
パチモンだからだめだぞ! >>254
五輪書は読んだことあるけど、兵法家伝書ってのはどんな内容なんだ?
通じるところってのはどの辺? >>296
この辺がわかりやすく書いてある。
長いけど読みやすい。
【やる夫で学ぶ柳生一族(外伝その3・前編1)「解説・兵法家伝書(進履橋・殺人刀)」】
http://tagenmatome.blogspot.com/2009/10/blog-post_18.html
個人的には同じような感じで五輪書の紹介もやってほしい。 「至高のライバル」
互いがいたから、互いに偉大になれた。「伝説的ライバル関係」といえば!
http://sentaku.org/social/1000017335/ 一般的には武蔵といえば小次郎だろうけど、
現実の武蔵にライバルなんていたのかね。
実力的にどうこうというより、武蔵の意識上の問題なんだけど。 司馬の真説宮本武蔵読んだけどいまいちわからないな。
結局吉岡とは戦ってるのか?武蔵に関する史料ってどれくらいあるんだろ?
なんか120歳まで生きた老人の話を一番信用してるみたいだが。
もっと記録残ってないもんかねえ。 間違いなく吉岡とは戦っているだろ。
何しろ江戸時代最高の剣豪エピソード収集ヲタ
日夏繁高が「勝ったのか負けたのか、諸説あり過ぎてどれがホンマかわかんねー」と
サジ投げたくらい諸説飛び交ってたんだから。 日夏繁高って調べたら江戸時代前期から中期の人物らしいが
江戸時代中期でもう諸説飛び交ってたのか。てことは実際はともかく
江戸時代中期から武蔵は有名人だったって事なのか 日夏繁高の『本朝武芸小伝』で
武蔵の扱いは他の武芸者よりも大きいから
武芸者業界ではすでに超のつく有名人だったのは間違いない。
一方、源徳修斎の『撃剣叢談』はけっこう辛らつ。
まあこの人は誰に対しても考証癖全開なんだけれども。 武蔵と暮らしてた伝助って人のことをググってもひとつの文章しか出てこないんですが
これは創作なんですか? 広く認知されてる吉川を史実だと思ったら大間違い。かといって司馬も信用できんってか。
碑文も宣伝だし、二天一流の伝記も黒田藩系と細川藩系でまるで違うから当然ったら当然。
確実なのは五輪書だけだわな。
>>267
沼田家記「小次郎を弟子が数人がかりで寄ってたかって殺した」というのが正解だっけか。
確かに武蔵が小次郎殺害に関与したことはかかれてないな。
約定をたがえて弟子を連れてきたのは確実だが。
>>306
悪意有り過ぎ
しかもその前に武蔵と小次郎が一対一で立ち会って、小次郎が昏倒したことが明記されてる所に触れていないのはワザとか、無知か?
前者なら偏見をなくせ、後者なら勤勉に勤めるべし 「試合を仕候処、小次郎被打殺候」とある
小次郎が息を吹き返して弟子が集まって云々は
「後にて打殺候」
つーか門司城代が見てる前で弟子がリンチとか出来るわけねーじゃんjk
って原田さんが言ってた 息子に伊織って名前付けようかと思うんだけどどうだろう?英弥(ひでや)とどっちにするか迷ってるんだけど 名前はの文字は左右対称に近い方がいい、と選対やってるおっさんは言ってた 結局剣術だの、一対一で立ち会ってハッケヨーイ、なんてスポーツみたいなもんだろ。
スポーツと実戦をごっちゃにして、色々と限定された状況でのテクニックを競うスポーツで一番だから最強!
とかやってるから色々とおかしくなってると思うんだけどな。
何でもありの実戦だったら戦国時代は化け物モドキみたいな奴の話がゴロゴロころがってるけど、
奴らが立ち会いでも強かったか、というと疑問だし。
本多忠勝だったかを道場に呼んでみてお手本を見せてもらおうとしたら全く人の参考になるもんじゃなかったって話もあるし。 その辺は後世の人間の問題だろ。
武蔵自身は、兵法を修めるのは、武士として役に立つ為で、
武士が役に立つというのは、戦で功績を立てることだ、と明言してるし、
大の兵法と小の兵法も分別してる。
後世、剣術をやってる連中が自分達の格を上げる為に、
「優れた剣術家=武士としても優れている」みたいなことを言い出したのが悪い。 武蔵が当時から武芸者として高く評価されてたのは間違いないけど
武士としての評価がどうだったかというと、今ひとつ明確じゃないしな。
別に武蔵に限った話じゃないけど。
確かに武士と武芸者を混同して話をする奴は多いよな・・・。 武士としての評価は全く高く無かっただろ。
細川家で厄介になってた時もたった300石しかもらってねーし、結局仕官しなかったのは事実。
ただ労役の義務の無い、家臣として雇ったわけでもない客分に合力米で300石もポンと渡して殿様との謁見や鷹狩りも許すんだから、
武芸者としては目ん玉飛び出るくらいの高評価。
林羅山のような学者、烏丸光広のような公卿からも絵を通じて高い評価を貰ってる
人物としての社会的ステータス、評価は高かっただろう。
逆に国政に携わるような人間ではないと思われていたのが実際の所だろうな
まあ明石の町割りとかはやってるし、息子たちは高官になってるけどさ >>314
武士は今で言う政治家、公務員で、
武芸者は文化人やアスリートに近いからな。
まあ当時は軍人の側面も入ってくるが、確かに武士と武芸者を混同してる奴は多い 実際の武蔵は大した人物ではない、とか言われてる部分って、
ほとんど「武士としての武蔵」についての話なんだよな。
そりゃ仕官自体してないんだから評価が高いわけないだろ。
そんな評価の仕方をする方が筋違い。
そっちの方向で話がしたけりゃ柳生宗矩一人で十分だろ。
無理に武蔵を引き出すこともない。
武蔵はあくまで「武芸者」として評価される人物だと思うんだがな。 >>315
門外漢からの評価が高いというのはどう評価すべきなんだろうな
一流文化人士も認める才気を持った人物であった事の証明であることには疑いの余地は無いが
武蔵は家柄は決して悪くない。このスレではわざわざ述べるまでも無いのだろうけど、基本的にその辺の腕っ節自慢とはそもそも訳が違う
そのあたりも名士として広く認知されていた理由かもしれん。どこの馬の骨ともしれない出自ならあちこちの大名とあんなにたくさんのパイプは作れまい
林羅山、烏丸光広も、その分野では知る人ぞ知る同時代の権威だ。 しかし、武蔵って人はつくづく、芸能の人だったんだと思うよ
文武両道の文化人はいないわけじゃないが、
剣士として一大流派を形成する人間でありながら、今日まで世界中で講読される著書を書いて、残した絵が何点も国宝級の物として保管されているって言うのは
ちょっといないよね。
逆にいえばその気質が官には向かなかったのかもしれないが 今上野の東京国立博物館でやってる「細川家の至宝」展に沼田家記と鵜図の現物が展示されてた。
>>322
昨日みてきた。利休由来の茶器と信長の直筆見る気で行ったから、不意打ちをくらった。
鵜図は一気に描いている感じはある。絵師の下でかなり修練つまないと描けない感じ。
姫路にいた頃に習ったのかな。
沼田家記はかなり保存状態が良くて、数百年経過したものとは思えない。
藩の公式文書とはこういうものかと。
小次郎と武蔵の間には一対一という約定がまずあったのに
武蔵は数人弟子を連れてきて島に潜ませていたという記述があった。
そもそも当時の巌流島なんて砂州みたいなもんで数人来てたらバレバレ。
心理的動揺を誘ったんだろうなーと。
こういう騙まし討ち行為を非難する向きはあるけど、
対吉岡戦でも仮病使って清十郎ぶったおしてるって伝記もあるし
「むかつかす」「おびやかす」「うろめかす」のは武蔵のポリシーでもあるからね。
小次郎の弟子達に追われて武蔵が逃げ込んだのが門司城だったというだけで
門司城代は巌流島には来ていなかったようだよ。
立会人もいないし、島に小次郎側は本人しか来ていなかったわけで
沼田延元jは当然ながら、武蔵側にしか事情を聞けない。
実質、戦いの内容については武蔵側の主張しか残りようがないという所でしょうね。
>>323
スゲー
しかし、小次郎の弟子が巌流島、当時の舟島だが、に来ていなかったとすると、一体どっから出てきて武蔵に襲いかかったんだろうな?
武蔵も武蔵で、本当に立会人が誰もいないのなら弟子を連れていった話なんて言わなきゃわからなかっただろうに
色々と不可解な話だ >>324
そもそも立会人がいたなら、武蔵側が約束を違えて弟子を何人も潜ませていた件を問題視しないわけがない。
>一体どっから出てきて武蔵に襲いかかったんだろうな?
沼田家記によれば、殺されたことが伝わって、小次郎の弟子達が、復讐のために島に大勢船で渡ってきたんで、武蔵は九州側に逃げ出したそうです。
下関の彦島に弟子待という地名があって、そこに小次郎の弟子達が集まっていたという伝説も残っているんで、そっちから渡ったのかもしれん。
巌流島は九州側からも、本州側からも、岸から数百メートル程度しか離れてない。
>>324
>言わなきゃわからなかっただろうに
そもそも武蔵はそれも兵法の一貫と考えていたんじゃないかな。
勝つ為にならなんでもするのが彼だから、
>武蔵側が約束を違えて弟子を何人も潜ませていた件を問題視しないわけがない。
>武蔵も武蔵で、本当に立会人が誰もいないのなら弟子を連れていった話なんて言わなきゃわからなかっただろうに
岸から数百メートル程度しか離れてないただの砂州なら、約条を違えば見物客にも一目瞭然
それが見咎められないわけがない
武蔵も武蔵で、自分から不利になるような事を自ら言ったと考えるのは極めて不自然
そもそもなんで一度立ち合いで小次郎を昏倒させているのに後から弟子が出てくる?
この辺の不自然さから出てきたのが暗殺説だよな
>勝つ為にならなんでもするのが彼だから
それはあくまでも後世で創られたイメージ
確かに武蔵は「勝つために最大限の努力をすべし」と言ってるが、
同時に「命は捨てても名は惜しめ(身を捨てても名利は捨てず)」とも言ってる。
まあとはいえ、実際にはわからないけどな
船頭は二人の決闘を近くで見てたんじゃないか? >約条を違えば見物客にも一目瞭然それが見咎められないわけがない
地元じゃ無論見物人にバレバレで言い伝えにもなってたらしい。
最後の一行は小倉碑文のことだね。
古川吉松軒 西遊雑記 1726年
岩龍島はもと舟島といひしを宮本武蔵の介と佐々木岩龍武藝の論をし
此しまにおゐてしあひをし、岩龍宮本が為に打殺さる
ゆかりの者有りて墓を建しよりあらため名づけしと云。
赤間ヶ関にて土人の云ひ傳へを聞しに板本に記せしとは大に異なり
岩龍武蔵の介と約をなし、伊崎より小舟をかもしてふなしまへ渡らんとせし時
浦のものとも岩龍をとゝめ武蔵の助門人を数多引具し先達て渡れり。
大勢に手なしといふ事有り一人にて叶ふまじ、今日はひらに御無用なりといふ。
岩龍が曰士は言さはまず、かたく約せしなれば、今日渡らさるは士の耻るところ也
若し大せいにて我を討は耻辱はかれにぞあるべけれといふておして島に渡る
はたして門人の士四人與力して終に岩龍討る
初止めし浦人岩龍が義心にかんし墳墓を築しよりかくは稱することゝなれり
虚實は知らざれども土人の物語のまゝを記して後の考へとす、
或人また宮本の子孫小倉の家中に在り、武蔵の介墓もありて、岩龍島に相對せりと云。
結局、資料がどこまで信用できるか、という大前提に帰る。
それと
>>見物人にバレバレ
であることは武蔵だって百も承知であったはずなのに、本当にそんなあからさまな手を使う阿呆だったのか、
また、その仮定であれば明らかに正道に反していた行為をしながら、その後の社会的地位を失わず、よりによって渦中の細川の厚遇を受けていること。
議論の余地があると思う。
俺個人としては、武蔵を全肯定するつもりもないし、武蔵が正々堂々戦ったかは記述から疑問の残るところだが、
逆に武蔵卑怯者説も、全くのデタラメ、とは言わないが、所詮、異説珍説の類を出るものではないと思う。
特に地元の民間伝承なんて、殆ど信用に足る史料じゃないし。沼田家記はともかくな。
私見に過ぎんが、伊織の石碑のほうが身内びいきを差し引いても、藩の用心であった分だけ、根も葉もない噂の類よりはまだ信用に足るし、また武蔵死後直後であったということを考えても、あまり事実に剥離したことは書かなかったと思うが。
小次郎の記録がもうちょっとわかってりゃ少しは変わったんだと思う。
俺は武蔵卑怯者説ってのは小次郎を憐れんだ人間の判官びいきが作った話の一つだと思ってるが
そういう話が伝わるって事はいずれにせよ、地元ではかなり人望のある、有名な兵法家だったんだろうな
それぞれの説の流れを見るとこんなかんじか
巌流島史実=>試合見物=>巷間地元伝承=>古川吉松軒=>「西遊雑記」
=>武蔵=>直後事情説明=>沼田延元=>「沼田家記」
=>後年伝聞=>宮本伊織=>「小倉碑文」
「小倉碑文」=>黒田藩・二天一流=>丹治峯均=>「丹治峯均筆記」(慶長8年・武蔵19歳説)
=>松井家・二天一流=>豊田正脩=>「武公伝」=>豊田景英=>「二天記」(慶長18年・武蔵29歳説)
「二天記」=>吉川英治=>「宮本武蔵」=>現在の本流
小倉碑文が作られたのは試合後50年〜60年経過したあたり。
巌流島当時、宮本伊織は生まれてないので、碑文の内容は親の武勇伝を十数年後口伝で聞いた感。
沼田延元は武蔵の処遇のために直後事情を聞いている。
個人的には沼田家記のほうが信頼に足るように感じる。
沼田家記のみで考えると、細川藩の門司城に逃げ込んだのも不思議。鉄砲隊でガチ警護して、豊後の新免無二のところまで送ったって厚遇も不思議。
しかし無二がこの頃、細川忠興の義弟・木下延俊(豊後・日出城主)を指南していたのは延俊の「慶長十八年日記」で明確なので
これを加味すると細川家と新免(宮本)家がこの時代、既に繋がりを持っており、この厚遇も、後年の細川の厚遇にもあまり違和感を感じない。
吉川武蔵なんて昭和のフィクションはともかく、様々な史料上、巌流は確実に武蔵より年上の熟練武芸者だから
武蔵は阿呆だったのではなく、生き残るため必死に策したのではないかな。強者との戦いで生き残るためならば、どんな策も卑怯だとは思わない。
結果的に武蔵も豊前を離れる事になって、兵法指南もできなくなったわけだが、ともかく生き残ったわけだし。
五輪書には巌流島の話はまるで書かれていないことからも、巌流島は武蔵自身の心中では黒歴史だったのかもしれない。
>>333
武蔵だってこの時には弟子を抱える一端の武芸者だったんだぜ。沼田家記を信じるなら、だが
円明流を称した前か後かは明確にはわからんにせよ、武蔵も30近い。充実著しい時期だ。
約条を違えた上、大勢で袋叩き、なんて形振り構わないにも程がある。策でも何でもない。
いくらなんでも、そんな横暴は通らんと思うが。仮にも藩ゆかりの兵法者同士の仕合だぞ。
そんなこじれた状況になるなら、普通は対戦自体を避けるだろう。無二に調停してもらうなりなんなり。
「双方の弟子ども兵法の勝劣を申立 武蔵小次郎兵法之仕相仕候に相究」
で、流派全体を巻き込んでそんな程度じゃ対戦を避けられないくらい事が大きくなってしまったというのなら、なおさらそんな無理矢理な手は使えなかったと思うがな。
五輪書には有馬と秋山以外には書かれていないから、これを持って巌流島だけ特別とすることも出来んだろ。
講談や創作はともかくとして、お互いの武蔵像にも隔たりがあるだろうから何とも言えないが、いずれにしても、かなり性急な説だとは思うぜ。
まあ新しい史料が出ない以上、推測の域を出ないがな。 >有馬と秋山以外には書かれていないから
吉川戦って書かれていなかったっけ。「21で京都へ上り、天下の兵法者と勝負した」とか。
巌流島が丹治峯均筆記説、19の頃の話だったらスルーされてるね。
二天記説、29の頃の話なら巌流が「諸流の兵法者」の1人にあたるのか。
大久保利通暗殺の日は巌流島決闘の日
http://akiba.geocities.jp/pxzuwp/0203/31/200_1.html
これは偶然ではない、
佐賀の乱の首謀者江藤新平も、幕末の志士清河八郎も、
巌流島決闘の日に処刑された。
それだけではない、・・・・。 第一小次郎が何者だったかがわからんとなぁ。
細川家が始末したい人物で、武蔵が弟子を潜ませるのに協力してた可能性だってあるわけで。
ところで、皆さんは東京国立博物館で達磨さんとにらめっこは済ませましたか?
6月6日が最終日ですが、日曜日の夕方に行って見たら結構空いていて、ゆっくり見れました。 刀って最低でも1kgはあるよな。
1.5リットルのペットボトルを片手で振り回すようなもんだ。
両手なら兎も角片手で まぁ握りの部分とか全体のバランスがあるからペットボトルと比べて
といわれても違うんだけどね 模擬刀もってるけど、俺じゃ片手で振りまわしても多分物切れない。
相当力が無いと相手の剣を受けることも無理だろうな。
竹刀なら余裕なんだけどね。 水墨画がとても好きだな。
あんまり評価を聞かないけど、世間はどんな評価なんだろうな? 普通に高くね?
特に渡辺華山に評価されてからが高く、重文に指定されているものもいくつかある >>343
片手斬りの多い鹿島新当流では前腕を柄に添えて
刀身を安定させるそうだ。 他の同時代の剣豪が実際には殆ど真剣勝負なんてやらなかった事を考えると、
吉岡一門とひと悶着起こしたり、兵法指南を斬り殺したりする武蔵ってかなりのキチガイだよな
巌流島以降真剣勝負をやらなくなったのは、公権力に咎められてお尋ねものになったからなのかも 刀が重いとか、片手では切れないとか剣術した事ないのに言っちゃう男の人って…
シナイの軽さと剣道のイメージがあるからか、刀は重いって良くいうけど、普通の刀は武器としては十分軽いし、刃筋は片手の方が通りやすい。両手の方がぶれやすいんだよ。大薙刀とや槍なんか刀なんかと比べ物にならんほど重いよ?でも槍や薙刀にも片手使いの技はあるよ。
素人考えで書くのって、一輪車みてあんな不安定なものに乗れるわけない、とか言ってるのと一緒だよ。人間の工夫や身体能力は鍛えたらかなりの事が出来るんだし。 >>348
講談や小説と事実を一緒にしちゃだめー
吉岡一門との勝負はあったとしても真剣使った勝負じゃないだろ。シナイかせいぜい木刀じゃね? とりあえず両手だろうと刀と刀を直交させて受け止めるのはかなり鍔元じゃないと難しいからやってみ。
でヨウツベあたりで剣術流派の形を見て素人が想像するような、マンガや時代劇みたいな受け止め方してる流派あるか探してみるといいよ。
直交するような受け止め方はほとんど無いハズ。
二天一流の五方には受け止める動作なんか一つも無いし、五輪書の受け技も片手でできる攻撃か防御か判断しずらい技だよ。
相手の顔面を切っ先で突くように受ける、って書いてあるはず。この受け方だと、刀と刀の角度が小さくなるから、小さな力で相手の刀を反らす事になるよ。 >>350
は?
言われてる意味がよくわからないんだが、どこを講談や小説と一緒にしてるのか教えてくれないか?
巌流を殺したのは史料にあるし、吉岡と戦ったのは勝敗や顛末は不明だがほぼ間違いない。
>真剣じゃなくてシナイか木刀
それこそ推測にすぎねえな。それに重要なのはそんなところじゃないよ。他流試合を繰り返したのが問題だって事。
しかも巌流の場合、流派の宗家レベルが立ち会い、しかも相手を殺してしまっている。
問題になったのなんて、考える迄もないよ
巌流が細川の兵法指南だったのならなおさらだな 殺したって史料があるの?
そもそも武蔵自身は吉岡や巌流なんて名前は出してない。直近の文書にはなにも残ってないし、巌流も名前か流派かもわからない。
当時の社会状況を考えればわざわざ真剣で勝負よりシナイや木剣の可能性が高い。
武蔵より随分年上の疋田文五郎自身の武者修行での他流試合についての書き付けがあるけど、ほぼシナイか木剣での試合。吉岡一門がその後も普通に剣術家やってるのを見ても普通の試合だったんだろ。
で武蔵自身もシナイで小技早業ばかり求める事を戒めてるけど、逆に言えば当時既にシナイがかなり使われてたって事だよ 長い事書いてるけど
沼田家記や本朝武芸小伝くらい読めよ、このスレの上でも出てるし
経緯はどうあれ、巌流を名乗る小次郎と言う武芸者が、細川家の支配領内の小島で宮本武蔵に殺されたのはほぼ確実
小次郎の生存を伝える史料もない 巌流ってのは小次郎が称した流派ね
揚げ足取られたくないから一応 武芸小伝は1700年はじめの文献で武蔵死後六十年近くたってからの本だよ??
武蔵伝説の元ネタの一つ、1654年に宮本伊織が立てた小倉碑文だと、「兵法の達人、名は岩流」になってる。
小倉碑文だと殺した事になってるけど、兵法指南役とは書かれていない。
武蔵自身は岩流について何も書いてないしね。岩流が有名になったのは1700年代の歌舞伎の影響ってのが研究者の通説だよ。
佐々木姓も歌舞伎の創作だし。
吉岡家も清十郎に試合で重傷を負わせ、又七郎との試合では木刀を奪い打ち殺したと書かれてる。
吉岡とは真剣を使った勝負、とか岩流が真剣を使ったとかは書いてない。
沼田家記については、17世紀成立で小倉碑文よりは新しいけどそれなりに近い年代(武蔵死後三十年ちょっとらしいよね?)
まだ信じられるけど、これまた研究者から歴史的におかしいと疑問点がついてた部分があるはず。どこだったか忘れたけど。
そもそも江戸時代は創作を伝記に入れ込んだり、自分の先祖を良く見せようとしたりするのが普通だった点を理解しとかないと。 >>356
巌流か岩流かなんてさして重要な点じゃないでしょ。
ようは「ガン流」、小次郎の称した流名であることは殆ど間違いないし
名前と言う説もあるが、小次郎と言う名が沼田家記で明らかになっている点から、こっちの説はほぼ否定されてる。
どの史料から引用した戦いの模様かわからんから何といっていいかわからんが、君の挙げた小倉碑文には「岩流三尺の白刃を手にし」と書かれてるぞ。
それに重要だったのは得物がどうだったかというより、他流派の武芸者と戦い、それを殺傷してしまっていること。
だから武蔵の行動が問題視され、それを受けて他流試合を控えるようになったんじゃないか、といってる。これはあくまで俺の推測
巌流島の戦いについて疑問視されているのは経緯や小次郎の素性などで、小次郎が殺されたのはほぼ確実と言われてる
原田夢果や上村道子氏の著書なんかがこの辺の事情で有名だが、現諸史料で小次郎が殺された事は伝えられていても、小次郎が生き残った事を伝えるものは今のところないから。
新しい史料が発見されればどうなるかしらんがね
>岩流について何も書いてない
武蔵は基本的に、自分の著書で戦った相手の事は書かんよ
有馬と秋山が五輪書に名前だけ出てくるだけで、後は六十余度戦って一度も遅れをとってねえ、でまとめられてる
例えば高田吉次の伝記の崇白先生伝、丹治峯均筆記には吉次と武蔵の御前試合の事とか書かれてるが、このことも武蔵は自らでは記していない
吉岡についても武蔵は直接詳しくは語っていない。五輪書の原本には二十一で都に上って天下の兵法者に会い、数度の勝負をして勝たなかった事はなかった、と書かれてるだけ
だから小次郎に関して武蔵自身の筆がないのは別に特筆するような事じゃないよ >>356
『日本史の一級史料』では沼田家記の成立年代については触れていたが
内容について歴史的におかしいとかの疑問点はなかったぞ。 山本博文はなんだかんだいって、自分の好き嫌いがすげー強く出てるけどね
武蔵に対しては辛いのに同書の赤穂浪士の項では評価大甘
細川藩奉書の「石遣候間、佐渡さしず次第ニ可相渡候」の所、さらに忠利が足利道鑑と一緒に山鹿の茶屋に招いた、という個所を無視、千葉城の屋敷や、錦考輯録曰く、武蔵を正月祝いに奥書院に招いた事等、
それら一切シカトして「忠利の武蔵への評価は低かった」と書き、
兵法三十五箇条を献じたのにも触れず、挙句五輪書や永青文庫などで真作と認められている書画などの作品群を全てひっくるめて「後世の神格化による捏造」扱い
東京大学史料編纂所教授の肩書がなかったら大バッシング食らう様なトンデモ論だよ。あくまで「そういう可能性もありうる」というだけに留まっている筈の事なのに、まるで定説であるかのような口ぶりだし
これに比べて、35〜44pの内蔵助への弁護ったらないぜ、最終的には「勘」とか言ってるし
大体、内蔵助がりくに送った書状には触れて、武蔵が佐渡守らに宛てた書状はスルーなのも疑問、武蔵の一級史料に関しては丸岡宗男氏が著書で纏めていたが。
そもそも武蔵は仕官してないんだから、公的文書の残存率が低いのは当たり前じゃないか。そんな基本的な事も押さえないまま批判してるんだから
まあこの人は史料の出典や吟味が重要って事が言いたくて、そのために一次資料の乏しい武蔵を槍玉にあげたんだろーけどね 『日本史の一級史料』の中では「忠利代の奉書に武蔵の名前が出てくる事は少ない、だから武蔵の評価は低い」ってな論法なんだが、
武蔵が熊本に来てから1年後に忠利は没しているんだから、冷静に考えてそんなに記述が残ってるわけがないんだ
むしろ光尚時代になっても待遇は変わらず安堵されたんだから、評価は高かったと考えた方が自然なのだが……
塩田や寺尾兄弟も細川の家臣だしね 重文三作品も捏造ってのはかなりの挑戦だね。自分だって文科省の庇護で飯食ってるのに >>314
遅レスだが武蔵は強いと評価(噂)されただけで
武士として評価が高かったわけではないと思います。
強いだけじゃなくて、文人との交流とか町割の技術なんかを持ってた所を見ると、やっぱり技術者、武芸者として評価されてたんじゃないの?
仕官してないし役人としては評価されてなさそうだけどw 役人になることと人物の出来不出来は直接イコールではない
武蔵ほどの有名人ならしがらみも多いだろうから、弟子や息子を推挙したんだろう フィクションで美化されすぎちゃって、希望的に武蔵はこうだからとされて可哀想な方でもあるな
>>365
講談・歌舞伎はともかくとして、二天一流の系譜や後世に残った武蔵の真作などまでフィクションとする人間が居るが
そういう意見は、はたして各分野の権威に太刀打ちできるのかな
五輪書は糸東流系の達士などが、大学の講義で教材に使う程の、広く認知された名著だ
上記の山本博文みたいな偉い学者なら上手い反論考えるんだろうが、それ以上に中身の無いバッシングが多すぎる 二天一流のは余りにズレが有り過ぎ
吉岡より巌流島が先だったり後だったり
武公伝と二天記ですら記述に違いがあって何を信じて良いやら 沼田家記の顛末みると、細川家に武蔵はこの時点で既に要人扱い
おやっさんのコネだかなんだか知らんが、ほとぼり冷めてから重用されるのに、違和感は感じないよな
ただ、一介の浪人から実力で大抜擢なんて印象ではない。パパ無二の人脈大活用の世故そうな印象にはなるが 。 素朴な疑問なんだが、武蔵の名乗りのうち、
”武蔵”ってのは”武蔵守”のことだよな?
上泉伊勢守とか柳生但馬守みたいな官職名乗りの。
そうすると、呼び名としては普通は「宮本玄信」になるんじゃないの?と思ったんだが。
上二人で言えば、「上泉信綱」「柳生宗矩」みたいに。
何で武蔵の場合、名乗りの方が一般化したんだろ。 武蔵守(むさしのかみ)じゃなくて、
字がそのまま武蔵(むさし/たけぞう)だからだろ。
江戸時代だと武蔵守は基本徳川家の独占。 六三四が武蔵になったって説はアレ、信憑性はあんのかねえ?
上泉伊勢守や柳生但馬守だって諱より流布されているじゃんお( ^ω^)
他にも松本備前、疋田豊後、丸目蔵人とか
それに塚原卜伝、伊藤一刀斎、富田勢源みたいに号の方が有名な人も非常に多いお
本来は通称、官職、号などを使うのが普通なのだから諱を使う方が異質なのだお( ^ω^)
軍記など伝記の類いでもそれらの呼称で記されるのが殆どだから
これらが一般に流布されるのは自然な成り行きだお( ^ω^) >>373
五輪書でも「宮本武蔵守藤原玄信」って書いてるんだから、武蔵が字ってことはないんじゃね。
牢人が自称する程度なら放っとかれてたんじゃないか。
そういえば武蔵の幼名は弁之助だけど、
大人になってからも字はそのままだったのかね。 >>375
その論法で行くなら
武蔵は宮本武蔵じゃなくて、宮本二天とかでメジャーになるはずじゃないの?
つーか俺は「武蔵」が流行った事よりも、なんで新免じゃなくて宮本がメジャーになったか、の方が気になるねえ 下がりすぎてるのでage
>>377
語呂がいいというのもあると思うけど、もしかしたら晩年かあるいは死んだ後は、宮本伊織の養父という意味で有名だったかもよ。
というか伊織からしてすでに宮本だし、新免は武蔵のフォーマルな名称ではあっても、普段は宮本で通していたのかもしれない。
あと上の方で武蔵が巌流島の決闘の時に30前だとか言ってる人がいるけど、それはかなり後代の二天記とかあたりの話で、それ以前では17とか19とかになってる。
時期的に早いほうが正確である、とは限らないけど、案外と若い頃の決闘だったのかもしれない。 武蔵は、間違いなく自己愛性人格障害者だよ
http://f17.aaa.livedoor.jp/~etsubu/npd.html
親父や同僚がこのタイプだからよく分かる
自分でも理由がよくわからないが、サイキョー流ってイメージがある 宮本武蔵のドラマでいつのものか思い出せず困っています。
覚えている内容ですが
武蔵が宍戸ばいけんに挑みに行った時のシーン。
仲良く一緒に酒を飲み交わした相手がばいけんだと知り
眠っているばいけんを斬りつけられず、
喉元に布を巻いた鎌をおいて去る、、こんな感じでした。
これは誰の演じた武蔵ドラマだったか覚えている人いますか? 強かったとは思うけどねえ
宣伝が過ぎて胡散臭いから逆に評価下げてる気が >>383
でもそれ本人の責任じゃないからなあ
小野さんと同じで、柳生や武蔵がらみで信ぴょう性の欠片もないような武勇伝が流布されてるけど、流したのって本人じゃなくて弟子だろうし