【木刀】宮本武蔵を語る【サイコー!】
このスレの人たちは押井守原作脚本の「宮本武蔵 双剣に馳せる夢」
見た?
それほど歴史に詳しくない俺でもちょっと違和感あったんだけど。
このスレ的にはどうなの? >>259
無茶苦茶。
「武蔵は武将になりたかったので、馬に乗って戦う為の馬上剣法として二刀流を編み出した」とか
トンデモってレベルじゃねーぞ。
馬上なら槍使えばいいだろ。
武蔵自身、状況に応じた武器を使えって言ってるのに。 つーか、武蔵は出世しようと思えばどうにでもなったんじゃないのかねえ?
生まれからして赤松に連なる公家の末孫とも言われる新免、その話が虚か実かはともかく、武門の出として決して悪くはない
諸藩譜代大名らとの交流も篤く、林羅山ら知識人層の評価も高い
経歴を見れば単なる兵法家ではなく名士としての評価もされていたことが十分推察できる。
本当に出世欲に塗れた俗世間的な男だったのかねえ? その辺の混乱は、武蔵本人の記述・言動と、
後世の人間が書いた創作した話が混同されてるのが原因だろうな。
武蔵本人の行動を追う限り、いわゆる出世欲があったようには到底思えん。
だからこそ余計にトンデモさが浮き上がるんだ>押井版武蔵 養子の宮本伊織は母ちゃんが小原城主の一族だし
伊織の実弟の玄昌は母ちゃんの実家を継いで法眼まで出世したくらいだし
ハングリーな出自だったとは
とても思えないよね。
というか、武蔵自身にも年を経るにつれて心境の変化があったのだと思う
尾張に逗留していたころに柳生の門人と試合をした事を顧みて、
「無分別な事をしてしまった」と自嘲するエピソードがある。
この話が真実か創作かはともかく、十三で有馬喜兵衛を殺し、十六で秋山、と他流試合を重ねて行く所から、
若い頃はそれなりに自己顕示欲の強い青年だったのかも知れん
後半生で名声を得てからはもう、すっかりそういう臭いは抜けて行くわけだが
仕官を求められても伊織を代わりに推挙したりして、半分隠居状態みたいなもんだしな。
まあトンデモの先駆者は間違いなく司馬遼太郎の真説宮本武蔵だと思うけど。
司馬りょうは武蔵の残した芸術を「自身が認められないフラストレーションをぶつけた結果」とか言ってるからな。
難癖と言うにも酷い。 若い頃は若者らしく血気盛んで、修行を積んでいくに従って、心境が変化していった、というのは納得できるな。
そうでもなければ戦場に出たりもしないだろうし。
しかし、どうして武蔵ってこう毀誉褒貶が激しいのかね。
別に武蔵が完全無欠の超人だと言うつもりはないけど、
それにしたって殆ど言い掛かりに近い誹謗中傷が多過ぎる気がする。 名声が高いが故に、踏み台にされるってのはよくある事だろ。
うちの先生は武蔵よりすごい、と言えば、とりあえずわかりやすいからな。
柳生宗矩と並んで引き合いに出される筆頭だし。
で、柳生の場合は政治家でもあるから俗物呼ばわりもしやすいけど、
武蔵はそういう意味では超俗的だからな。
だから、くだらないことにケチをつけるくらいしかないんだろ。 >>266
>>名声が高いが故に、踏み台にされるってのはよくある事だろ。
うちの先生は武蔵よりすごい、と言えば、とりあえずわかりやすいからな。
武蔵の批判屋と言うのはそういう話を鵜呑みにして、
「武蔵伝説は嘘だった」「武蔵は弱い」と短絡思考に走るからな。
奥州の無敵流を称した武蔵とか
徳川家臣の無敵流・武蔵とか
どー考えたって武蔵玄信の事じゃねーべ
小野忠明や村上吉之丞の話もとても信憑性があるとは言い難い
しかもそう言うのはまだ良い方。
ネットでは沼田家記の記述が誤読されたのか何なのか知らんが、
「武蔵は小次郎を弟子と数人がかりで寄ってたかって殺した」なんて妄言を未だにちらほら見るよ
もはや捏造レベルじゃん、って
けど武蔵って大阪の陣にも島原の乱にも出てるんだな。
無双状態だったんだろうか。 大坂の陣はわからないが、島原では敵の投げた石に当たって退散。 >>263
てゆーか
理応院スペック高すぎだろ
・宮本武蔵の兄嫁
・三つ年下でも義理姉
・小原城主(大原城主?)のお姫様
・子供たちは美形揃い
・次男は小笠原藩家老、四男は法眼 >>267
単なる逸話や創作を
「信憑性は薄いが、そういう話があるという事自体、
武蔵という人物を考える点で参考となるのではないだろうか」とか、
わけのわからん理屈で捏造を正当化する馬鹿もいるからな。
少しズレるが、そういう意味で武蔵と同世代だと、小野忠明は最悪に近い。
あれほど逸話が捏造と自流派弁護に満ちた剣士も珍しい。
DQN同然に相手を不具にしたのを武勇伝扱いにするとか、
柳生に勝った、武蔵も逃げた、とかありもしない勝ちを捏造した挙句、
そういう話が出るくらい強かったのだ、とか、クズというか、ゴミにも程がある。 >>島原では敵の投げた石に当たって退散。
これをまるで失態であるかのように語る馬鹿どもも居るから困りものだな
戦傷を受けると言う事はそれだけ前線に居たと言う事。島原の時点で武蔵は50越えの隠居爺だ。
普通「老齢でありながら最前線に出て奮闘してた」だろ?
なぜ「武芸者としてあるまじき失態」とかいう真横に行くような発想になるのか?
大体、戦傷と言うのはそもそも論功になる。
ゲームと同じような発想してるんじゃないかね。じゃあ必死に戦って武運拙く討ち死にした人間は「ゲームオーバー」とでもいうのか?
勇敢に戦って生還したら普通は英雄だろう。
アホと違うか。 >>271
まあ、>>253みたいに、江戸時代初期の剣士同士の比較に
何故か200〜300年後の幕末や現代の話を持ち出す奴もいるしなあ。
その理屈でいいなら、毛利輝元は家康より凄いって理屈も成り立つだろうに。 今の剣道でも竹刀二本使ってもいいらしいと聞いたが
これはガセネタかな。
>>272
負傷しながら敵を多数討ち取って大活躍したとかならともかく
城壁登ろうとしたら石が脛に当たって退却、結局何も戦果を挙げられず何日か寝込んでいたというのだから
十分に失態というか間抜けというか…( ーωー)
しかも武蔵は仕官の望みを捨てきれずいたとこに戦であるということでえらい張り切っていた
老齢の身でありながら参陣し仕官の望みをかけて突撃したのに百姓の転がした石でこの有様
武蔵の夢はここに潰えたお
寝込んでいたのは痛みだけのせいではなかったかもしれないお( ^ω^) >>276
お前も武蔵が出世したかったとか言ってるクチか
まあこのスレの流れを見るだけでわかる事だから特に言うまでもないと思うが、
出世が理由ならこの時点で武蔵がわざわざ戦なんて出るまでも無い
武蔵と小倉藩は個人的にも関係深い、伊織の仕官のきっかけでもあるし。しかも笠系大成付録に旗本一番と名前があるから、この時点で並の扱いでは無い
で、投石で負傷したと言う事は、城は陥落間近であったと考えられる
まあこの辺から考えてみそ
>>274
片手だと有効打取りにくいからやる人は少ないけどな >>271
そういや柳生に勝った、武蔵に勝ったと言う逸話は多いが、
「あの小野忠明に勝った! うちの師匠は凄い!」ってのはあまり聞かんな
所詮、ヨタ話にすら上らない程度の認識だったのかしら 柳生と戦ったとか槍の法僧院と戦ったなんてのは創作なんだよね? かなり遅い時代の文献にならないと出てこないんで
そのへんは信憑性低い。
ソースの確かさなら
やっぱ高田・夢想が二強かなあ。 >>278
そもそも島原の乱自体、総勢15万以上、幕軍側の上使が討取られ、死者は8,000人に上るという大激戦だったね しかし、武蔵の合力米300石というのは随分と厚遇に思える。
五公五民で600石相当、四公六民だと750石相当、しかも軍役無しなら、必要経費は馬と小物が数人で足りる。
武蔵の可処分所得って今の金で幾らくらいになるのかな。計算方法によってかなり幅が出ると思うが。
仮に一石2両、一両20万円で単純計算すると総収入は年間1億2千万円になるが。
下世話な話題ですまん。 >>284
必要経費は七人扶持十八石で賄えてるんじゃね?
300石って純粋な収入かと。
下手したら兵庫助や忠明より収入は多かった可能性があるな >>285
ま、俸禄の半分以上は家来の扶持に消えるとも言うから正式な家臣よりは裕福でしょう。
武蔵のような客分の軍役負担はどういう形になるのか。正式な家臣はいろんな資料や研究があるが
客分の武芸者の負担はどうなのか?
算盤片手に小まめに帳面をつける武蔵というのも変だし、憶測しかないのかな? >>286
武蔵に関しての経理は弟子でもある塩田浜之助が管理していたとも言われるが
塩田であるかはともかく、細川の人間がやっていたと言うのは間違いなさそう
客分という事は形としてはあくまで細川家に逗留している間の滞在費という形だから、労役等の義務はなかったように思う
忠利に請われて何度か御前試合をしたり会談したりという逸話は残ってるが、それって労働じゃないだろうし
司馬武蔵は真説ならぬ珍説だよな
どうしてあれが「武蔵の現実の姿」などと絶賛されているかわからん
我欲を捨て去った仏法僧のような吉川武蔵と対極的な武蔵を論じているだけで、極論、トンデモの典型というのは変わらない
訳知り顔で司馬武蔵のステレオタイプなイメージそのままの武蔵を実像として語る人間にこそ
「小説を真に受けるな」と言いたい。
あれは小説と言うより論文と蘊蓄だが >>279
「ウチの先生最強!最高!」ってやりたいなら2番目を倒しても意味ないだろ?
そういうことだよ。
とりあえず、小野忠明の逸話に柳生と武蔵が両方出てきて、
柳生と武蔵の逸話には小野忠明が出てこないことが全てを物語っているかとw
まあ、一刀流の人間はその辺を都合よく解釈できるのかもしれないけどねww >>271
前に一刀斎マンセーで
武蔵の逸話は一次資料が見当たらない、身内評価ばかりだから信憑性が薄くて剣豪としての腕を評価するべきでは無いなどとさんざん講釈垂ながら
柳生十兵衛が忠明に弟子入りしたのは歴史的事実だとか平気でぬかす香具師を見たぞ
所詮、批判好きな連中はその程度の見識しか持っていない 五輪の書って読んで見たいんだけど、文庫で売ってるの?
中身ってさどんな事書いてんの?
私はこうやって吉岡一門を倒しました
とか自伝みたいな部分もあるのかね? >>291
俺も文庫でしか読んだことないから偉そうなことは言えんが
巻ごとに分野が分かれてて序文があって、箇条書きで要点が簡潔につらつら書いてあるような感じ
原文ママだとわけわかんなかったから諸般の本の訳と一緒に照らし合わせて読んだけど
文庫でよければ、市民図書館や大学図書館とかにあんじゃね?
俺は大学の図書館で借りたけど 岩波文庫で売ってる。
ただし武蔵の戦歴で紹介されているのは有馬喜兵衛と秋山某くらいで
内容は「実戦ではこうやって戦え!俺はこうやって戦ってきた!」というマニュアル本。 五輪書と兵法家伝書を読み比べてるんだけど、
内容も通じるとこがあったり、見解が違うところもあったりで、
そのまま武蔵と宗矩という当時を代表するニ剣士の違いが出ていて
なかなか面白いよ。 五輪の書で読み解く〜みたいなのは
パチモンだからだめだぞ! >>254
五輪書は読んだことあるけど、兵法家伝書ってのはどんな内容なんだ?
通じるところってのはどの辺? >>296
この辺がわかりやすく書いてある。
長いけど読みやすい。
【やる夫で学ぶ柳生一族(外伝その3・前編1)「解説・兵法家伝書(進履橋・殺人刀)」】
http://tagenmatome.blogspot.com/2009/10/blog-post_18.html
個人的には同じような感じで五輪書の紹介もやってほしい。 「至高のライバル」
互いがいたから、互いに偉大になれた。「伝説的ライバル関係」といえば!
http://sentaku.org/social/1000017335/ 一般的には武蔵といえば小次郎だろうけど、
現実の武蔵にライバルなんていたのかね。
実力的にどうこうというより、武蔵の意識上の問題なんだけど。 司馬の真説宮本武蔵読んだけどいまいちわからないな。
結局吉岡とは戦ってるのか?武蔵に関する史料ってどれくらいあるんだろ?
なんか120歳まで生きた老人の話を一番信用してるみたいだが。
もっと記録残ってないもんかねえ。 間違いなく吉岡とは戦っているだろ。
何しろ江戸時代最高の剣豪エピソード収集ヲタ
日夏繁高が「勝ったのか負けたのか、諸説あり過ぎてどれがホンマかわかんねー」と
サジ投げたくらい諸説飛び交ってたんだから。 日夏繁高って調べたら江戸時代前期から中期の人物らしいが
江戸時代中期でもう諸説飛び交ってたのか。てことは実際はともかく
江戸時代中期から武蔵は有名人だったって事なのか 日夏繁高の『本朝武芸小伝』で
武蔵の扱いは他の武芸者よりも大きいから
武芸者業界ではすでに超のつく有名人だったのは間違いない。
一方、源徳修斎の『撃剣叢談』はけっこう辛らつ。
まあこの人は誰に対しても考証癖全開なんだけれども。 武蔵と暮らしてた伝助って人のことをググってもひとつの文章しか出てこないんですが
これは創作なんですか? 広く認知されてる吉川を史実だと思ったら大間違い。かといって司馬も信用できんってか。
碑文も宣伝だし、二天一流の伝記も黒田藩系と細川藩系でまるで違うから当然ったら当然。
確実なのは五輪書だけだわな。
>>267
沼田家記「小次郎を弟子が数人がかりで寄ってたかって殺した」というのが正解だっけか。
確かに武蔵が小次郎殺害に関与したことはかかれてないな。
約定をたがえて弟子を連れてきたのは確実だが。
>>306
悪意有り過ぎ
しかもその前に武蔵と小次郎が一対一で立ち会って、小次郎が昏倒したことが明記されてる所に触れていないのはワザとか、無知か?
前者なら偏見をなくせ、後者なら勤勉に勤めるべし 「試合を仕候処、小次郎被打殺候」とある
小次郎が息を吹き返して弟子が集まって云々は
「後にて打殺候」
つーか門司城代が見てる前で弟子がリンチとか出来るわけねーじゃんjk
って原田さんが言ってた 息子に伊織って名前付けようかと思うんだけどどうだろう?英弥(ひでや)とどっちにするか迷ってるんだけど 名前はの文字は左右対称に近い方がいい、と選対やってるおっさんは言ってた 結局剣術だの、一対一で立ち会ってハッケヨーイ、なんてスポーツみたいなもんだろ。
スポーツと実戦をごっちゃにして、色々と限定された状況でのテクニックを競うスポーツで一番だから最強!
とかやってるから色々とおかしくなってると思うんだけどな。
何でもありの実戦だったら戦国時代は化け物モドキみたいな奴の話がゴロゴロころがってるけど、
奴らが立ち会いでも強かったか、というと疑問だし。
本多忠勝だったかを道場に呼んでみてお手本を見せてもらおうとしたら全く人の参考になるもんじゃなかったって話もあるし。 その辺は後世の人間の問題だろ。
武蔵自身は、兵法を修めるのは、武士として役に立つ為で、
武士が役に立つというのは、戦で功績を立てることだ、と明言してるし、
大の兵法と小の兵法も分別してる。
後世、剣術をやってる連中が自分達の格を上げる為に、
「優れた剣術家=武士としても優れている」みたいなことを言い出したのが悪い。 武蔵が当時から武芸者として高く評価されてたのは間違いないけど
武士としての評価がどうだったかというと、今ひとつ明確じゃないしな。
別に武蔵に限った話じゃないけど。
確かに武士と武芸者を混同して話をする奴は多いよな・・・。 武士としての評価は全く高く無かっただろ。
細川家で厄介になってた時もたった300石しかもらってねーし、結局仕官しなかったのは事実。
ただ労役の義務の無い、家臣として雇ったわけでもない客分に合力米で300石もポンと渡して殿様との謁見や鷹狩りも許すんだから、
武芸者としては目ん玉飛び出るくらいの高評価。
林羅山のような学者、烏丸光広のような公卿からも絵を通じて高い評価を貰ってる
人物としての社会的ステータス、評価は高かっただろう。
逆に国政に携わるような人間ではないと思われていたのが実際の所だろうな
まあ明石の町割りとかはやってるし、息子たちは高官になってるけどさ >>314
武士は今で言う政治家、公務員で、
武芸者は文化人やアスリートに近いからな。
まあ当時は軍人の側面も入ってくるが、確かに武士と武芸者を混同してる奴は多い 実際の武蔵は大した人物ではない、とか言われてる部分って、
ほとんど「武士としての武蔵」についての話なんだよな。
そりゃ仕官自体してないんだから評価が高いわけないだろ。
そんな評価の仕方をする方が筋違い。
そっちの方向で話がしたけりゃ柳生宗矩一人で十分だろ。
無理に武蔵を引き出すこともない。
武蔵はあくまで「武芸者」として評価される人物だと思うんだがな。 >>315
門外漢からの評価が高いというのはどう評価すべきなんだろうな
一流文化人士も認める才気を持った人物であった事の証明であることには疑いの余地は無いが
武蔵は家柄は決して悪くない。このスレではわざわざ述べるまでも無いのだろうけど、基本的にその辺の腕っ節自慢とはそもそも訳が違う
そのあたりも名士として広く認知されていた理由かもしれん。どこの馬の骨ともしれない出自ならあちこちの大名とあんなにたくさんのパイプは作れまい
林羅山、烏丸光広も、その分野では知る人ぞ知る同時代の権威だ。 しかし、武蔵って人はつくづく、芸能の人だったんだと思うよ
文武両道の文化人はいないわけじゃないが、
剣士として一大流派を形成する人間でありながら、今日まで世界中で講読される著書を書いて、残した絵が何点も国宝級の物として保管されているって言うのは
ちょっといないよね。
逆にいえばその気質が官には向かなかったのかもしれないが 今上野の東京国立博物館でやってる「細川家の至宝」展に沼田家記と鵜図の現物が展示されてた。
>>322
昨日みてきた。利休由来の茶器と信長の直筆見る気で行ったから、不意打ちをくらった。
鵜図は一気に描いている感じはある。絵師の下でかなり修練つまないと描けない感じ。
姫路にいた頃に習ったのかな。
沼田家記はかなり保存状態が良くて、数百年経過したものとは思えない。
藩の公式文書とはこういうものかと。
小次郎と武蔵の間には一対一という約定がまずあったのに
武蔵は数人弟子を連れてきて島に潜ませていたという記述があった。
そもそも当時の巌流島なんて砂州みたいなもんで数人来てたらバレバレ。
心理的動揺を誘ったんだろうなーと。
こういう騙まし討ち行為を非難する向きはあるけど、
対吉岡戦でも仮病使って清十郎ぶったおしてるって伝記もあるし
「むかつかす」「おびやかす」「うろめかす」のは武蔵のポリシーでもあるからね。
小次郎の弟子達に追われて武蔵が逃げ込んだのが門司城だったというだけで
門司城代は巌流島には来ていなかったようだよ。
立会人もいないし、島に小次郎側は本人しか来ていなかったわけで
沼田延元jは当然ながら、武蔵側にしか事情を聞けない。
実質、戦いの内容については武蔵側の主張しか残りようがないという所でしょうね。
>>323
スゲー
しかし、小次郎の弟子が巌流島、当時の舟島だが、に来ていなかったとすると、一体どっから出てきて武蔵に襲いかかったんだろうな?
武蔵も武蔵で、本当に立会人が誰もいないのなら弟子を連れていった話なんて言わなきゃわからなかっただろうに
色々と不可解な話だ >>324
そもそも立会人がいたなら、武蔵側が約束を違えて弟子を何人も潜ませていた件を問題視しないわけがない。
>一体どっから出てきて武蔵に襲いかかったんだろうな?
沼田家記によれば、殺されたことが伝わって、小次郎の弟子達が、復讐のために島に大勢船で渡ってきたんで、武蔵は九州側に逃げ出したそうです。
下関の彦島に弟子待という地名があって、そこに小次郎の弟子達が集まっていたという伝説も残っているんで、そっちから渡ったのかもしれん。
巌流島は九州側からも、本州側からも、岸から数百メートル程度しか離れてない。
>>324
>言わなきゃわからなかっただろうに
そもそも武蔵はそれも兵法の一貫と考えていたんじゃないかな。
勝つ為にならなんでもするのが彼だから、
>武蔵側が約束を違えて弟子を何人も潜ませていた件を問題視しないわけがない。
>武蔵も武蔵で、本当に立会人が誰もいないのなら弟子を連れていった話なんて言わなきゃわからなかっただろうに
岸から数百メートル程度しか離れてないただの砂州なら、約条を違えば見物客にも一目瞭然
それが見咎められないわけがない
武蔵も武蔵で、自分から不利になるような事を自ら言ったと考えるのは極めて不自然
そもそもなんで一度立ち合いで小次郎を昏倒させているのに後から弟子が出てくる?
この辺の不自然さから出てきたのが暗殺説だよな
>勝つ為にならなんでもするのが彼だから
それはあくまでも後世で創られたイメージ
確かに武蔵は「勝つために最大限の努力をすべし」と言ってるが、
同時に「命は捨てても名は惜しめ(身を捨てても名利は捨てず)」とも言ってる。
まあとはいえ、実際にはわからないけどな
船頭は二人の決闘を近くで見てたんじゃないか? >約条を違えば見物客にも一目瞭然それが見咎められないわけがない
地元じゃ無論見物人にバレバレで言い伝えにもなってたらしい。
最後の一行は小倉碑文のことだね。
古川吉松軒 西遊雑記 1726年
岩龍島はもと舟島といひしを宮本武蔵の介と佐々木岩龍武藝の論をし
此しまにおゐてしあひをし、岩龍宮本が為に打殺さる
ゆかりの者有りて墓を建しよりあらため名づけしと云。
赤間ヶ関にて土人の云ひ傳へを聞しに板本に記せしとは大に異なり
岩龍武蔵の介と約をなし、伊崎より小舟をかもしてふなしまへ渡らんとせし時
浦のものとも岩龍をとゝめ武蔵の助門人を数多引具し先達て渡れり。
大勢に手なしといふ事有り一人にて叶ふまじ、今日はひらに御無用なりといふ。
岩龍が曰士は言さはまず、かたく約せしなれば、今日渡らさるは士の耻るところ也
若し大せいにて我を討は耻辱はかれにぞあるべけれといふておして島に渡る
はたして門人の士四人與力して終に岩龍討る
初止めし浦人岩龍が義心にかんし墳墓を築しよりかくは稱することゝなれり
虚實は知らざれども土人の物語のまゝを記して後の考へとす、
或人また宮本の子孫小倉の家中に在り、武蔵の介墓もありて、岩龍島に相對せりと云。
結局、資料がどこまで信用できるか、という大前提に帰る。
それと
>>見物人にバレバレ
であることは武蔵だって百も承知であったはずなのに、本当にそんなあからさまな手を使う阿呆だったのか、
また、その仮定であれば明らかに正道に反していた行為をしながら、その後の社会的地位を失わず、よりによって渦中の細川の厚遇を受けていること。
議論の余地があると思う。
俺個人としては、武蔵を全肯定するつもりもないし、武蔵が正々堂々戦ったかは記述から疑問の残るところだが、
逆に武蔵卑怯者説も、全くのデタラメ、とは言わないが、所詮、異説珍説の類を出るものではないと思う。
特に地元の民間伝承なんて、殆ど信用に足る史料じゃないし。沼田家記はともかくな。
私見に過ぎんが、伊織の石碑のほうが身内びいきを差し引いても、藩の用心であった分だけ、根も葉もない噂の類よりはまだ信用に足るし、また武蔵死後直後であったということを考えても、あまり事実に剥離したことは書かなかったと思うが。
小次郎の記録がもうちょっとわかってりゃ少しは変わったんだと思う。
俺は武蔵卑怯者説ってのは小次郎を憐れんだ人間の判官びいきが作った話の一つだと思ってるが
そういう話が伝わるって事はいずれにせよ、地元ではかなり人望のある、有名な兵法家だったんだろうな
それぞれの説の流れを見るとこんなかんじか
巌流島史実=>試合見物=>巷間地元伝承=>古川吉松軒=>「西遊雑記」
=>武蔵=>直後事情説明=>沼田延元=>「沼田家記」
=>後年伝聞=>宮本伊織=>「小倉碑文」
「小倉碑文」=>黒田藩・二天一流=>丹治峯均=>「丹治峯均筆記」(慶長8年・武蔵19歳説)
=>松井家・二天一流=>豊田正脩=>「武公伝」=>豊田景英=>「二天記」(慶長18年・武蔵29歳説)
「二天記」=>吉川英治=>「宮本武蔵」=>現在の本流
小倉碑文が作られたのは試合後50年〜60年経過したあたり。
巌流島当時、宮本伊織は生まれてないので、碑文の内容は親の武勇伝を十数年後口伝で聞いた感。
沼田延元は武蔵の処遇のために直後事情を聞いている。
個人的には沼田家記のほうが信頼に足るように感じる。
沼田家記のみで考えると、細川藩の門司城に逃げ込んだのも不思議。鉄砲隊でガチ警護して、豊後の新免無二のところまで送ったって厚遇も不思議。
しかし無二がこの頃、細川忠興の義弟・木下延俊(豊後・日出城主)を指南していたのは延俊の「慶長十八年日記」で明確なので
これを加味すると細川家と新免(宮本)家がこの時代、既に繋がりを持っており、この厚遇も、後年の細川の厚遇にもあまり違和感を感じない。
吉川武蔵なんて昭和のフィクションはともかく、様々な史料上、巌流は確実に武蔵より年上の熟練武芸者だから
武蔵は阿呆だったのではなく、生き残るため必死に策したのではないかな。強者との戦いで生き残るためならば、どんな策も卑怯だとは思わない。
結果的に武蔵も豊前を離れる事になって、兵法指南もできなくなったわけだが、ともかく生き残ったわけだし。
五輪書には巌流島の話はまるで書かれていないことからも、巌流島は武蔵自身の心中では黒歴史だったのかもしれない。
>>333
武蔵だってこの時には弟子を抱える一端の武芸者だったんだぜ。沼田家記を信じるなら、だが
円明流を称した前か後かは明確にはわからんにせよ、武蔵も30近い。充実著しい時期だ。
約条を違えた上、大勢で袋叩き、なんて形振り構わないにも程がある。策でも何でもない。
いくらなんでも、そんな横暴は通らんと思うが。仮にも藩ゆかりの兵法者同士の仕合だぞ。
そんなこじれた状況になるなら、普通は対戦自体を避けるだろう。無二に調停してもらうなりなんなり。
「双方の弟子ども兵法の勝劣を申立 武蔵小次郎兵法之仕相仕候に相究」
で、流派全体を巻き込んでそんな程度じゃ対戦を避けられないくらい事が大きくなってしまったというのなら、なおさらそんな無理矢理な手は使えなかったと思うがな。
五輪書には有馬と秋山以外には書かれていないから、これを持って巌流島だけ特別とすることも出来んだろ。
講談や創作はともかくとして、お互いの武蔵像にも隔たりがあるだろうから何とも言えないが、いずれにしても、かなり性急な説だとは思うぜ。
まあ新しい史料が出ない以上、推測の域を出ないがな。 >有馬と秋山以外には書かれていないから
吉川戦って書かれていなかったっけ。「21で京都へ上り、天下の兵法者と勝負した」とか。
巌流島が丹治峯均筆記説、19の頃の話だったらスルーされてるね。
二天記説、29の頃の話なら巌流が「諸流の兵法者」の1人にあたるのか。
大久保利通暗殺の日は巌流島決闘の日
http://akiba.geocities.jp/pxzuwp/0203/31/200_1.html
これは偶然ではない、
佐賀の乱の首謀者江藤新平も、幕末の志士清河八郎も、
巌流島決闘の日に処刑された。
それだけではない、・・・・。 第一小次郎が何者だったかがわからんとなぁ。
細川家が始末したい人物で、武蔵が弟子を潜ませるのに協力してた可能性だってあるわけで。
ところで、皆さんは東京国立博物館で達磨さんとにらめっこは済ませましたか?
6月6日が最終日ですが、日曜日の夕方に行って見たら結構空いていて、ゆっくり見れました。 刀って最低でも1kgはあるよな。
1.5リットルのペットボトルを片手で振り回すようなもんだ。
両手なら兎も角片手で まぁ握りの部分とか全体のバランスがあるからペットボトルと比べて
といわれても違うんだけどね 模擬刀もってるけど、俺じゃ片手で振りまわしても多分物切れない。
相当力が無いと相手の剣を受けることも無理だろうな。
竹刀なら余裕なんだけどね。 水墨画がとても好きだな。
あんまり評価を聞かないけど、世間はどんな評価なんだろうな? 普通に高くね?
特に渡辺華山に評価されてからが高く、重文に指定されているものもいくつかある >>343
片手斬りの多い鹿島新当流では前腕を柄に添えて
刀身を安定させるそうだ。 他の同時代の剣豪が実際には殆ど真剣勝負なんてやらなかった事を考えると、
吉岡一門とひと悶着起こしたり、兵法指南を斬り殺したりする武蔵ってかなりのキチガイだよな
巌流島以降真剣勝負をやらなくなったのは、公権力に咎められてお尋ねものになったからなのかも 刀が重いとか、片手では切れないとか剣術した事ないのに言っちゃう男の人って…
シナイの軽さと剣道のイメージがあるからか、刀は重いって良くいうけど、普通の刀は武器としては十分軽いし、刃筋は片手の方が通りやすい。両手の方がぶれやすいんだよ。大薙刀とや槍なんか刀なんかと比べ物にならんほど重いよ?でも槍や薙刀にも片手使いの技はあるよ。
素人考えで書くのって、一輪車みてあんな不安定なものに乗れるわけない、とか言ってるのと一緒だよ。人間の工夫や身体能力は鍛えたらかなりの事が出来るんだし。 >>348
講談や小説と事実を一緒にしちゃだめー
吉岡一門との勝負はあったとしても真剣使った勝負じゃないだろ。シナイかせいぜい木刀じゃね? とりあえず両手だろうと刀と刀を直交させて受け止めるのはかなり鍔元じゃないと難しいからやってみ。
でヨウツベあたりで剣術流派の形を見て素人が想像するような、マンガや時代劇みたいな受け止め方してる流派あるか探してみるといいよ。
直交するような受け止め方はほとんど無いハズ。
二天一流の五方には受け止める動作なんか一つも無いし、五輪書の受け技も片手でできる攻撃か防御か判断しずらい技だよ。
相手の顔面を切っ先で突くように受ける、って書いてあるはず。この受け方だと、刀と刀の角度が小さくなるから、小さな力で相手の刀を反らす事になるよ。 >>350
は?
言われてる意味がよくわからないんだが、どこを講談や小説と一緒にしてるのか教えてくれないか?
巌流を殺したのは史料にあるし、吉岡と戦ったのは勝敗や顛末は不明だがほぼ間違いない。
>真剣じゃなくてシナイか木刀
それこそ推測にすぎねえな。それに重要なのはそんなところじゃないよ。他流試合を繰り返したのが問題だって事。
しかも巌流の場合、流派の宗家レベルが立ち会い、しかも相手を殺してしまっている。
問題になったのなんて、考える迄もないよ
巌流が細川の兵法指南だったのならなおさらだな 殺したって史料があるの?
そもそも武蔵自身は吉岡や巌流なんて名前は出してない。直近の文書にはなにも残ってないし、巌流も名前か流派かもわからない。
当時の社会状況を考えればわざわざ真剣で勝負よりシナイや木剣の可能性が高い。
武蔵より随分年上の疋田文五郎自身の武者修行での他流試合についての書き付けがあるけど、ほぼシナイか木剣での試合。吉岡一門がその後も普通に剣術家やってるのを見ても普通の試合だったんだろ。
で武蔵自身もシナイで小技早業ばかり求める事を戒めてるけど、逆に言えば当時既にシナイがかなり使われてたって事だよ 長い事書いてるけど
沼田家記や本朝武芸小伝くらい読めよ、このスレの上でも出てるし
経緯はどうあれ、巌流を名乗る小次郎と言う武芸者が、細川家の支配領内の小島で宮本武蔵に殺されたのはほぼ確実
小次郎の生存を伝える史料もない 巌流ってのは小次郎が称した流派ね
揚げ足取られたくないから一応 武芸小伝は1700年はじめの文献で武蔵死後六十年近くたってからの本だよ??
武蔵伝説の元ネタの一つ、1654年に宮本伊織が立てた小倉碑文だと、「兵法の達人、名は岩流」になってる。
小倉碑文だと殺した事になってるけど、兵法指南役とは書かれていない。
武蔵自身は岩流について何も書いてないしね。岩流が有名になったのは1700年代の歌舞伎の影響ってのが研究者の通説だよ。
佐々木姓も歌舞伎の創作だし。
吉岡家も清十郎に試合で重傷を負わせ、又七郎との試合では木刀を奪い打ち殺したと書かれてる。
吉岡とは真剣を使った勝負、とか岩流が真剣を使ったとかは書いてない。
沼田家記については、17世紀成立で小倉碑文よりは新しいけどそれなりに近い年代(武蔵死後三十年ちょっとらしいよね?)
まだ信じられるけど、これまた研究者から歴史的におかしいと疑問点がついてた部分があるはず。どこだったか忘れたけど。
そもそも江戸時代は創作を伝記に入れ込んだり、自分の先祖を良く見せようとしたりするのが普通だった点を理解しとかないと。 >>356
巌流か岩流かなんてさして重要な点じゃないでしょ。
ようは「ガン流」、小次郎の称した流名であることは殆ど間違いないし
名前と言う説もあるが、小次郎と言う名が沼田家記で明らかになっている点から、こっちの説はほぼ否定されてる。
どの史料から引用した戦いの模様かわからんから何といっていいかわからんが、君の挙げた小倉碑文には「岩流三尺の白刃を手にし」と書かれてるぞ。
それに重要だったのは得物がどうだったかというより、他流派の武芸者と戦い、それを殺傷してしまっていること。
だから武蔵の行動が問題視され、それを受けて他流試合を控えるようになったんじゃないか、といってる。これはあくまで俺の推測
巌流島の戦いについて疑問視されているのは経緯や小次郎の素性などで、小次郎が殺されたのはほぼ確実と言われてる
原田夢果や上村道子氏の著書なんかがこの辺の事情で有名だが、現諸史料で小次郎が殺された事は伝えられていても、小次郎が生き残った事を伝えるものは今のところないから。
新しい史料が発見されればどうなるかしらんがね
>岩流について何も書いてない
武蔵は基本的に、自分の著書で戦った相手の事は書かんよ
有馬と秋山が五輪書に名前だけ出てくるだけで、後は六十余度戦って一度も遅れをとってねえ、でまとめられてる
例えば高田吉次の伝記の崇白先生伝、丹治峯均筆記には吉次と武蔵の御前試合の事とか書かれてるが、このことも武蔵は自らでは記していない
吉岡についても武蔵は直接詳しくは語っていない。五輪書の原本には二十一で都に上って天下の兵法者に会い、数度の勝負をして勝たなかった事はなかった、と書かれてるだけ
だから小次郎に関して武蔵自身の筆がないのは別に特筆するような事じゃないよ >>356
『日本史の一級史料』では沼田家記の成立年代については触れていたが
内容について歴史的におかしいとかの疑問点はなかったぞ。 山本博文はなんだかんだいって、自分の好き嫌いがすげー強く出てるけどね
武蔵に対しては辛いのに同書の赤穂浪士の項では評価大甘
細川藩奉書の「石遣候間、佐渡さしず次第ニ可相渡候」の所、さらに忠利が足利道鑑と一緒に山鹿の茶屋に招いた、という個所を無視、千葉城の屋敷や、錦考輯録曰く、武蔵を正月祝いに奥書院に招いた事等、
それら一切シカトして「忠利の武蔵への評価は低かった」と書き、
兵法三十五箇条を献じたのにも触れず、挙句五輪書や永青文庫などで真作と認められている書画などの作品群を全てひっくるめて「後世の神格化による捏造」扱い
東京大学史料編纂所教授の肩書がなかったら大バッシング食らう様なトンデモ論だよ。あくまで「そういう可能性もありうる」というだけに留まっている筈の事なのに、まるで定説であるかのような口ぶりだし
これに比べて、35〜44pの内蔵助への弁護ったらないぜ、最終的には「勘」とか言ってるし
大体、内蔵助がりくに送った書状には触れて、武蔵が佐渡守らに宛てた書状はスルーなのも疑問、武蔵の一級史料に関しては丸岡宗男氏が著書で纏めていたが。
そもそも武蔵は仕官してないんだから、公的文書の残存率が低いのは当たり前じゃないか。そんな基本的な事も押さえないまま批判してるんだから
まあこの人は史料の出典や吟味が重要って事が言いたくて、そのために一次資料の乏しい武蔵を槍玉にあげたんだろーけどね 『日本史の一級史料』の中では「忠利代の奉書に武蔵の名前が出てくる事は少ない、だから武蔵の評価は低い」ってな論法なんだが、
武蔵が熊本に来てから1年後に忠利は没しているんだから、冷静に考えてそんなに記述が残ってるわけがないんだ
むしろ光尚時代になっても待遇は変わらず安堵されたんだから、評価は高かったと考えた方が自然なのだが……
塩田や寺尾兄弟も細川の家臣だしね 重文三作品も捏造ってのはかなりの挑戦だね。自分だって文科省の庇護で飯食ってるのに >>314
遅レスだが武蔵は強いと評価(噂)されただけで
武士として評価が高かったわけではないと思います。
強いだけじゃなくて、文人との交流とか町割の技術なんかを持ってた所を見ると、やっぱり技術者、武芸者として評価されてたんじゃないの?
仕官してないし役人としては評価されてなさそうだけどw 役人になることと人物の出来不出来は直接イコールではない
武蔵ほどの有名人ならしがらみも多いだろうから、弟子や息子を推挙したんだろう フィクションで美化されすぎちゃって、希望的に武蔵はこうだからとされて可哀想な方でもあるな
>>365
講談・歌舞伎はともかくとして、二天一流の系譜や後世に残った武蔵の真作などまでフィクションとする人間が居るが
そういう意見は、はたして各分野の権威に太刀打ちできるのかな
五輪書は糸東流系の達士などが、大学の講義で教材に使う程の、広く認知された名著だ
上記の山本博文みたいな偉い学者なら上手い反論考えるんだろうが、それ以上に中身の無いバッシングが多すぎる 二天一流のは余りにズレが有り過ぎ
吉岡より巌流島が先だったり後だったり
武公伝と二天記ですら記述に違いがあって何を信じて良いやら 沼田家記の顛末みると、細川家に武蔵はこの時点で既に要人扱い
おやっさんのコネだかなんだか知らんが、ほとぼり冷めてから重用されるのに、違和感は感じないよな
ただ、一介の浪人から実力で大抜擢なんて印象ではない。パパ無二の人脈大活用の世故そうな印象にはなるが 。 素朴な疑問なんだが、武蔵の名乗りのうち、
”武蔵”ってのは”武蔵守”のことだよな?
上泉伊勢守とか柳生但馬守みたいな官職名乗りの。
そうすると、呼び名としては普通は「宮本玄信」になるんじゃないの?と思ったんだが。
上二人で言えば、「上泉信綱」「柳生宗矩」みたいに。
何で武蔵の場合、名乗りの方が一般化したんだろ。 武蔵守(むさしのかみ)じゃなくて、
字がそのまま武蔵(むさし/たけぞう)だからだろ。
江戸時代だと武蔵守は基本徳川家の独占。 六三四が武蔵になったって説はアレ、信憑性はあんのかねえ?
上泉伊勢守や柳生但馬守だって諱より流布されているじゃんお( ^ω^)
他にも松本備前、疋田豊後、丸目蔵人とか
それに塚原卜伝、伊藤一刀斎、富田勢源みたいに号の方が有名な人も非常に多いお
本来は通称、官職、号などを使うのが普通なのだから諱を使う方が異質なのだお( ^ω^)
軍記など伝記の類いでもそれらの呼称で記されるのが殆どだから
これらが一般に流布されるのは自然な成り行きだお( ^ω^) >>373
五輪書でも「宮本武蔵守藤原玄信」って書いてるんだから、武蔵が字ってことはないんじゃね。
牢人が自称する程度なら放っとかれてたんじゃないか。
そういえば武蔵の幼名は弁之助だけど、
大人になってからも字はそのままだったのかね。 >>375
その論法で行くなら
武蔵は宮本武蔵じゃなくて、宮本二天とかでメジャーになるはずじゃないの?
つーか俺は「武蔵」が流行った事よりも、なんで新免じゃなくて宮本がメジャーになったか、の方が気になるねえ 下がりすぎてるのでage
>>377
語呂がいいというのもあると思うけど、もしかしたら晩年かあるいは死んだ後は、宮本伊織の養父という意味で有名だったかもよ。
というか伊織からしてすでに宮本だし、新免は武蔵のフォーマルな名称ではあっても、普段は宮本で通していたのかもしれない。
あと上の方で武蔵が巌流島の決闘の時に30前だとか言ってる人がいるけど、それはかなり後代の二天記とかあたりの話で、それ以前では17とか19とかになってる。
時期的に早いほうが正確である、とは限らないけど、案外と若い頃の決闘だったのかもしれない。 武蔵は、間違いなく自己愛性人格障害者だよ
http://f17.aaa.livedoor.jp/~etsubu/npd.html
親父や同僚がこのタイプだからよく分かる
自分でも理由がよくわからないが、サイキョー流ってイメージがある 宮本武蔵のドラマでいつのものか思い出せず困っています。
覚えている内容ですが
武蔵が宍戸ばいけんに挑みに行った時のシーン。
仲良く一緒に酒を飲み交わした相手がばいけんだと知り
眠っているばいけんを斬りつけられず、
喉元に布を巻いた鎌をおいて去る、、こんな感じでした。
これは誰の演じた武蔵ドラマだったか覚えている人いますか? 強かったとは思うけどねえ
宣伝が過ぎて胡散臭いから逆に評価下げてる気が >>383
でもそれ本人の責任じゃないからなあ
小野さんと同じで、柳生や武蔵がらみで信ぴょう性の欠片もないような武勇伝が流布されてるけど、流したのって本人じゃなくて弟子だろうし なんだ
武蔵って卑怯者だったのか・・・
そりゃ、強くて卑怯者なら負けはしないだろうな 1000人の宮本武蔵と10000人の戦国軍隊が戦ったらどっちが勝つかな?! >>385
近年の大河ドラマなんかも同じことがいえるけれど
過去の偉人を持ち上げるための捏造エピソードって
なんで本人を貶める結果にしかならんのだろうな >>388
武蔵の場合、歌舞伎を皮切りに講談師がある事ない事広めまくったからな
飛んだ蠅をハシで掴むとか、有名だけど出典が解らんエピソードも多いぞ 高名な武芸者に無学文盲なものが多い中で、五輪の書を記した武蔵は偉い。 >>391
鉄砲隊で警護して、お父さまのトコまで送って貰える坊っちゃんが、文盲のはずないわな >>389
箸で蝿をとらえるのは斬殺者には二天記、それと武公伝が元だとあるが…確認が面倒なので、本当かどうかはしらん。
>>392
それは沼田家記のアレか。
ひく島で決闘したことになってるってアレな。
断言はできんが、どうにもそこら捏造くさいな。 >>219
大分遅いレスだが、宮本無二之助の伝書の記述は新当流の技の名前っぽいの載ってるようなこと武芸流派大事典にあったと思う。
だから新免無二が香取神道流の関係というのは近いかもしれん。新当流とは違うが、地理的に関連はあるだろう…
ただ、面倒くさいことに武蔵の弟子の塩田松斎が熊本で当理流の創始者であるという伝があるんだ。こんちくしょう。
さらに宮本無二之助の伝書は日付などの問題からどうにも偽書くさいし、その年代に松斎が細川家で指導していた可能性がある。
無二は武蔵が新免家を継ぐ前に死んでいたというのが正しいのならば無二之助の伝書は偽造品ということになるし。
「無駄な努力はするな」
と言ったらしいですけど
だれか詳細知らない?
そういうの言ってるのかな。
五輪書は一貫して正しい理にそった稽古しろみたいなこと書いてたように記憶しているが、細かいところは忘れた。
「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」とも書いてるのは確かなので、とりあえず日々の努力鍛錬は否定していなかったと思う。
あといちいち工夫すべしとか書いてたかな。
つまり……
正しい理論でちゃんと鍛錬を重ねるようにしよう。あと自分でも考えるように。
が武蔵の主張なんじゃないかとうろ覚えな記憶でまとめていってみる。 「鍛錬すべきなり」というような記述は何箇所あるんだかというくらいあるけど。
『五輪書』なんて入手が容易なんだから自分で見たほうが納得できると思う。 又聞きの情報で鍛錬を否定していると思われちゃ武蔵もたまらんだろうな。
なんで自分で読まないんだろう? 武蔵はあっちこっちの小説やらの題材にされるので、うっかりそれが有名になると事実無根の創作が広まることになって、
それが前提で話を進められることがよくある。
例えば二天一流などの武蔵の流派は後継者がいないだの広まらなかっただのという話がよくあるけど、ここらは司馬遼太郎あたりのいいがかり。
実際は江戸初期はかなり広まっていたし、明治あたりまで結構使い手はいた。
現代は伝える人も減ったけど、幕末でもっとも広まった直心影流の零落ぶりを考えると、かなり残ってる部類に入る。 直心は三大(四大)道場にも数えられないし、
幕末でもっとも広まった流派ではないでしょ。 三大道場って呼び方は幕末には呼ばれてないみたいね。
wikiると松崎浪四郎が自分が対戦した相手で強かった人間を並べて評したのが元らしい。
これもフィクションが拡大、変容、解釈された結果かもしれんね。
幕末の剣豪の中でももっとも評価された人物として直心影の男谷もいて、この人は講武所の師範まで務めた。
直心影流はむちゃくちゃ広まってた。
剣道形の型なんかも何度か改変されているんだが、
ttp://www.geocities.co.jp/Athlete-Athene/8236/isingonokendo.htm
これを見ると明治44年〜大正元年制定大日本剣道形の制定委員の二十人の内、五人を直心影流の人間が占めている。
ちなみに剣道形の一番最初のは制定をしている内の一人が、三橋鑑一郎という武蔵流で範士号をもらっていたという名人だね。
この当時は範士号はかなりの人間しかもらえないので、幕末から明治期にも武蔵流で強い人間がいたという傍証にはなる。 そもそも三大道場って「江戸三大道場」だったみたいなー。 幕末に最も広まったかは知らんが大正時代に入っても直心影流は多いな。
武道家名鑑を見た感じ北辰一刀流、神道無念流に次ぐくらいの数はいる。 >>401
それにしても幕末でもっともって言葉が好きなんだなw
直心の人? >>404
いや、剣術はやってないw
ちょっと強調しすぎたきらいがあるので反省するわ。
武蔵流の話にすっけど、派によっては竹刀剣術への改変もあったりするし、割とあとの時代まで残ってたみたいな。
九州だけではなくて北陸や関西、愛知あたりにもあった。
江戸後期だったと思うが、江戸でいっぱい試合して、各流派の特徴とか書き残してた人の文章があったが、そのなかにも武蔵流系統の名前はあったと思う。
武蔵一代限りの流派ではなかった、というまあそれだけのことを言いたいだけだが。 >>405
こちらこそあらぬ疑いをかけたなw
ところで秋田に武蔵丸二刀流ってのがあるんだがこれも宮本武蔵の流儀でいいのかい? >>406
武芸流派大事典によれば、祖は秋田藩士、小野崎造酒。
遠祖を丸目蔵人とし、上泉武蔵守の武蔵と丸目の丸をとって流名とした(日本武術流名録)。
二刀流とはいっても、根本は一刀を用いる。
ちょい略したが、こうある。
上泉武蔵守からとって武蔵流だと、武蔵全然関係ないのに二刀を使うのは面妖だが、流祖の小野崎が上泉武蔵守と新免武蔵守とをごっちゃにしてたのかもしれん。
あるいは新陰からでた二刀技法がもとなのか…は見てないのでよくわからない。
武蔵流関係の技法が混入している可能性もあるかもしれんが、実際にやってる人の映像とか伝書みないとなんともいえない。
こんな感じでいい? ありがとう。そこで丸目の名が出てくるとは思わなかった。
現在の熊本に普及した流儀という点では武蔵流と丸目の流儀ってのは接点があるね。
ただ、タイ捨流自体に二刀があるらしい。
http://www.yamame.co.jp/sympo2-3.html
>山北 タイ捨流は、二刀を使いよる。二刀の巻き物があります。宮本武蔵は
左に小刀を持って右に長刀。タイ捨流の場合は、右が短剣で左が長刀。たとえば、
右手と左手に筆を持って書いた場合、同じ字画で同じ名前が書けるかというと絶対書けない。
どういう達人でも、書道の何十段である人でも絶対書けない。二刀といえども一刀の心に
到達するんでないと駄目です。そういう心に到達するには、一つは投げ剣にある。
投げ剣でパッとやり、受けるときに持ち替えて長刀で切る。心と仏教は一致しなければならない。
生きる法則。それをキツエン一刀の心といいます。
あと、宮本武蔵から出たという二刀神影流ってのもあるんだよな。
宮本武蔵かと思えば上泉武蔵守が出てきたり、新陰系統かと思えば流祖が武蔵だったり
正直よくわからんw
二刀神影流鎖鎌術
http://www.nihonkobudokyoukai.org/martialarts/077/ >>408
二刀技法そのものは古くからあるしね。
武蔵も刀は片手で使うものといってるから、もう片方の手にいろいろと持つ戦闘法は過去にあったのかもしれない。
宮本無二之助伝書はシントウ流系だし、武蔵流の用語もそっちの流れらしい。
天真正伝香取神道流にも二刀のかたはあったはず。
>二刀神影流鎖鎌術
それは大正の頃に作られた流派で…坂本土佐海氏の随筆にもその流派作った人のこと言及があったような…悪口ではなかったけど。
武蔵を義経由来の流派の末裔とする流派もあるし、武蔵くらいの有名人になるとほとんど戸川白雲斎とかみたいな伝説上の人物と一緒で、仮託の対象にされてたみたいね。
とりあえず武術の流祖伝説は明確に資料がある場合はともかく、ほぼ話半分で聞いといたほうがいいよw 二刀神影流は創作かw
脈絡の無さが面白いのに残念だ。
>宮本無二之助伝書はシントウ流系だし、武蔵流の用語もそっちの流れらしい。
天真正伝香取神道流にも二刀のかたはあったはず。
現状の香取神道流にも二刀は残ってるけど、武蔵誕生百年前に
新当流の二刀伝書があるというからね。
http://www.yukan-daily.co.jp/news.php?id=14245
>今回、大きな発見の一つが盛嶽(もりたけ)文書という。佐伯市内の民家の古い仏壇に保管されていたこの文書は、
文明16(1484)年の兵法書「新当流両部乱之太刀口伝」。刀を2本持った人の絵が描かれていることから、
二刀流の書という。 残念ながら創作なんだw
いや、もしかしてみんなが創作いってるだけで実は神免派の影響があったりなかったりしていろいろと痕跡があるとかするかもしれんw
>新当流両部乱之太刀口伝
ほう。こいつは面白い。
新免無二が死んだのは伊織の奉納した泊神社の額によると天正年間で筑前の秋月城なんだな。
無二はこの後も生きてたじゃないかという反論は多いんだが、伊織の頃にはそういう伝があったのは確かだろう。
つまり無二は筑前ゆかりの武芸者で、偽造臭いが宮本無二之助の伝書はシントウ流系で武蔵流もそれっぽく、その無二が縁のある筑前の近隣で新当流二刀使いの人間が天正の頃までいた、と。
もしかしたら、可能性だけだけど、ここらが武蔵流のルーツかもしれんねー。 鳥取の武蔵流のように、武蔵にあやかって名前を付けた流派もあるから、
一見しただけじゃ武蔵ゆかりかわからんというのがややこしい所だな 卜伝流の中にもどう見ても卜伝の新当流とは関係なさそうな流派もあるそうだからな。
伊織伝二天一流なんかも、小さん師匠も継承していたって流派だが江戸後期になって突然でてきた流派で怪しい。
二刀遣いは古くからあるし、あるいは武蔵流の末流が伊織に伝承されていたと詐称したのかもしれないが。 あまり柔術と縁がなさそうなのに卜伝を開祖とする柔術もあったりするからな。
昔の神道流は総合武術であったから柔も達人だろうという発想かな。 柔術といえば二天一流柔術ってのも存在した、らしい。
古橋惣左衛門が伝授をうけたというが、伝書の一部が残るだけだという。
武蔵の他の弟子の塩田も小具足が使えたというから、武蔵の体術ってのはあったんだろうけど。 十手と柔は親和性があるから当理流時代からあったかもね。 当理流が武蔵の父の流派であるかどうかはまだ微妙だけどな。
宮本無二之助=新免無二については異論も多い。 明治まで伝わっていた塩田流の建てた石塔には、塩田松斎が武蔵に入門して宮本無二斎の流派を学んでのち、一度破門されてから後に武蔵に許され、天下無双当理流手縛の祖となった、とあるそうだ。
面倒くせえ伝承だぜ。 >>417
だが、宮本武蔵が受けた大名家の厚遇ぶりを見ると、そこそこ良い家柄の人間で有ると考えた方が論に根拠を持たすには都合が良い
必然的に当理流開祖と結び付ける傾向になるのだろう >>419
単純に技術者、芸術家としての厚遇って考えてもいいんじゃないか?
明石時代の武蔵は作庭を随分としているようだし。
林羅山らと直接に関係があったんじゃないかって説もあるし。
そこらのコネクションとかあったんじゃないかな。
あるいは水野勝成の配下で武者奉行だった中川志摩之助の子供たちを養子にもらっているが、
これは水野勝成が大阪冬の陣に武蔵が参戦していて、それが縁だという話もある。
この頃の武蔵が宮本を名乗っていたのかは不明なので後世の混入の可能性は高いけど、
水野家と何か武蔵は関係があったのかもしれん。例えば放浪時代とかで。ちょっと年代あわないけど。
あと宮本無二之助は武蔵との年齢差は13歳…養子にとるのには少し歳の差が少ないかもしれず。 大阪の陣の宮本武蔵は、所謂俺らが武蔵と呼ぶ宮本武蔵の事でいいんじゃないの?
大坂御陳御人数附覚に、そのままズバリ「宮本武蔵」で載ってるし
よく宮本武蔵複数人説というのがあって、この武蔵は新免武蔵とは別の武蔵だと言う奴が言うけど
この武蔵は作州様附の十人の一人、嫡男勝俊の親衛隊であり、とすれば、道明寺と天王山で大暴れした部隊の一員で、しかも最前線に居たという事になる
もしこの宮本武蔵が二天一流の武蔵じゃないのなら、この時活躍した筈の宮本武蔵は一体どこ行っちゃったんだ? という話になる。水野家家臣として何かしらの記録が残る筈
妙政寺に武蔵が勝俊に寄進したという石灯籠があるが、ともあれ、武蔵と水野家は縁深い。この宮本武蔵=新免武蔵と素直に結論付けて問題あるまいよ
絵画や書家の武蔵を「二人の武蔵」とする説もそうだが、それぞれの分野に全く別人の宮本武蔵と名乗る人物が居て、それぞれそれなりに著名で、しかもそういうケースが複数ある、という方が逆に不自然だろう
わざわざ別人の同姓同名、というより同一人物と考えた方がよほどしっくりくる。
少なくとも水野隊の武蔵に関して言うなら、ドンピシャの宮本武蔵という名を持った同姓同名の別人、とわざわざ考えなければならない必然性が無い。
伊織からして宮本だから、新免武蔵が宮本武蔵と名乗っていた事は確実だしな。
まあ現存する大坂御陳御人数附覚が写本だから、確かに後世の人間が付けたした可能性も無くは無いが
宮本小兵衛が武蔵の養子になった経緯から考えても、水野隊に属していたのは、所謂宮本武蔵と考えるのが妥当だろう
>>421
武蔵が宮本を名乗ったのがいつ頃からかはっきりしないからな。
大坂御陳御人数附覚の原本には新免武蔵と書いてあったのを、後の人が宮本武蔵のことだろうと書き直した可能性はある。
というか、新免武蔵守藤原玄信は宮本武蔵の正式な名乗りだよ。まあ武蔵守は勝手に名乗ってたみたいだけど。
どちらにしても水野家と何かの関係があったんだろうけど、武蔵がどうしてそんな関係をもてたのかというのはよくわからない。
あと宮本小兵衛は武蔵の養子三木之助の甥。
三木之助の弟の九郎太郎…二代目宮本三木之助の息子に当たる。
武蔵複数人数説は綿谷雪氏が提唱していた説だけど、現在ではさすがに真に受けてる人はいない。
後世の伝書やらで捏造されているのを間に受けているんだろう。
ただ考証武芸者列伝で名前が列挙されてたけど、十六人とか多すぎるわなw
ここまで多いと逆に複数いたと考えたくなっても仕方ないだろうなー。 大坂御陳御人数附覚の出典は確か小場家文書で、書いたのは恐らく小場家の人間なのだろう
あえて縁も所縁も無い武蔵の名を意図的に付けたすとは思えない。武蔵が大坂の陣に参加したのは事実であったとみていい
黄耈雑録では丁度、「水野日向守が手に付き」として、道明寺合戦で何人もの敵をなぎ倒す武蔵が出てくるが、
それはともかくとして、武蔵が水野家に肩入れし、寵愛を受けていた事は広く知れていたであろう事がうかがい知れる
齢二十九までに六十余度の勝負を経て、勝ちを得ざる事なし、という定説に則るとすると、大坂の陣の時点では既に有名であったという事になる
勝重に招かれて兵法指南でもしていた縁だったのか、水野家家中に門弟でも居たんじゃなかろうか。後に入り浸る本多、小笠原、細川と同じような感じだとは思う どっちにしても武蔵が大坂の陣前後の頃から高名で活躍していた剣豪だってのは確かみたいだな。
仕官できなかったみたいなことは小説とかでよく書かれているけど、しなかったってのが正解だろう。
どっかの家に三百、五百石で召し抱えられるよりは、複数の家に影響がありながらも一人身の方が気楽なんじゃないか。
晩年の細川家で三白石もらってたのも、滞在費として小遣いもらってた感じだったらしい。
細川家に招かれたというのは俗説で、弟子のいる熊本に湯治にきていついたみたいなのが伊織の書簡などに書いてるそうだ。
まあ考えてみたら、高名な兵法者がどうこうの前に、当時の感覚としては小笠原家筆頭家老の養父がきているんだから、それなりの待遇でもてなすのが当然なわけだが。 >>424
正確に言えば、細川忠利に山鹿の温泉に招かれた
細川奉書に、足利道鑑と共に山鹿のお茶屋に招待された事が日付入りで載っている
とりあえず、「宮本武蔵って知ってる?」って人に聞けば、「ああ、あの剣豪の」と返って来るくらいには世間に認知されていたのだろう 全く関係の無い流派が「宮本武蔵源流」を名乗っていたり
吉岡伝や村上吉之丞の逸話で、全く経歴も風体も違う人間に宮本武蔵という名前を付けて、そいつが負けたとか逃げたとか言っているケースがある
それを挙げて鬼の首を取ったように「弟子たちの伝記と違うじゃないか、武蔵は捏造ばかり」と言う輩がいるが
そりゃ他の人間が武蔵の剣名にあやかっていただけで、武蔵本人の責任じゃないよな
大体そういう論者は、武蔵伝記を疑う発想はあるのに、武蔵を否定する所までで思考が止まってしまって、それらの信憑性に言及する事が無いのが残念
そもそも、武蔵研究者だって今更、二天記中の奥蔵院や氏井弥四郎の立ち会いが本当にあったなんて思ってる人間はいない
基本的に傍証出来るものしか信頼に足る、とされていない。そのくらいには武蔵研究は進んでいる
武蔵は情報が無闇に多すぎてどれが本当か、あるいはどの程度まで本当なのかがよくわからん。
それだけ高名であったというか、ネタに使いやすい人物だったんだろうけど。
しかしよく考えれば、その理由は小倉碑文のおかげじゃないかっておもわなくもない。
兵法者の業績を分かりやすく碑文にして顕彰するとか、あまりないから。
どうも名物みたいに結構紹介されてたようにも聞いたぞ。 小倉碑文はよく身内評価だと言われるが、伊織は大名家の家老でちゃんとした身分の人だから、下手な事は書けない
だからむしろ信憑性が高いという見地もある
まあ武蔵の事績はいおりがいたから残ったともいえるね
伊織は武蔵とは別に鵜の真似とかで神格化して取り上げられるくらいに当時知名度あったしね。
播磨ではそこそこの家柄だったとはいえ、忠真の近習として召しだされて、最終的に四千石を超える小笠原家筆頭家老だし。
考えるとものすごい出世だ。
小倉碑文は身びいきの誇張とかが多くて信用できないっていう人もいるが、そもそも顕彰碑なんだから内容の誇張は当たり前ではあるな。
そもそもそれ言い出したら、筆者の主観が介入しない書き物なんてありえないからね
何も参考にしないで勝手に書いたのか、事実に則って書いたのかの違いはあるが
碑文が建ったのが武蔵没後十年以内だから、当時を知っている人もいただろうし、伊織も全くのデタラメや試合結果の捏造は書きにくかったんじゃないかなー
ともあれ、伊織が「公人」であるという事が、信憑性の確かさにつながっているよね 武蔵作州出身説の人間は伊織はうそつきとか間違いが多いってことになってるらしいけどなw
泊神社の奉納額で新免無二が天正年間に死んでることになってるとか。
新免を神免にしているとか。
いずれ言いがかりレベルだけど。 訂正。武蔵作州出身説の人間の間では、伊織はうそつきとか間違いが多くて信用ができないってことになってる、だった。
推敲しないと文章おかしくなるな。
新免無二が天正年間に死んだことになってるのに、宮本無二之助や新免無二斎などは慶長年間に伝書だしたり巌流島の決闘のエピソードに名前が出るのは確かなので、ここらはどう考えるのかはちょっと問題だったりする。 「朝鍛夕錬」を五輪の書でも強調してるから
生涯を通じて相当修行していたことは間違いない。 うちの剣道の師匠七段にもし武蔵と殺りあったら勝てます?
って聞いたら勝てないだろうね
だってさ 剣道は剣術から遠ざかって全く別物のスポーツになってるからね。 そら剣に命をかけたことがない奴が
弱ければ死ぬという世界で生きてきた奴に勝てるわけがない
プロの殺し屋と素人がやってどっちが勝つか?つー話だろ それに武蔵は身長182センチ以上で頑強な肉体で
片手で軽々と刀を振り回せる怪力の持ち主。
当時でもバケモノ的存在だっただろう。 人を殺したこともない自衛隊員チームと人を殺めたこともあるヤクザ屋さんチームに
鉄砲や銃剣を持たせて本気で殺し合いをさせれば、自衛隊員チームが勝つだろう。 『剣に命をかけたことがない奴』が剣道七段取れるわけがあるかww 剣道七段はその道ではほとんど最高位、八段は特別な試験を経て取得(昔NHKで特集で観たことがある)
「一の太刀」のような必殺の一撃を繰り出せるかどうかがその判定方法なんだそうだが、
おもしろかったよ
・・・・剣道七段、で横道にそれてしまった。 >>291
訓練が大事としか書いてないよマジで
剣が異常に長いのは意味ないっていうのは小次郎のこといってるのかと思ってワクワクしたりした 伊織が嘘つきというより、伊織は武蔵のことを正確に知らなかったと考えたほうがよい。 吉岡家断絶がウソなので碑文の細部が皆インチキに見える。 顕彰碑の内容なんて、事績については大仰に書くもんじゃないかね。
武蔵とひと悶着起こした会派が断絶しただけかもしれん。
まあ、実際の所はわからんけど、どっちかと言えば吉岡伝のほうが信用ならん
無理に勘ぐれば、染物屋やってる吉岡家が自分ところは剣術の吉岡家の親戚なんです…というのを主張したいから捏造したのかもしれん。
吉岡流が将軍家指南やってたのが本当なら、本家が無くなっても使える人間は結構いたかもな。 吉岡伝は全く信用できない。
けれども、後の時代まで吉岡一族の動向が他の史料でも確認できるので、
伊織が碑で述べてる完全に絶えたというのは誤り。
それとテレビや物書きが面白いから良く取り上げるが、
現在活躍中の染色家の吉岡氏は、
同じ吉岡姓で先祖の家業が染色であることから、可能性は0ではないが
一族に吉岡一門の子孫である言い伝えや系図などがある訳ではない。 まあ吉岡伝は後世の資料集積本で、登場する武蔵の素性も他の剣豪も他のぱくりくさいし、よほど武蔵にくい人間でなければあれは真面目に採用せんだろうw
後世の吉岡流というと吉岡加兵衛だっけ?昔咄に名前が出てくる。
武蔵と戦ったという吉岡家との関係はよく解らんな。原文読んでないがそこら書いてるんだっけか。
顕彰碑という性格も考えて、武蔵が吉岡家と勝負して大勝したというのはありだとして、
だけど吉岡家が断絶したというよりも道場を構えるのをやめてしまった…
程度のことを大げさに書いたのかもな。
新免無二と宮本無二之助との関係も疑おうと思えば疑える。
自分の感触からすればおおまかに小倉碑文や泊神社の奉納額は信用していいんじゃないかな。 二階堂流の流祖は松山主水だが、武蔵が逃げたって逸話はその高弟の村上吉之丞だな。
いつ頃の話かは不明だが、主水が道場で教えはじめたのはwiki見たら寛永九年とある。
村上が二階堂流を学んだとするならこれ以降となる。
この頃の武蔵は明石に在住していて養子の伊織が近習として小笠原忠真に仕えてた。
寛永九年は武蔵四十九歳で、家督も伊織が継いでいたと考えるのが妥当なところだと思う。
実質隠居してたようなもんだから、仕官を求めて武蔵が細川家に来るというのは考えにくい。
あくまで逸話とした方がいいと思う。
村上の子孫は武蔵の孫弟子の新免弁助に学んで村上派二天一流を創始したという。 松山主水の説話は、ほとんど妖術の類。
戦う時に宙に浮いていたと記してある江戸時代の文献もある。
武蔵でなく柳生但馬が、あれは剣術でなく妖術と対戦しなかったという文献もある。 レベルが違いすぎる武術家のやってることは、時に魔法のように見えるもの…らしい。
関口柔心の子孫がそういうこと言ってるな。
しかし松山主水は妖術師めいているのだが、死に方はあっけなかった…。 >武蔵でなく柳生但馬が、あれは剣術でなく妖術と対戦しなかったという文献もある。
文献もある、で済ますんじゃなくてその文献の名前も教えてくれよ。
中国温家宝首相は戦艦『武蔵』
http://2nd.geocities.jp/jmpx759/02/4/46_2.html
戦艦大和慰霊碑は、沈没場所とは程遠い、徳之島犬田布岬にある。
それには重大な理由がある。
島の名前が示すように、この島は、「徳川の島」だった。
鹿児島でも、「徳」の付く姓は多い。徳地、徳留、徳、久徳・・・・・。
私の知る限り、全て「御庭番」だった。
天皇一族が敵地に入植する時、必ず辺境地から攻める。 >>462
ある流派の江戸期の伝書の一つ
活字にもなってない。
江戸中期以降のものだから、そういう伝説があったんだろう。 >>464
せめて何流かだけでも教えて欲しいもんだぜ。
武蔵や但馬はビッグネームだけあって、あちこちの逸話に引き合いに出されるとかありそうなことではある。
ありそうな話ではあるけど>>464みたいな書き方されると信じるべきかどうか困る。
もう少し手がかりというか詳細頼むよ。 >>466
464が眉唾とか脳内ソースかてのは別にして
流派の伝書の中身なんて口外したら破門らしいぜ。
ソースは、自称日置流印西派の爺さんに俺が言われたことだ。 活字にすらなってないのが400年残ってる時点で嘘だ
明治後でも100年後に書かれた本はフィクションだらけ
リアルタイムを知らない人が書くんだからあたりまえだけど >>467
古武術流派の伝書とか、昔は麩の裏あてとかに使われていたものだぜ…。
何せ当人以外にはなんら勝ちがないものだからな。一応先祖のものとして大切にしてる家もあったりするが。
最近はヤオフクのオークションなんかでよく出品されているよ。
先々月だったか、幕末で二刀流の達人のものと思しき伝書が売りに出されていると聞いた。
流派によるが五千円から十数万くらいまで上がることがあるよ。 もし剣術家の吉岡が健在で、武蔵はそいつらにボロ負けして逃走したのが本当だとしたら、伊織が顕彰碑を建てた時に黙っていた筈がないと思うがな
碑文が建てられたのは武蔵が死んでから十年も経っていない頃。まだ当時の事件を知っている人間も多く居ただろう
吉岡勢の勝利を伝えるのは吉岡伝のみ。だから剣の吉岡は事実、何らかの形で敗れたか、それとも最初から存在していなかったのか、どっちかだろう 吉岡と武蔵の対決に関しては、どっちが勝ったの負けたの引き分けたのという話があって、どれが本当だかわからん。
吉岡伝以外にも武蔵が負けたと書いてるのはある。勿論、吉岡伝を元にして記述かもしれんが。
伊織はなんぼいうても小笠原家の筆頭家老で、仮にまるで大嘘だったにしても、京都で染物屋なり剣客なりしていたというのでは文句のつけられなかったかもしれんが。
ただ、吉岡家の人間が禁裏で大騒ぎやらかしたって話はあるから、武蔵によって吉岡家が断絶したってのはないと思う。 別に吉岡じゃなくても、伊織の書いた内容が大嘘だったら「あんなもん大嘘」って書いた文献か、もしくは事実を符合させるものが出てるはずで、こんな論争になってないよね
公人の書いたものだけに、事実に反した事書いてたら後世の我々にはすぐバレるよ。それこそ、吉岡は実は断絶していなかった、みたいにさ
まあ後の吉岡と武蔵の戦った吉岡が同じ家である保証もないのだが……仮に同じ筋であっても本家分家の関係かもしれんし
これだけ逸話がある以上は間違いなく何がしかの関係があったと思うけども 武蔵と吉岡の関係はどういうものであったにせよ、伊織が書き残すくらいだから何かあったんだろうね。
武蔵に敗れたという吉岡清十郎は吉岡直綱でない可能性は確かにある。
一族で剣術やってて、たまたま兄弟で強い吉岡が幾つもあったのかもしれん。
顕彰碑だから誇張はあるにしても、まったくの嘘であるとは考えにくい。
まあ伊織の遺した史料については泊神社のとか、こっちもなかなか難題だったりする。
天正年間に嗣子なくして死んだ新免無二と、慶長年間に伝書を発行している当理流の宮本無二之助。
そして細川家で慶長年間に剣術を教えていたという無二の関係とか。
綿谷雪先生は、考証武芸者列伝で無二が嗣子なくして死んだと書いてあることについて、伊織は武蔵のことをあまりよく知らなかったのではないかと書いている。 筑前で天正年間に死んだ新免無二の後を継いで武蔵が新免を名乗ることになったのだとしたら、
宮本無二之助は武蔵と無関係の人物になるのだが、よく解らんな。
武蔵研究サイトでは、当理流の無二之助は後から捏造された人物ということにしている。 >武蔵に敗れたという吉岡清十郎は吉岡直綱でない可能性は確かにある。
一族で剣術やってて、たまたま兄弟で強い吉岡が幾つもあったのかもしれん。
現状で一番説明がつくのは案外、この説かもな
端っから武蔵の作り話だとして落とすのは簡単だが、それじゃ思考停止だし、何より碑文をはじめとした数ある史料の存在の説明がつかん
いくら武蔵が伝説的人物だとはいえ。
元となる事実なしにここまで発展した逸話になったとは思えん そもそもを言い出すとアレだが、吉岡憲法って武蔵に敗れたという話と一族が禁中能か何かで暴れたということくらいしかしらんw
吉岡染めとかはあるけどあれは後世のものだしな。
実際の吉岡流からして元がなに流からとかワカンネー。
史料によっては神道流から出ているという説もある。
武蔵以上に謎が多い気がするぞw >>468
確かに二天記も兵法先師伝記も巌流島から百数十年たった文書だからフィクションだらけ。
>>476
吉岡の作った「憲法染の掻取」が、江戸の武士の間で正装として扱われるようになったのは
安いってのもあるが、吉岡家が剣術家であったことも理由のひとつだよ
>>477
二天記はそもそも親の書いてた武公伝を底本にしているけどなw
吉岡家については興味はあるが資料をあまり聞かないな…
吉岡染めについて、どういう評価とかされてるの?
>>433
肖像画残ってンじゃん
あれ顔知らない人が想像で書いたんか? 近代文学の中で、宮本武蔵がはじめて登場したのは、恐らく森鴎外の『阿部一族』(大正2年1月「中央公論」)であろう。結末に近いところ、阿部一族の討手に加えられた大兵の臆病者、畑十太夫を武蔵が見て声をかける場面のほんの数行である。 >>480
武蔵研究サイトの人らがいうには、後期のほど武蔵の顔が怖く書かれているらしいぞw 武蔵研究サイトがいうことが必ずしも正しい訳ではない。
少なくとも他説を小馬鹿にした言動が目的に成っている部分が見受けられる。
過去の根拠がない説を非難する中に、根拠がない自説を挿入してある。
ウィキで見たけど武蔵って卑怯者じゃん
小次郎との決闘で弟子連れてくるし、カスじゃん。男なら約束守れよ
つーことで小次郎リスペクトします。武蔵は卑怯者です >>485
あの研究サイトにある根拠のない自説か…あそこはデータが膨大な上に読みにくいものだから、何処に何があるか把握しきれねえw
他説を小馬鹿にした言動が目的に、というのは同意だw 他説を小馬鹿にすることが目的って、具体的にどこよ?
引用してみてよ。 小馬鹿にするのが目的というのは言いすぎだな。
言い方が小馬鹿にしているように見受けられる…というのは、印象としてはあるな。
多分座談会とか読んだ印象なんだとは思うが。
あそこのデータはなんだかんだと豊富なのでありがたい。 モダンミステリースクールとかいうインチキカルトいわく、宮本武蔵はそこの信者だったらしいんだけど、本当か? >>490
城攻めに際して、本丸に直接向かった小笠原家の軍の旗本一番隊にいたらしい。
まあかなりの最前線。
有馬直純宛武蔵書状で投石でどうこうとあるのは有名だけど、どういう風に当てられたとかは確か書いてない。
激戦区であることを考えると、まあ石ぶつけられててもなんら不思議ではない。
書状は互いの戦功を慶びつつ、有馬直純が会いたいというのを断ったっつー内容だな。
面会を断ったのは有馬家と水野家の戦功争いに巻き込まれたくなかったからではないかって意見もあるが、これはちょっと穿ち過ぎじゃないかね。よくわからんが。 塚原ト伝だって矢傷は受けてるし、最前線に出たら無傷というわけにはいかないだろうね 別に一人で突っ込んだわけでもないしなあ。
基本、護衛だし。 「禅の思想と剣術」という大学教授が書いたわりとまじめな本の中で
ネット上で武蔵の資料を見る手段として播磨武蔵研究会を推薦してて驚いた 実際、武蔵研究としてはあそこが一番進んでるんじゃないの?
舌鋒鋭く他説の批判をしてるから反感も買いやすいかもしれないけど 少なくとも原文と資料を同時に提示・比較してるから
筆者の主観だけでなく読者にも判断できるようになってるところはフェアだと思うけどね
ここら辺は紙面に制限のないネットの強みだな ただの一読者ですよ
それより、主観による決め付けって例えばどういうところを読んでそう思ったの? ずっと準備中のページがいくつかあるけど、もう中の人いないのかな >>500
サイトは攻撃的(というか偉そう)なとこが嫌でちょっとしか読んでないけど
ちゃんと資料を提示した上で批判してるのは偉いと思う 攻撃的といえば菊池寛と直木三十五の武蔵論争もどぎつい言葉の応酬だったな >>502
去年に中の人の一人が新潟の方で講演会したとかなんとか聞いたから、純粋に手間食ってるだけだろう。
更新日だけ見ると細かく更新しているから、修正作業とか日々忙しく動いてはいるみたい。
多分、中の人たちがかなり高齢なんで、なかなか準備がおわんないんだろう。
綿谷雪のアタマの具合とか証言できるっていうてたくらいだし、今七十は八十前後の人たちだと思う。 優れた主張というより、経済的に支えられた物量によって、優れたサイトであるかの印象を与えている。
まあ、物量に価値があるといえばそれまでだが。
あれだけの量だから、原文で間違っている所も多い。
ただ、あの主張内容だから、
単なる間違いでなく、わざと間違って、サイトからの引用を炙り出しているのかと疑ってしまう。
とにかく、性格が悪い。本当に勉強したいのなら、あのサイトは読まない方がいいというか
触れないほうがいいのというのが個人的感想。
毒が多すぎる。 そちらのサイトによると「疋田の新当流起請文はマユツバ」らしいんだが、
何か根拠はあるんですかね? これです。
http://www.geocities.jp/themusasi2de/bukou/b204.html
>しかも、かの疋田豊五郎が雲林院弥四郎入道(光秀)に提出した起請文なるものがあるそうだ。
そうすると、疋田豊五郎は雲林院光秀に新当流を学んだということになり、これはいささか眉に唾してかからざるをえない。 五輪書に書いてある一言一句の真の意味を
理解するのは容易じゃないな
容易じゃないってわかることがまた容易じゃない >>510
それがわかったってことは貴方も相当な人なんですね。 ウチの近所には武蔵野子孫と言うおじさんが居るぞ。
武蔵と千葉のお姫様の間に生まれた一人息子の子孫。証拠は何もないそうだが武蔵が愛用していたという包丁がある。
見せて貰ったがステンレス製なんだけど…まー刺激して怒らせても怖いから感動したフリしたけど。 >>514
元々赤松支流の新免武蔵守家の跡取りで
養子の伊織が二千石で仕官ということを考えると
身分的には二千石のご隠居スタートだしな
吉岡との戦いも門弟率いて
洛中で小規模な合戦を行って逃げ出すだし
若い頃から文化人かつ剣術家のお坊ちゃまだったんだろう
金に困っていたとは思えない >洛中で小規模な合戦を行って逃げ出すだし
これはどういう史料からわかりますか? >>517
ごめん。すぐには出せないけど門弟同士の諍いがエスカレートして
両方の手勢が弓矢とかまで持ち出す騒ぎになったとか、そんな話だった気がする
それでその時の洛外での大騒ぎが誇張されて
一人で吉岡一門ぶっ殺す後の流れに繋がるという流れ
どの資料だったかは、ちょっと調べ直してくる >養子の伊織が二千石で仕官ということを考えると
>身分的には二千石のご隠居スタートだしな
そりゃ武蔵が名を上げたから養子が二千石で仕官できるほどになった訳で
二千石のご隠居がスタート地点というのとはだいぶ開きがあると思う 剣を極めれば70人も切れると思えるけど
二刀流で移動しながら戦ったんだろう
間違っても囲まれないように戦ったはず
今の剣道みたいな動きでは絶対無理だろう 前にテレビで素人相手に4段の人が同時に何人相手にできるかやっていたが三、四人で終わった 原田芳雄主演の「浪人街(ガイ)」という映画を見ると、多人数vs一人というのがなんとなくわかるよ。
一人ぶった切ると周囲はビビッて中々手を出せなくなる。様子を伺いすぎて突出できない。そうこうしているとパッと
身を翻して木立の中→追いかけると振り向きざまぶった切り→繰り返し。
ナマクラになってもいいように刀は8本くらい身につけてて、結構考えてると思った。
面白いのが敵陣に突入するまえに横に居た若者に「おい○○!!……重いぞ;;」と吐露したシーン。
一番燃えたシーン邦画も捨てたモンじゃないっていう映画だったなw 誰か見てたら、吉岡が剣使わないで石投げて武蔵殺してたwwwww
って言われちゃう><
殺し合いならアリだけどねw変な見栄があると固執しちゃうんじゃない? 吉岡が70人がかりで武蔵殺してたwwwww
の時点で大概だから平気よ SEXずっとしてないから最近ちょっとそうなってきた。
危ないな俺も・・ 初めて内田吐夢の宮本武蔵(2作目)見てるけどバカボンドと同じような感じだね
それだけどっちも原作に忠実に作ってるのかな
原作読むべき?
宮本武蔵好きからすると吉川英治の「宮本武蔵」てどういう評価? 吉川武蔵の評価は…って、アレ読んでる武蔵好きっていまどきどんだけいるのかね。
自分は一応読んだけど、まあなんだかんだと面白かったような印象あるよ。長いので休み休みだったけど。
吉川英治の文章は小難しくなくて読みやすいのがいいね。
ただ、戦前の書評の中には
「新聞で読むと面白かったのに、まとめて読むと人物が一貫してないし行き当たりばったりな展開で、なんでこんなものを熱中して読んでたのかわからない」
みたいなのがあったと思う…ソースが思い出せないので、話半分に聞いてくれ。
高校時代の教師から、吉川英治作品では法然が一番評価が高いとかいうてたが…。
ただ、武蔵もののスタンダードというか、原形の一つではあるから、それを考えると読む価値はあるかもね。
魔界転生の最後の決闘なんかも吉川武蔵のパロディな部分があるし。
戦後の武蔵ものはお通や沢庵の存在を含めてここらから引っ張ってたりするし。
知ってるとくすっとなれるような感じ? 吉川英治の宮本武蔵は自分はすきだな
あと自分の剣の腕は生まれ持ってのものだった。って言う言葉を遺してるけど、あれは誇張ではなくてそういう脳の特性だと思う。
武蔵好きすぎて熊本の島田美術館と武蔵の墓最近行ってきたわ うん?武蔵が自分の剣の腕についてそんなこと書いてたっけ? 吉川のは強い武蔵と弱い又蔵を比較しているのが面白い要素だわな
逆に言えば他に特徴がない ttp://livedoor.blogimg.jp/mildch/imgs/2/0/20683162.jpg 神道・仏教から歴史、政治経済まであらゆる情報の宝庫!
本日の講義は【大日本帝国は生きている 武士道】です。
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保険依存王宿題auロボットヤーフォーレポート日本評価カウントダウンサロン「わー!オぉあ」↓☆↓☆内閣飲み会郵政省mannernhk証券ディレクターDJ玩具研究員デズネーespana牧師TeNQdio店長少年 いくらなんでも宮本さんが刃牙に勝てるわけないだろ。
刃牙が無敵すぎて話が作れなくなったから実力を落としたんだろうな。
宮本さんは農民の投げた石で骨折する奴だぜ。
刃牙がそんな事ないだろw 「骨折」しましたっけ?
どういう史料に骨折が出てくるのかな? 検索してみると骨折したって思っている奴が結構いるんだな
そんな事が書いてある資料は存在しないから、思い込みなのか何かの受け売りなのか 島原の乱では籠城側が投げ落とした石で幕府側に多数の被害が出てる
武蔵の場合はどういう石だったのやら
あと、武蔵の手紙での自己申告以外にその情報ってあるのかな? 無いね
もしそんなものがあったら久しぶりの新史料発見てことになる >>529
「吉川英治の武蔵はウソパッカリよ、子供のトキは夢中でよんだけど
大人になってわかったヨ」大山倍達の言葉 >>547
お前の「空手バカ一代」もウソパッカリだったけどな〜 あ〜、俺生きてても何も意味がねぇ。
完全に嫌になるよ 空有善無惡
智者有也
理者有也
道者有也
心者空也
今更研究サイト読んだんだけど五輪書空の巻にある識語?っていうのかこれ
これは武蔵オリジナルではなく肥後系五輪書の後入れって事で確定でいいのかな >>550
筑前系の五輪書にはないというから、肥後系で後入れと思っていいんじゃないかな。
去年くらいにヤオフクで孫之丞の弟子・柴任の五輪書…の写しという、恐らく最古に近い五輪書写本が出されたが、残念ながら水の巻だけだった。
もしもこれの空の巻があって、それで確認できたら…と思うと色々と残念だった。
ちなその写しの五輪書は、確か二万とかそこらで売れたんじゃないかと思う。
もっと下だったったかな? >>551
五輪書の解説本では晩年の武蔵が達した境地みたいに紹介されることが多いけど、
後世の後入れだとすると色々とシュールな事になるなw
柴任の五輪書というのは柴任美矩→吉田実連の吉田家本の事?
吉田家本の空の巻なら既に最古の写本として発見されているけれども、
そうでなくて寺尾孫之丞→柴任美矩の五輪書だとしたら例え水の巻だけでも大発見だね >>552
五輪書については当の筑前系の武州伝来記で「清書がない」とあるので、未完成品だったのは共通認識だったんだろうね。
空の巻の後入れが確定の証拠にはならんだろうけども、肥前系の武公伝で五輪書は孫之丞が授かったことになってる。
それで肥後に伝わってる五輪書の方が記述が多いというのは、こちらには未完成だったという伝承は残らなかったのか。
あるいはそれを踏まえた上で完成させようとしたものなのか…。
オークションの内容は忘れたが、柴任が受け取った五輪書の写し、だったはず。
なんか水の巻だけでてた。
記憶曖昧なのだけど、吉田家本ではなかったと思う。
>>547
今更のレスだけど、大山倍達は吉川武蔵について「本物はあんなではない」と聞いてから
「むしろあのような武蔵を作り出せたものだと感心した」
みたいなこと何処かで書いてた記憶があるよ。
極真の道場訓も吉川英治監修だしね。 >>553
未完成だと踏まえた上で完成させようとしたんじゃないかなあ
肥後に流出した写本には筑前系空の巻のように代々の相伝証文が載ってないから
>>550の識語で穴埋めする必要があった、というのが研究サイトの見解だけどこれには同意 ところで沼田家記って検索してみると成立した時期が
寛文十二年(1672年)もしくは元禄二年(1689年)と出てくるんだけどどっちが正しいんだろう 沼田家記は…確か細川家が命じてそれぞれの家の記録を提出させたものの中の一つだったような記憶があるのだが…ソースが見当たらない。
覚え違いだったかな。
でまあ、その胡乱な記憶が確かだったなら、という前提で、寛文二年が成立年代で、元禄二年は細川家に提出して公文書扱いになった頃…かなあ?
しかし、このスレでの上の方で沼田家記の記述についての論争とか、今見るとなんだか面倒くさいだけだねえ…。
小倉碑文や泊神社の棟札の内容を否定するために、随分とグダグダと書いてる。 成立してから17年後に提出って遅すぎるんじゃないかって気がするけど……
寛文十二年に一応成立して、その後増補やら追補やらが色々あって元禄ニ年に舟島の記事が追加されたとかなのかな?
引き続きもう少し調べてみる。 沼田家記が成立してから、それと無関係に提出されるようになった…ということだと考えてるけど、そもそもが曖昧な記憶による前提なんでなんとも。
個人的には沼田家記の巌流島の戦いの描写はどうにも全面的には信用しかねるが、いつ頃に成立かは正確には知っておきたいので、調査結果は知りたいものである。 「図説宮本武蔵の実像 別冊歴史読本 (33) 」に、沼田家記を所蔵する永青文庫の川口恭子氏の記事が載っていた。
それによると沼田家記は二部構成になっていて、一部は延元について、二部は延之についての書だという。
そして沼田家記第一部の奥書には「寛文十二年九月日」と書いてあるそうだ。
寛文十二年という数字の根拠はあっさり見つかった。
引き続き元禄二年の根拠を探そうと思う。けど、これは難航しそうだなあ。 >>560
お、そっちだった。
ご指摘ありがとうございます >>138
十年も前の書き込みにレスするのもアレだけど、美作の宮本村は武蔵の死後にできたから、平田武仁は多分実在しない。
ただ、自分も無二は二人いたのではないかと思う。
無二が二人というのも変な話ではあるが。
武蔵は一時期、「宮本無二斎」あるいは「宮本無二之助」を名乗っていたのではあるまいか。 天正年間に死んだ新免無二
百年以上戦って天正八年に死んだ平田武仁
慶長二、三年に当理流の免許状を書いた宮本無二助/無二斎
慶長六、七年に黒田家に仕官していた新目無二
慶長十八年に木下延俊の御咄衆&兵法指南をしていた無二
どの無二が武蔵だと辻褄が合うかと言ったら年齢的にも状況的にも慶長十八年くらいのしか無いんじゃないの >>566
おお。まさかこんな放置されっぱなしのスレにすぐにレスがあるとは思わなかった。
木下延俊の日記にある無二を武蔵のこととすべきかはまだ慎重であった方がいいと思う。
黒田家に仕官していたという新目無二は、黒田家の分限帳の記載からだけども、分限帳は写本しかなくて後世伝承が混入されているようなので信頼性には疑問がある。
当理流の宮本無二之助については、現存の当理流伝書はみな筆跡が違う上に記名も微妙に異なるし、時代的に使われていないだろう季語もあるので、やはりそのまま信じるのは難しい。
そもそも当理流というのは宮本武蔵の弟子の塩田松斎が、武蔵より無二の流儀を学んで創始したと松斎の顕彰碑にあり、顕彰碑は野田一渓が伝書などを読んで当理流を再興し、塩田流を造ったことが書かれている。
そのことを考えると、当理流伝書は後世の造作じゃろなあ。
平田武仁は論外。
まあ武蔵が無二を名乗っていたのかはまだ要検証事例ではあるんだけども、無二流、あるいは新免無二流、無二も弟子の流派とも考えられている鉄人流…の分布が、なんか二天一流の分布とちょっと重なるのが気になっている。
塩田の顕彰碑にもあるけど、武蔵は無二の流派を教えていたという伝承があるわけで…。
武蔵の無二流の弟子というのがいて、話をややこしくしているのではないかあって気がする。 >後世伝承が混入されているようなので
具体的にどういった後世伝承が混入されていると確認されるんだろうか? >>568
無二関係の記載は幾つかあるけど、慶長六年正月中津より筑前江御打入之節諸給人分限帳には
新免無二に、「武州師父」とある。
これは武蔵先生の父という意味で、慶長六年というと武蔵は十八歳。いくらなんでも、その当時から武蔵が先生と呼ばれる凄い兵法者であったとは考えにくい。
というか、武州というのは筑前系二天一流の用語みたいね。
新免無二の名前がまずあって、そこに二天一流関係者が書き込んだ可能性はあるけども、この時点で写本が弄られているというのは間違いない。
現存の分限帳は転写を繰り返されて、明治になってまとめられたものだから仕方ないっていえば仕方ないんだけど…。 慶長年中士中寺社知行書附だとこれだけじゃないかな
一、百石
古御譜代
新目無二
一真、播磨人
こちらには何か後世の伝承が混入されているんだろうか >>570
慶長年中士中寺社知行書附の方は新免無二になってない?
新目無二は慶長七年諸役人知行割同九年知行書附の方だったかと。
他に新免伊賀守を新目伊賀という書き方もしているし、「新目」は分限帳特有かは知らんが多い誤記だよね。
「新目」は「新免」の転訛だろうけど、18世紀の本で「新免」を「にいみ」とルビを振っている例がある。
そこから「にいみ」→「新目」になったのではないかという類推しているところもあるね
無二に「一真」と諱をいれるのは円明実手流系譜の「宮本無二之助一真」が最初らしい。
そこからあちこちに「宮本/新免無二◯◯一真」の表記が広がったものと考えられるとか。
いずれ新免を新目に誤記をしてしまうあたりで、かなり資料としては辛い。 >>569
長岡寄之の宮本伊織宛書状案に「御同名武州、熊本より程近き在郷へ御引き込み候いて居られ候」とあるから
「武州」という敬称は武蔵存命中には肥後で使われていた。
それが筑前の黒田家中で使われるようになったのは柴任美矩が黒田家に仕官して二天一流を伝えた後だろうから、
件の分限帳は最低でも柴任仕官の年である万治三年(1660)以後の書写ということになるか。 天下無双は吉川英治とバガボンドが98%創ってる事を知るべき
歴史捏造はどこかの国だけで十分 >>573
それはさすがにお前が武蔵のことを知らなすぎるだけだよ… 吉川武蔵が書かれるきっかけは作家たちの武蔵強弱論争だけど
それは武蔵がその時点での有名人じゃなかったら起こりようがない論争なのにな
こういうスレに来る人間で吉川以前からフィクションに取り上げられる人気者だったことを
今時知らないヤツがいるんだろうか? 一次史料で武蔵を天下無双と評したものはないけれど二次資料であれば江戸時代からあるわな
『地誌 播磨鑑』
其後、伊織十六歳の時、赤石の御城主小笠原右近侯に、宮本武藏と云天下無双の兵術者を召抱へられ、客分にておはせしが
長岡房成『刀法録』
円明流の祖新免玄信も亦巡方してその地の剣客と試合す。
既に無双の剣なり。名、後世に高し。この人、教えるに直道を以ってす。
『尾張公徳川氏系譜』
天下無双の達人宮本武蔵至る。卿これが武芸を見ていわく、凡骨に非ず、妙神に入る。
これに仕を勧む、肯かず、客遇し、留まる三年。 つか吉川英治やバガボンドの武蔵ってあまり天下無双という感じがしないんだが
明らかに上泉や胤栄、石舟斎、一刀斎達の方が格上の描写だし 宮本武蔵非名人説の論争のきっかけは、確か斎藤茂吉だっけか。
洋行の行きか帰りか、巌流島に立ち寄ったら、茂吉のイメージとは違う、策略を使って小次郎を陥れて勝った武蔵の話が書かれてる。
それに憤った斎藤茂吉は武蔵を批判する文書を書いて、小次郎を哀れむ歌を詠んだ。
「わが心いたく悲しみこの島に命おとしし人をしぞおもふ」
それで菊池寛と論争してたところに直木三十五が割り込んで、吉川英治が絡んで…という流れだったかな。
斎藤茂吉が憤ったのは、武蔵に対して講談なんかの仇討ちをする武蔵のイメージが否定されたからだったか。
吉川英治も武蔵を書くといった時は編集に「なんで今さら武蔵なんか」と言われたくらいなので、まあ講談なんかでの有名人ではあったらしい。 晩年の勝海舟の談話録である『氷川清話』の中に武蔵への言及があって、
武蔵は大悟して後は丸腰でいても隙が無く、弟子が不意に打ちかかっても軽くいなしてしまった、
みたいな逸話が載ってる。この話の出典は不明。
武蔵が有名だったのは講談のヒーローであったというだけではなく、このような逸話やら伝説やらが
今知られているよりも昔はもっとあったからなのではなかろうか。 本朝武芸小伝なんかでも言及されているしね。
千葉周作も武蔵は二刀流は実戦では使わなかった、みたいに考証?しているし、やはり剣術関係者にはビッグネームだったんだろう。
一応いっとくと、勝海舟も直心影流の使い手で、男谷信友とも親戚。 武蔵対小次郎の巌流島の戦いの真相を、ウィキで調べた知識と勝手な妄想を混ぜてストーリーを考えたんだけど、書いてもいいかな
ちなみに歴史は苦手で正確に資料の調査もしてないから完全にフィクション
この戦いに関するいろんな説もちゃんとチェックしてないからもしかしたらありがちな妄想かもしれないけど
しかもめちゃ長文 そういうのは別のところでやってくれ
創作関係の板はあるだろ はい
とりあえず立ってるスレは無さそうだかし、スレ立てするほどでもないし消えます 巌流島の決闘の真相、というのは『漂流巌流島』でもネタにされていたが、
戦前の鷲尾雨工も小次郎の正体とは何かを論じさせる短編を書いてるね。 映画で見たいんだけど、どれが一番傑作と言われてるの? ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ まことは、考えていることが、スグにわかる
反応がわかりやすいからである >>49
それだけ首とっても徳川には雇ってもらえなかったんだ >>590
そんな十年以上前の与太にレスつけんでもw
武蔵が猟官活動していたという証拠はない。
していたかもしれないし、していなかったかもな。
個人的にはしていなかったと思う。
卜伝や上泉、一刀斎なんかも、一時期所属しても基本的に移動していたみたいだしな。
そういう、各地で弘流していく古い世代の兵法者のスタイルを踏襲してたんじゃないか。 大坂の陣の水野、姫路本多、豊前小笠原、肥後細川等徳川親藩の有力大名の元で
客分、客将としての暮らしはしたけど「徳川に雇ってもらう」なんて運動したことあったっけ? >>593
そういうイメージだけの話はもういらないから
何がしかの史料に基づいた具体的な情報を語って欲しい 武蔵が猟官活動をしていたという話の元ネタは、武州伝来記だろ。
それでは武蔵は将軍に召し抱えられそうになるが、柳生がいるし、その下風に立ちたくないからと断るんだ。
自分は仕官の望みを抱いたことはないし、姿も法外だからと。
兵法御覧の沙汰もあったが、将軍様は柳生を尊敬しているし自分の兵法見せても仕方ないやろと断った。
柳生も特に推挙はしなかったそうだ、とかある。
恐らくここらの話が戦後くらいから歪んだんじゃないかな。 細川家とつながったのはいつからなのか
そこが争点なんだよ 武蔵と細川家の関係?
元々、武蔵は水野家やら本多家やら小笠原家やら有馬家に謎の人脈があるからな…。
ここらの大名は外戚関係があるとか聞くがよく知らないな。その伝手がふつたものかもだが。
けど確か、武蔵が熊本に行ったのは長岡佐渡相手の書簡があって、用事があってきたから挨拶しときます
くらいのものだったと記憶している。
それで細川家から接待されたんじゃないかな。
武蔵当人はただの隠居の爺さんだけど。
徳川家の親戚で、九州の大名の監視役のように配置された小笠原家の筆頭家老・宮本伊織の義父だもの。
そりゃ細川家だって丁寧に対応するのが当たり前というか…。 武蔵と細川家の関係?
元々、武蔵は水野家やら本多家やら小笠原家やら有馬家に謎の人脈があるからな…。
ここらの大名は外戚関係があるとか聞くがよく知らないな。その伝手がふつたものかもだが。
けど確か、武蔵が熊本に行ったのは長岡佐渡相手の書簡があって、用事があってきたから挨拶しときます
くらいのものだったと記憶している。
それで細川家から接待されたんじゃないかな。
武蔵当人はただの隠居の爺さんだけど。
徳川家の親戚で、九州の大名の監視役のように配置された小笠原家の筆頭家老・宮本伊織の義父だもの。
そりゃ細川家だって丁寧に対応するのが当たり前というか…。 あ、なんかミスって二重書き込みしてしまった。失礼。 >元々、武蔵は水野家やら本多家やら小笠原家やら有馬家に謎の人脈があるからな…。
謎のというか水野勝成は武蔵の弟子になってるだろ 山田真竜軒との対決の漫談、途中までしかしらない。
結末を教えて。 >>601
水野勝成が武蔵の弟子ってのは、円明流に伝わる伝書だったっけか。
宮本武蔵義軽名義で発行されてたやつ…あれ本物かね?
そもそもどういう経緯で武蔵と勝成が関わったのかがよくわからん…。
大阪の陣の時に兵を募集して、その中に武蔵がいたというだけの話かもだが。 >大阪の陣の時に兵を募集して、その中に武蔵がいたというだけの話かもだが
その他大勢の扱いとして水野家の史料に登場するならそうかもしれないな
でもそうだったっけ? >>604
大坂御陣御人数附覚というのがある。
これによると、武蔵は水野勝成の御供騎馬武者二百三十人の中の一人として名前が載っているそうだ。
これがその他大勢の扱いだったかどうかは解らない。
福田正秀先生の記事のコピペだが
ttps://mizunoclan.exblog.jp/14496991/
《総御供騎馬二百三十騎、総御人数三千二百人之由》となっている。
士(さむらい)大将は中山外記、そして御供騎馬武者二百三十人の中
「作州様附」十人の四番目に宮本武蔵の名前があった。
作州様とは勝成の嫡男、美作守勝重(のち勝俊)のことである。
(略)武蔵の立場は当初陣場借りかとも考えたが、
勝重付十人のうち二人までは名前の上に「牢人にて出陣」との但し書きがある。
武蔵にはそれがないということは、仕官を求めての陣場借りとも思えない。
この頃すでに六十余度の勝負に勝ち、天下無双の剣豪として高名であった武蔵は、
その気になればいくらでも仕官が出来たはず。水野家では遊遇の名士、
勝成の御客分としての身分で、後の島原の陣での小笠原家同様、
若殿勝重の身を守る護衛の任を特に勝成から頼まれたものであろう。
いわば客将と見るのが正しいと思う
…とあるが、順序は逆で、武蔵が大阪の陣で活躍したから世間に知られたのかもしれない。
当時の価値観だと、兵法(剣術)勝負の勝ち負けなんぞ大名連中はたいした評価はしなかったと思う。
まあそれだと、武蔵が勝成に優遇されているっぽい理由は解らんけど。 >若殿勝重の身を守る護衛の任を特に勝成から頼まれたものであろう。
>いわば客将と見るのが正しいと思う
これがその他大勢のやることなのかあ
こんな重要なことをその他大勢にやらせるってことは
よほど人材がいなかったってことなんだろうな
普通は主君の兵法師範を務める人間とかがやることだよなあ
たとえば水野勝成を弟子にして信頼を勝ち得ている「宮本武蔵義軽」なんかが
やればよかったのでは? 宮本武蔵義軽名義の伝書は、正直偽書くさいが、元になる伝承なりがあったんだろう…というのが妥当なところかな。
なんらかの師弟関係か、それに準ずるものがあったと考えるのは自然ではある。
とはいえ、武蔵は伝承の範囲からしても明石在住していたようだし、水野家との関わりはどうにも見えにくい。
大阪の陣の前の水野勝成は刈谷にいたんだっけ。ちょっと遠いな…。 宮本武蔵義軽名義の伝書は、正直偽書くさいが、元になる伝承なりがあったんだろう…というのが妥当なところかな。
なんらかの師弟関係か、それに準ずるものがあったと考えるのは自然ではある。
とはいえ、武蔵は伝承の範囲からしても明石在住していたようだし、水野家との関わりはどうにも見えにくい。
大阪の陣の前の水野勝成は刈谷にいたんだっけ。ちょっと遠いな…。 あら。また二重書き込みしちまった…どうにも最近の仕様には慣れないなあ どの辺が偽書臭いんだろう
義軽名義の文書に見られる活動と反する内容の別の信頼性の高い同時代史料があるとかならともかく
伝承の方を無批判に優先するってのも凄いよな 武蔵についての関係文書は、私信なら「宮本武蔵」はあるけども、五輪書や小倉碑文など
そういうのだと「新免武蔵(守)藤原玄信」なんだよ。
他にも「新免玄信」があるけども、武蔵の正式な名乗りは「新免」だったのは間違いない。
熊本でも武蔵の弟子筋から「新免」を再興させるべく誰それに名乗らせた、みたいな話が二例でてくる。
どうも宮本は後から名乗ることになったものらしい。それは伊織の遺した棟札にも書いてある。
なんで宮本と名乗ったりしだしたかの理由は解らないが、通称として使用していたのが妥当だと考える。
だからまあ、「宮本武蔵守藤原義経」あるいは「宮本武蔵守義軽」みたいな署名の伝書はかなり怪しい。
というか、この「義軽」というのが当時としてはかなり怪しい名前であると、綿谷雪先生は兵道鏡について当時から述べていた。
多分、「義経」の写し崩れではないかという話なんだが、森田栄先生はこれに反論して、義軽名義はあり得るとして
綿谷先生が死んでから30年くらいして…何年か前に反論の本書いてたな。 大坂御陣御人数附覚は1650年代前半の写本だから、原本でもそうだったかは解らん。
もちっと上の方でも書かれているが、黒田分限帳なんかでも後世写本には伝承を反映したと思しき書き込みがされることがある。
その記述をそのまま受け取っていいものかは断言できない。 大坂御陣御人数附覚の内容は恐らく大まかには正しいと思うのは、武蔵はその後、
水野の家臣の中川志摩之助から三木之助、九郎太夫の二人を養子にとっているから。
なんの縁もなしに、養子縁組をするとは考えにくい。
とりあえず水野勝成宛の伝書は、改めて調べたけども慶長十三年発行…水野勝成44歳、武蔵25歳か…。
年の差は師弟関係としてありえなくはないけども、武蔵は若すぎないか?
あと勝成宛の伝書が兵道鏡として転写されているものの一つなのだけども、この兵道鏡は何種か
同様の内容のものがあって、しかもほぼ同内容の伝書が18世紀に円明流の脇坂によって発行されている。
脇坂の伝書、兵法教之巻とかいうそうだ。他にも円明流奥義書とか、類似内容の文書があるんだとか。
これらが武蔵の兵道鏡から抜粋して発行したと考えてもいいけど、箔をつけるという意味からすれば、
最初から全部、武蔵より相伝されし云々と兵道鏡と名付けて伝授しただろうと思う。
…とかここらは某所の記述のほぼそのまんまの要約だから自分の考えたみたいに書くのはアレだが、
水野勝成が武蔵の弟子だったとかいう話は、それこそ水野家の方に記録がなければおかしい話だが、
ぶっちゃけこの兵道鏡以外には調べてもでてこない。
現状、水野勝成と武蔵の関わりから18世紀以降に誰かが円明流の伝書を改変して創作した可能性が高いと思っている。 そういえば、播磨武蔵研究会、ジオシティーズだから三月にはたぶんなくなるよ。
主宰死んだそうだし、消えたら復活はないだろうな。 >>614
誰かの受け売りっぽいと思ったら案の定かよ
結局あんた自分で判断してないんだな
ちゃんと史料の内容確認してるのかとか聞くのがバカらしくなってきた >>616
入手できる資料は検討したんだよ。
やや自信はないので書かなかったが、自説としても、兵道鏡にある真位之事の記述は
かなり怪しい。
これが二天一流にもない、対二刀の教えでな。
自分は歴史資料の研究はそっちの研究者の方々にまかせて、実技方面と現在の伝承から
検討しているんだが、武蔵が対二刀技法を初期に完成させているのなら、晩年の二天一流
にもなんらかの痕跡がないとおかしいが、これがまったくない。
取材できる範囲で幾人かの二天一流の指導者に伺ったが、対二刀はないんだ。
そういうものが兵道鏡にあるのはやはり不自然にすぎる。
武蔵より後代に研究と検討が重ねられて作られたものだと思う。
ただ、これは他の事情からやや整合がとれないので、得意げに説として掲げるには躊躇われた。
あと剣道史研究の森田栄先生の著書だと兵道鏡は武蔵の著書であるという主張で
こちらは武蔵の筆跡から『五方之太刀道』などと共通しているという話ではあるが、
この書は大倉隆二先生などは武蔵筆であることは否定的だったと記憶している。
付け加えると、播磨武蔵研究会さんは五輪書以前の兵法書を武蔵は発行していないという立場で
一貫しているが、それは五輪書に「初めて書いた」ようなことが書いてるのが論拠で、
これは個人的には結構危ういと思っている。 ここ数年、武蔵は二刀流は使っていない、今の二天一流で二刀を使用しているのは歌舞伎などで武蔵が二刀流で有名になったから
五輪書から適当に創作した…という話をあちこちで書き込んで広めようとしている人を見つけて困惑している >>462
>>459じゃないけど、柳生但馬守が松山主水を恐れて戦わなかったという記述は『綿考輯録』だな。
松山主水ハ戸田流の剣術名人にて色々語伝も有之、
中にも柳生但馬守殿御聞およひ候而忠利君に御噂ニ而、
御対面之時忠利君御所望ニよつて但馬守殿御立合有之候、
然処双方しなひを取て立向はれ候処、但馬守殿しなひを下ニ置、
主水との立合ハ御断ニ被及旨ニ而被差止候、
主水御次ニ罷立候跡に而、何故に御やめ候哉と忠利君御尋被成候得は、
主水儀しなひを取立向ひ候得は、両足畳より弐寸程すき申候、
常の事ニ而ハ無之と存御断申候、
但右之者遠からさるうち剣難の相見へ申候と被仰候由、
然に無恙御供ニ而罷下、其翌年庄林十兵衛ニきられ候と或人の咄也
…とある。
>>464の江戸期のとある流派の伝書のひとつ、とか書いてあるのは、多分、
孫引きでうろおぼえてたのでソースが出せなかったので適当なこと言って誤魔化したか
あるいは、伝書は実在して、それは綿考輯録のソース元と同じ文献から引いたのかもね。 宮本武蔵って、吉川英治が小説にする前にはどんな扱いだったのかね
今ほど神格化はされてないと思うんだけど 作家の間で宮本武蔵強弱論議が起こるくらいには有名だった 一般庶民は武蔵の存在を認識するくらいには知名度あったのかな?
武道家や武芸者、学者、研究者、作家ではなく
そこいらのオッさんとか こういうスレに来る人に江戸時代から芝居や講談にもよく登場することすら
知られてないってのは逆に意外だな
真田十勇士を作って有名にした子供向けの立川文庫にも武蔵を主人公にしたものがあるよ
当然吉川武蔵より前 そうなんだ
無名の剣客を小説の題材にして
そこで初めて有名になって
俄かに研究する人があらわれて
みたいなパターンかなと思ってたのよね
例えば坂本龍馬なんかが、そのパターンでしょ
武蔵もそのクチなのかなと >例えば坂本龍馬なんかが、そのパターンでしょ
坂本龍馬って昭和3年に桂浜に巨大銅像が建てられた坂本龍馬のこと?
あれってそれ以前の小説家が題材にしたから作られたものだったの? 地元の郷土史家は偏った論文書くから学会では忌避される傾向がある
オラが村の英雄とかね
坂本龍馬もそのパターンで高知で騒がれてただけの人でしょ >>626
>無名の剣客を小説の題材にして
>そこで初めて有名になって
>俄かに研究する人があらわれて
>みたいなパターンかなと思ってたのよね
>例えば坂本龍馬なんかが、そのパターンでしょ
明治16年の「汗血千里駒」はそんなに影響力あったのか? まず地元の新聞であること
たびたび時事物の政治論争を混ぜ込んで連載中止させられてること
このあたりから現地でば大人気で、時事的な出来事も龍馬の考案にされて偉人賢人化に拍車がかかって
いまの俺たちの龍馬像になってる可能性が否定出来ない 吉川以前から武蔵が有名だった事も知らない無知な>>624は
司馬の竜馬がゆくあたりを頭において書いたんだろうけど
随分強引な流れになってきたなw 新撰組はどうだろうね
明治や大正期だと当人達がまだ生きているから
無名ってことはなさそうだけど 戦艦大和も宇宙戦艦ヤマトがヒットするまでは
一部の軍オタしか知らなかった 梶原一騎も一部の軍オタなんだな
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%88%A6%E8%89%A6%E5%A4%A7%E5%92%8C
>『新戦艦大和』(しんせんかんやまと)は、梶原一騎による絵物語、漫画。
>絵物語版は、1961年に吉田郁也の絵で「日の丸」に掲載された。漫画版は、「少年画報」の1963年7月号から1964年3月号まで連載された。作画は団鉄也。
>艦長の沖田とその息子2人が新戦艦大和でキラー博士と戦うという物語。アニメ『宇宙戦艦ヤマト』の10年以上前に「戦艦大和が空を飛ぶ」アイデアを出した先駆的作品である。
>新戦艦大和は潜水も可能となっている。 >>632
新選組も戦前からある程度知名度はあったと思う。
大菩薩峠だとか鞍馬天狗だとかにも出てくるし。
どういう扱いをしていたのかは知らないけども、
三田村鳶魚の「話に聞いた新選組」というエッセイを読むと
いずれにも人を沢山斬ったなどというと、剣術の腕前の凄じいように思うものもありましょうが、
彼の剣道は決して立派なものではない。私の祖父は剣術が好きでありまして、
近藤とも立ち合ったことがあるといって、よく近藤の剣術の話をしました。
ナニあれは強くはない、しかしいかにも粘った剣術であった、三本に一本は取れる、
と申しておりました。私の祖父なるものは、びっくり仰天するだけの人間であって、
真剣なんぞを持って斬り合うなんていう肚胸のある人間ではありませんから、
何のお話もないが、竹刀を持って立ち合ってみても、その人の根性が出ないことはありません。
私の大伯父になります谷合量平というものがございまして、
それも近藤の剣術の話を致しましたが、やはり祖父が申すのと違っておりません。
先日新徴組の一人でありました千葉弥一郎さんから承りますのに、
近藤の剣術はさまでのものじゃない、ということを言っておられました。
そういうふうでありますから、近藤が剣術の道場を持っておったなどという話は、
私は聞いていない。とても剣道の指南などをするほどの腕前があった人ではないのであります
…と書いてある。
青空文庫にあるけども、発表の日付が子母澤寛が新選組関係本を出した二年くらい後だから
多分そこらを意識して書いたものだと思う。
三田村鳶魚は時代小説だとかそういうのに噛み付いてた人で、だけど彼にして天然理心流など当時は知らなかったのだろう。
あと、もしかしたら戦後の小説で近藤勇の剣術が大したことがない、三本に一本はとれたみたいな言説はここらに端を発してるかもしれない。
なにせ割と最近まで、三田村鳶魚全集読んでたら時代小説は書けるって言われたくらいに影響力はあったからね
だからまあ、子母澤寛までは新選組は知られていたけど、割と半端だった…くらいの認識でいいと思う。
あと子母澤寛もかなり適当に虚偽とか混ぜていることは近年の研究で知られているという話だが詳細は知らない。 >>636
あ、「話に聞いた近藤勇」だった。
タイトルミスったわ。
>>624
元々は斎藤茂吉が洋行のついでに立ち寄った巌流島に建てられた顕彰碑かなんか読んだら
それが講談のヒーローだった武蔵と違い、わざと遅れたりして戦ったという卑怯な振る舞い
をしているということにショックを受け、小次郎を哀れむためになんか建てたのが評判になって
菊池寛や吉川英治と武蔵は実はーという論争を引き起こし、そこに直木三十五が載ってきて
「武蔵非名人説」というのを出してまあまあ評判になって、吉川英治はそれに反論する形で
「宮本武蔵」を書き出した…という経緯がある。
そして「随筆宮本武蔵」によると、今更武蔵?と言われたそうだ。
だからまあ、吉川英治以前から創作物の題材になったり、議論の対象になる程度には
みんなには知られていた。 歌舞伎とか浄瑠璃の武蔵は佐々木厳流に仇打ちのために挑むなんて筋立てだから
そりゃ実像とはかけ離れてるよね でも明治大正期の講談ならもう少しマシにはなってるかな まあ歌舞伎とか浄瑠璃の宮本武蔵イメージは、小倉碑文の適当な内容を、さらに伝聞で聞きかじったものがベースだろうしなあ
武蔵が卑怯なことをした系の話は江戸時代からあるはあるけど、やはりメインにはなりえないんだろう。
とはいえ、武蔵の実像がどんなものだったのかはやはり今持ってよくわからんけどね。
現在の武蔵イメージは反「吉川英治『宮本武蔵』」がベースになった、狷介孤高の野望強き兵法者って感じか。
ただ、『随筆宮本武蔵』を読むと吉川英治も実在の武蔵をかなり暑苦しくて側にいてほしくないと書いてる。
当時から20世紀くらいの資料だとだいたいそういう感じの、我の強い兵法者ってところに落ち着くんだと思う。 最近じゃ後半生に関しては自分の名声や社会的信用で養子を名家に仕官させ
自分は客分として誰の下になることもなく悠々自適に暮らすイメージも出てきている
仕官を熱望した武蔵ってのも古いイメージになっていくのかもしれない 無収入で、どうやって糊口を凌いでいたのだろう。
辻強盗などまさか。 伊織は養子になってから仕官したのか、仕官してたのを養子として斡旋されたのかちょっと解んないな。
どちらにせよ、武蔵は当時はそれなりの名士として認識されてたんだろうけど。
武蔵は弟子が多かったし、仕官はしてなくても生活するのに十分な収入はあったんじゃないかな。
もしかしたらパトロンくらいいたかもしれない。
小倉碑文には「生来大らかで細かいことは気にしない人だった」とあるので、その人物評が正しくて
それでいて五輪書なんて教本を書き残そうとしたとしたのなら、難しいことを言ったりガミガミ怒ったりしない、
人当たりがよくて面倒見もよい先生だったのかもね。 武蔵の葬儀は熊本の泰勝寺という寺で執り行われているが
ここって細川家の菩提寺なんだよな
家臣でもない浪人者の葬儀を藩主菩提寺で行うことって割とあるのかな? 武蔵が浪人者というのはどうかな。
武蔵当人の身分はおいといて、武蔵の社会的地位は小笠原家筆頭家老、宮本伊織の養父だし。
小笠原家の当主、小笠原忠真は細川忠利の義理の兄弟で、当時の細川家の当主、光尚の伯父にあたる。
その小笠原家にとっての重要人物の伊織の養父だから、そら歓待もするだろうし、盛大に葬儀もあげて不思議でもないな。 武州伝来記の「一生福力ありて、金銀に乏しからず」ってのも
武蔵の後半生に限っていえば案外誇張ではなかったのかな? 養子たちは全員優秀だったしな…弟子も多くいた上にハイソサエティにも顔が利く…
これで貧乏して生活困ってたら逆に変だ。
伊織は島原の乱で加増されて四千石超えたけど、それまでにも二千石はあったし。
若くして殉死した三木之助も知行七百石貰ってた。
武蔵が世話になってたかどうかは不明だが、二代目三木之助の九郎太郎も恐らく七百石。
武蔵自身の収入も併せたら、まあ苦労のない生活はできただろうな。 やっぱり悠々自適な生活なのか
昔よく言われていた仕官に失敗し失意の後半生ってのとはちょっと違う感じするな 仕官に失敗した失意の後半生を送った…というのは、元々悪意有りきの解釈だからね。
戦後の武蔵イメージが吉川英治の死後、こぞって吉川武蔵の作り出した偶像の武蔵を壊すため
殊更に武蔵は剣聖と呼べるような人間ではなかった、高名な割に評価は低かった……
みたいな方向で語られてたというのはある。
元々、吉川英治が描く武蔵も「強かったかもしれないが人格卑しく失敗者であった武蔵」という
直木三十五の武蔵非名人説に対する反論という意味合いがあったが、直木三十五のこれも
講談のヒーローであった武蔵の実像を暴いて失墜させるという目的があったわけで。
江戸時代でさえも武蔵については毀誉褒貶あった。
むしろこの評価の反復が長い間繰り返されて続いてきたということ自体が、
武蔵の特異さの証明かもだ。
ここ十五年くらいで武蔵の研究も色々と進んできた感じはあるけど、
最近の創作物がそれを反映しているかどうかは、ちょっとわからない。
趣味人で明るく楽しい武蔵を描いてるのは、漫画だと伊藤勢先生くらいしか自分は知らない。 武蔵の人格なんて本当のところは解らないんだから、創作物ならば別に史実ベースでなくてもいいというのはある。
剣術にすべてをかけた求道者というのもありだし、狷介孤高で野望に溢れた天才剣士なのか。
これが史実だ、という風に断定しなければどっちでもいいと思う。 個人的には吉川や司馬等の先行作品に乗っかってるだけだったり受け売りの武蔵像は萎えるが
逆にそれ以外ならなんだってアリじゃないかなと 変な武蔵といえば『中年宮本武蔵』なんか、やや古い作品だけどなかなかすごかったよ。
あらゆる意味で空気読まなくて好き勝手に生きている迷惑親父で、伊織がそれに振り回されていると。
そして伊織は若い頃はその武蔵とホモセクシャルな関係があったという…
色々と無茶苦茶な話。後半がやや失速気味だったかな。 宮本武蔵なんて実際の強さは幕末の志士たちと戦ったら2秒で斬り殺されるレベル 一応、二天一流の使い手が幕末の切り合いに出た記録はある。
高木元右衛門という人物が池田屋事件で襲撃されて、とっさに脇差と短刀の二刀で切り抜けて新選組の方位を突破したそうだ。 20世紀までは関ケ原で西軍として参戦してそのせいで仕官が進まず〜みたいなのがよくある武蔵像だった
2000年代以降に大坂の陣で水野家配下で参陣記録が見つかったり、信憑性はそれ程高くないにしろ関ケ原より黒田家配下で九州地方の参陣可能性も出てきた
晩年の来歴も東軍の名家を厚遇で転々としてるので、仕官は養子に任せて自分は悠々自適な楽隠居を満喫してる21世紀盤武蔵像が出来つつある 細川家が自らの菩提寺で盛大に葬儀を行ったのも失意の人生を生きた武蔵へのせめてもの同情みたいなこと言ってるのがいたが
なんてことはない、名士である客分にふさわしい待遇を行ったってだけなんだよな 武蔵の葬儀は、細川光尚の母親が小笠原忠政の娘だからってのはあるだろうね。
伊織が小笠原家筆頭家老だったわけだし、武蔵の厚遇は、やはりそちらから考えた方が通りがいいと思う。
例の武蔵が島原の乱で石ぶつけられたということが書かれた書状も、
有馬直純からの呼び出しへの断りのものだったし、
しかもその書状、有馬家の戦功の証拠として保存されていたというからな。
それを考えれば、武蔵は大名家にとって信頼できる証言できる人物であったということなんだろう。 武蔵とあわせて、武蔵の流派である二天一流や円明流のイメージの更新もした方がいいかもね。
昔は時代小説などでも武蔵の死後すぐ廃れたみたいに言われてたけど、今も普通に伝承されているし
結構各地に伝播していたりするし。 宮本武蔵の美作出生説、当時は宮本村なかったけどそれを承知しつつまだ主張している人がいるんだよなあ…。 一応、武蔵の生前からあの地方が宮本と呼ばれていたという史料はあったと思うけど、そこに村があったかは別の話だからなあ。 >>658
二刀流は怪力の武蔵しか使えなかったみたいな変なイメージすらあるね
武蔵が生まれる以前からあるっていうのに >>662
まー、なんで武蔵以前に二刀流をメインに据えた流派がでてこなかったのか、という疑問からそういう結論になるのはわからないでもない。
あと昔は、武蔵流はそんなに広まらなかったって考えられていたしね。
二刀流がそんなに強いのならばみんなやっていたはずだ、というのも、シンプルではあるが説得力がある話だとは思うよ。
ここらは多分、刀剣史とか服飾史も含めて考えないとあかん領分なんだと思う。 単純に、武蔵が家を嗣いだ新免無二の家が二刀多めに含む十手術の家だったからじゃないかね。
十手は腰に常用するものではいから二刀の流派にした、だから武蔵が二刀兵法の開祖である…と、小倉碑文にはある。
武蔵以前に二刀流がメインになる流派がでてこなかった理由は、現状では推論するしかないが、剣術ができた頃の武士は二本差ししてなかったからじゃないかな。
恐らく武術はその文化圏の社会背景だとか風俗が関係して生まれるのだと思う。
二本差ししてないのなら、刀を二本持つのが前提の二刀流が生まれる理由は薄い。
刀の二本差しが常態になったのがいつ頃かは明確には解らないが、戦場には刀を複数持ち込むことが多かったので、それが日常化したんじゃないかな。
脇差は腰刀が長大化したものだという話も聞くけど。 二刀流が強いか弱いかは人それぞれだと思うけど、武蔵が熊本に滞在したのは五年で、その短期間で流派が定着して、それなりに隆盛して今も継承されているからには二天一流はなんだかんだと優秀な流派だったんだろうね。 しかしこのスレ、13年たつのにまだ600台か…宮本武蔵なんて有名な剣豪の割に、スレなかなか埋まらないなあ。 西遊雑記の巌流島の記述と沼田家記の記述は類似しているから、多分、ソースは同一だと思うが
そうすると沼田家記の記述の元になるような事実、あるいは伝承は細川家の転封の前からずっと下関近辺に残っていたってことになんのかな?
火のないところに煙は立たないというが、世間の噂が火のない所に湧いて出ることもあるので即事実であるとも限らないけれど、武蔵はその後、小倉で棲んでいたはずだな。
さぞ、居心地が悪かったろうなあ。 割と誤解されるているところであるけど、沼田家記での武蔵は、一度小次郎に勝ち、その後で弟子たちが殺したことになっている。
弟子たちと一緒に殺したというような話は、西遊雑記などからだな。武芸小伝もかね。
沼田家記は、元々沼田家の手柄話が書かれたものであるというが、巌流島の決闘の他の記述をネットでみたことがないからなあ。
武蔵を護衛して木下家にまで送り届けたのがこの場合の沼田家の手柄になるのだけど、恐らく武蔵はそのために一度勝つ必要があったと思われる。
つまり、武蔵は決闘の正統な勝者であるから、それで強者であることは証明され、その武蔵も小次郎の弟子たちに狙われると立ち行かない。
その武蔵の護衛をした沼田家の者は、武蔵より上ということに必然となるということだ。
そう考えると、このエピソードは元々は西遊雑記と同様に小次郎を武蔵は弟子たちと一緒に殺した話だったのかもしれない。
それを手柄話として改変してこの形にしたのかもね。
武蔵が一度勝ってから、さらにその弟子がとどめを刺すっていうのはよく考えたら意味がわからん行動だしね。
沼田家の手柄話とするためには、武蔵には強者であってほしかったし、護衛する必要性があったから弟子に殺させるという、逃走の理由を残したのかもしれない。
しれない、しれないばかりだけど、まあ、こういう解釈もできる…くらいの話。 ただ、沼田家記のこの記述については、元々の伝承の改変があったかどうかは別にしても、地名は怪しいし、日付も書いてないし、泊神社の棟札を信じるのならば死んだはずの無二が存在していることになる。
無二の生死に関しては伊織の勘違いであるとして処理するとして、他の二つに関してはよくわからない。
やはり後世に伝承を元にして創作したのだと思う。
武蔵の死後30年以内という、比較的近い時期に成立した文書だからその分の信頼性は高いと考えたいけども、それなのに地名からして胡乱ということはやはりみながいうほどそのまま信頼できるかどうかはやはり怪しいんじゃないかな。
ただ、西遊雑記とソースが同じであるとしたら、細川家転封以前から小倉、下関にはそういう伝承があったということの証明にはなるけど。
あとこれはもしかしたら無関係かもしれんのだけど、沼田家記がまとめられた寛文十二年頃の熊本、なんかあったかなと二天一流関係の話漁ってたら、このくらいの時期に新免弁助が活躍してたんだな。
正確な時期はわからないけど、この頃、武蔵の再来と言われた弁助の登場によって二天一流はかなり勢力を伸ばしたそうだ。
もしかしたら、もしかしたら、沼田家記のこの記述は、今をときめく二天一流だって、その開祖も集団でかかられると逃げるしかなく、自分の先祖はその護衛したった…所詮、個人の兵法者の武勇なんてたかが知れたものだ…
という意図があって、伝承を元に書かれたのかもしれない。
あとこれは、本当にただの思いつきで、なんら証拠はないけど、西遊雑記の古川古松軒は、肥後にまできているんだよなあ…。
その時に沼田家記の話を拾って、創作したという可能性は…多分、ないだろうけど。
何かしら後でまとめる時に下関の話と勘違いしたとかーー
いや、単なる思いつきでしかないんだが。 >>130
今更十年も前のにレスつけるのはどうかと思うが、小倉碑文見るとキツキツだから、書かなくていいことは書かなかったんじゃないかな。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%80%89%E7%A2%91%E6%96%87
碑文は武蔵を顕彰するためのものだから、無二の情報なんか文字数入らないのならできるだけ省くと思う。
あと、沼田家記が書かれた頃には、無二周辺の情報がなくなってたとしても、別に不思議ではない。
武蔵の死後30年たってるしね。
正確な情報もなくなってたのだろう。 西洋東洋を問わず二刀流は常人以上の握力と腕力が必要不可欠な時点でマイナーな宿命からは逃れられない >>672
そう思うのは無理もない話であるが、江戸時代の武蔵関連流派の分布の仕方とか考えると、特殊な条件が必要な技術とするのは資料と整合しない。
二天一流なんかは熊本で主流な流派として伝承され続けたし、武蔵の弟子が一人移動するだけで根付いたりもするし。
刀なんて片手で持てるものをあつらえればよいだけの話で、そういうのはむしろ多かった。
二刀流がマイナーなのは確かだけども、中国武術では双剣や双刀はむしろかなり多い。
東南アジア武術でもかなりある。
何かしらの条件があるんだろう。 ヒストリカルではないが、甲冑競技をしている人たちは普通に双剣や二刀を使う人たちはいるが、格別に腕力が必要でないのは確認している。 元々、二刀流が難しいとか、弱いとかの言説は、宮本武蔵の流派が広まらなかったということを説明する「ための」ものという側面が強い。
昔は情報があまりなかったから、二天一流も武蔵以降は目立った名人がいないとかで形骸化したとか続かなかったとか時代小説家が適当吹いて、それが定着していったんだよなあ。
現実には全国展開する流派は江戸にあることが前提だし、武蔵関係流派は武蔵以降も続いてる流派は多いし、地元限定ではあるが名人の話もかなりある。
そもそも全国規模で有名になる名人というのが少数派だということが見落とされている。 二刀流は利き手でない腕の訓練が必要であり良くも悪くも人を選ぶ剣術。
ただ利き手の矯正は吃音の原因になったりと日常生活に支障を来す場合もあるから
やっぱり片手剣や両手剣に比べると主流にはなれない >>676
それだと、現実に二刀流が藩によっては大きな勢力になってたり、江戸時代を通じていたことの説明はできませんね…。
世界的には双剣や二刀流はいっぱいあるし、国によっては主流になっていたりする。
よもや日本人以外には利き腕がないってこともない。
両手をそれぞれ使う武術は日本でも珍しくないし、これは上にも書いたけど、二刀が難しいというのは、
「昔の小説家」が書いたような「二刀は広まらなかった」とか「武蔵の流派は絶えた」ということの『ため』
に創作されたもので、実際のところはそんなことはないので、まあ要するに前提が間違っている。 二刀流は利き腕じゃない腕の訓練が必要だから難しいとか言うが
素手の格闘技では打撃系でも組技系でも利き腕じゃない方の腕の鍛錬もするんだから難しいからとか日常で支障をきたすとか言い訳にならないだろ
ようはその武術武道流派で片手や利き腕じゃない方の腕の技術的な使い方のノウハウが有るか無いかってだけで 二刀流が広まらなかったのは、ある程度の刃渡りを持つ刀剣がそれなりのお値段だったからのと
平時は1本差しの時代が長かったから。
また、ほとんどの道具(武器か日用品かは問わず)が片手か両手で1つずつ使うものだったため、片手に1つずつ刀剣をもって戦う技法は中々根づかなかった。 刀の値段はよくわからないな。
武士以外の者もたいがい持ってたんだから、そんなに極端に高かったものでもないと思うけど。
二刀技法は念流の最初期からあったみたいだから、まあ二本差ししてないからメインにならなかった、程度の話だと思う。
二本差しになるまで念流ができてから200年近く経過しているはずだから、その間に蓄積された剣術メソッドをひっくり返して二刀から教えるってのは勇気がいったことなんじゃないかな。
どれだけ強かろうと、やはり人間、最初に習った技術、鍛錬を積んだ技術を信頼するものだからね。
武蔵流系統は多くが二刀から指導するけども、ああいう順番の変更は些細なようでいて、相当に革命的なことだったんじゃないかって気がする。 まあ何れにせよ二刀流は一刀と比較してマイナーなのは事実
江戸にある多くの流派は一刀だし幕末の内乱に二刀を用いる剣士は殆ど居ないしな 二刀含むまでいれると、心形刀流、柳剛流、鏡心明智流なんかが江戸で有名な流派になるけどね。
柳剛流は心形刀流から出ているし、心形刀流の二刀は武蔵流…どうも江戸初期にあった青木家の鉄人二刀流からいれたらしい。
『二刀流を語る』によると、寛永以降の多くの流派の二刀技法は、鉄人流から入れたものが多いのではないかとある。
これもやはり、江戸に道場があるというのが大きいのだろうね。
明治の撃剣試合で有名を馳せた奥村左近太は、愛媛の田宮神剣流の高橋と試合して、二刀遣いに苦戦してから独自に二刀流を工夫したという。
これを奥村二刀流というが、田宮神剣流の二刀も江戸にあった鉄人流からいれたらしい。
佐賀の鉄人二刀流の達人、牟田文之助が愛媛の田宮神剣流と対戦して、ここの二刀は武蔵流だと証言している。
まあこれは一例だけど、他にも両剣時中流なども鉄人流系統らしいし、江戸にあるということはそれだけ影響力があったということだろうか。
江戸の青木家がどうなったのかは解らんけども、江戸初期の道場はほとんど残ってないことを考えれば、断絶していたとしても特に不思議でもないか。
確か熊本で山東派二天一流を継承した八代目青木規矩男が鉄人流の青木家の裔だという話もあったが、根拠になる資料は知らないな。 幕末で二刀を使用した例は桜田門外の変の話が有名だけど、これは流派はわからない。
宮崎滔天の義理の兄貴にあたる、山東派二天一流の高木元右衛門が二刀で池田屋事件の際に近藤を突破して、新選組の包囲から抜けたという話があるか。
まあ蛤御門の変で死んでいるけど。
まあ考えれば、全国に何千とある流派で幕末で京都の動乱で活躍した流派はそんなに数はないし、その中で二刀遣いがなかったというのは確率的には仕方ないかもしれない。
肥後には二天一流伝わっていたし、もっと何かしら関わっていてもよかったのにな。
もしかして暗殺に二刀を使っているケースもあったかもしれんが、それはわからないからなあ。 幕末にどれだけの流派が存在していたのかは正確な数は解らないけど、剣術の数は江戸後期の防具の発明からの試合が盛んになってからだしね…。
その原動力になったのが江戸の直心影流と一刀流で、このふたつはたまたま一刀だけの流派だったんだけど、ここらの影響を受けて流派が創作されていったのならば、そら一刀しかないのが多いのも仕方がないかもしれない。
幕末に活躍した人間の流派も、ざっと思い出す限りだと神道無念流とか北辰一刀流とか直心影流、鏡心明智流…なんかの有名流派が多いような印象もある。
多分、もっとほかにもあるんだろうけど、やはり江戸で遊学してからきたって人間が多いと思うので、必然、江戸の流派になるんじゃないかな。
新選組で有名な天然理心流も、あれも近藤勇の前の世代では関東ではかなり有力な流派だったらしい。
やはり江戸になかったというのが、二天一流や他の武蔵流が活躍できなかった最大の理由なんだろうね。
肥後の武士もそれなり京都にきているはずだから、高木以外の使い手もいたんだろうけど。
幕末の志士には詳しくないけども、薩長土肥の中で、肥後ってなんか影薄いね…。 >>685
おっと、すげえ勘違いしてた!なんでこんな覚え間違えしてたのか…。
恥ずかしいぞ!
ご指摘ありがとうございます。 単純に両利きの鍛練が求められる二刀は習得の難易度が高いから流行らなかっただけだろ
ボクシングや空手といった素手ならまだしも利き手でない腕で道具を使うのは相応の訓練が必要
野球や卓球でサウスポーが有利と言われてもそうか >>687
それについてはも少し上の方で重ね重ね指摘しているけども、それだと隆盛した地方が存在するのと整合しない。
そもそもからして、利き腕のあるなしに関わらず、たいていの格闘技も武術も両手をそれぞれ使うわけだし。
二刀双剣は東洋の武術としてはありふれている。
もっといえば、剣道でも両手で使うけど、両手をそれぞれ操作するのでね…。
文化発信のセンターになりえる江戸や京都で普及してなかったというのが、武蔵流の分布が偏っていた最大の理由だろうね。 しかし二刀流の話になると、「難しいから流行らなかった」というような持論?をスレをよく見ずに書き込んで去っていく人、でてくるね。
現実に隆盛してた地方があった以上は武蔵しかできなかった、難しくてできなかったというのは前提としても間違っているとわかろうものであるが。 武家中心の都市である江戸で二刀流が隆盛しなかったことがその答え。
競争が激しい武術を教える道場の多くが一刀や体術が中心であまり二刀を扱わなかった >>691
それを言い出せば、今も昔も武道で知られた熊本で二天一流が隆盛したことはどう説明したものか。
そもそも、江戸でも17世紀は武蔵の弟子筋の青木家の鉄人流が結構門人がいたらしい。
江戸は武家の町であるが、特に武張っていたのは元禄以前…17世紀までだね。
これも上で書いたけど、寛永年間以降に二刀を入れた流派はこの鉄人流の影響があるという。
この青木家が江戸からいなくなったのが18世紀の前半くらいらしいけど、当時は医学も未熟で、養子とか入れないと家が続かないしね。
それで養子をいれて家を存続させても、家の流儀が継承されていたわけでもない。
地方の大名に仕官したという説もあるしね。
4代家綱が剣術での他流試合を控えるようにしたせいで剣術が衰退したというから、それで見切りをつけて地方にいったのかもしれない。
この手のお触れはお膝元の江戸ならともかく、地方ではあんまり守られてなかったということも多いらしいが。
18世紀後半になると九州で武蔵流が流行っていたという証言が撃剣叢談にでてくる。
撃剣叢談の著者は岡山の人間で、西国中心に書いてるけど、江戸の記述も多いが、とりあえずは岡山に伝わる程度には武蔵流の隆盛は聞こえてたのだろう。 江戸の武蔵流というと、武蔵の最後の弟子とも言われてる柴任三左衛門が江戸で道場を開いて隆盛したけど、明暦の頃に地方に下っているね。
これは時期的に明暦の大火が関係しているんじゃないかって説もあるけど、はっきりとは解らない。
柴任は筑前に二天一流を伝え、気難しい人であったのか、幾つかの家に仕えては致仕を繰り返している。
まあこんな感じで、たまたま、江戸で定着する人がいなかったってだけだろうね。
尾張だとこの時期の少し後に新陰流が衰微し、円明流が隆盛してる。
これは柳生連也斎が厳しい人で、門人が逃げたからではないかって説もあるが…。 そういえば、なぜ武蔵流なんですかね
流派名って概ね苗字から取ることが多いと思うですけれど、俗称とはいえ言うなら宮本流じゃないのかと
それとも知識がないだけで自称の官名から名を取った流派ってあるんですかね いや違うな間違えました、宮本も苗字じゃないから新免流になるはずか >>694
播磨龍野の円明流に伝わる文書の中には「宮本流」って書いたのもあったようですね。
確か『昔咄』には新免無二流と書いてたのもありましたか。
この手の流派の名前は割といい加減というか適当で、通称とか俗称が正式な名称になったりというか、流派の正式名称という考え方自体があったかどうかもよくわかんない。
姓名ではなく名とか号からとった例だと、新免無二の無二流、青木鉄人の鉄人流とかありますね。
この鉄人流も元々は円明流が世間では鉄人流と言われたかいうし、心形刀流の伊庭是水軒が学んだ武蔵流はこの鉄人流だという話もあるから、鉄人流も武蔵流とまとめられていたらしい。
多分、鉄人流の場合は円明流だったので武蔵流でまとめられていたけど、世間では鉄人の流派ということで鉄人流とも呼ばれていた、くらいのことだと思われる。
円明流も播磨で水野流居合を併せた系統は、「円水流」という、なんのひねりもない流派名にしたとか。
ここらの感覚は江戸時代も長いし、個人差はあると思うけど、割合と適当だった時期がかなりあるのではないかと思う。 >>696
お答えありがとうございます
今更ながら一心流とか卜伝流とかありましたね
何かネーミングに法則や慣習があるわけじゃなく、なんとなく決まってるものばかりなんですね
勉強になりました >>697
最近は、かなりうるさいようですけどね。
柳生新陰流は俗称で新陰流が正しい云々、野太刀自顕流が正しいとか薬丸自顕流こそが正式であるとかどうとか。
あそこらは団体の正統性を謳うための主張としての側面があるので、歴史的な経緯はおいといて、当人たちのいってることを殊更に否定する必要もないですが…。
先日に熊本の郷土史の本読んでると、二天一流の弟子筋が「天下一流宮本武蔵流」と呼ばれていたのがあるの見つけて大笑いしました。
ちなみに二天一流は、日天月天の二天を一つにした…日月陰陽の合一された完全で完璧なもの、くらいの意味なんだそうです。
これは元々の武蔵の流派である円明流の円明も完全なものという意味なので、意味的にはかぶりますね。
そして円明という字を重ねると、「明」を円…「○」で囲む…日月を一つにしている…ということではないか、とする説もありますね。
つまりは円明流という言葉を、より典雅に捻った形で呼んだのが二天一流ではないかって。
まあその宮本武蔵も、五輪書では二刀一流と書いてる箇所もあるんですが、これは表記ブレなのかなにか意味があるのかは解りません。
自分は表記ブレ説採ってるけど。特に根拠はない。 >>695
新免流だと時代的に新免無二のほうを連想する人もいて
それと区別する意味でも武蔵流なのかもね >>698
道場破りとかのイメージで看板持ってくという印象が強かったので
名前にうるさい印象を当時に対しても持ってました、ありがとうございます
>>699
新免無二流から意図的に違う流派であると印象づける必要があったってことなんですかね 新免無二も無二流とか無双流とか言われてたみたいだし、あそこらも適当感あるなあ。
よく言われる当理流は宮本無二斎とかを開祖とするけども、泊神社の棟札によるならば宮本を名乗りだしたのは武蔵の代からだから、後世の創作物だって説もある。
実際、熊本には当理流は宮本武蔵に宮本無二の流派を学んだ塩田松斎が創始したという石碑があるそうだ。
その当理流を伝書などから再現したのが塩田流であるとかなんとか。
>>700
名前については時代や人による差も有り得るので、一概には言えないというのが正解だとは思う。
道場破りは、ああいうのはいつの頃に形成されたイメージかは解らないけども、現実に存在したものかどうか。
江戸中期から後期にかけての廻国修行の記録を見るに、なんだか勝負に白黒つけない交流試合という感じだし。
誰それと試合して勝ったの負けたのというのはあるし、まったく勝負しなかったとも思えないけど。
ただ、江戸後期でも馬庭念流と千葉周作の対立の話とかあったみたいだし、なにかことあればメンツが関わって大事になってたと想像はできる。
近世の人間は今でいうヤンキーみたいなもので、メンツがまず大切だったから。
これが戦国の遺風が残ってた江戸初期だと、それこそ簡単に殺し合いに発展したかもしれない。
そういう時代に道場破りなどしてたら、命が幾つあっても足りなかっただろうね。
武蔵と吉岡の対立がまさにそうだったかもしれんけど。 >>691
>>692
田舎剣術
この一言で片がつくよ まともに調査していない史料見てないヤツの言葉は軽すぎて反論にもならんな >>702
まあ、地方の剣術には違いないですね。
これは武蔵が直接指導した場所や、直弟子がたまたま江戸にはほとんどいなかってだけのことでしかないけど。
武蔵が若い頃は西国の方が都会だったことと、小笠原家が九州移転とかしたのが主な原因だね。
しかし田舎の流派だったけども、心形刀流や柳剛流に二刀は受け継がれているし、武蔵流を入れた流派は他にもある。
大日本武徳会剣術形の審査員の中には武蔵流の三橋鑑一郎とかいるし、地味に剣道史に影響がある。
地方剣術としてはかなり面白い。 二刀流のメリットってなんだろ?西洋剣術ではソードブレイカーのように
盾としての役割があったけど日本の剣術では盾の役割なんて聞かないけど 「剣道二刀流の技と理論」P187
この日本一の剣士と手合わせしてみた。私もかなり自信をもっていたのだが、
てんで歯がたたない。勝負をすると十本の中一本しかとれないし、
得意の遠間からのさし面も全く通じない。そんな時のこと、
子供を相手に二刀で遊んでいたりしていたのだが、試みに二刀で日本一と対戦してみた。
すると三本の中一本はとれる。はじめたばかりの二刀で日本一の剣士とほとんど対等に戦える。
そこで二刀に転向した。
相手のペースを崩せる変則の強みじゃね
仮想敵と違う動きってやっぱりイヤだし >>705
月之抄だったと思うけど、十兵衛が柳生但馬守宗矩との問答で二刀について聞いてるけど、小太刀を盾のように使うと書いてたので、そのようにしていたんじゃないかな。
それに盾といっても、西洋の剣術でいうバックラーは攻撃にも使うし、小太刀なら盾にも攻撃にも使えるだろうね。
宗矩の言葉にはそこらの含意もあると思う。
あとやはり、普通に防御は硬くて手数も増えるというのもあるだろうね。
>>706
ロマンもあるよね。
普通に指導されている二刀には、ロマンもへったくれもないけど。
二天一流など地味にもほどがある。
ある会派がここ何十年かで動きを大きく派手にしたという批判があったので動画見たけど、それでも他の流派より普通に地味だったよ…。
>>707
柳生流なんかでは二刀対策はかなり確立されていたらしく、天狗抄には二本、対二刀の技があるみたいですね。
尾張は円明流と隣接していたので、お互い研究がよくされていたらしい。
元柳生流の円明流とか、元円明流の柳生流とかいて、今の尾張円明流は柳生に伝わる両刀からのものだそうな。
円明流の方でも昭和の終わりくらいまで伝承者いたみたいなんだけど、今はいない。もったいない。 天狗抄に対二刀の技があるのは慶長六年に石舟斎が金春七郎宛に出した伝書と変わらんような
疋田なんかは新陰流としてではなく奥山念阿弥陀仏由来の「小太刀虎乱の目録」として
二刀剣術の伝書出してたりする
疋田系統の新陰流としては「磯浪」の仮想敵が二刀に構えてるな
こういうの見ると二刀ってのはイメージ以上に広まってたことを実感させられるよ ああ、その点に関しては別に尾張だけがどうとかの話してないか
お詫びとして知ってるかもしれないけど二刀がいっぱい載った東博の陰流伝書のリンクを貼っておこう
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0083304 >>709
補足どうも。
というか、紛らわしい書き方しました。天狗抄のあとで尾張のところは一行あけないと。
念流に近い、やはり古く歴史ある流派でもある堤宝山流にも二刀があるね。
以前にネットで見た二刀の歴史の論考では、堤宝山流ですでに二刀は完成していたように書いてたっけ。
ただ、この流派の二刀は鉄人流からいれたのではないかと『二刀流を語る』にはあった。
この流派自体の資料も江戸初期以前のものはないそうだけど…。
二刀そのものは武蔵以前からあったけど、二刀兵法の開祖…つまり、二刀を主体とした流派を作ったのは武蔵が最初、というのが小倉碑文の主張なんだろうね。 >>712
どうも。
そして、リンクありがとうございます。
この絵伝書は以前に別に見た記憶があるけど、ここで見れたのは知らなかったです。
ありがとうございます。
ではこちらからも。
あんまり興味もないかもだけど、このスレに来ている人ならば多分、嬉しいと思うから
https://heihouechigo.jimdo.com/
播磨武蔵研究会、再開するって。
以前に未掲載だった資料つきで。 ほー!播磨武蔵研究会再開ですか!
これは嬉しい情報ですね ありがたい >>714
どうも主宰者が完成させていた兵法先師伝記がネットで読めるかもって話で、ありがたい。
あれは書籍化してるものには現状ではほぼ一つしかないから、解説もつくとなるとなお素晴らしい。 兵法先師伝記はwikiに解説が載っているけど、武蔵伝記としての価値は武蔵についての情報ではなくて、当時の二天一流関係者がどういう風な武蔵情報をもっていたのかの確認になるかな。
あと武蔵百周忌についての話がどういう風に補足されているのかも興味がある。
それと当然、執筆者でもあり、越後二天一流の丹羽信英についての情報もあるんだろうな。
越後の伝は剣道日本に掲載された分か播磨武蔵研究会に掲載されたくらいしかろくに情報がないから、気になっていたんだ。 最近思うけど、宮本武蔵が二階堂流の村上吉之丞から逃亡したという撃剣叢談の話、
創作なのは年代から解っていたけど、どういう文脈からできた話かわからんかったが
当時の熊本では村上吉之丞人気がちょっとあったぽいから、そのageエビソードだったんじゃないかと思う。
そのローカル伝承を廻国修行の武芸者が聞き拾って、それを三上元龍が伝え聞いて…という
そういう流れで全国区にたまたま有名になって、村上は熊本マイナー有名人だから忘れられ
それで武蔵sage部分だけが強調されて今に残るのではないか。 子供部屋おじさんじゃない自炊してる社会人なら宮本武蔵の
何十人切りって話はフィクションだと分かるかと 武蔵が何十人も切ったというエピソードって、なんかあったっけ?
小倉碑文にも、武公伝にも、二天記にも、吉岡一門に切り殺したというような話は書いてない。
一番威勢がいいこと書いてある小倉碑文でも
「衆敵を散ずるや、走狗の猛獣を追ふに似たり。威を震ひて洛陽に帰る」
武公伝では
「武公察之、又七郎ヲ切弑シ彼門弟ヲ追奔シテ、威ヲ震フテ洛陽ニ帰ル」
二天記では
「武藏又七郎ヲ斬殺シ、徒黨ノモノヲ追退ケ、威ヲ振ヒテ洛陽ニ歸ル」
となっている。
これは要するに、敵に囲まれたけど上手く逃げおおせたって話だね。
まあ、数については最初の小倉碑文が数百人だったのが、以降は数十人という具合にグレードダウンしているから、当時からリアリティない話だと思われていたのだろうね。 >>721
自炊だろうと子供部屋だろうと独り身なら大差ないような
というか家庭持ってないのを得意げに語られても困るぞ 撃剣叢談の村上吉之丞から武蔵が逃げたという話、
同書に熊本では村上平内の武蔵流が繁盛していること書いてるし、
ソース元は同じとみていいだろうね。
村上家は新免弁助と揉めたらしいから、先祖を称揚して武蔵sageようとしたんだろう。 島原の乱で石投げ攻撃で足が折れてちんばになったやつ 島原で石ぶつけられた話、有名になってるけど、あれ呼び出しに際してそれでいけませんって断りの手紙に書いてることで、本当かどうかはよくわかんないぞ。 ただ、武蔵の自己申告ではあっても、どうもあの書状は有馬家の軍功を証明するものとして重要視されたらしい。
確か吉川英治文学館の記事に書いてあったが、書状は有馬家の軍功の証明のための証拠の櫃にいれてあったようで、特に手垢で汚れていたので、よく読み返されていたのだろうと。
となれば、実際にあったかどうかは調査されただろうから、武蔵が嘘ついたかどうかは調べられたと思う。
武州伝来記には、武蔵が投石を木刀で弾き返したという、事実と逆の逸話が収録されている。
伝承される過程で変異したんだろうけど、これ自体が武蔵が投石をぶつけられたとかの話が当時も知られていた証明になるんじゃないかな。
だからまあ、武蔵が島原で投石で負傷したというのは事実であると考えた方がよい。
ただ、その後すぐに江戸まで旅に出ているし、江戸から直で熊本にもいってるし、負傷者リストにもないし、程度はそんなに重くなかったんだと思う。
いい加減、いい歳だったんだから、それで負傷したらかなり足弱ったんじゃないかな。
もちろん、武蔵が足が弱ってたという逸話もあるし、晩年の二天一流の風格が弱った足と体力を反映したものであるという可能性もあるが。
それが投石による負傷が長引いたものなのか、スポーツマンが晩年に足を萎えさせるものみたいなものなのか。
あるいはその合わせ技だったのか、今となっては解らんけども。 >負傷者リストにもないし、
おいおい…
客観的事実の裏づけがないってことが確定かよ >>729
あくまでも、現在見当たるものではという話でね。言葉が足りなかった。申し訳ない。
中津藩の負傷記録に武蔵の名前がないというのは、魚住先生も書いてる。資料の名前だしてなかったと思うけど。
もしかしたら今後でてくる可能性はあるかもしれんけど、今のところはない。
ただ、軍忠状とかの類は自己申告だったようだし、島原では石ぶつけられた人の話は他にもあるし、状況的に一揆勢は最後は石投げるしかなかったのかもしれない。
だから、ちょっと石ぶつけられた程度のことは記録しなかったのかもね。
あと、元のツイートにも書いたけど、
城乘ノ時、賊徒石ヲ抛ツ。馬前ニ來ル石ヲ、
「石ガマイル」ト言葉ヲカケ、五尺杖ニテツキ戻シ、
落城ニ及ンデハ、例ノ薙刀ニテ數人薙伏ラレシト也
という説話が筑前の武州伝来記に採取されているということは、武蔵に向けて投げられた石…のエピソードはある程度知られてたんだろうね。
この話は熊本で拾われてないので、筑前ローカルだったものかもしれんけども、もしかしたら小倉の方から伝わったのかもしれない。
有馬直純宛の書状の内容が外部に漏れたとは考えにくいからね。小倉の関係者から広がったのかも。 まあ武蔵の自己申告なんだから、石ぶつけられたこと自体は疑うほどのことではないけれど
自分の名を落とすようなことを嘘ついてまで書くこともないだろうし。
前後の状況から考えて、さほどに深刻なものでもなかった…くらいじゃないかな。
ただ、剣豪が石ぶつけられて負傷したってのは面白い話だから。
話を又聞きでみんな大きくしていってるって部分はあると思う。
島原にいったら、ガイドさんは武蔵は子どもに石ぶつけられたことになってるって話もあったよ。
何処ソースかもわからないけど、いつの間にかそういうことになっているのだそうだ。 >自分の名を落とすようなことを嘘ついてまで書くこともないだろうし。
手柄傷という通り合戦の負傷は不名誉どころか手柄なんですけどね ああ、それもそうか。
武蔵の書状はそういえば、有馬直純の手勢が活躍していることを賞賛してのものだから
それは同時に、武蔵は最前線にいたことの証明でもあるな。
どうせだから、武蔵の書状も貼っとこう。
上にもあったかな?
【有馬直純宛武蔵書状】
被思召付尊礼忝次第ニ奉存候。随而せがれ伊織儀、御耳ニ立申通大慶奉存候。
拙者儀、老足可被御推量候。貴公様御意之様、御家中衆へも手先ニ而申かわし候。
殊御父子共本丸迄早々被成御座候通驚目申候。
拙者も石ニあたりすねたちかね申故、御目見得ニも祇候不仕候。
猶重而可得尊意候。恐惶謹言
即刻 玄信
先に有馬直純から伊織への賞賛があったものらしいが、伊織もかなり加増されているので、かなりの手柄だったらしい。 なんか播磨武蔵研究会、復活しているっぽい
http://musasi.siritai.net/
一部リンク切れで見れないのが気になるけど…。 武備和訓で武蔵流や武蔵の弟子の柴任三左衛門についてdisり記事が載ってたけど、これの作者の片島武矩、筑前黒田家を致仕しているんだな。
そしてその直前に筑前二天流の継承者で、柴任の孫弟子で、直接指導を受けたこともある立花峰均が遠島から復帰している。
これ多分、片島は立花と敵対していた側だったんだな…。 リアルの武蔵?
生前の武蔵のスキルではなく、キャラクターについて同時代人で言及があるのは、今のところは小倉碑文だけだな。
生来おおらかで細かいことを気にしない人だった、とある。
ここらは漢文の慣用句だけど、普通はあまりいい意味では使わない言葉なので、そういうのわざわざ持ち出すくらいには、武蔵は細かいことを気にしない性格してたんだろう。 太刀ひとつより、ふたつのほうが良い場合は…とは、五輪書にかかれているけど、あれが太刀二刀流なのかはわからんな。
文字通り読んだり、その章は戦場のケースを中心に語られているから、太刀二刀流を戦場で使う場合という、特殊なケースでのことに読めるは読める。
ただしこれは一般的な解釈ではない。