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戦国期の公家について語ろう
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/12(月) 04:18:14ID:3McIQq9L
公家といったら近衛家ばかりに目がいきがちだけど
その他もいろいろ語ろう
0002名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/12(月) 04:25:04ID:5Rm/td1C
ダエイ
0004名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/12(月) 22:03:17ID:4C94u50R
一条家は公家大名なのに、戦国末期まで生き残った。
そう考えると凄い。
0005名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/13(火) 02:09:47ID:fi3EAhWt
誰も相手にせえへんかっただけやないけ。
0007名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/13(火) 14:39:17ID:Z5zNBcTp
九条さんねえ
唐橋在数の絡みをのぞくと、陰薄いよね
稙道なんて関白になっても、任関白の拝賀が行えなかったし、
摂津、播磨に下ってるし
0010名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/14(水) 18:26:24ID:soEQpkMS
公卿補任にも載ってる三木嗣頼をどうにかしてやってください。
よっぽど室町殿に献金したんだろうか・・・
0011名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/14(水) 18:51:09ID:d9dBoUTv
菊亭がいるだろ
0012名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/15(木) 12:04:46ID:EaHQTnLu
薬作って売ったり、病人を治療したり、医者のような仕事をしてる公家がたくさん居たらしいよ
0015名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/15(木) 14:04:02ID:ItEz5v8H
これだから信長の野望はかりやってる椰子は
とかなんとか言いつつも結構陰薄いよなお公家さん。
0017中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
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2006/06/15(木) 18:25:33ID:76PJnzbn
兼見のように、祈祷してやった百姓からの実入りを日記に書いてるね
金額が多い日は嬉しそうに日記を書いてたんだと思うとなんか笑えてくるよなw
0018名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/16(金) 00:59:27ID:BJ0wM37N
横山光輝の信長の山科はひどかった
0020中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
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2006/06/16(金) 15:21:39ID:x63nWvTJ
>>18
というより公家衆の中でも特定の権益を有す家はそれなりに生き残れたんだろう
ただそれを維持するためには山科のように室町殿や幕府に権利を主張したり

九條や一條のように直接自領経営に赴いたりと、たたあぐらをかいていたわけではないわけだな
0023名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/17(土) 11:57:34ID:wy/Bopv2
>>20
>たたあぐらをかいていたわけではないわけだな

年貢(って言うのかな?)が入って来ないだろうから、やむにやまれず行動する人が多かったのでしょう
0024名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/17(土) 13:39:59ID:kEMMPU/r
切羽詰ってたみたいだけどね。
横領は日常茶飯事だろうし、下手したらまったく都に届いていなかったんじゃ?
0025名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/17(土) 16:11:48ID:vQ5m7mO3
>>23-24
山科なんかは家宰の大沢が散点してる山科領を東奔西走して
在地勢力の横領に四苦八苦してますな。飛騨にあった山科領は京極に横領されたため大沢が出向いてるし
名字の地山科も細川の被官に横領されて住民が蜂起したり
山科自身が逃亡先の将軍の住居や細川の陣所に出向いたりしてる
出張費用や贈り物、交渉経費は全部自己負担だから
山科など戦国末期でも多少は所領を維持できた家以外は
泣き寝入りしかなかったんだろうねい
0026名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/17(土) 17:37:31ID:D0NaUdfd
1: 伊勢北畠氏
    「神皇正統記」で知られる北畠親房の子孫が伊勢国に地盤をはって発展していった家系で村上源氏。 南北朝の
    頃から一大勢力だったこともあり、支族も多く、木造・大河内・田丸・星合なども家が分立してます。 累代伊勢国司
    として勢力を振るう一方、権大納言を極官として公家としての体裁も整えていました。 しかし戦国末期、織田信長に
    敗れ信長の子信雄を養子に送り込まれる形でお家を乗っ取られ、やがて一族謀殺されて本家は滅亡しています。
    分家の上記支族は江戸時代に入り幕臣として仕えています。

2: 飛騨姉小路氏
    南北朝時代に南朝より国司として赴任した姉小路家綱が祖先。藤原氏。 武力を蓄えて南朝(といってももうこの頃
    には有名無実化していますが)の拠点として飛騨を支配し、北朝の足利将軍家の一門である斯波氏と闘争してい
    ます。 1411年の戦い以降、おそらく所領争いか跡目争いのせいなのでしょうが、この家は小島家・小鷹利家・
    古河家に分立、一時期は同時に国司を名乗っていたようです。 公家としては権中納言を極官としていたようで、
    後半になるとそこまで上れずに中将あたりで足踏みしている例が多く見られます。この家も下剋上の波に呑まれて
    戦国時代後半になると豪族の三木氏に家を乗っ取られ、 三木嗣頼などはご丁寧に自ら姉小路嗣頼と名乗り、
    朝廷から官位をもらっています。 しかしこの三木改め姉小路家も小国の哀しさ、全国統一の波の中で消えていく
    運命でした。 ちなみにこの「正統」姉小路家の一族は歌道に優れ(って、この時点ですでに戦国の荒波を乗り越え
    られそうにないですが)、 宮中に何度も参内しています。これなどはやはりこの一族が大名よりも公家であった
    本質をあらわしているでしょう。ちなみにこの一族関係や記録は余り残っておらず、 これからの資料発掘が望まれ
    ます。

3: 土佐一条氏
    関白の一条教房が戦国時代に自分の領地であった土佐の中村に下向したのが最初です。ようするに疎開した
    人がそのまま居ついて大名化したものです。 とびきり上流階級だったこともあり、土佐中村のように官位など
    持っている人がいないような土地では大変歓迎されたようです。 大納言が極官だったようですが、やはり京都
    との縁が遠のくにつれて官位も高くなくなっていきます。 末期の兼定はキリシタン大名として知られています
    (洗礼名ドン・パウロ)。 長宗我部氏の土佐統一に伴い領地を失い滅亡し、最後の内政(左近衛中将)は自殺。
    支族もいたのかもしれませんが、資料には出てきません。おそらく没落したのでしょう。 この一族がミニ京都
    として整備したおかげで現在の中村市街は「小京都」として観光客を呼べるわけです。

その他、伊予国の西園寺家というのもあります。 南北朝に逃げてきた西園寺の一族がいつのまにか勢力を蓄えて
戦国時代に宇和島近辺を中心に支配、土佐一条氏とはずいぶん公家同士で争ったようです。 しかし実はあまり資料
がなく、本当に南北朝からあったのか、どういう系譜だったのか、いまひとつ明らかではありません。 ただ伊予国は
西園寺家の知行国(大雑把にいえば国司任命権を持つ国)で同家の領地扱いだったことをみれば、西園寺の庶流が
流れていたのは確かなのでしょうが・・・。ちなみに公家出身とはいっても本流とはかなり疎遠だったこともあってか
官位的には高くありません。近衛少将どまりだったようです。この家も長宗我部氏の伸張に伴い滅ぼされていきます。

富小路氏
    
摂家の二条家の傍流、ということになっていますが、やはり当時の文書にはそのことは載っておらず、いくつかの
論文ではその出自は二条家ではない、ということになっています。ではどこかというと、どうも一般庶民だったよう
です。つまり室町時代に経済の発展に伴い土倉(金融業)でお金を貯めて系図を買って貴族の仲間入りという
線があるようです。
0028名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/20(火) 22:13:48ID:nlCxe46N
朝倉、今川、大内のおかげで
公家文化に浸るのが悪とみなされてる。
0029名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/21(水) 14:24:30ID:Z6XlPt5e
>>28
決して義元も義隆も全部ダメというわけじゃないけどね
義元は死に方が無残
義隆は月山富田城の敗戦後、戦に興味を無くしたのがな
0031名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/21(水) 16:51:20ID:Z6XlPt5e
>>30
関係ないと思う
高家初代は大沢基宿
祖父大沢基相ー父基胤は今川家家臣で遠江堀江城主
それがなんで高家はよくわからないけど
0033名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/22(木) 16:32:03ID:owu5lGr8
大宮様の娘と大沢基胤の子か
堀江城は浜松市だからありそうな話ですね

ちなみに大沢の祖は基秀、道長ー頼宗ー俊家ー基頼ー(略)の流れ
貞治年間 (1362〜1367)に丹波大沢から堀江に移り住んだようだ
家系は大したことがないと思いますが
0035名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/23(金) 11:26:05ID:KZLLXSQg
公家って日記職人だったのか
0036名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/23(金) 14:49:15ID:qTHjeON7
摂家の動向

近衛・・・稙家近江に流寓、前久越後や薩摩の下る・摂津や丹波に流寓

九条・・・政基和泉などに下向、稙通摂津播磨に下向

一条・・・教房土佐下向し土佐一条氏へ、房通・内基も一時土佐へ

二条・・・尹房備前周防に下向

鷹司・・・在京
0037名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/23(金) 14:55:54ID:qTHjeON7
ところで思ったんだけど

摂家で戦乱に巻き込まれてで死んだのは、一条政房、二条尹房ぐらいだね
(一条兼定もと言えばいえるが)

足利将軍、鎌倉公方、管領や関東管領らの武家の名門は、殺されたり戦乱で死んでいるんだけど
摂家は殆どいない

武家じゃないからなのか
たまたまなのか
0040名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/24(土) 21:48:44ID:RRkh3DAO
実力の無い公家が没落する時代の中、武士ではない土佐一条氏が、領地を有し実効支配していたのは、やはりすごいことだと思います。
土佐一条氏は徐々に戦国大名化するわけですが、守護代や国人からの成り上がりの多い戦国大名の中で異色の存在と言えます。
ですので、曲がりなりにも戦国末期までその命脈を保った一条家の領国政策などは改めて再評価されるべきでしょう。最近の土佐一条氏の研究では、一条氏と長宗我部氏との官位の比較から、
「土佐一条氏(内政、天正五年、従四位下右近衛中将に叙任や子、政親、天正十四年十二月、従四位下摂津守に叙任)が長宗我部氏を超越する存在であった、とする論考も出てきている。」(引用文はくらのすけ屋敷より転載)
と一条氏を再評価する動きもありますので、今後一層の研究の進展が待たれます。
0041名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/25(日) 02:18:31ID:5o4Qkhek
>>40
土佐一条氏に関しては閨閥関係もまだ整理されてないよね
伊東義益に嫁いだ娘については土佐一条氏関係の資料を見てもまず出てこないし
先日日本史板で「一条兼定の娘で大奥仕えしていた女性がいた」という話を教示されて
仰天したことがある。
0042名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/26(月) 15:12:35ID:N5ClZGxM
教房は関白ですから
格だけいえば図抜けている
領国政策も良かったんでしょうね
そうでなければすぐ追放されちゃう
0043名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/26(月) 15:44:06ID:87LXnA3T
公家は意外と強い
0045名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/29(木) 16:10:32ID:c8YDLsMo
藤原氏がしぶといのは当然と思う
なにしろ戦国時代の八百年も前から権力闘争に明け暮れてるんだから
0046名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/29(木) 16:28:50ID:iIF3agsg
近衛文麿が組閣時に記者団と交わしたやりとりを思い出した。
記者「歴代総理大臣としてはかなり年令の若い就任となりますが」
近衛「私の先祖なんてもっと年少で宰相を勤めてますよ」
0051名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/30(金) 12:20:05ID:4D9HINLD
だから天皇家が一番しぶとくて
藤原氏もしぶとくて、ってことでしょ
別に>>45は藤原氏が一番しぶといとは言ってないし
0053名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/30(金) 14:41:05ID:AtgfdWEb
>>35
九条殿遺誡で藤原師輔が「昨日の日記を書きなさい」っていってるから
この遺言を守ったんだと思う


ところでこの遺誡は日常生活中心だけど
摂家をはじめとする公家は、祖先と関連して歴史から教訓を十分学んでいるんだろうね
そこから自然と身につくんじゃない、処世術みたいなものが
0054名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/07/02(日) 17:36:14ID:fSoAguT+
伊勢北畠氏って
南北朝時代にあれだけ足利氏に敵対したのに、よく戦国後期まで生き残れたよね。
0055名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/07/04(火) 16:15:39ID:3Xi8BDOk
>>54
顕能以来多家城を拠点として、南北朝合一までしぶとく頑張ってましたから
ついに義満に所領を安堵され、その後応永五年(1398)には伊勢守護に・・・
一時反乱を起こし討伐されるも、赦免され所領も回復
このまま戦国大名に・・・
0057名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/07/04(火) 16:45:23ID:3Xi8BDOk
赤松満祐の子教康の首を幕府に進上した、教具とか
義材・義晴・高国に接近した材親、晴具のことかな
0058名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/07/06(木) 15:49:26ID:tf39Nwiy
公家は下手に触ると厄介。
0061中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
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2006/07/15(土) 21:38:07ID:LCV3CzAR
戦国時代の公家といえば、大坂の陣になぜか参加して人知れず討ち死にした持明院基久wwwww
0062名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/07/18(火) 04:52:36ID:zb2GuJkF
伊勢北畠氏・飛騨姉小路氏・土佐一条氏のことを俗に三国司などというが、
南北朝期から現地に土着している北畠氏・姉小路氏に対して、応仁の乱以降に
現地に下向した土佐一条氏は成り立ちが異なる。
成り立ちという点に着目すれば、むしろ土佐一条氏よりも伊予西園寺氏のほうが
北畠氏や姉小路氏に似ているといえる。
0067名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/07/28(金) 00:40:31ID:XmsMv43/
>>28
悪とみなされるのは
平家物語の影響が強いと思う。
0069名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/07/28(金) 12:34:56ID:sHYbBSI4
| パンが好きだお   __      __
|         (⌒⌒⌒)::) (⌒⌒⌒)::) ____
|⌒ヽ      .| ^ω^ |:::| | ^ω^ |:::| | SALE |
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            幸せだお〜
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        | ^ω^ |:::| /⌒| ^ω^ |:::| | SALE |
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0071名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/08/02(水) 14:25:12ID:CYl+4rJu
公家は経済的な理由で、大名のもとに寄寓すると、
和歌、蹴鞠の教授や色紙の揮毫などで、謝礼をもらうことができた

京にいるよりずっと経済的に豊かであったので、好んで下向をした


0073名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/08/25(金) 15:45:48ID:GCpKo5RK
・文人貴族の末裔である。
・歌が好きで、『古今和歌集』や『新古今和歌集』を愛読した。
・私家集もある。連歌も巧であった。
・蹴鞠もやっていた。
・大成される前の茶や立花にも手を出しており、能も舞っている。
・『源氏物語』や『徒然草』も愛読していた。

しかし、氏真と違って文化人のイメージがない毛利元就。
0074名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/08/25(金) 15:50:44ID:b+0NsR5L
ガチで烏丸少将綾麿でおじゃるw
0077名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/09/05(火) 19:46:27ID:S6n3pbd6
>>61
こいつのジイさんも陶晴賢の謀反の時に巻き込まれて討死したんじゃなかったっけ?
ま、養子だから血の繋がりはないにしても、何だか不運な家系だなw
0079名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/09/09(土) 14:58:10ID:0wDa9DoC
基久の実の父は正親町季秀、その父は庭田重保だよね

持明院基規か
それにしても大内義隆とともに逝ったのは、
二条尹房、二条良豊、持明院基規、三条公頼と多いね
0082名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/09/19(火) 15:28:34ID:FTuV+Qpq?2BP(0)
基本的に土佐の古代史は文献が散逸していて、
土佐公文家がどういう経緯で誕生したのか知るすべほとんど無い。

ただ、現在の郷土史家の研究によると、古代に京から流されてきた
藤原北家流の飛鳥井の一族が土着し、公文家となったというのが有力説。

証拠は、銀杏紋という家紋、武家で銀杏紋を使用したのは後の徳川将軍家、
公家で使用したのは羽林家飛鳥井の一族のみ。

いわゆる半家(半武家半公家)の家格として、
長宗我部に仕えていたと思われる。(こういったことは珍しいことではない)
銀杏紋の家紋については、さすがに将軍家と同じではまずいと思ったのか、
江戸初期に一時期、武田菱に変えている。

長宗我部滅亡後、公文家は武士としての身分を剥奪されるが、
将軍と言えども、武家には公家の官位を剥奪する権利はないので、
完全な公家となる。
その証拠に領地はそのまま安堵され、
大地主としてのほほんと幕末まで生き延びている。

地元の住民も、公文の本家は公家だと認識しているので、
この説が今のところ研究家の間では最有力。

0084名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/10/09(月) 16:11:48ID:m9P5dvcU
当時の公家なんて天然記念物みたいなもん
0085名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/10/21(土) 06:05:27ID:xiQSZvL4
北畠
0089名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/10/28(土) 19:19:24ID:WqkPRDGF
>>88
飛鳥井雅敦と日野輝資が出陣してるみたい
戦力的にどうこうって感じじゃないだろうけど

このへんのことよく知りたいんだけど、やっぱ言継卿記なのかしら?
なにかオススメある?
0090中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
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2006/10/28(土) 21:20:05ID:EPZzWFqK
お「武家昵近公家衆」か

ところで持明院基久の反響というか、ここの人だろうかyahooの知恵袋で基久のこと聞いてたね
基久は子の基征とともに五月に入城、五月七日の天王寺・岡山の戦いで戦死してる
一説によると大坂開城後の同二十八日に没とも
0091名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/10/29(日) 23:54:17ID:6fOtkgye
>>86
笑いながら泣いていたもの。こっちが泣けてきた。
世が世なら、政治や儀式を厳粛に執り行う身でありながら・・・。
0092中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
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2006/10/30(月) 00:10:56ID:L6FRr4Hr
横光のは読んでないがそんな表現があるなら横光の時代考察はなかなかなんじゃ?
貞成親王は看聞御記の中で正月の馳走に鯛が出たと喜んでるし
吉田兼見は>>17
山科の子の言経卿は勅勘受けて大坂に逼塞してるとき町人にもらった食事を嬉しがってる
なんか親近感わくよなw
0093名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/10/30(月) 14:44:41ID:F5YQ8O5P
言継卿自身が町衆と近しくて
火傷した近所の大工の下女のもとに、駆けつけて薬を与えたりしている
町内の米屋から借金したりも

0096中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
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2006/12/04(月) 23:10:26ID:MNGaIXms
言継卿というと超がつくほど酒豪のイメージ。実は桓武平家なんだよなこのおじさん
0100中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
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2006/12/04(月) 23:34:15ID:MNGaIXms
ちがったかも。教言あたりだったかな?院近臣平朝臣某が入嗣
手元に史料が無いからワカラン
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