戦国期の公家について語ろう
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公家といったら近衛家ばかりに目がいきがちだけど
その他もいろいろ語ろう 公家達が全国の武家達に金を恵んでくれ〜と駆け回っていた。 一条家は公家大名なのに、戦国末期まで生き残った。
そう考えると凄い。 九条さんねえ
唐橋在数の絡みをのぞくと、陰薄いよね
稙道なんて関白になっても、任関白の拝賀が行えなかったし、
摂津、播磨に下ってるし 政基の日記ぐらいしか資料ないのかな?
当時の荘園経営に興味あるんだが…。 政基公旅引付のことね
尚経の雑記
稙道の嵯峨記もあるらしい
公卿補任にも載ってる三木嗣頼をどうにかしてやってください。
よっぽど室町殿に献金したんだろうか・・・ 薬作って売ったり、病人を治療したり、医者のような仕事をしてる公家がたくさん居たらしいよ これだから信長の野望はかりやってる椰子は
とかなんとか言いつつも結構陰薄いよなお公家さん。 兼見のように、祈祷してやった百姓からの実入りを日記に書いてるね
金額が多い日は嬉しそうに日記を書いてたんだと思うとなんか笑えてくるよなw >>17
何もできない摂家なんかより
神祇大副で吉田神社神職のほうが、厳しい時代は生活しやすかったのかな >>18
というより公家衆の中でも特定の権益を有す家はそれなりに生き残れたんだろう
ただそれを維持するためには山科のように室町殿や幕府に権利を主張したり
九條や一條のように直接自領経営に赴いたりと、たたあぐらをかいていたわけではないわけだな >>20
>たたあぐらをかいていたわけではないわけだな
年貢(って言うのかな?)が入って来ないだろうから、やむにやまれず行動する人が多かったのでしょう 切羽詰ってたみたいだけどね。
横領は日常茶飯事だろうし、下手したらまったく都に届いていなかったんじゃ? >>23-24
山科なんかは家宰の大沢が散点してる山科領を東奔西走して
在地勢力の横領に四苦八苦してますな。飛騨にあった山科領は京極に横領されたため大沢が出向いてるし
名字の地山科も細川の被官に横領されて住民が蜂起したり
山科自身が逃亡先の将軍の住居や細川の陣所に出向いたりしてる
出張費用や贈り物、交渉経費は全部自己負担だから
山科など戦国末期でも多少は所領を維持できた家以外は
泣き寝入りしかなかったんだろうねい 1: 伊勢北畠氏
「神皇正統記」で知られる北畠親房の子孫が伊勢国に地盤をはって発展していった家系で村上源氏。 南北朝の
頃から一大勢力だったこともあり、支族も多く、木造・大河内・田丸・星合なども家が分立してます。 累代伊勢国司
として勢力を振るう一方、権大納言を極官として公家としての体裁も整えていました。 しかし戦国末期、織田信長に
敗れ信長の子信雄を養子に送り込まれる形でお家を乗っ取られ、やがて一族謀殺されて本家は滅亡しています。
分家の上記支族は江戸時代に入り幕臣として仕えています。
2: 飛騨姉小路氏
南北朝時代に南朝より国司として赴任した姉小路家綱が祖先。藤原氏。 武力を蓄えて南朝(といってももうこの頃
には有名無実化していますが)の拠点として飛騨を支配し、北朝の足利将軍家の一門である斯波氏と闘争してい
ます。 1411年の戦い以降、おそらく所領争いか跡目争いのせいなのでしょうが、この家は小島家・小鷹利家・
古河家に分立、一時期は同時に国司を名乗っていたようです。 公家としては権中納言を極官としていたようで、
後半になるとそこまで上れずに中将あたりで足踏みしている例が多く見られます。この家も下剋上の波に呑まれて
戦国時代後半になると豪族の三木氏に家を乗っ取られ、 三木嗣頼などはご丁寧に自ら姉小路嗣頼と名乗り、
朝廷から官位をもらっています。 しかしこの三木改め姉小路家も小国の哀しさ、全国統一の波の中で消えていく
運命でした。 ちなみにこの「正統」姉小路家の一族は歌道に優れ(って、この時点ですでに戦国の荒波を乗り越え
られそうにないですが)、 宮中に何度も参内しています。これなどはやはりこの一族が大名よりも公家であった
本質をあらわしているでしょう。ちなみにこの一族関係や記録は余り残っておらず、 これからの資料発掘が望まれ
ます。
3: 土佐一条氏
関白の一条教房が戦国時代に自分の領地であった土佐の中村に下向したのが最初です。ようするに疎開した
人がそのまま居ついて大名化したものです。 とびきり上流階級だったこともあり、土佐中村のように官位など
持っている人がいないような土地では大変歓迎されたようです。 大納言が極官だったようですが、やはり京都
との縁が遠のくにつれて官位も高くなくなっていきます。 末期の兼定はキリシタン大名として知られています
(洗礼名ドン・パウロ)。 長宗我部氏の土佐統一に伴い領地を失い滅亡し、最後の内政(左近衛中将)は自殺。
支族もいたのかもしれませんが、資料には出てきません。おそらく没落したのでしょう。 この一族がミニ京都
として整備したおかげで現在の中村市街は「小京都」として観光客を呼べるわけです。
その他、伊予国の西園寺家というのもあります。 南北朝に逃げてきた西園寺の一族がいつのまにか勢力を蓄えて
戦国時代に宇和島近辺を中心に支配、土佐一条氏とはずいぶん公家同士で争ったようです。 しかし実はあまり資料
がなく、本当に南北朝からあったのか、どういう系譜だったのか、いまひとつ明らかではありません。 ただ伊予国は
西園寺家の知行国(大雑把にいえば国司任命権を持つ国)で同家の領地扱いだったことをみれば、西園寺の庶流が
流れていたのは確かなのでしょうが・・・。ちなみに公家出身とはいっても本流とはかなり疎遠だったこともあってか
官位的には高くありません。近衛少将どまりだったようです。この家も長宗我部氏の伸張に伴い滅ぼされていきます。
富小路氏
摂家の二条家の傍流、ということになっていますが、やはり当時の文書にはそのことは載っておらず、いくつかの
論文ではその出自は二条家ではない、ということになっています。ではどこかというと、どうも一般庶民だったよう
です。つまり室町時代に経済の発展に伴い土倉(金融業)でお金を貯めて系図を買って貴族の仲間入りという
線があるようです。 そうは言っても、摂家も清華もみんな生き残ったんだからしぶといわな 朝倉、今川、大内のおかげで
公家文化に浸るのが悪とみなされてる。 >>28
決して義元も義隆も全部ダメというわけじゃないけどね
義元は死に方が無残
義隆は月山富田城の敗戦後、戦に興味を無くしたのがな >>25
山科家雑掌・大沢氏というのは後に徳川幕府の高家になった大沢氏とは関係有り? >>30
関係ないと思う
高家初代は大沢基宿
祖父大沢基相ー父基胤は今川家家臣で遠江堀江城主
それがなんで高家はよくわからないけど 大宮様の娘と大沢基胤の子か
堀江城は浜松市だからありそうな話ですね
ちなみに大沢の祖は基秀、道長ー頼宗ー俊家ー基頼ー(略)の流れ
貞治年間 (1362〜1367)に丹波大沢から堀江に移り住んだようだ
家系は大したことがないと思いますが >>30
全然別系統。ちなみに大沢は藤原北家魚名次男鷲取流で下北面出身の地下・諸大夫 摂家の動向
近衛・・・稙家近江に流寓、前久越後や薩摩の下る・摂津や丹波に流寓
九条・・・政基和泉などに下向、稙通摂津播磨に下向
一条・・・教房土佐下向し土佐一条氏へ、房通・内基も一時土佐へ
二条・・・尹房備前周防に下向
鷹司・・・在京
ところで思ったんだけど
摂家で戦乱に巻き込まれてで死んだのは、一条政房、二条尹房ぐらいだね
(一条兼定もと言えばいえるが)
足利将軍、鎌倉公方、管領や関東管領らの武家の名門は、殺されたり戦乱で死んでいるんだけど
摂家は殆どいない
武家じゃないからなのか
たまたまなのか 陶の謀反といい、幕末の七卿落ちといい周防長門は鬼門だなw 実力の無い公家が没落する時代の中、武士ではない土佐一条氏が、領地を有し実効支配していたのは、やはりすごいことだと思います。
土佐一条氏は徐々に戦国大名化するわけですが、守護代や国人からの成り上がりの多い戦国大名の中で異色の存在と言えます。
ですので、曲がりなりにも戦国末期までその命脈を保った一条家の領国政策などは改めて再評価されるべきでしょう。最近の土佐一条氏の研究では、一条氏と長宗我部氏との官位の比較から、
「土佐一条氏(内政、天正五年、従四位下右近衛中将に叙任や子、政親、天正十四年十二月、従四位下摂津守に叙任)が長宗我部氏を超越する存在であった、とする論考も出てきている。」(引用文はくらのすけ屋敷より転載)
と一条氏を再評価する動きもありますので、今後一層の研究の進展が待たれます。 >>40
土佐一条氏に関しては閨閥関係もまだ整理されてないよね
伊東義益に嫁いだ娘については土佐一条氏関係の資料を見てもまず出てこないし
先日日本史板で「一条兼定の娘で大奥仕えしていた女性がいた」という話を教示されて
仰天したことがある。 教房は関白ですから
格だけいえば図抜けている
領国政策も良かったんでしょうね
そうでなければすぐ追放されちゃう そうそう兼定は権中納言じゃないですか
よく見てみれば 藤原氏がしぶといのは当然と思う
なにしろ戦国時代の八百年も前から権力闘争に明け暮れてるんだから 近衛文麿が組閣時に記者団と交わしたやりとりを思い出した。
記者「歴代総理大臣としてはかなり年令の若い就任となりますが」
近衛「私の先祖なんてもっと年少で宰相を勤めてますよ」 近衛文麿っていえば
応仁の乱の話もあるよね
歴史を背負うて生きてるんだよね、摂家の人は >>45
同じ人物が八百年も争っていたわけじゃないし。 そんなこと言ったらなんだかんだ言って途絶えず続いてる天皇家が一番すごいじゃないか。 だから天皇家が一番しぶとくて
藤原氏もしぶとくて、ってことでしょ
別に>>45は藤原氏が一番しぶといとは言ってないし >>51
そっとしといてやんなよ。そういう年ごろなんだからさ。 >>35
九条殿遺誡で藤原師輔が「昨日の日記を書きなさい」っていってるから
この遺言を守ったんだと思う
ところでこの遺誡は日常生活中心だけど
摂家をはじめとする公家は、祖先と関連して歴史から教訓を十分学んでいるんだろうね
そこから自然と身につくんじゃない、処世術みたいなものが 伊勢北畠氏って
南北朝時代にあれだけ足利氏に敵対したのに、よく戦国後期まで生き残れたよね。 >>54
顕能以来多家城を拠点として、南北朝合一までしぶとく頑張ってましたから
ついに義満に所領を安堵され、その後応永五年(1398)には伊勢守護に・・・
一時反乱を起こし討伐されるも、赦免され所領も回復
このまま戦国大名に・・・ むしろ北畠は次代が下れば下るほど将軍家に頼りにされ、溺愛されていくんだが 赤松満祐の子教康の首を幕府に進上した、教具とか
義材・義晴・高国に接近した材親、晴具のことかな 北畠は朝廷に相当礼物を献上して、権大納言などになっているようですね 戦国時代の公家といえば、大坂の陣になぜか参加して人知れず討ち死にした持明院基久wwwww 伊勢北畠氏・飛騨姉小路氏・土佐一条氏のことを俗に三国司などというが、
南北朝期から現地に土着している北畠氏・姉小路氏に対して、応仁の乱以降に
現地に下向した土佐一条氏は成り立ちが異なる。
成り立ちという点に着目すれば、むしろ土佐一条氏よりも伊予西園寺氏のほうが
北畠氏や姉小路氏に似ているといえる。
ムシャクシャして参陣した、今は反省するにも首がない。 >>28
悪とみなされるのは
平家物語の影響が強いと思う。 生仏以来、平曲として広まっただろし、読み本系諸本も知識層に広く読まれた=平家 | パンが好きだお __ __
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持明院の話は結論に至らなかったかあ・・・
次の話題か 公家は経済的な理由で、大名のもとに寄寓すると、
和歌、蹴鞠の教授や色紙の揮毫などで、謝礼をもらうことができた
京にいるよりずっと経済的に豊かであったので、好んで下向をした
・文人貴族の末裔である。
・歌が好きで、『古今和歌集』や『新古今和歌集』を愛読した。
・私家集もある。連歌も巧であった。
・蹴鞠もやっていた。
・大成される前の茶や立花にも手を出しており、能も舞っている。
・『源氏物語』や『徒然草』も愛読していた。
しかし、氏真と違って文化人のイメージがない毛利元就。 >>61
こいつのジイさんも陶晴賢の謀反の時に巻き込まれて討死したんじゃなかったっけ?
ま、養子だから血の繋がりはないにしても、何だか不運な家系だなw 基久の実の父は正親町季秀、その父は庭田重保だよね
持明院基規か
それにしても大内義隆とともに逝ったのは、
二条尹房、二条良豊、持明院基規、三条公頼と多いね トリビア!
なんと、貧乏で餅もつけなかったという公文重忠も公家だった! 基本的に土佐の古代史は文献が散逸していて、
土佐公文家がどういう経緯で誕生したのか知るすべほとんど無い。
ただ、現在の郷土史家の研究によると、古代に京から流されてきた
藤原北家流の飛鳥井の一族が土着し、公文家となったというのが有力説。
証拠は、銀杏紋という家紋、武家で銀杏紋を使用したのは後の徳川将軍家、
公家で使用したのは羽林家飛鳥井の一族のみ。
いわゆる半家(半武家半公家)の家格として、
長宗我部に仕えていたと思われる。(こういったことは珍しいことではない)
銀杏紋の家紋については、さすがに将軍家と同じではまずいと思ったのか、
江戸初期に一時期、武田菱に変えている。
長宗我部滅亡後、公文家は武士としての身分を剥奪されるが、
将軍と言えども、武家には公家の官位を剥奪する権利はないので、
完全な公家となる。
その証拠に領地はそのまま安堵され、
大地主としてのほほんと幕末まで生き延びている。
地元の住民も、公文の本家は公家だと認識しているので、
この説が今のところ研究家の間では最有力。
>>82
詳細ありがとう。超ありがとう。
嗚呼、俺の中で公文先生がますます比類無き存在に・・ >>18
それはマジ話なのか?
だとしたら凄いな…
干魚に
「美味じゃのう…」
と言ってる山科卿には泣いた 飛鳥井って雅敦のことかな
親父殿の雅教は当時権中納言だけど、雅敦はまだ公卿ではないね >>88
飛鳥井雅敦と日野輝資が出陣してるみたい
戦力的にどうこうって感じじゃないだろうけど
このへんのことよく知りたいんだけど、やっぱ言継卿記なのかしら?
なにかオススメある? お「武家昵近公家衆」か
ところで持明院基久の反響というか、ここの人だろうかyahooの知恵袋で基久のこと聞いてたね
基久は子の基征とともに五月に入城、五月七日の天王寺・岡山の戦いで戦死してる
一説によると大坂開城後の同二十八日に没とも >>86
笑いながら泣いていたもの。こっちが泣けてきた。
世が世なら、政治や儀式を厳粛に執り行う身でありながら・・・。 横光のは読んでないがそんな表現があるなら横光の時代考察はなかなかなんじゃ?
貞成親王は看聞御記の中で正月の馳走に鯛が出たと喜んでるし
吉田兼見は>>17
山科の子の言経卿は勅勘受けて大坂に逼塞してるとき町人にもらった食事を嬉しがってる
なんか親近感わくよなw 言継卿自身が町衆と近しくて
火傷した近所の大工の下女のもとに、駆けつけて薬を与えたりしている
町内の米屋から借金したりも
言継卿というと、何かいつも薬草採りに行ってるおじさん、というイメージがある。 藝は身を助くの典型的な人だよね
この医術の副収入で、比較的食いつないでいる 言継卿というと超がつくほど酒豪のイメージ。実は桓武平家なんだよなこのおじさん >>96
酒は貴族の基礎的社交技術だから酒豪は酒豪でいいとして
桓武平氏ってのはこれまた・・・
どっから仕入れてきた話? 尊卑分脈ってことは、
山科家が言継の200年以上も前から
藤原氏ではなく桓武平氏になってたというわけ? ちがったかも。教言あたりだったかな?院近臣平朝臣某が入嗣
手元に史料が無いからワカラン なるほど、山科の名ができるまだ前の話で
平業房と高階栄子の子が実教の猶子教成になったのか。
これ下手すると後白河院の落胤かもと妄想。 落胤説かw
ちなみに桓武平氏嫡流は西洞院家、橘氏は薄家
どちらも血は絶えたけど 西洞院というのが高棟王流だよね
平大納言時忠の父時信の、弟信範の流れ
源氏・・・久我とか六条とか中院とか堀川とか
高見王流じゃないとこが味噌
戦国時代最強のマザコン公家・参議西洞院平朝臣時慶卿 天正十五年の日記が残ってるがマザコンぶりが凄まじい 細川家が近衛家を乗っ取ったって本当?
今の当主が実は細川の家系と聞いたんだが
なんだかガセくさいな・・・。
たしか大火軍が護煕の弟かなんかだぞ。
しかし公家としての近衛は江戸初期に親王が入ってなくなっちゃったからな
いわゆる皇別摂家というやつだ 現当主は確かにモリヒロの実弟
その奥方は三笠宮家の長女で次期当主と更に次の当主は決まっているw
信尹は一人だけ男の子がいたけれど、
何かの問題があって近衛家を嗣がせられなかったという説がある。
「近衛太郎君」といわれている人がその男の子らしい。 近衛忠Wは文麿の外孫・文隆の甥だから乗っ取りではないだろう。 まあでも時代が時代なら決して摂家を相続するような家格ではないわいな。
逆の例はあったけれど。政元のときな
魚屋が公家になった某小路とは訳がちがう 八百屋が大名になることもある。摂家より清華が上位であることも珍しくない。
家格なんて幻だろ。 百姓だか土豪だか足軽の倅が位人臣を極めるんだからな
やりようによっちゃ豊家も摂家として残れたかも ■著者=鈴木敬三
■書名=『有識故実大辞典』
■発行所=吉川弘文館
■本体価格=¥18,000
■発行=1996年1月
■判型=A4判
■ページ数=848ページ
■ISBN=464201330X
【内容】
公家や武家の官制・官職、年中行事、遊戯・娯楽、服飾、乗物、
調度、武器・武具、宮中殿舎等、有職故実関連の事項を解説した
もの。収録項目数3200。解説は署名入り。排列は見出し語の
五十音順。図版等多数。巻末に総索引がある。―歴史・古典文学
の理解に必要不可欠の大辞典。
こんな文献もありますが、便利なのはどこの図書館にも常備されているはず
ですが、『国史大辞典』(吉川弘文館・刊)シリーズですね。この辞典で
「公家」の項目を調べ、末尾にはかならず解説文の執筆者名と参考文献が
明記されています。ですので、まず執筆者名をもとに公家関連の書籍を調べ
たり、記されている参考文献を読んでみるといいと思います。 その本と官職要解そして幕末の宮廷は、この分野を研究するやつらにとっちゃ
ノートとペンと消しゴムみたいなもん。このスレでマジレス垂れてるキチガイどもにとっちゃ
教科書みたいなもんだろ >>114
よくレス見てみたら摂家と清華の家格逆転なんて絶対ありえんじゃん。
年令や個人の資質によって一定期間の位階逆転はあるが
それを例に出して家格が幻想だと言ってるなら詭弁 >>111
太郎君は女だよ
信尹のこどもは薩摩にいたころ産まれてすぐ亡くなった男の子と、姫である太郎君だけ >>119
橋本政宣『近世公家社会の研究』を嫁
「近衛太郎君」の文書を分析した結果、それまでの通説であった「女性」説は信用できないとしている。
(文章が漢文でありひらがな文がない、その他) >>118
息をするように詭弁を吐く。
〜PR〜
【投票所はこちら↓】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1170859012/l50
【投票コード発行はあと一時間後の今夜23:31から】
【携帯からも投票可能】 西洞院時慶は、藤原北家師実流飛鳥井家出の居院僧正覚澄の子だよね
河鰭季富や飛鳥井雅春の関係が結構複雑だね >>114
・摂家の嗣子は昭和の近衛忠輝以外、同じ摂家の出か直宮だけ。
・摂関は皇太子と同格で、それ以外の諸親王よりも格上。
この2点は崩れないので、摂家より格が上な精華はありえない。 やはり黒幕前久のことでも語ろうか
この人相当タフだよね 薩摩にまで行ってしまうんだもんね
越後は比較的近い(航路的には)だろうけど >>126
>>128
武士に憧れたが、武士には慣れなかった公卿。
鷹狩りとか乗馬のこととか武士に教えを請われるくらい詳しかったようだね>前久
でも晩年は
「ヤパーリ公家らしく文芸をたしなんどきゃ良かった(´・ω・`)」
と島津義久や義弘にこぼした手紙が残ってる
自分のやりたいようにやったように見える人生でも、最後は後悔が残ったと言うことなのかな >>126
黒幕つーか、放浪(出奔)癖が凄いね。
義兄(義輝)の仇である松永とは縁が切れないし、光秀与党と疑われるし、その度に田舎に逃げてる。 公文家という家は初見
飛鳥井の末?
お話をうかがった限りでは、それは農民というのでは?
百姓にしては富裕だったというだけでは?
武士の身分を剥奪されたら
なんで完全な公家なの?
ほんものの京都の江戸時代の公家には堂上と地下があり
さらに地下の下に下級官人がいる
これらは朝廷から代々、位と官職名を授かっている
商人でも位や官職名を授かり官人身分を得ることはあるが
公文なる家は江戸時代に、そういうことがあったの?
武士ではない大地主は農民ていうんだよ
豪農とは尊称するけど
五摂家とか清華はどうでも、江戸期の公家は全般に貧しいよね
戦国期とさして変わらないような気がする
公家は貧しさに耐えうると、幕府に見くびられたように最近思えてきた 西園寺は京を全く離れなかったのかな。(伊予の話じゃなく) >>139
公家の貧しさより、大名旗本をのぞく武家の貧しさの方が著しいと思う。
戦国期の厳しさは、公家武家問わず江戸時代と比べるべくもないほど悲惨。 >>142
そうですね、江戸時代の公家の断絶は聞かないもの
戦国期は有名な公家でも、ばたばた断絶してしまいましたね
一条家(世尊寺流)、二条家(御子左流)、洞院家(西園寺流)
惜しい限りです
これらの末の庶子家の冷泉や正親町しか江戸時代に残ってない
江戸期の近衛家ってかなり裕福だったみたいね
他の公家は窮乏してたのに
ちょっとした小大名だったのかな >>144
菊亭
落語家の屋号みたいだけど
公家的な呼びかたでいうと
家康の二条城は二条亭
秀吉の聚楽第は聚楽亭
公家は他の公家の屋敷を亭と呼んだみたいだね
公家的にいうと
二条家康
聚楽亭秀吉 聚楽てい たいこう
という著名も残っています。
聚楽亭秀吉に間違いはないですよ。
二条家康は未だ、おめにかかれませんが
新田殿 家康は見ました。
京都の宮廷では新田殿で通っていたみたいですよ。 >>145
九条3,043石 近衛2,860石 一条2,044石 二条1,708石 鷹司1,500石というところ。
まあ裕福といえば言えるかも。
清華は1,300〜300石 大臣家で500〜300 だいぶ苦しくなりますね。 >>148
これが羽林家になると最低百石、名家には五十石のところもある >>147
聚楽亭 秀吉
と
新田 家康
が京都公家風の呼び名なんですね。
ふーん >>152
「徳川」や「松平」なんて苗字よりはわかりやすいだろ。 熊倉功夫『後水尾天皇』とマンガの『へうげもの』
を同時進行で読んでみたら面白かった!
近衛信尋は興味深いと思った。 信尋って後陽成の御子ね 江戸期の人だね。
それより前久 信尹親子の方が波乱万丈で面白いと思うがなあ。 土佐中村の一条家が天下統一していたら
関白と征夷大将軍を兼任していたかもな。 >>152
なじみがないというより、逆賊だろ?
まぁ、楠木が赦免を受けられる時代なのだから拘ってもいなかったかも知れないが。 >>156
九条家には関白も征夷大将軍もいたけどね。
兼ねてはいないが。 柳原淳光の後室の楊林院ってなにもの?
近衛信尹の遺言に形見分けするよう書いてあったり、子供の太郎君のことで手紙のやり取りしたり。
あと、猪熊事件のときに女御や女院の使者といっしょに家康と交渉したり結構派手に動いているんだけど、
どの本を読んでも「楊林院(柳原淳光後室)」としか書いていない。 >>156
一条家って並みの公家じゃないんだね
近衛家と同格の最上級の公家なんだね
関白家が都を離れてもよかったの?
まあ近衛家も離れた時期もあったらしいけど 食うに困っているのだから止むをえないっす
九条も荘園から年貢が上がってこないので一時期下向してるし。
近衛の場合は一条や九条とは違うかな?前久という人物の個性による放浪だと思う。
にしても土着して大名になったのは珍しい ・土佐に下向した教房の父兼良は教房没時も京で存命
・摂関家の方は兼良の子冬良が、教房の順養子となり相続、土佐国司は教房の子房家が継ぐ
これらから考えると、安定的な収入の確保を狙って一族を土着させたような気がする >>167
摂関家の一条家が土着したんじゃなく、ただの庶子(一門の人)が土着したんじゃないかなーということ。
家名も一条じゃないんじゃない?。 >>168
っていうか、土佐一条家から京都の一条宗家に養子入りして家督相続している人がいるのに? 養子入りしないと継げないんじゃ別の家なんじゃないかなと・・・ >家名も一条じゃないんじゃない?。
この時点で取り合う価値無し
『高知県の歴史』(山川出版社)とか「中村市史」とか一般向けの本を一回読んでこい >>170
言いたい事は分かるけど「別の家」になってしまうほど疎遠では無かったでしょ。
土佐下向は口減らしじゃなくて、逆に本家を食わせるためなんだし。
京都の宗家では土佐下向を貴族的な発想で「収入確保のための一時的な滞在」みたいに
認識していたんじゃないかな? >>172
納得しました
ありがとうございます
>>171
らんぼうな言葉使いですね
信用性のある古文書に歴代「一条殿」と名乗ったと残っているの? >>173
2chのしかも学術板ではなくネタ板で
文章が自分に対して丁寧じゃないというだけでいちいちそんな反応しているところをみると、
あなたは2chには向いてない。
たぶんこれからあなたの精神状態にますます悪い展開が出てこないとはいえないから
今の内に2ch卒業することを真剣にお勧めするな。
それでも2ch卒業無理というなら日本史板に類似スレ
○戦国公家衆○
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1144235023/l50
がある。 >>174
あなたのほうが向いてないと
みんな思ってるよ〜ん >>172
そんな感じだよね
安定的な収入の確保が狙いでしょうね 下冷泉家も播磨の所領に下向してたんだが三国司に入れるべきなんじゃない?
播磨守になってないとダメなのか?
下冷泉家は受領なんかより遙かに高い家柄なんだが・・・。
赤松家や別所家と姻戚関係にあり武士化している。
三国司よりも土着感は強いんだが・・・。 飛騨の姉工事は三木氏が乗っ取ったから抜いてしまえば?
>>178
確かに下冷泉家は赤松氏と姻戚関係をかさね赤松准一門ていうかんじだね
一条家よりも土着率は高いともいえる >>181武士なの下冷泉家って?。
ヨロイを装着し、戦国だから鉄砲で武装?
ありえなくない? >>182
戦国は(つーか室町期通して)公家は武装してるし戦闘もするぞ。
公家が「武装解除」されたのは江戸期から。 >>183
ヨロイ武者の冷泉家ってか・・・
ふーん 公家の武官って意味なくね?と思ってたら、江戸以前はちゃんと意味あるのな。 自分の利益は自分で守る。
それだけのことなんだけどな。 >>186冷泉家は羽林家だから
近衛中将として実があったってこと?
播磨で近衛府の中将の責任は果たせないと思うが
日本では運さえ良ければサルやチンパンジーが国家元首になれるんだぜ 公家と関係の深い戦国大名というと今川氏が有名だが、後北条氏も負けないくらい京の公家と関係が深かった。 >>192
氏綱の後妻が近衛氏の出身だしね。
若狭武田氏も公家との縁は深い。国信は長く在京していたし、久我氏に嫁いだ
娘もいる。 公家と関係が深い戦国大名といってパッと浮かぶのは
・大内氏
・朝倉氏
・今川氏
あたりか >>192後北条氏は伊勢氏なんだから今川みたいな地方大名よりも公家と近い家柄じゃない?。
>>193武田氏の一族で重臣の粟屋氏の娘は近衛家の室になり、外孫は天皇になったらしい。
>>194大内氏の官位の高さは並みの公家以上だね、将軍家も凌いでいる。 >大内氏の官位の高さは並みの公家以上だね
弛まぬ献金の積み重ねゆえ
歴代1位と言われてるね なんでそんだけお金持ちなの?
朝鮮人の子孫だから? 勘合貿易と、それ以外の対朝鮮、対中国北方交易を牛耳っていたから パチンコで儲けたとかいう奴がいないのはさすがに専門板だ。 戦国期の公家といえば山科言継
武士にも物怖じしない下々の人間にも気さくな人物だったらしい。 史上、天皇家や公家が最も困窮した時代だからな
米とか恵んでくれる町民に対して
「恐れ多くも権大納言の麿の前で平伏もせずに口をきこうとは、
なんと下賤な輩どもでおじゃるか!
麿に敬意を払わぬは即ち帝への不敬!朝敵でおじゃる!」
なんて言ってらんねーだろう 麿が欲しいのは米などではない、zipじゃとか言ってそうだな。 言継は勅勘をこうむって摂津には出奔はしてるんだね。 吉川弘文堂が来年2月に出す、「公家事典」は面白そうだな。
中世・近世期の公卿3000余人の詳細なデータベース、だそうな。 >>219
ひとりひとりのデータがどのくらい厚いのか気になる
広告みたら「年ごとの官員録を個人別の官歴に編集し直した詳細な履歴」なども
載ってるらしいから期待できそうだけど
しかし価格が21000円かー
まあデータ量からしたら妥当な金額かもしれないけど >>220
公卿補任(+歴名土台)を個人別にしただけならちょっと空しいかもね
>>223
編者が橋本政宣だから、そこまで酷いものは作らないとは思う……思いたい。 吉川弘文堂の事だから、創業150周年記念出版とか言いながら、151年目くらいに出そうなのがあれだw 九条政基は「政基公旅引付」で、この時代の研究者にとって大メジャーな人だが。 忠冬より親父の兼輔の方が長いだけど、それでも信房が生まれる前に没している 三条公頼は能登・周防・三河・但馬・越前と各地に下向してる >>1
京都御所の近衛池の桜はキレイですね。ことしも見たいと思っています。
九条池や閑院池などもそれぞれ違った趣があっていいですね。
桂池は何で一般公開しないんでしょうか?。
すばらしい庭園だという噂ですが。 ゆっくり京都も回ってみたいが なかなか行く時間がない。 >>241
桂池って桂宮家の屋敷内の庭園に池があるってことですか?
桂宮家ってどの辺にあるの?
京都御苑の南?
東? 柳沢元政のことです。たぶん彼は柳原家の庶子だったのでしょう。
宗家や父親から猛反対されつつも義輝に頼み込み、武家して新家をたてることに成功したのではないかと・・・
文弱な公家出身の彼は戦闘マニアの義輝に武士として認めてもらおうと血の滲むような鍛練を重ね肉体改造をしたのかもしれないですね。 鞆ですか。鞆幕府ですね。
六角や細川・若狭武田なんかの守護の子弟までも随行していますし
もちろん奉公衆は行くでしょう。 関ヶ原の戦いの敗戦後、毛利家の一員として柳沢も江戸に足を向けて寝てたんだろーな・・・ 毛利が江戸に足を向けてたとか、正月に徳川を打つ用意が出来た出来ないとか、
幕末にプロパガンダとして突然作った伝説を信じている人って、まだいるんだね。 鎌倉時代でも武家が結構諸国を回ってる
戦国期に公家が都から遠く離れたところに落ちるのも、さほど不思議ではない >>265
端公家ならともかく
一条家が地方に下る状態は異常だろう。
今で言ったら、宮家の方や内閣総理大臣がいきなり高知県西部の山奥に定住する
ようなもんだ。
第二次世界大戦終戦直後の東京よりヒドい状況
が当時の京都だったと想像される。 京都は意外と安定していた。京都がひどいというより、地方の政情混乱で、
荘園からの年貢運搬が途切れた事が、貴族を「生産地」である地方に
行かせることになったと考えるべきかと。 >>266
本当の端公家は所領を全部失っただけではなく、(つながっても何ら政治的メリットがないから)武士にも相手にされないから地方に下ることも出来ずに没落して消滅している。
むしろ、地方に下ることが出来る公家は迎え入れるほうから見てもメリットがある連中だけ。 今日京都御所に行って来た。
閑院宮邸、桂宮邸(二条城のも含む)が現存しているのは知っていたが有栖
川宮邸まで残っていたとは・・・。
さすが京都は奥が深い。
みなさんは御存知かも知れないが京都御苑の西方(烏丸通以西)に現存して
いて一般公開してるんだ。京都は何でも残ってるんだね東京では有得無い。 >>271
釣り?
>>272
応仁の乱以外にも近世の三大大火や天文法華の乱、平安末期の太郎焼亡・次郎焼亡など京都の火災は歴史上かなりの数にのぼる。 へえーそうなの
そういう感じだったら
なんか五摂家の御殿もどこかに移築されてるかもだね〜
つーか、考古学の研究では、応仁の乱の時期に京の町には殆ど被害はなかったそうだが。
大規模火災の後が全く見られないのだと。 >>278
正解!
京都じゅうの庭師が「お願い世話させて」って頭を地面にすりすり御役所もうでする
くらい
儲かる仕事らしいよ御所の樹木の手入れの仕事は。
肥料くらい何ぼでも、ぶちこみますわ。 戦国期にはそんな庶民いなそうだから、やはり明治の教育かな 俳諧が広まるのは芭蕉以後か
連歌が廃れるのはそれ以降 >>259
柳沢家の家紋は傘。つまりアンブレラだ。明治中期、萩城跡の石垣に刻まれた柳沢氏の家紋「傘」の略字が几号水準点と間違えられたことがある。 略字だったからじゃないの?
傘の家紋って珍しいね
あんまり武家っぽくないような感じがする 吉保は青木氏、毛利家に仕えた柳沢はもとは柳原(藤原氏)じゃないのか? 土佐一条以外で 下向したまま京に戻らなかった公家ある? 公家の公達の中には,信長軍に陣借りして所領を得ようとした者はいなかったのでしょうか?
言い方は悪いが,勝ち馬に乗るのも才覚だと思うが。
江戸期の公家の家禄を見ても万石取りはいませんよね。 >>298
一条家は京都に戻っているので、分家の一つが土佐に残っても帰っても
どうでもいいよ。 >>301
小説だけと、岳浩一郎『天正十年夏ノ記』にそういう人たちが出てた気がする
信長のやり方に賛同して陣借りする若い公家たち。所領を得るのが目的ではなかったみたいだけど
勧修寺晴豊による公家視点で信長全盛期を描いた小説で面白かった 天正年間から関が原までの出来事を使った創作をしたいんだが、
菊亭晴季、山科言継・言経、近衛前久以外の公家でフットワーク軽くあちこち行ってそうなのっている? 吉田兼見は朝廷の使者として動くことが多かったらしいけど
兼見卿記とかでおなじみの。 >>305
三条西 実枝・公国
親子が御勧め
織田信長・細川幽斉から徳川家康まで、濃く絡んでいるよ
和歌が特技だから公家そのものっていうかんじだし
飛鳥井雅教父子・三条西実枝父子・高倉永相父子・広橋兼勝・五辻為仲・庭田重保・烏丸光康。
今川氏真のところには随分いたね。
大内氏の処には、もっと高級な公家がいたはず。
上杉輝虎の処には近衛家もいたしねえ。 >>309
陶晴賢の反乱で三条公頼(清華家・従一位前左大臣)が殺されてるね つうか平安末期の源平時代以降、華族になるまで苦しくなかった時期はないんじゃない? 南北朝の前はそれなりに力があった。北朝になって極端に弱まった。 室町期は将軍の庇護の下、荘園の復活した時代なので、公家にはかなりいい時代だった。
苦しくなったのは応仁の乱以後、守護などに地方の荘園を横領されてから。 >>319
> 滅ぼしても意味がないしね。
それがけっこう大きいよな。
成り上がり者にとっては公家と交友があるのは
今で言うと芸能人の友達がいるようなもんで自慢できるしな。 官位も奪われ土地も奪われ対抗手段もなく
そう考えると可愛そうだな 【岡田外相 「民主党が"天皇は植木職人になるべき"と言うのならば、そうなる」】
植木職人発言オフレコ(岡田外相・金曜夜プレ懇) デスクオンリー/オフレコテープ起こしママ/公表不可 納品 2009年10月24日 02:11:40
1/5 Q.「まず、今回の外相の発言の真意をお伺いしたい。ご発言は、天皇の国事行為を前提とした、という理解でいいんですよね?つまり、あくまで内閣の助言と承認…(カブリ。聞き取れず)」
岡田氏「(さえぎり。カブリ)内閣とか国事行為とは無関係だ。あくまで陛下の……(聞き取れず) ご自身のお考え…お声を知りたいということだ」
2/5 Q.「では、宮内庁というのは?」
岡田氏「宮内庁というのは方便…というかレトリック(聞き取れず)とでも…。 陛下自身のお考えが聞きたいという趣旨。もちろん、宮内庁が陛下のお考えを聞いて起案し、文章化するとか措辞を整え とかあるだろうが、陛下自身のご意見が問題だ」
3/5 Q.「ズバリ、大臣は、陛下にどのようなお言葉が…(カブリ)」
岡田氏「(カブリ)そりゃ…政権交代ですよもちろん。
"勝てば官軍"といえば言い過ぎでしょうけど(数名笑い声)、民主党がこうして 勝った訳ですから、陛下もそれに恭順…(…間…)というかその支持をご自身のお言葉で表明してほしいですよね?
このままじゃ"自民党の皇室"のままだ」
4/5 Q.「大臣のそういうお考えは内閣としても憲法上問題である、という見解が…」
岡田氏「内閣といっても法制局でしょ。"官"ですよ。政権がかわれば、憲法解釈もかわります。我々は政治主導です。そういうくだらないことを言うんであれば、法制局長官
をクビにするだけです。それが政治主導です」
5/5 Q.「陛下の政治的中立を守らないと皇室の維持の将来にも問題が…」
岡田氏「政治的中立とか…(…間…)政治的中立って憲法に書いてあるんですか?マニフェストに書いてあります?皇室の将来より民意ですよ。民意は民主党支持なんです。
民意より皇室の維持が重要なんてあり得ない。民主主義です民意が"天皇は植木職人になるべき"というのならばそうなるんでしょ」(了) 戦国期に公家が京で暮らしにくかった、ってのは、今日が焼け野原になったからではなく
(戦国期を通じて京は日本最大の大都市、経済都市として繁栄している)、
公家の、地方の荘園からの年貢が、戦乱や地方の武士による簒奪で、京に届かなくなり、
収入がなくなったため、収入の当てがある地方に下った、という見方が正しい。 文化人だから大名はいくらでも庇護してくれたし 大名は裕福で余裕あんだね。 大名は裕福だね、江戸期みたいに幕府の締め付けないし 合戦繰り返してた大名に余裕があったとか頭おかしいだろ ちょっと調べたが1560年代の摂関と清華相当やばくね? 播磨に下国した下冷泉家は武士化してたらしいけど
因幡に下国した柳原家も武士化してたの?
日野一門だから当然に「カッチュウ」着て武装してたんだろうか・・・。 >>3あんたはそもそも公家というものを解っていない
あんたは公家を語れない
以上。 >>345
> 4年も前の書き込みに何言ってんだw
亀レスだなw >>301
万石取りになった室町以前の堂上公家は数家存在する。
出自を隠して江戸時代は大名としてやり過ごし明治に華族となった。 江戸時代まで名称が残った、鎌倉時代まで公家だった大名は毛利と上杉あたりか。 戦国時代ではなく幕末になるのですが、該当スレがなかったのでここでお聞きします。
現在、錦小路頼徳を徹底的に調べているのですがネットで調べつくしましたが、
情報が少ないのでもう調べようがありません・・・
八月十八日の政変で失脚し長州へと落ち延びた七卿のうちの一人である錦小路頼徳
大半の情報では唐橋家の、唐橋在久の次男としてかかれています。兄は唐橋在光。
それで錦小路頼易の養子になって錦小路家の28代当主となる。
そしてみなさんご存知の通り、尊王攘夷派の公家として活躍するわけですが、
七卿の中でも途中、現在の下関で病没してることもあり、情報がもっとも少ないのです・・・
唐橋家というと唐橋家の祖は高辻家の祖が兄で菅原道真の末裔にあたるそうですね
そこで質問なのですが、一部では実父?が豊岡治資となっていますが、
どちらが本当なのでしょうか? 大坂方に味方して戦死した持明院基久て漢の中の漢だな。
大坂方が勝ったら国持大名になってただろうな。 陣参公家(昵近公家衆)って一体どうなったんだろ?
少なくとも豊臣政権期には居たようだし
豊臣派が多かったりしたのかな?
それとも違う生き方を見つけて江戸期を生き延びた?
ちょっと調べたがよくわからん、誰か教えて下さい…… 後醍醐天皇の乱交
後醍醐天皇は鎌倉幕府がダーーイ嫌い
何とかして幕府を潰してやろうと密かに計画
でもって、作戦会議をするんだけど、そのカ
モフラージュに乱交パーティをしまくった
「朝廷は遊んでばっかだよーん」というのを、
六波羅探題(幕府が統括している警察みたいなもん)
にアピールするためであります
その乱交パーティは飲めや歌えやのドンチャン騒ぎ
スケスケの着物を若い女の子に着させてサービス
でもって、ひそかーーに倒幕作戦会議をしていた
のであります
が!倒幕計画に参加した男性が、妻にペロっとしゃべっちゃった
でもって、その妻が六波羅探題にタレこんだため、残念ながら計画はパーになってしまったのでした。そして隠岐に流され、兵庫の福厳寺にまで逃げてきて、楠木正成に迎えられるのでした。
>>363
でも、肝心の男をさっさと始末してしまったから、本当に何をやっていたのかは真相は不明なんだよね?
ひょっとしたら、マジ乱交パーティだった可能性すらあった訳で。 九条家と一条家ってめっちゃ仲悪いイメージなんだけど
仲直りした時期ってあるの? 近衛家以外が実質鷹司家だった時代(18世紀初頭)は仲悪くなかったのでは? 朝儀、各種儀式の運営、参加
大名国人と朝廷、幕府の間の周旋
家業の運営、経営
家学の研究、指導
荘園、各種既得権の運営
などなど 戦国時代の公家さんで
一番アクティブな人は誰だろう
やはり近衛前久? 一条さんもいるが、やはり前久さんの移動距離にはかなわないか でも一条さんも凄いよね
公家が大名になっちゃうなんて 上杉も公家から大名
毛利もか、
近衛は、公家から首相 九条家って、九条道家のどろどろな政権争いや
九条政基の唐橋在数殺害とか、血生臭いのが多いなあ
そんな九条家が好きです >>378
戦国期の九条家当主というと稙通だけど、この人もなかなかにアグレッシブだよね。
近衛は稙家
まさに将軍偏諱
ダメそうでいてそうとも言い切れない足利将軍 二条家も将軍から偏諱もらっていたりと
親幕派だったっていうね >>381
> ダメそうでいてそうとも言い切れない足利将軍
将軍個人は多少できても、組織がガタガタだったのではないか?
組織も意外としっかりしていた。
でなければ、将軍暗殺後3年も将軍不在のまま幕府が継続できない。
ただ、悲しいかな。ろくな暴力装置がなかったから。 二条昭実って、正室が信長の養女で継室が実の娘なんだなあ
秀吉死後に三の丸殿をわざわざもらうとか、色々と深読みしてしまう
でも実子がいないけど、子宝に恵まれなかったのかね 近衛前久
天皇の命を受け工作活動に勤しみすぎ
やはり本能寺は朝廷工作の賜物だな >>388
勉強しなさいで戦国板のスレを出すというのも… >>391
世の中には救いようのない馬鹿がいる、ということを知った意味では >>392
そんなに自分を責めるなよ
おまえさんでも、生きていればきっといいことあるよ 一条教房・房通みたいに関白経験のある
戦国大名っていうのは格好良い 土佐一条氏みたいに、公家さんが土着して戦国大名になった例って
他にどれくらいいるんだろう 伊予の西園寺氏はどうだろう
もっとも土着したのは室町初期のようだが 伊予の西園寺氏と、土佐の一条氏はけっこう戦闘しているよね(西園寺が劣勢だったが)。 あと下冷泉家とか 弱くてあの別所長治に滅ぼされちゃうけど
この出身者にあの藤原惺窩がいる 土佐一条氏を単独であつかったという本はなかったような。
あえていうなら『中村市史』かなあ、古い本ですが。 >>17
__
__ / ../) たっぷり稼いだから
/ ../) 三三)/) 晩御飯はいつもより豪華にしました。
三三)/) ∧,,∧ 煮干がこんなに美味しいなんて・・・
三三)/ シクシク (;ω;`) いつになったら。戦終わるの?
( つφノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/⌒/⌒/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
. / ⌒ ⌒ \
/ \
/ \
二二二二二二二二二二二二ニ二二二二二二二二二二二二l
| |l l | |
|_,,ソ !,|_,ン >>176
お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな >>403-404
亀レスはだめだと何度言えば・・・ >>402-403
亀レスはだめだと何度言えば・・・ 公家さん達っていっぱい日記書いてるんだから
それをまとめて編集した本いっぱい出してくれないかな >>399
その先生が奔走され京都に公家として下冷泉家を再興されてますね。
所領でも伝家の重要文書でも、足利時代は下冷泉の方が上冷泉よりも優位だったらしい。 一条さんといえば、土佐幡多荘以外にも摂津の福原荘にも下向して支配しようとしたとかなんとか
福原荘の兵庫津や幡多荘の宿毛津、足津とかを掌握して海の道を確保し流通を握ろうとしたとかなんとか 公家から武家になったのは伊予西園寺氏と土佐一条氏くらいか 公家は官位は高くても基本貧乏だし、家臣団を養うのが大変だからな ( ⌒) { ⌒)
て人 . -―- .. . --. .. /^〜'′
/: ハ : :ヽ: : :ヽ / r 二ミ`ヽ
.′: :ト∧:.i: :i: :ヽ i ′! l<`^^'ヽハ
l: : :癶{\ト、:匕iト| } :|:!\ ノ |: !
|: :f'|:..l○ ○{: | ノ :(|: |○ ○{: { ☆ 日本のカクブソウは絶対に必須です ☆
|/ トl! {. 3 ノ:リ'イィ:! :{. 3 ノ从 総務省の『憲法改正国民投票法』のURLです。
}ハ>弋l>┬<}/ ′厶{ィ` i爪}/http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/index.html
{ i |「`´ヽ, }. /´ バ`´}ヽ\
'. lハ ノヽ | / ィ/ ヽノ i ヽ
∧. {__乂_.ノ {. / / `廴__夫__ノヽ '. >>416
源氏も平氏も秀郷流藤原氏もみんな元公家だっつーの。
鎌倉期には公家の上杉氏が武家化。 岡野は、まだ久我家で商売しているのか?
旧作を衣替えしたけで「生き残り戦略!」と言われてもね
旧帝大の先生から久我家を卒業して
摂関家をやれとあれほど忠告されていたのに… バスボンガール 乙
https://youtu.be/lF57Ue1s3_s
1000 名前:無党派さん
投稿日:2015/09/22(火) 21:04:10.03 ID:FD8M9VRy
風呂入ってた
ありがとう
↑
この人がバスボンガール 2ちゃんねるは今日もサーバーダウンすると思うので、
避難所のリンク集を貼っておくよ。
↓
避難先の外部板
ここでは2ちゃんねる各板が鯖落ち等により一時的に利用できなく
なった際にも利用できる、外部サイトにある避難所またはその一覧を
紹介する
http://info.2ch.net/?curid=1660 http://ninkyou.blogspot.jp/?m=1
ヤクザグッズ!任侠グッズ!極道グッズなら当店にお任せ下さいませ。
指定暴力団体代紋バッチ各組織出品中!!
画像を御覧くださいませ!! 一条家・西園寺家は大名化したけど
二条家とかはどうしてたんだろ? 毛利・上杉が元々公家だったのが意外
てか武家と公家を分け隔てて考えるのはやめたほうがよさそうだな
やはり公家の中に武家があると考えると納得できる 武家関白制のもとでは
清華以上に武家と公家の区別はなかったものと思われる 江戸時代の人口比率
公家・神官・僧侶:1.5%
武士:7%
百姓:84%
町人:6%
穢多・非人:1.5% 宗家一條家と土佐一条家は房基ぐらいまではほぼ同一の存在だった。
房家の次男である房通が関白やってるぐらいだから当然なのだが。
官位だって明らかに武家のレベルではないし、房冬も十年以上在京したりしてる。
余談だが在京中に房冬が越中に行ったらしいんだけど何しにいったのだろう?
公家が土佐に来ることもしばしば。
土佐の政治にも公家が関わってる。町家が代表。
大内義隆の跡取り養子に行った晴持。
西園寺家や今出川家はこの頃一條家の家礼だったのではないだろうか?
あと、皇族を室に迎えたのは前代未聞。信長や秀吉でもできなかったこと。
戦国時代初期の一條家はすごかったんや
房冬、房基と早死にしたばっかりに……。 房家の娘が伊予西園寺家の広宣に嫁いでる。
実充の弟となってるけど、個人的には怪しいと思ってる。
二人の子は西園寺「伊予守」(実名不明)。
西園寺家の特徴として、代ごとに実と公を交互に通字としていることなど。
房基が生きてた頃は両者は仲が良かったと考えていいのではないかな。 鎌倉時代の上杉って公家の格としてどんなものなのかな?
あと、鎌倉幕府滅亡は尊氏の母方の上杉氏の意向で足利が背いたから、って説があるけど、建武期に朝廷側が上杉氏をどう扱ってたかも気になるね 将軍下向に従って鎌倉に行くまでは地下家だったんでは? >>404
本当笑えるよなw
4年って言ったらオリンピック1回ぶんだぜw >>430
尾張藩家老の志水家も公家出身だしな、幕末の勤皇佐幕の思想ってその藩で影響力のある家柄の出自が大きく絡んでるのはありそう 忠臣蔵の時の勅使も祖父の代までは武家だったらしいが。 公家は常服として狩衣ではなく直垂を着ていたらしい
>南北朝の動乱による貴族社会の地位の低下により
>直垂は公家貴族の平服として着用されるようになる。
Wikipedia「直垂」 >>333
誤解されやすい公家でも13年前だけど正しい指摘発見 伊勢国司北畠の家臣に中御門とか冷泉の名前があるちんこ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています