【太田資正】さいたま〜の武将【成田長泰】
参考リンク
埼玉武将名鑑
ttp://www.age.jp/~nariyama/saitama/frame.html
地方別武将家一覧関東
ttp://www.www2.harimaya.com/sengoku/bk_kanto.html 成田の離反が無ければ、謙信の関東征伐は成功してたのかな。 微妙、離反がなくても北条の領国統治システムは優れていたし
謙信は長期遠征による負担というアキレス腱を抱えたまま
多少は楽になった程度ではあるまいか? >>9
「夜戦」が無かったという説はある。
もう少し言えば、河越夜戦があったという証拠がほとんど無い。 あの兵力差はありえないな。
8万も動員できるわけがない。 両上杉+古河公方だけなら、最大動員で四万くらい、妥当な線で二万前後くらいかと。
さすがに八万はあり得ない。 謙信も8万くらい動員してたけど、あれも誇張なのかな。 えーと旧参謀本部によると一万石あたり250人前後の動員能力があったと考えられるから
80000÷250=320万石
誇張臭いかもしれません・・・ >>13
謙信の場合は佐竹辺りも参陣していることを考慮に入れてみると、
五万くらいは集まっていたかもな。
万石あたり400人動員すれば、八万に届くかもしれん。 永禄3〜4年の謙信・関東連合軍は、11万5000が公式発表(上杉家御年譜)
根拠になっているのは「関東幕注文」(原本が上杉文書に残っている)で、
関東255将(永禄3年なので、那須・佐竹は未掲載)となっている文書だ。
武州衆(埼玉)は、
成田下総守(長泰)以下、親類同心14名、ほか3名
羽生衆が13名、岩附衆が太田美濃守(資正)以下14名
勝沼衆(青梅)が6名といったところか。
これが永禄8年の「関東衆軍役覚」(謙信公御書集)になると、総勢19家2510騎、騎馬1に対して
雑兵10で、2万5000?
成田長泰200騎、太田三楽斎100騎、房州衆500騎、佐竹200騎、宇都宮200騎など。
戦国期、最大動員兵力は七人役と言われている。
一万石あたり七百人。
これはあくまで防衛戦に限る動員可能人数らしい。
関ケ原時の上杉の動員計画で行なわれかけた。(それでも多数の浪人衆を集めてるが)
これを越える動員をやったのが、関ケ原時の黒田氏。
(大金はたいて集めた。) 兵力は詳しくないのでなんともいえないし、誇張多いしね
>>10
夜戦があった証拠
内容は知らないが、「太田資頼状」「上杉憲政書状」「行伝寺過去帳」等があるそうだ >>18
ああ、知らないようだから補足しておくね。
北条氏綱が河越奪取に前後して扇谷勢を夜襲で撃破したことがある。
行伝寺過去帳はその記述は天文六年の夏頃、
天文十五年の、氏康の河越夜戦の記述ではない。
同様に太田資頼は天文10年に亡くなっているので、彼が関わったのは必然的に氏綱の河越合戦。
上杉憲政書状では、河越で合戦があったことの証明にはなっても夜戦であった証明にはならない。
そもそも伝わっているような大戦の割には確認されている感状が上杉側の二通のみ、というのも疑惑の種にもなっている。 まあ要するに
1:扇谷上杉と北条が(同じ対戦相手が)
2:天文年間に(同じ元号で)
3:河越を巡って戦い(同じ場所で)
4:北条が(同じ勝者)
5:夜戦で勝利した(同じ勝因。ただし氏綱のは史実、氏康のは史実か?)
ので、紛らわしいといえば紛らわしいよね。
これらをまず念頭に置いた方が良いみたいだよ。 太田道灌 没後520年 悲運の名将 再発見
ttp://www.tokyo-np.co.jp/00/thatu/20060613/mng_____thatu___000.shtml
直接関係ないけど江戸系の末裔が出てます。生保の社長さん。 江戸系の系図は眉唾なんでしょ?
家康の側室だったお梶(お勝・英勝院)の家系を、江戸城築城者太田道灌に
つなげたとか。 >>19
>>18についてまず訂正
「太田資頼状」→、「太田資武状」です、パンチミス申し訳ない
「行伝寺過去帳」の件
「川越一戦討死弐千八百廿余人天文十五年丙牛四月」もあります
ただし夜とは記述がないですね
いろいろ見てみましたが、一つの大きな戦いなのか、
何年にもわたる幾度の戦いが、合わさり一つの戦として軍記物に記載されたのか、諸説あるようですね
扇谷が滅亡し、山内も滅亡一歩手前
一度の戦で、出来すぎといえばそう感じないこともないですね >>22
寛永年間に編纂された「寛永緒家家系図伝」を奏者番であった、
江戸系の太田資宗が奉行しているので、彼の意見で江戸系を中心としてつくりあげたと言われます
新井白石が後に、疑問を呈し、岩付太田を嫡流としてくる 三大夜戦(厳島、河越、桶狭間)というのはいつから言われてたんだろう? >>25
不思議だよね、特に桶狭間は昼過ぎの戦だよね
三大急襲戦ならわかるけど >>25
頼山陽という話もあるが?だ
第一川越近辺ではそういう言い方をしても、広島や愛知でそういう使い方してないんじゃ
そこらにヒントがあるような ttp://www.alpha-net.ne.jp/users2/kwg1840/yasen2.html
このページの一番下のほうに何やら色々出とります。
どうやら歴史読本745では、頼山陽の説として日本三大合戦の一つと扱われているとのこと。
この方の持っているその他の資料には、三大夜戦なり合戦なりと呼ばれる根拠は示されていないそうです。
>>29
面白いサイトだな
北条方や上杉方の兵数は何を典拠としたものなんだろう? >>29
オレもそれ参考にして書き込みしました
ところで三楽斎ってみなさんどう思います?
道灌と比べてどうなんだろう 確かに扇谷、ひいては山内を支えていた人物ではある、道灌
でもあそこで殺されて、そのあと旧勢力の没落が始まるから、評価をより高めているような気も 三楽斎は武将風雲録でなぜか深谷上杉氏配下に押し込まれて渋い顔してた印象しかないな 資正は長野業正とともに関東の武将で一番好きなんですけど、
業正と比べると全体的に一回り小さい気がしますね。残念ながら。
太閤Xで忍犬の術の秘技を持ってるのは(;´Д`)ハァハァですよ。
で、塚原卜伝門下で香取神道流の使い手の成田長泰は、
何の特徴もないただの凡将に設定されてるのがちと寂しい。 没落しかけた名家の割には活躍したと思う、三楽斎
岩付と松山を基盤とした北条への抵抗
嫡子氏資の岩付乗っ取り後は、常陸片野城に移り、あくまでも北条方と戦う
一途なのよね、結構
>>35
業正は猛将だな
上野は彼でもっていたようなもの 長野業正の“上州の黄斑”みたいな
異名で呼ばれる武将は武州にはいないんですかね >>39
ちょw
熊谷の愛犬家殺人事件思い出しちまいましたよ 西が長野で東が由良じゃないの?
つか由良は謙信を激怒させてるが怖くなかったのかな?
佐野などもそうだけど反旗を翻しても北条はロクに支援してくれないだろうに。
それどころか佐竹・宇都宮勢まで来襲してくるわで得な事は一つもないだろうに。
そんだけ利根川以北にも北条の圧力が強かったのかな?
太田や里見などと共闘した方がいいような気がするがなぁ。 いや、そうでもないと思う。
謙信との決戦こそ避けているが、対陣は頻繁に起きているみたいだし。
あと頼りないという点では北条<上杉なのは確定だろ、詳細は省くが。
また謙信が越山してくるのが期間限定なので、
四六時中領国を接している北条の方が良くも悪くも気にかかる存在だろうしな。 謙信の越山って、動けば強烈だけど、なかなか来ないところがミソ
少しづつあてにするものが少なくなる
北条は逆に少しずつ勢力を広げる
でも越山あれば掌を返すのも多いし
また謙信は許しちゃうんだよね
謙信の越山は台風みたいなものだからな。
自然現象を当てにしていてはまともな戦略を立てられないよね。
北条側も慣れたのか、後年になればなるほど越山の脅威は薄れてるのがなんとも哀れ。
特に杉山城及び関宿城後詰めの失敗は謙信と反北条諸将にとっての致命打になったな。 関宿城は簗田の件とわかりますが
杉山城とはどのような件でしょうか? ああ、永禄五年(1562)の松山城落城のことですね、了解です
しかし松山城は長享の扇谷と山内の合戦から、天正十八年(1590)の小田原攻め時の落城まで
幾度も合戦が行われていますね \∧_ヘ/
/ \〇ノゝ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/三√ ゚ ∀ ゚ )< さいたまさいたま!
\_/ \_________
/ │ \∧_ヘ
\∧_ヘ ∩/ \〇ノゝ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ∩/ \〇ノゝ/三√ ゚∀゚)< さいたまさいたまさいたま!
さいたま〜〜〜! >/三√ ゚∀゚ )/ | / \__________
_______/ | 〈 | |
/ /\_」 / /\」
 ̄ / /
 ̄ 他県の人でも分かるだろうけど、全県的に人気も知名度もある人物っていないね。
道灌は埼玉に重畳の縁があっても郷土の英雄と呼ぶには無理があるし、
強いてあげればやはり源平期の熊谷直実か畠山重忠、まあ直実かな。
>>57
やはり鎌倉に近すぎる地勢がそうさせるのかな
道灌は江戸〜ってイメージが強いし
河越の扇谷も岩付の太田もそう長い期間でなく、いなくなちゃったし
江戸期は江戸と近すぎるし 行田の成田甲斐姫は?
お酒の銘柄にもなってたと思うが。 >>60
地元の奴以外は、まず知らないんじゃないかな?>甲斐姫
十万石饅頭で有名な、ふくさやからも甲斐姫のもなか出てるんだがw 甲斐姫の話って、どこからどこまでが本当なの?
教えて地元の詳しい人 >>63
大体「成田記」自体が江戸時代に書かれたものだからなあ・・・
他の事実と照らし合わせて推察するより手がない
まあ大なり小なり他の大名家でも誇張や拡大解釈はあるものだからな
話半分程度に思っておけばいいんじゃないだろうか? 葬儀社のHPなのに忍城について色々載ってて結構面白い
ttp://www.gyoda.co.jp/gyodahanasi.htm >>66
うん、ためになるね
>>67
歴史好きなんでしょ
でも葬儀ってものも伝統を踏まえたものだから、自社PRも兼ねているのでは
成田記以外のソースってあるの?
関八州古戦録に出てるのは甲斐姫の継母だし >>69
その後の消息として、秀吉の側室(秀頼の乳母・成田殿)になり、
秀頼の娘を庇護して東慶寺(鎌倉)に下向した。醍醐の花見の側室席順に
「かい」とあるのが甲斐姫らしい。 甲斐姫の母は横瀬成繁の娘
室は三楽斎の娘だけど
継室なのかな? 三楽斎の娘は義重の側室だね
正室は伊達晴宗の娘、義宣、盛重等の母 増田長盛の墓は新座の平林寺にあるんだね、最近知った
>>70
「かい」の名が醍醐の花見に名のあることは知ってるけど、
東慶寺に下向したというのは初耳だ。
天秀尼の母が成田氏と伝わっている(甲斐姫とはまた別という)ことからの
何となーくのこじつけじゃないのか。
史板や三戦板には甲斐姫ハァハァな姫武将ヲタが多いけど、
彼女に関しての説は>66同様、話半分と思っている。 俺も、その甲斐姫ハァハァな姫武将ヲタの一人っちゃあ一人なんだが・・・・orz 戦国時代埼玉は行田地方は忍城の成田氏。寄居には鉢形城に北条氏邦がいました。
深谷あたりは上杉の武将がいたこともあるみたい >天秀尼の母が成田氏と伝わっている
これが誤伝。成田殿と「かい」は史料的には同じと考えられ
甲斐姫が秀頼の乳母になった史実から、成田殿が天秀尼の養育→母
秀頼の側室となったと思われ。よくある混同。秀頼と甲斐姫は年が
離れすぎ。 >>79
太田氏房のこともたまには思い出してください 氏邦も藤田家継いでるし、北条はうまいことやってるよな 氏照るが継いですぐ捨てられた大石家の悲惨さについて >>85
定久の実子定仲は八王子千人同心になったから
ましなんじゃ
>>88
氏資は確か北条に寝返って資正を追放した後は討ち死にさせられてるよな 酷いね。もうお前は用済みだ、という事かな?
まったく氏康はとことん外道だな。やはり謙信公に誅殺されるべきだったのだ。
うん?
氏資は上総三舟山の合戦で、北条方として里見勢と戦い
殿にて討死、太田勢は全滅したんでしょ
それにより氏房が、太田に入るんだけどね 資正追放の発端は、資正が継室(大石定久の娘)の言をいれ、
前室の子氏資を吃音を理由に遠ざけ、
継室の子政景に家督を譲る旨を、上杉輝虎に伝えたこと
これに北条氏康が乗じ、資正の留守中に、氏資や老臣と謀った上での追放劇
(小田原記によるので、史実かどうかは?の部分もあるようだけど)
当初追放されたのは資正のみ
政景は岩付城内に幽閉→家臣により救出、以後父に同行
“太田資正”でググって一番上に出てきたページの下の方に
“「天下十三大将」のひとりにも数えられた”ってあるんだけど、
「天下十三大将」って呼称、誰かご存知?俺は初耳ですた。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~JT7T-IMFK/sanraku/sanraku.html わからないね・・・
ある本によると
資正は当時の関東武士の物語に、日本の十三大将の一人に挙げられている、とある
(だから何の物語?なのさ、と言いたいけど)
又、直江兼続が
わが国の大小の名将中で、主君謙信と太田三楽に及ぶものはない、と激賞しているとも 深谷上杉家臣の秋元氏は埼玉の武将に入るだろうか…
最終的には譜代で館林藩主になって明治維新を迎えているのだが
武蔵出身の中でも結構な出世頭じゃない? >>99
成田も途中までは良かったけどね、残念ながら廃絶 成田だね
でもそのころ(14世紀後半〜15世紀)って同氏族の別府氏の方が勢力が上だった節があるからなぁ 武蔵四家(よんけ)
成田氏 玉井氏 奈良氏 別府氏
忍城は天正十八年 六月四日に囲まれてから、
小田原開城の十日後の、七月十六日の開城まで、石田三成らの攻勢を凌いだ
この間水攻めの失敗とか、いろいろあったけど おお、なんてシブいスレなんだ
忍城の如く堅固なスレとして守り抜くべし 上杉謙信が北本の石戸城を攻めた時の城将って誰でしたっけ? >>113
松山城の救援に間に合わずに、私市城に矛先を転じたその前後(永禄六年二月)に、
石戸城に兵を向けてる筈なので、依田某って奴じゃないかな。
ttp://members3.tsukaeru.net/penguink/musashi/saitama/ishido/ishido013.jpg
永禄五年(1562)七月北条氏邦が毛利丹後守が守る、石戸城を攻略
これ以後の城主は、依田大膳亮
>>114のお説のとおり、永禄六年二月頃に上杉方が奪還したらしい
ただ謙信が城衆救援の為出陣とか、北条氏康が出陣とか、間接的な記述で、
戦の詳細はわからない、らしい そういやメルシャンって以前の社名が三楽だったけど
創業者が太田さんだったなんてことはないよな… 【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。 残念ながらメルシャンの創業者は、鈴木忠治さんだった・・・
太田だったら面白かったのに〜 そんなに大したことが書いてあるわけではないけれど
戦国物語る 天然の要害 寄居町の鉢形城跡
ttp://www.tokyo-np.co.jp/00/stm/20060820/lcl_____stm_____004.shtml
鉢形城の戦いといえば
・永正九年(1512)六月の上杉憲房・長尾景長 対 上杉顕実
・永禄十二年(1569)の 武田信玄 対 北条氏邦
・天正十八年(1590)六月の 前田利家・上杉景勝ら 対 北条氏邦 >>80
亀レスです。スミマソン。
根拠はどこかにあるのでしょうか?
年が離れ過ぎたケースは、例えば、
室町幕府の8代足利将軍義政は、
乳母であった今参局を寵愛して子供作っています。
ちなみに「天秀尼の母は成田氏」で、
その成田氏は「成田助直の娘」とあるのですが。
助直って、誰でしょう。成田一族の初期には「助」の字の付く人多いようですが。
どなたかご存じないですか? >>123
80の言うとおりでだいたいあってると思うけど?
知られている甲斐姫の逸話は江戸時代になって書かれたもの、
ということはご存じだろうか?
豊臣家に入ってからの甲斐姫の消息は確実な文献に残っていない。
醍醐の花見でこれは甲斐姫か?という名が残るくらいだ。
また東慶寺にも天秀尼の母が甲斐姫という文献どころか伝承も無い。
最近は甲斐姫が昔より脚光を浴びてるせいで、
秀頼の愛も受けたなんて適当なことを言い出す人がいるのだろう。
>>126
123です。さっそく、ありがとうございます。
成田記などが江戸時代になってから書かれた、
フィクション性の高い文書ということは充分存じております。
甲斐姫が秀頼の子を産んだか否かということに関して、
年齢が離れているだけでは根拠にはならないと思い(私も別人とは思いますが)、
では「成田助直」とは何者か、を知りたいと思っているのです。
それから「関八州……」の資料には、甲斐姫が登場するよりも
継母が主に忍城を守ったように書かれているのでしょうか。
かなり以前に読んだ新聞記事には忍城は妻が守った城のように書かれていて
記憶に残っております。
>>125 さん
伊勢成田氏、というのをもう少し詳しくお教えいただけないでしょうか。
棘丸出しって自分のことかぁ?
じゃあ、棘丸出しでもう一つ。
成田助直女、成田助近女、渡辺五兵衛女、渡辺と成田が混同してる場合も有
秀頼側室についての詳細は、本によって違ったりするので、
もう東慶寺にいって参考文献になるものを教えてもらうとか、
家譜を調べる、忍に出かけて
郷土資料コーナーにいくとかしたほうが良いと思う。
忍まで行けないなら、地元の大きい図書館で市誌を借りるとかね。
>>129
ありがとうございます、128です。
私は別に棘丸出しとも思いませんでしたが。
渡辺成田混同している場合もあるのは充分存じてます。
秀頼の二人の子は母が別という説も、とにかく調べるのはむずかしいことも。
おっしゃるとおりですが、東慶寺や忍に行くほど時間がなくて、
(来週仕事で使うつもりでした。今回は別にそこまで詳細に触れなくとも良い内容ですので。
ただし情報が詳しく分かればありがたかった)、
こちらにおいでになる、かなり詳しくご存知のみなさまからの情報を得ようと、
勝手ですが思った次第です。
ありがとうございました。
ただしこの件は、興味がありますので、引き続き調べてみます。
今後もこのスレの皆様の情報をたのしみに読ませていただきます。
そういえば市史って、資料として読もうとしたら、
けっきょく原典読まなければわからないことになっちゃいますね。 成田甲斐姫の件、スレがいい展開になってる希ガス。
とりあえず、行田忍城の資料館では甲斐姫関連の史料・研究論文等は
行田商工会議所発行(非売品)の小冊子以上はなかったです。女性の学芸員に聞いてみたが、
まるで要領を得ず。忍城の研究自体が江戸期忍城を対象にしたものだったし。
行田市史・埼玉県史はこれから取り組んでみます。
みなさんの調査、検証に期待します。わたしも続けますが・・・・。
>>132
ありがとうございます。
そうなんですよね。現地にやみくもに行っても、
あんがいたいしたことしか分からないこと多いんです。
訊きたい件にくわしい学芸員が、お休みの時もありますし
取材に行くときは、必ず先に電話します。
電話でかなり分かることもありますし、行かなくとも
向こうから資料を送ってくださることもあるんです。
非売品だったり、借りられない資料など親切なときにはコピーして
送ってくださるときも多いです。ありがたいです。
調べたいところが近ければよいのですが、今回私は関西ですので、
このスレのみなさんの知識やご協力をあおいだのでした。
wikiの甲斐姫の項を書いた人、まさかここには居ないよな? >>132
あの小冊子は研究論文というか成田記を現代語訳しただけだからなぁ( ´・ω・`) 女武者から天下人の側室というのは人々の興味をそそるに充分だし
甲斐姫については江戸期の創作がかなーり入ってるだろうな。 豊富な出土品を公開 県内屈指の規模・深谷城 25日から市立図書館
ttp://www.saitama-np.co.jp/news10/15/03x.html
城郭規模は県内最大級 市教委『深谷城跡』を調査
ttp://www.tokyo-np.co.jp/00/stm/20061017/lcl_____stm_____002.shtml
人物ネタじゃないけど保守のためにハリコ 甲斐姫や武者、勇ましく 歴史絵巻で見物客魅了 行田で時代まつり
ttp://www.saitama-np.co.jp/news11/14/13l.html
行田市本丸の行田市役所周辺で十二日、恒例の「行田商工祭・忍城
時代まつり」(行田商工会議所主催)が開かれた。
一五九〇年、成田軍対豊臣軍の「忍城攻防戦」が今回の舞台。出陣
式には忍城主・成田氏長、豊臣秀吉、石田三成など戦乱の世を彩った
人物たちが次々に登場。水攻めの際に“難攻不落の城”を最後まで守
り抜いたとされる甲斐姫役を演じた女優高松あいさんが、勇ましい殺陣
を披露した。
よろいかぶとに身を包んだ両軍の武者行列が忍城東門前に集結。鉄
砲隊による火縄銃の銃声もとどろき、大勢の見物客が、地元ゆかりの
城にまつわる歴史絵巻に見入っていた。
手作りのよろいを身につけて武者行列に参加した時田真志くん(5つ)
は「お父さんと一緒に歩けて楽しかった」と笑顔で話した。
すげー女優呼んで甲斐姫やらせたのかよ?
行田って金あるんだな >>141
作家呼んで義経正妻やらせた川越市とは大違いだな。
しかも河越重頼の妻が市長夫人、義経が市長の息子だなんてバカ過ぎる。 >>145
市の職員あたりに太鼓持ちがいたんだろ。
行政が腐ってるな。 川越は最近何かと東亜板とかで話題になるような事しでかしてるからなー・・・ 資正の次男・政景って、謙信の肝煎りで梶原氏の名跡を継いだんだな。
そんなに梶原氏って、関東じゃ名族なの?
>>149
ttp://hamad.web.infoseek.co.jp/hass-col/event/Kajiwara.htm
梶原の姓は, 永禄元年(1558), 古河公方義氏の元服の時に太刀役を務め, 梶原の姓を与えられたという説
(『異本小田原記』)と, 同4年, 長尾景虎が上杉姓と関東管領を譲られた拝賀の時に与えられたとする説
(『北条記』)がある。 (永禄5年の政景の初見史料では, すでに梶原を名乗っている。)
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/kaziwara.html
ところで、『異本小田原記』に、太田道灌のあとを継いで武蔵岩槻城主となった太田資正は、その子を
梶原上野介の後家の養子として、梶原源太政景と名乗らせたとみえる。そして、最後の関東管領となった
上杉輝虎(謙信)は、鶴岡八幡宮への拝賀に際し、由緒ある梶原姓の政景に太刀を持たせている。
梶原氏は悪役扱いされてるけど景時って大物が出てるし、鎌倉党の一族で長尾氏とも同族だから
梶原の名で損することはないんじゃまいか。 >>150
詳しいレスありがとうございます。勉強になりますね。
wikiを見ると政景は一時は北条家になびいたりと、色々と面白い。
資正も一貫して反北条じゃなかったし、敵味方が入れ替わるのは乱世ならではですな。 >>152
佐竹家が秋田に転封された後は結城秀康の家臣になったらしいから、
子孫は越前に移ったのかな? 中世3城跡:一つの群として学術的価値 県、夏にも国史跡に申請 /埼玉
ttp://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/saitama/news/20070109ddlk11040004000c.html
◇比企地域の中世3城跡−−松山/杉山/小倉
県は、県西部の比企地域にある松山城(吉見町)、杉山城(嵐山町)、小倉城(ときがわ町)の中世3城
跡を一括して国指定史跡に申請する方針だ。「地域的な関連性が認められ、一つのまとまった群として学
術的価値がある」(県生涯学習文化財課)と判断したためで、複数の史跡群が一体で国指定になれば県
内初。それぞれ県指定の城跡を国指定に格上げし、学術的な価値を高める狙いがあり、早ければ今夏に
も文化庁へ申請する。【橋本利昭】
比企地域は鎌倉時代、幕府の御家人らが鎌倉に向かう手段として整備した鎌倉街道が通る交通の要
衝。このため、15世紀後半から16世紀後半にかけて、山内上杉、扇谷上杉、古河公方の3勢力が抗争
を繰り返すなど、たびたび戦乱の舞台となった。おのずと、城跡も多く、現在確認されているだけでも「大
小合わせて20〜30個の城跡がある」(県立嵐山史跡の博物館)という。
中でも、三つの城は、いずれも10キロほどの近距離にあり、調査も比較的に進んでそれぞれに特徴を
備えた城跡であることが確認されている。
県生涯学習文化財課は「ある程度歴史的価値が確認され、保存状態も良い。単体だと理解できない
が、群として捕らえることで歴史を読み解くことができる」と説明する。
また、城跡はいずれも民有地などにあるため、今後、3町が今月から、約70人の地権者を対象に説明
会を開いて国指定への理解を求め、夏の申請にこぎ着けたい意向だ。同時に指定後の整備計画を策定
するなど保存に向けた作業を急ぐという。
◇松山城跡(吉見町南吉見)
比企丘陵の東端にあり、大きく蛇行する市野川に囲まれた天然の要塞(ようさい)。扇谷上杉、後北条、
甲斐武田氏らが松山城をめぐり、激戦を繰り返したといわれ、北武蔵を支配するうえで、重要な拠点だっ
たことがうかがえる。大規模な空掘と市野川が形成した断がい絶壁を利用したのが特徴。
◇杉山城跡(嵐山町杉山)
敵兵の側面を弓・鉄砲などで攻撃するための横矢掛かりを備えた虎口(廓=くるわ=の出入り口)を配
置するなど、戦国時代の典型的な山城。総面積は約14ヘクタールあり、約10個の廓を山の地形をうまく
利用して配置。鎌倉街道を西方に臨み、屈指の名城とされている。
◇小倉城跡(ときがわ町田黒)
西から東に突出する丘陵上にある山城で、石積みを多用しているのが最大の特徴。丘陵から産出され
る結晶片岩を使っており、高さ5メートルもの石積みも確認されている。江戸時代の地誌「新編武蔵風土
記稿」によると、後北条氏家臣の遠山氏が城主。
毎日新聞 2007年1月9日
松山城も民有地にあったとは知らなかった。きっちり保存してほしい。
>>147
むしろ公務員板で市長本人が猛烈にネタにされとる。 明確に否定する証拠が出なければとりあえず史実とされる。 川越藩鉄砲隊『いざお台場へ出陣じゃ』 武者役10人を“募兵”
ttp://www.tokyo-np.co.jp/00/stm/20070206/lcl_____stm_____003.shtml >>161
逆だろ、それは悪魔の証明だ
明確な証拠が無ければ伝承の域を出ません だが、今でも多くは、あった事になってますよね!?
しかし、あの時代に大規模夜戦はありえんだろ。
戦国時代の話はどこまで本当なのでしょう?? >>164
河越夜戦は確かにあるよ、ド田舎者川越市民の心の中にだけw 戦国期の大宮氷川神社や調神社のあたりって
どうだったでしょうか?
与野太郎ならぬ大宮太郎とか浦和太郎とかいなかったのでしょうか? 徳川旗本になった春日氏は、大宮近辺の戦国武士で岩付太田家臣。
江戸時代の所領は浦和近辺で、菩提寺は今調べてみるか。 氏資に追われたというのは、家名を残すための方便ではあるまいか。 >>166
以前、さいたま市立博物館で「戦国時代のさいたま」って特別展がやってたよ。以下そのパンフからざっと。
寿能城に潮田資忠、太田資正の子で母方の養子となったらしい。
与野郷に立石甚右衛門 太田氏房臣
寿能城から西には、
伊達氏館(見沼区大和田) 伊達房実
中丸城(見沼区南中丸) 江戸時代には春日氏領。(南北朝期より春日氏領といわれるが不明。)
松野氏館(見沼区御蔵) 松野助正
この辺は岩槻太田家臣。のち北条→徳川と仕えた人が多いみたい。
スレ違いだったらごめん
先祖が岩槻城の家来って聞いたんだけど家来ってどのくらいいたんだろうか。
ちなみに苗字は今井 太田三楽斎が飼ってた犬はどんな種類だったんだろうなあ。
当時は雑種なのか。 >岩槻城の家来
「お城」の家来はちょっとわからないなw
冗談は置いておいて、
何時の時代のことを指してるの? いまさらだが、「寿能城から西には」→「東には」でした。お詫びと共に訂正いたします。 成田家の侍だったらしいので成田記に載ってた分限長調べたらその当時名乗ってた苗字が五人見つかった…結局どれだかわかんね。
たぶん皆遠い親戚なんだろうが…。ちなみにうちは傍流なので苗字も変わって今は忍には住んでない。
忍城址の側にある神社に成田記に出てた長泰が殺生した狐を供養する社があってワラタw
行田博物館は江戸中心で成田家に詳しくなかったからつまらなかった。
チラ裏
大坂と大阪、河越と川越どちらが正しいの?
と聞いてるようなもんだ >>176
岩月ってのもあるよ。
地名としての正否って決め付けることでは無いと思う。
昔の人は自分の名前さえ、
読みが同じなら違う字でも平気で書いていたりするしね。 岩附ってのもあったような。何にしろ昔は漢字はごちゃごちゃだな。 埼玉県民だが、川越夜戦なんてちっとも話題にならん。
女はともかく男は………何この時も地意識のない県……orz それは貴方が移民だからです
石を投げれば親戚に当たるくらいの土着民だと結構色々話が聞ける
地名の由来とか落城の話とか、それにまつわる怪談とか
埼玉は移ってきた人が多い県だから普通はそう感じるだろうけど、
旧家やそれに連なる家だと郷土に対する指向が他県並にある よくある話だが、江戸期の方が身近というのはどうなのかな
川越では川越藩が有名だとか >>183 はぁ〜?
山内上杉→佐竹義憲の事ですか? ・合戦(言わずもがな)
・茶の湯(風流人だったらしい)
・セックス(励んだおかげで子供結構いる)
じゃないかな
大辞泉より
1 《「孟子」尽心上から》君子の三つの楽しみ。一家の者が無事であること、天にも人にも恥じるところのないこと、天下の英才を教育すること。
2 《「列子」天瑞から》人生の三つの楽しみ。人間として生まれたこと、男子として生まれたこと、長生きしていること。 『関八州古戦録』(だったと思う)を読んでいたら、次のような話がありました。
1572年 奥州寺山城下の戦い。葦名・白河・田村7000、佐竹4000が戦い、
7/27 馬場都々古別神社で双方の代表が集まって、和睦を話し合った。
葦名代表…佐瀬源兵衛・松本源左衛門
田村代表…田村月斎顕頼
佐竹代表…太田三楽斎・車斯忠(一説には北義斯とも)
続き
かつて佐瀬源兵衛は青年時代、見聞を広めるため、
全国を放浪していたが、その時岩附城に立ち寄り、
三楽斎と兵法について一晩語り合った事があるという、旧知の仲であった。
この時、源兵衛は鎧を捨てて身一つで三楽斎の陣を訪れたのだが、
他の代表たちがこれを非難すると、
源兵衛は「三楽斎はそんな人物ではない」と鼻にも引っ掛けなかったと言う。
戦国時代の男同士の厚き友情物語でした。
埼玉の武将と言えば、この名将を忘れてはいけない。
上杉憲盛 深谷上杉家は血脈と御家を保ったんだから幸せなほうだね
康資のほうが道灌の嫡流じゃなかったっけ?同族ではあると思うが >>203
康資は道灌の子資康の孫(父は資高)
資正は道灌の子資家の孫(父は資頼)
(資家は道灌の甥で養子といわれる)
道灌後の岩付城主は資家、資家は各地を転々江戸系太田氏と呼ばれる 資正からみれば 岩付なんだから うちが嫡流と思ってたでしょね >>207
どう考えても血筋的には江戸太田氏が嫡流だろ。
江戸太田氏の祖資康は道灌の嫡子、岩付太田氏の祖資家は養子だぞ。
資正のほうが成功したから実質的には嫡流となったが、
「岩付」だからという理由はおかしくね?
この点に関しては、
まず江戸太田氏の資宗が寛永諸家系図伝に、江戸系を嫡流とする系図を所載し、
それに対して後年新井白石が藩翰譜で、異論を挟み、岩付系が嫡流と主張した、という経緯もある
(岩付系後裔の越前家臣太田氏が、代々の系図、重宝を受け継いでいるなどを考慮)
又、岩付系は源五郎を称し、江戸系は源六郎を称した、
資家が道灌の生前に家督を譲られていた、など岩付系を嫡流とする説もある
いずれにしても、判然としない、というところでしょう >>209
スマン、言葉が足りなかった。
資正が「岩付だからうちが嫡流だ」と思わない理由として>>208を読んでくれ。
資正の代は江戸太田氏も活躍しているわけだし、さすがに僭越だろうと思うわけだよ。 >>210
>>207だけど それほど強く言うつもりはもともとなかったので…
江戸が嫡流ならそれでも結構ですよ。 >>210
江戸系には江戸系の言い分が、岩付系には岩付系の言い分があったんでしょうけどね
江戸期に争いがあったということは、そういうことなんでしょう
個人的にはどちらとも言えない、と思うだけですよ
資正系は、誰が家督を継いだのかな? 梶原政景は復姓しないまま没したと思うが。
>>218
作法を知らない謙信がアフォって、説明がなされると良いが。 >>220
しかも大河ドラマの予告によると、謙信が成田の妻に懸想するらしい >>221
えーw
史実もそんなもんかもれんが、えらい生臭い謙信だなw がちにネタバレすると
成田が叩かれるのは逸話通りの理由。
成田の嫁は謙信の母ちゃんに激似設定でマザコン謙信が気に入る。
母ちゃん似の成田嫁に「成田家は八幡太郎に〜」と怒られてマザコン反省。
そんだけの話。 伊勢姫(井川遥)は成田妻って設定にしたみたいだね。 逸話の伊勢姫じゃないから。
単に成田に関わりあるキャラとして「伊勢」って名前付けて
出てきただけのオリキャラだから。 岩槻太田氏は氏資と資正に分裂したけど、どんな感じに分かれたんだろ?
資正の子でも、兄・氏資に付いた人はいなかったんかな? >>228
そもそもで言うと資正の兄資時が、北条氏康と通じていた話もあるのだけれど、それは割愛し・・・
資正が国府台合戦で敗れ苦境に陥った後、ある時宇都宮へ出かけた留守中に、
資正の嫡子氏資(当時の名は資房かな)が氏康と通じ、北条が岩付城に兵を入れた
この後資正は子の政景とともに常陸片野城に落ちて、北条や氏資と終始争う
ちなみに岩付から落ちた段階で生まれていた資正の子は、
氏資(母は難波田憲重の娘)、氏資の同母妹、政景(母は大石定久の娘)、政景の同母妹(佐竹義重の室)
尚氏資の母と離別後に政景の母を迎えた模様
片野に落ち着いて以降、佐竹の老臣八代将監の娘を室に迎え、資武、景資を儲け、
又、潮田常陸介の妹も室に迎え、資忠を儲けたという
従って資武以下とは年が離れており、氏資についた弟はいない模様 >>229
詳しい説明ありがとうございます。
>資正の兄資時が、北条氏康と通じていた話もあるのだけれど
やはり若年の氏資(資房)の一存では無かったのですな。 想像の域を出ないが、
おきまりの家督問題でもあったのかもね。
よくある嫡男を差し置いて次男を・・・のパターンで。
まあこの手のゴタゴタだと嫡男(氏資)側が勝つのもまたパターン。 >>230
当時既に氏資は妻に北条氏康の娘(長林院)を迎えているので、
氏資の一存というか、北条氏の後押しがあったからだろう。
資時没時は氏資も政景も幼少に過ぎないし、余り関係は無いと思われ。
父資正や弟政景との不和が原因なのかもしれないが。 埼玉の城の知名度のなさは異常
とりあえずゲームで太田氏で天下統一してくる おれは蒼天録全シナリオ成田家で制覇した。石田三成の時の籠城戦で守将だった成田長親が武将として登場してないのが残念無念。
あの感じだと宇佐美は成田家が慣例に則り下馬不要ってことを知ってたのかな?
来週、説明が無いと何とも間抜けな感じになるがw そういや成田家の下馬不要って、当時の人には周知のことだったのかな?
越後の龍は知らなかったか、知ってて打ちのめしたかよく分からないけど。
知ってて、自らの権威付けの為にやったならバカということになるけど。 当然載ってない。
つーか成田家って名家とかいってるけどただの武蔵七党の末裔だろ?
名家どころか関東そこら中にゴロゴロしてる家格では。 テレビ→大河板でも同じようにムチ打ち足蹴りが史実のように語られてたからテレビの捏造歪曲は恐ろしいwww
一般視聴者は完全に洗脳されてるなw
最近は半島の圧力で秀吉像が過度に貶められてるが今回は草加北条の圧力かwww 鎌倉時代・室町時代で成田氏が下馬不要だったなんて聞いたことないんだけど 結局、面白おかしく逸話として良く来たのは後世の創作の可能性が大ということか……。 そして史実では成田を叩いたりしない。なんせ足利の外戚たる簗田が関東不案内な景虎にいろいろとアドバイスしてたから。
小山と千葉の関東での主座争いで揉めたのが原因なのを講談では成田を叩いたと捏造した。
千葉胤富(重臣原氏が後北条に内通し千葉本家は乗っ取り滅亡寸前にまで圧迫されてる下克上前夜の現状を打破したいはず)と
小山高朝(古河公方権力を支えた小山持政という名将が有名。また結城合戦で有名な結城氏は同族で伝統的に反上杉勢力)とが
古河公方政権(利根川以東の下野・常陸・下総・上総)での関東諸将の首位の座を争い、
関東管領山内上杉(上野国)を継いだ謙信の仲裁(公方の外戚関宿城主簗田氏のアドバイスであろう)によって千葉胤富が首座となった事に小山氏は不満だった。
むろん同族の深谷上杉氏や岩槻城の太田氏は扇谷上杉(武蔵・相模)家臣団なので謙信に従った。
今の群馬県太田市付近は山内上杉氏が伊豆国を譲渡し後援し成立した堀越公方派と古河公方派に家内が分裂した
新田系の岩松氏(のちに重臣由良氏改め横瀬氏に下克上され乗っ取られる)など両勢力の最前線だった歴史の流れがあり
太田・佐野・足利・館林あたりは利根川・渡良瀬川に挟まれた大湿原地帯でパワーバランスが露骨にでるため背反が多く面従腹背で生き延びてきたのだろう。
この争いで関東諸将がバラバラになったのであって成田ムチ打ちで関東諸将が謙信を見限った話を捏造。
単に北条側の鉢形城や川越城からの松山城総攻撃(武田との連合軍)に前後しての示威行動が弟の騎西城や忍城に強大な圧力をかけられたからだろう。
また里見・太田連合軍が松山城救援に失敗し翌年には国府台で正月から酒盛りをして夜襲を受けての大敗により
太田資正の岩槻城まで喪失し上総の久留里城まで里見勢力が押し込められたパワーバランスの後退ってのが大きい。
忍城と騎西城が成田兄弟だが、
太田金山城(のち桐生も領有)の横瀬=由良氏の弟が足利長尾家を継いで足利と館林を自領とする兄弟だったりするんだよな。
たしか名門小山氏と結城氏も仲が悪いが兄弟だったよな。
こういうの知ってても北関東諸将の動きはまったく理解できんw
成田が総社長尾出身の曾祖父を持ってたり正室が白井長尾からもらってたり
太田金山の由良の妻が館林城の赤井氏らしいんだが謙信の侵攻を利用して足利長尾みたいに火事場泥棒同然に乗っ取ったような感じだし。
利根川の東遷事業前はもしかしたら利根川の北にあったんじゃないか? 埼玉県民の大半は親か祖父が上京してきた移民だからな。
土地柄に縛られる必要はないよ。
過去数百年の土着のものとしては、色々含むところはあるけれど。 7日から風林火山の再放送やってるが、登場は3月か… 上杉がしっかりしてれば 歴史変わったかな。
小田原や江戸が中心でなく。 このスレ的には『のぼうの城』ってどう?
時代物読まない人に好評っぽいけど。 時代もの普通に読むけど好きだよ。考証も結構ちゃんとしてるし。
でも長親のキャラは「水の城」のほうが好きだ 忍城攻防 生き生きと 「のぼうの城」小説作者 和田さんが行田市訪問
ttp://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20080126/CK2008012602082503.html
> 和田さんは、小説と同じ内容で脚本を書き城戸賞を受賞、映画化の話が進んでいる。
> 工藤市長は「行田を広く知ってもらうチャンス。ぜひ応援させてください。
> 長親役は柄本明さんなんてどうでしょうか」と和田さんを激励した 長親氏、なんかこういうキャラクターがいつのまにか定着しつつあるようだけどw
そういう史実、文献や史料って残ってるの?
とはいえ映画化実現には激しく期待してる、頑張ってくれ ニコ動で、
戦国アイドルマスター
って検索してみ。
岩付太田氏が舞台になっとる。 資正は佐竹に亡命してからは、関東や東北への同盟の使者として頑張ってたらしいね。 秀吉との外交もやってるしね。
関ヶ原まで生きていたら三楽の発言も取り入れ佐竹の動きがより明確な行動につながってたかも知れないし面白かったかもね。
あくまで岩槻帰還を考えていたら徳川ウザッって思ってるだろうし上杉とのパイプもバッチリ持ってるし真田昌幸並みに曲者だからねw 上杉家スレでここに書き込めよwっていうくらいの成田家レポート(?)読んだんだけど
北条家中でも独特の立場を保ち、真田家のように強国の間をうまく立ち回っていたようで少し見直した
単なる一家臣ではなかったようだね、認識を新たにしたよ
今までバカにしててごめんなさいw >>281さんへ。
大変お疲れ様です!!
作者より ここの民は太田資正を知らんのか?
打倒北条に生涯を捧げた執念の漢だ 三楽については日本史板に単独スレがあるからそっちに行ってるのでは?
このスレでも圧倒的に三楽の話題が多いと思うが 三楽に関してはやはり日本史板の人達の方が詳しいね。
戦国板の住人はレベルが低い。特に毛利厨と伊達厨は重傷。 日本史板住民のほうが詳しいことには同意するが、このスレで毛利厨や伊達厨に言及しても仕方あるまい。 啓蒙してやってるのに事実から目を逸らす奴らが戦国板には多すぎるから蛇足発言をしたね。すまん。 太田資正が北条に帰順してた時期があったり、
息子の梶原政景が北条側に付きそうになったりしたとか知らなかった。 |さいたま!を |
|やっていいですか?|
ヽ____ ___ノ
/‖ミV
/::‖____
/::::‖| / ‖
|:::::‖ ̄\ ガチャッ
|:::::‖゚∀゚)―‖
|:::::‖_/ ‖
|:::::‖| \ ‖
|:::::‖∧∧∩ ‖
|:::::‖゚∀゚)/ ‖
|:::::‖∧ ∧∩‖
|:::::‖ ゚∀゚)/‖
\::::‖ 〈 ‖
\::‖_/\」 ‖
\‖ ̄ ̄ ̄ ̄ さいたまー!! ド
\ | / ド
/ ̄\ ド
―(゚∀゚ )―(⌒ド
\_/ (⌒;ド(⌒;
/ | \(⌒ド//(⌒
∩∧∧∩//(;
∩∧∧∩|(゚∀゚)|(⌒;
|(゚∀゚)ノ| ノ/(⌒
| 〈 | |//(⌒
/ /\」 / /\」(⌒ド
 ̄ </ (⌒;;ド
ド さいたまREDS!ドドンガドンドン!さいたまREDS! 当方埼玉県住みなんだが、ちと疑問が。
今まで地元は北条領だと思ってたんだが、>>300を読んだら成田領かもしれんと思いはじめた。
成田といえば行田市のイメージが強すぎて。
蓮田あたりは誰の領地になるか知ってる人は教えてくれまいか。 >>306
読んだよ。映画化決まったのが頷ける程面白かった。
だけどの県の北東部のこと書いてあったっけ?
行田中心だった気が・・・ 騎西城小田氏→養子として成田長忠(しかし謙信に落城させられたりしててよくわからん)
栗橋城野田氏→古河公方→北条氏照指揮下の栗橋衆となり簗田氏の関宿城攻略に使われる
菖蒲城金田氏→古河公方→成田氏に服属
幸手城一色氏→古河公方義氏に仕えて鎌倉や小田原へ付いて行った(実質北条家臣化)
寿能城岩槻城の太田氏の支城で潮田氏→北条
蓮田江ヶ崎城→?
う〜んわかんないなぁ。 >>308-309
すごいな。地元民だけど知らなかったわ。
そんな俺は白岡町民。
蓮田市、白岡町らへんは空白地帯だな。
地元のことを良く知らないなんて、なんか歯痒い。 軽く調べてみたがまったく分からんな・・・。
初めて知ったんだが、白岡・蓮田・菖蒲・鷲宮あたりが太田郷だったんだな。
太田道灌をまつった(?)太田神社が白岡にあるらしい。
だけど俺が知りたいのは小田原攻めあたりの時代なんだぜ。
道灌はちょいと古すぎるw
誰か知恵をください。 小田原征伐時は埼玉は完全に北条領国です、はい。
成田家当主は小田原城に入ってるし、太田は北条に乗っ取られました・・・
栗橋周辺は北条氏照の支配下です。
茨城の古河あたりまで全て北条です。 しかしよくわからんのよ
太田氏の名の由来が
丹波国太田郷or武蔵国埼玉郡大田郷のどちらかだって言うし
所領が武蔵国の橘樹・豊島・多摩の三郡に点在してたって言うけど、このエリアには東京や川崎・横浜が含まれるが
埼玉なんて入ってないんだよね。
他に相模国系の太田氏がいたって話もあるし・・・
さらに岩槻城も1478年に古河公方方の忍城主成田顕泰の父であった成田自耕斎正等が築城したって事らしい。
長尾景春の乱に同調し上杉を裏切り古河公方へ味方した為に岩槻城を豊島氏を滅ぼした道灌に奪われたとか。
埼玉へ相模守護代太田氏が進出したのがこの時期だったとしたら
武蔵国埼玉郡大田郷って何?ってことになっちゃうし。
品川湊近くに太田家は居館を構えていたらしいけど
古河公方との戦いで道真が河越城を築城して扇谷上杉当主を補佐して道灌が江戸城を築城したってのが通説。
埼玉は景春の乱での勝利によって得られたように思えるが結局は扇谷上杉定正に道灌は暗殺され、岩槻系と江戸系の太田氏は分裂。
双方とも結局は北条氏に併合されちゃうんだよね。
成田や由良らは謙信が死去したら迷走を始めたよ。
彼らは謙信がいたから北条も好条件で味方に引き寄せていたんであって彼ら自身の力で独立を守ってたわけじゃないからね。
小田原征伐の時に成田は人質として小田原城に入城し小田原城が落城した後も成田家臣が守った忍城は落ちなかったね。
まー三成が秀吉にあくまで水攻めをやれって指令されてたから落城を免れてたとも言えるけど。
おかげで堤防が壊れて失敗し戦下手とか言われて三成カワイソス
由良足利兄弟は小田原城へ出頭したら北条に拉致られてしまったw
解放されたが金山城を北条に譲渡して桐生城へ後退するハメに。 由良は成繁が謙信とほぼ同時期に死んだからだろ。
足利長尾の旧臣が残したものによれば
成繁は北条のやり方は常に無道であるから兄弟そろって北条に同陣してはならないと遺言したが
兄弟はそれを破って二人揃って厩橋城に行った為拉致。 >>316に全面的に同意
成田だって、北条の軍事指揮下には入っていたけど与力大名的な立場で、
その証拠に領内には北条から派遣された家臣が一人もおらず、
軍役も成田氏独自のものだった。
北条からは内政・外交の自治権をも認められていた。
故に天正期に入ってからもある程度自力での独立を保っていたとみるべきである。 蓮田白岡あたりには鬼窪家があって、鬼窪尾張守が1590年に亡くなってるってことは
わかってるんだけど、肝心の鬼窪家が当時どういう立場だったのかが全くわからない(;´д`) >>321
鬼窪尾張カワイソスw
鬼久保って奴が知り合いにいたら、それが子孫な。 >>305&>>310-311&>>319さんへ
【早雲】後北条家総合スレッド 其の二【氏直】
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1187642750/のレス213よりコピペ
>(3).桶川市のこと
>当時の桶川市は岩付領(武蔵国埼玉郡)の一部と推定されています。
>(といっても資料がないけど…)
>治めていたのは、太田氏の重臣、春日摂津守景元らしい。彼は桶皮郷菅谷村(現、白岡町菅谷)に所領があった。
>ちなみに彼は氏資と共に三楽斎追放を画策し、氏資戦死後は北条に仕える。
>以上『桶川市史』
>>300
『鷲宮町史』に成田氏の家系図や成田氏長の伝記が掲載しているから、何らかの関係はあるはずだと思います。
今、手元に成田氏の資料がないので後日。
>>324さんへ。
訂正1ヵ所。
×現、白岡町菅谷→○現、上尾市菅谷 そういえばこの前、忍城へ観光に行ったときに城内展示のパネルで埼玉県の領地分布図見たんだよ。
蓮田・白岡あたりは太田氏の領地だったような希ガス。
曖昧な上に、年代も分からず申し訳ないが。
忍城は「のぼうの城」を全面に押し出してたな・・・ 謙信に上杉のガキが籠もった松山城まで任されてたね。 河越氏が関東公方に追放されずに室町時代を生き延びて戦国大名化できてたら・・・
山内・扇谷両上杉氏が同族喧嘩に憂き身をやつさず、一本化できてたら・・・
情けない主君に愛想つかした太田道灌が下剋上に成功していたら・・・
どれかひとつでも成功していたら武蔵というか埼玉県域は草刈場にならずに済んだんだろうがな。
でも、武蔵って主要部が平坦で攻めるに易く守るに難い国だからそれでもどうだったか。 定正は道灌暗殺のせいで正当な評価を受けてなさすぎるよな……。
定正は、優秀すぎて危険な不穏分子となった道灌を殺した。
それは結果としてむしろ良いことだったかもしれない。
これは尼子晴久にも言えるな。
実際、道灌死語も強大な山内上杉を相手に互角の戦いをしていた
わけで、むしろ定正は傑出した武将だったと言える。 >>334
そのくらい傑出してたら、どうして自ら山内家に下って上杉家の力を一本化しようと思わなかったのか。
定正の死後、北条が成長して武蔵に入ってきてからの山内・古河公方との連合はいかにも野合としか見えなかった。この時期では遅すぎた。 >>335
>自ら山内家に下って上杉家の力を一本化しようと思わなかったのか。
自ら下って一本化できるのか?山内家主導になるだろうし、それでは扇谷家の臣が
不満をあらわにするだろう。下った時点で定正に主導権は与えられないだろうし
連合自体は悪くないとおもうがね。
今川との共同作戦だったようだし。
負けるほうが難しい状況だった。 まぁ情けない主君って訳でもなかったろうが、
傑出した武将、は言い過ぎだろう。 定正は軍事的には有能なんだが、政治的にはどうかと言われると疑問、
つか不明なことが多すぎて評価しにくい。
重臣の力を削いで平均化し、当主権力の強化に成功しているので無能ではないはず。
顕定に比べれば遥かに優れてるんだが、家格が違いすぎて連合は難しいだろうな。 顕定の父である越後守護がウザイんだよ。
あいつ、信濃半国守護でもあるんだよな。しかも謙信の祖父がついてるし。
顕定の弟だっけ?を白井城に駐屯させて輸送路も確保してるしな。
越山されると厄介。
>>341
だよ。
顕定の父房定はなかなかの傑物。 確か蓮田の閏戸あたりに黒須平内五郎って土豪みたいなのが後北条氏に仕えてたとかって前に調べた時に見た。
詳細は不明らしいけど。あと蓮田の黒浜の方には確か岩槻城の隠し館があったとか言う伝承があったような・・・。
最初は菖蒲城の家臣の佐々木?だったかな、に閏戸の黒須は仕えてたと思った。
古河公方が衰退してから太田・北条と変遷していったんじゃないかな・・。 >>345
お察しのとおりです。却って道灌のせいで扇谷上杉は弱体化してしまったと思います。
定正は獅子身中の虫道灌を取り除こうとしたのですが、寿命が彼に力を貸しませんでした。これも天命だったのでしょうが残念です。 >>345
劣勢の中、負けよりむしろ勝ち戦のほうが多いんだから、定正が
武将として良い評価されるのは当たり前でしょう。 連勝したことで本人が奢ってしまい末期には古河公方が怒って断交してしまい(古河が派遣した景春との仲も微妙になったろう)
山内との国力差に嘆き始めてるがな。定正は良い時に死んだのかも知れん。
まぁ山内上杉顕定が越後で敗死するからまだまだわからんが。
小説の話になるけどさ。
みんな「のぼうの城」の先行作の、風野真知雄「水の城」も
読んでやってくれよ。
「水の城」のほうが、先に書かれているんだよ。 太田道灌の子孫→掛川藩主で明治を迎える
上杉定正の子孫→河越夜戦で滅亡 扇谷は早雲に頼りすぎたんだよなぁ。
それで山内も謙信の爺ちゃんの越後勢の投入に踏みきっちゃった。
肝心の早雲は知ってか知らずか伊豆で温泉つかっちゃって援軍来ないし。
越後勢が平塚まで蹂躙・・・。
やっぱり他家に頼るのは亡国への道だよな。 >>334さんへ。私は、長享の乱はやはり、山内側に鎮圧されたと思いますよ。
(1).山内家と扇谷家は「20万と100騎」(大森教訓状)あるいは「鵬(大きい鳥)と鸚(オウム)」(定正状)ぐらいの戦力差がある。
禅秀の乱に勝利した関東管領山内家は反乱者の土地を没収し、それを武蔵・上野・相模の国人達に分配して主従関係を結び、国人達を味方に付けた。
一方、扇谷家は「天運と道潅の器量によ」り、「関東の諸将が扇谷家に心を寄せるようになった。」のに「その道潅を自らの手で失ったのは、月日が地に落ちたに等しい行為である。」
(「 」内は、扇谷三将(道潅・大森・三浦時高)の1人である、大森寄栖庵氏頼が明応元年〜2年(1492〜1493)の2月に定正に宛てて書いた「大森教訓状」からの引用です。)
(2).かつ扇谷家は、山内家家宰白井長尾氏(武蔵・上野・相模に分散)よりも勢力が小さい。その景春が失敗したのだから、定正が武相上を征服するのは到底難しい。
(3).定正は故意に上野・越後に攻め入っていない。
これは定正が山内家の主戦力である越後勢の介入を恐れたためと思われる。
ということは、いくら定正が武蔵鉢形周辺で勝っても、敵の主戦力にダメージを与えない限り目的を達成するのは非常に難しい。これは戦略の常道ですよね?
(4).明応三年(1493)8月26日には大森寄栖庵氏頼、9月23日には三浦時高と次々と重臣を失い戦力ががた落ちしているのにも関わらず、
定正は、早雲・氏親の外部勢力と手を組んでまでして山内家と戦う。これは無謀ではなかろうか? >>300「柊つかさ」さんへ。
>鷲宮神社は成田領な件について
もう少し待っててね!!
>>360
敗北気味の結果論から大森らが言い訳みたいに言っているんでないのかな
もし主にとって脅威になる存在でなければ、よりによって謀殺されたりしないだろ。
道灌は山内上杉重臣に道灌状を渡して定正への不満讒言してるし
扇谷重臣の不満にも赴いて弁解すらしないで、
自分の館に家臣を集めて政庁みたいにしちゃってるし。
道灌の父が若き道灌をたしなめたり、諌めたりしたのを言い返したり野心家ぶりが出てくるし。
定正の妻の兄弟である長尾景春の巻き返しの謀略があったとするなら納得できるけど。 >>362さんへ。返レスどうもありがとう。
1.「大森教訓状」について
これは、死の病に苦しみながらも、(事実、この1〜2年後に氏頼は病死するのですが…)
関東の平和を願う氏頼が、定正に宛てた「心の叫び」なんですよ。比喩やオーバーな表現が多いのがネックですが…、
読み終えた後、私は胸が熱くなりました。あの「出師表」のように…、
興味あるなら…レス下さい。長文なので概要のみね。
2.道灌暗殺について
あなたのレスは最もです。
粛清されるか?or独立するか?は、戦国時代や古今東西を問わず2の宿命でしょうね。
(マキャベリの『政略論』にもありますよ。)
さらに、>>362に追記するならば…、
(この点はは何故か?誰も論じないのですが…)
道灌自身が優秀なスポークスマンであり、かつ(文化人を利用しての、)自分擁護の宣伝も巧みですね。
ただ、私の意見を言わせてもらうと…、
いろいろな複合的な対立の渦中に道灌は暗殺されたと思うんですよ。
成氏vs.政知。顕定vs.定正。道灌vs.景春。道灌vs.曽我兵庫とかね。
一度、五年位前にまとめたリポートがあるので、興味合ったらレス下さい。恐々謹言。
>>364さんへ。
ひょっとしたら定正落馬死の後…
殺されたというのは、強引な推理かなぁ? >>363
定正の評判を落とそうと必死・・・・・気持ち悪いです。 >>366
道灌の評判を落とそうと必死・・・・・気持ち悪いです。 >>365
大森教訓状ってそんなに熱い名文なんだ…
出師表に比すほどに感銘を受けたとは!
概要で構わないので内容を教えてください。
ちなみに大森教訓状はどこで読めるの? >>369さんへ。返レス傷み入る。名文ではないのですが…、主君を思う気持ちは、どちちも同じではないでしょうか?
1 .「大森教訓状」の概要
(1).山内家は上杉の棟梁として(鎌倉)公方様の時代から関東諸将の尊敬比類なく、配下の軍勢は20万騎である。
一方、扇谷家は100騎だけど、たまたま天運と道灌の器量によって天下に名を揚げ、関八州に誉れを振い、
(関東の)諸将が扇谷家に心を寄せるようになった。
その道灌を自らの手で失ったのは、月日が地に落ちたに等しい。
(2).こんな諌言をするのは、氏頼が代々の家風(家臣)で、心底から別儀(二心)があるわけでなく、
(闘病中で、もうじき死んでしまう)今こそ、思う所を述べさせてもらいます。
(3).先年(長享元〜三年・1486〜1488年)の山内と扇谷の対立の時は、
山内側は味方が無く、扇谷は公方政氏様を引き立て、長尾伊玄を従えて、高見・須賀谷において、敵と戦い勝利するも、
(顕定の本拠地の)鉢形は未だに滅亡していない。
(氏頼もこれらの戦いに参加している。『相州兵乱記』)
(4).それはお屋形(定正)様が勝利に慢心して公方様を見捨てたからではないでしょうか?
どうか一番大事なことは何か?よくよく考えて下さい。
関東の平和は万民の悲願です。これはお屋形様一人の判断にかかっています。(つまり山内と和睦して下さい!!)
2 .ソースは…
大森頼忠「後北条氏以前の小田原城ー大森氏研究序説(中篇)」(『歴史手帖』第一巻第二号。1973年所収。)です。
これが不可能ならば…、大森関連か小田原関連で調べてみて!!
例えば『神奈川県史』資料編とか、『小田原市史』資料編でね。
何か合ったら遠慮なくレス下さい。では頑張って!! 恐々謹言。 >>370
なかなかの名文ですね。死の病にかかって
主君を憂うる心がみえますね。
やっぱり古河公方との連携って重要ですよね。
そもそも妻の兄である義兄弟の景春の援軍も古河からの兵も大分いたでしょうしね。 相模生まれで鎌倉五山で学んだらしい、扇谷は相模守護で鎌倉にいたんだよね 河越、岩槻、そして江戸は古河公方勢力に対する防衛線として築城されたんだよな。 太田道灌は鎌倉学園高校出身です。大学は当時はなかったので高卒です。 >>386
384ではないが、「自耕斎詩軸并序」(原文読んでみたいんだが、どこが所蔵してんだ?)。
太田氏築城説は「鎌倉大草紙」。
岩付城の存在を示す一次史料は後年にならないと出てこないこともあり、
太田道真・道灌の築いた城ではない可能性が高いとされる。
河越城や江戸城は築城直後とされる1460年代の史料に登場している。
古河公方方の成田氏が1480年頃に築いたのであれば、
享徳の乱の激しかった頃にその存在を示す史料が無いのは理屈が通っている。
その後成田氏から太田氏に城主が移ったものと現在は考えられるようになった。
……ということらしい。 >>388
レスサンクス。
ガセネタの可能性が高そうだな。 >>373さんへ。同意してもらえましたか?
古河公方は「くさっても鯛」だから、
もう少し仲良くしておけばねぇ…
>>388-389さんへ。
「自耕斎詩軸并序」の記載元は「信濃史料」にあるよ。
十数巻まであるので、何巻だったかチョット確認して見ますね。
「鎌倉大草子」と「自耕斎詩軸并序」のどっちが信頼できるのか?というと…
・「鎌倉」は(後世の)軍記物だからチョットね…
・「自耕斎詩」は自耕斎の跡を継いだ顕泰が自耕斎の賛を、
とある僧侶(名前忘れた)に頼んで書いたものだから…
自耕斎の死後になるけど一応、同時代人の手による記録なので
こっちの方が信頼できると思う。
でも、私もつい最近までは道灌=岩付築城説を信じていたから、しょうがないよね〜。 岩槻に初めて築城したのは成田だとして、それを奪った後道灌が大修築したってことは考えられないか? >>391さんへ。
「岩付」について確か、黒田基樹氏が太田側から、市来高男氏が成田側から考察した論文が、
家にあるからチョット確認してみますね。 >>300「柊つかさ」さんへ、
>鷲宮神社は成田領な件について
大変長らくお待たせしましたが、完成しました。
結論 関係ないようだよ。(自耕斎が岩付に在城していた時期は不明ですが…)
同じ神社仏閣でも「忍成田氏」に限って言えば、足利長尾氏と関係深いゆえに、
足利市の「鑁阿寺」と只ならぬ縁があるようで、書状が残っている。
↓こっちの方が関係ありだね!!
長泰・氏長父子の名で妻沼の聖天山歓喜院(1552)の聖天大堂を造営。
長泰、上之村神社(1558)社殿扉を寄進。
鷲宮神社は武蔵国埼玉郡にあり、成田氏は幡羅郡(熊谷市・妻沼町)の出身。
埼玉郡はおおよそ現在の埼玉県東北部一帯と推定され、
外枠の範囲として、北は北川辺町・西は熊谷市・南は岩槻市・東は宮代町の辺りで
鷲宮町・久喜市・加須市・羽生市・騎西町・大利根町・春日部市などを包括します。
郡境については古代から近代まで幾度か変更しているのでざっくり説明すると…
埼玉郡は中世になると東と西に分かれ、東が太田庄、西が「きさい(埼西・崎西・騎西と書く)」郡と呼ばれる。
鷲宮神社領の郷村は、
「(代々神主を務めた)莿萱氏系図(細萱系図?)」「天正十八年6月の北条氏朱印状」や「文禄四年8月の棟札」によると、
久喜市 全体
加須市 南篠崎・北篠崎・南大桑
大利根町 北大桑・道目・杓子木
加須市 久下・花崎・川口・志多見・阿良川・大室・北辻
羽生市 名・堤・前原・発戸・道原
宮代町 (岩付領内)粂原・(岩付領内)和戸とされており、
騎西領は市来高男氏によると…
外田ケ谷・内田ケ谷。新井・上崎・下崎・中ノ目・上種足・下種足戸室・騎西・正能・上高柳・下高柳・根古屋・牛重・油井ケ島・鴻茎・芋茎の郷村であったらしい。
地名を列記しただではわかりにくいので…
google mapで地名をチェックして、マイマップを作成してみました。↓ココね
http://maps.google.com/maps/mm?hl=ja&ptab=0&ie=UTF8&view=mapを開いて、
「自分で作った地図」の「保存した場所 限定公開 (URL で共有) 」をクリックし、
次に
「他の人が作った地図」の「集合場所決定ツール」をクリックすると見れます。
ちなみに「青」が鷲宮領、「緑」が騎西領(成田領)です。
続く 太田庄と成田氏は省略して神社の簡単な歴史。
1.鷲宮神社について
鷲宮神社は、中世の武蔵国太田庄の(総鎮守…荘内の神社を管轄する)であり、
何年創建なのかは?不明だが、平安期には既にあったらしい。
南北朝時代の『神道集』の巻三十三「三嶋大明神神事」によると…
伊予国三嶋の三嶋大明神が、伊豆と太田庄にそれぞれ勧請されて創建されたとしている。
鎌倉前期には、太田庄が将軍直轄地となった縁で、幕府の尊敬を受けており、
鎌倉中期には、執権貞時が同社の社殿を修復しているので得宗家が領していたと思われる。
南北朝期、太田庄は建武四年(1337)頃に足利尊氏が小山氏の忠節を称して、
当主の常犬丸(後の朝郷)に宛てがわれた。(『梅松論』)
ちなみに小山市にある鷲神社は、
この時代に小山氏の本城である鷲城(小山市)を守るために鷲宮神社を勧請したものらしい。
小山氏滅亡(応永四年・1397)の後、太田庄は鎌倉公方氏満の御料所となり、以降は古河公方と受け継がれ、鷲宮神社は代々古河公方の祈願所となった。成氏・政氏・高基・晴氏・義氏の書状が神社に残っている。
太田庄の支配を巡って、古河公方と上杉軍が争っている。
長禄三年(1459)十月、第一次太田庄合戦。
寛正六年(1465)九月、第二次太田庄合戦。
(この間、享徳大乱〜長享の乱あたりまで、成田氏は古河公方側で活躍している。)
氏政が発給した永禄九年(1566)12月の鷲宮神社宛北条家朱印状を見ると
「太田氏資を介して」後北条氏の勢力下にあった事が確実だが、
その後継者である源五郎や太田氏房が岩付に入った天正年間以降、
同神社に宛てた北条家書状の中に彼らの名前が見られないから、その後は後北条に直属していたらしい。
(以上、鷲宮神社が発給・あるいは受給した書状を見る限りでは成田氏は登場しない)
2.騎西領について
成田長泰は天文八年(1539)頃、
忍の隣の騎西城&(その南方の)種足城主であった古河公方家臣小田顕家(常陸小田氏の分家)の養子に、
弟の助三郎朝真(伊賀守朝興)を入れて、騎西領を間接支配し始めた。
天正元年(1573)〜天正四年(1576)の間頃に、氏長の弟、泰喬(泰親・長忠)が、
(叔父の小田朝興に代わり)騎西に入城し直接支配が始まる。
ちなみに鷲宮神社領は、周囲の湿地よりも一段高い台地にあったため、昔の利根川(現、古利根川)が、
氾濫しても一度も水没しなかった事から「聖なる地」と考えられ、鷲宮明神が建てられて現在の神社になったらしいよ。
由緒ある地名が市町村合併でなくなるのは残念です。恐々謹言。 >長泰・氏長父子の名で妻沼の聖天山歓喜院(1552)の聖天大堂を造営。
このとき厨子に懸ける為に、長泰が妻沼の聖天様に奉納したと言われる、
紵絲斗帳(ちょしとちょう)が県指定文化財になってますね。
鴛と雲の連続紋で渋かわいい感じだと思いました。個人的な感想です。
確か宗の時代のものだったような。
>足利長尾氏と関係深いゆえに、 足利市の「鑁阿寺」と只ならぬ縁があるようで、
『武家事紀所収文書』によると、永正7年7月に長尾但馬守(景長)の代官として
成田中務丞の名前がありますが、これも関係あるでしょうか。 みなさん、明けましておめでとうございます。
今年は大変厳しい年なので、忍城のように堅固に守りつつ
三楽斎のように、しぶとく生き残って下さい。
>>388-389さんへ。
『文明明応年間関東禅林詩文等抄録』に所収されている「自耕斎詩軸並序」は
『信濃史料 第十巻』(1957年、信濃史料刊行会刊)39〜40頁。に載っているそうです。原文は↓
「武州崎西(騎西)郡有村、曰岩付、又曰中扇、附者伝也、岩付左衛門丞顕泰公父故金吾、法諱正等、挟武略之名翼、有門闌之輝、築一城」
これは、明応六年(1497)夏、成田顕泰が、
文明十六年(1484)4月8日に亡くなった父の自耕斎正等の詩画軸に、
相模国明月院の英〓(「王へんに与」という漢字)に頼んで書いてもらった序の一節である。
結論
つまり、自耕斎が死ぬ1484年以前に岩付に城を築き、1497年時点では成田顕泰が在城していた証拠になるわけだね。
>>389さんへ。
もうちょっと調べてみますね!! >>382
> 河越、岩槻、そして江戸は古河公方勢力に対する防衛線
そして後には、まんま北条氏の拠点になるね。 >>399
岩槻は大田三楽斎がしばらく頑張ってたがな。 >>395さんへ。返レス丁寧に痛み入ります。
1.紵絲斗帳
確かに渋いですね。
これが作られたのは、明の嘉靖帝の時代(1521〜1566)、
つまり万暦帝より1つ前の時代で、明の文化が華やかだった時期です。
日本は、明から銅銭・陶磁器・絹(織物)など輸入していて、
成田氏は、これらを注文できるほどの財力があった証拠だね。
2.成田中務丞の件。
はい、そうです。市村氏は一族であろうと推測しています。理由3つ。
(1).成田景泰(顕泰)と鑁阿寺の関係から
明応二年(1493)2月4日付(鑁阿寺の子院)不動院宛成田新左衛門尉景泰書状。
同年閏4月11日付同宛同人書状。(ともに「鑁阿寺文書」)があり、
活動時期・同じ官途名から「景泰=顕泰」に比されています。
(つまり景泰は、1493〜1497年の間に山内顕定からの偏諱を受けて、顕泰と改名した。)
(2).成田一族と鑁阿寺の関係から
景泰同様に成田大膳亮景在、成田近江入道道広の書状4通が鑁阿寺に残っています。(これらも「鑁阿寺文書」)
ただしこの2人は、成田系図に載ってないので、活動時期・血縁関係は不明です。
(3).あなたが指摘した書状から
つまり永正七年(1510)8月3日付 山内憲房書状写(武家事紀)を読むと、
顕泰は、渋江・藤田・総社長尾・大石・足利長尾ら山内家重臣と肩を並べる存在であり、
かつ一族の中に足利長尾に属する中務丞がいたと考えられますね。
恐々謹言。 >>388-389&>>391さんへ。できました。
結論3つ。
1.道灌が岩付城を築いていない可能性がますます高くなったよ。
2.岩付築城は、文明11〜16年(1479〜1484)の間か?
3.でもね、道灌はこの時期(文明11年9月前後、1479年)、
景春の攻撃から「忍城を守るために援軍に向かっている」(道灌状)ので、
岩付築城に力を貸した可能性がありますね。
1.道灌が岩付城を築いていない云々
岩付築城否定の史料2本目を提示します。『松陰私語』第五。によると、
「江戸・河越両城堅固なり、かの城は道真・道灌父子、上田・三戸・荻野谷(扇谷)の関東巧者の面々が、数年秘曲相構え(数年の間、秘密裏に築城した)」
これは道灌と親交があった上野国世良田の長楽寺住職を務めた松陰軒西堂の記録ね。
道灌と親交があるのにも関わらず岩付城についての記述がないんだよ。
おかしいと思わない?
2..岩付築城の前に、
(1).地理的要因から
まず、あの関東平野の地図を見てください。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Yurinoki/1938/tonegawasi.html
古河公方成氏は、古河城を守る外堀の役割を果たす三本の河川を重視した。
・まずは渡良瀬川→権現堂川→太井川→東京湾。これは現在の利根川・江戸川。
・次に利根川。現在の古利根川。
・最後に荒川。現在の元荒川。
忍・岩付の両城は元荒川沿いにありますよね。上杉・古河の勢力圏は元荒川を境にしていたらしい。
成氏は騎西城に重臣の佐々木近江守を入れ、配下の成田一族にその付け城として騎西の西に忍城を、
同じく南に岩付城を築かせたらしい。
(2).忍城について。
忍城は、通説では「延徳2年(1490)、成田親泰によって改築された」(成田家譜)とされているが、
すでに文明11年(1479)閏9月24日付 成氏→(成田一族の)別府宗幸宛書状(別府文書)に、
「成田氏と相談して忍城用心油断無き候」と出てくるので、
1479年以前に成田氏がいたのは確実。
加えて道灌状にも成田氏が忍にいた記述があります。(文明11年9月の項にね!!)
岩付を築城した自耕斎が死ぬのが1484年だから、その間ではなかろうか?
3.道灌が岩付築城に助力したかも
「道灌状」の文明11年(1479年)9月の項によると、
「正確な情報ではないけど忍城から(景春軍攻撃)の噂を聞き、
(同城を)不慮の過失で失ったら、戦況が不利になるので、
翌29日、(忍城の西の)大里郡久下に寄陣し、成田下総守(自耕斎)に助力したので、
かの城は無事でした。御不審ならば事の次第を成田に尋ねて下さい。」とあります。
もしもこの時期に岩付城が築かれたのならば、道灌が力を貸したかもしれないね。
その後の岩付城主。
成田顕泰の後は、1510年に渋江孫太郎(出典元は>>402に掲載)
1516年、扇谷朝良(建芳)の勢力圏に入ると、その家宰の太田永厳
1524年、河越太田資頼が北条氏綱の助力を得て岩付に入る。で、三楽斎。
恐々謹言。 県民です。扇谷・太田・難波田は、自分は好きだけど、普通知名度は低いと思います。
河越野戦の最終激戦地といわれる東明寺(場所は移転してるはず)に行くと
静かです
あと目立たないけど朝定の姉って信玄に嫁いでるから(すぐ他界してしまうが)
朝定と信玄は義理の兄弟なんだよなあと軽くアピール >朝定の姉って信玄に嫁いでるから
これは知りませんでした 説明がつかないとかいうと悪魔の証明になるからやめろ。 424の指摘は正しいよ。
でも問題はどういう形状の合戦があったかなんだよね。 しかし今は、案外伝承の方が正しかったりするからな。
実はホントに夜戦だったと言われても驚かない。 それを言ったらそもそも戦った証拠もない。
なので、実際の勢力の急変と伝承を信じるしかない。 合戦の実相を知る手がかりは当時の文書以外に何かあるかな。
もっとも文書も調べたことはないけれど。 伝承自体は文書ではないが、途中で文書に記録されそう 衆院選、民主勝利後の最悪シナリオ
民主が国政第一党になる
↓
公明「外国人参政権などの党としての本懐で民主党と一致した」
民主、公明の連立政権成立
↓
国政での外国人参政権が成立
国政選挙で民主、公明、社民更なる躍進
↓
人権擁護法が与党の賛成多数により成立
行政、在日朝鮮人、中国人、宗教法人を批判すると罰せられる様になる
↓
国籍法の更なる緩和
日本国籍と生活保護資格だけ持つ、日本人の血が一滴も入ってない中国人が急増
↓
在日朝鮮系、中国人系の国会議員も出現
親中国の自民議員が民主に寝返る
自民党完全無力化、または解散消滅
↓
日本乗っ取り完了
「民主党の正体」 「ミコスマ」 「韓国は“なぜ”反日か?」で検索
太田資正の家臣で有名な人っている?
実子の氏資と梶原政景の名前は結構出てくるんだけど 上原出羽…太田資時に仕え、資時の娘が深谷上杉氏に嫁いだ際これに同行した。深谷四天王の一人。
佐枝信宗…太田氏房に仕え、小田原の役では岩付城を守備。
恒岡越後…太田氏資に仕え、三船台合戦で戦死した。
広沢秀信…太田資正に仕えた。関東幕注文の岩付衆に記載される広沢尾張守のこと。
広沢重信…秀信の子。太田氏房に仕え、その後結城秀康に仕えたが、久世騒動で失脚。
三戸景道…太田資正に仕えた。妻の「としよう」に上杉謙信が何度も書簡を送っている。
宮城泰業…太田氏房に仕え、小田原の役では岩付城を守備。戦後氏房と共に高野山に入る。
他にもいると思うけど、ぱっと思いつくのはこれぐらい。
広沢尾張重信と三戸駿河景道は割と有名だけど、太田家臣として有名ではないので微妙かも。
広沢は久世騒動の今村一味として、三戸は妻が謙信の筆まめの証左としてだからなぁ。 あ、太田氏の家臣と勘違いしてたw
対象外は無視してちょw あとは、このへんかね。
小宮山忠孝…戸塚城主。跡目騒動時に成田氏に仕えたと言われる。
関根織部勝直…広沢秀信の子、重信の弟。兄と一緒に氏房→秀康に仕える。
広沢・関根兄弟は『関八州古戦録』にも出て来るし、メジャーですな。 槙島昭武は、江洲膳所の城主本多家の浪人であると伝えられ、だってさ 軍学者として名を馳せた奴はそれなりに史料を研究している形跡がある。
彼らは浪人とは言うものの、映画などで想像されるような貧乏浮浪者ではなくて、
バックに大きな組織やパトロンがついていたんじゃないか。 >>462
違うだろ。千葉県旭市は木曽氏だから付けられた名だが。 金八先生の脚本家の息子さんが演じてて
ガクトに馬から引きずりおろされた人は誰ですか? >>465
その千葉市辺りに千葉氏が居たが、千葉はそこから由来な 太田は元京武者だからそこまで身分が低い訳じゃない。
頼光流源氏の一派が鎌倉受けしそうな摂津源氏の頼政の名を借りたんだろ。多田と太田似てるし。 同族の大河内松平も元々吉良家家老だし >>469>>470
講談話で史実じゃないエピソードだけどな >>469-470
「関八州古戦録」にあるエピソードだな >>472
決定的反証がないかぎりは暫定的に史実として扱うべきなのでは?
別に史実でもそうじゃなくても大した意味はないのでどっちでもいいんだが、
長泰事件の有無について肯定的な意見を出すと荒れる可能性がある、とだけは言っておこう。
どうもある人物の沽券に関わると思っている人たちが結構多いらしい。 >>478
いや、あの、それじゃ森蘭丸たんが山伏の滑降して春日山に進入したとか、
謙信たんが女性であるとか、反証できないから信じろとはいえないですよ。
それよりも以下の問題をひとつでもクリアしないとこれを事実と認定できない。
・一次史料による裏づけができない
・景虎は関東の武将たちに家格や礼式について丁重に教えを受けている
・成田は馬上から管領を見下せる家柄ではない
・それでも本当に成田が殴られたなら成田の自業自得であると周囲は思うはず
・事件があったとされた直後成田は人質に子息を政虎へ差し出している 太田三楽斎さんって北条が滅んだ翌年くらいに亡くなったんだよな
宿敵の最期を見届けられて安心して死んじゃったんだろうな そういえば「のぼうの城」は今夏ランクインするんだったか?
大丈夫なのかという不安だけが残るな・・・。
無難にアニメ映画化でもいいかなとも思ってる。たぶんジブリかI.Gあたりで のぼうの城の映画楽しみだ
成田とかにスポットが当たって嬉しい 「歴史の道」でのぼうの城が取り扱われてたな。
でもメインは三成だったがw 鉢形城いい感じに復元されてて面白いよ
去年2人の安房守展って企画展の時行ったけど、昌幸の鎧とか氏政・氏直像が展示されてて感動した 鉢形城の歴史博物館へ行くと
あの辺りの人間どもが
長尾景春やその出身地である群馬県が大嫌いなのがよくわかる。
嫌いであるがゆえに景春について黙殺してる。
性格が悪いやつらの住んでるとこだ。
わざわざ横浜から鉢形に景春を目的に見に行って損した。
なんなんだバカの国ダ埼玉人 >>499
鉢形城といえば、どうしたって北条(藤田)氏邦になるのは、仕方ない。
今残っているのも大半は北条時代の遺構なんだし。
長尾景春なら秩父(熊倉城など)にでも行けよ。 「のぼうの城」ロケの様子が埼玉新聞の一面に載ってた
北海道の苫小牧?らしい へえ
関東と北海道じゃ植生が全然違うけど
当時の城ははげ山だからいいのか >>502
いや
写真見る限り広々とした緑の草原で戦ってたよ
大丈夫バレないバレないw 関東と北海道の植生について
画面を見ただけで見抜ける人はなかなかいないと思うw
さいたま〜在住の俺も全く自信がないよw
まぁ〜ほらあれだよ
マカロニウェスタンとか
アメリカ西部の話をイタリアで撮ってたわけだし大丈夫!
昔の埼玉の中心は川越だったのは有名だが大宮や所沢、春日部、越谷とかは栄えてなかったのか? >>500
鉢形城でイメージが北条で景春を軽視って…
なんだ単なるミーハーなゲーム厨か。
信野望しかやらないレベルならそんな程度の視野しかないんだろうな納得。 長尾景春は乱の初期こそ鉢形城に拠ったが、その後はずっと秩父を拠点
に反乱を続けた。妻の一族が秩父出身だったからな。このため、秩父には
熊倉城などゆかりの地や景春の伝説がたくさん残っている。だから、秩父
へ行けってことなんだよ。
鉢形城の北条以前ってことならば、山内上杉顕定・顕実の拠点だったこと
の方が大きい。上杉時代の遺物も出土しているしな。
景春、景春言っている神奈川の人にもこれくらいは勉強してもらいたいよ。 >>506
春日部と越谷は日光街道の宿場町だったから栄えていたけど、大宮は明治になって駅が出来てから、所沢は陸軍が飛行場を作ってからかな 大宮は戦国期は氷川神社と寿能城という岩槻の支城(潮田出羽守の居城)があったくらいしか分かっていないが、
江戸初期にはすでに氷川神社の門前町が形成されており、その後中山道の整備に伴って宿場町が整備された。
江戸に近い割りには栄えていた宿場で脇本陣の数は中山道一だったとか。氷川神社の門前町を兼ねていた影響も
あるんだろうね。
ただ、交通事情の変化などで明治期にはひどく衰退していて、鉄道の誘致は街の死活問題だった。
信州・甲州に比べれば全然山深いわけではないのに、秩父はなぜか
完全に忘れ去られているな…。 >>509
スレタイも読めないマヌケww
赤っ恥www >>510
奇襲して奪った道灌曰く
「相模兼ねる上野・武蔵両国、地形簡要」
と主張して鉢形城に顕定の居住させたほどの要地
北条時代よりも当時の鉢形の方が勢力図上でこんなに最重要だった。
そして鉢形のその部分に着目した景春の戦略眼。
いきなり秩父や熊倉城の方が重要とかそもそも意味不明。
悔しくて顔を真っ赤にしてネットで必死に調べてキーワードを抜き出して並べたてシッタカしただけだろw
それで上から目線で勉強しろとかエラそうだな。
そんなもん黒田基樹や荒川村郷土研究会の発表したもん読んでるやつにとって常識レベルだわアホ。 >>515
実際に景春ゆかりの地や伝説が多く残っているのは秩父なんだから、好きならば
そっちに行けってことよ。別に熊倉城が戦略上鉢形より勝っているなんていってい
ないぞ。
だいたい、鉢形に景春関係の展示が少ないってだけで、上州人を嫌っているだの、
埼玉人はアホだの言う感覚の方が意味不明なんだが。 >>516
図星を突かれ火病発病開き直りか。
鉢形の歴史博物館に行ったら展示などにおいて
景春の存在にまったく触れてないどころか
充実してた出版物でさえ存在抹消してるような態度なんだからハッキリわかることだろう。
鉢形を語る上で最も重要なその景春の歴史的大事件や関東管領上杉顕定らをシカトする不遜な態度は実に不快であった。
無駄に金をかけまくって他国の凶徒伊勢なんて展示する
くだらなさに浅はかさを感じたな。
粘着コワッw
そんなに文句があるならば寄居町に言えよw
まあ普通に考えて
本拠地の小田原でさえ
古い色あせた展示ばっかで
それ以外の神奈川県や
静岡伊豆ですら
後北条なんてまったく
評価してないから
持ち上げてすらないのに
鉢形城の博物館が
あんなに無駄に金かけて
後北条を持ち上げる意味が
わからんよね。
山中や栗橋や関宿や川越や八王子だって
まったくマンセーしてねぇのに。
今日のNG登録完了www
さ〜って今日は他のどのスレに出るかな >>519
だからといって、長尾景春をフューチャーする必要もないだろ。あれだって、地元の
人間じゃない。
まあ、寄居についていうと、藤田泰邦や用土新左衛門(藤田信吉)をもっと取り上
げるべきだと思うけどね。それこそ、地元出身だし、藤田信吉なんて波乱万丈で面
白い人生送っているよ。
>>521
単に北条をdisりたいだけの粘着さんのネタにされているだけだと思うよ。 極右北条原理主義者の巣窟の鉢形が
藤田泰邦を少しでも誉めるわけねーだろ。
そんなことしたら鉢形の英雄氏邦の悪党ぶりがバレるだろうが。
まあ前田利家とかを怨んでるような展示内容だったな。
その点、群馬県は名胡桃城でバカな北条崇拝をしてないから
鉢形側としては面白くないだろうね。 名胡桃城なんて、ほとんど真田の持ち城で、後北条との関係なんて、猪俣邦憲に一時的
に占拠されたくらいだろ。そりゃ、後北条を持ち上げる必要なんてないわ。
鉢形は北条氏邦が数十年に渡って拠点にし、遺構も基本的に後北条時代のものだから、
展示も氏邦中心になるのは仕方がないこと。藤田泰邦ならば、花園城か天神山城(長瀞)
になる。
それと、藤田泰邦については、氏邦を養子に迎えた後、後北条により、用土新左衛門に改
名の上隠居させられたというのが通説だった。
しかし、最近の研究(黒田基樹氏など)によれば、用土新左衛門は藤田の有力支族であ
る用土業国(もしくはその子)のことで、藤田泰邦とは別人という説が有力。
藤田信吉は泰邦の次男とされていたが、泰邦死後に生まれたことになり、計算が合わな
かった。しかし、用土家の出身で、泰邦ではなく、用土業国又はその一族の息子と考えれ
ば説明がつく。
また、氏邦は、泰邦死後に用土氏が中心になって後北条から迎えたというのが最近の説。
傍証として、氏邦時代初期には用土新左衛門が藤田家中を取り仕切っていたことが、遺
文にみえる。
埼玉には観光名所ないから必死に北条に媚びてまんせーしてんだろ。
んで貶されてムキになってると まあもうどうでもいいじゃない
あんま引っ張ってもしょうがないよ 後北条を持ち上げているのなんて、鉢形(寄居)ぐらいだぞ。あそこは鉢形(氏邦)と
玉淀くらいしか売りがないから仕方ない。
例えば、岩槻で北条氏房がマンセーされているなんて聞いたことがない。むしろ、追
い出された太田資正(三楽斎)の方が著名だろ。
先日、用事があったついでに用土城跡に寄ってみたが、遺構は何一つ残って
いないな。城跡の碑と城を意識した公民館みたいな建物しかない。藤田泰邦
も信吉もはるか昔か。
しかし、周りは素晴らしく長閑なとこだw 発掘調査のときに話題になった騎西城の堀は埋め戻しされていなくて、いまも見れるの? >>533
障子堀は埋め戻されて現存しない。当時の遺構は土塁のみ。
最近作った模擬天守と水堀はあるけどね。 忍城はがっかり城でござった
明治政府まじで勘弁しろよ… 行田市駅周辺もどうせシャッター街なんだろうから戦国もしくは江戸阿部氏の時代
の当時の縄張りを復元すりゃいいのに 城下町再興の一口募金ならやってやるのに。
忍城や河越の城門に俺の名前入れていいなら。 >>541
ちっさい奴だな〜
名前なんて入れなくていいから
ホントにやってくれるんなら金出すよ >>540
>行田市駅周辺もどうせシャッター街なんだろうから
ひでぇw >>542
じゃあ忍のために10億くらい出してください。 秩父鉄道自体がねぇ…
でも関宿や忍城や鉢形に行く時は便利なんだよね。
ちなみに謙信の指示で破却した羽生城跡ってまだあるのかな?
>>539
河越城は無駄に一部復元計画あるよ。
市街地潰すから非難されまくっとるが ttp://ameblo.jp/oshijo-omotenashi/entry-10690820181.html
さすが不安要素満載だ(ニコw) スレチだが戦国無双の甲斐姫もどうにかならんもんだっただろうか >506
昔の埼玉の中心は川越じゃなく行田。
石高が行田のほうが上だしな。
昔は県南よりも県北の方が経済もずっと上だった。
今では逆転現象が起こってるけど。 行田?
武蔵国の主要ルートは東京の国分寺市を上下に通過する街道だろ。
行田は右にズレ過ぎてるから江戸時代に入ってからの話をしてないか?
江戸時代後期は蚕の絹の輸出から昔のルートから横浜港に行く道が活況になったしな。 >>551
三成役が馬鹿タレントの誰かって聞いて見る気完全に失せた
せっかく城方は豪華に揃えたのに何でそんな意味不明な人選すんだよ氏ね >>555
今の日本映画界なんてそんなもんさ
それじゃなかったらジャニーズの糞ガキか寒流タレントだよ
あぁやだやだ 今年の秋上映ってのも厳しい気がするな。
思いっきりアウトなきがするよ。水攻めがw 天正10年太田、梶原親子が滝川一益に伺候しているけれど、
織田ー北条は同盟関係なのに、わざわざ伺候する意味はあったのだろうか? >>55
武田氏が滅亡して一益が上州へはいると、上州や武蔵どころか、奥羽の連中も信長の上意を
意識している状況なっているし、関東でも宇都宮、皆川、上総武田などに出仕を求めている状況にくわえ、
一益の裁定によって小山秀綱が祇園城復帰を果たしている(そしてそれに北条も佐竹も従わざるを得ない)ことを
考えれば、太田父子が一益のところに伺候して「直参」となるのを望むメリットは大きいだろう。 なるほどー。
直参になったってことは、片野の領地はどうなったの?
滝川に献上したのかな?
神流川の戦いには名前が無いから、厩橋城に居た訳じゃないよね。 さいたま〜の武将ということで普段は来ない戦国時代板にきてみたよ!
ホントかどうかわからないけど、わしの先祖が太田氏の家来、平柳蔵人のゆかりの者みたいです。
マイナーなんでどうでもいいかもしれないけどさ…。
難波田氏については以前に仕事で子孫(井戸で死んだ人の直系ではない?)の人と
一緒になったことあります。学歴もいいし、頭もよく背が高くてイケメンでしたがどこか
抜けてる感じの人でした。 用のついでに忍城に寄ってみたんだが
いつのまにかコスプレの撮影会場になっていたでござるの巻 埼玉は有名武将いないのに、城跡がけっこう残っているから不思議 川越藩(川越)忍藩(行田)岩槻藩(岩槻)か
これに旗本領が食い込みまくり
だいたいどんな感じに別れてたんだ 随分マイナーな中世城郭(家臣の城)の復元模型だ。
沼地に突き出た台地の要害に築かれた土の城だ。
大きさも500o×330oで卓上サイズで手ごろな感じ。
博物館仕様で作らせただけあって見事なできばえだ。
http://saikatsutramway.sakura.ne.jp/saikatsu_tramway/furumaki.html 川越三芳野神社はいったかい?
社殿の石灯籠に柳沢美濃だの松平伊豆だの成田某だの彫ってあって楽しいよ。
川越氷川社の奥にありますよ。 【青森】笹森順造
【岩手】下斗米秀之進
【山形】依田新八郎
【宮城】上遠野広秀、岡田信忠、千葉周作、千葉定吉、鈴木直之進、萱場照雄
【福島】黒河内伝五郎、佐々木只三郎、武田惣角、国井善弥
【茨城】横川七郎、山本鉄之丞、村上亘、宮本左一郎、島男也、芹沢鴨、千賀牧太、門奈正、内藤高治、高野茂義
【栃木】若菜真鏡斎、福井嘉平、小林誠次郎、下江秀太郎
【群馬】藤川近義、樋口定ロ、樋口定伊、本間仙五郎、須田房之助、櫛淵宣根、清水赤城、飯塚臥竜斎、天野八郎、根岸松齢、持田盛二、得能関四郎、田口永八朗、森寅雄、望月正房
【千葉】浅利義信、荒尾光政、飯篠盛重、半沢成恒、逸見宗助、山田次朗吉、加藤久
【埼玉】岡田寄良、戸賀崎暉芳、戸賀崎芳栄、中村万五郎、岡田吉利、秋山要助、大川平兵衛、逸見義年、逸見長英、比留間与八、比留間半造、比留間良八、強矢良輔、岡田叙吉、高野佐三郎
【東京】平山行蔵、吉里呑敵斎、松浦静山、高木守富、中西子啓、中西子正、浅利義明、寺田宗有、白井亨、高柳又四郎、岡田吉貞、鈴木重明、斎藤歓之助、遠藤勝助、伊庭秀業、伊庭秀俊、伊庭八郎、三橋虎蔵、山岡静山、高橋泥舟、長沼恂郷、長沼称郷、酒井良祐、藤川整斎、
三田左内、窪田清音、赤石郡司兵衛、団野真帆斎、男谷信友、勝小吉、山岡鉄舟、千葉栄次郎、海保帆平、森要蔵、石山孫六、野見鼎次郎、今井信郎、近藤三助、近藤勇、土方歳三、沖田総司、永倉新八、斎藤一、榊原鍵吉、山里忠徳、山崎雪柳軒、上田馬之助、真貝忠篤、野間恒
【神奈川】宮崎正裕
【静岡】近藤内蔵之助、桃井直正
【愛知】坂部大作、三橋鑑一郎、柳生厳周
【三重】大月関平、橘正以
【長野】遠藤五平太
【新潟】根岸信五郎
【富山】斎藤弥九郎、仏生寺弥助、黒田泰治
【石川】楳本法神、中山博道
【兵庫】高橋赳太郎
【岡山】奥村左近太
【山口】宇野金太郎、長谷川藤次郎、桂小五郎、太田市之進、三吉慎蔵
【香川】香川善治郎、藤本薫
【徳島】柏尾馬之助
【愛媛】井上伝兵衛、戸田一心斎、高山峰三郎
【高知】武市瑞山、岡田以蔵、川崎善三郎
【福岡】大石進、加藤田平八郎、津田正之、直守一、南里紀介、松崎浪四郎、斎村五郎
【佐賀】辻真平
【長崎】中村一心斎、渡辺昇、柴江運八郎、高尾鉄叟、籠手田安定
【熊本】河上彦斎、山東彦右衛門、高鍋進
【大分】島田虎之助、玉城織衛
【宮崎】井上八郎
【鹿児島】東郷実乙、薬丸兼武、薬丸兼義、薬丸兼成、大山綱良、中村半次郎、田中新兵衛、有村次左衛門、奈良原喜左衛門、奈良原喜八郎、辺見十郎太、深見有安、隈元実道、篠原国幹、中倉清 天正18年(1590年)、西日本を完全に制圧し、名実ともに天下人となりつつあった豊臣秀吉の小田原征伐の際、資正は小田原に参陣して秀吉に謁見した。しかし、故地である岩付に戻ることは叶わず、翌年病死した。 >>563
平柳蔵人って太田資正家臣で国府台で討死にした人か!
どうでもいいとか言わないで。なんか感慨深い
それに難波田氏か
難波田憲重の直系じゃないにしてもなんか胸熱だ
>>529
北条氏の総合スレ見てたとき
川越で北条視点やっても何の問題ない。綱繁を郷土の英雄に加えるだけだからって
言ってる人がいて、なんかなんとも言えなかったよ
道灌以外旧勢力を忘れてるからって鉢形は北条方だからって。忍城も北条方じゃんって
ちょっと言い過ぎだ >>18
資正の父の太田資頼(道可)か
だとしたら>>19が言うように氏綱が朝定のいる河越を落とした時の河越合戦の話みたいだね
資正の子孫辺りの「資武状」てのにも河越の戦も記述があったが
それでもたしか昼の戦だったとか日付がずれてるとか
川越市にある行伝寺過去帳には、上杉朝定(佛身院正栄)と難波田が死んだことが書いてあったはず
いつだったかは忘れた
出先でなので調べられん
目新しい内容でもないと思うが、規制が時限解除らしいんでとりあえず張っておく。
伝説に包まれる岩槻城(前篇) 築城から落城まで
ttp://www.bugin-eri.co.jp/doc/saisai172.pdf
伝説に包まれる岩槻城(後篇) 江戸から明治の廃城まで
ttp://www.bugin-eri.co.jp/doc/saisai173.pdf 岩築ってのは初めて聞いたわ
そういう表記もあったんだね ★2ch勢いランキングサイトリスト★
☆ +ニュース
・ 2NN
・ 2chTimes
☆ +ニュース板新着
・ 2NN新着
・ Headline BBY
・ Unker
☆ +ニュース板他
・ Desktop2ch
・ 記者別一覧
☆ 全板
・ 全板縦断勢いランキング
・ スレッドランキング総合ランキング
☆ 実況込み
・ 2勢
・ READ2CH
・ i-ikioi
※ 要サイト名検索 >>574
それと岩槻には復帰できないのが確定して生きる気力を失ってしまったんだろうね >>583
そう考えるとドラマの主人公にぴったりかも
人生最大唯一の宿敵がついに倒れる+しかし人生最大の念願はとうとう叶わなかった…
最終回が切なくてよい 後北条の江戸衆か岩槻で小曽川小五郎という武将をご存知の方はいらっしゃいますか? 笛吹きサンケイバイトラーメン
笛吹きサンケイバイトラーメン 義仲・巴出世街道マップ
ttp://www.pref.toyama.jp/cms_pfile/00011919/00650438.pdf
時代が違うし、単なる観光ガイドでしかないがすげー力作 今の春日部あたりは戦国時代誰が支配していたのですか? 屋敷跡から26万枚の古銭発見、1つのカメから「国内最大級」 TBS NEWS
news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3312549.html?from_newsr
1000文(枚)で1貫文ってことはこれだけあって260貫文? >>597
入っていた木簡に二百六十貫とあったので
26万枚だろうという推測 カメ割って銅銭出したら他にも木簡か文書入ってないのかな 氏長は長親を疑ったようだが成田近江守と2人くらいしか同名が当時いなかったのかな >>591
春日部あたりは荘園だったんじゃない。
幸松って地名の由来は幸手領と松伏領だったからだからね。幸手は古河公方や関宿城簗田氏の家臣の一色氏がいたけどね。 来週月曜のBS-TBSにっぽん!歴史鑑定は太田道灌 北条からの偏諱(康資)は受けてたから拒むことはないと思うけど
上杉からの偏諱は貰ってないよね >>584
時に子供は父を裏切ってるしドラマ向きか微妙な気も >>610
まぁ戦国武将中ではわりと数少ない人身売買に手を出さなかった武将なんだけどな
あと人身売買に手を出してないのは、織田信長ぐらい 中山道沿いってなんか影薄いんだけど
当時の荒川の流れと関係してんのかね?
蕨と忍はそれなりだけど、その中間エリア ファミリーヒストリーで水戸藩士の代田家が
太田家18代目当主のお墨付きで太田道灌の末裔ってことになってた
初代は英勝院に仕えた広間坊主の代田久也某 >>613
延々と雑木林だったんじゃないかね、大宮台地の上は
台地は水が得にくいので中世以前は利用しにくいから
いまの八高線沿線あたりの山麓地帯が先に発展してるのよね 同時代史料と江戸時代に作られた史料で
その地域にいる人物・家・城がまったく違ったりする
一般に広まって通説になってるのが後者だったり