竹中半兵衛
2get
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(´・ω・) キキーッ!
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(・ω・`) スルーッ
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◎┴し'-◎ ≡ 半兵衛の活躍なんてほとんど創作
絵本太閤記は信憑性皆無の講談小説 本朝の戦国期における軍師とは、人脈を用いて多数派工作する営業マンであった。
2ちゃんねるで、良く出てくる説。
検証をしてもらおうか。 昨日はばあちゃんの命日だった。
明日は嫁のお父さんの命日だ。
まあ自分語りだが、どちらも岐阜県人ゆえに許してくれ。 >>8-12
おまえら、ダイナミックに現実逃避したな。 息子は徳川の家来だよな?どんな奴だったんだろ?教えて歴史学者さん! >>14
歴史学者じゃないけど、関ヶ原の時最初西軍についてて、関ヶ原の決戦の時
合戦中東軍に寝返った。
父である半兵衛の伝記を書いて、今も名前が残っているのもこの功績が大きい。
その代わり、まだ幼年時代に半兵衛たち将校が軍議の話しをしているのを聞かされてて
途中でオシッコしたくなって便所に立とうとすると半兵衛が「てめえこのクソガキ大事な話を聞かせてもらってるのに
小便に行こうとは何様のつもりだ!そこで漏らしながら話しきいてろ!!」などとやっていた
DQN父ぶりも後世に伝えた。 >>15
貴重なお話thx!
情報源教えて下さい。 てか半兵衛調べたらフツーに出てくるよな。その逸話。 信長の命令に背いて(よく考えるととてつもなく危険な行為)
黒田長政をかくまったのは史実なので
心優しい人間だったのは間違いないだろう。 軍師的な男って古今東西、マゾ、ホモ気質なんだよな
己の才能で天下を統一しようとするんじゃなく
誰か魅力ある能無しを担ごうとする
で、自身は地位や権力に固執しない
孔明然り、半兵衛然り、張良然り、周恩来然り、
そして如水のように我が天下を狙うと、絶対に成功しない
結局はbQの存在だな 兵庫・三木市に墓所がある。ひっそりと花が手向けてあった。 >>22
己の利害損得が頭にあるとどうしても目が曇っちまうんだろうな。 普通は反目しそうだよね、この二人。互いの器量を知ってるから仲良かったのかな 官兵衛は本能寺のこと知った時、秀吉に天下取りを勧めてたけど、
実は後で豊臣家を乗っ取るつもりだったのか? 太閤秀吉の名の元で天下に号令したかったが九州にとばされた・・バテレンだからしょうがない まぁ、官兵衛はしょせん自分の息子すら思い通りに動かせなかった
わけだからな。天下はとてもとれんわな。 牛だった。
爆笑信長の野望っていう結構昔に肥から出てる本に、
【秀吉の軍師として勤めるが、
後世の伝記には「竹中半兵衛は牛に騎乗して戦った」など誇張が多く、
信憑性にかけるようだ。】
って書いてあるだけw
どの書物とかはわからない、スマソ 竹中半兵衛の事跡で史実である可能性が高いのは
・義父である安藤守就と共謀して稲葉山城を占拠(ただし十数人ではない)
・美濃の有力者堀秀村を調略
・黒田官兵衛の息子を信長の追及から匿う
秀吉の軍法の師であったとか三顧の礼とかは全部創作の可能性が高い かなり有能な部類でしょう。
親父のせいで目立たないけど。 >>41
まぁ、親父とは才能の方向が違うかな。
親父は、参謀長とか謀略担当にはうってつけの人材だが、
息子はむしろ政治家の側面が強い。
人気は親父の方が高いが、息子の方が成功したといえる。 父親とは別の道を選びたがるのは普通なことだと思う。
正純だって、反発はあったみたいだし。 サンクス
他にも本多忠勝が日本の張飛と呼ばれていたようだね
三国志の武将に例えられた人物は他にもいそうだ >>45
テキトーなこと言うなw
そういうクセはつけんほうがおまえさんの身のためだぞ。
鑑真が来日する前の世代の人、大伴旅人が
酒の名を聖(ひじり)とおほせし
古の大き聖の言のよろしき
という歌を残してるが、こりゃ徐邈と曹操の故事をもとにしとるぞ。
もっとも『三国志』本体じゃなくて『芸文類聚』を種本にしてる可能性
も指摘されてるが。 >>44
『続日本書紀』
天平宝子四年十一月十日の条 三国無双2か3の頃のインタビューで、
軍師系はあまり無双のイメージではないから、あんまりださないとか言ってたから、
半兵衛もでる可能性は低そうだ。
ゲームの話は板違いか、スマソ 信長の野望では日本一の名軍師なんだが
史実とのギャップがすごい >>63
や、やめろ! 荀ケを女にした実績のある肥なら本当にやりかねん。 やはり張良、孔明ら古代支那の軍師達になぞらえて
講談の竹中半兵衛像が出来上がっていったのだろうね
太閤記の講談で秀吉人気が高まったのは事実だろうが
軍師・半兵衛の過剰な脚色で秀吉自身の軍才を過少評価されてしまうのは皮肉な事だ むしろ被害を受けたのは秀長のようなきがする、
秀長のほうが諸葛亮像に近い働きしてると思うし。 秀吉は功績を手下に分散させないとスーパーマン過ぎておもしろくないんじゃない?
庶民にとっては。
不敗の名将で最晩年以外は政治外交も完璧でしたじゃ感情移入しようもねえ。 司馬の『太閤記』では秀吉に焦点が当てられてて半兵衛や官兵衛があまり目立たなかった覚えがあるが。
吉川や山岡の『太閤記』ではどんな感じ? 竹中半兵衛の427回忌法要に参列した人たち=平井
安土桃山時代に羽柴(のち豊臣)秀吉の軍師として活躍し、三木城攻めの最中に病死した竹中半兵衛(一五四四-七九年)の四百二十七回忌法要が十三日、平井の墓前で営まれた。
薮本吉秀市長をはじめ関係者ら三十人が参加し、功績をたたえる詩を披露し遺徳をしのんだ。(佐伯竜一)
竹中半兵衛は、穏やかな人柄と大胆な軍略で秀吉を支え、三木合戦では「干殺し」(兵糧攻め)の策を練ったといわれる武将。
戦った地元三木にとっては敵方だが、秀吉方から供養を頼まれたという。これを受け、地元では毎年月遅れの命日に法要を続けているという。
http://www.kobe-np.co.jp/chiiki/mi/index.shtml 如水との関係
如水と半兵衛が初めて顔を合わせたのは、秀吉の中国征伐軍が播州に差し掛かった頃だから、だいたい一五七五年頃だと思われる。
よく、如水と半兵衛を秀吉の二大軍師などと呼ぶが、半兵衛の生没年を見ればわかるように、如水との出会いからわずか四年でこの世を去ってしまっているため、実際に二人同時に秀吉に仕えていたのは本当にわずかな時間であった。
しかしこのわずかな時間の中で、如水は半兵衛から多くの事を学び取ったと考えられる。 しかし秀吉は運がいいな。
尾張の頃から中国攻めまでは半兵衛が、
三木城攻めで半兵衛がぽっくり逝くけど幽閉されてた官兵衛が軍師に。 76 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:04/04/05(月) 19:42
堺屋太一さんが言っていたと思うけれども、
半兵衛と官兵衛をそれぞれ現代人に喩えて…、
半兵衛…エリート銀行員から新興商社にトラバーユした人
官兵衛…立案能力が命、の辣腕官僚
らしいです。
何となく、納得できそうで納得できないのは、やはり、どこと無くしっく
りこない喩えだからでしょう…。
皆はどんな風に喩えますか? >>71
あんま変わらんな。
その代わり司馬には「播磨灘物語」があるけど。 当時の女っぽい顔はしていたのかもね。
それが現代では美形と捉えられてるのかも。 半兵衛の墓のある三木城跡の説明の絵では、微妙なひげのオッサンだった
別所や秀吉はハンサムに描かれてるんだが
コーエーのゲームで美形補正を受ける前に描かれたんだろうな
まあ、息子は歴史に残る面白フェイスだったけどな。遺伝を信じれば美形ってほどでもなかっただろ>半兵衛 女みたい、軍師、肺結核、夭折…
これらの要素から美形だと思いたくなるのが浪漫 まあ逆説的に言えば、天下人となった秀吉があんだけ重宝してたんだから、
別に記録に残らなくとも色んな所で役に立ってたんじゃないだろうか、と思うよ。 まあ出世欲が無かったってのは当時としては変人扱いだろうね
現代の基準で見れば清廉な人物になるんだろうが
出世欲が無かったという話も根拠が無いからなあ。
実際に大した禄をもらっていないけど、その程度の人物だった可能性もあるし。 自分より才能がある半兵衛のコトがジャマでしょうがなかった官兵衛は、半兵衛に毒を盛って殺してしまいました!コトの真相を知った秀吉ですが、とりあえず官兵衛を許しましたが晩年政権を追い中津に左遷しましたとさ(o^ー’)b てのはどうよ? あの段階で官兵衛殺したら秀吉の天下はおろか対毛利戦さえも危ういと思うがいかが? >>93
今でも子孫いるんかな?
重門系は旗本になったらしいが。 >>87
まだ秀吉がぺーぺーだったから
大した禄じゃなかったがかなり優遇されてるはず
それと稲葉山城は16人で穫ったのも史実だろ
その後処理に二千人の安藤軍が協力したのでは? >>94
幕末の時の重固ていう陸軍奉行が子孫じゃなかったっけ?
戊辰戦争後どうなったかしらないけど まぁ、この人についてのまともな史料ほとんどないし
講談ばかりだし
評価しようがない、でいいよ
天才軍師とか17人で稲葉山城攻略とか、もうね… >>98
だったら来んなや
ここは歴史を検証する場所なのか?
そんな下らねーこと言ってたら何も語れねぇぞ
全て創作かもしれないが真実じゃないとも言えない
半兵衛は秀吉の礼状を処分してたり
自分の事を語りたがらない男らしかったから
わずかな伝聞を頼りにしか語りようがねぇじゃねぇか
卑弥呼や山本勘助だって謎だらけで語れねぇぞ